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5月4日、賀茂御祖神社(下鴨神社)境内の御手洗池(みたらしいけ)にて、斎王代御禊の儀が行われました。斎王代御禊の儀は、5月15日の葵祭に先がけて上賀茂神社と隔年交代で行われています。斎王代御禊の儀が行われる御手洗池の井戸の上には、瀬織津姫命を祭神とする井上社があります。井上社の前身は唐崎社で、鴨川と高野川の合流地点東岸にあったと記されています。平安時代の弘仁元年(810年)に賀茂斎院が定められてから、鎌倉時代に途絶えてしまうまで、斎王の御禊は東河(鴨川)の河原で行われていました。斎王代とは、「斎王の代わり」という意味です。斎王は未婚の内親王の中から、陰陽寮の卜占(ぼくせん)によって選ばれていました。昭和31年に葵祭斎王列(女人列)が復活してからは、京都在住の民間人より斎王代が選ばれるようになりました。斎王代以下の女人列は、御手洗池南庭の禊祭場に着席した斎王代以下の女人列。神職よりお祓いを受けます。御禊の儀を行うため、童女を従えて井上社前の御手洗池に降りる斎王代。斎王代は、両手を合わせ指先を御手洗池の水に浸してから、大きな和紙で手を拭き、使った和紙を穢れとともに流します。御禊の儀を終えた斎王代。140年ぶりに復元された下鴨神社の名物「葵祭の申餅(さるもち)」斎王代の御禊の儀が終わったので糺の杜(ただすのもり)を歩いていると、茶店に行列ができていたので覗いてみると、明治初年以来140年ぶりに復元したという美味しそうな餅菓子が売られていました。この申餅は、かつて神前にも御供され、その色は「はねず色」といわれていました。はねず色とは、明け方の一瞬、空面が薄あかね色に染まる様子で、命が生まれる瞬間を表しているそうです。この餅を食べることで、身体を清め、元気の気をいただき、無事息災に過ごせるようにとお祈りした故事にならって復元したとのことです。下鴨神社の御禊の儀や、御生神事にも通じるいわれがある「葵祭の申餅」が復元され、糺の杜で味わえるようになりました。また新しい京都の魅力がひとつ増えました。ありがとうございます☆
May 7, 2011
瀬織津姫の研究を初めてから5年近くになります。最近では、瀬織津姫に関することのブログでの発信は極力避けるようにしてきました。それは、瀬織津姫の知名度が広がるのにつれて、主にスピリチュアル系の方たちによって神名を使われる傾向があるからです。瀬織津姫は歴史的にその神名を伏せられ封印されてきたために、不明なことばかりで、その神秘さと、神名の美しさ、封印され続けてきたという儚さなどから、知る人にとっては大変魅力的な姫神様です。今回は、瀬織津姫がこれまで思われてきた以上に奥深く、日本の古代史を解明するための鍵になるかもしれないと思うようになった経緯を、ごく簡単にですが記してみたいと思います。「瀬織津姫」をブログで検索すると、今では驚く程多くヒットしますが、残念ながらその内容はほとんどが同じようなネタ元からの流用と思えるものばかりです。その理由は、広く公にされている情報が圧倒的に少なく、著書に至っては菊地展明氏の「エミシの国の女神」、「円空と瀬織津姫上」、「円空と瀬織津姫下」の三冊以外に研究資料として価値があると思われるものはほとんどありません。瀬織津姫の研究は、思いのほかハードルが高く、進めていくためには、神道・仏教・歴史・地理・考古学・民俗学・郷土史などから総合的に検証していく必要があります。時間的にも金銭的にも、移動などの労力も大変なものになってしまいます。しかし、例え少しづつでも続けていると、奇跡としか思えないような偶然の重なりによって、僅かではありますが見えてくるものがあります。これまで瀬織津姫が封印されてきた理由は、女帝の持統天皇即位の正当性を示すために伊勢神宮に祭られていた天照大神を男神から女神に性別変更したために、男神の天照大神と並祭されてきた瀬織津姫が邪魔になったためであるとか、持統天皇のバックにいた太政大臣の藤原不比等による藤原・中臣氏の利益のためではないかとされてきましたが、確かにそれも一因かもしれませんが一つの断片的なことに過ぎないと思う様になりました。瀬織津姫を研究することは、日本の古代史を研究することに等しく、それは古事記・日本書紀によって封じられた古代史の真実の扉を開くことでもあるのです。一般の民衆には伏せられてきた瀬織津姫ですが、奥州藤原氏や伊達政宗、織田信長、徳川家康、天海上人、水戸光圀、松尾芭蕉などは知っていた可能性が高いと思われます。権力の中枢や近くにいた一部の人たちは、真の祭祀と真の日本史を知っていたようです。瀬織津姫を調べていくと、剣(鉾)なのか鏡なのか、それとも銅鐸なのか、また龍なのか蛇なのか、また、機織なのか北極星・北斗七星なのか金星なのか分からなくなってきます。現在那智の滝に祭られているのは、大国主命と異名同神とされる大己貴命ですが、大己貴命は熊野では龍神とされ、龍神伝説が残っています。すると、出雲大社の主祭神である大国主命も龍神なのでしょうか。そして、本当の那智の滝神は瀬織津姫ですから、出雲大社(杵築大社)の主祭神も瀬織津姫なのでしょうか。大神神社の主祭神は大物主命ですが、天智天皇の勅命で大津京の守護神として日吉大社西本宮に勧請されると大己貴命として祭られています。そして、日吉大社の神山である牛尾山の琵琶湖を挟んだ対岸に美しくそびえるのが、近江冨士と呼ばれる三上山です。三上山の山頂には牛尾山と同じように、御神体の磐座があり山麓には三上神社がありますが、野洲川の対岸の扇状地には里宮とも呼べそうな地に三輪神社があります。祭神は大国主命です。この近江の三輪神社の近くには弥生時代後半まで栄えた伊勢遺跡があります。この伊勢遺跡はあまり有名ではありませんが、古墳時代が始まるまで栄えた大きなクニで、大形の建物跡や、楼閣を中心とした広場の周囲に建物が円形に並んで建てられていた跡が発見されています。三上山の周辺からは、大形の銅鐸が沢山発掘されていますので、この円形の広場は雨乞いのために風神(気吹戸主命)を呼ぶ祭祀などが行なわれていたのではないでしょうか。伊勢遺跡近くの三輪神社は、大和の大神神社の本家であったとの伝承も地元に残っています。そして、この神社には珍しい祭りが伝わっています。鰌(ドジョウ)祭りです。秋に獲った鰌を翌年の春まで漬け込んでなれ鮨にしたものを神社に奉納します。ところが、神社の伝承では、この鰌のなれ鮨は人身御供の代わりだというのです。大昔は鰌のなれ鮨ではなく、選ばれた少女たちが人身御供とされていました。それは、おそらく巫女として仕えるために親元を離れなければならなかったためでしょう。弥生時代の末期から古墳時代の前期は、ちょうど邪馬台国の女王卑弥呼の時代になります。大和でも、三輪山山麓から数キロ離れた場所に、弥生時代の末期まで栄えた大規模な遺跡があります。唐古・鍵遺跡です。この遺跡で発掘された壺の破片から楼閣の絵が見つかり、絵と同じスタイルの楼閣が現地に復元されています。銅鐸の土型も発掘されていますから、近江と同じように銅鐸の生産を行ない祭祀に使っていたと思われます。しかし、古墳時代に入ると急激に廃れて古墳が造られるなど墓地として使用されるようになります。また近くに、鏡作神社あるように、銅鐸から鏡の製作に変わっていきます。近江の伊勢遺跡と大和の唐古・鍵遺跡は、弥生時代末期まで栄え、銅鐸を作り祭祀に行っていた。そして古墳時代の到来と共に急激に廃れて行ったという点で共通しています。それはきっと、古墳時代に入って三輪山山麓に新しく出現したクニ(纏向遺跡)に吸収・集約されて行ったと考えるのが自然でしょう。纏向遺跡からは銅鐸の破片が発掘されています。銅鐸は火で焼いた後でなければ叩いても壊れませんから、銅鐸を壊す祭祀が行なわれたのかもしれません。弥生時代から古墳時代への変遷は、銅鐸から鏡への祭祀変更を意味しています。風の神から太陽の神です。それは、青銅器から鉄器への変更も意味しているようです。大神神社の南側の初瀬川付近には「金屋」という地名が残っています。この金屋とは、製鉄など精錬に係わる地名です。私はこれまで、近江にクニの規模を持つ遺跡があるということを知りませんでした。近江は伝承では、継体天皇の出身地であったり、神功皇后の息長氏の本拠地であったりと、古代史的にも注目されてよい地域なのですが、大和に比べるとほとんど無視されているような状態です。もしかすると、邪馬台国の女王卑弥呼は近江出身かもしれません。また邪馬台国自体が近江にあったのかもしれません。私たちは、飛鳥時代以前の正確な日本の古代史を知りません。中国の歴史書に倭の五王の名が載っていますが、その五王が誰に当るのかさへ推測に過ぎないのです。封印された日本の古代史を解く鍵は、もしかすると瀬織津姫にあるのかもしれないと思うこともあります。瀬織津姫の真実は、現在公表され認識されている何倍も奥深く、私たちにとって衝撃的なことかもしれません。ようやく瀬織津姫が一般の人たちにも知られるようになってきたことは、瀬織津姫の真実と日本の古代史の真実を、私たちが受け入れる準備が整いつつあることを示しているのかもしれません。ありがとうございます☆
February 24, 2011
毎年同じことを言ってしまいますが、「今年も本当にはやいものでもう大晦日になりました」本年も、この拙いブログをご覧いただきまして、大変ありがとうございました。皆様への感謝の気持を込めて、毎年10月の第3日曜日に行われている京都・嵐山の野宮神社(ののみやじんじゃ)の斎宮行列の模様をお伝えいたします。まるで平安王朝絵巻を見るような祭礼の様子を、お楽しみいただければ幸いです。野宮神社は、平安時代に伊勢神宮の斎王に選ばれた皇女が、神宮に赴くまでの数年間潔斎の日々を送られたところにあります。都を遠く離れて、伊勢まで赴かれた斎王たちを偲んで始められたのが、この斎宮行列です。野宮神社より出発する斎宮代。 斎宮代とは葵祭の斎王代と同じ様に斎宮の代役という意味です。 伊勢斎王は賀茂斎王と区別するため斎宮とも言われていました。野宮神社前から斎宮行列の輿に乗った斎宮代は、嵐山の竹林の中の小道を大堰川(おおいがわ)に向います。行列は、商店街やJR嵯峨嵐山駅前、嵐電嵐山駅前を巡ってから、一旦渡月橋を渡り嵐山公園で記念撮影等を行います。その後、再び渡月橋を渡り大堰川上流の河原に作られた斎場で、禊の儀などの祭礼が行われます。十二単(じゅにひとえ)を優雅に着こなし輿に揺られる斎宮代。大堰川の河原に仮設された斎場で、禊を行う斎宮代。指先を大堰川の水に浸します。禊の儀が終わると、天神地祗に祈りを捧げます。最後に王朝風の舞が奉納されました。野宮神社の主祭神は、野宮大神とされていて具体的な神名は伏せられています。大堰川の川神としては、渡月橋北岸右側のみやげもの店の隅を入った所に、延喜式内社大井神社があります。現在神社の案内板に表示されている神名は、宇賀霊神(うかのみたまのかみ)ですが、実際に祭られているのは、大綾津日神、大直日神、神直日神の三神で全て瀬織津姫の異名です。また、大堰川は渡月橋より下流では桂川と川名が変わりますが、南区の久世橋西岸には延喜式内社の綾戸國中神社があり、大綾津日神、大直日神、神直日神と素盞嗚尊が祭られています。さらに、太秦の広隆寺の南には、秦氏が築いた大堰川の堤にも関係する市川神社があり、祭神は速秋津彦と速秋津姫が祭られていますが、速秋津姫は祓戸四神の中の一神であり、瀬織津姫の異名でもあります。このように、大堰川の川神は瀬織津姫であるといえるでしょう。野宮大神も潔斎の地の神であり、禊祓いの神とするのが自然ですから、やはり瀬織津姫であると思われます。ありがとうございます☆☆☆
December 30, 2010
卑弥呼の宮殿跡ともいわれている三輪山麓の纒向(まきむく)遺跡から、またまた大発見のニュースが伝えられました。卑弥呼の神殿とも推定されている大型建物の南側に掘られた穴の中から、二千個を越える大量の桃の種が発見された。未成熟の種が含まれていることから、果実のままで埋められた可能性が高いという。桃は古代中国で不老長寿や魔除けの呪力を持つと信じられていた神聖な果実です。中国神話では、全ての天女の頂点に立つ女神・西王母(さいおうぼ)が桃源郷で、果実が実るまで三千年の歳月がかかるという不老長寿の「王母桃」を所有していて、三千年に一度、神々や仙人などが招待され宴が開かれたと伝えられています。纒向遺跡に、邪馬台国の女王卑弥呼が本当にいたかどうかは別にしても、3世紀の中頃の神事に桃の果実が用いられていたと考えられることは、古代祭祀を解明するうえでとても大きな意味を持ちます。先日の斉明天皇陵と考えられる八角形墳の発見は、中国より道教思想がもたらされ、朝廷内でも受け入れられていたことを証明するものでしたが、それは7世紀中頃のことです。纒向遺跡は、邪馬台国の女王卑弥呼の時代の遺跡ですから、3世紀中頃まで遡ります。弥生時代から古墳時代への移行期に、既に中国から「神仙思想」や「道教思想」がもたらされ祭祀に使われていた可能性が出てきました。7世紀の古代最大の合戦と言われる壬申の乱で、尾張から近江に攻め上った大海人皇子(後の天武天皇)は、関ヶ原で将兵の士気を高めるために一人ひとりに桃を配ったと伝えられています。桃は魔を除い、敵を除い、不老長寿の呪力を持つと広く信じられていたからです。近年画期的な発掘が相次ぎ、ますます面白くなってきている古代史です。続く
September 19, 2010
9月3日から一週間、東京の実家を拠点に信州と東北を巡ってきました。東北から実家に戻った翌朝の新聞に、明日香牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)の記事が大きく掲載されていました。古墳の周りの敷石の状態から、天皇家を示す八角形墳であることが分かり、斉明天皇陵であることが考古学的見地から極めて有力であると記されていました。東北から戻ってそうそうの、このビックニュースに大変驚きました。実家から京都に戻ると、さっそく現地見学会に行ってきました。近鉄線の飛鳥駅から、強い日差しを浴びながら10分ほど歩いて行くと、もの凄く長い行列が見えてきました。11、12日の2日間で7000人以上が訪れたそうです。これは昨年、「卑弥呼の宮殿発見か」と注目された三輪の纏向遺跡(まきむくいせき)以来です。1時間以上の待ち時間を耐えて、やっと見ることが出来ました。古墳の周囲の敷石が発見され八角墳であることが確認されました。敷石の外側に河原石を敷き詰めたバラスト敷があります。墳丘部に石柱が露出しているのは、鎌倉~南北朝期の盗掘跡です。以前から公開されてきた石室の入り口です。この石室は一個の巨大な凝灰岩をくり抜いて造られています。斉明天皇は、中大兄皇子(天智天皇)の母親です。645年の大化改新で、中大兄皇子は中臣鎌足と共に宮中クーデター(乙巳の変)を起こし、蘇我入鹿を母親(当時は皇極天皇)の目前で暗殺します。このクーデターの原因は、朝鮮半島情勢をめぐる外交方針の対立だったとされています。斉明天皇と中大兄皇子は、百済救援を貫いています。斉明天皇崩御の地も、661年九州朝倉宮で百済救援のために出兵していた最中のことでした。斉明天皇崩御の後は、中大兄皇子が百済救援に奔走しますが、663年倭の水軍は白村江の海戦で唐・新羅連合軍に惨敗してしまいます。百済復興の夢は儚く消え去り、中大兄皇子は百済遺民の救援と唐・新羅連合軍の侵略に備えて、対馬や筑紫(九州北部)などに山城など防衛施設の構築に全力を傾けます。668年に、唐・新羅連合軍によって高句麗が亡ぼされると、いよいよ倭国への侵略が始まるのではないかと緊張が高まりましたが、幸いなことに唐の朝鮮半島侵出を恐れた新羅と唐との連合軍同士の戦いが始まり、倭国への侵略の危機はひとまず過ぎ去りました。それどころか、倭国は唐と新羅の間に立って、有利な外交展開を行うことも可能になったのです。そして、中大兄皇子は近江の大津に遷都して、大津京で天智天皇として即位します。この大津京は、百済遺民の貴族や官僚たちの多くが朝廷で登用され、まるで百済亡命政府の様でした。また、発掘された百済遺民の住居跡にはオンドル(床暖房)が備えられているなど、文化的にもとても質の高い都でありました。私が何故、今回の発掘調査で分かった八角形墳の斉明天皇陵に注目したのかというと、先ず八角形・八方位が、中国の道教思想で宇宙観を表し、天皇が死後も宇宙の王として君臨することを願ったものであり、平安時代の陰陽道にも続く道教思想が取り入れられていることです。また、斉明天皇は飛鳥京に運河や石垣を築くなど、多くの土木工事を行なった天皇としても有名です。平成12年の正月に、飛鳥寺の南方にある酒船石の丘陵麓から亀形石造物遺跡が発見されました。谷の水を引いた湧水施設と、花崗岩を小判形に成形して水槽状にくり抜いた小判形石造物と、それに続く花崗岩を亀形に成形彫刻して円形の水槽状にくり抜いた亀形石造物を中心に、約12メートル四方に敷石を敷き詰めた遺跡です。発掘当時は、飛鳥京の迎賓用の庭園ともいわれていましたが、現在では祭祀のための禊を行なう聖地ではないかとされています。斉明朝に造られ、平安時代の清和天皇貞観元年(859年)の神宝が出土していますので、禊の場所として、都が飛鳥から奈良、京都に遷っても、200年以上にもわたって使われ続けたていたことになります。斉明天皇が、百済復興軍の出兵指揮のため九州朝倉宮に行幸されたとき、中大兄皇子によって創建されたと伝えられているのが佐賀県吉野ヶ里町にある田出神社です。祭神は、瀬織津姫の別名である撞榊厳魂天疎向津姫命(つきさかきいつみたまあまさかるむかつひめのみこと)です。熊野では、大斎原や那智滝の祓い神として、筑紫の香椎宮では三韓征伐のさいに神功皇后に懸かり神意を伝え、軍船を守り敵を払い除けた神でした。近江の大津京に遷都後、中大兄皇子は即位して天智天皇になりますが、大津京でも都の守護神として、中臣鎌足の従兄弟にあたる右大臣中臣金に命じて、瀬織津姫命を祭る佐久奈度神社、琵琶湖の風の神とされた伊吹戸主命(祓戸四神の内の一神ともされている)を祭る意布岐神社(現在の志那神社)を創建しています。このように、斉明天皇、天智天皇は、八角形墳にみるように中国の道教思想を取り入れると共に、禊祓い、敵を払い除ける女神として瀬織津姫命を信仰していたことが分かります。続く
September 14, 2010
来週は9月だというのに、まだまだ猛暑が続いていますね。私は例年夏になると、どこか気持ちがウキウキしてくるのに、今年はあまりの暑さにうんざりしてしまっています。京都では、「祗園祭りで夏が始まり、五山送り火(大文字焼き)で夏が終わる」と言われていますが、子供達が楽しみにしている(お菓子がもらえるので)地蔵盆が終わっても、夏が終わりそうな気配すら感じられません。今年の送り火は、自宅のあるマンションの屋上から見ることにしました。いつも屋上はカギが掛けられていて立ち入ることが出来ないのですが、この日ばかりは管理人さんが開放してくれます。京都の人にとって、五山送り火は特別なものです。東山にある如意ヶ岳(大文字山)に「大」の送り火が灯されるのは午後8時です。点火の5分位前に行くと、すでにマンションの人たちが沢山集まっていました。日常ではあまり顔を合わせることも少ないので、どんな人が住んでいるのか分からなかったのですが、お老寄りに混じって子供たちの姿や若い人も多く、ほのぼのとした雰囲気だったのが新鮮でした。五山の送り火の中で最初に点火されるのが、如意ヶ岳の「大」です。「大」の字は人の形を表し、人間の七十五の煩悩を燃やし尽くすといった意味があるとの言い伝えられているそうです。また一説によると、自然界の「五大要素」(地・水・火・風・空)の「大」を表しているともいわれています。午後8時10分に点火されるのが、京都市街から見て北東方向、松ヶ崎の「妙法」です。「法」と「妙」は場所がけっこう離れているので、別々の文字であるかのように見えます。「妙」は上半分位しか見えませんでした。「妙」の左隣には文字ではなく「舟形」が灯されるのですが、これもマンションからは見えませんでした。午後8時15分、金閣寺の北にある大文字山で「大」が点火されます。この「大」は東山如意ヶ岳のものと区別するために「左大文字」と呼ばれています。送り火の中で最後に点火されるのが、北嵯峨の「鳥居形」です。これも文字ではありません。北嵯峨は、さすがに京都中心部からは遠く、これも見ることが出来ませんでしたが、昨年嵐山の灯篭流しに行ったときに見ています。五山送り火は、お盆に帰って来ている先祖の霊が、ふたたび霊界へ戻るときに迷うことのない様に、足元を照らし、道を浄化するために行なわれているそうです。浄化は「水」ばかりではなく「火」によっても行われます。また「火」は「日」でもあるのです。「日」は「光」ですね。続く
August 27, 2010
5月15日、京の都大路は葵祭の行列を見物する人たちで、大変な賑わいとなりました。それは、源氏物語の書かれた平安時代も同じだったようです。しかし、現在の行列では、十二ひとえを着て輿(およよ)に乗る斎王代に人気が集中しますが、源氏物語では、参列することになった光源氏の姿を一目見ようとする人々で大混乱。そのうえ、光源氏の正妻・葵上の車と、彼の寵愛を受けた愛人・六条御息所の車が、見物の場所をめぐって、「車争い」の乱闘騒ぎを起こしてしまうのです。午前中、鴨川に架かる出町橋の上で行列を見物した私は、一度自宅に戻って昼食をとってから、午後は加茂街道に行ってみることにしました。京都市営地下鉄の北大路駅から加茂街道に出ると、行列見物の人たちで大変混雑していました。しかし、北山大橋の交差点を渡ってしばらく行くと、まだ空いている場所が見付けられる様になってきました。加茂街道は賀茂川の堤防の上を通っています。行列の本当の主役は、天皇の名代である勅使(ちょくし)です。源氏物語の光源氏も、こんな感じで参列していたのでしょうか。斎王代を中心とする女人列は美しく華やかです。新緑に十二ひとえが映えて美しい斎王代。今年の葵祭も、晴天の中で無事に終りました。続く
May 17, 2010
今日、5月15日は葵祭の日でした。そういえば、葵祭の日は去年も一昨年も今日と同じように快晴でした。お天気に恵まれる日みたいです。今年の葵祭は土曜日に当っているので、例年以上の人出が予想されていました。葵祭は平日でもかなり混雑ていましたから、どこで見物しようかずっと迷っていたのですが、取り合えず京阪電車の出町柳駅まで行ってみることにしました。出町柳駅は下鴨神社に行くための最寄り駅です。葵祭の行列を見物しようと、多くの人たちが下鴨神社に続く参道に向って歩いていました。すでに午前10時を過ぎていたので、見物に良い場所は残ってないだろうと思っていたのですが、ふと鴨川に架かる出町橋を見ると、まだ歩道の最前列に空きがあるのが見えました。何とかギリギリのところで、良い場所を確保することが出来ました。見物に来た人の多くは、葵祭の行列が実際にどの道を通って来るのか分かっていないようで、出町橋は穴場になっていたのです。それでも、一度人が集まり始めると、それを見た人がまた集まって来て、直ぐに歩道は人でいっぱいになってしまいました。予定よりも少し遅れて、午前11時20分ころから40分ごろにかけて、葵祭の行列は通り過ぎて行きました。暑さのせいか、牛車の牛はずいぶんお疲れのようでした。今年の斎王代は六波羅蜜寺の娘さんです。 六波羅蜜寺は平清盛を祀っていますから平家ゆかりの斎王代になります。着物で馬に乗る女性が平安時代にもいたのですね。古さを感じさせない、現代にも通じる美を感じました。女人列の長さからも、平安時代の宮中では多くの女性が職に就いていたことが分かります。続く
May 15, 2010
5月1日から4日まで神泉苑祭が行われています。延暦13年(794年)平安京の造営に伴い、大内裏の南に広がっていた湿地帯を利用して造られた禁苑(天皇の庭)が神泉苑の始まりです。当初は天皇や貴族たちが、舟遊、観花、観月、曲水宴、弓射、相撲などの行事や遊宴をするために使われていましたが、常に清泉が湧き出す清浄な場所だったことから神泉苑と命名され、雨乞いや疫病を封じるための神事にも使用されるようになりました。天長元年(824年)春の旱魃では、淳和天皇の勅命により弘法大師空海が、天竺(インド)より善女龍王を呼び寄せて、祈雨の法を行い雨を降らせたと伝えられています。貞観5年(863年)には、初めての御霊会(ごりょうえ)が行われたことから、祇園祭発祥の地でもあります。善女龍王社の前には鉾が立てられ、神の宿る鉾で悪霊を祓い疫病を封じています。祇園祭の山鉾は、鉾を車に乗せて飾りを付けたもので、京の街中を巡ることで疫病封じの御利益を得るためのものです。徳川家康による二条城の築城で、神泉苑は敷地の大半を城に転用されてしまいますが、平安京以来の苑の風情と美しさから往時の風雅を偲ぶことが出来ます。5月3日の午後6時からは、静御前の舞が行われました。静御前もこの神泉苑で雨乞いの舞を踊りました。義経記には次のように記されています。後白河法皇が神泉苑に百人の白拍子を召して雨乞いをさせた。九十九人舞ったが効険はなく、最後に静御前が舞うとたちまち雨が降って国土が安泰になった。法皇は静御前に「日本一」の称号を賜った。その静御前の舞を見初めたのが義経でした。神泉苑は、義経と静御前、二人の出愛の場所でもあるのです。続く
May 3, 2010
4月上旬に訪れた九州旅行でメインになったのが、八女津媛神社(やめつひめじんじゃ)でした。「日本書紀」によると、景行天皇が八女の県(やめのあがた)に巡行されたとき、「東の山々は幾重にも重なってまことに美しい、あの山に誰か住んでいるか」と尋ねられました。そのとき、水沼の県主猿大海(さるのおおあま)が、「山中に女神あり、その名を八女津媛といい、常に山中にいる」と答えたことから八女の地名が起ったと記されています。八女津媛神社はこの八女津媛を祭った神社で、創建は養老三年三月(719)と伝えられています。八女の地名の起こりにもなった八女津媛は、弥生時代から古墳時代まで各地の豪族が治めていたクニの、女首長であり祭祀を行なっていた巫女の一人だったと思われます。この時代は、魏志倭人伝に記されている邪馬台国の女王卑弥呼の様に、巫女の力を持った各地の女首長が、鬼道や呪術といった宗教的な行いによってクニを治めていたのです。「鬼道」の「鬼」とは、古代では「神」と同じ意味を持っていましたので、「鬼道」とは「神道」と同じことになります。「肥前風土記」には、17人中6人は女酋(女首長)であったと記されていますし、「豊後風土記」には、速見郡に速津媛、日田郡に久津媛、五馬に五馬媛(いつまひめ)といった女酋の活躍が記されています。この中の速津媛は、天智天皇の御代に瀬織津姫と共に祓戸神として習合される、速吸瀬戸の海の女神、速秋津姫である可能性が高い思われます。「日本書紀」には、この八女津媛の他に、九州の女酋では八女市に隣接するみやま市山門(やまと)にいた田油津媛(たぶらつひめ)を、神功皇后が討ったと書かれています。この山門の田油津媛こそ、邪馬台国の卑弥呼とする説が江戸時代からあります。そして、田油津媛のいた山門は有明海に注ぐ矢部川沿いにありますが、この矢部川の源流部こそ矢部であり、八女津媛神社の所在地なのです。また、矢部川の流域には、瀬織津姫を祭る神社が4社確認されていることからも、とても興味深い地域です。・釜屋神社 八女市立花町大字田形・釜屋神社 八女市黒木町大字湯辺田・潮斎神社 みやま市瀬高町文廣・若宮神社 みやま市瀬高町大江字前田「古事記」、「日本書紀」、「風土記」の記述から、九州に女首長が12人もいたことになり、これに卑弥呼と台与(とよ)を加えると14人にもなります。これは、決して九州だけの特徴ではなく、「日本書紀」の神武東征には、「名草邑に到着し名草戸畔(なぐさとべ)という女酋を誅殺した」とか、「熊野の荒坂の津で丹敷戸畔(にしきとべ)という女賊を誅した」とあります。「出雲風土記」の地名伝承にも、宇夜都弁命(うやつべのみこと)、伊毘志都幣命(いびしつべのみこと)、波多都美命(はたつみのみこと)の名がみえます。この様に、古代の文献には女首長たちの記録が残されているのですが、それ以上の痕跡を求めるとなると途端に難しくなります。八女津媛がいたとされる八女津媛神社は、その痕跡を現在に伝える貴重な場所なのです。出発前に行き方を調べてみると、八女津媛神社のある福岡県八女市矢部村北矢部字神窟は、簡単には行き難いところだと分かってきました。八女市は福岡県といっても、有明海に近い県の南西部にあります。矢部村に行くには、鹿児島本線の羽犬塚駅から堀川バスに乗り換えて行くことになります。かつて、矢部川の中流部にある黒木町まで国鉄矢部線が走っていましたが、既に廃止されてしまっています。羽犬塚駅から矢部行きのバスに乗ったとしても、八女津媛神社最寄の石川内バス停まで1時間半以上かかるうえに、バスもほぼ2時間毎位しか運行されていないのです。そのうえバス停から神社まで、約1,3キロの山道を登らなくてはなりません。これでは、八女津媛神社を訪れるだけで一日がかりになってしまいます。そこで、久留米市内でレンタカーを借りて出かけることにしました。久留米市内の混雑を避けるために、高速の九州自動車道に入り広川インターで一般道に出ました。しばらく国道3号線を走り、八女市内に入ってから国道442号線に左折します。あとは矢部村まで一本道です。途中、黒木町の手前で瀬織津姫を祭る二つの釜屋神社に参拝のため寄道しました。この釜屋神社は、矢部川の両方の岸に一ヶ所ずつ、つまり計二ヶ所ある不思議な神社です。元は川の向こう側にある一ヶ所だけでしたが、江戸時代初期に久留米柳川家領だったところが、矢部川を挟んで立花家領と有馬家領に分けられてしまったので、黒木町側にも釜屋神社が新しく造られたからでした。祭神は、罔像女神(みつはのめのみこと)、瀬織津姫命、速秋津姫命の三柱のはずなのですが、速秋津姫命の神名がありませんでした。女優の黒木瞳さんの出身地でもある黒木町を抜けると、国道とはいえカーブの多い山道に入って行きます。山里の景色の中を安全運転で走りますが、けっこう遠く感じます。やがて坂道が急になりトンネルを連続して抜けると、美しい桜並木の湖畔に出ました。この湖は、矢部川の渓谷を日向神(ひゅうがみ)ダムによって堰き止めて造った人造湖でした。渓谷の景色が、湖から再び渓流に戻るとやがて見えて来る矢部中学校の角の交差点を左折して、星野村に続く狭く見通しのきかない県道をしばらく登って行くと、突然左側に八女津媛神社の鳥居と石段が見えました。鳥居の前には狭いスペースしかありませんでしたが、県道は車のすれ違いが出来ないほど狭かったので、とりあえず駐車させてもらいました。そして、参道の急な石段を登って行ったのですが、神社らしい場所はどこにもありませんでした。道を少し歩いて行くと、右手に八女津媛神社の資料館がありましたが、鍵がかかっていて誰もいません。資料館の前の道をさらに進むと、舗装された車道に出てしまいました。どうも、車を駐めたところから県道を先に行くと、この道に続く分岐点があるみたいです。再び車に戻って、県道を走ると予想通りに左折して山を登って行く林道を見つけました。その林道を登って行くと、先ほどの資料館の入り口が見えたので、そのまま車で登っていきました。山の沢に沿ったかなり急な坂道になったので、本当にこの道で良いのか、行き過ぎてないのか不安になりましたが、やがて鳥居が見えてきたのでほっとしました。車をなるべく平らな場所に駐車させてから、やっと八女津媛神社に参拝することが出来ました。途中で二ヵ所ある釜屋神社に寄道したこともあって、久留米市内から2時間近くもかかってしまいました。大きな磐窟の傍らに建つ八女津媛神社八女津媛神社は、私の想像以上の場所にありました。「山中に女神あり、その名を八女津媛といい、常に山中にいる」との「日本書紀」の記述の通り、険しい山中にある磐座が大きくせり出した磐窟状のところです。この場所で、八女津媛は神祭りを行い、神の言葉を語っていたことでしょう。吉野ヶ里では復元された主祭殿の様に、神殿を建てて神祭りが行われていましたが、この地では山中の磐窟が神と交信するための聖地だったのです。社殿の前に立つ八女津媛の像社殿の前には八女津媛の像が立てられていました。よく見ると右手の下あたりに修復をした痕が分かりますが、この像のある場所(というよりもこの八女津媛の像)からは、とても素晴らしい癒しのエネルギーが放射されていました。私はしばらく手のひらを八女津媛の像に向けて、癒しのエネルギーを感じていました。素晴らしい癒しのパワースポットです。続く
April 30, 2010
4月の中旬も過ぎたというのに、京都でも未だに肌寒い日が続いています。先日の日曜日(4月18日)は、久しぶりにお天気も良く温かかったので、蹴上(けあげ)にあります日向大神宮(ひむかいだいじんぐう)に行ってきました。日向大神宮は、江戸と京都を結ぶ東海道の三条大橋から山科に向って、東山の坂道を登って行き、頂上付近に立つ一の鳥居から入った東山の山中にあります。現在では、京都市営地下鉄東西線が山科まで旧東海道の地下を走っているので、蹴上駅(けあげえき)で降りれば一の鳥居まで徒歩数分で行くことができます。遅咲きの枝垂桜も美しい日向大神宮右側が外宮、石段の奥に見える鳥居の先が内宮日向大神宮には、伊勢神宮の様に外宮と内宮があります。元伊勢の一つだったかもしれないとも言われていて、位置的にも丹後の籠神社(このじんじゃ)と伊勢神宮を結んだ中間地点にあることも偶然とは思えません。しかし、社伝によれば、第23代顕宗天皇(けんぞうてんのう)の御代に、筑紫日向(つくしのひむか)の高千穂の峯の神蹟より神霊を移して創建されたとあります。元伊勢として創建されたのだとすれば雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)の御代だったと思われます。御祭神は次の通りです。外宮 天津彦火瓊々杵尊(あまつひこほににぎのみこと)、天之御中主神(あまのみなかぬしのかみ)内宮 天照大御神(あまてらすおおみかみ)、多紀理毘賣命(たぎりひめのみこと)、市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)、多岐都比賣命(たぎつひめのみこと)伊勢神宮外宮の祭神は豊受大神ですが、元伊勢の籠神社の伝承によると豊受大神=天之御中主神ですので、日向大神宮外宮にも伊勢神宮と同じ神が祭られているとみてよさそうです。天津彦火瓊々杵尊は、天孫降臨をした瓊々杵尊ですから、筑紫日向の高千穂の峯の神です。内宮は、天照大御神の他に、宗像三神を一緒に祭っています。内宮神殿の向って左側に見える荒祭宮内宮の神殿左側には、小さいながらも荒祭宮が祭られています。御祭神は、御由緒書にも載っていませんでしたが、社務所にいた巫女さんに教えていただくことができました。天照大御神荒魂、月読命、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、栲機千々比売大神(たくはたちじひめおおかみ)の四柱です。伊勢神宮内宮の荒祭宮に祭られているのは、天照坐皇大御神荒魂の一柱ですが、日向大神宮では月読命、高御産巣日神、栲機千々比売大神と共に祭られています。栲機千々比売大神は、天照大神の御子の天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)の后神であり、天孫降臨をした瓊々杵尊(ににぎのみこと)の母である栲幡千々姫(たくはたちじひめ)のことです。日向大神宮では、瓊々杵尊は外宮に祭られています。天照大神荒魂は、「倭姫世紀」には瀬織津姫命と記され、兵庫県西宮市の廣田神社、神奈川県川崎市の天照皇大神などでは、撞榊厳魂天疎向津姫命(つきさかきいつみたまあまさかるむかつひめのみこと)とされているので、こちらでも他の神名が伝わっていないか先ほどの巫女さんに聞いてみましたが、他の神名の伝承はないとのことでした。日向大神宮は、外宮、内宮、荒祭宮まで揃っていることから、伊勢神宮からの分霊遷神の様にも思われることも多いそうでが、社伝では高千穂の峯の御神蹟からの遷したものであり、祭神からも天孫降臨の瓊々杵尊や、その母神である栲機千々比売大神を祭っていること、さらに山中にある天岩戸には戸隠神社が祭られていることなどから、高千穂との関係も強い神社です。また、神社の位置だけではなく、外宮の祭神からも、元伊勢であった可能性も高いと思われます。別宮の福土神社 山つつじの花が美しく咲いていました日向大神宮を訪れて最初に感じたことは、東山の山中の自然環境に恵まれた神社ではあるけれど、あまり御神気は感じられない、もしかしたら封印されているのかもしれないと思ったくらいでした。ところが、社務所で巫女さんと話していると、その巫女さんの魂がとても古い魂だと感じられました。それから、私の中でチューニングが切り換わったのでしょうか。それまで感じられなかった、御神気を受け取れる様になりました。それは確かに、一見弱く感じられる御神気でしたがとても古い時代からのもので、調和と癒しと叡智を感じ取ることが出来ました。続く
April 24, 2010
横浜・山下公園に係留保存されている氷川丸は、かつて横浜~シアトル・バンクーバーを結ぶ北太平洋航路の客貨船でした。最新の設備と行き届いたサービスが人気を呼び、昭和7年に喜劇王チャーリー・チャプリンが来日されたときにも乗船されました。氷川丸の船内 アールデコ様式のインテリアで造られた1等サロン広々とした1等ダイニングルームチャップリンも使用した1等特別室のベットルーム氷川丸は昭和5年に誕生して以来30年間、太平洋戦争を乗り越えて活躍した「強運の海の女王」です。昭和16年12月に太平洋戦争が始まると、海軍に徴用され病院船として使用されることになりました。真っ白の船体に緑色の帯を引き、大きな赤十字のマークをペイントしたうえに、夜間はイルミネーションを輝かせての航海になりました。チャップリンが使用した豪華な1等特別室も院長室になりました。兵士たちからは「白鳥」と呼ばれましたが、南太平洋の最前線から傷病兵を帰還させる航海はいつも危険と隣り合わせでした。実際に3回も機雷に触れて、あわや沈没という危機にも遭いました。しかし幸いなことに氷川丸は、荒海の北太平洋航路を航海するために特に丈夫に造られていたため、触雷しても沈没を免れ悪夢の様な太平洋戦争で生き残ることが出来ました。戦前の日本郵船が誇った太平洋航路の大形客貨船の内、生き残ることが出来たのは氷川丸ただ一隻だけでした。姉妹船として建造された平安丸、日枝丸や、サンフランシスコ航路で使用されていた少し大形の浅間丸、龍田丸、鎌倉丸は、いずれも撃沈されてしまい太平洋の海底深く眠っています。戦後しばらくは南太平洋の戦場から引き上げる復員兵の輸送や国内船として使用されましたが、昭和27年にサンフランシコ平和条約の締結によって日本の占領が解除されると、再び北太平洋航路の客貨船として横浜~シアトル・バンクーバーの航海に復帰することが出来ました。そして、飛行機の発達によって昭和35年に引退してからは、山下公園のシンボルとして多くの人に親しまれています。「強運の海の女王」の守り神は、氷川丸のブリッジ(操舵室)の神棚に今も祀られています。操舵室の神棚には氷川神社の御札が安置されています。氷川神社は埼玉県さいたま市大宮区にあります。成務天皇の時代に、出雲の兄多毛比命(えたもひのみこと)が武蔵国造となり、氷川神社を崇敬したと伝えられています。埼玉県一帯は出雲族が開拓した土地で、武蔵国造は出雲国造と同族とされ、社名の「氷川」も出雲の「簸川」に由来するという説もあります。現在の主祭神は以下の三柱です。・須佐之男命(すさのおのみこと)・奇稲田姫命(くしなだひめのみこと)・大己貴命(おおなむちのみこと)しかし、ご神殿の裏の禁足地に大切に祭られている女神様があります。祓殿として瀬織津姫が祭られているのです。愛知県尾張一ノ宮市の真清田神社でも同じ様に、ご神殿裏の禁足地に瀬織津姫を三明神社として大切に祭っています。また、愛知県名古屋市熱田区の熱田神宮でもご神殿横の禁足地に一之御前神社として瀬織津姫を秘祭しています。神奈川県横浜市神奈川区の一之宮神社は、大宮の氷川神社より1561年(永禄4年)に勧請されたものですが、境内にある由緒書きの看板には瀬織津姫の神名はありませんでしたが、神奈川県神社庁ホームページの神社検索をすると一之宮神社の由緒を見ることが出来ます。何と、ここではご祭神に瀬織津姫が含まれているのです。・素盞嗚命 ( すさのおのみこと ) ・保食命 ( うけもちのみこと ) ・事代主命 ( ことしろぬしのみこと ) ・面足命 ( おもだるのみこと ) ・海津見命 ( わたつみのみこと ) ・水速廼女命 ( みずはやのめのみこと ) ・塩土老命 ( しおつちおじのみこと ) ・船玉姫命 ( ふなだまひめのみこと ) ・表筒男命 ( うわつつのおのみこと ) ・豊玉姫命 ( とよたまひめのみこと ) ・瀬織津姫命 ( せおりつひめのみこと )一之宮神社の側でも、ご祭神に瀬織津姫が含まれていることは承知しているのですが、それを公にすることを躊躇ってきたのにも係わらず、神社庁のホームページでは瀬織津姫が祭られていることを公表しているのです。これも時代の流れなのかもしれませんが、ホームページを作る際に事務的に載せてしまっただけなのかもしれません。瀬織津姫は、伊勢神宮では天照坐皇大御神の荒魂として荒祭宮に祭られ、兵庫県西宮市の廣田神社では、天照大神荒魂=撞榊厳魂天疎向津姫命(つきさかきいつみたまあまさかるむかつひめのみこと)として大切に祭られています。撞榊厳魂天疎向津姫命は記紀の記述によると、三韓征伐にあたり神功皇后に降りて神託を与え、住吉神と共に船団を守護したと伝えられています。瀬織津姫は、海の守り神・船の守り神でもあるのです。「強運の海の女王」氷川丸の守護神は瀬織津姫だったのです。続く
April 2, 2010
富士山西麓の白糸の滝は、天然記念物にも指定されている国の名勝地ですが、そのすぐ上流に白糸の滝の女神様が祭られていることは、あまり知られていません。白糸の滝 いちばん左側の滝は朝霧高原を源とする芝川の流れですが、その右側に続くたくさんの小さな滝は、富士山の雪解け水が溶岩断層から湧き出している伏流水です。水量は毎秒1,5トン、幅200メートル、高さ20メートルの崖から絹糸を垂らしたように流れる様子から白糸の滝と呼ばれています。音止の滝 白糸の滝の反対側には音止の滝があります。この付近では芝川の流れが二股に分かれている(下流でまた合流します)ため、白糸の滝と音止の滝が地形的には並んでいます。遊歩道は二つの滝の間の高所を通っていますので、両方の滝を見ることが出来ますが、二つの滝を同時に見ることはできません。 きっと空からなら、この美しい二つの滝と富士山を同時に見ることが出来ると思います。滝へ続く遊歩道の入り口には広い有料駐車場がありますが、その通りを挟んだ北側に小さな杜があります。冬枯れの杜の後ろには、美しい富士山の姿を見ることができました。白糸の滝の女神・瀬織津姫を祭る熊野神社主祭神は熊野神相殿に瀬織津比賣神を白糸神社として祭っています。創建年月は不明ですが、源頼朝が富士の巻狩りのさいに参拝、白糸の滝で詠んだ詞が伝えられています。 この上に いかなる姫や おはすらん おだまき流す 白糸の滝 現在は熊野神社になっていますが、江戸後期の諸地誌には富士大権現社と記載されています。また、『惣国風土記』に記載されている「白糸乃瀧、御守神社、所祭瀬織津比メ也」の該当社で、相殿神の瀬織津比賣神が当初の主神であって、白糸の滝の滝神として祭られたと考えられています。もっとも、現在の熊野神社としての主祭神・熊野神にしても、奈良時代初期以前の熊野大神は瀬織津姫であったので、同じ瀬織津姫を主祭神・熊野神として祭っていることになります。続く
March 26, 2010
昨日、京都御苑内にある宮内庁京都事務所に行ってきました。4月になったら、いつもの遠足仲間と修学院離宮に行くことになったので、その予約を取るためです。市営地下鉄の今出川駅を降り、同志社大学前にある今出川御門から京都御苑に入ると右側に、近衛池があります。このあたりは近衛邸跡で、毎年春になるととても美しい枝垂れ桜の花を見ることができます。今年の京都は3月に入っても肌寒い日が続いていますので、桜の花など全く期待していなかったのですが、なんと早咲きの桜が満開だったのには驚きました!!京都御所の北側にある朔平門(さくへいもん)が見えています近衛池の前にある早咲きの枝垂れ桜です。近衛邸跡には桜の木がたくさん植えられていますが、早咲きなのは数本程度で多くの桜はまだ蕾も固い状態でした。桜の定番の染井吉野が、祇園の白川や琵琶湖疏水沿いで満開になり花吹雪が見られるのは3月の下旬~4月の上旬のことでしょう。京都御苑で、思いがけず見ることができた一足早い春の景色。春はすぐそこまで来ています♪続く
March 16, 2010
伊勢神宮、内宮荒祭宮のご祭神、天照坐皇大御神荒魂は、瀬織津姫であるとする根拠の一つが、山口県山口市の「山口大神宮」にあります。「西のお伊勢さま」として親しまれている山口大神宮は、1520年(永正17年)大内義興(おおうち よしおき)が朝廷より勅許を得て、伊勢皇太神宮(伊勢神宮)の分霊を遷宮したことにより創建されました。石段を登ると山口大神宮外宮社殿が見えてきます。 内宮は外宮の奥にあります。山口大神宮外宮社殿山口大神宮内宮社殿 門の右側にある小殿が荒祭宮14世紀の中頃から大内氏は山口に本拠を置いていましたが、1467年(応仁元年)京都で 応仁の乱(おうにんのらん)が起こります。応仁の乱は10年も続いた内乱で、その兵火により京都の街の大半が灰塵に帰してしまいました。そのため、平和で豊かであった山口には、都から移り住む公卿や文化人などが多く、「西の京都」といわれる程の繁栄を誇っていたのです。前将軍の足利義植(あしかが よしたね)が、大内義興を頼り山口に逃れて来ると、義興は京都に上洛、将軍の後見人として日本の政治を動かしていきます。大内氏の武力と財力は京都の治安を守り、義興が管領代であった11年間は、応仁の乱後の京都に平和が蘇ったといわれています。義興は、京都滞在中の1514年(永正11年)に伊勢皇太神宮に参拝しています。そして、1518年(永正15年)11年ぶりに山口に帰ると、すぐに伊勢皇太神宮を勧請する用意を始めました。当初の社号は「高嶺神明」でしたが、後柏原天皇から「高嶺太神宮」、後陽成天皇から「伊勢」の勅額を賜り、「高嶺太神宮」、「今伊勢」と称せられていました。「高嶺神社」から「山口大神宮」に改称されたのは昭和22年のことです。社務所前に立てられた由緒書の看板には、内宮別宮荒祭宮 荒御魂 瀬織津姫命 と記されています。また、外宮別宮多賀宮 荒御魂 伊吹戸主命 と記されていることも重要です。この伊吹戸主命は、瀬織津姫と共に祓戸四神の中の一神で、また唯一の男性神なのですが、元々は男性太陽神である天照大神(あまてるおおかみ)でした。現在、伊勢神宮外宮、多賀宮の祭神は、豊受大御神荒魂(とようけのおおみかみのあらみたま)とされ、神名が変えられています。伊勢皇太神宮から直接分霊を受けて、太神宮社が創建されたのは、明治になるまで山口大神宮だけででした。大内氏の力の大きさと、天皇や将軍からいかに頼りにされていたかが分かります。鎌倉時代に記された「倭姫命世紀」にもいえることですが、時代が朝廷が治める貴族社会から、幕府が治める武家社会に代わると共に、それまで権勢を誇っていた藤原氏・中臣氏も没落すると、これまで黙されてきたことが表れはじめ、文書としても残されていく様になりました。豊臣秀吉によって天下統一され、さらに徳川幕府による安定した社会になるまでは、長い間武家社会が混乱していたことも理由にあげられます。しかし、既にこの時は、神仏習合が定着していた時代でもありました。飛鳥時代末期の鎮護国家法師秦澄以来、朝廷や藤原氏にとって都合の悪い神は、ことごとく封印されるか仏化されていきました。平安時代になっても、天台宗の慈覚大師やその門下生たちが、蝦夷討伐が終わったばかりの東北の地を隈なく歩き、その土地の神を仏に置き換えていきました。明治維新になり、廃仏毀釈、神仏分離が行われたときには、愛宕権現の様に元の神名が完全に忘れ去られていたところも多く、かろうじて残っていた古文書も仏像と共に焼き捨てられたり、政府による没収により失われてしまったことは残念なことです。次回は、兵庫県西宮市にある廣田神社をご紹介いたします。続く
December 27, 2009
伊勢神宮、内宮荒祭宮に祭られている「天照坐皇御大神荒魂(あまてらしますすめおおみかみあらみたま)」は、「瀬織津姫」であるとされている理由の一つに、鎌倉時代に外宮禰宜の渡会氏によって記された「倭姫命世紀(やまとひめのみことせいき)」に書かれていることがあげられます。しかし、瀬織津姫の神名は、国史書とされる「古事記」、「日本書紀」には全く記載されておらず、唯一「大祓詞(おおはらいのことば)」と「倭姫命世紀」に記されているだけなので、これだけでは根拠として少し弱い様にも思えます。そこで、天照大神荒魂を瀬織津姫として、実際に祭っている神社を訪ねてみました。最初の神社は、大阪市中央区淡路町4丁目にある「御霊神社」です。大阪のビジネス街である御堂筋通りから、西側に一本奥に入った通り沿いにあります。御祭神の筆頭に、天照大神荒魂(瀬織津比売神)と書かれています。御霊神社の創建は不明ながらも、850年(嘉祥3年)の「文徳実録」に「八十嶋祭(やそしままつり)」が圓江(つぶらえ)で行われたとあり、その地に創祀された圓神祠が御霊神社の前身となります。御霊神社の創建が「八十嶋祭」と係わっていたことが分かります。八十嶋祭とは、平安時代に天皇即位の大嘗祭(おおにえのまつり)の翌年に行われていた即位儀礼でしたが、鎌倉時代初めの後堀河天皇を最後に廃絶されてしまっているうえに、いつごろから始まったのかも分かりません。文献上の初見は、先に記した「文徳実録」の850年(嘉祥3年)9月8日の条で、文徳天皇(もんとくてんのう)の即位した年にあたります。四世紀後半から五世紀にかけて栄えた河内王朝にまで遡るとの説もありますが、はっきりとしたことは分かっていません。八十嶋祭に向う勅使が京都を発つ日に、天皇は麻衣で体をひと撫でし、さらに息を吹きかけます。勅使は、その麻衣を御衣筥(みそはこ)に入れて、五隻の舟で女官と共に淀川を下り難波津の祭場に向かいます。八十嶋祭の祭場は、大阪湾の淀川河口付近の浜辺に祭壇を作り、西の海に向って祭祀が行われていましたので、特定の神社の境内で行われていたものではありませんでした。御霊神社の他に、住吉大社や生国魂神社(いくくにたまじんじゃ)にも八十嶋祭の伝承があるのはこのためです。祭は、大阪湾の浜辺に作った祭壇に祭物を並べ、筝を弾き、天皇の御麻衣が入った御衣筥を勅使が開き、これを女官が振り動かします。天皇の御麻衣を、海に向って振り動かすことによって、禊祓(みそぎはらえ)が行なわれていたとされていますが、これは鎮魂祭(たましずめのまつり)であるという説もあります。鎮魂祭とは、毎年11月22日に宮中で行われる祭で、冬に魂が体から抜け出さないように、しっかりと落ち着かせる神事で、物部氏が奉祭してきた奈良県天理市布留町の「石上神宮」で行われている鎮魂(タマフリ)祭とも同意です。八十嶋祭では、女官が御衣筥を振り動かすのは、生命の根源である魂を振り動かす事であり、即位直後の天皇、生まれたばかりの御子の入った「ゆりかご」を揺らすことで魂を成長させるためだといわれています。祭りの祭神は、延喜式の中に「住吉神」と記されています。イザナギ命が黄泉の国から戻った日向の地で、禊をしたときに住吉神が生まれたと「記紀」に記されていることや、平安時代になっても宮中に女官として残っていたシャーマン的な巫女が、祭祀形態の変化によって、男性神祇官や陰陽師に代っていったこと、祭祀場所が住吉大社の神領や統轄下で行われることが多かったことにより、徐々に住吉大社が祭祀の中心になっていったと考えられます。また、鎮魂祭説では、八十嶋祭の八十嶋とは、日本全土を意味する大八洲(おおやしま)のことであり、その霊である「生島神(いくしまのかみ)」、「足島神(たるしまのかみ)」を祭り、新しい天皇の身体に大八洲の霊を付けることによって、国土の安定と発展を祈願したのではないかと考えられています。事実、八十嶋祭の祭場の一つであると伝わる大阪市天王寺区生玉町の「生国魂神社」では、「生島神」と「足島神」を主祭神としています。その一方で、平安遷都後、伊勢神宮の斎宮が天皇の崩御により解任されて、京都に戻ってくるときには、一旦難波津に寄り、難波の海での祓いを行っていました。伊勢の斎王が祭る神の中には、荒祭宮の神も、多賀宮の神も含まれています。御霊神社の筆頭祭神が、天照大神荒魂(瀬織津姫)であることもこれで肯けます。三重県度会郡玉城町蚊野の伊勢神宮摂社「蚊野神社」の祭神はかつて瀬織津姫でした。伊勢の入り口に位置する祓い所です。また、大津京から伊勢へ行く際の祓い所であった滋賀県大津市大石中町の「佐久奈度神社」の祭神も、瀬織津姫を含む祓戸四神です。そして、実は住吉大社の「住吉大神」、「神功皇后」こそ、「瀬織津姫」と大きな係わりを持っているのです。次回は、「西のお伊勢さま」と呼ばれる山口大神宮に続きます。続く
December 20, 2009
伊勢神宮、内宮正宮の北側にある荒祭宮(あらまつりのみや)は、正宮に次ぐ格式があるとされています。荒祭宮の祭神は、天照皇大御神荒魂(あまてらすおおみかみあらみたま)ですが、伊勢神宮では天照皇大御神のことを天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)としているので、正式には「天照坐皇大御神荒魂」が荒祭宮の祭神となります。荒祭宮は、観光客からは忘れられがちになりますが、古来より地元や地域の方による信仰が篤いところで、個人的な願い事は荒祭宮でするそうです。さて、祭神の「天照坐皇大御神荒魂」ですが、この「荒魂」とはどのようなものでしょうか?そして、正宮の天照坐皇大御神とは異なるのでしょうか?「荒魂」とは、神道の考え方で、神が持っている二つの側面のうちの一つです。神の持つ、荒々しくも躍動的な側面を「荒魂」、優しく穏やかな側面を「和魂(にぎみたま)」といいます。同じ神であっても、「荒魂」と「和魂」とでは別の神に思えるほど異なる個性を持っています。「荒魂」はときとして、その荒々しさから、天変地異を引き起こしたり、疫病を流行らせたり、人々を争いへと駆り立てることもあります。人心の荒廃による神の祟りは、「荒魂」によるとされています。その一方で「荒魂」は、新しいものを生み出す躍動的なエネルギーも持っています。神の怒りを鎮め、「荒魂」を「和魂」に変えるために、神祭を行うことが神道ともいえるでしょう。内宮正宮に祭られている天照坐皇大御神は「和魂」になります。天照坐皇大御神和魂が祭られる内宮正宮しかし、荒祭宮のご祭神は本当に「天照坐皇大御神荒魂」なのでしょうか?伊勢の地元の人々や、神道研究者の間で、これも古代から言い伝えれている伝承があります。鎌倉時代に編纂された伊勢神道(度会神道)の根本経典、神道五部書(しんとうごうぶしょ)の中の一書に「倭姫命世紀」があります。この「倭姫命世紀」には、伊勢神宮の起源や、崇神天皇が倭姫に天照大神を祭る地を探す様に命じられたことなどが記されています。荒祭宮に関する記述もあります。荒祭宮一座〔皇太神宮荒魂、伊弉那伎大神の生める神、名は八十枉津日神なり〕一名、瀬織津比め神、是也、御形は鏡に座す。内宮、荒祭宮に祭られているのは、天照坐皇大御神荒魂で伊邪那岐命(いざなぎのみこと)の禊によって生まれた八十枉津日神で、またの名を「瀬織津姫」であると記されているのです。伊勢神宮内宮、荒祭宮に祭られている本当の神は、「瀬織津姫」であるとささやかれている理由の一つは、この「倭姫命世紀」に記されているからなのです。鎌倉時代に度会氏によって書き記された「倭姫命世紀」ですが、「八十枉津日神(やそまがつひのかみ)」も「瀬織津姫」も、現在の荒祭宮の祭神としての神名はありません。「八十枉津日神」は、「大禍津日神(おおまがつひのかみ)」と共に禍(わざわい)をもたらす悪神です。妻の伊邪那美命に追われ、黄泉国から現世へ逃げ帰った伊邪那岐命は、死の国の穢を祓うために橘小門の阿波岐原で禊ぎをしたときに、最初に生まれたのが、八十禍津日神と大禍津日神でした。洗い落とされた死の垢から生まれた神で、八十は多く、禍は枉、禍害とあり、祝詞の悪(まが)と訓じているものと同じく、死の国で触れた穢れを指したものです。つまり、多くの禍をもたらす穢れた日神です。自然は私たち人間に、豊かな恵みをもたらしてくれる一方で、災害や旱魃・大雨などの天候不順、疫病などの禍をももたらします。それらをもたらす悪神を祭ることによって、逆に禍を防ぎ恵みをもたらしてもらえる様にするという信仰は、「荒魂」を祭って「和魂」に変えることと同じことなのですが、この「八十枉津日神」と「大禍津日神」の二神には、伊勢の祭祀変更のために必要であった思惑が隠されている様なのです。その思惑とは、「倭姫命世紀」でさえ、一名として付け加えることしかできなかった神、「瀬織津姫」の名を変えたうえに貶めるという目的がありました。7世紀後半、伊勢の祭祀が現在に近い形態に変えられたとき、それ以前の男性太陽神、天照大神(あまてるおおかみ)は、新しい女性太陽神に変えられてしまいました。その女性太陽神こそ、天照坐皇大御神なのです。それまで祭られていた男性太陽神は、外宮多賀宮に遷されています。そして、男性太陽神と並祭(瀧原宮の様に並んで祭られること)されていた女性水神は、内宮荒祭宮に遷されているのです。つまり、元々伊勢には、瀧原宮の様に二殿が並祭されていました。祭神は、男性太陽神の天照大神と、女性水神の瀬織津姫の二神です。その祭祀を変更して、新たに祭られたのが、女性太陽神の天照坐皇大御神。同時に、男性太陽神は外宮多賀宮へ遷されて、神名も天照大神から豊受大御神荒魂(とようけのおおみかみのあらみたま)に改名されています。女性水神も内宮荒祭宮へ遷されて、瀬織津姫から天照坐皇大御神荒魂に改名されてしまいます。この様に、「瀬織津姫」の神名が隠されなければならなかった理由の一つに、伊勢の祭祀変更がありました。しかし、天照坐皇大御神荒魂とされながらも「瀬織津姫」の神名を残しているのは、「倭姫命世紀」だけではありませんでした。大阪市中央区の「御霊神社」と、山口県山口市にある「山口大神宮」です。次回は、この二つの神社をご紹介いたします。続く
December 16, 2009
千八百年前の邪馬台国ではないかと注目を集めていた纏向遺跡(まきむくいせき)で、卑弥呼の宮殿だった可能性もある大型の建物の跡が発見されニュースになりました。先週の土日に行われた現地説明会には、二日間で1万1200人が全国から訪れ、臨時電車が運転される程の大混雑になったそうです。私は混雑が苦手なので説明会は見送り、金曜日に発掘現場に行ってみました。奈良駅と高田駅を結ぶJR桜井線の車内から撮った纏向遺跡です。高田方面行き電車の進行方向右側で、巻向駅(まきむくえき)に入る直前に見えます。黄色いパイプが並んでいますが、これは柱の跡を示しています。手前四列の柱が、今回発見された建物跡で最大のもの(写真では建物全体の半分位しか写っていません)で、幅17メートル、奥行き14メートル、面積は畳150帖分もあるそうです。また、卑弥呼の宮殿跡かもしれないといわれている理由は、纏向遺跡では戦いや防衛のための環濠(堀)が発見されていないことや、建物の内部が限られた人しか入ることのできない特別な構造になっていて、そこで祭祀が行なわれていたのではないかと考えられること、四棟の建物が東西の中軸線上に規則正しく並んでいて、太陽信仰に係わる可能性があるからです。飛鳥時代以降の宮殿遺跡では、古代中国の「天子南面」という思想の影響で中軸線が南北に引かれています。かつて邪馬台国ではないかと話題になった佐賀県の吉野ヶ里遺跡では建物の向きはバラバラで、建物が中軸線上に並んで建っている遺跡が発見された例では国内最古のものです。JR巻向駅のホームから見た纏向遺跡です。最初の写真では切れてしまった幅17メートルもある宮殿跡の全体が見えます。宮殿跡を南側の畑のあぜ道から見たところです。西側から東方向を見たところです。右側に見える山が三輪山です。建物の中軸線を東に辿ると、三輪山ではなく巻向山の山頂をかすめて、遠く伊勢湾の神島に至ります。神島はゲーター祭りでも有名な太陽信仰の島ですから、纏向遺跡もやはり太陽を意識して造られていると思います。最初の写真の中央奥にこんもりとした杜が写っていますが、行ってみると神社でした。天照御魂神社と石に刻まれていました。源初の太陽神、もちろん男性太陽神が祭られているのも偶然ではないでしょう。纏向遺跡が本当に邪馬台国なのか? そして女王卑弥呼は大和にいたのか? は未だ結論は出ませんが、この纏向遺跡は邪馬台国の時代に日本各地のクニ(豪族)から多くの人々が集まって、連合して造った祭政一致の都市であったことは確かなことです。卑弥呼の正体は日本書紀に記されている様に、神功皇后に討たれた九州・山門(やまと)の女首長だった可能性もあるのです。なお纏向遺跡の今回の発掘現場は、11月末には埋め戻してしまう予定だと聞きました。今日からの三連休中はブルーシートを掛けてあるので、遺跡を見ることは出来ません。来週平日の発掘調査日には、再び遺跡を見ることが出来るかもしれません。続く
November 21, 2009
先日、奈良県磯城郡田原本町にある多坐弥志理都比古神社(おおにますみしりつひこじんじゃ)に行く途中、姫皇子命神社(ひめみこのみことじんじゃ)を見つけたので訪れてみました。延喜式内社と刻まれていますので、平安時代以前からある古い神社であることが分かります。まだ建替えられてからそれほど経っていない様で、拝殿や神殿も新しかったのですが、神社の由緒などが書かれた看板類が全く見あたらず、姫皇子命がどのような神様なのか気になりましたが分かりませんでした。帰宅してからインターネットで調べてみると、姫皇子神社は多坐弥志理都比古神社(一般的には多神社と呼ばれています)の摂社の一つで祭神は姫皇子命(ひめみこのみこと)。多神社に祭られている神八井耳命(かむやいみみのみこと)の四皇子神の内の姫皇子で、何と、天照大神若魂(あまてらすおおみかみわかみたま)と書かれています。「多神宮注進状草案」には、姫皇子神社 天媛日火ルメ神尊と記され、さらに同裏書には、天疎向津少女命 天照大日ルメ尊之分身故云、姫皇子亦天照日ルメ大神之若魂乃云天媛、 高宮郷坐天照大神和魂神社同体異名也 と記されているそうです。若魂とは、初めて知りましたが、和魂と同体異名、また、天照大日ルメ(=巫女)尊の分身とも記されています。神八井耳命は神武天皇の皇子ですから、その子の姫皇子がどうして天照大神若魂=天照大神和魂になるのでしょうか?また、天疎向津少女命は、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたま あまさかるむかつひめのみこと)の後半の神名と近いのが気になります。撞賢木厳之御魂天疎向津媛命とは、兵庫県西宮市の廣田神社の主祭神であり、天照皇大御神の荒魂、そして瀬織津姫なのです。姫皇子神社は、多神社のすぐ東側にあり、その先には三輪山があります。姫皇子神社も東向きに建てられていますから、三輪山に昇る朝日を意識していることは明白です。皇室の祖神であり、伊勢神宮内宮で祭られている天照皇大御神も、日本書紀、古事記には大日ルメ貴(おおひるめのむち)と記されていますから、天照皇大御神は太陽神を宿した巫女ということになります。そして、巫女に宿る太陽神こそ、源初の太陽神である男神の天照大神(あまてるおおかみ)です。姫皇子命は、太陽神を宿しご神託を受ける巫女のひとりだったのでしょうか。そして、姫皇子神社は太陽神を祭る聖地だったのかもしれません。続く
November 14, 2009
現在、「瀬織津姫神社」という名前の神社は、全国で三ヶ所が確認されています。(摂社・末社などの境内社は除く)その中でいちばん大きい瀬織津姫神社が、石川県金沢市別所にあります。北陸学院大学近くの丘陵地で、竹林が多く筍の産地だそうです。社務所がないので専住の神職の方はいない様ですが、新築されたばかりの社殿や境内が美しく、氏子など地元の人たちからとても愛されている様子が伺われます。社殿の周りがサッシで、まるでサンルームの様になっているのは雪を除けるためです。ところが、由緒書の主祭神を見て悲しくなりました。瀬織津姫神社なのに、瀬織津姫が主祭神になっていません。主祭神とされているのは、大禍津日神(おおまがつひのかみ)ではありませんか。大禍津日神とは、古事記に記されている禍(わざわい)をもたらす悪神なのです。妻の伊邪那美命に追われ、黄泉国から現世へ逃げ帰った伊邪那岐命は、死の国の穢を祓うために橘小門の阿波岐原で禊ぎをしたときに、最初に生まれたのが、八十禍津日神と大禍津日神でした。洗い落とされた死の垢から生まれた神で、八十は多く、禍は枉、禍害とあり、祝詞の悪(まが)と訓じているものと同じく、死の国で触れた穢れを指したものです。つまり、多くの禍をもたらす穢れた日神です。自然は私たち人間に、豊かな恵みをもたらしてくれる一方で、災害や旱魃・大雨などの天候不順、疫病などの禍をももたらします。それらをもたらす悪神を祭ることによって、逆に禍を防ぎ恵みをもたらしてもらえる様にするという信仰があることも事実です。それでは、なぜ大禍津日神が、この瀬織津姫神社に祭られているのでしょうか?大禍津日神を主祭神として祭るなら、大禍津日神神社にした方が自然です。瀬織津姫神社と名乗るのでしたら、瀬織津姫を主祭神とするのが普通ではないでしょうか。おそらく、その理由を示していると思われるのが「倭姫世紀」の記述です。「倭姫世紀」は、鎌倉時代に編纂された伊勢神道(度会神道)の根本経典、神道五部書(しんとうごうぶしょ)の中の一書で、伊勢神宮の起源や、崇神天皇が倭姫に命じ天照大神を祀る地を探させた内容が記されています。その中に瀬織津姫に関する記述があります。荒祭宮一座〔皇太神宮荒魂、伊弉那伎大神の生める神、名は八十枉津日神なり〕一名、瀬織津比め神、是也、御形は鏡に座す。伊勢神宮内宮の荒祭宮に祭られているのは、天照皇大御神の荒魂でイザナギの禊によって生まれた八十枉津日神(=大禍津日神)で、またの名を瀬織津姫であると記されているのです。この倭姫世紀の記述と、瀬織津姫の名前が古事記・日本書紀には全く記されていないことが、主祭神変更の根拠になっているのだと思われます。倭姫世紀が編纂されたのは、鎌倉時代のことですから、瀬織津姫が八十枉津日神(=大禍津日神)と同神であるとされているのも、天照皇大御神を女神とする伊勢神道の理念が反映されているからです。瀬織津姫の名前が消され荒魂として封印されたり、大禍津日神の様に名前を変えられ悪神にされたのは、伊勢の地に新しい女神の太陽神が祭られたときからでした。それは、皇祖神であり、日本の最高神である天照皇大御神にとって、最も都合の悪い神が瀬織津姫だったからでしょう。瀬織津姫神社の主祭神は、創建当時は瀬織津姫であったと思われます。大禍津日神に変更された時期は不明ですが、もしかすると明治維新以降、昭和初期、あるいは戦後ということも十分に考えられます。戦前は国家神道を、戦後になっても天照皇大御神のイメージを守るために、瀬織津姫の名前を消す必要があったのでしょうか。富山県には氷見市と高岡市の二箇所に速川神社あるのですが、明治維新までは二社とも瀬織津姫が祭られていましたが、高岡市の速川神社方は氏子が知らない間に瀬織津姫が祭神から消されていたのです。氏子たちは現在でも、自分達の神様は瀬織津姫であり、速川神社には瀬織津姫が祭られていると信じているそうです。九州一の繁華街福岡天神、西鉄福岡駅隣りに警固神社(けいごじんじゃ)があります。神功皇后の三韓討伐のときには、船団を守護し勝利に導かれたと伝承されている警固大神は、神直毘神(かみなおびのかみ)・大直毘神(おおなおびのかみ)・八十禍津日神(やそまがつひのかみ)の三神とされていますが、本来祭られていたのは瀬織津姫(=撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたま あまさかるむかつひめのみこと))だったはずで、瀬織津姫が三神に分けられたのが警固三神でしょう。神直日神・大直日神 人間本来の姿に帰し、不足するものを補給し、善事を称楊する見直し開き直しの神様です八十禍津日神 悪事を指斥し、誤ったことや不正をより良い方向へ導く神様です三柱の神様は禊祓いの行法を通じて人々をその過ちや種々の罪ごとから祓い除ししめる霊力を及ぼされます。病気、災厄、罪科を祓い清め、心身安泰、人生幸福の神霊として篤く祟敬されています。以上の様に警固神社によると、八十禍津日神も悪神ではなく、誤ったことや不正を正し導く善神として祭られています。警固神社では、瀬織津姫が本来の祭神であったことは完全に忘れ去られて、瀬織津姫を貶めるために創られた悪神が善神となって祭られていました。警固神社の場合は、長い歴史の中で人々から愛され続けた結果、八十禍津日神という悪神であった神が善神に変わり信仰されているのですから否定されるべきものではありませんが、金沢市の瀬織津姫神社や、高岡市の速川神社のケースなど、瀬織津姫の受難の歴史はまだまだ続き、全国的にも多くの事例があります。これらの神社に、再び瀬織津姫が主祭神として祭られる日が一日でも早く来ることを、心から祈っています。続く
November 9, 2009
今日から11月になりました。そして、今日は111の日ですね。10月の月末の一週間、私は体がずっとだるくて、辛い感じが続いていました。それなのに、昨晩12時を過ぎて11月になった途端、体がスッキリ軽くなって、エネルギーの変化を実感することができました。私は先月の後半から、九州の古代史と瀬織津姫の関係に没頭しているのですが、古代九州は本当に奥深いです。有名な香椎宮も、元々神社として建られたところではなく、神託を無視したことによって変死した仲哀天皇の仮宮であったところに祠を造って天皇の霊を祀り、それが香椎宮として発展したといいます。九州一の繁華街である天神の西鉄福岡駅の隣にある警固神社にしても、神功皇后の三韓征伐のときに皇后を守護したといわれる警固大神の三神の正体は、貶称化された古代日の本の女神であり、神功皇后に宿り仲哀天皇に神宣を下した神でした。福間市津屋崎にある波折神社には、兎が波に乗る狛犬ならぬ狛兎があります。神社の伝承では、三韓討伐のときに神功皇后を守ったり、嵐で遭難した漁師を助けるために大波を折って海を鎮めました。ここに祭られている神も、同じ古代の日の本の女神です。そして、その女神の痕跡は河内の金剛山麓にも残されていました。枚岡神社は奈良の春日大社の元宮として「元春日」と呼ばれて有名ですが、何と枚岡神社の元宮があることまではあまり知られていません。恩智神社です。祓いの神様として地元では知られているそうです。ご祭神は元の神名が分からない様に変えられてしまっていますが、境内には兎の像がたくさんあります。兎とは月神を示します。 また宇佐神をも示しています。春日大社の鹿は、角が月を示しているのです。つまり、月=鹿=兎=宇佐=八幡、ということになります。八幡神というと、八幡神社に祭られている応神天皇をイメージしますが、最初に八幡神が降臨したと伝わる対馬の大海神社(わたつみじんじゃ)では、八幡三所として豊玉姫、彦火火出見命、鵜茅葺不合命が祭られています。春日大社、枚岡神社、宇佐神宮、大海神社に共通していることは何でしょうか?それは、姫を祭っていることです。恩智神社の上社にあたるのが、武水分神社です。この神社まで来て、ようやく古代日の本の女神の神名を見ることができます。また、恩智神社の近くに、古代祭祀を知るうえで大変重要な神社があります。天照大神高座神社です。祭神は、天照大神、高皇産霊大神の二神なのですが、別に伊勢津彦命、伊勢津姫命を祭神としているところがポイントです。伊勢における並祭の痕跡は、元伊勢といわれている滝原宮や、内宮第一の摂社朝熊神社、少し離れていますが多度大社にも見ることができます。雄略天皇23年(479年)に、伊勢国宇治山田から当地に遷座したという説がありますが、山の谷間の岩盤の上に本殿が建てられていることから、原始信仰を起源とするもっと古い時代にまで遡るものとも考えられています。神社祭殿の脇には「白飯之滝」があり、干ばつでも水が絶えることがないと言われていることからみても、原初の男神太陽神と、水の女神との並祭が元々の姿でしょう。続く
November 1, 2009
洛西ニュータウンから二条駅前に引越して一週間が経ちました。台風一過の今日、ようやくインターネットも繋がりました。10月3日の十五夜お月様は、とても素晴らしかったの一言です。新居のマンションの非常階段からは、東山の上に昇る満月が大きく見えました。そして、翌日4日の日曜日には、近所の神泉苑、善女龍王社に転居のご挨拶のお参りに行きました。すると、入り口のたて看板に、今日の6時半から観月会が行われ、いつも池に繋がれている龍の屋形舟に乗ってお茶とお菓子をいただけると書かれていました。「どうせ観月会をするなら、満月の日にすれば良いのに」と思いながらも、「屋形舟に乗ってお月見できるなんて、平安貴族の様で風流」と早速前売り券(700円)を購入しました。観月祭が始まるまでまだ時間があったので、三条商店街で買い物をしてから一度自宅に帰って、早めの夕食を食べてから着物に着替えて出かけてみると、予想以上の人で混み合っています。善女龍王社の前では、池坊文化学院の那楽部による筝の奉納演奏が行われ、優雅な筝の音が神泉苑の池水に響き渡っていました。秋の草花にお月見団子がお供えされています。龍の屋形舟の乗り場に行くと、すでにたくさんの人が並んでいました。10分おきに舟を出すと聞いていたのですが、どうも時間がかかってしまっている様でした。見ていると、舟が周るコースの途中で立ち往生しています。後で聞いた話では、池の水かさが浅いので舟底が引掛かってしまっていたそうです。そんなことで、6時半から8時半までの予定が大幅に遅れてしまい、私が最後の一人として乗ることが出来たのは9時半になってからでした。それでも、その待ち時間に、観月会をバックアップしている地元の有志に人たちと知り合いになることができました。龍の屋形舟に乗ってお茶をたてている先生の息子さんとも知り合い、今度25日に茶道のお茶会があることを教えていただきました。ぜひ参加してみたいと思っています。龍の屋形舟に乗ってみると、とても静かで揺れもなく、夜空に丸いお月様だけが輝いて見えていました。それは、とても不思議な、異次元にいる様な感覚でした。平安の貴族たちは、こうして月を眺め、歌を詠み、月の波動を池の水と共に受けていたのです。舟の中で、大阪風の細長い餅に餡子を被せた月見団子と抹茶をいただきました。ほんの10分たらずの舟遊びでしたが、神泉苑の池の上から見る月は、格別に美しいものでした。私の京都洛中ライフは、神泉苑の観月会から始まりました。続く
October 8, 2009
先日、お伊勢参りに行ってきました。とは言っても、ほとんど知られていない摂社の蚊野神社に参拝。そして、まだ時間がたっぷりとあったので、午後からは元伊勢の一つである皇大神宮別宮の瀧原宮(たきはらのみや)へ行きました。JR多気駅から紀勢本線のローカル列車に揺られ、約40分で滝原駅に着きました。山間の小さな無人駅です。駅前の観光案内図を見て、瀧原宮までの道順を覚えてから歩き始めました。北東に1.5キロと書かれていましたから、徒歩30分位の道程です。駅から熊野街道へと続く道を歩いて行くと、街道の手前で橋を渡ります。その景色がとても美しく、川底が見えるくらいに澄んだ渓流には、銀色にキラキラ輝やいて泳ぐ鮎の姿を見ることができました。垂仁天皇(すいにんてんのう)の皇女、倭姫命(やまとひめのみこと)が、天照大神の鎮座地を求めて自らが御杖代(みつえしろ)となり、宮川の上流へと分け入って行くと真奈胡神(まなこのかみ)に出合います。そして、真奈胡神に導かれて着いたところが、この「大河の瀧原の国」という美わしい土地でした。倭姫命はこの地に、草木を払って新宮を建てました。それが、瀧原宮の起源だと伝えられています。緑の山々、青い森、清らかな水の流れ、空も空気も、この地は、その全てが美しいところです。熊野街道の旧道をのんびと歩いて行くと、やがて瀧原宮の正面に着きました。平日の午後だったたせいかもしれませんが、人(参拝者)の少ないことに驚きました。とても清浄に管理されている境内は、杜の深さ、美しさもあって、とても清々しく、素晴らしいご神気を感じることができました。あまり観光地化されていないこともあって、スピリチュアルスポットとしても、とても貴重なところです。皇大神宮(内宮)と同じように、自然の渓流を使った御手洗場がありました。水量は多くはありませんが、透明な流れの中には小魚の姿もありました。この場所は森林浴をするのにもってこいのところです。参道を歩くといくつもの巨木に出会うことができます。写真手前の木の皮は螺旋状になって巻いている珍しいものです。右側が瀧原宮、左側が瀧原竝宮(たきはらならびのみや)です。皇大神宮の別宮で、昔から「大神の遥宮(おおかみのとうのみや)」と言われています。御祭神はいずれも、天照巫皇大御神御魂(あまてらしますすめおおかみのみたま)とされていて、御由緒書にもそのように記されていますが、神職の方に聞いてみますと、瀧原宮には天照皇大御神が、瀧原竝宮には天照皇大御神荒魂が祭られているそうです。照皇大御神荒魂は、皇大神宮(内宮)では荒祭宮(あらまつりのみや)に祭られています。しかし、この瀧原宮では、天照皇大御神も天照皇大御神荒魂も、全く同等に祭られているところが重要なポイントになります。天照皇大御神荒魂は瀬織津姫であることが、「倭姫命世記」に記されています。古の時代に、男神の天照大神(あまてるおおかみ)と、瀬織津姫が並祭されていたことの痕跡がここには残っている様に思えてなりません。続く
September 10, 2009
昨日はお伊勢参りに行ってきました。とはいっても、皇大神宮ではなく摂社の蚊野神社(かのじんじゃ)という、地元の方以外にはほとんど知られていないところです。JR紀勢本線と参宮線が分岐する多気駅から、参宮線のローカル列車で一つ目の小さな無人駅である外城田(ときだ)駅で降りて、水田の広がる田園地帯を歩くこと約20分で蚊野神社に着きました。境内は森の様に木々が生い茂っていて、入り口もまるで森の小径に入って行く様な感じでした。なにしろ、鳥居はおろか、神社でよく見かける石組みの柵もないのです。よく見ると小さな石柱に蚊野神社の文字が刻まれていましたが、それ以外は社名を記した看板も由緒書きもありません。これでは、初めて着た人は迷ってしまうかもしれません。境内に入り参道を歩いて行くと、正面に神明造りの御社殿が見えてきます。だいぶ古くなっている感じがしますが、右側には古殿地の空地がありますので、20年毎の遷宮による建替えはこちらでも行われているようです。それにしても、広い境内の大部分は森です。参道と御社殿、古殿地以外は森しかありません。手水舎も社務所も倉庫も、お賽銭箱も御祭神や由緒が記された看板も、広場すらありません。ただ、流石は皇大神宮の摂社だけのことはあって、参道は綺麗に掃き清められています。それにしても、この神社はまるで存在をそっと隠している様にも思えてきます。何も知らせないことによって封印しているのではないでしょうか。現在の御祭神は、大神御蔭川神(おおかみのみかげかわのかみ)です。名前からも分かる様に川神さまです。ところが「神名帳考證」には、瀬織津姫と記されているのです。蚊野神社は水田の広がる田園地帯に面した高台にあります。おそらく古代では、外城田川は蛇行して流れ、その周りの低地には湿地帯が広がっていたのではないでしょうか。蚊野神社は伊勢に入るための祓い所だったのかもしれません。また、皇大神宮が造られる以前は、水神と豊穣の神と、太陽の神を並祭していたのかもしれません。続く
September 8, 2009
京都の夏祭である祇園祭の華は、山鉾巡行です。その前日、7月16日夜を宵山といいます。京都の町の人たちは、山鉾巡行以上に宵山を楽しみにしているそうです。夕方午後6時、四条通りと烏丸通りが歩行者天国になると、大通りは宵山見物の人々でいっぱいになります。今夜ばかりは、中高生の外出もたいがいの親が許してくれるとあって、若いカップルたちにとってはまたとないデートのチャンスです。浴衣姿の女性も多く、京の祭りの情緒を感じます。山鉾にはたくさんの提灯が灯され、山鉾の上に登ることもできます。宵山では、山鉾の御神体はまだ乗せられておらず、会所を周り中に安置されている御神体を見せていただくのも興味深く楽しいものです。烏丸三条近くには、鈴鹿山の会所があります。一年に一度、祇園祭のときにだけ公開される鈴鹿山の会所には、御神体である鈴鹿権現(瀬織津姫)の人形が安置されています。会所に入ってすぐの座敷 瀬織津姫神と書かれた書が掲げられ、床の間には祇園牛頭天王の掛け軸の前に、鈴鹿権現(瀬織津姫)のミニチュア人形が置かれていました。会所の奥には、鈴鹿山の御神体である鈴鹿権現(瀬織津姫)が安置されている蔵(耐火倉庫)があります。鈴鹿権現は、金色の烏帽子を被り面を付けた能衣装で、薙刀を持っています。この装束は鈴鹿権現が、平安時代に鈴鹿峠に出没し通行人を襲ったり、ときには京の都にまでやってきて悪事を働いていた山賊を退治したという伝説によるものです。坂上田村麻呂が天皇の勅命により、山賊退治を命じられ鈴鹿峠に向うと、天上より天女(瀬織津姫)が現れその霊力により坂上田村麻呂の山賊退治を助けたとも、その後彼の妻になったとも伝えられています。天照大神の荒魂として、その名を秘され祭ることすらタブーとされてきた瀬織津姫が、祇園一の美神として京の大路を巡行していたとは驚ろくばかりです。朝廷や政府の神祇官、神社本庁はこれをどのように思っていたのか気になるところです。山鉾巡行の朝、鈴鹿山に乗せられた御神体の鈴鹿権現ですが、今年はときどき小雨が降る生憎の天気でしたので、レインコートを着た姿になってしまいました。祇園祭りの山鉾には、まだまだ歴史のワンダーがあります。岩戸山の御神体、天照大神が男神像であるとか、役行者山の御神体のひとつ一言主神が女性像であるなど、それは京の人々は「全てを知っていた」ことを物語っています。次回に続く
August 4, 2009
今日7月28日は、唐崎神社の夏の例祭でした。琵琶湖畔には、大津市唐崎町、高島市新旭町、高島市マキノ町の三ヶ所に唐崎神社がありますが、三ヶ所全ての唐崎神社が7月28日、29日を夏の例祭にしています。それは、旧暦六月晦日に行われてきた「夏越の祓」が例祭になったからです。今日、私が訪ねたのはマキノ町の唐崎神社でした。このマキノ町の唐崎神社と新旭町の唐崎神社は、地元では「川裾さん」と呼ばれて親しまれています。夏祭りも「川裾祭」です。一方、大津市唐崎の唐崎神社の夏祭は「みたらし祭」です。「みたらし」といえば、下鴨神社の御手洗池を思い出します。御手洗池に祭られている井上社の祭神は瀬織津姫ですが、なぜか大津の唐崎神社には現在、瀬織津姫は祭られていません。代わりに女別当命(わけすきひめのみこと)が祭られているのですが、禊祓いの神様としては瀬織津姫の方が自然な感じがします。どちらの祭も、私たちの罪や穢れを祓い清めるために行われています。古来より女性の信仰が極めて篤いのが特徴で、婦人病、下の病には著しい御霊験があるとされています。そのため、医療技術が未発達であった時代には、近隣のみならず、遠く京からも多くの人々が「川裾祭」のお参りに訪れました。琵琶湖の蒸気船が知内に寄港したり、境内の土俵では奉納相撲が行われるなど大変な賑わいになったそうです。「川裾さん」と呼ばれている理由は、琵琶湖畔にあるうえに、知内川などの川に囲まれている古代からの川社(かわやしろ)だったからです。主祭神・瀬織津姫(せおりつひめ) 水を司る最高の神 水神であり川神で自然界の浄化の神様・速開津姫(はやあきつひめ) 水戸(水と水、流れと流れが出会う所)のお祓いの神様・速佐須良姫(はやさすらひめ) 根の国、底の国の浄化の神様祓いの神々の鎮座地として、古より祓い禊の祭祀を行なってきました。創始は天智天皇(てんじてんのう)が、大津京を開かれるよりも遙か以前のことだと伝えられているそうです。川裾祭では、毎年、地元の小学5年生、6年生の乙女がお稚児さんになって舞を奉納したり、子供神輿を先導します。近年は小子化の影響もあって、お稚児さんの人数も減っているというのは残念なことですが、今年も二人のお稚児さんが舞いを奉納しました。古代の川社では、川辺に小屋を建て、乙女が巫女として神衣を織り神様を迎えていました。その巫女のことを棚機津女(たなばたつめ)とも、織姫とも言い、後に中国の七夕神話と習合していきます。瀬織津姫の中にも、「織姫」の文字があります。瀬織津姫は、オオヒルメノムチの様に、棚機津女に太陽神が降りた状態のことをいっている様にも思えます。唐崎神社には古からの風習が、お稚児さんの舞の奉納というかたちで現在に引き継がれていました。続く
July 28, 2009
私の住む京都は今朝から曇り空で、これで日食も見られそうにもないとすっかり諦めていました。それでも日食の時間(11時10分頃)になったので、ベランダに出て曇り空を見上げると、三日月の様な太陽が雲から透けて見えていました。曇り空だったのが、かえって幸いして肉眼でも日食を見ることができました。よく見ると、日食の周りの雲が赤紫色に染まっています。最近よく彩雲を見かける様になったは、やはり太陽の光の影響だったのではないでしょうか。外の明るさは、それほど暗くなった印象はありませんでしたが、なぜか蝉や鳥の鳴き声もなく静まり返っていました。日食によって、太陽が一度失われ、そして再び蘇えります。太陽が生まれ変わるともいえます。今回の皆既日食、部分日食を見ることができたのは、インド、中国、日本だったそうです。このアジアの大国が、今後の世界にとって非常に重要な役割を果たすことになることを知らせている様にも思えます。続く
July 22, 2009
7日は、大阪府交野市にある織物神社の七夕祭りに行ってきました。参道の両側には、願い事の記された短冊が付けられた竹が、まるで林の様に立てられていて、とてもきれいでした。私が、短冊がたくさん付けられた七夕飾りをまじかで見たのは、幼稚園生だったとき以来のことになります。七夕祭りは、お正月やお盆、ひな祭りや端午の節句などに比べると、いまひとつ存在感が薄いのですが、日本人の心の中に深く刻まれているようです。機物神社の御祭神は、次の四柱です。天棚機比売大神(あまのたなばたひめおおかみ)栲機千々比売大神(たくはたちじひめおおかみ)地代主大神(とこしろぬしおおかみ)八重事代主大神(やえことしろぬしおおかみ)天棚機比売大神は、棚織姫(たなばたひめ)や棚機津女(たなばたつめ)と同じで、川原に建てられた機織り小屋で神衣を織り、川を上ってくる太陽神を迎える巫女のことでした。瀬織津姫も、織姫として信仰されている場合があります。古の巫女は、今日の神道とは異なり、邪馬台国の女王卑弥呼の様にシャーマンとして神に仕えたり、神の言葉を聞き神託を受けたりしていました。栲機千々比売大神は、天照大神の子の天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)の后神であり、天孫降臨をした瓊々杵尊(ににぎのみこと)の母である栲幡千々姫(たくはたちじひめ)のことです。神名の中の「機」と「幡」の違いはありますが、どちらも布のことをさしていますので同じです。古代では布には、神が宿ると信じられていました。七夕を「たなばた」と読むのは、棚機からきています。「棚」とは、機織り小屋の中で神衣を織るために、床よりも一段高いところに棚を造って機織りをしたからです。「機」は機織りのことです。その棚機と、中国の織姫牽牛神話が習合して七夕になりました。平安時代には、宮中でも七夕が行われたと伝えられています。織姫と牽牛が一年に一度、天の川を渡っての逢瀬。夏の夜空のロマンスは、私たちの心に琴線に響くものです。七夕祭りで感じたことは、古の神話のロマンスと棚機津女の機音でした。続く
July 10, 2009
源氏物語第三部、光源氏亡きあと、光の孫たちの恋を綴った「宇治十帖」は「橋姫」から始まります。「橋姫」の巻名は、晩秋の月の夜、光源氏の子、薫君が、琵琶と琴を弾く八の宮の姫君である大君と中君の美しい姿を垣間見て詠んだ和歌に因みます。「橋姫の心を汲みて高瀬さす 棹(さお)のしづくに袖ぞ濡れぬる」(宇治の姫君の気持ちを察して船人が袖を濡らすように、私も同情の涙で袖を濡らしております)宇治川に架かる宇治橋は、古来より「瀬田の唐橋」、「山崎橋」とともに、日本三古橋のひとつに数えられています。この宇治橋に祭られていた、橋の守り神が「橋姫」です。大化2年(646年)、元興寺(がんこうじ)の僧であった道登(どうと)が、勅願を得て宇治橋を架けたとき、橋の守護のために上流の桜谷に祭られていた「瀬織津姫」を、橋の中ほどの上流側へ張り出して造られた「三の間」と呼ばれるところに祭ったのが橋姫神社の始まりです。後に、宇治橋上から西詰の場所に遷し、同じ水の神の住吉神社(宇治川の左岸櫻の馬場に祀られていた小社)と共に祭られていましたが、明治3年(1867年)の洪水で流失、縣神社(あがたじんじゃ)参道沿いの現在地に再建されました。古来より川や橋には、女神がいると信じられてきました。そこで、宇治橋の守り神として、桜谷(大津市大石の佐久奈度神社)の水神「瀬織津姫」が祭られたのです。伊勢神宮内宮の宇治橋や、出雲の松江大橋、大阪の天満橋の橋神にも分祀されるほどの高い御神威を持っています。宇治橋の瀬織津姫は、「橋姫」と呼ばれ「愛らしい姫」として親しまれてきました。<古今和歌集>「さむしろに 衣かたしき今宵もや 我をまつらん 宇治の橋姫」(敷物の上に淋しく独り寝をして、今夜も宇治の橋姫は私を待っているだろう)しかし、中世になると橋姫は「鬼女」にもされてします。「嫉妬に狂う鬼」としての橋姫が現れるのは、「平家物語」の異本である「源平盛衰記」・「屋台本」に収録されている「剣巻」で、橋姫の物語の多くの原型となっています。嵯峨天皇の御世(809年ー825年)、とある公卿の娘が、深い妬みにとらわれ、貴船神社に7日間籠って、「貴船大明神よ、私を生きながら鬼神に変えてください」、「妬ましい女を取り殺したいのです」と祈っていた。貴船大明神は、女を哀れに思い「本当に鬼になりたければ、姿を変えて宇治川に21日間ひたれ」と告げた。女は都に帰ると、髪を5つに分け5本の角にし、顔には朱をさし体には丹を塗って全身を赤くし、鉄輪を逆さに頭に載せ、3本の脚には松明を燃やし、さらに両端を燃やした松明を口にくわえ、5つの火を灯した。夜が更けると大和大路を南へ走り、それを見た人は皆、鬼のような姿を見たショックで倒れて死んでしまった。そのようにして宇治川に21日間ひたると、貴船大明神の言ったとおり生きながら鬼になった。これが「宇治の橋姫」である。そして、妬んでいた女、その縁者、相手の男のほうの親類、しまいには誰彼かまわず次々と殺した。京中の者は申の時を過ぎると、家に人を入れることも外出することもなくなった。そのころ、源頼光の四天王の1人、源綱が一条大宮に遣わされた。夜は危険なので、名刀「鬚切(ひげきり)」を持ち馬で向かった。帰り道、一条堀川の戻橋を渡るとき、女性を見つけた。見たところ20歳余で、肌は雪のように白く、紅梅柄の打衣を着て、お経を持って、一人で南へ向かっていた。源綱は「夜は危ないので、五条まで送りましょう」と言って、自分は馬から降りて女を乗せ、堀川東岸を南に向かった。女が「実は家は都の外なのですが、送ってくださらないでしょうか」と頼んだので、源綱は「わかりました。お送りします」と答えた。すると女は鬼の姿に変わり、「愛宕山へ行きましょう」と言って綱の髪をつかんで北西へ飛びたった。源綱は慌てず、鬚切で鬼の腕を断ち斬った。源綱は北野の社に落ち、鬼は手を斬られたまま愛宕山へ飛んでいった。源綱が、髪をつかんでいた鬼の腕を手に取って見ると、雪のように白かったはずが、真っ黒で、銀の針を立てたように白い毛がびっしり生えていた。鬼の腕を源頼光に見せると源頼光は大いに驚き、安倍晴明を呼んでどうすればいいか問うた。安倍晴明が「源綱は7日間休暇を取って謹慎してください」、「鬼の腕は私が仁王経を読んで封印します」と言ったので、そのとおりにさせた。平安時代には、「愛らしい姫」であった「橋姫」が「鬼女」にされてしまったのは、宇治橋が「この世とあの世との境」であり、都から見て対岸はあの世と見なされていたことがあります。鳳凰堂で名高い宇治の平等院も、浄土信仰によって建てられたものです。橋姫(瀬織津姫)は、「三途の川の姥神」とされ、そこを通る者の罪・苦を祓い、極楽浄土へ導く神であると見なされる様になります。また、古より境を守る「塞の神(ふさぎのかみ)」・「クナド神」としての性格も持ち合わせていたので、恐ろしい神とする必要もあったのです。続く
May 31, 2009
京都市街の西北にある愛宕山の山頂には、「火伏の神」として親しまれてきた愛宕大権現を祭る愛宕神社があります。明治維新後の神仏分離によって、現在の祭神は以下の通りです。本殿 伊弉冉尊(いざなみのみこと)・埴山姫神(はにやすひめのかみ)・天熊人命(あめのくまひとのみこと)・稚産霊神(わくむすひのかみ)・豊受姫命(とようけひめのみこと) 若宮 雷神(いかづちのかみ)・迦遇槌命(かぐつちのみこと)・破无神(はむしのかみ) このうち、迦遇槌命が火産霊命(ほむすびのみこと)とも呼ばれる火の神で、都を火災から守る神として王城鎮護の神になります。平安時代以前の愛宕山は、嵯峨山と呼ばれていました。愛宕神社も鷹峯(たかがみね)にあって、愛宕の読み方も「あたご」ではなく「おたぎ」と読んでいました。現在でも、下鴨神社内にある愛宕社は、「おたぎしゃ」と呼ばれています。鷹峯は金閣寺の北西方向に、現在でも地名があります。かつて、その鷹峰が山城国と丹波国との国境でした。当時の愛宕神は、境を守る「塞の神(さえのかみ)」としての性格も持っていました。塞の神とは、国境や村の境などで、悪いものが入って来ない様に守る神のことで、「クナド神」とも同一です。愛宕神社が「おだぎじんじゃ」と読まれていたのは、現在の京都市東山区、左京区、北区あたりを愛宕郡と書いて「おたぎぐん」と読まれていたからです。愛宕郡には出雲氏が多く住んでいました。愛宕山の開山は、大宝年間(701年ー704年)に修験道の祖とされる役小角(えんのおずぬ)と、白山の開祖として知られる泰澄(たいちょう)によって行われ、神廟が建てられたと伝えられています。しかし、この時点ではまだ愛宕神社は愛宕山にはなかったことになります。愛宕神社が愛宕山に遷されたのは、天応元年(781年)6月のことで、和気清麻呂(わけのきよまろ)が勅命を受け、愛宕郡鷹峯から神霊を迎え堂宇を造営します。愛宕山に愛宕大権現を祀る白雲寺が建立されたのがこのときです。この白雲寺が、明治維新に廃寺となって現在の愛宕神社になります。かつて、鷹峯にあった愛宕神社は、実は亀岡の丹波国分寺近くにある愛宕神社から、和気清麻呂によって遷されたものでした。亀岡の愛宕神社は現存していて、「元愛宕」とも呼ばれています。話がややこしくなってしまいましたが、現在愛宕山頂にある愛宕神社のルーツは、亀岡の「元愛宕」とも呼ばれている愛宕神社になります。と、いう事は、大宝年間に役小角と泰澄によって、嵯峨山(愛宕山)が開山されたとき、それまで信仰されていた地主神を仏化・封印して、新しく祭られたのが嵯峨権現になるので、現在も月輪寺(つきのわでら)に安置されている十一面観音に対する神が、本来の嵯峨大神ということになります。愛宕山は、9世紀以降明治維新まで、修験道の道場としても盛隆を極め多くの僧坊が建ち並んでいました。神仏習合時代の愛宕大権現は、本地仏に勝軍地蔵、奥の院(現在の若宮)に愛宕山の天狗であり行者の守護神でもある太郎坊を祀っていた。愛宕社が、「おたぎしゃ」と読まれる理由のひとつに、「おたき」、すなわち「御滝」からきているとする説があります。確かに、愛宕郡にはいくつかの滝があります。愛宕山中にも、京都市周辺では最も大きい「空也滝(くうやのたき)」があります。空也は、平安時代中期の僧で天台宗空也派の祖。阿弥陀聖(あみだひじり)、市聖(いちのひじり)、市上人と称され、民間における浄土教の先駆者と評価されています。父は、醍醐天皇ともいわれていますが、本人が出身について語ることは生涯なかったという。その空也が、修行に明け暮れていたのが、この滝だったところから空也滝の名が付けられたといいます。空也滝への道程は、愛宕山参拝の表山道の起点となる清滝から、清滝川沿いに月輪寺方面に林道を進み、月輪寺への山道が分かれるところから空也滝へ行く山道に入ります。清滝バス停から、徒歩40分ほどのところにあります。月輪寺を経て愛宕山山頂に向う登山道から少し外れていて、しかも行き止まりになっているので、訪ねる人も少ないところです。古からの滝行の道場ということもあって、幾重にも厳重な結界が張られていることも、人を寄せ付けない理由のひとつでしょう。しかし、訪ねてみれば、とても素晴らしいところです。滝も大きく、見応えがあります。そのうえ、清涼感溢れる神聖な場所です。御滝場の手前には、八大龍王と記された石鳥居があり、滝壺の左横にもしめ縄の巻かれた石柱に八大龍王の文字が刻まれていました。不動明王と眷属の石像や、役小角(えんのおづぬ)が前鬼、後鬼を従えた石像も祀られています。滝の右横に、行者が建立した大きな石碑があり、それには「熊丸大神」と「住照大神」と記されています。熊丸大神は、愛宕神社本殿で祭られている天熊人命のことなのかもしれませんが、住照大神は謎です。もしかしたら、住吉大神(瀬織津姫)と天照大神(ニギハヤヒノミコト)のことではないかと思ってしまいます。そしてさらに、滝壷の右横に立つ石柱には、「春日弁才天女」と「嵯峨権現不動明王」と記されています。これで確定です。愛宕山(嵯峨山)に祭られていた神は、「嵯峨権現不動明王」に対応する神で、「春日弁才天女」でもある女神でした。春日大社の第四殿に祭られている「比売神」は、「元春日」と呼ばれる枚岡神社の第二殿に祭られています。枚岡神社には出雲井があり、水神の女神は枚岡神=春日神です。そして、不動明王と十一面観音に隠されている女神こそ「瀬織津姫」なのです。現在の愛宕山に古の時代祭られていたのは、やはり「瀬織津姫」でした。男神太陽神の「天照大神(ニギハヤヒノミコト)」と共に、対神で「瀬織津姫」が祭られて広く信仰されていたのです。大宝年間に、役小角と共に、愛宕山を開山した泰澄は、文武天皇より「鎮護国家法師」との称号を与えられていました。その泰澄が、鎮護国家法師として最初にした仕事は、愛宕山の開山という名の地主神の封印だったのです。続く
May 27, 2009
5月15日、京都では葵祭の本祭が行われました。現在では、京都三大祭のひとつに数えられていますが、平安時代には「祭」といえば「葵祭」(当時の名称は賀茂祭)のことであるといわれたほど有名だったそうです。葵祭の始まりは、約1400年前の欽明天皇の御世で、凶作が続いたため賀茂大神の祟敬者であった卜部伊吉若日子(うらべいきわかひこ)を勅使として、4月中酉の日に馬に鈴をを付け、人に猪頭(ししがしら)を被らせて走らしたところ、風雨はやみ五穀豊穣になって民も安泰になったといいます。葵祭は、五穀豊穣を祈願するお祭だったのです。本祭では、「路頭の儀」と、「社頭の儀」が行われています。「路頭の儀」とは行列のこと、「社頭の儀」とは下鴨・上賀茂神社の神前での儀式のことです。かつては、「宮中の儀」も本祭当日に行われていましたが、明治維新で天皇が東京に遷られてからは行われなくなりました。現在の葵祭で最も良く知られているのが「路頭の儀」、平安王朝絵巻そのままの雅で優雅な全長約1キロにも及ぶ大行列です。その行列は、「第一列」検非違使(けびいし)、山城使など、「第二列」馬寮使(めりょうつかい)、牛車など、「第三列」舞人(まいびと)、近衛使(このえつかい)など、「第四列」陪従(べいじゅう)、内蔵使(くらづかい)などからなる本列に、斎王列ともいわれる女人列が続きます。総勢511名、馬36頭、牛4頭、牛車2基、腰輿(およよ)1基からなる行列で、毎年最も注目を集めているのが斎王代です。斎王代とは、「斎王の代わり」という意味です。斎王は天皇家から内親王が、神に奉仕するために斎院に入られる制度です。平安時代の弘仁元年(810年)から、元久元年(1204年)まで、35代394年間続きました。十二単衣(じゅうにひとえ)に、少忌衣(おみころも)を着る斎王代は、女人列の中でもひときは華やかで、葵祭の主役ではないかと思ってしまいますが、実際の主役は本列中央の近衛使になります。近衛使は、天皇の御使である勅使(ちょくし)の役割を務めているのです。源氏物語では葵祭の行列に、源氏の君の姿を一目見ようと人々は集まります。そこで起きたのが「車争」(駐車場所をめぐる喧嘩)で、それがきっかけとなって愛と悲しみの物語りが展開されていきます。お天気も良かったので、行列の出発地の京都御苑をはじめ、沿道は見物客で大変な混雑になりました。京都御苑内の行列通過ルートの両側は、事前予約制の指定席(当日券も若干ありましたが席の場所は最後列でした)になっていました。下鴨神社や糺の森の中も、同じ様に事前予約制の指定席、上賀茂神社内も特別観覧席になっています。沿道で混雑の少ないところは、河原町通りの府立医大付属病院付近や、午後になりますが賀茂街道の上賀茂橋付近はお薦めできます。反対に非常に混雑する所は、京都御苑前や、河原町通りでも河原町今出川周辺、出町橋、下鴨神社周辺でした。葵祭の行列に参加している人たちは、一部には学生アルバイトも使っているそうですが、多くは先祖が実際にその職に就いていた子孫だと聞きました。京都には、平安遷都以来1200年経った現在でも、多くの子孫が先祖の職を葵祭を通して、今に受け継いでいるのです。斎王代が、葵祭の前に行う「御禊の儀」も、私たちが神社や寺院にお参りに行くときには、先ず手水舎で手を洗い心身を清めるのと同じことです。私たちの罪・穢れを祓い清めてくださる御手洗社の女神・瀬織津姫も、この葵祭を見守ってくださっているのです。続く
May 16, 2009
ゴールデンウィーク中の5月4日、京都の賀茂御祖神社(下鴨神社)で斎王代の御禊の儀が行われました。御禊の儀とは、斎王代が葵祭に奉仕するのに先がけて行われる禊です。昭和31年に葵祭の斎王列が復活して以来、賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)の一年交代で行われています。午前10時開始の予定がだいぶ遅れ10時30分過ぎに、斎王代をはじめとする斎王代列の女人全員が、祭場である井上社(御手洗社)前の御手洗池に到着しました。神職祓詞の奏上などの後、斎王代の禊が始まります。斎王代は、御手洗池の畔に設けられた御座所に降りて座り、手のひらを合わせて指先を水の中に浸します。わずか数秒ほどの禊でした。禊が終わると斎王代は、和紙で手を拭き、使った和紙を御手洗池に流します。この後、斎王代は御手洗池より上がり、斎王代列の女人全員と斎串を折り、儲橋の上から御手洗川に斎串を流して、御禊の儀は無事に終わりました。斎王代とは、斎王の代わりのことで、京都市内に住む未婚女性から毎年選ばれています。賀茂斎院の制度が始まったのは、平安時代初期の弘仁元年(810年)で、初代斎王として嵯峨天皇皇女有智子内親王が選ばれました。斎王は、ときの天皇の内親王が、神事に奉仕される制度です。それが、斎王代として現在に蘇り、十二単衣の優雅な姿で、平安王朝絵巻さながらの光景を見せてくれます。かつて斎王は、鴨川で禊を行っていました。御手洗社も、かつては鴨川と高野川との合流地点の東側にあったと伝えられています。禊は川の水に浸り、日ごろ悪意はなくても、知らずしらずのうちにしてしまう罪や穢れを祓い清めるために行います。賀茂御祖神社前に広がる糺の森の、糺(ただす)とは、「正す、正しく直す」という意味があるそうです。森の中を、御手洗川や瀬見の小川が流れ、御手洗の泉が湧く、清浄な神域です。井上社(御手洗社)の祭神は、瀬織津姫です。私たちの犯した罪や穢れを祓い清めくださる大祓いの女神様です。葵祭でも、斎王や斎王代が最初に行ったのが禊でした。その禊に、欠かせない神様が、瀬織津姫なのです。大祓祝詞には、次のように記されています。遺(のこ)れる罪は不在(あらし)と、祓ひ賜ひ、清め賜ふ事を、高山の末、短山(ひきやま)の末より、佐久那太理(さくなだり)に落瀧(おちたぎ)つ速川(はやかは)の瀬に坐す「瀬織津姫尊」(せおりつひめ)といふ神、大海原に持出(もちいたし)なん。如此(かく) 持出なは、荒塩の塩の八百道(やほち)の八塩道(やしほち)の、塩の八百会(やほあひ)に坐す「速秋津姫尊」(はやあきつひめ)といふ神、持(もち)可可呑(かかのみ)てむ。如此(かく)可可呑(かかのみ)ては、気吹戸(いぶきど)に坐す「気吹戸主尊」(いぶきどぬし) といふ神、気吹(いぶき)放(はなち)てむ。如此(かく)気吹放ては、根国(ねのくに)底国(そこのくに)に坐す「速佐須良姫尊」(はやさすらひめ)といふ神、持(もち)佐須良比(さすらひ)失(うしなひ)てむ。上記を現代語にすると以下の様になります。残っている罪はないようにと、天津神・国津神の祓へ給い清め給う事を、高山・低山の麓から渓流となって激しく流れ落ちる急流の瀬におられる「瀬織津姫尊」という神が、その霊力で大海原に持ち出してくださるであろう。このように大海原に持ち出されたなら、荒海の多くの潮流が集い渦巻くあたりにおられる「速秋津姫尊」という神が、その罪を呑み干してしまわれるであろう。このように罪穢れを飲み干されると、息吹の根源におられる「気吹戸主尊」という神が、根の国・底の国(黄泉国)に吹き放ってくださるであろう。このように吹き放ってしまえば、根の国・底の国におられる「速佐須良姫尊」という神が受けとって流離い(さすらい)、消滅してくださるだろう。急流の瀬にいる瀬織津姫、大海原にいる速秋津姫尊、息吹の根源にいる気吹戸主尊、根の国にいる速佐須良姫尊の四神の連携によって、私たちの犯した罪や穢れは消滅されると、大祓祝詞には記されています。葵祭の本祭は、5月15日です。今年は金曜日になります。お天気も、今のところは良さそう(雨天の場合は順延になります)なので、多くの観光客で賑わうことでしょう。伝統の葵祭に、瀬織津姫の御神徳の大きさを、感じられずにはいれません。続く
May 13, 2009
最近ずっと瀬織津姫(せおりつひめ)の研究に没頭しています。そのため、このブログの更新もままならず、気が付いてみればもう一週間以上もさぼってしまいました。桜の華が美しく咲いていた佐久奈度神社(さくなどじんじゃ)を訪ねたのも、先々週のことになります。佐久奈度神社は、琵琶湖から流れ出る唯一の川である瀬田川の渓谷沿いにあります。大津京に遷都後、即位した天智天皇の勅命によって、669年、天智朝の右大臣中臣金(なかとみのかね)によって大祓の祝詞(おおはらいのことば)が、この佐久奈度神社で創られました。この大祓の祝詞によって、瀬織津姫は祓い戸の女神として封印されてしまいました。上の二枚目の写真は、佐久奈度神社の境内から見た瀬田川の瀬です。信楽川との合流点にもあたりますが、かつて佐久奈度神社は昭和30年代までは、この川の瀬のすぐ横にありました。下流に天ヶ瀬ダムが造られたために、現在地である高台に移転しなければならなかったといいます。昔は、この川の中に浸かり、禊祓いをしていたそうです。瀬織津姫のことを調べて行くと、この女神の偉大さがだんだんと分かってきました。朝廷から1300年以上も「秘神」として、その名を消されたり、置き換えられてきました。私も、瀬織津姫の名前の美しさと、長い受難の歴史から、薄幸のか弱い女神だと思い込んでいたこともありました。しかし、瀬織津姫のことを調べれば調べるほど、驚くほど凄い、偉大な女神様だということが分かりました。伊勢神宮 内宮荒祭宮 天照皇大神荒魂=瀬織津姫宇佐神宮 比売大神=瀬織津姫出雲大社 大国主大神=素戔嗚尊=出雲井神=瀬織津姫那智大社 大己貴命(おおなむちのみこと)=飛瀧権現=瀬織津姫春日大社 比売神=枚岡神=出雲井神=瀬織津姫宗像大社 湍津姫神(たぎつひめ)=滝津姫=瀬織津姫住吉大社 神功皇后=姫神=瀬織津姫厳島神社 湍津姫神(たぎつひめ)=滝津姫=瀬織津姫愛宕神社 火産霊神=瀬織津姫浅間神社 木花咲耶姫(このはなさくやひめ)=瀬織津姫この他にも、棚機津女(たなばたつめ)=棚織姫=瀬織津姫は、七夕伝説の織姫とも習合しました。この様に、瀬織津姫は、「日の本の女神」・「日出る処の女神」とも言えるほど偉大な女神でした。それが、大和朝廷の新しい皇祖神である女神の天照皇大神の雛形神であった為に、祓い戸神として以外は名前を消されなければならなかったのです。続く
April 20, 2009
京都・嵐山の渡月橋は、沢山の花見客で賑わっていました。満開の桜の華と、桂川の清流。例え様のないほどの、美しさと、さわやかさ。そのエネルギーにふれるとき、私たちは、心癒され、元気をもらうことが出来ます。今年の春は、とてもパワフルです。お日様の光も、お月様も、そして華たちも、新しいステージが始まったことを告げています。新しい光・エネルギーが、この地球に届けられています。美しい春を、心ゆくまで楽しみたいと思います☆続く
April 12, 2009
先週までは、すこし肌寒い日が続いていた京都でしたが、今週はすっかり春らしい陽気になりました。桜の華も、今が見ごろです。この週末は、お天気も良いので、お花見には最適です。京都の花見所は、どこも花見客でいっぱいになるでしょう。混雑覚悟のうえでも、一年に一度のお花見は、心がうきうき・わくわくしますね!!それは、桜の華のエネルギーが、私たちを癒し、元気付けてくれるからです。桜にとって花を咲かせることは、一年の最初ではなくて、一年の最後を締めくくることなんです。まさに「最後に華を咲かせる」ということになります。だから、ものすごいパワーがあるんです。できれば、華を見るだけではなくて、桜の華の下でしばらくの間、ゆっくりくつろいだり、お弁当を食べたりしてみてください。きっと、癒されたり、元気をもらえると思います。京都・平安神宮の神苑に行ってきました。枝垂れ桜が、とても美しくて感動しました。まるで、枝垂れ桜のトンネルの様でした。京都の春を満喫しました。続く
April 10, 2009
天照皇大神は、なぜ女神にされなくてはならなかったのだろう?絶対的な皇祖神と、それに連なる万世一系の皇統譜を創り出すということだけが目的であったならば、あえて女性神化する必要はなかったのではないかと思います。つまり、どうしても皇祖神を、女性神にしなければならない絶対的な理由があったからではないのでしょうか?では、その理由は、いったい何だったのでしょうか?魏志倭人伝にも記され外国にも知られている倭の女王卑弥呼や、超人的な活躍をした神功皇后をモデルにしているという説や、女帝の持統天皇の正統性を示すためだとする説もあります。しかし、当時の倭で広く祭られ、親しまれてていたと思われる男神天照大神を、そのために女性神化する必要が、本当にあったのかどうか疑問に思います。また、持統女帝の正統性を示すという説は、伊勢神宮の式年遷宮が制定されたのが685年、夫の天武天皇の崩御が686年、そして持統天皇が即位するのが690年ですから、それでは女神の皇祖神の方が先になってしまいます。これに対しては、天武天皇の母とされる女帝の皇極天皇であり、二度目の即位で名を変えた斉明天皇であるとする説もあります。この皇極天皇・斉明天皇は、持統天皇の祖母にあたります。それでも、なぜここで、皇極天皇・斉明天皇を使ってまで、皇祖神の女性化が必要だったのか分かりません。きっと、他に何かがあるはずです。それが、ずっと分かりませんでした。でも、きっと何かある。絶対何かある。そう思ってきました。すると、いくつかのヒントが組み合わされて視えてくるものがありました。この時期の倭は、とても追い込まれていました。663年、無謀な百済復興のための出兵で、唐・新羅連合軍と白村江の海戦で激突。倭の水軍は、圧倒的な唐の水軍の前に大敗北、朝鮮半島から撤退しました。唐・新羅連合軍による倭国侵略の脅威に脅え、震えあがっていたのです。天智天皇は飛鳥に帰ることが出来ず、琵琶湖畔の大津京に遷都したのが667年。そして、壬申の乱を経て、天武天皇が即位したのは672年のことです。その間の半島情勢は、唐・新羅連合軍が高句麗をも亡ぼしますが、唐と新羅の間にも軋轢が起こり、676年新羅は唐の勢力を追い出すことに成功、朝鮮半島の統一を果たします。このことは、倭にとって吉報となりました。依然、唐の脅威は消えていませんでしたが、唐に対抗するために倭と新羅が連合することになったからです。倭が先の出兵で戦った相手は唐軍で、新羅とは直接戦っていなかったことも幸いしました。天武天皇は、蘇我氏との繋がりが深く、蘇我氏は新羅との関係が深かったので、時期的にも丁度良かったといえます。蘇我氏と新羅の共通点は、共にローマ文化を持っていることです。これはアジアでは、蘇我氏と新羅だけが持っていました。蘇我氏の古墳からは美しいローマングラスと、トンボ玉が発掘されています。それは新羅の王都、慶州の古墳からも沢山発掘されているものです。「新羅」という文字の後に、「馬」を付け加えると「新羅馬」になりますが、これは「新ローマ」と読めます。倭の人々は、新羅がどのような国であるのかを知っていたのかもしれません。天武天皇が行った政策は、天智天皇の百済重視の方向から新羅重視の外交政策への転換と、強い中央集権の律令国家を作るための政策でした。その過程で神道も天皇家を中心とする国家神道に体系づけられていくのです。この時期、法隆寺の建設が盛んに進められていました。法隆寺は7世紀の初めに、聖徳太子によって建立されますが、670年に一度焼失しています。それなのに、創建当時の聖徳太子像などが焼けずに現存しているのは不思議なことです。最近行われた調査によると、創建当初の若草伽藍と呼ばれる建物が焼失する前から、現在まで残っている建物が建築され、仏像も移転されていたことが分かりました。この斑鳩の地は、飛鳥の都からはだいぶ離れていますが、大阪湾から飛鳥に至る大和川沿いにの要所にあります。当時の交通機関には舟を使っていましたから、すぐ近くに造られた多忌神(おおいみのかみ)を祭る広瀬神社と共に、とても重要な意味を持っていました。多忌神とは、穢れを祓う禊の神のこと、瀬織津姫です。古代では、全ての災厄は穢れから生じると信じられていましたから、都に通じる河川の途中に穢れを祓い、災厄を祓うための禊の神、瀬織津姫を祭ったのです。その一方で、法隆寺は現存する世界最古の木像建築物で世界遺産にも登録されている名建築ですが、回廊に見られる曲線を持ったペルシャ風の柱(エンタシス)の様に、アジアとオリエントの文化が融合した美しさが特徴といえます。また、聖徳太子の寺院としても有名ですが、実はこの「聖徳太子」という名前は平安時代以降に呼ばれ始めたものなのです。日本書紀によると、聖徳太子の息子である山背大兄子(やましろのおおえのみこ)一族が、この法隆寺で蘇我入鹿によって全員自害に追い込まれていますが、これも平安時代になるまで祀られた痕跡どころか墓すらないのです。一族全員が、忽然と姿を消してしまうことなどあるのでしょうか?事の真相は、最初から聖徳太子も、息子の一族もいなかったのです。日本書紀編纂のバックにいた藤原不比等が、中大兄皇子と中臣鎌足が起こした宮廷クーデターで蘇我入鹿・蘇我蝦夷を暗殺した事件を正当化するために捏造した「聖人伝説」でした。それでは、なぜ法隆寺は造られたのでしょうか?繰り返しになりますが、この時代の倭の重要政策は、新羅・唐を中心とする国際政策と、強い中央集権の律令国家を建設することでした。特に唐に対しては、倭の威信にかけて、「仏法の尊い教えのもとに国政を行う近代国家」であることをアピールする必要があり、それにも聖人伝説が必要だったのかもしれません。ずいぶん話が遠周りになってしまいましたが、当時の倭は現在の私たちが思うよりもはるかに国際的でした。それは、712年に編纂された古事記や、720年に完成した日本書紀の神話に見ることができます。古事記に記されている大国主の神話が、旧約聖書のヤコブの物語にとても近いことや、日本書紀に記されているイザナギ・イザナミの神話、天照皇大神やスサノウの神話が、ギリシャ神話とそっくりなのです。となると、ギリシャ神話の豊穣の女神「デメテル」を、皇祖神「天照皇大神」のモデルにする必要があったのかもしれません。それは、もしかすると、私たちのルーツに関係しているのかもしれません。続く
April 4, 2009
御霊神社(ごりょうじんじゃ)には、もう一つ瀬織津姫が祭られています。この神社には主祭神として、天照皇大神荒魂(あまてらすおほかみのあらみたま)=瀬織津比売神(せおりつひめのかみ)として祭られていることが明記されています。私が宮司さんに確認したところ、伊勢神宮内宮の荒祭宮と同じであることが分かりました。現在、伊勢神宮内宮の荒祭宮には、祭神として天照坐皇大御神荒御魂(あまてらしますすめおほかみのあらみたま)としか記されていませんが、これで平安時代末期に伊勢神宮の神官によって書かれたとされる「倭姫命世記」に記された天照皇大神荒魂=瀬織津姫が非常に真実味を帯びてきました。しかし、本当に天照皇大神荒魂=瀬織津姫なのかというと、瀬織津姫の側からみれば、「その様にされてしまった」ということになります。荒祭宮は、おそらく元々の祭祀の場所で、そこには男神の天照大神(あまてるおおかみ)と、瀬織津姫が対神で祭られていたことでしょう。実は、その痕跡が御霊神社の境内に残っていました。御霊神社境内の拝殿右側に、末社として松ノ木神社があります。この松ノ木神社はきつねがお守りしている様に、お稲荷さんとして地元の方の信仰を集めているのですが、ここで注目したいのは、中央に不動明王、右側に大黒様が祀られていることです。不動明王と大黒様が並んで祀られていることに大きな意味があります。不動明王は、瀬織津姫を仏化させて姿の一つで、滝など修験道の業場などに多く祀られています。一方の大黒様は、立て札にも書かれている様に大国主命のことであるとされています。御神体として岩が置かれているのは、太陽神であること示しているのではないでしょうか。天照国照彦天火明櫛玉饒速日命(あまてるくにてるひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)というとても長い諡号(しごう)を持つのはニギハヤヒノミコトですが、天照国照と付いている様に太陽神を表しています。大物主命と同一神ともいわれ、また大物主命=大国主命ともいわれています。出雲神として混同されてしまっているところもあると思いますが、この松ノ木神社の場合は、水の女神・瀬織津姫と、太陽の男神・天照大神が対として祭られています。仏化されているとはいえ、これが本来の姿なのです。瀬織津姫を守っていきたいという、先人たちの強い思いを感じられずにはいられません。続く
March 6, 2009
京料理は見た目にも美しく美味しいものですが、感動的かどうかと言うと、正直なところ普通の美味しさ以上には思えませんでした。それが、先日、感動的に美味しい鯖寿司に出会いました。それはもう、次元を超えた芸術品と言えるくらいの美味しさでした。「出合ってしまった」と言っても良いくらいです。本当に美味しいもの、感動的に美味しいものを食べると、気持ちがひとつステップアップした様に思えてくるのが不思議です。その鯖寿司は、祇園に本店がある老舗「いづう」のもので、四条烏丸の大丸に行ったとき、地下1Fの出店カウンターで食べたものです。お値段の方も、1本で4410円もする驚きのものですが、この大丸の出店カウンターでは、サービス価格(1人前1500円位から)で作りたてのものを食べることができます。普通の鯖寿司は、鯖の身が硬く酢がきいているのが普通ですが、いづうのものは、鯖の身が柔らかで自然の甘味が感じられる美味しさです。本当に、次元というかレベルが全く違う、味の芸術品と言えるものです。恐るべし、京都祇園。私がこれまでに感動した食べ物を記しておきます。・青森県の浅虫温泉駅近くの道の駅で食べたホタテフライ定食。新鮮なホタテを使ったフライが、これほどまで美味しいものとは思いませんでした。・広島県の宮島口駅前の居酒屋で食べた生牡蠣瀬戸内海で獲れた新鮮な生牡蠣は、生臭さも苦さも全くありませんでした。そして、海の味がしました。 とても大きかったのも驚きでした。・北海道の襟裳岬で食べた蝦夷馬糞ウニ生きているウニをその場で割って、ピンセットで卵巣を取り出してくれます。とてもクリーミーで濃密な美味しさでした。・北海道の駒ケ岳山麓の海岸で拾った真昆布を干して作った出汁を使った湯豆腐天日で干した真昆布の出汁が、こんなに美味しかったとは!感動的でした。続く
November 27, 2008
秋の京都御所一般公開が、11月16日までの5日間行われています。とても良いお天気に誘われて、午後から出かけてみました。いつもは、前日までに宮内庁京都事務所に申し込んでおかないと入れないのですが、毎年春と秋に行われる一般公開のときには、フリーに見学することができます。入場時間は午前9時から午後3時30分まで、最終退場時間は午後4時15分です。土曜日・日曜日にも入場できる貴重な期間です。源氏物語千年紀に合わせて、緒大夫の間(しょだいぶのま)には十二単を着た女性と、男性貴族の等身大の人形が置かれていました。 緒大夫の間は正式に参内した者の控え室でした。紫宸殿南庭、右側にある月華門前に置かれた御所車。御所正面の建礼門と、紫宸殿の間にある承明門から見た紫宸殿。 紫宸殿の巨大さがよく分かります。紫宸殿(ししんでん)は御所の中心的建物で、即位礼などの重要な儀式を行う最も格式の高い正殿です。 中央奥に一部見えているのが天皇の御座である高御座(たかみくら)、右手奥にほんの一部見えているのが皇后の御座である御帳台(みちょうだい)です。小御所(こごしょ)にも、等身大の人形が置かれていました。 まるで源氏絵巻を見ている様な気持ちになります。 御常御殿(おつねごてん)は、室町時代以降に天皇が日常の住まいとして使われていた御殿です。 いつもは戸が閉められている場所なので、豪華な襖絵を見ることができる貴重なチャンスでした。御池庭(おいけにわ)の景色にも見惚れてしまいます。 紅葉にはまだ早いですが、銀杏の葉はすでに黄色く染っていました。京都御所や京都御苑は、何度訪れても良いところです。日本は鎌倉時代以降、明治維新まではずっと武家支配の国でしたが、この京都御所や源氏物語といった王朝スタイルが、とても心地良く感じられるのが不思議に思えます。日本人の心の中には、いにしえへの想いがあるのかもしれません。続く
November 13, 2008
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。」「沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を顕はす。」「奢れる者久しからず、ただ春の世の夢の如し。」「猛き人も遂には滅びぬ。偏に風の前の塵に同じ。」平家物語の冒頭です。頼朝・義経の命を助けたばかりに滅びることになった平家の繁栄と没落。このあまりにも有名な平家物語の主人公となった平家は、平安時代後期の有力貴族でした。「平家にあらずば、人にあらず。」ともいわれるほどの繁栄を誇っていました。しかし、その繁栄を今に伝えるものといえば、平家物語と平清盛が安芸国の宮島に造営した厳島神社くらいのものでしょう。平家の絶頂期には京都の六波羅に、平家のお屋敷が五千七百あまりも建ち並んでいたと伝えられています。これらの豪邸も、頼朝軍の京都入りを前にして、退却する平家自らが火を放ち灰塵に帰してしまいました。平家の中心地であった、京都六波羅の場所をご存知でしょうか?知っているという方は、京都や歴史に詳しい方だと思います。大雑把に言うと、清水寺と鴨川の間のあたりになります。現在も六波羅蜜寺が残り、鎌倉時代に作られたという平清盛像や、石塚があります。現在の六波羅蜜寺の周辺は、住宅や商店が建ち並ぶ庶民的な町になっています。かつて豪邸が建ち並び、栄華と権勢をほしいままにした平家の中心地であった六波羅は、その記憶すらほとんど忘れ去られているかの様でした。それでも朽ちて、ひびが入った平清盛の石塚に、手を合わせる地元の方の姿が見られました。京都は、けっして大都市とは言えないでしょう。しかし、日本の歴史そのものであると思いました。続く
September 21, 2008
学生時代に、「ナクヨ ウグイス ヘイアンキョウ」と、平安京遷都の西暦を覚えた方もきっと多いことでしょう。京都は、西暦794年の平安京遷都以来、1200年の歴史が、まるで地層の様に積み重なっている街なのです。平安貴族たちの優雅な生活、菅原道真と藤原氏との政争、驕れる平家の繁栄と没落、鎌倉幕府と朝廷の対立、足利尊氏による南北朝対立、応仁の乱で焼く尽くされる都、織田信長による比叡山焼き討ちと室町幕府の終焉、本能寺の変、豊臣秀吉による区画整理と聚楽第の建設、徳川家康による二条城の建設、幕末の尊皇攘夷と新撰組、禁門の変、鳥羽伏見の戦い平安遷都から幕末に至るまで、京都の歴史を大雑把にみてみるとこの様になるでしょうか。京都を思い浮かべるとき、どの時代に心を寄せるかは、人それぞれですね。学生時代の修学旅行や、彼氏や彼女と見た「大文字」を思う人も多いのかもしれません。今日、私は天使カードのモノクロ印刷を頼みに、JR丹波口駅近くの印刷屋さんに行きました。そして、帰り道は大宮駅から阪急電車に乗るために、四条通りの方向に歩きました。この辺り一帯は壬生(みぶ)と呼ばれる所で、幕末には京都を警護した「新撰組」の屯所(とんしょ)があったところです。今ではすっかり京都の市街地になって京風の住宅が建ち並んでいますが、幕末のころは畑の広がる静かなところだったそうです。新撰組の壬生屯所となっていた八木邸も、当時のままで保存されていました。初代局長の芹沢鴨や、近藤勇、土方歳三、沖田総司など、創設期の13名が浪士隊と袂を分かち、ここを宿所として京都の街の治安を護りました。近隣に迷惑ばかり掛けていた初代局長・芹沢鴨の乱行が、京都守護職・松平容保の知るところとなり、隊士たちによって暗殺されたのもこの八木邸の座敷でした。鴨居に残る刀傷は、そのとき芹沢鴨によって付けられたものといいます。屯所だった八木邸の近くに壬生寺があります。きっと隊士たちが武道の修練に励んだところでしょう。またここには、隊士たちの墓も残されています。池田屋事件や、禁門の変の活躍で、一躍その名を上げた新撰組でしたが、鳥羽伏見の戦いでは幕府軍と共に薩摩・長州軍と戦い、敗走して江戸に逃れます。壬生寺の中に入り、本堂に向かって歩いて行くうちに、だんだんと頭の上から刀で斬られる様な感じがしてきました。八木邸では特別何も感じませんでしたので、これはこの壬生寺に集まって来る魂に想いが残っていたのでしょう。あるいは、この土地の残留思念かもしれませんが。私は本堂の前で、天上界の光を降ろして祈りました。するといつもの様に、不快な感覚は消えて行きました。私は京都に引っ越して来てから、まだ5ヶ月目ということもあるかもしれませんが、どうしても平安時代以前のことに関心が行ってしまいます。しかし、戦国時代の本能寺の変も、幕末の新撰組の活躍も、この京都を舞台に行なわれたことには代わりありません。京都を歩くということは、歴史の上を歩くことだと思いました。続く
September 18, 2008
さいたま市大宮区にある、大宮氷川神社は、明治維新直後、東京へ遷った皇室にとって、非常に重要な神社であった様です。武蔵国一の宮として、明治天皇が勅祭社と定められ、明治元年(1868年)10月28日には、天皇自らが氷川神社に行幸して、親祭を行われました。以来、例祭には勅使の参向があり、宮内庁楽師による歌舞が奉納され、昭和15年(1940年)には、国費で社殿・楼門等を改築、現在の姿になったそうです。大宮氷川神社が、この様に皇室から重要視されて来たのは、いったいなぜだったのでしょうか?古い歴史を持つ大宮氷川神社ですが、武蔵国一の宮になったのは、室町時代以降のことです。それ以前は、多摩市の小野神社が武蔵国一の宮でした。成務天皇の時代に、出雲の兄多毛比命(えたもひのみこと)が武蔵国造となり、氷川神社を崇敬したと伝えられています。埼玉県一帯は出雲族が開拓した土地で、武蔵国造は出雲国造と同族とされています。社名の「氷川」も出雲の「簸川」に由来するという説もあります。また、埼玉県一帯は、古代の製鉄業の中心地であったそうで、このことからも出雲との繋がりが強かったと考えられます。現在の主祭神・須佐之男命(すさのおのみこと)・奇稲田姫命(くしいなだひめ)・大己貴命(おおなむちのみこと)しかし、江戸時代までは、現在、門客人(まろうど)神として祭られている、ある縄文神が主祭神として祭られていたといいます。その縄文神とは、アラハバキ神です。アラハバキ神とは、大和朝廷による支配を拒み続けた、蝦夷(えみし、えびす、えぞ)の人々が信仰していた縄文神であるといわれています。朝廷が、蝦夷制圧のために築いた宮城県の多賀城跡にも、アラハバキ神社が残っています。これは朝廷が、蝦夷から多賀城を守るためにアラハバキ神を祀ったものです。朝廷の伝統的な蝦夷統治の政策は、「蝦夷をもって蝦夷を制す」であったそうで、もともと蝦夷の神であったアラハバキ神を、多賀城を守るための「塞の神」として祀り、蝦夷を撃退しようとしていたそうです。しかし、大宮氷川神社に祭られているアラハバキ神は、もうひとつの側面である「鉄の神」だった可能性が高いかもしれません。アラハバキ神から、変容したとされる門客人神の像は、製鉄神の特徴とされている片目で祀られていることが多いことや、「アラ」は鉄の古語であるといいます。また、「塞の神」についても、本来は「サヒ(鉄)の神」の意味だったそうです。古代の埼玉県一帯は、製鉄の盛んな地域でしたから、「鉄の神」としてアラハバキ神が祭られる様になったのでしょう。さて、明治維新を迎えて、明治天皇が京より東京に遷ると、明治元年に天皇自らが大宮氷川神社に行幸して親祭を行なわれました。それほど、大宮氷川神社は重要だったのでしょうか?皇居から見て、大宮氷川神社は北の方角です。幕末からの戊辰戦争は、東北以北では依然として戦闘が続いていました。旧幕府方海軍奉行の榎本武揚や、新撰組の土方歳三なども、大型戦艦「開陽丸」と共に未だ健在で、東北や蝦夷(えぞ)に独立国を建り、官軍への反撃を目論んでいたのです。おそらく、その様な北の賊軍から、皇居を守るための守護神として、大宮氷川神社は重要な存在だったのではないかと思います。それは、奈良・平安時代の朝廷が、アラハバキ神を蝦夷から城を守るための「塞の神」としたことの再来だったのではないでしょうか。続く
June 27, 2008
平安京の西を護るのが、松尾大社です。秦氏の氏神様でもあります。古代には、松尾山中にある磐座で祭祀が行なわれていたそうですが、大宝元年(701年)秦忌寸都理(はたのいみきとり)による麓の社殿建設以来、磐座での祭祀は行なわれなくなったそうです。現在の主祭神は、大山咋神(おおやまくいのかみ)と市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)です。松尾神は、酒作りの神様としても有名ですが、主祭神としては、山の神様と、海の女神様の二柱になります。松尾大社を訪ねて、不思議に思うことがあります。それは、磐座の存在が、どこか希薄に思えることです。・磐座のある松尾山は、最近まで禁足地でしたが、長年に渡って特別な祭祀が行なわれて来なかったこと。・松尾山や磐座を、御神体としてはみていない様に思えること。・神殿が磐座の方を向いていないこと。松尾山は別名、別雷山(わけいかづちのやま)とも言うそうです。別雷といえば、上賀茂神社の主祭神である賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)を思い出します。そして、元伊勢の籠神社(こもじんじゃ)には主祭神である、天照国照彦天火明櫛玉饒速日命(あまてるくにてるひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)と、賀茂大神は同一神であると伝えられているといいます。おそらく、古代の近畿・山陰地方の神は、みな同じだったのかもしれません。松尾大社の神殿は、磐座の方向を向いていません。では、どこを向いているかといえば、霊亀の滝の上流、御手洗川の水源地である水元を向いている様です。現在、水元も磐座と同じく、許可を受ければ登ることができます。松尾山山中の沢にあります。注連縄の付いた杉が一本あるだけで、神様が祭られている様には見えません。とても波動の良い所なので、スピリチュアルスポットとしてお薦めできます。出来れば写真を撮りたかったのですが、松尾山中は撮影禁止です。水元からの流れは、御手洗川(みたらしがわ)、霊亀の滝となって、滝御前へと流れ落ちます。どうも松尾大社は、山の神様や海の女神様を祭るというよりも、水の女神様を祭っている様に思えてなりません。霊亀の滝の前にある、滝御前に祭られているのは、罔象女神(みつはのめのかみ)です。しかし、罔象女神は、灌漑用水や井戸の女神様で、滝や川の女神様ではないのです。どうも、しっくりときません。滝の上流の川は、御手洗川と言います。御手洗とは、穢れ祓いの儀式を示しています。穢れを祓う水の女神様と言えば、大祓詞に登場する祓戸大神の、瀬織津姫であるのが自然なのですが。天照国照彦天火明櫛玉饒速日命と、瀬織津姫の存在が、松尾大社に封印されている様に思えてなりません。続く
June 26, 2008
出雲大神宮に行ってきました。「出雲」と言っても、島根県の出雲大社のことではありません。京都市のすぐ隣の亀岡市に、「元出雲」と呼ばれている出雲大神宮はあります。御祭神・大国主命(おおくにぬしのみこと)・三穂津姫命(みほつひめのみこと) (大国主命の后神)異説としての御祭神・天津彦根命(あまつひこねのみこと)・天夷鳥命(あまのひなとりのみこと)・三穂津姫命(みほつひめのみこと) 本殿の後に、美しくそびえる御影山そのものが「出雲大神」として、太古より崇められていた御神体山であるそうです。この御影山は、国常立尊(くにとこたちのかみ)の身体そのものです。国常立尊は、出雲毘女(いずもひめ)によって祀られていましたが、毘女が薨じるとこの御神体山に葬られ、三穂津毘女、出雲大神と呼ばれるようになったと伝えられています。 「元出雲」と言われている様に、島根県の出雲大社よりも古い歴史があるそうです。丹波国風土記には、大八洲国国祖神社(おおやしまのくにのみおやのじんじゃ)と記され、また「元明天皇和銅年中、大国主命御一柱のみを島根の杵築の地に遷す。」とあります。江戸時代までは、現在の出雲大社は杵築大社(きづきたいしゃ)だったので、「出雲神社」と言えば、こちらの出雲大神宮をさしていたそうです。御影山は禁足地ですが、この磐座までは登ることが許されています。御神殿の奥にも磐座が祀られています。磐座には、神が宿られるそうです。きっと古代の人々は、巨石から神聖さや、太古の記憶を感じていたのでしょう。御神殿の奥の磐座の、さらに奥には、古墳の石室が残されていました。その場所から考えると、出雲毘女を葬ったところなのかもしれませんが、神社の案内図の説明によると、5~6世紀の横穴式古墳と書いてあります。私は、古墳の前で霊視を試みてみました。すると、古代の御霊神が現れて、「良いクニだろう!」と呼びかけてきました。私が、「そうですね!」と返事をすると、「しっかり見ていってくれ。」と言ってくれました。白い古代人の服を着た、かっぷくの良い男神でした。出雲大神宮は、とても波動の良い素敵なところです。とても清々しく、木漏れ日も綺麗で、妖精さんたちの楽しそうな姿も見られました。水も清らかで、近隣の方たちが御神水を汲みにたくさん集まっていました。古代というよりも、太古からと言った方が相応しいこの神社の歴史は、私たちの想像をはるかに超えるものかもしれません。続く
June 11, 2008
京都市内で、瀬織津姫を主祭神として祀る神社がある唯一のところ、小野郷を訪ねてみました。最初に訪れた岩戸落葉神社をあとにした私たちは、周山街道から分かれて、清滝川の渓谷沿いに続く、まるで林道の様な道を進みました。舗装こそされていましたが、対向車でも来たらすれ違いの出来る広い場所まで、どちらかがバックしなければならないほどの道でした。しばらく進むと急に視界が開け、道路も2車線になりました。大森地区に入った様です。田植えを終えたばかりの水田と、北山杉の山々が美しい集落です。大森加茂神社は、そんな美しい山里の、自然の中にありました。車から、神社に続く小径を降りて行くと、境内にたくさんの人たちがいるのが見えてきました。何か活動でもしている様子です。大森加茂神社の境内は、北山杉の木立に覆われていましたが、下草がきちんと刈り取られていて芝生の様で、とても気持ちの良いところです。神社に集まっていたのは、おそらく近隣の青少年たちの様でした。楽しそうに活動をして、みんなでお弁当を食べたりしていました。若い人たちが、この様に集まって楽しそうにしているのは、この場所のエネルギーがとても良いことの証明でもあります。大森加茂神社の境内には、本殿からすこし離れたところに末社の貴船神社が祭られています。上の写真の手前の社が貴船社、奥に見えているのは寄り合いに使われている建物で、その奥に御神殿があります。御祭神に、賀茂神が含まれているのは、中世になってこの地区が賀茂神社の社領地になったからだそうです。御祭神・賀茂皇大神 (かもすめおおかみ)・彌都波能賣神 (みずはのめがみ)・瀬織津姫 (せおりつひめ) 境内には、堕川御上神社遥拝所があります。堕川神社(おちかわじんじゃ)とは、延喜式神名帳という醍醐天皇の勅命によってつくられた神社格付に出ている神社です。現在の岩戸落葉神社とも、この大森加茂神社にあたるとも推測されていますが、遥拝所がなぜこの場所にあるのか不思議です。境内の外れでは、清滝川の清流にふれることもできます。せせらぎの音、北山杉の微かな香りに、紅葉の枝の美しさ。下草の間には、白やブルー・ピンク色の可愛らしい野の花が咲いています。この場所を離れるのが惜しいと思うくらい、とても素敵なところでした。きっと、瀬織津姫は、この自然の素晴らしさを、私たちに知ってほしかったのかもしれません。小野郷で最後に訪れたのは、清滝川の上流にある霧谷の滝です。この滝のそばには、霧谷竜王不動尊というお寺が地図に載っているのですが、見つけることができませんでした。大森キャンプ場の人に教えてもらって、未舗装の林道を数百メートル入り、石碑の前から山道を登りました。けっこう急で、倒木もあって荒れていましたが、10分位で滝壷の前にたどり着くことができました。滝が見えたとき、そのあまりの美しさに感動しました。落差およそ20メートルの滝は、水がまるでシャワーの様に流れ落ちています。かつて、ここは御滝行の場所であった様です。地図に載っていた様に、不動明王を祀るお寺があったのでしょう。私は、この美しい滝に、不動明王と共に、瀬織津姫の存在を感じました。おそらく仏化される以前は、滝の女神として、瀬織津姫が信仰されていたことでしょう。清く美しい水があってこそ、美しい自然が保たれ、その恩恵を受けることができるのですから。続く
June 9, 2008
昨日は、京都市内で唯一、瀬織津姫を主祭神として祀る神社がある、小野郷へ行ってきました。小野郷は、京都市東北部と大津市の琵琶湖西岸にもありますが、もう一ヶ所、北山杉で有名な京都市西北部の周山街道沿いにもあります。昨日訪れたのは、周山街道沿いの方です。仁和寺の前から周山街道を車で行くと、やがて紅葉の名所である高雄神護寺や高山寺の前を通ります。そして、このあたりから、深い谷川に沿って道が続きます。この谷川が清滝川です。清滝川は、全国的に多い川名ですが、いつもこの川の名を聞くと、きっとどこかに、不動明王や瀬織津姫が祀られているのではないかと思ってしまいます。不動明王や瀬織津姫は、滝や谷川に祀られることが多いからです。最初に訪れたのは、岩戸落葉神社です。岩戸落葉神社は、岩戸社と落葉社の二社からなっています。岩戸社は、小野上ノ町の氏神で、中世以降ここに移されたそうです。御祭神は、女神の三神です。・稚日女神 (わかひめのかみ)・彌都波能賣神 (みずはのめがみ)・瀬織津姫 (せおりつひめ)落葉社は、小野下ノ町の氏神です。祭神は古来、源氏物語に登場する、落葉の宮を祀るといわれています。朱雀天皇の皇女、落葉の宮は、柏木右衛門督(うゑもんのかみ)に嫁ぎましたが、柏木は同宮にこころ染まず、その妹の女三の宮に恋慕していました。しかし、柏木はほどなく身まかり、傷心の落葉の宮は母とともに「小野の山里」に隠棲します。間もなく光源氏の子・夕霧が訪ねてきて、落葉の宮と親しい仲になっていきます。もの淋しい秋の夕暮れ、夕霧は一条の落葉の宮を訪れた。御息所(みやすどころ)と、亡き柏木の思い出を語り合う。月が出て雲もない空に、羽をうち交わして雁が飛んでいる。仲間同士鳴き交わす声を、一人残された宮はどんな思いで聞いているのだろう。風が肌寒く感じられ、もの寂しさに心動かされて、落葉の宮が柏木の遺した箏の琴を弾いているのがかすかに聞こえてくる。夕霧はとても深みのある音色に心が引きつけられ、琵琶を取り寄せて、「想夫恋」を弾く。宮に琴の合奏を所望するが、宮はなかなか応じない。たっての夕霧の懇望に、御簾の中からほんの少し、琴の音で想夫恋の一節を合奏した。夕霧は、奥ゆかしく物静かな落葉の宮の人柄に、次第に思慕の情を深めていく。源氏物語 横笛より落葉社は、落葉の宮の隠棲地に因んで創祀されたと伝えられていますが、源氏物語の「小野の山里」を当地としたのは、後世の伝承であって確証はないそうです。一方、延喜式に記されている、堕川神社とする説もあります。水の落下するさまから生じた堕川(おちかわ)が、後に落葉に訛化したのではないかともいわれています。向かって左側の社が岩戸社、右側が落葉社になります。後ろは、巨大な磐座になっているのが見えます。銀杏の大木と、紅葉の枝の美しいところでした。京都市内で現在、瀬織津姫を主祭神として御祀りしている神社は、この岩戸社と、小野郷の奥にある大森加茂神社の二社だけです。大森加茂神社は、創建後しばらくして大森地区が賀茂神社の社領地になったことから賀茂氏の祭神も祀られる様になったそうです。初代遣隋使の小野妹子や、万葉歌人にして絶世の美女と謳われた小野小町などを輩出した小野氏は、瀬織津姫をとても大切に守ってきました。朝廷の意向に反してまで、瀬織津姫を守り抜いてきたのは、よほど親しみをもっていたからでしょう。あるいは、周山街道の先の何かを、見ていたのかもしれません。続く
June 8, 2008
瀬織津姫は、全国の神社で毎朝行なうことが義務付けられているという大祓詞(おおはらいのことば)の中に登場する祓戸四神の内の一神です。大祓詞の中で、瀬織津姫は、「高い山、低い山を水源として、勢いよく流れ下る谷川の川瀬に座す瀬織津姫の力によって、人々が犯した罪や穢れを大海原に持ち出してしまう。」とあります。その後は、海の神である速開津姫(はやあきつひめ)や、風の神である気吹戸主尊(いぶきどぬしのみこと)、霊界の神である速須佐良姫(はやすさらひめ)に引き継がれて、私たちの罪や穢れは浄化されるのです。瀬織津姫が「大祓の女神」として、大祓詞作成と同時に取り入れられたのは、天智天皇の御代、大津に都が造られたときのことです。天智天皇8年(669年)、天皇の勅願により大祓詞は、中臣金連(なかとみのかねのむらじ)によって佐久奈度神社(大津市大石)で作られました。しかし、「大祓の女神」というのは、瀬織津姫のひとつの側面でしかありません。瀬織津姫は、もっと多様な力を持った女神なのです。そのひとつに、天知迦流美豆比売(あまちかるみずひめ)があります。三輪山住む、「海を光して依り来る神」である大歳神=大物主神の妃神です。日の神と一対をなす、天において水を司る女神が、この天知迦流美豆比売であり、瀬織津姫のルーツのひとつだと言われています。そして、最近さらに、瀬織津姫のルーツが、アイヌ神でもあったという説を耳にしました。瀬織津姫に関して、以前からアラハバキ神の妃神であるともいわれてきましたが、アイヌ神との繋がりは初耳でした。アイヌ神説は、瀬織津姫を旧仮名遣いで読むと「そうつひめ」になります。 この「そうつひめ」が元来の呼ばれ方だったらしいのです。瀬織津姫は、水神であり、川の神であり、滝の神でもあります。そして、アイヌ語で「SO」は、滝を意味するというのです。つまり、「そうつひめ」とは、滝の女神になります。また、瀬織津姫は、「三途の川」の岸の姥神であるとも言われていますが、「三途の川」は正式には、「葬頭川」(そうづがわ)と言います。「そうつひめ」の「そうつ」と「そうづ」の音から習合して、姥神にもなったと考えられるそうです。北海道の神社で、瀬織津姫を主祭神としている所は、檜山郡厚沢町の1社だけです。東北の青森県でも、八戸市湊町の1社だけです。秋田県も、本荘市鮎瀬の1社と寂しいかぎりです。岩手県は、東北瀬織津姫信仰の本場だけあって、流石に数が多くなります。北海道に、本格的に神社が創建されるのは、殖民による開拓が進む明治以降のことになります。また御祭神も、地元神ではなく、入植者たちが出身地の神社より遷した御分霊であることが多かったそうです。そのため、古来アイヌの人々が信仰してきた神々は、封印されるしかなかったのです。先日、滋賀県の琵琶湖のほとりのにある、瀬織津姫を御祭りしている神社へ行ったとき、神社の方から「この町の周辺には、未だに漢字に直せないアイヌ語の地名がたくさん残っている。」と教えていただきました。瀬織津姫は、古来アイヌの人々が信仰してきた、「滝の女神様」という側面も持っているのかもしれません。続く
June 6, 2008
今回は、琵琶湖北部の高島市マキノ町にある唐崎神社をご紹介いたします。京都駅から湖西線の新快速電車に乗って1時間あまりでマキノ駅に到着します。遠くに竹生島を望む琵琶湖の湖水と、田園風景の美しいところです。琵琶湖畔の知内浜より見る竹生島 竹生島は、宮島・江ノ島と共に、日本三大弁天の一つとされています唐崎神社は、マキノ駅から琵琶湖の畔に出て、知内川を渡った場所にありました。徒歩10分くらいで行ける、とても風光明媚なところです。琵琶湖に注ぐ知内川唐崎神社は、知内川・生来川・百瀬川の3つの川が琵琶湖に流れ込むところにあって、古より祓戸の神々の鎮座地として、禊祓の祭祀を行なう古代の川社(かわやしろ)でした。創建は不詳ですが、周囲に集落のできるはるか以前のことで、天智天皇の御代には既に鎮座していたと伝えられています。川裾信仰の聖地として、「川すそさん」として親しまれてきました。大津の唐崎神社と同様に、特に婦人病にご利益があるとされたため、「夏越の祓」の「川すそまつり」のときなどは、琵琶湖の対岸からもたくさんの人々が船に乗って訪れ、大変な賑わいになったそうです。御祭神は、祓戸の大神三神です。・瀬織津姫神 (せおりつひめのかみ) 水を司る最高の神 水神であり川神で自然界の浄化の神・速開津姫神 (はやあきつひめのかみ) 水戸(水と水、流れと流れが出会うところ)のお祓の神・速佐須良姫神 (はやさすらひめのかみ) 根の国、底の国の浄化の神中臣大祓詞(なかとみおおはらいのことば)では、速開津姫神は海の神とされていますが、こちらでは流れと流れが出会うところのお祓の神になっています。また、風・息吹の神である気吹戸主尊(いぶきどぬしのみこと)が含まれていませんが、この唐崎神社は琵琶湖の対岸に伊吹山を望み、季節によっては伊吹山から昇る朝日を拝むことができるそうです。社伝によると、かつての社名は、大川神社だったそうです。文徳天皇仁壽元年より「辛埼」とも称し、享保の頃より唐埼神社と号するようになったといいます。境内社として、大川神社が残っているので、大川神社と唐崎神社は別の社であったとも考えられます。大川神社の御祭神は、大宮女神です。唐崎神社と号する以前に、辛崎と称されていたということは、大津の辛崎(唐崎)との関係を表していると思われます。祓所として、また婦人病に対するご利益なども、大津の唐崎神社との共通点が多いからです。大津から瀬田川を下った大石の佐久奈度神社(さくなどじんじゃ)は、大津京鎮護のために創建された社ですが、祓所として祓戸の大神四神を祭っています。この様に見ていくと、大津の唐崎神社も御祭神は、瀬織津姫をはじめとする祓戸の大神たちであった可能性が高い様に思います。神殿の扉には、御神紋として日と月が彫られています。唐崎神社には、古来より、日・月・星の三光紋が伝わっています。そのため、三光神社とも称されることもあったそうです。この三光紋を現在の御祭神に当てはめてみますと、以下の様になります。・日 速開津姫神 海の浄化の女神・月 瀬織津姫神 川の浄化の女神・星 速佐須良姫神 霊界の浄化の女神月と星は、これでも良いのですが、日は海というだけでは無理がありそうです。やはり日には、海から昇る日神が相応しいと思います。唐崎神社のあるマキノ町は、JR湖西線の開通までは開発から取り残された様なところだったといいます。しかし、古より清らかな自然と共に、人々が暮らしていました。漢字にすることのできないアイヌ語の地名も、まだ多く残っていると聞きました。「川すそさん」と呼ばれ親しまれている唐崎神社の歴史も、そうとう古いものである様です。古代の川社として、穢れを祓い、また日の神に仕える巫女が衣を織って、川を上って来る神を待っていたことでしょう。その巫女に憑っていた女神が、瀬織津姫なのです。古の時代、日神の天照大神(あまてるおおかみ)と月神・水の神の瀬織津姫は、一対神として祭られていたのです。続く
May 11, 2008
琵琶湖の西岸には、二つの唐崎神社があります。一つは、大津市の唐崎神社で、もうひとつは、高島市の唐崎神社です。どちらも祓所として有名で、特に婦人病に対する御利益があることから、祓祭のときには京や大阪などの遠方からも、たくさんの人々がやって来て大いに賑わったそうです。今回は、大津市の唐崎神社を御紹介いたしましょう。唐崎神社の歴史は日吉大社の社伝によれば、舒明天皇6年(633年)琴御館宇志丸宿禰(ことのみたちうしまろのすくね)がこの地に居住し「唐崎」と名附けたことに始まります。創建は天智7年(668年)、近江京遷都の翌年大津京鎮護のため大和国三輪山大神神社より、御祭神の大己貴神(おおなむちのかみ)を坂本の日吉大社へ勧請する道中、この地にあった松の木に神様が乗り移ったので、松を正面に社殿を建立したのが始まりであると伝えられています。日吉大社の摂社で、朝廷が琵琶湖唐崎から淀川までの「七瀬之祓」の第一処として、国家安泰の祓所に定められました。御祭神は、女別當命(わけすきひめのみこと)この女神様は、琴御館宇志丸宿禰の奥さんなのです。かつては「女別当社」と呼ばれていました。代表的な祓祭が、毎年7月28日と29日に営まれる「夏越の祓」の御手洗祭(みたらしまつり)です。罪や穢れを払い、暑い夏を健康で乗り越えられる様に、紙の人形(ひとがた)に息を吹きかけ、茅の輪をくぐって身を清める神事が行われます。通常の茅の輪くぐりは、ただ輪をくぐるだけですが、唐崎神社では参拝者が人形や、願い串に自分の名前を書いて奉納します。それを日吉大社の神官が、藁苞(わらづと)に入れて茅の輪をくぐり、湖中に立てられた朱塗りのの山王鳥居に向かって藁苞を投げるという古式にのった大祓の神事が行なわれています。七瀬之祓の唐崎で、人々は無病息災を願い、罪穢(ざいえ)を琵琶湖に流し去るのです。唐崎は、古来より近江八景の景勝地としても有名で、多くの万葉歌人や文人墨客が、この地で詩歌を詠まれてきました。さざ波の志賀の辛崎幸(さき)くあれど大宮人の船待ちかねつ 柿本人麻呂(さざなみの志賀の辛崎は、その名のとおり変わらずあるのに、大宮人を乗せた船はいつまで待っても帰って来ない)この詩は、壬申の乱で近江朝廷が滅びた20年後、柿本人麻呂がこの地に訪れたときに、天智天皇を偲び詠まれたものです。辛崎の松は扇の要にて 漕ぎゆく船は墨絵なりけり 紀貫之辛崎の松は花より朧(おぼろ)にて 松尾芭蕉 唐崎の「霊松」も有名です。現在の松で三代目になるそうです。金沢の兼六園にある「唐崎の松」も、この地から分けられたものです。古より多くの人々に愛されてきた唐崎です。しかし、唐崎神社の御祭神は、どうして琴御館宇志丸宿禰の奥さんの女別當命なのでしょうか?唐崎に社殿を建立した理由は、三輪山の大神神社の御祭神である大己貴神が、唐崎の松の木に乗り移ったからでした。それならば、御祭神は日吉大社西本宮と同じ、大己貴神ではないのでしょうか?それなのに、なぜ女別當命なのでしょうか?それはおそらく、女別當命が巫女だったからでしょう。巫女として、大己貴神を祭ったのだと思います。大己貴神=大物主命=大国主命=大歳神=天照大神(あまてるおおかみ)なのです。海上よりやってきた光の神様です。その光(日)の神様を迎える巫女に憑っていたのが、水の女神・祓いの女神の瀬織津姫だったと考えられます。琵琶湖西岸にある、もう一つの唐崎神社の御祭神は、この瀬織津姫をはじめとする祓戸の大神三神なのです。続く
May 10, 2008
琵琶湖より流れ出でし湖水が、瀬田川となって深い渓谷をつくり、やがて信楽川と合流する大石に、佐久奈度神社(さくなどじんじゃ)があります。地元以外の方で、佐久奈度神社の名をご存知な方は、神道や神社に関して、とてもお詳しい方でしょう。それは、佐久奈度神社こそ、神道における最高祝詞である「大祓詞」(おおはらえのことば)の元になる「中巨大祓詞」がつくられたところだからです。「大祓詞」は、明治維新を迎え国家管理となった神道界において新たに制定されたもので、「中巨大祓詞」より抜粋されてつくられました。創建は天智8年(669年)、朝廷が飛鳥より近江大津京に移ったのを期に、天皇の勅願により中巨金連(なかとみのかねのむらじ)が、この地に祓戸の大神三神を祭ったのが始まりです。平安時代には、琵琶湖畔の唐崎神社と共に、天皇の厄災を祓い平安京を守護する「七瀬の祓所」のひとつとして、その名を知られていました。また、伊勢神宮に参拝する前に佐久奈度神社で禊をするのが習わしとされ、大石の語源も伊勢詣での祓所を意味する忌伊勢(おいせ)が訛ったものとされています。現在は瀬田川沿いの丘に建つ佐久奈度神社佐久奈度神社の御社紋は菊の中心に桜神道は、「祓いに始まり、祓いに終わる。」と言われています。以下は「中臣大祓詞」の一部抜粋です。遺(のこ)れる罪は不在(あらし)と、祓ひ賜ひ、清め賜ふ事を、高山の末、短山(ひきやま)の末より、佐久那太理(さくなだり)に落瀧(おちたぎ)つ速川(はやかは)の瀬に坐す「瀬織津姫尊」(せおりつひめ)といふ神、大海原に持出(もちいたし)なん。如此(かく) 持出なは、荒塩の塩の八百道(やほち)の八塩道(やしほち)の、塩の八百会(やほあひ)に坐す「速秋津姫尊」(はやあきつひめ)といふ神、持(もち)可可呑(かかのみ)てむ。如此(かく)可可呑(かかのみ)ては、気吹戸(いぶきど)に坐す「気吹戸主尊」(いぶきどぬし) といふ神、気吹(いぶき)放(はなち)てむ。如此(かく)気吹放ては、根国(ねのくに)底国(そこのくに)に坐す「速佐須良姫尊」(はやさすらひめ)といふ神、持(もち)佐須良比(さすらひ)失(うしなひ)てむ。 残っている罪はないようにと、天津神・国津神の祓へ給い清め給う事を、高山・低山の麓から渓流となって激しく流れ落ちる急流の瀬におられる「瀬織津姫尊」という神が、その霊力で大海原に持ち出してくださるであろう。このように大海原に持ち出されたなら、荒海の多くの潮流が集い渦巻くあたりにおられる「速秋津姫尊」という神が、その罪を呑み干してしまわれるであろう。このように罪穢れを飲み干されると、息吹の根源におられる「気吹戸主尊」という神が、根の国・底の国(黄泉国)に吹き放ってくださるであろう。このように吹き放ってしまえば、根の国・底の国におられる「速佐須良姫尊」という神が受けとって流離い(さすらい)、消滅してくださるだろう。その祓いと禊を司る「祓戸の大神」を祭る総本宮が佐久奈度神社です。御祭神は創建当初は三神でしたが、その後一神加えられて四神になっています。・瀬織津姫尊(せおりつひめのみこと) ・速秋津姫尊(はやあきつひめのみこと) ・気吹戸主尊(いぶきどぬしのみこと) ・速佐須良姫尊(はやさすらひめのみこと) 「祓戸の大神四神」と言われ、個人や社会の罪や穢れを祓ってくださる祓いと禊を司る神々です。「祓戸の大神四神」の名前は『古事記』や『日本書紀』には直接登場しませんが、いくつかの古い文献にはその名が見られ、なぞの多い神々とされています。・瀬織津姫尊神道の最高祝詞である「大祓詞」には「高山の末短山の末より、さくなだりに落ちたぎつ速川の瀬に坐す瀬織津姫という神、大海原に持ち出でなむ。」とあります。勢いよく流れ下る川の力によって人々や社会の罪穢れを大海原に押し流してしま う、川に宿る大自然神であることがわかります。「大祓詞」の最古の注釈書といわれる「中臣祓注抄」では、「速川の瀬」を「三途の川なり」と説明しており、「神宮方書」においては「瀬織津姫は三途川のうばなり」と書かれております。人々が犯した罪穢れを剥ぎ取り、生まれたままの姿に戻す働きの神であるともいえます。 ・速秋津姫尊イザナギノ尊のミソギで生まれた神が「伊豆能荒神(いずのめのかみ)」で、罪穢れを清める神とされます。この神が速秋津姫尊です。「大祓詞」には、「荒潮の潮の八百道の八潮道の八百会に坐す速秋津姫尊と云う神持ちかか呑みてむ」とあり、 海の神である早秋津姫尊が、大海に流れ出た罪穣れを勢いよく呑み込んでしまいます。・気吹戸主尊 同じときに生まれた神が「神直日神(かむなおひのかみ)」です。日本の神話には完全な悪は存在しません。かわりに「禍」とか「邪」という言い方をします。つまり、本来はまっすぐだったものが、途中で方向が曲がってしまっただけだという考えです。この神はこのような曲がった状態をまっすぐにして、本来の直日(直霊=自己)に戻す働きをする神です。「倭姫命世紀」「中臣祓訓解」では、この神が気吹戸主尊であるとしています。「大祓詞」には「かくかか呑みては、気吹戸に坐す気吹戸主という神、根の国底の国に気吹き放ちてむ」とあり、早秋津姫尊が海に呑み込んだ罪穢れを風の神である息吹戸主尊が、根の国底の国(地底)に吹き放ちます。 ・遠佐須良姫尊 「大祓詞」には「かく気吹き放ちては、根の国底の国に坐す速佐須良比売という神持ちさすらい失いてむ」とあり、気吹戸主尊によって気吹き放たれた罪穢れが根の国底の国に住む葉や遠佐須良姫尊により浄化され消滅し、大祓詞の最後にある「罪という罪はあらじ」という状態になります。これで個人も社会も、病んでいる気から元の気へともどり文字通り「元気」になるわけです。 禊とは、「身削ぎ」の意味で、身(御霊)の垢を削ぐことです。自分の我欲の心から出た垢をそぎ落とすのが、禊なのです。境内の展望台より見た瀬田川の瀬旧社地 昭和39年までは現在地よりもさらに瀬田川沿いに社殿がありましたが、下流に建設された天ヶ瀬ダムの竣工に伴い高台に移転しました銀杏の大木の手前あたりに旧社殿があり、川の瀬に向かって建てられていました神道にとって、とても重要な「大祓詞」誕生の地であり、「祓戸の大神四神」が祭られているのにも係わらず、佐久奈度神社の知名度は一般の方には低いのが現状です。瀬織津姫尊をはじめとする三神が伊勢神宮で祭られているのですが、それさえも公表されてはいないのです。「倭姫命世紀」に、伊勢神宮には「祓戸の大神」のうち三神が祭られているという伝承が載せられています。・瀬織津姫尊・・・伊勢神宮内宮・荒祭官(天照大神の荒魂として祭る)・速秋津姫尊・・・伊勢神宮内宮・滝沢宮並宮・気吹戸主尊・・・伊勢神宮外宮・多賀宮(豊受大神の荒魂として祭る)それどころか、瀬織津姫をお祭する神社には、受難の時代が今も続いています。この佐久奈度神社も、私の持っている3万分の1の道路地図には出ていませんでした。佐久奈度神社よりもはるかに小さい神社が、沢山のっているのにも係わらず。「祓戸の大神」を恐れ、タブーとして消し去ろうとする勢力が、未だに存在するのでしょうか?続く
May 6, 2008
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