「弾いてくれる人間が来るまで待つっていうのはケンさんのことだったのか」 ヒロキが言った。 「オレはすっかり騙されてたってわけだ」 ヒロキはクチを尖らせたが怒っているわけではなさそうだった。 「これからどうするんだろ、アイツ。妹は病院に入れるって言ってたけど」 憎んでいた父親が死んだことで少しは呪縛から解き放たれたのだろうかと店主は思ったがテツトのこころにはまた違う十字架が降りてきたのかもしれない。 「わたしが見届けるよ。オマエはこの町から出ていくんだろう」 店主がいうとヒロキは 「オレにもいちおう夢があるからな。それになんといってもこうして生きている」と言って古いピアノをみつめた。 もうこれを弾いてくれる人間はいないのだろうか。 あの少女は治るだろうか。兄が弾くピアノを隣で聞いていたあの時間を彼女はずっと覚えていてくれるだろうか。 テツトは兄を許しただろうか。いや、許せないだろう。どんなカタチであれそばにいて欲しかっただろう。 マスターもケンを待っていた。それはちゃんと生き直しに帰って来いということではなかったのか。 ケンは自分なりの決着をつけたのかもしれない。悲しすぎる方法だが。彼自身が決めたのだ。 ヒロキは故郷(くに)に帰ることに決めた。逃げることはもうやめたのだ。 マスターの好きな「ホテル・カリフォルニア」の最後のフレーズはこうだ。 You can check out anytime you like,but you can never leave. いや、オレはもう違う、とヒロキは思った。 あの唄の中のホテルの客たちは自分たちのことを「囚人」と呼んだがオレは違う。そしてテツトにもそう言いたかった。
旅立つ朝、店主はヒロキのためにレコードをかけた。 イーグルスの「Take it easy」だ。 「これは知ってるよな」と店主が言うと、ヒロキは「だからオレはその頃生まれてないってばよ」と言って笑った。