法喜が語る

法喜が語る

法喜の考え



  初めての説法
今日は6月15日である。私は30歳になりました。という事でたまには説法をします。なぜなら私は法喜という元仏教僧だからです。
人間というものは偉くなると、ついつい勘違いする人が多い。例えていえば会社などで新入社員や平の時は、警備の人や清掃夫などにも気持ちよく挨拶したり話し掛けたりする。しかし仕事に責任が出てきたり大きなプロジェクトをするようになったり、部下が出来て人を使うようになると自分より下の人は目に入らなくなる。忙しいからと片づけてしまっていいのでしょうか?(本当に人間的出来ている人は、どんな仕事をする人にでも感謝の念をあらわす事が出来ます。)上の仕事をする人は、自分より下の仕事をする人を道具のように扱い、自分のために働く者と考え、そして傲慢な態度を取る人がいます。上がいなければ下が動かないと考える。(上とか下は差別的に使われているのでなく、便宜的に高度な仕事かそうでないかを現しています)しかし仕事の人口ピラミッドは上の少数の人に支えられているのではありません。上の仕事がスムーズに出来るのは、細かな簡単の作業をする人がいるから、そうゆう物に振り回されず自分の仕事が出来るのであります。一つの会社の中だけでなく、社会全体は仕事の人口ピラミッドの底辺の人によって支えられています。あなたが高度の仕事がいくら出来ても、あなたが安心してその仕事が出来るように支える人が多く居るのです。人間的に偉いから、人を使って仕事をしているのでなく、人を効率よく使えるからその職に就いているだけであって、人間の魂の重さは一緒であります。現代社会はすべての人を同じように大切に扱う事は困難です。日々の煩雑な生活や仕事をこなすには自分にとって重要度の低いものは切り捨ててしまいます。人間関係も同じで、無関心であったり無視してしまう。この日々の煩雑な人生の中、心をより凍らせてしまうのでなく、身近に居る人だけでもいいから、思いやってみたらどうでありましょうか。自分の心を開く事は、より心の豊かな人生を歩む第一歩であります。周りが心を凍らせているから、あなたの心も冷たいのではありません。あなたの心が冷たいから、周りの人も心を閉じて居るのではないでしょうか。愛とは決して人に与えてもらう物ではありません。愛を欲してはいけないのです。愛とは与えるものだからです。人の上に立つとつい尽くされるのが当たり前だと考えているあなた、今一度どれだけあなたの為に多くの人が努力しているか考えてみてください。
   好奇心
人間生きていく上で一番必要なのは、好奇心ではないだろうか?
パスカルが人間は考える葦であると言ったんは大昔。人間は学習する生き物なのである。動物のように経験から学習していく他に、人間は自主的に学習する事が出来る。より良い生活の為に向上心を持つことは大切。何かをはじめるのにも、自分を成長させるのにもまずは好奇心が無ければ始まらない。年をとると好奇心は減るというけれども、現代の若者の好奇心が減退しているというのも社会問題だと思う。日本の未来は、無気力の人間ばかりになってしまうのだろか。
   捨てる判断
私が出家していた時、持ち物などほとんど無かった。色々なものに囲まれていると、自分の精神自体がそれらのものに惑わされ、心が静かな状態ではなくなる。しかし生活には必要なものもある。何が必要か不必要か判断出来れば、無駄なものを排除しより落ち着いた生活が出来るはずである。人間は物への執着心が強い。心の豊かな人ほど物には執着しないだろう。本当に大切なものだけを持つことをすすめる。いつか使うかもしれないなど言って取っといても、使わないこともおおい。結局は物に振り回されているのである。これほど馬鹿な事もあるまい。我々は人間なのである。物は使うものであって使われるものではない。
   熱中出来る物
何をしても、何か物足りなく、本気になれなく、また新しい事を探す人。熱中できるものを探す事は良い事です。しかし今までに何も熱中できるものが無くて、捜し求める人は、いつまで経っても本当に熱中できるものは見つかりません。今ある事を熱中できる人は、常に自分のやりたい事を見つける事が出来ます。しかしいつも何か他にもっといいものがあるのではないかと思っている人は、目の前の事が見えないのにその先は見えるはずがありません。何もやる気が起きないと思っている人、まず今手につけられるものから行動を起こしてみたらどうでしょうか?何も目標が無い人を人は下に見ます。やりたい事が沢山あるが、手の付けられない人も同じです。なにか一つでも良いからそれに向かって行動できる人は常に前進できます。なにか物事をはじめようと考えてるが、何をしたらいいか分からなく悩んでいる人、まず踏み出してみてください。以外に1歩進むと、次から次とやるべき事が出てきます。何もせずに時間を浪費するほど無駄な事はありません。何にも夢中出来るものが無い人、頭で考えるのではなく、まず体を動かす事をはじめてください。結果とは何もしなければ出てきません。行動すれば成功も失敗もしますが、失敗を恐れて何もしないもの失敗と同じです。自分でした失敗ほど勉強になるものはありません。失敗を恐れて学ぶものがないより、成功すればラッキー失敗しても勉強できたという事で、行動している人は常に何かを得る事が出来ます。
   救いは何処に
神に救いを求める事は正しい事なのか?いきなり宗教の確信みたいの質問ですが、宗教にはまる人はまず神の絶対的存在を信じてます。絶対的神が存在するからその神に救いを求める。しかし神とは本当に存在するのでしょうか?世の中には無神論者もたくさんいます。神の存在は如何に証明されるべきか?難しい論理を展開して一生懸命証明しようとする人もいますが、私はそんな遠回しな事はしないで簡潔に証明出来ます。要するに、神を信じていない人には神が存在しなく、神を信じている人には神が存在するのです。神とは人間の力を超越しているもの。社長や大統領、偉人ではないのです。ある方向に働く力が神の実態です。もし神を信じてより生活や心が豊かになるのであれば、そのひとにとって神は現実に存在します。神を信じず自分の力で努力する人、その人の結果は神から出なく、努力した結果となります。神は物体ではありません。精神や心が目に見えなくても存在するように、神が理解出来ないから存在しないというのは過ちです。神に救いを求める事は悪い事ではありません。ただ如何に救いを求めるかは重要です。
  気が付くこと
仕事をする上でも、日常生活でも何かに気が付く人と気がつかない人が居ます。人間生きている中で、気が付く事ほど大切な事は無いのではないでしょうか?人間関係は思いやりの上に成り立っています。相手のことをなんとも思わなければ、良い関係は結ばれません。良い関係を結びたければ、まず相手を見て知ることです。相手を見て何も気が付かなければそれでおしまいです。仕事が出来る人はまず色々な事に気が付いています。改善点が見えなければ良い仕事が出来るはずがありません。細かい事に気が付けばそれだけよい仕事ができるのです。どんなに仕事を一生懸命出来ても、いつもアンテナを張っていなければ、先には進みません。
先日、私が息する暇もなく仕事をしている最中社員が普通に歩いてきました。そこにはごみが落ちていたのですがその社員はそれを無視しました。ごみに気が付き拾うのが普通ではないでしょうか?いやごみには気が付いているはずです。それでも拾いませんでした。バイトでも社員でも落ちているものが拾うのが至極当然の事です。物事に気が付いたら、次は実効です。この二つがセットで仕事も生活も上手くいくのではないでしょうか?
  宗教が無くなる
一部の地域では宗教を持っていないと、不完全な人か悪人に見られる。日本では変わり者に見られる。なぜ宗教がそこまで大切なのであろうか。宗教は不完全な人間を補うものだからである。
人類が発生してから、物価や知能は高くなったかもしれないが、判断力や頭の回転真実を知る力は余り発達していないのではないか。知識が豊富にあっても間違った判断をよくする。何が正しいかなんか昔からわからないままである。そのいい例がブッシュの力には力でしょう。情報大国、軍事力ナンバーワンのアメリカが、ローマ人と同じようなことをする。ブッシュの頭は古代人と全く同じ判断をしたのである。
もし地球外生命が地球に来たとすると、間違いなく彼らは我々よりもかなり頭が良いに違いない。その彼らは宗教なる古代人の精神の支えなくして、自らの能力で全てを悟ってるに違いない。もちろん宇宙には我々より下等なものも同じ物もいてもおかしくはない。
現代のような物質優先の社会では精神は発達することが出来ないが、精神世界が発達すれば、宗教はいずれなくなる。神の存在が必要でなくなるのである。あるのは生活規範だけ。心の迷い、悩みなど己の精神力で解決できる世界がいつかはかならず訪れる。社会主義は精神レベルが追いついていないのに宗教を排除してしまった。しかし精神の発達が宗教を必要としなくなる。これは事実です。
  自殺について
今日はいつも以上にまじめです。私の意見を理解できない人は何なりと反論してください。
自殺って人殺しですよね。人を殺すとき全くの他人を殺すより血のつながった親族を殺す方が確か罪が重いはず。ってどうゆうことよ?命の重さに違いなんかあるのか?大統領殺しても乞食を殺しても、意味合いや重要度は違うが、人を殺すということに関しては同じはずだ。神から見れば人間界ではすごく必要かそうでないかなんか関係ない。人間は人間。しかし現実社会では重要人物を殺すと大変な目にあう。親なんか殺したときには鬼畜扱いだ。私はこのことはすごくおかしいと思うが、社会がそうなのだからしょぷがない。そこで自殺これは社会的罪には問われない、かえってかわいそうという感傷的な気持ちにとらわれる。現実社会を恐れて死ぬこと。死ぬほど勇気があるならもっと現実社会にたて向かえばなんて、同情的になる人までいる。それはそれでいい。しかし私は自殺は罪だと考える。宗教的に考えれば納得できる。しかし法律でも自殺は人殺しとしてはどうだろうか。死んだら罪は問うことが出来ないなんていうが、自殺とは要するに家庭環境に大きな問題があるのでは。子供が死んで悲しい両親に罪は問えない?甘ったれたこと抜かすな。そんなこといていたら自殺は続くし、両親は子供を育てるという難しさを甘く見る。もしあなたが自殺してその罪を親や子供、奥さんが償いをすると考えて見なさい。がんばって生きようと思うのではないか?
自殺して苦しみから逃れられると考えている人、あなたは甘すぎる。人間というのはこの世でおしまいではない。あの世はいい世界だって?何か間違えて幻想をもってるのか?死んだら何も無い?何でそんなことあなたが知ってるのか?キリスト教は死後天国の道が開くまで待ってるというが、それならそれでもいいが、自殺した人は天国の門が通れないでしょう。確実に。
仏教で考えると、この世は人間の修行の場。修行や勉強から逃れて仏が救ってくれると思うのか?我々人間はこの世ではこの世のやるべき事をしなくてはいけない。この世でやるべき事は社会的人間としてまじめに生きることである。あの世ではまたあの世のやることがあるんだよ。そんな目の前のことから逃げようとしてる人あなたは、地獄が待ってるからいってらっしゃい。
この世で宗教に励む人がいるが、それはそれで好きなんだから勝手にしてください。しかしこの世に存在してる限り、この世のこともしっかりしないと、あの世でも中途半端で駄目人間のままじゃよ。
考えてみたまえ、神はこの世に神の世のことを考えるために人間を送ったのかね?こんな考えは矛盾している。神が我々をこの世に送ったのは、この世でもまじめに生きるようにとじゃ。何処の世界に、プールに行ってスキーをやる人がいるのか?
生に迷ったら、このことを思い出して欲しい。

宗教の本髄
今までいろいろと宗教について考えていたが、答えがまさかこんなに簡単な物だとは。イエスも釈迦もアラーもまさか同じ考えだったとはビックリです。宗教を悟ということは宗教の意味を知ること。宗教は人間の良い面から生まれたのではなくして、人間の醜くさを知って初めて完成する。そういえば先人たちは混沌んとした時代に悩み苦しんだ。そして解決策を見つけた。何故誰も私にこんな簡単なことを教えてくれなかったのだろう。なぜ本に書いていないのだろう。何故宗教で苦しむ人がいるのだろ。これさえ知っていれば、宗教で悩まない。現在私は僧侶から還俗しているので、悟ったと言っても罪には為らない。だからここではっきり言おう。人間の本質、宗教について私の考えは完結して全てを知ってしまった。もし悩んでいる人がいて私の答えを知りたければ、いくらでも相談になろう。宗教を知る上で鍵となる言葉が「信じるものは救われる」である。しかし私はこの言葉は長年嫌いだった。信じないものは救われないなんて、神の摂理に反する。しかしこの言葉に逆説的な答えが含まれていたなんて。ショックである。

信じるものは救われる
何かを本当に信じていたり、信念があれば迷ったり不安になることなどない。信じるものは救われるという言葉は、信じる事ができるのなら、その道が大変でも、間違っていてもそのひとにとっては正しい救いの道で、信じるという行為をした時点から救われている。信じるという事は迷いをなくすという事で、人間の心は安定させる。だから別に宗教を信じていなくても、自分を信じている事によって宗教と同じ救いの道が開いているのである。よくオウムは世間に迷惑をかけているから悪い宗教で人の心を救えないだろうと思われているが、信者にとっては救いの道がしっかり開いていたのである。なにかに迷った時すぐに宗教に走るのではなく、もう一度自分を見つめ直してみたらどうだろうか。宗教は救いの道というが、宗教を知らないものにとって、宗教はある意味では麻薬になってしまう。よく切れる包丁は職人にとってはいい道具だが、子どもにとっては凶器でしかない。

宗教を知らなすぎる人が多い
タイ人は日本人より宗教を信じている。私はタイ語の授業で宗教をとっているが、その先生は宗教を知らない。でも仏教徒である。アメリカ人もしかり。クリスチャンでも仏教徒でもムスリムでも信仰しているわりに宗教を知らないのである。宗教はどんなものだかは知っている。そりゃ毎日宗教的な生活をおくってるのだから知ってるはずである。しかし宗教がなんだかは全然理解していない。なぜ宗教があるのか知らずして、よく良い信仰ができるもんだ。ま、しかし宗教を知るのもある危険を伴うから知らない方がいいのかも知れない。

愛と情け
愛情は愛と情けという文字から出来ていますね。これを考えた事ありますか?愛とはずばり一瞬に燃え上がる炎みたいなもの。情けとは目立つ事はないが永続的に保持されるもの。この二つが一緒になって愛情といいます。付き合う前は愛でも、付き合うと言う行為は愛情の契約です。愛が覚めたとはいいますが、愛情が覚めたとはいいません。なぜなら愛情は情けも含まれているからです。例え燃えるように愛していなくても、相手を尊重することが情けです。もし以前のように相手を愛していなくても、相手のためにする事が情けといったほうが良いかもしれません。愛を育むより恋人とは愛情を育んだ方がより幸せになれるのではないでしょうか?愛は行きずりでも誰でも出来ますが、愛情のように長続きする物ではありません。愛情があれば夫婦間も恋人同士も関係はより良いものになるのではないでしょうか。SEXは愛を作ります。しかし愛情はどうでしょうか?

子どもの責任は親がとる
先日タイで暴走族が警官に暴行するという事件があった。暴走族の中には15歳なる少年も存在。しかし未成年であるために、なんと親がその少年の罪を償うために刑務所に入る事になった。タイ以外ではありえない事であるが、子どもの教育は親の責任である。成人するまでは親が面倒見なくてはいけない。この制度のいいところは放任であった子どもをしっかりと親が見るようになることで、犯罪も低下するところにある。日本の少年犯罪も、親が自分の子ども理解していない事から始まる。親は子どもの鏡。その鏡が子どもを無視しては子どもは良い成長はしないのは至極当然ではないか?学校は勉強を教えるところ。社会勉強は親によるものが大きい。

欲望の為に(説法)
人間何の為に活きて居るかと言えば、ずばり”欲望を満たす為”なのではないでしょうか?人間の生きる目的は、やりたい事をする事です。自分が満足する事が幸せにつながります。本来仏教ではこの欲を悪とみなして排除しようとしますが、人間の生きる力はこの欲から来ているのではないでしょうか。欲は次から次へと沸いてきます。その欲を満たして行く事が人間の生活なのであります。ただこの欲望だけに振り回されるのも危険と心得とかなければいけません。欲は力なり。その力の向きが変われば不幸を導きます。自分の欲望をいかに満たすかが大切です。欲は自分あっての欲であって、欲望の為に自分があるのではありません。

心のレベル
普段の生活で学習や仕事などでレベルを上げることはしているけど、精神はあまり鍛える機会が無いような気がします。精神修行は意識しなくては上昇しません。また外からも気づきいくいです。精神がどうのこうのというと、なにかあやしく敬遠されかちかもしれません。しかし現代日本に精神を向上させる機会はあるのでしょうか?宗教が社会に根ざしている地域ではその宗教がモラルを築いています。しかし現代のような日本社会ではモラルが個人の精神にかかっています。
心を鍛える事は難しい事ではありません。日々気をつけていればいいのです。心のレベルが低い人は常に心を惑わされています。レベルが高い人低い人は物の見方から違ってきます。レベルの高い人の精神は安定していて、物事を冷静に正しく見ることができます。普段の何気ない生活では精神のレベルなど意識しなくても日々は過ぎていきます。しかしより理性的な生活を望むのであれば、心の動きにも注目して見て下さい。

瞑想(説法)
現代人は癒しを求める。なぜこれほどまでに癒しが必要なのだろうか?社会が発展してより快適な生活が出来るようになったにも関わらず、精神的には昔以上に迷走している。物質的な、目に見えるものばかりが強調された社会において精神は2の次であった。特に日本は宗教的である事はタブーに近い。結婚、葬式の他に宗教を感じる時があるだろうか?いや冠婚葬祭だってたんなるセレモニーになりつつある。儒教の教えと仏教の教えで日本人の精神は稀に見る和の文化。精神の文化を築いた。日本人の精神教育は20世紀に崩壊したままである。人間にとって何が大切なのか皆さんご存知のとおり心である。しかし現実問題心の教育と言うものが今なされているのだろうか?心をコントロール出来ない人間が世の中には溢れている。なんとも恐ろしい世界ではないですか。以前の日記でも書いたように心を鍛える事が今必要だと思います。
そこで今日は心を研ぎ澄ます瞑想を取り上げました。瞑想というとなにか宗教めいたいかがわしいものだと考える人がいますが、瞑想は宗教の方法であってそのものではありません。また仏教やキリスト教だけでなく瞑想的行為は様々な面で利用できます。電車に乗っている5分でも、休憩時間でも僅かな時間で出来る利点があります。普段あらゆる事に振り回されている心をOFFにする事、そうする事によって正しい判断が出来るようになる事。それが瞑想により導かれる結果です。あまり難しい事は言いません。ただ心の休息を求めてください。

仏教(大乗・小乗)パート1
日本は大乗仏教の国である。以前タイは日本を仏教の国とは認めていなかったらしいが今は仏教の国の一つになっている。日本の仏教は儒教流れの国なので性格にはお釈迦様の教えをそのまま受け継いでいる訳ではない。私が出家したミヤンマーは小乗仏教の国である。我が愛するタイやカンボジアもそうである。タイの仏教は一般的に戒律が厳しいが我がミヤンマーの仏教は瞑想中心である。カンボジアは一度仏教が滅んでいるのでなんともいえません。スリランカなんかは仏教の精神がにじみ出ているようですがなかなか難しい国のようですね。しかしそのスリランカは日本敗戦時に見事国際社会に仏教の精神を表現した国なんです。
小乗仏教は自力本願、大乗仏教は他力本願といいます。
仏教と言う宗教は寛容な宗教なんですよ。本来は。イエスの隣人を愛せと言うのは、隣人がキリスト教の場合というのが前提条件なんです。相互理解、相互扶助がキリスト教の根幹です。仏教はどうなんでしょうか?

仏教パート2
今回は祈りについてです。何の為に祈るんでしょうかね?キリスト教では既に天国は存在しています。誰でも神の審判後天国に行けるのです。神の審判とは果たして死後なのでしょうか?天国の道は死ぬ前から開かれています。そう考えると神の審判は死後ではありませんね。極楽に行くには審判は必要なのでしょうか?いやだって仏教には極楽が無いので行きたくてもいけません。別に天国や極楽に行きたいが為に祈るわけではないのでしょうか。イスラムは神への服従です。キリスト教の祈りは神を称えるものでしょう。仏教のいのりはと行く前にまずはこんな話しを。仏教では祈りは念仏と言いますね。キリスト教もイスラム教も祈りは人間が神にするものなんです。神からは祈りの言葉は無いのではないでしょうか。所が仏教は神も念仏するのです。また話しがずれて。誰かがあなたの為に何かをしてくれたら、それに応えたくなるのが人間です。はい、話を戻して。仏教では信者は個別に仏に念仏してるように見えますが、どうやらこれは間違えのようです。仏は今も私達の為に念仏を唱えています。そして人間が念仏を唱えるとなんと仏の念仏と、私達の念仏が共鳴し合うということなんです。人間と仏は相互関係を結んでいるわけです。そして仏は人間のみならず全ての生命の為に念仏を唱え続けているのです。古来一神教は絶対的な神からの一方的な人間への語り掛けでした。ユダヤ、キリスト、イスラム全て同じ神です。ただ預言者が違うだけ。一神教の神は常に絶対的でなくてはいけなかったのです。そこには人間のとうてい理解出来ない世界が広がっているのです。そもそも神を知ることは出来ないのが一神教なんです。多神教のようにあやふやではいけないのです。だから自然と上下関係のようなものが生まれています。祈りに関してもそうです。人間の一方的な祈りは神がそれを受け入れてくれるかどうかは神のみぞ知るんです。これが一神教です。しかし仏教の場合はどうやら一方的ではないですね。仏と人間の念仏が重なっているのですから。

仏教パート3
禅で悟りを開いたお釈迦様の教えを実践してるのが小乗仏教である。小乗仏教はスリランカ、ラオス、ミヤンマー、カンボジア、タイなどで生きています。大乗の他力本願とは違い、自らの力で自分の道を開く自力本願の宗教です。私はこの自らの力で道を開くと言う事に心をひかれ、ミヤンマーで出家しました。人間は他人の力を借りる前にまず自分が努力しなくてはいけないのです。小乗仏教ではお坊さんはまず自分が悟りの境地に至り、それから一般の人に教えをするのです。人にとやかく言う前にまず自分がという精神。低いレベルで共に苦しむよりも、人を上から教える方が結果的には合理的。教職が聖職といわれるのと同じように、仏教でも人に正しき道を教える方が徳の深い行為になります。小乗仏教は自力本願で他人には冷たいようですが実は人を救う事も目的にしているので、自分だけが救われようとしているわけではないのです。

イスラーム
インシャアッラーと言えばムスリムの間では頻繁に交わされる言葉である。この言葉はタイ語のマイペンライと同じくらい振り回される言葉ではなかろうか。インシャアッラーとは神が望めばと言うような意味で、キリスト教のアーメンと本来は同じように用いられるべきだった。しかし今はどうか。しかしこのインシャアッラーと言う言葉からイスラームがよく解るようになるのである。そして同じ神を信じているユダヤ、キリスト教おも理解できるようになるので明日はこのインシャアッラーを述べてみたい。本来は仏教シリーズいきたいと思ったのだが、イスラームは神への服従と述べたのでその補足をしたい。しかしこのイスラームの説明をすると大乗・小乗を述べる時に誤解を生むかもしれないので避けたかった。微妙な違いを果たして今現在の私が上手く説明できるのか心配です。しかし明日のイスラームはテロに関わる事なのでイスラームを知らない人知ってる人共に考えてもらいたいです。なぜ今日述べないのか。それはまことに勝手ながら寝る時間だからです。書こうと思ったら楽天混雑していたのでしょうがない。

イスラーム2
まずはもっとも宗教らしい宗教と言えばイスラームである。世界三大宗教で言えばイスラーム、キリスト、仏教の順である。何を持って宗教かは、また別の機会に述べるとして、とにかく宗教としてもっとも成功しているのがイスラームなのだ。イスラームとは既に教えと言う意味があるのでイスラム教という言い方は間違っている。そろそろ本題にはいります。
”インシャアッラー”ムスリムの心が表れている。
まずはこんな話しから始めたいと思います。何かムスリムと約束したとします。そしてその約束が果たされるべき時、無下にされて後ほど約束と違うではないかと責めるとします。しかしそのムスリムは「約束した時に私は”インシャアッラー”」と言ったではないか(よくこうゆういいわけをします)、神がそれを望んでいなかったからこのようになったのだと返してきます。自分が約束を破ったのではなく、神がそれを望まないから私は実行しなかったと。イスラームでは全ての行為は神に裏付けされているという事です。神が望んだら物事がそのように動く、望まなかったらそのままである。運命は神により決められ、神の望むようになると言うのがイスラームの考えなのでしょうか。神は絶対善なのです。この当たりは同じ神を持つユダヤ教、キリスト教も同じです。神は完全なるモノ、決して過ちを犯す事がない。その考えから911の事件は神が望んだからあのような事が起こったのでしょうか?多分そうなのでしょう。そしてアメリカが反撃してイスラームの同朋の命が奪われたのも神が望んだからなのでしょうか?やはり神の運命には従うのがイスラームなのでしょう。聖戦(ジハード)は神が望んだ戦争です。神が自分で作った人間を、人間を使い自分で殺すのだから理にかなっているようですが、神とはそのようなレベルなのですか?人間が神を利用してるのですか?神への絶対的服従という盲目的な行為はいったいどんな意味があるのでしょう。人間は神を超えることが出来ません。しかし人間も善悪を判断する事が出来るのです。神がいくら望んでいても、それが正しいのか判断できる人間を神は愛するのではないでしょうか?イスラームは神への服従まさにそうだと思います。

お釈迦様
お釈迦様は人間である。ムハンマドもイエスも人間である。この二人はイスラームの世界では預言者に過ぎない。しかしイエスさんはなんやらややこしい事になっているので、これ以上考えると私の頭は円形脱毛症になりかねないので今回は無視。ムハンマドもイエスも神の声を聞いて人々に救いの道を示したが、お釈迦様は神の声を果たして聞いていたのだろうか?仏教はお釈迦様の教えである。イスラームはムハンマドの教えではなくアッラー教えである。皆さんは禅をご存知だろうか?禅とは人間の正しい生き方を説いたものである。禅は宗教ではない。生活の規範である。どうやらお釈迦様はこの禅を実践していたようである。だから仏教には禅が取り入れられている。生活の道しるべに宗教はちょっという方、禅を学んでみてはどうだろうか?

血を血で洗う宗教
タイでイスラム過激派がマスジドに立てこもり銃撃戦で聖地を血で赤くした時、ムスリム達は同胞の血は相手の血で清めると発言をした。この事件以外でも過激派は同じような事を言っている。それは過激派だけの問題なのだろうか?イスラームは神が絶対なのである。その神を冒涜する事など言語道断。神を汚す事は人を破滅に導く。昔日本でも踏絵で踏めない人は神を汚す事は出来ないという、ムスリムと同じ心情が作用していた。神の為なら死ねるという人は一歩間違えば取り返し出来ない事を実行するのである。カルト教団がこの心理をいかに上手く利用するかに教団の強さが関わってくる。踏絵に話しを戻そう。踏むことすらできないイエスの木板を燃やす事なんか考えられないだろう。踏む事が神への裏切り、冒涜になるのだから。キリスト教は神の象徴は聖なる物と考える。それが人を試す為に作られた踏絵でもである。なにか物事の本質が間違えているような気がする。踏む事によって神を裏切ることになる、自分を裏切ることになる。やはり唯一神の宗教なのであろう。
仏教関連で面白い話しがあるので紹介します。
人間は死ぬために生きているのではなく生きる為に生活しています。あるとても寒い時にある僧が仏像を燃やして体を温めているのを寺守が見てその僧を激怒したそうだ。しかし燃やしていた僧はこの中に舎利がないのなら残りの仏像をも燃やして見ようかと言って寺守をびっくりさせた。ここでは仏像はたんなる仏像に過ぎなかったのである。そして後日なんと燃やしていた僧を不信仰で抗議した僧が眉毛がなくなる罰があたったが、燃やしていた僧はなんともなかった。物事の本質は宗教の上に立つ事なのである。これが仏教の考えです。本来信仰心の厚い僧が、考えがあって仏像を燃やしていた事を、表面だけ見て非難する事は容易いです。しかしそれは物事の本質を見ていない事になります。
宗教は生きる為にあるのです。


「道は近くにあるのに、人はこれを遠方に求める」儒者の言葉らしいが、いそがば周れと日本人は言うが、まわって道に迷うのが現代人なのであろうか?なにか迷ったり、悩んだり、答えをだそうと苦しんでいる時、以外と手短な事、身近に、簡単な解決策があるのに、ついつい考えすぎて答えを導き出せない時がある。前に進めないと思っている時、半歩でもいいから脚を動かして見るとそのまま壁は無くなり前に進める事もある。だいたい壁なんかはじめからなのに自分で作ってしまうのである。そのはじめから無い壁を遠回りして進もうとするより、意識を無にして壁の存在をなくせば案外成功の道に進めるのではないか?

説法(苦悩から逃れる)
人生で苦を消し去るにはそれなりの修行をしなくてはいけないが、我々社会生活を普通に送っている人でも苦を和らげることが意外に簡単に出来るのです。苦しい事は突然やってくる事もありますし、じわじわ近づいてくる事もあります。人間苦を感じるのは当たり前。しょうがないのです。しかしその苦をどのように解消、解決するかこれが大きな問題になるわけです。心のもちようだけで簡単に苦から開放されますよ。苦に執着すれば苦しむ時間が延びる一方です。最初に感じた苦悩を自分でながくしているのです。
簡単な例をあげましょう。
恋愛に敗れ、失恋した時はやはり悲しいものです。相手が好きであればあるほどに、失恋のことばかり考えます。そして悲しみにくれて、ひどい時には自分は失恋で苦しんでいるのだと周りにもアピールします。そして過去の変わりようもない事について相談したり、慰めてもらったりして自分がいかにショックを受けたかと言う事を理解してもらおうとします。しかしこの行為は無意味な事ではないでしょうか。過去を考えてもしょうがないのです。我々は未来にしか進む事が出来ません。過去を反省する事は出来ますが、過去を変えることは出来ないのです。そう考えると辛い事はさっさと忘れてしまった方がいいのではないでしょうか?自分が苦しめば苦しむほど苦悩の期間が延びるだけです。何の為に苦しむのですか?苦しんでいるあなたは、目の前の幸せも涙で見えない事でしょう。心の転換といましょうか、苦しみは出来るだけ短期間にしてしまいましょう。短い人生、苦しみを考えるより楽しさを考えた方がいいですよ。心のマイナスは自ら辛い状況を作ってしまいます、たとえマイナスになっても直ぐにプラスにするような思考にしときましょう。

禅的生活
私が思うにお釈迦様、ムハンマド、イエスさんなど宗教的偉人は禅的な生活をしていて、悟ったり啓示を聞いたのではないかと思う。お釈迦様なんかは文献によると禅を実施していたと言うし、最近の調べではイエスの空白の時期はなんとアジアを旅していたと言うのが解ってきたらしい。もし人間は物事の本質を知るには禅的生活は不可欠なのである。社会的生活に日々追われていると、真理とはなんて疑問は沸いてくる暇も無いし、生活する事に精一杯だと生きる事を忘れてしまう。禅とは人間の生き方を教えてくれるものなのである。禅は心のゆとりなのである。

学ぶ
最近の学校の先生って子供にしっかり学ばせているのだろうか?人間学びながら成長するもんである。しかしどうも最近の学校は子供の教育という意味では低レベルである。もちろんしっかりした先生も居るが少数になっているのが悲しい。教える事、習わせる事は簡単に出来る。しかし学ばせるのにはそれなりの方法で無いと無理。しかし学校での教習の中で”学ぶ”というのが一番大切である。教える事は受験勉強にとってはいいが、人生にとっては時には諸刃の剣になる。教えると言うのは単なる知識教育。学ばせると言うのは考えさせるというのである。考える訓練がされていない子供は大人になっても低人間である。学校は昔は字のごとく学ばせたもんであるが。先生達を非難するのでもなく文部省が悪いので無く、このような社会を作ってしまった日本人が悪いのでしょう。

人を殺す
人を殺すのなんて昔から簡単なんですよ。悪い事した奴なんて殺してもいいとか、戦争だから人が死ぬのは当たり前って思っている人が世の中には多いですね。何故に大昔から人間は人を殺してきたのでしょうか?武器の発達により、より多くの人間を簡単に殺せるようになりました。人間は人を殺す武器しか開発してこなかったのでしょうか?ごくわずか殺傷能力の少ない物もありますが、本当に僅かです。戦争なんかもそうですが、殺さずにどうにかする武器の開発と言うのはいまいちなんですよね。だって日本の警察だって普通の拳銃使うでしょう。麻酔銃とかではないのですよ。悪い事したら怪我をさせてもいいという考えがあるからじゃないですか?麻酔銃は反応が遅く反撃されるからなんていうのは言い訳ですね。いくらでも改良の余地があるのに目をつぶって、安価な拳銃が出まわっているのが現状です。偉い人には多分人を殺す権利があるのではないでしょうか?一般の人が一人殺したら人殺しで、大統領が核兵器を使えば人殺しでなく英雄ですか?私みたいに平和ボケしている人がとやかく言えるような問題ではないのかもしれませんが、人を殺す事ってそんなに簡単なんですか?

こころ
自分の心を理解している人ってどのくらいいらっしゃるのでしょうか?この日記を読んでくれた方、考えたことありますか?人の心を知ることは難しいと言いますが、考えて見ると自分の心だってつかみどころがありませんよ。ふと我に返った時、あなたは自分の心すらどうなっているかわからないでしょう。人間が悩んだり、苦しんだり、心配するのは外的要因よりももしかしたら内的要因のほうが多いかもしれません。なんのことかさっぱり分からない人の為に例をあげてみます。
男性Mに好きな人が出来たとします。その相手は女性Tとしておきましょうか。男性Mは女性Tに手紙を渡します。しかし女性Tはなんの返事もしない。男性Mは勇気を出して女性Tに手紙を出したにも関わらず反応なしです。その後男性Mは女性Tと逢う機会があります。男性Mは女性Tがどのように思っているのか凄く不安で、会ってる時も緊張しています。しかし女性Tはなんとも考えていないかもしれません。以上のような場合男性Mの内面はどのようなんでしょうか?女性Tは何とも思っていないかもしれない、迷惑がっている、気まずいなど勝手に男性Mは想像して緊張したり、気まずくなったり、不安になっています。でもこれらは事実なのでしょうか?現実ではなく、男性Mが自分で想像して、気を使っているのです。要するに実際とは別に、自分の心が自分を惑わせているのです。悩んだり、心配したりしている時に、自分の心に惑わされていませんか?自分の心に惑わされるなんて、馬鹿みたいですが結構されているもんです。これでは惑わされ損ですよ。例が悪いので理解出来なかったかもしれませんが、要するに事実がわからないのにそれをどうのこうの考えても、それは自分で自分の心を惑わしているだけなんですよ。

説法(如何に生きるか)
 蟻とキリギリスの話しは日本人なら誰でも知っている話ではないでしょうか?小さい頃に聞いた覚えがあるはずです。日本人は蟻のようになりましょうというのですが、お国変わればキリギリスのようにというところもあるみたいなのです。将来を考えそれに向かって行く蟻の生き方もいいですし、またキリギリスのようにその場その場を楽しむのもまた人生でしょう。人生とは片方によりすぎてもつまらないものです。
今、私が人はどのように生きるべきかと聞かれたらこう応えます。”今を生きる””人の為に生きる”
「今を生きる」これは蟻の生き方ではなく、キリギリスの生き方みたいで、あの童話を聞いた人は首を傾げるかもしれません。しかし私の話しを聞いてください。我々生物は常に今しか確かな時はないのです。過去をいくら悔やんで見ても、栄光を輝かしく思っても、過去は過去のままなんら変化しません。また過去に振り回され今も未来も悪くなるかもしれません。過去から反省する事も大切だけれども、過去にとらわれてはいけないのです。未来はどうでしょう。いくら先の事を考えても、今如何に行動するかが未来には作用します。また未来は未知なるもの。こればかり考えても何も始まらないのです。今私達が生きているこの時間が一番大切なのです。今日が最後の日かも知れないのに未来を考えるよりは、いつ死んでも恥ずかしくない生き方をしていきたいものです。そうすれば今何が大切か見えてくるのではないでしょうか?生きるということは難しい事ではないのです。今この時間を一生懸命生きれば、それは未来につながるのです。私達はつい忘れてしまいますよね、この”今”と言う事を。”今を生きる”これを実践すれば濃度の濃い生活が出来るのではないでしょうか?時間は巻き戻しも早送りも出来ませんよ。
「人の為に生きる」よい社会を築きたければこれは大切な事です。そして”今を生きる”と常に一緒にしておきたいものです。この二つが揃ってはじめて意味をなすのです。仏教では”人間は生かされている”と考えます。自分以外の自然、動物、人間は全て関わりを持っているのです。決して自分一人で生きていくということは出来ないんです。自分の為に生きている人ほど滑稽な人はいません。なぜなら周りが見えないからです。誰の為でもいいのです。今手の届く人を思いやればいいだけの事です。決して難しい事ではないでしょ?子供が居れば子供の為、彼女が居れば彼女の為、困った人がいれば手を差し伸べるだけ、これだけすれば社会がよくなるだけではなしに、自分の心も救われます。世の中は因果応報です。あなたがよくされたいと思うのなら、まず他の人を助けてあげてください。まさか悪くされたい人はいないでしょう?それなのに人間は他人には冷たいのですよね?おかしくはないですか?

出家?
以前私はミヤンマーで出家して小乗仏教の僧になった。なぜ出家?そう言えば中学の家庭訪問で希望進路を先生が聞いたときに、私は真面目に坊さんと応えていた。親も先生も冗談かとわらっていましたが、本当に出家してしまったんですね。でもあの時はまさか海外で出家なんて考えていなかった。真言宗で坊さんになりたかったのだが結果としてテーラワーダで出家してよかったのだろうか?中学の時の夢ってどれだけの人がかなえているのでしょうか?
本来私はタイで出家しようとタイに飛んだのですが、なぜかミヤンマーで出家。いくら隣の国だからと間違いようもないが。1回目の出家は短期でもいいのだが、2回目は一生になるそうです。出家した事は何故か両親全く驚きなし。それは短期だったからなのでしょうか?

劣化人間
物質的に便利になった先進国の人々は精神的には豊かになったのだろか?現代人の多くの人が精神病だと言われている。昔は精神病は少なかったのでは。明らかに頭がおかしいのは今も昔もいます。しかし昔は正常な人と異常な人に一線があったと思う。しかし現在私達の社会には明らかに欠陥がある人と正常な人の間の少し精神が病んでいる人がかなり多く存在する。これは心が物に支配されているからである。世界が複雑な社会に発展すれば、それだけ精神もその複雑さに対応しなくてはついていけない。しかしあまりにも物質社会の発展が早過ぎたため、心がそれについて行けなく、弊害が出ているのである。心のよりどころである宗教をかろんじた日本はまさに心が定まらない人が続出。昔のように単純作業で生活していた時は心が定まり豊かに暮してきたけれども、常に心が振り回されている現代人はまさに悲劇そのものです。

仏教って・・・
仏教って宗教なんですか?アラーやヤウェという神を信じたのがイスラム教、キリスト教でその教えを広めたのがムハンマド、キリストです。しかし仏教は別にお釈迦様が神を信じたわけでは有りません。
仏教は宗教と言うよりは学問なんじゃないでしょうか?宗教は信じれば救われます。しかし仏教は信じると言うよりは人間どうあるべきかと言うのを学んでいきます。神とどうあるべきかというより、人間如何に生きるかというのを追求したのが仏教なんです。

ゆるせますか?
人間頭に来る事、いいかげんにして欲しい事などあります。ゆるそうと思えばゆるせる些細なことから、決してゆるしたくないことまで有りますが、人間の行為の中で赦すと言う事はとても尊いものだと思います。他人ばかりでなく自分をも赦すことが今私達が生きているこの世界を正のパワーに導きます。自分を赦すとはなんなんでしょう?これが出来なければ他人を赦せる事ができるでしょうか?自分を赦せない人は精神的束縛から逃れる事が出来なく、閉じた世界でしか生きる事が出来ないのです。また他人を赦すことが出来ない人は、本当のふれあいをすることは難しいでしょう。愛と同じように深い行為がゆるすということです。

説法(善き人・悪き人)
久しぶりの説法になります。
ある物事に対面したとき、自分がいかにそれを受け止めるのかは己自身の問題です。悪事にぶつかりその悪しき事を知ったから悪いことを真似する人が居ます。しかし一方悪しき事を知りそれを実行しない人もいます。よく犯罪など犯した場合にその背景を調べ、ビデオやら本やらその犯罪を導くものが見つかったといいます。その本やらビデオが犯罪を誘発したと当然のごとく受け入れられていますが、犯罪を犯す人は犯すのです。ビデオやら本が犯罪を誘発したので悪いと断定する人ほど自分の過ちには気が付きにくいものなのです。悪を知って善を知る。善のみから善が生まれるのであればそれは理想でよいでしょう。しかし今私たちが生きている世界は善悪混沌とした世界なのです。そのような世界で私たちはどのように清く生活していけばいいのでしょう。
禅では「自分を汚すのは自分だ。」と考えます。どんな対象にしろ自分が清ければ汚れることはないのです。悪事を知ったからそれをしたというのは責任転換でしかありません。悪い事を知れば悪いことをするのであれば、その人は善い事を知れば善い事をするのでしょうか?いやそんなはずはないでしょう。あくまでも自分が何をするかは自分の判断で行うわけなのです。自分を汚すのは自分だ。誰でもないのです。あなたの行為はあなたなのです。善き人になるのも、悪き人になるのも簡単なこと。

説法(大樹の如く)
個人が尊重される西欧主義が日本にも入ってきて日本の社会も大きく変わった。私とあなたは違うのである。だから自己主張をするという文化である。私はこのような文化は敵味方をはっきりするような気がする。自分と違うものは敵なのである。悲しきかな。
しかし私の考えでは全ての生命体は同じ源から分離したもの、要するにたまたま別個体に今はなっているが自分の一部だと考えています。キリスト教だって本来はアダムから人間が誕生したのだから人類皆兄弟のはずなのだが・・・
例え話でいいますと
私たち個々人はちょうど落葉樹の葉っぱと同じなんです。生まれたばかりの赤ちゃんや子供はまだみずみずしい新葉で生命力にあふれ青々としていますが、時と共に活力を失い、紅葉して老衰。落葉がちょうど死です。葉っぱだって途中で落ちてしまうとか早死にしてしまいます。そして虫に食われたりと病気や事故が起きます。葉を多く持つ枝は国家とでも言いましょうか。大きな枝は人種や民族かもしれません。幹が世界だとするとやはり根は全ての源です。
私たち人間は落葉して世代が変わりますがそのもとの木は生長していきます。個々人はばらばらのようでいても実際はつながりを持っているのです。もし一枚の葉っぱが病気になればその病気が広がりその枝の葉全てが枯れてしまうこともあります。それは人間でいうと伝染病であったり、戦争かもしれません。他の葉を落とすことや枝を切ることは、人間でいうと他人を殺したり、国家を破壊することなのですが、しかし結局は自らの木を痛めていることになります。
魂とはいかなる存在か?また有限なのか?輪廻転生するのならば、人口増加は魂の増加で、どのように魂が増加するのかという疑問が沸いてきますが、事実は別として、私は生命は大樹の如くと考えますので、人間個々に別の魂があるのではなく、本来ひとつの生命力がAさんならAさん、BさんならBさんに外見上は分化しているように見えるけれども、たまたま姿が違うだけで、同じ命の源から生きていると思います。葉は一枚一枚個別の生命体ではなく、木の一部として生きているのです
他の人を憎いと思う人、それは自分自身を憎んでいるのです。自分を憎んでなんになるのでしょう?
自らを大切にする人は他をも大切にし、木は生命力が溢れ生長していくのです。人は大樹の葉の一枚と同じなんです。

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