1771年4月18日(明和8年3月4日)杉田玄白・前野良沢らが、処刑された死刑囚の解剖を見学。翌日から医学書『ターヘル・アナトミア』の翻訳にとりかかる。
彼らの翻訳の苦労は、1815(文化12)年に83歳の杉田玄白が当時の事を回想して書いた『蘭東事始』に記されている。
この本は、その後散逸したとされていたが、偶然湯島の露店で発見され、1869(明治2)年、福沢諭吉をはじめとする有志一同によって『蘭学事始』の題名で刊行した。福沢は安政4年(1857年)には最年少22歳で適塾の塾頭となった人物であり、自分が学んできた蘭学の基礎を築いた先人の苦労に涙したという。
何しろ、オランダ語の知識が若干あるのが前野良沢のみであり、他の面々は情熱だけは人一倍あるもののオランダ語の知識は皆無に等しいといった状態である。
わずかなオランダ語の知識をもとにして推察を重ねるしかない。
「フルヘッヘンド」という語を「堆し(うずたかし)」と訳する箇所は有名である。鼻は顔の真ん中にあって「フルヘッヘンドしている」とある。他の用例を調べると、落ち葉を拾い集めると「フルヘッヘンド」する、とある。「これは、『盛り上がっている』という意味ではないか」「それならば『堆し(うずたかし)』と訳せばいいではないか」「そうか、鼻は顔の真ん中にあって堆くなっている、ということか」。(※この部分は玄白の記憶違いらしく、実話ではないというが・・・)
しかしいつもこんな風にうまくいくとは限らない。それどころか、一行も訳せない日も出てくる。「分からないところには轡十文字の印をつけよう」と提案するものが出てくるが、「ここも轡十文字」「ここもまた轡十文字」という有様。まことに、「櫓や舵もなしに大海に漕ぎ出しているような気持であった」と玄白が回想しているのも当然といえる。
しかし彼らは努力を続けた。解剖を通じて確かめることができた人体の内部構造、内臓の位置、形状、機能、そして挿絵を頼りとし、徐々にオランダ語の知識も増え、ついに翻訳は完成を見る。
しかし問題が生じた。
『解體新書』は、著者杉田玄白として安永3年(1774年)、須原屋市兵衛によって刊行される。実は玄白には当初オランダ語の知識はほとんどなく、翻訳の中心となったのは前野良沢である。完全主義者であった良沢は訳本の出来には不満で刊行に反対している。玄白が「私は病弱であるしいつ死ぬかわからない」と、たとえ不完全なものであっても刊行する価値はあるとして刊行を主張、良沢は結局、自分の名前を出さないという条件で刊行に同意したという。
『蘭学事始』によって脚光を浴びた杉田玄白ではなく、実質的な翻訳者前野良沢を主人公に据えたのが吉村昭の『冬の鷹』である。
いつもながら、氏の本には蒙を啓かれることが多い。いくつか紹介したい。
鎖国以来、長崎の出島ではオランダとの交流が行われていたわけであるから、なぜ翻訳に難渋したのかという点であるが、それは、通詞(通訳)という職務が、書物を読むという行為とは一線を画するものがあったという点、そして通詞は世襲制であり、自分が獲得した知識を他人に伝えることに消極的であったという点に求められる。通詞の間で日蘭辞書を作ろうという動きはあったようであるが、挫折を繰り返している。
良沢は、オランダ語を習得したいと思い、通詞にその旨を伝えるが、「そんなことは無理だ」と一蹴される。それは、通詞としての体験から出て来たものでもあり、オランダ語そのものを体系的に学んだ者が誰もいないという事実がもとになっていた。
しかし良沢はあきらめなかった。彼に幸いしたのは中津藩主・奥平昌鹿が、藩医としての彼に、オランダ語の修行のために長崎へ行きたいという彼の願いを許可したばかりではなく、多額の金子を下賜してくれたことであった。短い期間ではあったが、彼は長崎で学ぶ機会を得た。通詞からも学ぶ機会はあったものの彼らのオランダ語の読解力は予想以上に低く、彼の絶望感は深まるばかりであった。加えて彼の年齢である。彼は享保8年(1723年)に生まれているから、長崎へ行くことがかなった時期にはもう50歳に手が届こうという年齢であった。こんな時期から新しいことに取り組んでものになるのかという焦慮が彼を襲った。
その焦りから彼を救い出してくれたのが、通詞・吉雄幸左衛門が紹介してくれた一冊の本であった。それが「オランダの腑分け書」『ターヘル・アナトミア』であった。読むことはできない。しかし、彼はその本の詳細な絵に引き付けられた。大枚をはたいて彼はその本を購入し、江戸に帰る。その彼のもとに、以前語り合ったことのある杉田玄白から書簡が届く。そこには、明日、千住骨ケ原にて刑死した者の解剖があるので、もしお望みならおいでになりませんか、と記してあった。
良沢は玄白に手紙の礼を述べ、長崎で購入した『ターヘル・アナトミア』を示した。ところが良沢にとって驚くべきことが起きる。なんと、玄白も別のルートから『ターヘルアナトミア』を入手していたのである。
死体の解剖が始まった。「玄白も良沢も、競い合うようにターヘル・アナトミアのページを繰って解剖図をさぐった。『ござりました。たしかにこれでござる。位置も形も全く同一でござります』」p113。
彼ら以前に、内臓を窮めようとした先人に、山脇東洋がいる。彼は初めて解剖を実見し、『蔵志』を著している。東洋は、中国の医学書に載っている内臓図とは違う臓器があることを示しているが、玄白と良沢の手元にある『ターヘル・アナトミア』は、それよりもさらに実態に近い。
この本の翻訳を提案したのは玄白であった。良沢も賛成し、同席していた中川淳庵も感動に震えながら賛意を示した。そこに、医家の名門・桂川家の甫周が加わり、都合四人での翻訳作業が開始された。
しかし、予想されていたこととはいえ、オランダ語について基礎的な知識を持っていたのは良沢ただ一人であり、あとの三人はやっとのことでABCが書けるという程度であった。
ここからあとの吉村氏の記述は、玄白と良沢の二人の関係に絞り込まれる。この二人は対極的と言っていい性格であった。人当たりもよく気配りも十分な玄白、学究肌でむしろ人間嫌いと言っていい良沢。細かいところにこだわる完全主義者の良沢、語学の習得よりも、とにかくこの本の翻訳を完成させて世に出したい玄白。
描かれるのは、プロデューサーとしての玄白である。彼はまず、人体図の説明と本文との比較対照を図ることによって翻訳が進みはすまいかとの提案を行う。これが見事に図に当たった。
良沢は、20ページ目の冒頭を指さした。そこには、TWEEDEという大きな横文字の下に、A・・・,het Hoofd...という文字が印刷されていた。
「たしかにAという記号は書かれてありますが、それがいかがなされたのですか」
玄白が咳き込むようにたずねた。
良沢は、かたわらにおかれている紙を綴じた書物に似たものをひらいた。それは、青木昆陽の著した「和蘭文字略考」を筆写したものであった。急いで紙をひるがえしていったかれは、或る部分を指さし、玄白たちに示した。そこには、
頭 hoofd
と、記されていた。
「貴殿たちにもお教えしたとおり、ハ(h)の大文字はHでござる。つまり、Hoofdは、頭でござる」
良沢はもどかしそうに言った。
玄白たちは、文字を見つめ、たがいに顔を見合わせた。
「頭でござる。Aは頭でござる、頭髪ではない」
玄白が狂ったように叫んだ。
「さらに、男の鼻の部分に6という記号がついておりましょう。これは六という数を示すもので、さらにそれを本文中にさぐると、ほれここに6の後にNeusとある。この語は、私も、熟知しております」
と言って、良沢は、単語を書きとめた帳面を繰った。そこには、鼻neusという文字が見られた。
彼らの顔には、歓喜の色があふれた。
「やりましたぞ」
「やりました。頭はホフト、鼻はネウスでござる」
かれらは、口々に叫んだ。その眼には、一様に光るものが湧き出ていた。P131~2
ここから彼らは出発したのである。
そしていよいよ出版にこぎつける。
玄白はまず図のみの刊行を主張する。全体をいきなり刊行することに対する反発を予想し、反応を伺おうというわけである。
ここで著者は、玄白の「医家たちの関心をひくために、まず解体図を報帖(ひきふだ)のように世に示すのでござる」という言葉を紹介し、この「報帖(ひきふだ)」という言葉(いまでいえば、「開店のお報せ」のようなもの)に対する良沢の違和感を、不快感を語る。しかし同時に、玄白が自分の名前を公にし、どのような咎めがあっても自分が責任を負うという言葉に敬意を抱く。そしてその用意の周到さと決断力にも。
解体図の刊行は特に大きな問題も引き起こすことなく、いよいよ『解体新書』の発刊となる。ここで、良沢は自分の名を出すことを固辞する。ここから先は、良沢と玄白の個性の違いが拡がって行くこととなる。
良沢は藩主から「蘭化(オランダ語の化け物)」と呼ばれるほどのオランダ語への打ち込み方を続け、来客を謝絶する。
玄白は名声を得、家庭的な不幸(長男が虚弱体質で生まれ、早世)などもありながら順調な人生を送る。
良沢は栄達と富とは一生縁のない生活を送る。
しかし、『解体新書』の翻訳という大事業は彼の存在なしにはあり得なかった。
著者は、玄白と良沢二人の後半生を丁寧に描いて筆をおく。
吉村昭という人を知るのにも好適な本かもしれないと読み終えて思った。
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