全13件 (13件中 1-13件目)
1
それは、昨日のこと。バイト先の事務所でひとりパソコンに向かっていたら、応接室のほうから、雇用主(妻)の「ひゃ~」とかそんな感じの細い悲鳴。何だろうと覗きにいってみたら、ぽつんと、こっちを見上げるトカゲちゃん。あら、家の中でお会いするとは珍しい。突然現れたのでびっくりして悲鳴をあげたものの、雇用主(妻)も、特に苦手と言うわけではないようで、ふたりで紙で追い立てて誘導してあげたら、素直に窓から退場していきました。そして、今晩のこと。お風呂上り、廊下で見かけた黒くてテラッとした虫。「ゴキちゃんだ!」とスリッパを振り上げてみたものの、どうも様子が違う。フォルムが微妙に違うような気がするし、何より動きがゴキじゃない。よくよく見てみれば、なんとクワガタ(雌)でありました。田舎ならではよね~。とはいえ、ずっとクワガタさんに廊下を散歩されてても邪魔なので、そっとつまみ上げてお外に逃がしました。蒸し暑い、と言っても、こちらは締め切ってクーラー効かせるほどの気候でもないので、窓を開け放して風を入れているもんだから、思いもかけない珍客が、日々いらっしゃるのでした。
2011年06月30日
コメント(8)
とんがり屋ブログでは散々宣伝して、こちらでもチラッと触れたような触れなかったようなの「HEART MARK・VEIWING」が地元にて、この土日開催されました。もちろん、お手伝いするつもりでボランティアミーティングから参加したのですが、行くまでは、「チーム福島を結成します」と言っても、東京からのそこそこの人数で実行委員会の皆さんがやってきて、こちらのボランティアスタッフってのは、本当にお手伝い程度と思っていた。そしたら、このハートマークの活動を通じて、こうやって地元ボランティアを集めて、そもそもの活動の理念や目標なんかの話をするってこと自体初めてで、東京拠点についで2つめの拠点を会津に作ること前提という本気度の高いお話でした。ということで、これからもそこそこ忙しくなりそう。今回のイベントに参加したおかげで、地元での支援活動やアート活動について話が出来る人たちと知り合うことができたし、前向きに、頭の中の一部分が切り替わった感じがします。むしろ、新しくできた人間関係を、どうストレスにならないようにハンドリングしていくか、みたいなことに、今は気持ちが向いている感じ。2日間の活動の様子は、とんがり屋ブログにてご報告。動画、すばらしくかっこいいと思います。と、実り多くうれしいことや楽しいことの様々あった2日間でしたが、実は一番うれしかったのは、自分のハートを作っているときに、それを見た日比野氏に「あなた、アート関係なにかやってる人だよね」と言われたことなのでした。裏付けなくても、思いと感覚だけでやってけるかもという自信になります。がんばろう!
2011年06月28日
コメント(10)
このところ、泣き言のような日記ばかりでした。ごめんなさい武魂さんがコメントくださったように、日記なのだから自由に書けばいいとは思うけど、こんなんばっかりじゃ、読んでくださる方も気がめいってしまうし、私自身、書くことをまとめようと考えれば考えるほど、どんどん気持ちを落ち込ませていってしまってたところもありますし。あとは、以前なら、こういうときはあえて、とんがり屋仕事の写真のご紹介なんかで、しばらく難しい話をしないようにしたりで、気持ちのバランスをとったりしてたんだけど、とんがり屋ブログを分離させてしまったので、こちらでは、自分の気持ちにかかわる話をしなくちゃ、みたいになっちゃった。とんがり屋のほうは、ずっと淡々と作品紹介続けてるわけで。コメントのレスは、追々つけさせていただきます。ひとまず、本日は、これにて。
2011年06月24日
コメント(8)
前回の日記には、温かいコメント、ありがとうございました勤めているとき上司に言われた、「びびさんは、自分に厳しく他人にも厳しいよね」ってのが、おそらくはすべてだなぁって、改めて思い知りました。もちろん、そんな場面、今までも何度も経験してきて、何度も同じようにつまずいてきたわけだけど、今度は、とてつもなく大きな規模でそれがきたな、と言う感じ。ここでまた、自分の心に対して、あれこれ考察を始めてしまうと、また収拾がつかなくなってしまうから、結論だけ言ってしまえば、外に向かう怒りと憤りの時期が終わって、内省に向かう落ち込みと悲嘆の時期なんだなという感じ。過去の事例にあたったり、納得いかなかいことを徹底的に調べることによって、自分のどうしようもない怒りを折り合いをつけることができたと思ったのだけど、その代わりに、自分の正義が本当に正しいのかってところにつまずいてしまって、落ち込んで悲しくて、ただ悲しくて。これは、もう、考えないしかないのかな、と。自分の感情に説明をつけようとしてしまうと、調べて考えて考えて、結局、怒りにしろ落ち込みにしろ、マイナスの方向に気分が動いていってしまうから、しばらくは、あまり情報をとらないようにして、頭の中身を、とんがり屋仕事にでも集中させてみようかな、と思います。
2011年06月21日
コメント(6)
毎日、あれこれ考えてしまって、何やらそれで疲れてしまっている。だれかの意見に共感を覚えたり、反発を覚えたりのたびに、それは、フィルターがかかったものでなく、本当に自分の考えなのか、その自分の考えは根拠のある正しいものなのか、自分の意見と逆の立場にある人たちは、なぜ、そういう考えにいたったのか、根拠が不安だったら、細かく調べなければならないし、多分、そういうことで、いろいろ疲れてしまっている。原因となった企業や国の政策より、私は、メディアの取り上げ方や市民とやらの声のほうが、負担なんだ、憎いんだ、恨めしいんだ、悔しいんだ、悲しいんだ。だからこそ、過去の自分を恥ずかしく思うし、取り消してしまいたし、戻ってぶんなぐってやりたい。とりあえず、コーラとか派手な色の海外のお菓子とか、輸入牛肉とか、ウズラの卵とか、中国野菜とか、本当にホントにごめんなさい生産者の皆さんは、それ以上にもっとごめんなさい。それぞれ事情は違うんだけど、全部を詳しく説明しようとすると、どういう風にまとめたらいいのか何だか見当がつかなくて、それが終わらないと、ほかの事書いちゃいけない気がして、とりあえず、何だか軽い感じになっちゃうけど、まとめて全部、もっともっといろいろあったかもしれないけど、イメージだけで避けたり、何となく嫌だと思ったことに対して、ひたすら、今は謝りたい。
2011年06月16日
コメント(3)
実は、とんがり屋としては、ずいぶん焦っている。いくつか平行して作業を進めたとしても、いろいろ乾く時間が必要だったりするもんだから、ここ数日は、できあがったものを即掲載という自転車操業状態。いやね、そりゃ衣装シリーズはまだ載せてなくて、そのストックは8つほどあるけど、さすがに季節はずれ過ぎるから、ちょっととっておきたい。あとは、紹介するにあたって、想定している流れと落ちがあって、それを全部準備してからにしたいんだな。と、言うわけで衣装シリーズを除いて一日一個となると、やっぱりこりゃ大変でした。平行して、衣装シリーズを紹介する準備としては、落ちに持っていくための作品群をそろえなきゃいけないわけで、凝りに凝って時間かけちゃうそちらの方も、平行して進める必要ありでして。この週末、ある程度集中して作ったので、いくつかストックはできそうなのだけど、来週末、また上京予定でして、最悪、そこで衣装シリーズ出さざるを得ないかも(T_T)いや、がんばる。がんばるんだ、私!と、とんがり屋仕事がそんな状態なのに、何やら固いこと考えたり、調べたり、書いたりしている今日この頃の私。きっかけは、茶葉の検査の件で、ニュースステーションの「所沢ダイオキシン訴訟」の話題に触れていて、「そう言えば、皆さん、もうダイオキシンはいいのか?」と思ったこと。で、過去の事例にあたっていくうちに、いろいろ思い出してきて、「トランス脂肪酸はもういいのか?」とか「そういえば、かん水なんてものまであったよね」とかそうすると、文章にするからにはちゃんと調べてからと思ったり。そして、「そうか、今のこの状況は初めてのことじゃなくて、 攻撃対象を変えて、何度も繰り返されてきたことなんだ」って思ったら、ふっと気持ちが楽になったのです。「危険だ」という人を「勇気ある行動」と称え、安全性を訴えれば「御用学者」「圧力に屈してる」と蔑まれ、国や自治体の対応を「遅れた」「間違った」と揚げ足取り…そうか、そうか、よくあることだったよ、そう言えば。おそらく、この手の問題については、過敏なグループと寛容なグループがあって、私は後者。世の中に存在するすべてのものは毒で、同時にすべてのものに「利」がある。自然界に存在する中で最強の毒と言われているボツリヌス菌でさえ、医療に役立ったり、もっと気軽に美容整形の分野でしわ伸ばしに使われたり。コーヒーやワイン(≒カフェインやアルコール)は発がん性を疑われると同時に、毎日定量摂取すると健康によい、コーヒーにいたってはがんの発生を抑えるみたいな話もあるわけで。山菜に含まれるシュウ酸の話をするにあたって、あれこれ検索したとき、「こういう食べあわせだと結石ができる?できない?」というような質問に対して、ほうれん草をはじめとする各食品に含まれるシュウ酸の健康に与える影響をさして、「海の真ん中に船で漕ぎ出していって、コップ1杯の水を海に流したとして、 海面が上昇したか?と聞かれれば、イエスと答えざるを得ないが、 その上昇分について議論することに意味がないのと同様」と回答している医師だか栄養士だかの方がいて、(← どうしても同じサイトを見つけられず、曖昧な書き方になってごめんなさい)「まったくそのとおり!」と納得した次第。多分、その手の問題に寛容なグループってのは、感覚的にこういう考え方なんだろうなと。以前「スーパーサイズ・ミー」と言う映画があって、アメリカの男性が1ヶ月マクドナルドだけを食べ続けたら?というドキュメンタリーなのだけど、これを観て(あるいは、あらすじを読んだだけでもいいんだけど)、「なるほど、マクドナルドを食べるのは危険だ」と思うか、「これだけ食べ続ければそうなるでしょ。普通、そんなに食べないし」と思うかの差なのかな~、とか。まあ、どちらのグループにも両極端と中庸に近い位置はあるので、あまり反応を決め付けるべきではないとも思うのではありますが。まあ、とにもかくにも、時折「これは危険!」という情報がマスコミによって投げ入れられて、それに過敏なグループが反応することによって風評被害を引き起こすってのは、そう珍しいことじゃなかったんだって、なんか、気持ちが落ち着いた。あと、以前、自給自足を目指す夫婦の問題点について触れたこともあったように、あまりに「自然」にこだわりすぎるのって、今の世の中にしたら不自然なことが多いだろうにという思いもありつつ、今回、ちょっとまとめていろいろ考える機会を作ったことによって、今まで、自分がぼんやりと不愉快だと思っていたことの正体が見えてきたこともあって、このあたり、ちょっとまとめて書いておこうかと。が、本当に、それを全部書こうと思ったら、どれだけ日数がかかることやら、という思いもありつつ…あ、なんだかんだ立派そうなこと言いながら、過去には、自分もイメージで排除したものがあったり、それどころか、喜んで風評に載ってるようなことがあったり、そのことは、とても恥ずかしいことだし、反省すべきこと。その話、明日以降優先的に書くようにして、ちゃんと謝りたいところが各方面。身近なものになって初めて、いかに今までターゲットとされてきた地域の人々が苦しかったか悔しかったかがようやく少しはわかったかなって思えるようになって、ホント、各方面謝りたいし、自分が恥ずかしいことこのうえなし。
2011年06月12日
コメント(8)
小学生のころの記憶として、覚えているひとつのシーンがあります。学年の違う数人の子供たちで歩いていたので、おそらくは、朝の集団登校の時だったと思うのです。ひとりの年配の男性が私たちの前を歩いていました。今思えば、脳梗塞を患った方なのでしょう、杖を片手に、不自由な半身を引きずるように、ゆっくりと歩いていました。私たちがまもなく追いつこうかというとき、しばし彼は立ち止まって、それから、私たちのほうを振り向きました。手にしていた手袋を落としてしまい、自分では拾うことができずに困っていたのです。私たちに向かって、拾ってほしいと自由の利く手と表情で訴えているようなのですが、顔も半分は麻痺していますし、となると言葉も不自由なので、顔をゆがめて、言葉にならないうめき声を出しているように見えてしまいます。それでも、「手袋を拾ってほしいんだな」ということは伝わったので、どうせ、彼を追い抜いていった先が学校なのだし、近づいて手袋を拾って渡したのだけど、背中に聞いたのは、一緒に登校していた仲間たちの「気持ち悪いからやめなよ」「怖いよ」という声でした。私だって脳梗塞の後遺症とまではわからなかったけど、困ってる人に対して「気持ち悪いから近づくな」だなんて、とても悲しいことだと思いました。もちろん、知らなかったのだと思います。大人になってもまだ、彼らが脳梗塞の後遺症で体が不自由になった人に向かって「気持ち悪い」などということはないでしょう。では、知らなかったら、何をしても何を言っても許されるのでしょうか?私は「否」だと思います。人を傷つけたり、殺してしまったり、あるいは事故を起こしたりもろもろのことにおいて、故意であったか過失であったかによって量刑の差はつくものの、「わざとじゃないんだからいいじゃん」と無罪放免になったりはしません。というのは、少々極端な比較かもしれません。が、例えば、例えばですよ、その手袋を落とした男性にとって、小学生たちが無邪気に「気持ち悪いから逃げろー」と去っていくのと、「ひょっとしたら見返りがあるかも」などと期待した大人が、表面上親切を装って手袋を拾ってくれるのと、どちらがより残酷な行為でしょう。(←その下心ありの大人が、後日、徹底的にその男性を裏切って傷つける可能性とかは、この場合は、考慮しないってことで)うんとですね、動機に悪意はないけど、結果として他人の心身を傷つけたり財産を損なわせたりしてるケースと、動機は下心だったり自己中だったりしても、結果として善行を行ってるケースだったら、私は後者を評価しますってこと、かな?少なくとも、その場に子供たちの親がいたとして、「無邪気な子供の言うことだから許してね」で、すまされる問題ではないと思うわけで。「怪我して松葉杖のお友達に『気持ち悪いからこっちにくるな』って言ってるのと一緒だよ」なり、「病気からよくなろうってがんばってる人なんだよ」なりの指導があった上で、男性に対して、「子供が失礼なこと言って申し訳ありませんでした」という謝罪があって、が普通だと思うわけで、「知らなかったんだから、しょうがないじゃん」ってのは、絶対なしと思ってる。と、書いてくると、「子供は純粋で、大人は穢れているのでしょうか?」と、最初にたてた命題は実はちょっと違っていて、むしろ「無邪気=善」「知らなかったんだから許してやろうよ」みたいな考え方が嫌ってことなのかも。私が師匠と仰いでいる劇作家、ヨコウチケンスケ氏のお芝居に「儚(はかな)」というのがあって、これは、博打打の男が鬼に勝って、絶世の美女を賭けの対価としてもらうんだけど、これが死体を集めて赤子の魂を入れて作られた女で、本当に人間になるには100日間男と交わってはならず、しかし、愛し合った二人は…みたいな話なんですけど。(← ざっくりまとめすぎてて、多分、関係者に見られたら怒られるw)チラシに書かれたストーリーだけ読んで芝居を見に行った時には、顔もスタイルも抜群の美女で、魂が赤ちゃんだなんて、どれほど優しく美しく、理想の女なのだろうって思っちゃってたのね。ところが。この儚と名づけられた女は、下品で粗野で汚らしく、それこそ、その顔でそんなこと言っちゃうの?やっちゃうの?なわけです。これは、自分自身の幻想にガツンとやられた感じで参った。なんだかんだ言いながら、どこかで「赤ちゃん=穢れなき天使」みたなステレオタイプの考え方は捨てられずにいたのよね、きっと。いや確かに天使ではあるけれど。でも、よくよく考えてみれば、生まれてしばらくの赤ん坊がすることといえば、泣いて要求を伝えること。それに対して、親が要求にこたえながら世話をすることで、やがて、微笑を返すようになり、他者を意識するようになり、他者を思いやれるようになり、社会に参加していくわけで。儚は、赤ん坊の精神しかなかったから、泣いて要求することしかできなかったところに、育てる立場の人間が、天涯孤独の粗野な博打打の男だったわけで、他人のことを考えるとか、身だしなみを整えるとか、もう、そういうの何もかもなしで、でも、体だけは大人の女、というすごく困った状況。それを見かねた僧侶が寺で預かることを申し出て、礼儀作法、身支度や料理を教えたことにより、心身ともに美を備えた、本当に美しい女になる。(← まあ、物語としては、そのことによって、どんどん困ったことになるわけだけど)つまり、何が言いたいかというと、「子供の無邪気さはすばらしくて、大人になるにつれ穢れていく」ってのに、私は賛成できないのだ。さまざまな物事を学び、いろいろな人がいるってことを知って、社会性を身につけていくってのは、不用意に人を傷つけなくなるってこと。もちろん、それだけじゃないんだけど、大人になるって、優しくなることだって、私は思うんだ。
2011年06月10日
コメント(10)
なんか昨日からめんどくさいこと書き始めちゃったな~、というわけで今日もこんな時間。じゃあ、やめればいいじゃんとも思うんだけど、珍しく書くために調べたりするうちに落ち着いてきてるので、まあ、鎮静剤と言うかなんというか…しばし、お付き合いくださいさて。昨日、自分で書いた文章の中で、ひとつ気持ち悪い部分がありました。漆にはかぶれたが、他の塗料や接着剤などでかぶれたことはないって言い切ってますが、漆はある程度の量が付着した状態が1時間程度続いた結果なのだけど、とんがり屋仕事で使ってる材料については、指先についた状態で作業を続けたりはしたけれど、漆と同じように、指先よりも敏感な手首の内側にある程度の時間つけたままということはなかったわけで。これは、自分で書いた文章に責任をもてない。ということで、先ほど手首の内側にてパッチテスト。何種類かの塗料、接着剤、ニスを塗って2時間おいてみました。洗い流して、今のところ何の症状もありませんが、念のため、時間を置いて、後日再び報告。ま、こういう行動も、若干やりすぎと言うか、自分でも気持ち悪かったりするのよ。が、前述のとおり文章に書いちゃったのをそのままにしておくのも気持ち悪く、やっちまったものはしょうがない^^;で、今日は「発ガン性リスクだけが、過剰に怖がられてやしないかい?」とか「実はイメージの問題なのに、健康リスクにすりかえてる気もする」とか、「私もイメージで排除してたものがありましたごめんなさい」とか、「本当に子供って純粋で、大人になると穢れるんですか?」とか、いくつか頭の中にはあったんだけど、どれもうまくまとまらず。というか、夜も更けてしまったので、今から書いてると、とんでもなく深い時間になりそうなので、自粛。と言うよりも、眠い…。元気だったら、明日に続く。
2011年06月09日
コメント(0)
と言っても、なにやらどんどん話が広がっていって、いろいろ調べながら、考えをまとめようとしているうちに、結局のところ、どうまとめたらいいのかわからなくなってしまって、そんなこんなで、こんな時間。でも、ここで「じゃあ、おやすみなさい(-_-)zzz」としてしまうと、いつまでたってもまとまらないままモヤモヤしっぱなしで過ごしてしまうことになりそうなので、まあ、とっかかりだけでも。3月11日以降、散々泣いたり騒いだり怒ったり落ち込んだり、そういう私の心の揺れの根底にあるものって何なんだろうって、一応落ち着いてるこの数日考えてみたのです。で。例えば、子供=純粋なものvs大人=穢れたもの昔=いい時代だったvs今=生きにくい時代だ学生・生徒・児童=善vs学校=悪一般市民=被害者vs政治=ずるい一般市民=被害者vs行政=怠惰天然物=健康的vs化合物=健康を害するみたいな、ぱっと見正しいと思われること、そして、そこに添うような意見を言ってれば批判はされないような、そういう構図に対して、疑問を持ってるってのが、私の基本的考え方なんだなってとこに行き着いたしだい。というか、おそらくは積極的に疑うスタンスでいるので、前者に対して必要以上に批判的になったり、後者に対して必要以上に肩入れしたりという逆のアンバランスな思考にいたってる可能性は否定できず、そこは、常に気をつけなければいけないとも思ったのだけど。そういうのを踏まえつつ、例としてあげた構図、本当にそうかな?一番、当たり障りのないあたりで言うと(w)、ここ最近、私の身近なものとなっている漆。いわずと知れた、日本のキング・オブ・天然塗料。が、かぶれます。極端な人は、漆の木の下を通っただけで、あるいは、漆塗りをしている部屋に入っただけで、かぶれちゃったりします。教室の生徒さんでも、まれにそういう方がいて、お気の毒な感じになっちゃいます。平気な人は、漆なめても平気なんですけどね。(← 職人さんなんかは、自分の耐性を確認するのに、そんな荒っぽいことをする人がいるのです)私は、その中間と言うか、おそらくは一般的なカテゴリーに入っていて、空気中の漆成分でかぶれたりはせず、作業でちょこっと肌についても、すぐに拭けば何もおこりません。ただ、べっとりとついたのを気がつかずに一定時間放っておくとかぶれます。おととしの教室で、手首の内側にベトッとつけちゃったのを気がつかずにいて、教室終了後に洗い流したのだけど、そこはてきめんにかぶれました。やけどしたみたいに赤くただれて、治りかけの傷みたいなかゆみが2週間ほど。でも。とんがり屋仕事で、各種絵の具やインク、ニス、接着剤、いろいろ使っているけれど、人工的に合成それらのもので、肌に何らかの症状をみたことはありません。「天然のものが体にいいって決まってるから」と、漆かぶれがひどいのに、ペンキやニスを嫌って、家中のものを漆で塗ってる人がいたら、やっぱりそれは、ちょっと本質を見誤ってるんじゃないかと思うわけです。山菜や野草なんかも、私の得意分野でありますが、天然のそれらには、シュウ酸という成分が含まれていて、これは大量に摂取すると結石の原因となるとされているものです。ほうれん草をたくさん食べたときなどに、口の中に一枚膜がはったような、何かザカザカする違和感を感じることがあると思うのですが、それがシュウ酸です。山菜などの「アク」と呼ばれるのは、このシュウ酸をさしています。なので、適切な処理をして食べる限り、シュウ酸が体に害を及ぼすと言うことはないのですが、こういった天然に存在する健康被害をおこすかもしれない物質よりも、ごく微量の添加物のほうが、ことさらに体に悪いように取り上げられることには、常に疑問を感じているのです。だいたいが、どこからが人工で、どこからが自然なんでしょう?自然をうたった化粧品の売り込みなどで、大手化粧品メーカーの商品を、「石油から生成されてるから危ない」というのがありますが、石油って天然の物質じゃないんですか?なぜか自然派の皆さんって、植物や動物は「自然」とみなすのに、鉱物は「自然」からはじく傾向があって、そこも釈然としないわけです。とか書いてると、結局収拾がつかないままダラダラ書き続けることになるので、もうちょいまとめてから、また。
2011年06月08日
コメント(6)
私の住んでいる町内は、毎週火曜日が資源ごみ回収日。梱包用ビニールなどをはじめとするプラスチックごみは毎週の回収なのだけど、そのほかは、毎月第2、第4火曜日がビン、それ以外がカンといった具合に、隔週で収集内容が異なっている。と、書くとなるときちんと思い出して書けるのだけど、こういうのって、なんだか毎週忘れちゃってて、市で配布しているごみ収集カレンダーにて確認。本日は、ビンの日でありました。ということは、ここで言う「第2火曜日」というのは、今月6月は水曜日から始まっていたから、月が始まって2回目の火曜日を意味するのではなく、2週目の火曜日ってことなのね。なるほど、なるほど。といったん納得しておいて、来週になったら、またカレンダーで確認することうけあいなのだが(^^ゞさて、その他に第2、第4火曜日と言えば、恒例の漆蒔絵教室。これは、もう3年目だし、何となく1週間おきのサイクルが身についていたし、まして、朝のごみ出しで「今日は第2火曜日」と確認しちゃってたんで、特に何も気にすることなく、教室に行ってみたら…( ̄◇ ̄;)…誰もいない…。こちらで言う「第2、第4火曜日」って、その月の2回目、4回目の火曜日ってことだったのね。もう、まぎらわしいんだから!どこかで統一基準決めてくれないかなと、思った今日の出来事でありました。
2011年06月07日
コメント(6)
この週末に出会った衝撃的光景。午前中の片側2車線の幹線道路。まあまあの混み具合で、私が先頭で赤信号で止まったときは、全車線、それなりの車の列。そのとき、向かって右手からやってきたお散歩中の中型犬。信号を渡り始めたとたん、一番手前の車線で止まってる車の目の前で、踏ん張って、飼い主が引こうが押そうが、うんともすんとも動かなくなってしまった。やがて、当然、横断歩道の信号は赤になり、車道の信号も変わろうかというときになって、その場で(と言うことは、停車している車のまん前で)悠々と大を排泄されたお犬さま。そして、近いほうの歩道に戻るかと思いきや、こちらの車道がもう青信号だというのに、堂々とゆっくり横断歩道を歩いていかれました。いやはや^^;「あの犬、どうするんだろう?」と注視してたので、普段どおりに車を発進させるということはしなかったけど、全車線の車を止めての、堂々たる信号無視っぷりに唖然。最近は、しつけのよいペットばかりなので、久しぶりになんというか…。飼い主も飼い主で、紙パックのジュース片手に、犬に引きずられるように歩いてたので、まあ、そんなもんなのかな~と思ったのでありました。
2011年06月05日
コメント(10)
今日はわりとパソコンの調子がいいみたい。ひとまず、よかった。さて。最近気がついたことなんだけど、うちの母は、なぜか青木さんの話をしようとして、必ず一度清水さんと間違える。本人も自覚あるので、「ほら、あの、清水さん…じゃなくて、何だっけ…」ってなことになる。こちらもたびたびなのでわかってて、「ああ、青木さんね。青木さんがどうしたの?」と、会話が続くことになる。言葉の響きとしては遠いけど、3文字で、すごくメジャーってわけじゃないけど、そう珍しい苗字でもないし、漢字で思い描いたときに、何となく近い感じがしなくもない。なので、青木さんと清水さん問題については、まあ、私も「あるかも」と思える範囲なんだけど、本日、母から衝撃の告白。「あとさぁ、二瓶さんの話しようとすると、必ず小林さんと間違えるんだよねぇ」…え?何にもかぶってないし。読みの字数も違えば、苗字としてのメジャー感も違うし、漢字で並べても、ちっとも近い感じがしないし。例えば、ある特定の二瓶さんと小林さんがいて、このふたりの容姿が似ていたとか、同じ職業とか同じ出身地とか同じ特技とか、何か混同しやすい要素があったというなら、ありえない話ではないのだけれど、どうもそういうことではなく、「二瓶」という苗字を言おうとすると、一度「小林」と間違えてしまうらしい。…さっぱりわからないよー(T_T)だれか、この謎をといてください。おまけ。昨日に引き続き「とんがり屋」ブログリンクで申し訳ないのですが、Zunda Bandという被災地支援プロジェクトを、ご紹介。昨日のHEART MARK・VIEWINGに比べたら、今はまだ、すごくすごく規模の小さな活動なのですが、だからこそ、これから一緒に作っていきましょうというスタンスでおります。温かく見守っていただけたら、うれしいです。
2011年06月03日
コメント(4)
ここ数日、またパソコンの動きが悪くて、何かひとつするたびに待機時間がながくてイライラ。というわけで、またしても「とんがり屋ブログ」のご紹介でお茶を濁してみたり(^^ゞ東京で妹たちと行ってきたHEART MARK・VEIWINGの、さらにワークショップが、いよいよ市内で開催されることになり、割と張り切っているわけです。自分とパソコンが元気なときに、もうちょいきちんとした日記で書こうとは思っておりますが、本日はこれにて。
2011年06月02日
コメント(4)
全13件 (13件中 1-13件目)
1