7000才の 縄文杉の警鐘


7000才の 縄文杉の警鐘

大自然(神)の掟 



縄文杉の本縄文杉の警鐘


私は去年、屋久島へ行ったが、縄文杉までは行かなかった。

あまりにも痛々しいものを強く感じて、とても近づく気になれなかったのだ

根元が、人間たちの土足によって踏み荒らされ、倒壊枯死の恐れがある というのである。

年間5000人から7000人が「縄文杉」の参観に登っており、踏みしだかれた根の回りには、木片が敷かれて、応急処置がしてある。

手で触れられる部分は、樹皮がはがされており、赤くただれている。

7000年の生命力にあやかりたいという、個人のエゴの目的のために、皮を持ち帰る人がいる のだそうだ。


屋久島へ行って、7000年杉の心を感じるのに、そばまで行く必要はないのだ。

島に行っただけでも、十分に感じられるものなのに。。

なぜに 人は、自然を壊してまで、自分の目的を果たそうとするのだろう

何らかの物的証拠がないと気がすまないのだろうか。

少なくとも周囲50mくらいは立ち入り禁止にするべきだ。根がやられてしまう。



著者は、縄文杉を見るためではなく、メッセージを聴くために行ったという。




人間たちは、わしがいま何歳になるかで、樹齢論争をしているそうじゃが、太古の森に生きてきたわしにとって、今さら樹齢など問題ではない。

この森にも、生きるための闘いはあったが、だれ一人として全体の調和を破るものはいなかった。

自然の一員でありながら、自然の摂理に従わぬ異分子は、人間だけなのだ。

何千年も生きつづけた杉の仲間たちが、ひとつ所に集まって、こうして太古の森を繁らせているのは、地球上でこの島を措いて他にはない。

みんなで力を合わせてこの森を支え、調和を保っているのだ。

だから、わしだけを特別扱いにしないで、屋久杉の仲間たちすべてを大事にしてやってくれ。

人間の目には見えぬところで、みんなつながっているのだ。

わし一本だけが残ったとしても、なんの意味もないのだ。

伐採の犠牲になっていった仲間のことを思うと、今でも胸が痛む。

昔は、樵(きこり)たちが千年を生きた屋久杉を伐るときは、幹に注連縄を張り、御神酒を供え、拍手を打って樹霊に祈りを捧げ、しかるのち許しを乞うて、斧や鋸を入れたものだ。

そして樵は木挽き唄をうたいながら、人と樹とが何日もかけてゆっくりとやりとりをしたものだ。

そんな樹と人との対話で、伐られていく樹の霊もいくらか慰められた。

ところが、自動鋸の機械をこの屋久杉の森にも持ち込み、手当たり次第に伐りまくり、無残にも山は裸にされてしまった。それが小杉谷の悲劇だった。

樹霊に対する畏れも、樹と人との対話も、うなりをあげる自動鋸の音にかき消され、神木とあがめられた屋久杉たちは、ただの大木として伐り倒され、あえない最後をとげていった。

何千年という命の重さは一顧だにされず にな。

だからわしのもとには、無数の浮かばれぬ樹霊が相寄り、供養を求めているのだ。


あまたの樹霊を慰めるためにも、わしはまだ死ぬわけにはいかぬ。

しかし、これまでの数千年にわたる生命に比べれば、わしの余命はあといくばくもあるまい。

足元を包んでいた表土を剥がされ、踏みつけられて傷んだ老骨は、なかなか治らない。

わしを客寄せの見世物にして、今またロープウェイなど計画し、さらに踏みしだこうとは。

どうして今の人間はこうも尊大で、楽ばかりしたがるようになったのか。

神のみぞ知る精緻な自然の営みを破壊する権利を、人間はいつ、だれから与えられたのか。



完全無欠な自然の摂理に対し、


今までの科学文明がこれまでなし得たこと は、人間を利便安逸の虜にして、

神の領域までも破壊汚染し、生態系の崩壊を早めるのに役立ったにすぎない



千年を生きた樹は、神である

人間が作った神殿の神とは違い、 「大自然の神」 そのものなのだ。




“緑のペン”を朝日新聞に捧げた著者が、いま「七千年の縄文杉」を通して、日本と地球の危機に、渾身の警鐘を打ち鳴らす。地球家族の幸せを問う「警世の書」。

【目次】
序章 縄文杉の「啓示」を聴く/第1章 傷だらけ緑の地球/第2章 母なる森を滅ぼすな/第3章 守ろう「縄文杉の世界」/終章 地球再生へ自然賛歌を/縄文杉の涙





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