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武者小路:ゲマインシャフトについて追加してくださったのは非常に大事だと思うのですが、わたくしの理解しているところでは、今のグローバル経済で一番面白いし、危険なところは、一面では官僚制とかテクノクラシーとかが、コンピュータをつかって非常に合理的に計画をたて、製作設計をしている。けれども、人間というのはそれだけじゃ生きられないので、結局そうじゃないかなり間違ったところに癒しを求めている。

例えばそれを国家とか宗教がやってくれる代わりに、今は非常に非合理的なものの中心にあるサービス産業がでてきたのです。卑しい癒しのもとは、セックスであり、金であり、暴力であるのです。観光でもセックス観光が流行る。映画も暴力的な方へいく。賭博は、金融市場といったまともなところで横行している。要するに、金がだぶついていて、博打のように株式市場でやっている。その結果、金融危機が起こる。殺人も起こるし、人身売買も横行する。そういう意味で、近代化の最初の資本主義はちゃんと生産をするために金融があったのに、今の金融資本主義は賭博のためにあり、生産は二の次になっている。

生産と関係ないところに金が動いて、市場が大きく揺れて、アジア金融危機などがおこる。ゲゼルシャフトで癒されない気持ちを癒すためにサービス産業で、なんでも商品化をする。そしてお金も商品化されちゃって、賭博をして儲ける。ネオリベラル・グローバル化の修羅場のなかで、自分のアイデンティティを保つことができるか、という問題が深刻化して、ゲマインシャフト的な共に生きる関係が大事になってくる、ということにつながってくる。

グローバル化やゲゼルシャフト的な関係と、それとバランスをとるようなサービス産業の非合理的なものの両方が乖離してしまっているといえ、今日のグローバル経済の問題をなんとか乗り越えなくてはならない。その点みなさんはどうお考えでしょうか。

太田:今、癒しの話と、新しいゲマインシャフトの二つのお話をされているのだと思います。まず癒しについてですが、個のアイデンティティとは異なり、単に商業主義がのっかっていって、お手軽なアイデンティティが切り売りされているだけであると捉えています。なので、森さんが言っておられる宗教での癒しとはちょっと異なる。それから新しいタイプのゲマインシャフトという点は、私は、一番初めに品川さんがおっしゃったような、具体的スペースから離れたゲマインシャフトがあるのではないか、その芽はあると思います。ということは逆にいうと、非常に具体的なランドスケープでしかできないようなゲマインシャフト、例えば島添さんがおっしゃるようなウタというのは、具体的場でないとできない。

ではスペースから離れたゲマインシャフトってあるの、というと、例えば中国人コミュニティというものがあるんじゃないか。あれは中国とか広東省とか、具体的な場で繋がっているのではなくて、血で繋がっています。血のネットワークでつながっているので、タイでの日本人コミュニティと日本人は関係ないかもしれないけれども、おそらく華人コミュニティはある。それは彼らのゲマインシャフトが血でできているからです。そうすると、アメリカと日本とシンガポールと、あと北京でもいいけど、ネットワークで繋がっている。だからミーティングがあると華人ミーティングで、皆で集まっているかと思う。ハワイで集まっているかもしれない。それはゲマインシャフト的なんじゃないかな、と思います。

とてもポータルな、地理から離れたゲマインシャフトとローカルなヴァナキュラなゲマインシャフトと2つ考えなくてはならない。新しいゲマインシャフトというのも努力して形成しなきゃいけないんじゃないかな、と思います。

野口:そういう問題になると、「世代」が重要になってくると思います。例えばアメリカのコミュニティでは、二世、三世になってくると、特に3世くらいになってくると、日本人同士で結婚している例は、ほとんどないんですね。そこで世代の差がすごく大きくなっちゃって、ポータブルなコミュニティ形成がすごく難しくなっちゃってるんですよね。カルフォル二アのUCLAにAsian American Centerという機関があるんですが、そこでアジア系でまとまろうとしているんです。アジア系といっても、特に中国人と日本人と韓国人でまとまろうと。ブラックの人たちに対して、Asian Americanでまとまろうとしてるんですね。そこでどうコミュニティをつくっていくかという事なのです。

ただ、少なくともいえることは、アメリカ人はコミュニティをつくるのがうまいと思うんです。なんとなくぱっと集まったら話せるような、コミュニティをポータブルにつくっていくスキルはアメリカから学ぶ必要があると思います。

武者小路:そうだと思います。ひとつ問題提起なのですが、世界ウチナーンチュ大会という形で、沖縄人・ウチナーンチュのネットワークはちゃんとあるのに、国際関西人協会というようなものはないのはどうしてでしょうか。

森:今、このビルの一階で同姓会というのが行われているそうなのですが。今、おっしゃったのは、中国の「血」のつながりということだったのですが、氏名のつながりでもいいわけですね。いろんなネットワークのあり方が考えられるわけですよね。

邑中:武者小路先生がいわれた、何故沖縄には県人会があって、関西人協会はないのか、ということなのですが、やはり再帰性に関係してくると思います。沖縄は、沖縄のアイデンティティを確立するのに恵まれているんですね。恵まれている、という言い方は適切ではないかもしれませんが、価値とは離れた意味で「恵まれている」と思います。コミュニティを作る上では、物語が重要です。力のある物語を作れたところは、再帰化に成功する。逆に再帰化とは、力のある物語なんだと思います。

例えば、関西人というのは、阪神タイガースが頑張ってくると、大阪の人も兵庫の人も人によっては岐阜の人も黄色いのを持って高揚するわけです。必ずしも伝統的な区分とは言えない行政区分として関西だといわれたものが、タイガースというものを媒介として、物語として強いものになっている。弱い物語の例としては、僕が宮古島に行ったときのことですが、宮古島の人というと、僕らたいていの人は、彼らも沖縄の人だと思っているわけです。しかし、現地である有名なおじいさんがいて、そのおじいさんの家を訪ねたのですが、沖縄憎しでかたまっているわけです。

琉球というのは、宮古王朝を滅ぼした敵国である、と。そして宮古は沖縄から独立しなきゃいかん、と言うわけです。世界の中心は実は宮古なんだ、と言ってたりするんですね。その宮古の物語というのは、そのおじいさんの中では強いんですが、やまとんちゅうへの社会的影響力はありません。ところが、そういうおじいさんが非常に人間として魅力的だったり、経済力があったり、政治力があったりすると宮古を救え、という運動がグローバルになり、それを支援する人が増えていく可能性があるわけです。

そこで一つの物語ができて、沖縄と切り離された形で、宮古ができる可能性はある。そんな形で、結局、何を再帰するかというのは、非常に文化的であると同時に、政治的・経済的なものでもある。そうなると、そこから漏れた、弱い物語しか持たない者達をどうするか、彼らはどう生きればいいのか、アナーキズムになるのか、どこかの物語に同化していくのか、そういうことを考えなきゃいけない。

僕の個人的な解としては、アイデンティティは別に一つに求める必要はなくて、宮古であり沖縄であり、岐阜であり関西である、でいいんじゃないか。地理的なものにもとらわれず常に移動できるものでいいんじゃないか、と思います。ただ、その時に、アイデンティティは横断可能なものであるという事を示していく努力は絶対に必要です。その時、構造において理解し合えるインターフェイスができるんじゃないか、と思います。

武者小路:いまご指摘のことを、今日のディスカッションのひとつの結論として確認できればと思います。幾つかのアイデンティティを選択する事もできるのですが、それではいけないというのが、宗教、民主主義、人権の場合には多いのです。奄美のコミュニティに無理に他の人をいれる必要はないけれども、自分の宗教の同信の人たちを沢山作りたいわけだから、自分の宗教は正しいというミッション精神がでてくる。あるいは民主主義は正しい、人権は正しい、全世界を民主化しないといけない、ということになる。つまりは、自分の方に全部来い、という原理主義が横行する。

全ての人をゲゼルシャフトにいれようということになると、多元的な共存ができなくなる。だからといって、民主主義はなくてもいいか、ゲゼルシャフトは否定するかというと、それも困る。この両者の力関係のバランスが非常に難しい。難しいが、やらねばならぬことでもある。そこに矛盾的自己同一ということで、対立する二つの要請を同時に実現していけるといい、ということにならないでしょうか。

森:いま、宗教、といったときには、「教団」という形で宗教をイメージしていらっしゃると思います。例えば、うちの教団には人がいっぱい来て欲しい、という事ばかりを考えている「宗教」ならば、それはゲゼルシャフトとしてしか機能しなくなっていくでしょう。雑な言い方ですが、本来の宗教、信仰というのは、例えば私の事例の金光大神だったらどう考えるだろうと推測しますと、彼は全人類を救う事が目的だといっていますから、必ずしも「自分のやり方が絶対正しい」という言い方はしないと思います。

いくつものストーリーを行き来することも認めるし、私のやり方も、こういういいものもあるよ、というサジェスチョンもすると思います。これが、金光大神が到達した、普遍的で合理的な信仰です。この信仰が、彼なりの主体を形成することを可能にしたと思います。そうした形での宗教あるいは信仰であれば、逆にゲマインシャフトを作っていく可能性を持っていると思うのです。

武者小路:おっしゃる通りで、私の発言を訂正いたします。ただ、宗教のなかでも寛大な宗教、寛容な宗教、不寛容な宗教があります。不寛容な宗教としては、一般的にはいわゆるアブラハム系の諸宗教、なかでも西方キリスト教があります。東方のキリスト教はわりに寛容ですが、西方のキリスト教は残念ながら寛容ではない。キリスト教はパウロ以来、普遍的にユダヤのメッセージを全ての人を改宗して教えようということになったので、それを押し付けることにもなったという話があります。

ディアスポラを経験したユダヤ教では、異教徒を改宗させることはもともと考えていない。だから、キリスト教の方が普遍的です。それが権力と一緒になると、ローマ=カトリック教会のように真理についての判断を独占しようとすることになるわけです。私は、その信者です。ローマ=カトリック教会の問題は、権力と普遍主義、「みんなカトリックにしろ」というところにあります。権力と不寛容が結びつくととんでもないことになります。問題はキリスト教だけではなくて、その世俗化ヴァージョンにもあります。

ブッシュ大統領も非常にキリスト教的に、民主主義や自由貿易主義を世界中に広げようと、おそらく善意、自分に都合のいい善意で、やっていると思います。自分もそれで儲かるわけですから。そういうところを再帰的に批判して、多元的にする必要があります。ただ、多元的ということは、何でもいい、無限に全てがいい、ということになるとそこにまた問題がおこる。何でもいいということになると、清濁併せ呑む、いまの日本の政治が正統化されて、再帰的に反省して、例えばゲマインシャフトを創ろうということになりません。だから、そこのバランスが大事だと思います。

何がいいのかということの批判的な議論や対話が必要です。中国人のコミュニティは、日本人を中国人にしようということはありませんが、八紘一宇となると、他の人たちを日本人、あるいはすくなくとも天皇のもとに治めることにしてしまうという発想になります。

三入:先ほど、グローバル化が近代の究極の姿なのではないかと言いました。そのもとになっているのは、理を中心にすえるゲゼルシャフトという近代の考え方です。一元論でいくのか、多元論でいくのかということだと思います。西洋近代がつくりあげてきたカルチャー、シビライゼーションは、非常に一元論的だったのではないか。そして、一元論の究極の姿がグローバル化であり、そこでいろいろな大きな問題が起こってきた。近代が明白に破綻しているという状況が、いくつもある。グローバル化を乗り越えるためには、一元論ではなく二元論あるいは多元論的に考えていく必要があるのではないか。

森さんが先ほど言われた「相補性」というのは、非常に重要な概念だと思います。社会をゲゼルシャフトとゲマインシャフトに分けると、このふたつは違う形態に思えるのですが、これらは相補的な関係なんですね。両者は電気のプラスとマイナス、古代中国思想で言えば陰と陽という関係になっている。プラスだけで、電気は成り立たないし、陽あるいは陰だけで世界は存在しないということです。近代は、相補性という考えを理解しなかった。これからはそこに相補性という考えを注入すれば、世界はよりハッピーになるのではないかと思います。

武者小路:時間には、あまり寛容でないほうがいいと思いますので、時間がきたところで分科会を終わります。(笑)。どうもありがとうございました。

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