月の旅人

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サンチアゴ巡礼路と聖都

サンチアゴ巡礼路と聖都




7時半に朝食のため地下の食堂へ降りる。昨夜の夕食とは別の食堂だ。また大急ぎで食事を済ませ、「じゃあ先に行ってるわ」と言って表に出る。と言っても、パンと共に置かれていた林檎タルトはしっかり食べたけど。(笑)
この日は早くやってきたJさんと「オラ!」と挨拶し合ってすぐにバスのドアを開けてもらい、乗り込んで席を確保してから再び食堂に戻った。改めて何か食べようかとも思ったが、結局水をもらうだけにして食べなかった。ま、好きな林檎タルトは食べたしね♪

時間どおり8時には出発し、サンチアゴ・デ・コンポステーラの『大聖堂』へ向かう。
その昔巡礼者たちはかつてこの街を“キリスト教世界の光”と呼んだらしいが、サンチアゴ・デ・コンポステーラという街の名前の由来は聖母マリアの象徴である“星の野原”を意味するラテン語の“Campo de estrella カンポ・デ・エストレーラ”、あるいは“墓地(Compostum)”から来ている。そして聖ヤコブのスペイン語読みである“サンチアゴ”が冠された。
『サンチアゴ巡礼路(El Camino de Santiago エル・カミーノ・デ・サンチアゴ)』の起源は、9世紀初頭にガリシア地方の山林でキリスト12使徒の1人である聖ヤコブの墓が発見されて以来、多くの巡礼者が訪れるようになったことから始まる。
グリーンスペインと呼ばれる緑豊かな湿潤地帯である北部スペインの北西に広がるガリシア地方には、もともとエルサレムで殉教した聖ヤコブの亡骸が海路で運ばれ埋葬されたという伝説があった。そこに、813年のある夜、隠者(世俗との交わりを絶ち、修行または自適生活を送っている人)パイオが天使から「この地にヤコブの墓がある」とお告げを受け、それを知らされた司教テオドミーロがひと際明るい星に導かれて墓を発見したという。これとは別に羊飼いが夢に見た場所を掘って聖ヤコブの墓を発見したという説もある。もしかしたら前者は、キリスト教会が都合のいいように歪めた伝説だったりするとか?
サンチアゴ巡礼路図当時はその発見された墓の上に礼拝所を建てて人々の信仰を集めていたが、西ゴート王国の復興を目指していたアストゥリアス王アルフォンソ2世が教会の建設を命じたのが今にちの大聖堂の始まりであると言われている。
キリストと12使徒の1人でスペインの守護聖人でもある福音書記者聖ヤコブは、その激しい性格から弟のヨハネと共に“雷の申し子(ボアネルゲ)”という異名を持っていた。12使徒の中にもう1人ヤコブがいたため、区別するため聖大ヤコブ、年長のヤコブとも呼ばれている。伝説によれば、キリストの昇天後に海を渡ってスペインに福音の伝道に訪れたが、船がウヤ川で座礁したため7年間伝道して回ったあと、弟子になった9人のうち7人を連れて聖地エルサレムに戻り、ユダヤ王であったヘロデ・アグリッパ1世によるキリスト教徒迫害の中で使徒の最初の殉教者となった。西暦44年のことだ。その後舟に乗せられ海に流された遺体は風まかせの航海の末にガリシア地方の海岸に流れ着き弟子たちによって埋葬されたが、モーロ人が上陸してイスラム世界となったため墓の場所さえ忘れ去られてしまったのだ。
そして844年、イスラム支配のただ中にあったイベリア半島で、アストゥリアス王ラミーロ1世がイスラム王国と戦闘を続けていたその時、白馬に跨り白地に赤十字の軍旗を掲げた騎士が現れて敵陣に飛び込んだという。キリスト教国軍はその騎士に聖ヤコブ(サンチアゴ・マタモロス=モーロ人殺しの聖ヤコブ)の姿を見、こうして聖ヤコブはレコンキスタの守護聖人となり、スペインの守護聖人となった。これによって巡礼がレコンキスタの原動力となり、道沿いに多くの教会や修道院が建設されて都市文化が根付いてロマネスク文化の花を咲かせた。

サンチアゴ巡礼路は“人生を変える道”または“スペインの歴史を辿る道”といわれている。その道は1本ではなく、その総称がサンチアゴ巡礼路と呼ばれているのだ。『フランス街道』と呼ばれている巡礼路だけでも4本あり、1つはヨーロッパ各国の巡礼者も利用することの多い『トゥールーズの道』、2つ目はブルゴーニュを起点とする『リモージュの道』、3つ目はル・ピュイを起点としてピレネー山脈を越える『ル・ピュイの道』、そして4つ目はパリやモンサンミッシェルを起点とし『サンチアゴへの大道』とされて北ヨーロッパ諸国をはじめ最も多くの巡礼者たちが通ってきた『トゥールの道』である。このフランス街道と呼ばれる本ルートは『サンチアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路』として1993年に世界遺産に登録され、姉妹道提携が結ばれている紀伊山地の霊場と参詣道と共に世界でも珍しい道の世界遺産となっている。
他にもイギリスやアイルランドなどから船で北スペインの港に入りサンチアゴへ向かう『海の道』、ポルトガル国内を通る『ポルトガルの道』、スペインの南西部を通る『南の道』、イベリア半島南部からサンチアゴへ向かう『銀の道』などがある。
写真は、この日の宿泊地レオンのホテルにあった巡礼路図。パンプローナ、またはハカからプエンテ・デ・レナに抜けて内陸を通るメインルートが描かれている。


現在の聖都サンチアゴ・デ・コンポステーラはタンブレ川とウヤ川に挟まれたガリシア地方の首都で、聖ヤコブが埋葬されている大聖堂の他に36の修道院と46の教会がある。かつては城壁と7つの門によって守られていたが、現在はサンチアゴ大学地理歴史学部の傍にある『マサレロスの門』と、城壁の遺構が残るのみである。9世紀から13世紀の間に多くの巡礼者を相手に商業や銀細工などの手工業が発展し、その市域は6倍にまで広がった。その旧市街は貴重なロマネスク様式やバロック様式の建造物だけでなく、キリスト最後の地エルサレム、聖ペテロが眠るバチカンに並ぶキリスト教3大聖地の1つとして、1985年に世界遺産に登録されている。
その聖都に到着したのは8時半頃。
大聖堂に程近い駐車場でバスを降り、パラパラとわずかに糸雨の降る中を歩いて移動する。旅行中は雨に降られない、という人がみきちゃんや私以外にも何人かいて、傘も持たずに出た。いや、このときはすでに降っていたんだけど、傘はいらない程度だったし。(;^_^A
パラドールの玄関名も知らない教会の前を通ってすぐに『オブラドイロ広場(スペイン広場)』が眼前に広がり、左側に『サンチアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂』が、左側にパラドール『LOS REYES CATOLICOS(ロス・レイエス・カトリコス)』が現れた。
そしてまずはパラドールの説明となる。この地の現地ガイドさんはHさんという人だったが、どこで合流したのかどころか、どんな人だったのかさえまったく覚えていない。辛うじて名前だけは覚えていたが、写真も撮るのを忘れていた。ごめんよHさん。(;一一)ゞ
それはさておき(←置くのかいっ(笑))、その名も“カトリック両王のホテル”というこのパラドールは、元は1499年にアラゴンのフェルナンドとカスティーリャのイサベル両王によって建てられたルネッサンス様式の王立救護院兼巡礼者宿泊施設で、重要文化財にもなっている。そんな歴史的建造物をパラドールとして使いつつ保存されているのだ。なんと館内の家具や調度品は建造当時の物が使用されているという。Σ( ̄▽ ̄*)素晴らしいっ♪
スペインのパラドールの中でも数少ない5つ星を誇り、ローマ法王や各国大統領など世界のVIPが宿泊してきた荘厳華麗なパラドールなのだ。
市庁舎外観だけでなく中も拝見したかった。いや、どうせ贅沢を言うなら泊まりたかったっ。←素直な気持ち(笑)

大聖堂の真向かいには1777年に建設されたネオ・クラシック様式の『ラホイ(ラクソイ)宮殿』が建っていて、現在は『市庁舎』およびガリシア地方政府の建物として使用されている。オブラドイロ広場の残る一辺には、ロマネスク様式の代表的建築といわれている『サン・ヘロニモ大学』がある。広場に面するどの建物も様式が違うのだ。まさに長い歴史を誇る世界遺産の街といった感じだ。

サンチアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂次はいよいよ『サンチアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂(カテドラル)』の見学である。
アルフォンソ2世の命によって9世紀初頭に建てられた当時はアストゥリアス様式のものだったが破壊され、872年にアルフォンソ3世によってすぐに新たに聖堂が建造された。その後巡礼路ができるとフランス色が強くなり、1071~1152年にかけての改築でロマネスク様式となった。さらに増改築を経て外観は1750年にバロック様式(スペインバロックのチュリゲラ様式)へと変わったが、内部はロマネスク様式のままである。
70mの鐘塔を持つファサード(門、正面)は『オブラドイロのファサード(Fachada del Obradoiro)』と呼ばれ、威厳に満ちた姿で広場の東に座している。オブラドイロとは、“黄金に輝く傑作”という意味がある。西陽を浴びるとまさにその名のとおりになるらしい。
オブラドイロのファサードこのオブラドイロのファサードを入れば、そこにロマネスク様式の最高傑作と讃えられる『栄光の門(Portico de la Gloria)』が待っている。12世紀に名匠マテオが約20年の歳月をかけて1188年に完成させたものだ。元はこの門がファサードだったが、改築時にオブラドイロのファサードで保護するように包み込まれた。マテオは橋の建築家でもあり、この門の重みを支えている地下聖堂にも手を加えて補強した。
栄光の門はヨハネ黙示録を題材にして白大理石に200体もの像が彫られ、タンパン(門上部の半円部分)中央にひと際大きなキリスト像、それを囲むように聖マタイ、聖ヨハネ、聖マルコ、聖ルカの4人の福音書記者と使徒、その周辺に十字架や荊の冠、鞭やキリストが繋がれた柱、4本の鉄釘、槍などキリストの受難に関する物を持った天使、さらに黙示録の24人の長老が守っている。その他、預言者の選れミア、ダニエル、イザヤ、モーゼなども刻まれている。そして中央の柱に聖ヤコブの姿があり、長旅を終えた巡礼者たちをあたたかく迎えてくれるのだ。その柱の下部には、巡礼者たちが手をつき祈りを捧げてきた痕跡をくっきりと残す5本指の窪みができている。それを見たなら、大理石が磨り減るほどの歳月と祈りの数に圧倒されることだろう。
そんな栄光の門の中央柱の裏側には、中央祭壇に向かってひざまずく石像があり、これは作者のマテオ自身であるといわれている。巡礼者たちはこの石象に2、3度頭をぶつけるという習わしもあり、『ごっつんこ聖人』だとか『頭打ち聖人』と呼ばれるようになった。そうすることで、記憶力と知力を授かり頭が良くなるという言い伝えがあるらしい。
が、巡礼の終着地を訪れながら、私たちツアー一行はその栄光の門を目にすることなくただオブラドイロのファサードを眺めただけだった。(T_T)なんで…?
……でも、お手軽にバスでやってきた観光者にはご利益ないかなぁ?(;一一)ゞ
それからこの栄光の門は3つのアーチに分かれていて、前世、現世、来世を現していると言われ、中央がキリスト教徒、左がユダヤ教徒、右が異教徒のためのものともされているらしい。万人を受け入れてくれるはずの教会の入口なのに、なんでそこからして分かれているかなぁ……。┐( ̄- ̄;)┌


ひとまず大聖堂を離れ、大聖堂と旧市街の眺めが素晴らしいという『エラドゥーラ公園』へ向かう。
その途中、道の端寄りに不気味でカラフルな2人の老婆像があった。みんな気味悪そうに避けて通っていく。以前この付近に毎日やってきていた名物おばあさんらしいが、このときはそんなことなど知らず「何やあれ~(>_<)」「魔女みたいや」などと言って気味悪く思いながら通り、写真の1枚も撮らなかった。どういう名物おばあさんたちだったのか、なんだか悪意のある顔だったなぁ……。(^-^;)
エラドゥーラ公園からの眺め小高い丘になっているエラドゥーラ公園の眺望スポットに到着するとすぐ、そこにあったベンチに腰掛けて入れ替わり立ち代わりの記念撮影大会となる。
この公園には秘密のベンチというものがあり、弧を描く長さ10mのベンチの端と端で会話ができる、というもので現地人しか知らないらしい。その昔、男女が親たちに隠れて話す密会場として使われていたのだとか。残念ながら、それは見ていない。実際にどれほど声が聞こえるものか、試してみたかったなぁ。


ビラル通りのアーケード旧市街を抜け、大聖堂へ戻る。今度は正面ではなく時計塔のある裏側へ向かった。
“雨のサンチアゴ”とも言われるほど雨がよく降る地方であるため、大聖堂の南に伸び巡礼雑貨から貴金属製品まで各種のお店が並ぶビラル通りはアーケードになっている。相変わらず降っているか降っていないかわからないくらいの糸雨が落ちていたが、夜にでも本格的に降ったのか打ち水でもしたのか石畳には所々に水溜りができていた。
建物も石畳もしっとりと濡れそぼっているためか、とても静かで厳かな落ち着きのある街だという印象を受けた。“情熱の国スペイン”という言葉は、サンチアゴ・デ・コンポステーラには似合わない。
銀細工の門キンターナ広場時計塔を目指して進むとそこは大聖堂の南門である『銀細工(プラテリアス)の門』だ。
その門の手前に噴水のある『銀細工(プラテリアス)広場)』があり、ピラル通りの突き当たる場所に各地で巡礼手帳にスタンプを押してきた巡礼者が最後のスタンプをもらう『旧参事会の館』がある。私たちも中にお邪魔させてもらった。その時も、数人の巡礼者がちょうどカウンターでスタンプをもらっているところだった。きっと他のどのスタンプより感慨深いに違いない。( ̄- ̄*)
銀細工の門は2つのアーチから成り、キリストの受難やアダムとイヴの楽園追放など聖書の物語が彫られたロマネスク様式の作品である。ただ、改築のたびに西や北の扉口の彫刻がここへ移された集合体であるため、全体としてのまとまりに欠けている。第一それほど細やかな浮き彫りではないのに銀細工の門と呼ばれているのは、かつて南門辺りに銀細工師(プラテロ)が住み、一帯の製造・販売を支配していたからという。

銀細工の門の前を通り、その右側の17世紀に建造されたバロック様式の時計塔前を通過して『キンターナ広場』に入る。壁に、シンプルだが巨大な十字架があった。
そのキンターナ広場で歩みを止めることなく、広場に面している大聖堂の入口へと向かう。その入口は『聖なる門』と呼ばれ、1611年に完成した。旧内陣にあった名匠マテオの預言者像や長老像を使用したバロック様式の門で、ガリシア地方だけでなくスペインの守護神でもある聖ヤコブの日とされる7月25日が日曜日に当たる年『聖ヤコブの年』にだけ開かれる。これは聖ヤコブの墓が発見された7月25日の日曜日にちなんでのこと。この聖ヤコブの年に大聖堂を訪れ聖なる門をくぐった者は、すべての罪が許され天国へ行くことができるとされている。そのため、別名『免罪の門』ともいう。最初の聖ヤコブの年は1122年で、それ以後11年、6年、5年、6年の周期で訪れる。
聖なる門聖なる門聖なる門
そして私たちの訪れたこの年は1999年以来5年ぶりの、まさにその聖なる年に当たっていた。Σ( ̄▽ ̄*)なんて偶然♪
ちなみに、次の聖ヤコブ年は2010年だ。
聖ヤコブの年はその年の大晦日のミサ終了と共に終わりを告げ、次の聖なる年が訪れる日まで閉ざされてしまう。ただ扉と門を閉じるだけでなく、閉じた扉には同じ幅の大きな石を扉の高さ分詰め、さらに木の扉が打ちつけられるそうだ。かなり厳重な閉ざし様である。
だが聖ヤコブの年が始まって半年を迎えていない今は扉が閉まる心配をする必要もなく、まだ9時過ぎで巡礼者の姿もほとんどなかったため、並ぶこともなくさらりと門をくぐる。
こんなにあっさりと通ってしまっても、果たしてすべての罪が許されるんだろうか……?


地下墓地への入口聖櫃聖堂内に入り、左右に弧を描く通路を左に行く。十数mほど歩いてすぐ壁に赤十字が記された地下への入口を降り、狭い階段を降りると、螺旋を描く鉄格子の向こうにまばゆく照らし出された聖櫃が安置されていた。両隣に弟子のテオドロとアタナシウスの棺があり、その真ん中に守られるようにしてある聖櫃こそが聖ヤコブの遺骸を収めたもので、この大聖堂の所以そのものだ。聖櫃の上には墓の場所を教えたという星をかたどったものもある。まさにここが墓が発見された場所で、中央祭壇の真下に位置している。

パイプオルガン地下墓地から出て左に進路をとると、高さ22m、奥行き97mの身廊に出た。翼廊は65mあり、ラテン十字型になっている。その目にまず飛び込んできたのは、半円を描く天井から長いロープで吊るされロウソクを模した明かりの灯された黄金のシャンデリアと、たくさんの天使が舞う17世紀バロック時代の大きなパイプオルガンだった。パイプオルガンは向かいの壁にももう1つ対であり、これも祭壇の1つかと思うほどの豪華さである。
そんなパイプオルガンを含め後陣を写真に収めて振り返ると、そこにまばゆいばかりの黄金でできた中央祭壇があった。
「うわぁっ凄っΣ( ̄□ ̄*)」
驚嘆が口をついて出る。
中央祭壇は絢爛豪華なスペインバロックのチュリゲラ様式で、巡礼者、法王、騎馬のマタモロスという3つの姿の聖ヤコブ像があり、弟子のテオドロ、アナスタシオと共に祀られている。その祭壇の前には、『ボタフメイロ』と呼ばれる重さ約80kgの大きな香炉が天井から吊るされていた。ボタフメイロはその名のとおり香を炊くもので、大祭の日に翼廊の端から端へと8人がかりで天井にも届きそうな勢いで振り動かされ、響き渡るパイプオルガンと共に聖堂内が清められる。これはもちろん儀式の1つだが、かつて長旅を続けた巡礼者たちの体臭が堂内に充満したためにその空気を浄化する目的で12世紀頃に使用されたのが始まりだとか。
中央祭壇普段は大聖堂横の博物館に展示されているボタフメイロだが、今は聖ヤコブの年であるため毎日12時から行われるミサで使用されるようだ。
香煙が翼廊を行き来するボタフメイロから参列者の頭上に降り注ぎ、瞬く間に堂内は香煙でいっぱいになる。千年近くもの長い間、参列者たちはこうして清められてきたのだ。
堂内にいるだけで清浄な空気に包まれているような気持ちになる中、私たちはそれぞれに中央祭壇に向かってお祈りした。もっと他に祈ることもあるだろうに、私が聖ヤコブにお願いしたのは「この後どうか晴れますように」だった。( ̄▽ ̄;)はは…


銀細工の門から外に出て、再びキンターナ広場へ。そしてなんと、再び聖なる門をくぐった。Σ( ̄▽ ̄*)2回も♪
苦もなく聖なる門をくぐったとはいえ、2回も通れば天国行きは確実?
少しの間に巡礼者が増えていて、今度はちょっと並んだ。ほんの少しだけど。
巡礼手帳そのとき巡礼手帳を広げて見せてくれた人がいて、写真に撮らせてもらった。やはりホタテ貝を図柄にしたスタンプが多いようだ。
この巡礼手帳のスタンプの他に巡礼証明書が発行されているが、これを受け取ることができるのは徒歩で最低100km、自転車ならば最低200km踏破した巡礼者だけである。右の写真の巡礼者さんが巡礼手帳の下に一緒に持っているのが、その巡礼証明書だ。
巡礼は徒歩や自転車の他に、車で巡礼路を巡る人もいる。中にはなんと馬に乗って巡礼する人もいるらしい。( ̄- ̄*)へぇ~

先刻は聖なる門から入って左に進んだが、今度は右へと進む。
ロープの張られた左の壁に沿って並んだが、私たちはこの先に何が待っているのかを知らないままただ前の人に続いて並んでいた。が、黄金のホタテ貝の下にENTRADAと記されたプレートのある入口を覗いたとき、それを知った。中央祭壇の聖ヤコブ像の傍へと続く階段がそこにあったのだ。その階段を登ると聖ヤコブ像の背後に立つことができ、1人1人がその背中を抱擁しているのが見えた。
聖ヤコブ抱擁へ巡礼者はまず栄光の門の聖ヤコブに祈りを捧げ、続いてこの中央祭壇の聖ヤコブを抱擁し口づけをすることが習慣となっている。もはや一種の儀式とも言えるかもしれない。こうして、巡礼が終わったことを実感するのだ。数百kmの旅を、この瞬間を目標として成し遂げたのだから感慨もひとしおだろう。
私たちは巡礼もしていなければここに立つまでそれを知りもしなかったのに同じようにさせてもらってもいいものだろうかと少し後ろめたさを感じたが、聖ヤコブの背後の空間に椅子を置いて座りチップを集めている男性にコインを渡してからしっかりと聖ヤコブ像を抱擁させてもらった。ここでのチップは日本でいうお賽銭とでもいった感じだろうか。でも、何も手渡しじゃなくてもねぇ……?


その後すぐに大聖堂の北側へ出て、聖マルティン・ピナリオ修道院前の広場にて15分のフリータイムとなった。
15分……半端な時間である。旧市街を散策などとてもできない。どうしようかと思ったが、和歌山のIさん夫妻に手招きされ広場に面したカフェに入り、コーヒーをそれぞれごちそうになる。
コーヒーはあまり好きなほうではないが、ヨーロッパで飲むコーヒーはなぜかおいしく飲める。今回もそうだった。入れ方や豆が違うんだろうか。それとも単なる気持ちの問題?(^-^;)
楽しいおしゃべりもすぐに終わり、「ごちそうさまでした~」とカフェを出る。駐車場へと戻り到着したばかりの欧米人たちでごった返すトイレに並んで済ませ、最後まで晴れ間の覗くことがなかったサンチアゴ・デ・コンポステーラを後にした。



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