BANGKOK艶歌

BANGKOK艶歌

第二章(一話~三話)



(第一話)

 長い夜が明け、仕事を全てやり終えた羽田は、帰りを急いでいた。

 トンローから脇道に入るところで運転手を降ろし,先に帰らせた。食事代として100
バーツを手渡したが、その事の意味を、イサーン出身の男は心得ている。

 電動シートを後部に下げながら、ティックのコンドーの所在地を頭の中で描いていた。
昨晩の埋め合わせという名目で、夕食に誘ったのだ。
 そのコンドーは日本人駐在員も多く住むところであり、反対側のソイのタイ人社会と
は一線を画している風であった。
 大仰なエントランスの外で、約束時間前に出て来て待っているティックの姿を、おぼつかな
い薄明かりの中で見つけることが出来た。
 黒のパンツに清楚なピンクのカットソー、腕にはジャケットとヴィトンのバッグを抱え大理石の
柱にもたれ掛かって待っていた。足元からピンクのサンダルが覗いている。165cmを超えるだろ
うと思われるスレンダーな肢体が艶かしい。

 羽田は思った。

----(この姿を見ただけで、ハイソ好みの駐在員ならイチコロだな)

 決して、水商売の女ということを感じさせないハイソな空気を醸し出していた。しかし
普通、見掛けだけを誤魔化しても、その生い立ちや教育レベルは隠し切れないものである。
 それが、目の前の女は、昼間シーロム辺りで、書類ファイルを小脇に抱えてビルの谷間
を闊歩していても違和感を感じさせないものがあった。もう少し眺めていたいという欲望を押
さえ、女の横に車を滑らせ、窓ガラスを下ろして手招きした。

----流石だね、時間厳守を誰に教えてもらった?
----お付き合いしている日本人のオトコのヒト、全員(みんな)かな。
----お付き合い?君の言う、それはどういう関係を指しているのかな。
----親しいお客さんと、ホステスの関係。それ以外、何物でもないわ。
----じゃぁ、俺もそのうちの一人ってわけだね。

 ティックの性格からして馬鹿げた問い掛けをしていることは十分承知していたが、そういう類
のボール投げた後、どういう球種で返ってくるか試してみたかった。

----そういう台詞、言う男(ヒト)なんだ、羽田さんって。
----月並みなオトコさ。普通、いたって普通の・・・男。

 車をソイ奥でUターンさせ、大通りに出ようとする羽田に、思いがけない球が飛んできた。

----ねぇー、ホテル行きましょうか。

 身を乗り出して左右を確認する羽田の心臓が、急襲を受けて悲鳴を上げている。
 久しぶりにオタオタする自分が可笑しくて、苦笑い一つ吐き出して、その急場を凌ぐことが出
来た。

----ああ、「マリオット」ホテルで、美味い肉食べられるらしい、行ってみるか。
----チッ・・・
 舌打ち一つ零した後、ティックは助手席でしばらく笑いこけていた。
----何、どうしたの?

 羽田は、傍らの女が、どんどん自分の中に侵食してくるのを感じていた。ただ、それは心地
良く滑らかに羽田の芯に向かって流れ込んでくるものであり、そして何かを植えつけていくという
ものだった。
 しかし、もう一人の羽田が、本当に「同類」なのか?----と、どこかでブレーキを掛けている。

 その店は、ホテルの地下に有り、入り口右手奥がステーキハウス、真っ直ぐ奥には寿司バーと
なっている。既に、何組かのカップルが、席を占めていたが、タイ人、白人以外に日本人の姿
は無かった。
 ティックの好みで、ステーキハウスを選び、鉄板を目の前にしたカウンター席に向かった。

 店の照明の下に照らし出されたティックの横顔に見入ってしまった。
 薄い化粧とはいえ、念入りにメイクされたその端正な顔つきは、色白な肌と合わせて、男を
惹きつけて止まないものであった。
 既に、三十手前の年齢とはいえ、香り立つ色の前に、男の生殖器は疼き、誇張し、正常な
判断能力は奪い取られていくことだろう。
 カットソーの奥で透けて見える白いブラジャーの肩紐が、羽田のそれをも例外とさせないでいた。

----どうしたの?・・・意外と無口なんだ。
----君の毒が回ってきたみたいだな。
----じゃぁ、美味しいお肉食べられないわね。可哀想に・・・
----そうでもない。この後、君を食ったら、バンコク一の幸せな男になれる。

 羽田の左腕に寄りかかって、又笑いこけている。

----お部屋の鍵、見せてっ! 見たい、見たい!

 すきっ腹にビールが回ってきたのか、意識が痺れているように思った時、携帯電話の振動が
 それに冷水を浴びせた。

 ディスプレイを確認し、それが日本からであろうということを確認した後、フリップを開けた。

----もしもし?
----真理子です。今・・・大丈夫ですか?
----あぁ、いいよ。お父さん、どうかした?
----意識が戻っただけなのに、お父さん、退院するって言って聞かないんです。
----ダメだよ、ちゃんと先生の言うこと聞かせて、大人しくさせてないと。
----羽田さんもご存知でしょ?父のあの性格ですから・・・

 電話の向こうで真理子が泣いている。
 その時、一瞬であるが、ティックと目が合った。激しい「熱さ」を感じた。

----とにかく、絶対出しちゃ駄目だからね。この週末、俺もそっち行くから、それまで頑張って。
----来てくれるんですね、羽田さん・・・ああぁ、良かった・・・

 真理子はその羽田の言葉で眠るように得心したようで、羽田が帰るまで頑張ると言って電話
を切った。

----奥さんじゃないわね、恋人?それとも・・・フリン相手?

 恋人という言葉でなく、「フリン」という単語に羽田は酔いを覚まされた。

----ただの、友達だ。

 羽田の表情から素早く何かを汲み取ったティックは、次の一齣には目の前のコックに話かけていた。
 しかし、聞き慣れない羽田の声音に、苛つく自分を抑えるのに懸命だった。


   ******************


 週末、金曜日の夜。ドムァン空港は人で溢れていた。
日本行きの便のチェックカウンターに、タイ人が多く目に付いたのは意外であった。

 腕時計の針は、まだ出発まで、2時間余り残していることを教えてくれた。
 携帯電話から、ティックの番号を摘み出し、指図する。
 呼び出し音だけが機械的に繰り返すだけ。

----(お仕事中か・・・)

 予想はされたことだが、一応「足跡」を残しておこうと思った。

----『来週、火曜日の夕方には戻る。帰ったら、電話するから』

  そんな短いSMSながらも、 いつになくマメな自分に、呆れていた。

 KANSAI空港への到着は早朝の5時過ぎなので、そこからどうして病院に駆け付けるか思案
していた。
 大阪、天王寺の『警察病院』に鈴木は入院していた。
 結局、それは飛行機の中で、眠る前に考えるということで妥協した。

 半年ぶりの日本帰国であった。
 前回は、気の重い帰国であったのを思い出していた。
 「家裁調停」という、誰しも時間を割いて出向きたくない場所---そこにはもう5回通っていた。

 搭乗を促す館内放送が、タイ語の後英語で耳に入ってきた。
 羽田は、それに急かされるように携帯電話の電源を落とそうとした時、SMSが飛んできた。

----『来週の火曜日の夜は、ホテルの鍵、用意しておくからね。気をつけていってらっしゃい』

 もう一度読み返すこともなく、電源を落とした。
 きっと、キィーを打ちながら笑いこけているんだろう---羽田はそんな風に思うことにした。

 そして、あの豪華なコンドーや高価な持ち物、全てが見知らぬ日本人男の金で買ったものだ
と、醜い現実を敢えて自分に突きつけることで、やっとその甘い罠から逃れられる気がしていた。

紀州泉南の海岸線が、漁火を頼りに暗闇に浮かんでいる。
つい先程、眠りに着いたかと思うと、CAの到着を知らせる案内で目が覚めた。
 まだ始発電車の時間までは時間があったので、エアポートバスで市内に出ることにした。
 機内持ち込みの荷物だけであったので、税関検査も間単に終わり、待合ロビーに繋がる最終
の扉を潜った。

----羽田さん!

 予期せぬ日本人からの呼び止めの声に戸惑ったが、声の主が真理子であることを確認するには
そう時間を要しなかった。

----来なくてもいいって、言ったのに・・・
----だって、この時間でしょ?「足」、無いだろうと思って。
----いや、本当は助かったよ。バスで市内まで行くつもりしてたから。

 真理子とは五年ぶりの再会であった。
 早春の生まれたての朝陽が、二人の頬をゆっくり撫で始めている。

 この時、動き出す歯車の軋む音に、今この二人が気付く由も無かった。

                                                          (第一話  了)

(第二話)

 ハイウエイの照明たちはこれから眠りに入ろうとしていた。
 連絡橋を渡っている間、海面からの朝陽の反射で車内が水槽のように光輝いている。

----眠れなかったんじゃないですか?、着くまで寝ていてください。
----いや、いいんだ。眠れそうにないし・・・

 真理子の運転に不安を感じていた訳ではない。ただ、バンコク空港から抜け出て、市内に向かう
その時の感覚とは、明らかに違う、ちょっとした「興奮」がそうさせていたのかもしれない。
『湾岸線』を北上し市内環状線に入って、『恵比寿』ランプで降りた。寺町の一廓を通り過ぎて緩
やかな坂を上れば、『谷町筋』に出る。
 高校時代から、その辺りをホームグラウンドにしていた羽田は、空で地図が描けた。
 真理子は、車を『谷町筋』沿いのパーキングエリアに縦列駐車しようとしている。
 華奢な腕で、ハンドル操作を何度か繰り返し、やっと入った。

----ふーっ。ちょっと、珈琲でも飲んでいきませんか?
----いいねぇ、飲みたかったところだ。

 小洒落た喫茶店(カフェ)のカウベルを鳴らし室内に入ると、珈琲豆の香ばしい匂いが鼻の奥にツン
と浸みた。

----お父さん、大人しくしているのかな?
----ええ、羽田さん来るって言ったら、「来なくていいのに」とか零しながら、目尻下げてました。
----実際の様態は?
----左手が少し、痺れる程度で、本当に軽く済んだみたいですけど、先生の話だと次倒れたら
  命の保証は出来ないって・・・
----そう・・・誰かが「引退勧告」しなきゃいけないわけだね。
----誰の言うことも聞かないでしょうけどね。

 真理子の表情からして、深刻な時期は過ぎたことを察することができた。

 そしてそれは、窓ガラス越しに差し込んでくる陽にベールのように包みこまれ、マリア像のような慈愛
を放っている。
 ふーっとその腕の中に溶け込みたいという衝動を、頭(かぶり)を振って断ち切った。

----羽田さん、奥さんとのこと・・・
----ん? ああ、まだ係争中だよ。
----で、息子さんも娘さんもお元気ですか?
----ん・・・息子は来月から「霞ヶ関」に就職だ。娘は外大に進学(いく)らしい。
----やっぱり、血は争えないんですね・・・息子さん東京に行くんですか・・・
----血は争えない・・・か。ふっ・・・

 羽田は、吸いかけの煙草を灰皿の底で揉み消した。
 一瞬、フラシュバックする自分の三十台の頃を、力づくで消し去った。

 その羽田の仕草に、真理子は言葉にしてはならない感情を抑えきれずにいた。

   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 病室を訪れると、鈴木は眠っていた。朝食を摂った後、ネムリに誘われたようだ。
 深く刻まれた額の皺に、柔らかな春の陽がせせらいでいる。
 真理子は、花瓶の水を替えて来ると言って、部屋を出ていった。

 ベッド脇のスチール製の椅子に、足を組んで腰掛けた。
 その男の寝顔に見入っていると、誘われるように瞼が重くなり、そこから力が抜けていった。

----(あなた・・・どうして?いつもそんな身勝手なの?)
----(俺は、このままじゃ自分を保てなくなるんだ。分かってくれ・・・)
----(私は、いいから・・・お父さんに説明して。すっごく怒ってたわ)
----(また君の親父さんか。これは、少なくとも俺たち夫婦の問題だ、お義父さんには関係ない)
----(アナタ一人で勝手に決めて・・・いつでもそう、私や家族の事は蚊帳の外なのよ)
----(俺は、夫や父親である前に、一人の人間で居たい。それだけだ・・・)
----(そんな・・・そんな事が許されるとでも思ってるの?一人で生きてるなんて思わないで!)


----羽田ちゃん、来てくれたんか。

 鈴木の声が羽田を揺り起こした。
 眠りの中にいつも現れるその「会話」は、もう擦り切れるほど聞いたものだった。そしてその先は
もっと醜い詰り合いとなることを知っていたので、鈴木の「声」は有難かった。

----大事に至らなくて良かったですよ・・・親っさん
----あほっ・・・まだまだヘタルわけにはいかんのや、健一や雄二では頼りにならんでの。
----そんな事無いですよ、お二人とも立派な後継者じゃないですか。それに麟さんもいることだし。

 鈴木は、後継者としては高岡麟太郎をと考えている節があったが、「分家」の子を後継者に据
えるには相応の労力が必要だと分かっていたので、その事を自ら他人に話すことは無かった。

----どっちにしろ、まだ引くわけにはいかんのよ。
----そりゃそうですけど、無茶はもう止めて下さいよ。親っさん一人の会社じゃないんですから
----あぁー、そやな。俺も焼きが廻っちまったみたいだな。ぼちぼち、やるわ・・・

----あらまぁー・・・羽田さんの言うことは聴くんだ・・・
 真理子は病室の入り口で、花瓶を両手で持ったまま悪戯っぽい口調で、二人の間に入ってきた。

----アホっ、羽田さんは立派な大人じゃ。女、子供の言うことと、訳がちゃうわいっ!

 羽田は、鈴木が自分のことを「さん」付けで呼ぶのを、尻がこそばい思いで聞いていた。

----三十路の女捕まえて、女、子供でもないでしょが・・・ったくぅ。
----子供は、いくつになっても子供なんやっ。

 鈴木と真理子のやり取りを傍で聞いていて、胸が軋んだ。

----じゃ、私は又・・・来週にでも来ますんで。
----そうかぁ・・・?すまんな愛想なしで。今日は、真理子の嬉しそうな顔が見れて良かったわ。
----何言うん、お父ちゃん・・・

 病院の廊下を抜けきるまで、羽田の背中は寒々としていた。
 家族という「集団」の中で、寛いだ記憶がない。
 早くに両親を亡くし、たった一人の身内である兄貴とも、宗教の違いで疎遠になった。
 血の繋がりなど何の手助けにもならないもんだとさえ思っていた。

 上本町の『都ホテル』に部屋を取った。

 鈴木は自分の家に泊まって行けばいいと強く勧めたが、それではケジメが付かないと断った。

ほんとはケジメの問題ではなく、真理子と同じ屋根の下で夜を明かす勇気が無かったのかも
しれない。

 シャワーを浴び、一眠りすることにした。
 強い睡魔は何の手助けも必要とせず、羽田から意識を奪った。

 どれほどの時間が過ぎたのか、体感が鈍っているようで目が覚めたとはいえ、起き上がれずに
いた。
 窓の向こうで『通天閣』のフレームがオレンジ色に染まっている。


 ベッド横の時計が夕刻を指しているのを確認すると、日本仕様の携帯のスイッチを入れた。
 そこから、「エリカ」という名前を探し当て、ちょっと逡巡した後に、CALLボタンを押した。

 二、三度の呼び出し音の後、弾けるような声が飛び込んできた。

----パパ? いつ帰ったの。
----今朝・・・だ 
----どこに居るの?、今。
----今晩、飯、付き合わないか?
----うん、いいよー、どうせ暇してたし。

 ホテルのロビーで、7時半に約束をして、電話を切った。
 娘のエリカとは、帰国の度に何度か会っていたし、月に何度かはメールのやり取りをしていた。
反面、息子は男同士という水臭さを割り引いても、基本的にソリが合わないようだった。

 息子が「霞ヶ関」の役人になると決まったことをエリカから聞いた日、電話をしてみたが、遠い昔
の自分を見ただけであった。

----俺は、オヤジみたいに簡単にドロップアウトしないよ。
  この国を俺たちが操るんだ・・・きっとそうしてみせるよ。

----そうか・・・。省の仕事は思いのほかキツイから、体には気を付けろよ。
----キツイから、逃げたのか?
---- ・・・。

 今更、「理由(わけ)」を息子に語って聞かせる気力は残っていなかった。

 息子が、母親の性格を受け継いでいる代わりに、娘のエリカの中には自分の血が色濃く流れ
ているように思えた。

 鈴木と真理子を見ていて、こんな風に父娘として、家族として、遠慮なく話せたらいいのにと
いつもは思ったこともない事を、病院から出る廊下で考えていたのだった。

 ずっと、ほったらかしにしていた「家族」・・・
 娘が多感な年頃に、海外に逃げ出した父親。
 失った時間を埋める術を知らない、自分。

 そんな人間に、一丁前に父親らしいことなど出来るはずないとは分かっていたが、つい求めて
しまうようになったのは、歳の理由(せい)かもしれない。

 ホテルの最上階のレストランで、娘のエリカはテーブルの向かい側に座っている。
 娘の奔放さが羨ましく思えるほど、その場所は羽田にとって居心地が悪かった。

 どう、話を切り出していいのか、わからない。
 父と娘というのは、普通でも難しい関係であるはずで、その難解さを解く「公式」でもあれば
世の中の父親連中は、ゴルフの一度や二度行くのを諦めて金を出してでも手に入れるだろう。

----ねえ、パパ。エリカ、第二外国語でタイ語勉強するつもり

 溺れる者への「助け舟」のように思えた。

----ほぉー、そっか。でも発音が難しいよ、タイ語は。文法はいたって簡単だけどね・・・
----パパが、大好きなバンコクってどんな処か行ってみたいし。
----どうして・・・どうしてパパが、タイが大好きだって、わかるんだ?
----だって、子供ほっといてでも行きたくなるような処でしょ?・・・そこ。

 娘にしてみれば、「本音」で父親を虐めてみたかったに違いない。
 胸がキリキリ痛み、目尻に熱いものが溜まった。
 何の言い訳も、謝罪の言葉も出てこなかった。
 淡々と喋り、常に笑顔を絶やさず、自分に語りかけて呉れる娘。

(きっとこの子は、この子なりに、俺に気を遣ってくれてるんだろう・・・)

 思いのほか時間が早く流れていった。

----ねぇーパパ・・・
----ん? 
----エリカは・・・ほっとかれたエリカだけどね・・・ウソウソ、ハッハハっ

 一滴の堰が落ちると、道が出来たように流れ落ちていく。
 とうとう、涙腺のそれが切れてしまったらしい。

----ん・・・ごめんな、エリカ・・・
----違うねん。エリカ・・・今のエリカには分かんのよ、パパがママと・・・
----そっか・・・
----でもね・・・エリカは、パパの味方だよ?兄貴は、あのザマでマザコンやし・・・
  私がファザコンでちょうどエエやん、ネッ?

 ヒラヒラと小さな手の平を振りながら話す娘、エリカ。

 テーブルクロスの同じ一点が濡れ広がっていく。
 滲んでぼやけるエリカ(むすめ)の笑顔が愛しくてたまらなかった。

 心の底から、やっとの思いで搾り出した言葉を、娘(エリカ)は受け取ってくれたろうか。

----(アリガトウ・・・)

 別れ際に娘が言った。

----もうちょっとだけ・・・ママの前でいい子してるよ。
   で・・・自分で飛行機代稼げるようになったら、きっとバンコク(そっち)行くから。

 羽田は、大袈裟に頭(かぶり)を縦に振って応えるのが精一杯であった。

                                                        (第二話 了)

(第三話)

 大阪での4日間は慌しく過ぎ、再び『関空』への連絡橋を渡っている。

 車内には、真理子との会話が途切れ、重苦しい空気が流れていた。真理子が何かを
伝えようとしているのが感じられ、それを遮断するようなシールドが僅か数十センチの空間
に横たわっている風であった。
 羽を休めるどこかの航空会社の機影が見えてくると、早くあの中に乗り込んでしまいたい
という気分になる羽田であった。

----あぁー、もうそこで良いよ。ありがとう
----最後まで見送らせて下さい。まだ、時間はあるでしょ?
----うん・・・俺はいいけど、真理ちゃん会社に戻らなくても・・・
----今日は、休むって言ってきましたから。

 ピシャリと遮るような真理子の口調に、羽田はそれ以上何も言えなかった。

車を空港横の立体駐車場に停め、真理子は羽田に付き添った。
チェックインカウンターでバッゲイジを預け手続きを済ませても、まだ出発まで2時間もあるこ
が恨めしく思えた。

----珈琲でも飲む?
----はい。
 真理子の表情に明るさが戻った。
 案内板で出発時間に変更がないことを確認した上で、階下の食堂街へと降りた。

----お父さんのこと大事にしてあげてね。
----はい・・・でも、私も・・・
----ん?
----時々、一人ぼっちだって感じて、すっごく寂しくなって、辛くなる時もあるんです。

 真理子は4年前に離婚していた。銀行内の職場結婚であったが、相手方の姑との折り合
いが上手くいかなかったのだ。同居が条件の結婚であったが、真理子にしてみれば夫がもう少
し自分の味方でいて呉れたら我慢できたかもしれなかったのだが、女親との二人暮らしが長かっ
た為に、最後は母親を選んでしまったのだ。

----そうだね・・・健一君夫婦との同居も辛いだろうしね。
----お父さんが家に居て呉れたら、そうでもないんですけど・・・
----辛くなったら・・・休暇貰ってタイにおいでよ。

 言った端から、(しまった)と思った。

----えっ?、いいんですか、ほんとに?

 つくづく自分の馬鹿さ加減を恨んだ。

----あぁー、いいよ。でもお父さんの許可が出ればだけどね。

 そんな「逃げ道」を繕っても無駄であった。
----お父さんには、もちろん言ってから来ますけど、駄目だって言われても来ます・・・絶対っ。

 羽田は曖昧な笑みを浮かべてやり過ごすしかなかった。

 やっとの思いで真理子から逃げ出して、待合ロビーで時間を潰していると、まだOFFにし
ていなかった携帯電話が鳴った。
 エリカだった。

----パパ?・・・まだ発ってないよね。
----うん、もう少しで発つ。
----気を付けて行ってね・・・それだけっ!
----あぁ、ありがとう。エリカも頑張ってなっ

 浮かぬ心が少し華やいだ思いであった。スクリーンセバーに切り替わったディスプレイに視
線を落としたまま微笑んでいる自分が可笑しかった。

 機内食を平らげると、心地よい眠りに誘われた。
 いつからか、バンコクに「戻る」ことに心の安らぎを覚えるようなっていた。
 それが良いのか悪いのかなどということは考えもしない羽田であった。
 それと、もう一つの理由が、羽田のバンコクへの想いを強くしていたのかもしれない。

 夕方とはいえ、屋外には強い熱気残っていた。
 外で煙草を一服愉しんだ後、ティック宛に電話を入れた。
 時計は6時過ぎを指していたので、察するにシャワーを浴びている時間だったのか、呼び出
し音だけが響いていた。
 諦めて、SMSだけを残した。

----「バンコクに着いた。連絡待ってる」

 バンコクを発つ前の、ティックの甘い誘惑の言葉が脳裏を過ぎった。

(火曜日の夜は、ホテルの部屋の鍵を用意して待ってるから・・・)

 決してそれをアテにしていたわけではないが、ティックに会いたかったことは確かである。
 社に寄ることなくコンドーに帰ることにしていたが、市内の夕刻の渋滞に捉まり、トンローに
辿り着いたのは7時半を過ぎていた。
 きっとそれまでに何かの連絡がティックからあるものと思っていた羽田であった。
 しかし、電話もSMSも羽田の携帯を訪れることは無かった。

 コンドーでシャワーを浴び、空腹を覚えた羽田は、もう一度ティックに電話することにした。

----ハロー?・・・
----ごめんなさい。今、同伴中なの。また、連絡するから

 早口でいかにも早く電話を切りたいという雰囲気であった。
 羽田は少し、熱くなった。無闇に煙草を2,3本続けて吸った。
 そして、自分の「馬鹿さ」に呆れた。

----くそっ・・・(この俺ともあろう者が・・・)

 駐在1年生の男ならいざ知らず、夜の商売の女の表も裏も見てきたつもりの羽田は、自分
の「目利き」の成長の無さを嘲笑った。
 ほんの少しでも「期待」を持った自分が情けなくなるほど惨めに滑稽に思え、何かを蹴り
飛ばしたい衝動に駆られた。
 しかし、頭の奥が冷えてくると、今度は思いも寄らない笑みが浮かんできた。

----(ふふっ・・・だよな、そんな簡単じゃ面白くないよな。)

 改めて、ティックという女の「面白さ」に気がつき、燃え上がる何かを胸の奥で感じた。

----(一本ヤラレましたなぁーってとこか?次は、倍返しだ覚えとけっ!)



羽田は手っ取り早く着替え、煙草とライターを鷲掴みにして部屋を出ようとした時、ふと
掃除が行き届いた部屋の中を、パノラマ写真を見るように見渡した。
 そして寝室のドアを開け、クローゼットの中を探る目が冷たく乾いていくのが分かった。
 踵を返し、何かから逃れるように急いで部屋を出た。


 エレベーターのドアが開き、歩を進めようとした羽田の表情が凍った。


----プゥイっ・・・
----どこ行くの?帰ったばかりだというのに。

 女の刺々しい言葉が、羽田の五体に突き刺さった。


                                                          (第三話 了)


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