小さな喜びを大きく感じ大きな憂いを小さく感じる

父と私、私と息子


前にも書いたが、私は父によく叱られた。叱られるといっても半端では無かった。家には木刀がいつでも使うことが出来るように天井の梁に用意されていた。私が悪いことをするとそれで尻やら、太ももを殴られた。(天井が低くかったからかも知れない)上半身は急所なので殴られたことは無いが、よく殴られた。相撲取りも親方に殴られると聞いたことはあるが、相撲取りは竹刀だ。私は木刀だから相撲取り以上に痛い。また、友達が遊びに来たとき、友達は、私の勉強机で野球の入門書を読んでいた。私は別の部屋で漫画を読んでいた。父がそれを見て「よその子供が勉強しよるのに、お前は漫画を読んどるのか」と言って雨の中を追いかけられた。父は友達が何を読んでいるのか確認はしなかった。私は裸足で逃げ回った。友達は二度と遊びに来ることはなかった。(当然でしょ)
また、書棚のガラスを間違って割ってしまった時、逃げる私を後ろから突き飛ばした。実家の玄関の戸は横にあけるガラガラの戸、私はその戸に突っ込んだ。戸は倒れ、ガラスがこなごなになった。幸い怪我はなかった。


●父と息子(2)今日は私の誕生日 1月21日 
小学生の頃、他の子供と同じように草野球をやっていた。その頃は野球のスポーツ少年団というものが無かったので子供たちだけの野球チームだった。決められたユニホームというのもなく、ほとんどが私服でやっていたが、段々本格的になって一人、二人とユニホームを着るようになった。私もユニホームが欲しくて欲しくて母親にねだった。何かの交換条件でやっと買ってくれることになったが、そのことは父の耳には入っていなかった。買ってきたばかりのユニホームに着替えて、誘いにきた友達と広場に行こうとした時、父に見つかった。「なんで、お前はそんな格好をしとるんだ、そんな格好はチンドン屋がするもんや。」父になじられた。友達が待っていたので、すべて無視して広場に行った。
広場に着くと、私は補欠に回された。他のチームとの対抗試合だった。いつまで待っても出番が来ない。私は父とキャッチボールをしたことが無い。古い人だったから野球なんてしたことがなかったからだ。私はそのためか野球はへたくそだった。
出番を待っているうちに、父になじられてまでして来て補欠にしかなれない自分が情けなくたってきた。私は誰にも言わず、というより言えず黙って家に帰り、ユニホームをスポーツ用品店に返したいと母に言った。スポーツ用品店に行くと、返品はきかない、交換ならできると言われ、剣道の道衣と代えた。父は剣道もやったことがなかったが、剣道は父が始めさせたものだった。その時の野球チームでは二度と野球は出来なくなった。黙って帰ったことが原因だった。

●父と息子(3)1月22日
親戚からもらったレコードプレーヤーが珍しく音を最大にしてレコードを聴いていたら、父が入ってきてレコードを粉々に砕いてしまったことがある。相変わらずそんなことが続いて、私も高校生になった。反抗期になりそれまで以上に父には叱られていた。父とは口をきかなくなった。そんな私に父はふてくされてしまい、毎晩、やけ酒を飲みだした。受験勉強の中、深夜、トイレに行こうとした時に父と目が合った。赤い顔をして目じりがたるんでいる。アホに見えた。思わず「変な顔」と言ってしまった。顔をぶん殴られた。それまで顔は殴られたことは一度も無かった。父は本当に頭に来ていたのだと思う。
その頃になると、私のほうが背が高かったし、剣道で鍛えていたから、父を殴り返し、組み伏せることも出来たかもしれないが、小さいときからのトラウマからか、父には勝てないものだと思い込んでいた。この時のやけ酒と煙草が2年後の脳梗塞で倒れる事につながろうとは、その時はまだ気づかなかった。

●父と息子(4)1月23日 特別老人ホーム
大学2年の時、父が倒れた。半身不随となり寝たきりになった。お陰で2年生から授業料免除になった。就職もうまくいった。大きな企業に入ることができた。大きな会社だから夏休みや正月休みも長期間とれた。私は実家に帰り、母の看病の苦労を無くそうと父を特別老人ホームに入れようと試みた。母も看病のストレスからくる帯状疱疹(たいじょうほうしん)や、胆嚢結石(たんのうけっせき)の手術などで、限界が来ていた。父より先に母が逝ってしまったら最悪な状態に陥ってしまう。特別老人ホームに入るには、ボケの状態を調べる必要があるということで、アンケート用紙みたいなのをもらってきて父に10問の質問をすることになった。「今の総理大臣の名前は?」・・・「海部首相」父ははっきり答えていく。結局10問中9問正解の結果となってしまった。口も満足にきけないのに解答率は90%だった。

●父と息子(5)1月24日 最後の意思の疎通
ある年の年末年始休暇で里帰りしていたときのこと、夜中の1時ごろ、母親が部屋に入ってきて父が苦しそうだから病院に連れていってくれないかと言った。私は父をおぶって車に乗せ病院に連れて行った。
翌日、病院に行くと、父は集中治療室のベッドの上に手足を縛られて寝ていた。暴れたらしい。眠っていると思って治療室から出ようとした時、父の右手の人差し指がコツコツとベットを叩いた。意識がある。「大丈夫?」と聞くと、3分の1開いた目から黒目が光っていた。何も言えずじっとこちらを見ている。「幸雄がもうすぐ来るから。」弟のことを言った。もっと、他に言うことがあると思った。なんでそんなことを言ったか分からなかったが、言葉が浮かんでこなかった。治療室を出て窓の外を見ていたら涙が流れてきた。それが父との最後の意思の疎通であることが何となく分かった。

●父と息子(6)1月25日 父逝く
正月休みも過ぎて2月の終わり、会社に電話がかかってきた。医師からだ。「心臓マッサージをすれば心臓は鼓動するのですが、やめると止まってしまいます。意識は無い状態ですが、どうしますか?」
岡山から実家の大分までは北四国を通って急いでも最低5時間はかかる。その間、医師に心臓マッサージを続けてもらうのは不可能だ。「もういいですよ。」私は言い放った。会社を早退して、妻と子供たち、義父母を連れて車に乗り、瀬戸大橋、北四国の高速道路を通り、八幡浜から臼杵のフェリーを使って帰りついたとき、父はセレモニーホールの棺おけの中で大人しく眠っていた。私たちの顔を一目見たかったのか、瞼が5分の1ほど開いており、いくら閉じさせようとしても閉じなかった。

●父と息子(7)1月26日 父と私、私と息子
受験勉強がうまいように行かないのか息子が壁を殴ったり、物を投げたりしていた。あちらこちら壁が窪んだりしている。暫く様子をみていたが、あまりにもそういうことが続くので、さすがの私も堪忍袋の緒が切れて、息子と取っ組み合いの喧嘩になった。世の中に出れば、うまくいかないことが多い。その度に物にあたりちらしていたら、周りの者がたまった物じゃない。息子は高校3年生だが、まだまだ私には敵わない。組み伏せて殴ろうとしたが、殴らせない。防御している。そうこうしているうちに、妻と義母が入ってきた。「あんた、子供に何しよるん。」結局、私が悪者になってしまった。昔、私が父に木刀で殴られている時、母は父の事を責めたりしなかった。7歳という二人の歳の差がそうさせていたのかも知れないが、逆に「叱られないように、考えなさい。」と母に叱られた。今考えてみても、私が悪くない時も父に殴られていたような気がする。まるで独裁者だったが、両親の喧嘩まで発展しなかったから、私の家はいつも安泰だった。父が怒り狂っても、家族の大きな波風には繋がらなかった。もし、母が父に意見でもして、「もうあんたには付いて行けない。」てなことに発展したら、家庭が大変なことになって、私たち子供達のそれからも、今とは違ったものになっていたかもしれない。一番、辛抱強くて利口だったのは、母ではないかと思う。母はいつもでしゃばらず、目立たず、けれど、とても芯の強い生き方を私たちに見せてくれたような気がする。(そんな母も、時々、父の悪口を漏らしていたが・・・)
さて、息子との取っ組み合いのことだが、私が妻と義母に責められてふてくされていたら、べそをかきながら「父さん、俺が悪かった。それと、もっと大目に見てほしいんだ。」と謝りにきた。とりあえず、めでたし、めでたし。ただ、あと数年して直面するだろう社会という大きな魔物が彼を大目に見てくれるかどうかは疑問だが・・・。

●父と息子(エピローグ) 1月27日
父とキャッチボールをしたことがなかったから男の子ができたら必ずキャッチボールをすると心に決めていた。たぶん、男の子を持つお父さんは誰も、そう思っているだろう。1度だけ彼が小さいとき夢が、かなったが、まだへたくそで力のないボールだった。近頃になって息子の背も私と変わらなくなったので、力のあるボールを受けたくてキャッチボールしようと言うと「一人でやったら。」と返ってくる。「キャッチボール一人でできたら苦労せんが。(ボソッ)」
私が酒が飲めるようになった時、父はすでに半身不随で、酒を飲めない状態だった。息子が酒を飲める年頃になったら、一緒に酒を飲んでくれるだろうか?父が脳梗塞で倒れた歳に、私が追いつくには、まだ10年以上あるのだが・・・(完)

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