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こんなスーパー、いりません。 0
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「むかしは、ぼくも、きみたちのように、おかあさんがぼくのために、いつも窓を開いて待っていてくれると思っていた。だから、ぼくは何ヶ月も何ヶ月も、家をはなれて、くらしていたんだ。でも、とんで帰ってみると、なんと、窓は閉まっている。そして、ぼくのベッドには、べつの小さい男の子が眠っているじゃないか。」 ―『ピーター・パン』岩波少年文庫から弟妹(ていまい)が生まれて、親から拒絶されてしまうこともありますね。
2008年12月31日
『二つの道』自由の道は、初めは、ごつごつとして抜け出るのもむずかしく、切り立って危険がいっぱいだが、最後には、うち開け、散歩道や森の木の実や湧き水にあふれ、辛酸の後の憩いにいたるようになっている。一方の奴隷の道は、初めは広く平坦で、花咲き乱れ、目や口を楽しませるものにあふれているが、最後には抜け出すのも難しい、険しい崖道になっている。 ―イソップ寓話から―人間に用意された、二つの道のどれを選ぶかは、人それぞれ。「男の世話になればいいものを。」と批判を受けることが、多かったですが、人それぞれです。
2008年07月21日
自分のことを故意により悪いほうへと偽って言う人が、卑下する人であり、よりよいほうへと偽って言う人が、自慢する人であるのに対して、事実をあるがままに語る人が、正直な(真実な)人であり、ホメロスにならっていえば、「思慮分別に富む人」である。そして一般に、後者は真実を愛する者であるが、前二者は虚偽を愛する人である。 ― エウデモス倫理学 アリストテレス 中央公論社より ― あるがままに、生きることは、できない自分を認めることができないと、なかなかできません。簡単なようで、結構、難しいことですね。
2008年07月06日
ゼウスの指示で、プロメテウスは人間と獣をこしらえた。動物が多すぎるのを見て、獣を潰して人間に作り直すように、ゼウスから命じられたとおりに行なった。その結果、最初から人間に作られなかった連中は、姿は人間だが心は獣さながら、になった。 ―『プロメテウスと人間』 イソップ寓話集からもともと、獣だったから、人でなし、だったのね、と思えば、少々のいじわるに、惑わされることなく、生きていけるよね。
2008年05月23日
ゼウスは人間を作ると、それに分別を注ぎ込むように命じた。ヘルメスが分別を等分して、一人一人に注ぎ込んでいったところ、小柄な人は割り当てが満ちわたって賢くなったのに、大きな人は薬が総身にまわりかねて、愚か者になってしまった。 ― 岩波文庫 イソップ寓話集から なるほどねぇ~。 小柄で、よかった。
2008年05月19日
童話『青い鳥』は、青い鳥を捕まえれば幸せになれると信じて、幸せの青い鳥をこどもたちが探して旅をするお話ですが、もう少しという所で逃げられたり、捕まえるときは、確かに青かったのに、黒く変わってしまったりと、なかなか見つけられずに苦労し、家に帰ると、家には幸せの青い鳥がいたというストーリーです。 幸せは、他にあると思い込んで、家庭を顧みずに、女を追い回しても、それは本物ではなく、まぼろし。俺のものにできたら、幸せになれると考えることの愚かしさ。手に入れることがもしできたとしても、幸せになるのではないし、手に入れることのできないものもあることを知るべきでしょう。それぞれに見合った幸せは、それぞれの家庭の中にあるのです。 目覚めると、青い鳥は、家にいました。 まだ、目覚めていませんか? 油断していると…。 青い鳥は、逃げていきますよ。
2008年04月29日
『ピーターパン』「体にぴったりした木でなければ、上がったり下がったりするのはむずかしいのです。しかも、おなじ寸法の子は、ふたりといないのです。木がぴったりとからだにあってしまえば、あとはただ、木のてっぺんで、息を吸いさえすれば、ちょうどいい早さで、下へ落ちてゆきます。上がる時は、息を吸ったり、はいたりして、もぞもぞと上がってゆくのです。もちろん、一度この動作を覚えてしまえば、べつに一々考えながらしなくても、すらすらとできますし、こんな美しい動作は、ほかにないくらいです。」(岩波少年文庫から抜粋) これは、おとぎの国にある、地下の家に出入りするときの説明です。 社会への適応の仕方は、人それぞれにある。他の人にとって、良い方法であったからといって、すべてに良いというものではないのです。それぞれに合う、ぴったりとした道であれば、スムーズにできるものだ、ということが表現されている。
2008年04月27日
おとぎの国にいる子どもたちは、乳母車から落ちた子どもたち。そして、乳母車から落ちるのは、男の子だけだった。 家の人が一週間以内に、迎えに来なかったために、おとぎの国へ送られるのだ、とピーターパンは言った。 今は、女の子も、男の子と同様に、乳母車から落ちてしまう子も、いるよね。親や教師が用意した乳母車から落ちてしまったから、おとぎの国へ来ることができたんだ。冒険や、ごっこ遊びを十分にすればいい。 そして、春の大掃除のときに、ピーターパンに連れられて帰ってくるといいよ。
2008年04月27日
継母は、一番が好きだった。一番でなければ気がすまなかった。継母より美しい、白雪姫を、虐待や殺すことまでしても、一番になりたかった。 勝ち目がないとわかる相手に対し、いじめによる、叩き潰しをしてまでも、勝ちたいと考える人が多くなった。 人間は、色々な面を持っている。 ある一面で自分よりすぐれている人間に出会っても、何か他の部分で、他の人間に負けない部分を持っている自信がありさえすれば、ねたみや嫉みがなくなってくるはずだ。 他の人間の優れていることを、優れていると、相手を認められる人間になれるように、他の人間に負けない、何かを持つことが大事かもね。自分の家族を大事にすることでは、誰にも負けないとかね。
2008年04月25日
葡萄を食べようとした狐が、取ることができなかった。そして、「まだ、熟していない。」と、独り言を言って立ち去るという、お話。 手に入れられないのは、本人自身に不足があるにもかかわらず、手に入れようとするものが悪いとケチをつける、最低な行動。日頃、ずるく立ち回る、獣の狐だからこそ、このようなことをしたものであり、人間であれば、このようには、行動しないよね。
2008年04月20日
『修証義』より抜粋 今の世に因果を知らず業報(ごっぽう;人がなす行為の報い。)を明らめず、三世(さんぜ;過去、現在、未来)を知らず、善悪を弁(わき)まえざる邪険(じゃけん;意地の悪いこと。)の党侶(ともがら;なかま)には群すべからず、大凡(おおよそ)因果の道理暦然(明白なさま。)として私なし(自分一身だけに関する事柄ではない。)、造悪(あくじをすること。)の者は堕ち、修善(善を行なうこと。)の者は陞(のぼ)る、毫釐(ごうり;きわめて少ない)もたがわざるなり、
2008年03月26日
〔雨ニモマケズ〕 (青空文庫から一部抜粋しました。)宮澤賢治雨ニモマケズ風ニモマケズ雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ丈夫ナカラダヲモチ慾ハナク決シテ瞋ラズ (いからず)イツモシヅカニワラッテヰル一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベアラユルコトヲジブンヲカンジョウニ入レズニヨクミキキシワカリソシテワスレズ野原ノ松ノ林ノ蔭 ノ小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ東ニ病気ノコドモアレバ行ッテ看病シテヤリ西ニツカレタ母アレバ行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ南ニ死ニサウナ人アレバ行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ北ニケンクヮヤソショウガアレバツマラナイカラヤメロトイヒヒドリノトキハナミダヲナガシサムサノナツハオロオロアルキミンナニデクノボートヨバレホメラレモセズクニモサレズサウイフモノニワタシハナリタイ*******************宮澤 賢治は、岩手大学農学部を卒業し、花巻農学校で、教鞭をとる。生徒に作った童話を聞かせたようである。リヤカーに西洋の新しい野菜、甘藍(かんらん…キャベツのこと)などをのせて、農家さんをまわり、作り方を教えて歩いたそうです。 このような生き方、なかなか、まねはできません。自分さえ良ければ、他は犠牲にしていいという風潮。少し、『ジブンヲカンジョウニ入レズニ』の、この考え方、自分のことは、まず置いておいて、他の人の心配をしようという生き方です。 そして、『デクノボートヨバレ』とあるのは、出来るアピールをしたいために、人をないがしろにする人がいますが、このようなことをするくらいならば、何も出来ない人と侮られるほうが、罪作りをしないという考え方です。 他者を、犠牲にする生き方を少しだけでも、反省してみませんか?
2007年09月22日
節操 【せっそう…誘惑や環境に負けないで、主義・主張をかたく守り通すこと。操(みさお)。】 いつから、節操のない世の中になったのでしょうか?
2007年09月20日
結婚してすぐ、私はまるでモグラの女房のようだと思った。暗い洞穴で暮らしているのと同じだと暗い気分になっていた。 離婚してから、気づいた。『親指姫』は、離婚した女性が幸せを掴んだ話なのではと。金持ちを気取っているだけのモグラとの不幸せな結婚生活で、暗い毎日を送っているところを、かわいそうに思ったツバメが助け出し、その後、親指姫と身の丈のあう相手と再婚する話だったのかと離婚したことから、話の意味がわかった次第です。
2007年09月19日
読んだのがだいぶ以前で、記憶違いがあるかもしれないが、この作品、第二次大戦中のアジアの地で、日本兵士が飢えで衰弱しながら戦っている時のはなしである。肉はおろか、日々の食事も満足に食べられない中、肉を食べたいと思う一部の兵士が、最初は、死体から肉を取って食べ、「さるを食べてきた。」ことにしていた。そのうち、ころがっている死体も食べつくしてしまう。肉食の習慣をつけてしまった一部の兵士たちは、人肉を食べたさに、地元の村民がひとりで森に来たのを集団でおそって食べることまでした。そのうちに、村民の間で、ひとりで歩いていると襲われると噂になり、村民は、ひとりでは行動しないように注意したため、肉食の補給ができにくくなった。それでも、人肉を食べる習慣がついてしまった一部の兵士たちは、食べたい欲求のままに、ついに、仲間である、日本兵士のなかで弱っている人間に襲いかかって食べてしまう。 これは、あくまでも小説であり、事実は定かではないが、食糧事情はひどかったであろう。人肉を食べる悦楽を一度、味わってしまったことで、悦楽を得たいがために手段を選ばなくなるという人間のおろかさについて考えさせられる。
2007年08月04日
大学の図書館で借りて呼んだ本に、魔女裁判についての本があった。題名は覚えていないが、魔女の疑いをかけられた女性は、魔女であるかどうかを確かめられるために、手足を縛られた上で、大河の底に投げ落とされたらしい。川の上に浮かび上がってきた場合は、魔女であるので、たくさんの人間が浮かび上がるのを待ち構えて、突き刺してその場で殺したそうである。魔女でない女性は、浮かび上がることができないので、川底に沈んで死んでしまう。 現実には、魔女などいないのにもかかわらず、魔女の疑いをかけられたというだけで、魔女と判断されようが、魔女でないと判断されようとも、殺されてしまうのである。なんてことか。ブス女がきれいな女性に、やきもちを焼いて、密告しては、殺されていくのを面白がって見ている、そんな画面を想像してしまうのは、私だけであろうか。
2007年07月31日
私は子供の頃、昔話の桃太郎に違和感があった。なぜ、桃太郎は、何もしていない鬼たちを成敗(せいばい)するのだろう、桃太郎はひどい人だと思っていた。 22歳ごろに、芥川 龍之介の作品の『桃太郎』に出会い、同じ事を考えている人がいたのだと共感したものだった。 鬼と呼ばれている人たちが、あるところで、平和に暮らしているところへ、桃太郎が突然現れ、「鬼退治だ。」と、傍若無人(ぼうじゃくぶじん)暴れ回った挙句(あげく)に、鬼と呼ばれている人たちが日々蓄えていた財産を、正義を笠にした、桃太郎が略奪したという、おはなし。 鬼という名前だったというだけで、あるいは、人から勝手に鬼と決め付けられただけで、悪いこともせずに暮らしている所へ、鬼だから、悪い。鬼だから最低と、《成敗》の名の下に、いじめや虐待、そして、略奪をする。このようなことは結構、世の中に多いものである。
2007年07月19日
『竹取物語』のかぐや姫が、傲慢で強欲な女だと思っている人がいて驚いたことがある。申し分のないと思われる身分の高い方々からの求婚の申し出に対し、かぐや姫は帰らなければならない所があることから、それに応(こた)えることができない。直接的にお断りすることは、相手の自尊心を傷つけることとなるために、手に入れることのできないものが手に入るのであるならば、と遠まわしにお断り申し上げたまでのことである。何も、手に入りにくい財宝が欲しくて言ったことではない。そのような手に入らないものが欲しいと言うのであればと、それぞれの求婚者が、あきらめると考えてのことである。どんなに、すばらしいと思われる方であっても、それぞれの進む先や、価値観が違えば、努力だけではどうにもできないものである。 自分自身の生き方、進む道に合わなければ、どんなにすばらしい相手であっても、共に生きていくということはできないのである。しかし今の世の中は、相手の男性の意に沿わない女の人を生意気な女だといって、事実無根の噂を流す最低な輩(やから)がいる。世も末である。 女を執念深く追い回す暇があるならば、仕事に精を出し、家族を大事にするのが本当だろう。
2007年07月09日
樋口一葉の作品に、『たけくらべ』がある。両親の借金を肩代わりしてくれたお金持ちに、お嫁入りした娘が、夫の浮気に悩み、実家に相談にいくというお話である。両親は、娘がふびんではあっても、借金を返すあてがないので、夫のもとに戻るようにさとす。娘も夫の元に戻るほかないと理解し、人力車を呼んでもらう。 呼ばれた人力車の車夫は、この家の娘の幼馴染であった。この家の娘が、お金持ちと結婚したものの不幸だという噂は耳にしていた。しかし、この車夫には借金を肩代わりするだけの財力がない。車夫は黙って、客と車夫として、家まで送り届けた。 車夫は、不幸な結婚をした幼馴染を、助けてやりたい気持ちはあっても、力不足であることを、理解していた。助ける力が足りないのにもかかわらず、無理に関わろうとするよりも、黙って関わらないのが、本当のやさしさであり、思いやりである。物事は、なるようになっていくものである。そのことがわからずに、自分が関わればと、いらぬ、おせっかいをすることにより、事を荒立てることにしかならない。迷惑極まりないことに、気づくことも大事である。
2007年07月07日
石川啄木の小説に、『雲は天才である』がある。夏目漱石の『吾輩は猫である』の作品を読んで、これなら書けると書いたものらしい。題名を似せているだけのもので、読み続けることは大変苦痛で、途中棄権した。 短歌の才能がある人でも、他の人のできることを、安直(安直)に捉えるほどには、自分自身が思うほどにできないものである。一般人は尚のことであることを、理解するべきである。
2007年07月04日
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