法喜が語る

法喜が語る

旅で考えた事



今の世の中資本主義が社会システムの中でもっとも合理的と考えられている。先進国は全て資本主義国である。社会主義、共産主義では人々は自由には生きる事が出来ないと考えられ、資本主義であれば誰にでもチャンスが均等に分けられ、努力が報われると定義上は成っている。そして資本主義では社会的な宗教弾圧は怒らない。宗教と社会システムは切り離されて考えられているからである。
現在なお世界には資本主義の社会観とは別な次元で暮らしている人が居る。金銭に寄らない生活をしている者などである。現在の資本主義社会はアメリカ型の世界である。今の学問んでは資本主義の欠点を補えるようなシステムは発見されていない。
宗教が社会のシステムをになっていた時代がある。宗教が生活を動かしていたのである。社会がどうであれ神を称える事が人間の役目。神に反する事が非社会的な行為だった。
そこで考えてみよう。現在の社会に宗教はどういう意味をもたらしているのか?
宗教が本来教えていることを実行するには、社会が競争社会であってはならない。しかし資本主義はどうであろうか?そう宗教は絶対的な存在で変革を許さないのであれば社会と対立する事になる。それでは文明の発達は困難になろう。宗教家がどんなに神の絶対性を説いても科学や文明の発達の波では相対的変化が必要になる。変化しない宗教は淘汰されてしまうのである。宗教とは多面的な側面を持ち変化していくものである。そこには絶対的な宗教観は存在しない。
宗教が油なのであれば社会という水に滴らしたときに確固たるものとして広がりはしない。しかしもし宗教が墨汁であれば滴らした瞬間に広がっていく。そしていずれは全体に浸透していくであろう。だが墨汁は始めのままではなくだんだん薄く変化していく、変化しながら広がっていくのである。
仏教やキリスト教のように、創始された時とは違うものが生じてくるのである。さまざまな解釈が行われ、いろいろな流派に別れていくのである。しかしどれも正当性を主張する。

つづく

好きと愛しているは次元が違います

好きと愛しているという言葉がどうも同じような意味で使われている。しかし私が思うに好きというのは対象が具体的で、愛というのは対象が抽象的である。たとえばある人を好きになるという。それはその人の声が好きとか顔が好きとか現時点ではっきりとした対象がある場合をいう。あくまでも今それが好きなのである。だから少ししたらそれが好きでなくなるかも知れないし、嫌いになるかもしれない。好きというのはある一定時間その対象を好む事であって、将来的に時間を永続するものではない対象に使う言葉である。将来的に好きでなくなるかもしれないという可能性を秘めている言葉なのである。だから好きという言葉は気軽にいろんな対象に使える。そこで愛という言葉を考えてみよう。
愛とは永続的にそのものを愛しく思う事ではないだろうか。気まぐれでは愛する事はできない。気まぐれに心が惹かれるのは、愛するからではなく、好きになったからである。愛とは一種の契約と誓いを含んでいる。そのものの状態が変わっても愛し続ける事が出来る思いを愛という。
人を愛すると言うことは変わらぬ思いを捧げるということである。
つづく

仕事

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