Alice Boy's Pictures

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友よー可愛くないオバハン


友よー可愛くないオバハン

長年の友が家を訪ねてくれました。
彼女のお家の菩提寺が私の家の近くにあるのです。

彼女の愛娘はボーダーラインにあります。
その能力の高さゆえに、公的な援助策、支援策はひとつも使えませんでした。
全て引き受けて、泣き言を言わず、育て上げた愛娘は、普通高校、短大、専門学校を経てもうすぐ社会人になります。
同学年の中で、一番先に就職が決まりました。
職業人として生きることが始まります。
容易ではないでしょうが、今までどおりの彼女らしさで道を拓いて行くのだと思います。


今でも、「LD児ってなに?」「自閉症ってなに?」という教員はいるでしょうが、私達の子どもが小学生であった時代は、今から思えば、 夜明け前 のような時代でした。
光がどこからも射さないのかと思われました。

教員の目には”親が教員にものを教えるのか”という反発がありました。
当時、養護学級の担任は、定年退職前の1年間にやる仕事でした。
あるいは、普通学級の担任が出来なくなった教員の逃げ場でした。
私は、”職場を提供するために私の子を登校させるつもりはない”と発言した母でした。
次男が小学校に入学した翌年から、養護学級の様子は一変しました。
少なくとも、1年で養護担任が他の先生に替わる事はなくなりました。


そんな時代に自分とほぼ同じ感性を持つ友達と出会えたことは、私の救いでした。
私達は、学校や誰かに”この子をどうにかしてほしい”と言うタイプではありませんでした。
母親が誰よりも勉強し、汗を流そうと決めていました。
責任者は母親ですから、自らプログラムを考え、それにふさわしいボランティア、専門家を捕まえに行きました。

私達の目は肥えていきました。
”専門家”という肩書きだけでは相手を信用しない可愛くないオバハンになりました。
「私はいいの。だけどこの子がかわいそうで」と よよ と泣くか弱き(ずるい)母親に”本当は、子どもよりも自分のことをかわいそうと思ってんでしょう。”と内心で毒づく意地悪いオバハンになりました。


それぞれの住む場所で大いに目立つ存在にならざるを得なかった私達でした。
我が子を不憫に思わないわけではなかったけれど、それ以上に親亡き後を考えれば、我が子に課題を課した私達でした。
それぞれの住む地域でそれまで当然とされていたことに、異論を唱えた私達でした。

人の評価など気にしない。
気にするのは親亡き後の我が子の生活の様子だけ。
そんな気持ちで接してきた我が子達が成人期を迎えます。

友よ、いよいよ気持ちが高ぶりますね。
あと一息頑張りましょう。
あと一踏ん張りする勢いを私に分けてください。

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