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【アニー・ホール】「精神科医に、ある男が相談するんだ。“弟は自分がメンドリだと思い込んでます”とね。すると医師は“入院させなさい”と言う。男は“でも卵は欲しいのでね”と答える。男と女の関係もこの話と似てるんだ。およそ非理性的で不合理なことばかり。それでもつき合うのは卵が欲しいからだろうね」恋愛と結婚というものが、必ずしも一致しないことぐらいは、大人ならだれだってわかる。若いうちは恋愛の延長線上に結婚があると思い込んでいる。でもそのうち、恋愛というものが幻想であったことを目の当たりにするのだ。現実というのは、ときに残酷だ。どんなに好きでも長く一緒にいれば喧嘩もするし、憎くもなるし、幻滅もする。そういう二人がひとたび「恋愛」という枠組みから解放され「友だち」という関係におさまったとき、びっくりするほどしっくりするのだから皮肉なものである。だれが言い出したのか忘れたけれど、「結婚するなら二番目に好きな人がいい」というのはまんざらでもない。相手と程よい距離間があった方が、ベタッとした関係より長続きするという過去のデータがあるからだ。 今回、私は『アニー・ホール』をレンタルしてみた。この作品はずいぶん古く、もう40年も前のものである。ウディ・アレン監督の代表作なのだが、人間の営みは時代にほとんど左右されないらしく、現代でもまったく違和感はない。ざっくり言ってしまえば、男女の恋愛が一筋縄ではいかないところを絶妙に表現している。 ストーリーはこうだ。コメディアンのアルビー・シンガーがアニー・ホールと出会ったのは、友人と一緒に行ったテニスクラブである。二人はなんとなく仲良くなっていった。アルビーはアニーにあれやこれやと自分の生い立ちを告白する。ニューヨークのブルックリンで育ち、幼少期から神経質で屁理屈をこねる、ませた子どもであったこと。2回婚歴があり、2回とも離婚していること。そして15年間ずっとセラピーにかかっていることなどである。一方、アニーも付き合って来た彼氏について語り、家族との食事にアルビーを誘ったりした。アルビーはアニーが教養のないことをコンプレックスに感じていると思い、大学で学ぶことを提案した。アニーはアルビーと同衾するとき、欠かさず薬物の力を借りた。そうでもしなければ気持ちが冷めてしまってモチベーションを維持できなかったからだ。だが二人は少しずつギクシャクし、関係が悪くなっていく。アニーは大学の教授と関係を持ち始め、アルビーも別の女性と付き合い始める。こうして二人の関係は切れたかに思えたが・・・ 『アニー・ホール』はアカデミー賞受賞作品であり、ウディ・アレン作品の中でもとりわけ人気の高いものらしい。(ウィキペディア参照)とはいえ、私個人としては退屈な作品だった。もしかしたら、今の私の気分的なものが左右したのかもしれない。男女の惚れたはれたについて、さほど興味がなくなって来ているのも事実だし、ラブ・ストーリーならせめてハッピーエンドにして欲しいという、映画に対する願望もあるからだ。 おもしろい演出だなと思ったのは、作中でアルビーとアニーがそれぞれのセリフ以外に、心の声が字幕で表されているシーンである。さらには、主人公のアルビーがカメラ目線で視聴者に問いかけるシーンがあり、ウディ・アレン監督オリジナルの表現技法があちこちに垣間見られる。この作品が人気なのは、当時としては斬新な演出や、男女の出会いから別れを万人が共鳴できるものに完成させた点であろう。恋愛が永遠のものではないことはわかっていても、人はいつだってだれかを愛さずにはいられない。出会いと別れを繰り返すのが男女の常。私はこの作品からそういう人間の性(さが)を感じずにはいられなかった。ラブ・ストーリーにしてはあまりに現実的で、夢や希望の入る余地さえない作品に思えた。 1977年(米)、1978年(日)公開【監督】ウディ・アレン【出演】ウディ・アレン、ダイアン・キートン
2017.06.04
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【プライドと偏見】「彼が高慢で不愉快なことは皆知っているよ。おまえが好きだというなら問題ないが・・・」「好きなの。彼を愛してます。私が間違ってたの。彼をすっかり誤解してた。パパも知らないのよ、本当の彼を・・・」元同僚の息子さん(26歳)が、今年の秋に結婚とのこと。晩婚化が進んでいる昨今では、珍しく早めだ。とはいえ、男子26歳では少しばかり早すぎはしまいかと思いきや、「男ばかり3人の息子らなので、長男が片付かないと下がつかえていけない」とのこと。そんなもんなのかと、母親としての心境を傾聴した。「やっぱり男は結婚して一人前なのよ。あなたもそのうちわかるわよ」私にも一人息子がいるせいだろう、元同僚は説得力のある口ぶりでそう言った。深い意味はないとしても、その考えが一般社会の常識と見て間違いはない。確かに、いい年したシングルの男性と接したとき、どことなく居心地の悪さというか、幼さとか不安定さを感じてしまうことがある。おそらく結婚によって、人間が成熟するということなのだろう。(無論、それだけがすべてではないけれど。) 今回はTSUTAYAで『プライドと偏見』を借りた。これはイギリスの女流作家ジェイン・オースティンの小説が原作となっている。驚くのは18世紀に女性がこれだけの作品を執筆していたということだ。(日本はまだ江戸時代。女性の地位は低く、読み書きできるのはほんの一握りという時代である。)『プライドと偏見』をラブ・ストーリーとして分類してしまうのは早計だ。ざっくり言ってしまうと、恋愛ドラマというより英国中流家庭のホームドラマである。もう少し丁寧に言えば、女性が結婚に至るまでのプロセスを冷静で客観的な視点から描いている。ストーリーはこうだ。舞台は18世紀末のイギリス、ハーフォードシャー州ロングボーン村。ベネット夫妻には5人の娘たちがいた。美人の長女ジェイン、聡明な二女エリザベス、三女のメアリー、四女のキャサリン、そして五女のリディアである。この時代、女性には一切の相続権がなく、万が一、父親が亡くなれば遠縁の男子が相続する決まりとなっていた。そんなわけで、ベネット夫人はなんとか娘たちを資産家と結婚させようと躍起になっていた。ある日、年収5千ポンドの独身男性ビングリー氏が近所に引っ越して来た。ベネット家の娘たちは、期待感と好奇心でワクワクするのだった。舞踏会の催される晩、ビングリー氏は妹のキャロラインと親友のダーシー氏をつれてやって来た。ビングリー氏はすぐにジェインの美貌に心を奪われ、ダンスを申し込む。一方、ダーシー氏はどこかとっつきにくく、プライドばかり高そうな人物に見えた。ベネット家の娘たちに対しても見下しているような素振りさえ感じられた。エリザベスはそんなダーシー氏に反感を抱き、しだいに嫌悪感を募らせていくのだった。 惚れたはれたの恋愛小説ではないので、原作の方はもっと淡々と描かれている。相手の年収がいくらだとか、どれほどの資産を所有しているかとか、うるさい小姑がいるかいないかなど、女性の婚活は現代よりもっとシビアでハードなものだったかもしれない?! 主人公エリザベスに扮したのは英国人女優のキーラ・ナイトレイだ。代表作に『つぐない』『パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズなどがある。ものすごい美貌の持主なので、正直、美人の長女という設定であるジェインが二女のエリザベス役のキーラに呑まれているようにも思えた。この作品がおもしろいのは、結婚を意識する女性たちに虚飾がないからだ。さらには、この当時の中流家庭の日常を巧みに再現し表現しているところが興味深いのだ。恋に落ちるまでの男女の波瀾万丈を描いたストーリーはいくらでもあるけれど、お見合い結婚から恋愛結婚への意識改革を計ったような作品は珍しいのではなかろうか。『いつか晴れた日に』も併せて、女性のみなさんにお勧めしたいイギリス映画である。 2005年(英)、2006年(日)公開【監督】ジョー・ライト【出演】キーラ・ナイトレイ、マシュー・マクファデイン
2017.05.07
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【ノッティングヒルの恋人】「ずっとあなたのことを想ったわ。いつもまともな人との関係を大切にしようと努力しても、不幸な結果になるの」「その気持ちだけでうれしいよ」図書館の雑誌閲覧コーナーで週刊新潮の最新号を読んでみた。デキる男!?は好色なのか何なのか知らないが、政治の最先端で舵を切る某氏は、なかなかの人物だ。記事のすべてを鵜呑みにするわけではないけれど、仮に事実だとして、妻子ありながら他にも二人の女性と色恋沙汰になるなんて・・・まったくもって女の敵だな、と私は憤る一方で、恋愛というのは年齢など関係なく、常識にとらわれないところで発生するドラマなんだと実感した。つまり、才能がないと恋愛なんて成立しないものなのだ。その点、私なんか身も心もカサカサして浮いた話の一つもなく、不倫報道で世間を賑わす某氏に、あるいは嫉妬さえ覚えているのかもしれない。これではいかんと、TSUTAYAで借りたのは、90年代の名作『ノッティングヒルの恋人』である。カテゴリにしたらロマンティック・ラブ・コメディというやつだ。当時ものすごい話題にもなり、舞台となったロンドン西部ノッティングヒルに観光客が押し寄せたのだ。もちろん、日本人観光客も殺到し、小さな街がだいぶ潤ったのではと想像がつく。私はこの作品を何度か見ているが、何度見ても同じ感想しか出て来ない。恋愛とは一つの才能だとつくづく感じさせるものである。ストーリーはこうだ。舞台は西ロンドンの下町ノッティングヒル。ウィリアム・タッカーは、しがないバツイチ男で、旅行ガイドブックの専門店を営んでいた。そこへ突然お忍びで現れたのがハリウッド・スターであるアナ・スコット。ウィリアムはあまりにもびっくりして気の利いた会話もできないでいた。だが二人は視線が合った瞬間、お互いが惹かれあっていることに気付いてしまう。アナがガイドブックを一冊購入して店を去ったあとも、ウィリアムは興奮冷めやらぬ気持ちでいっぱいだった。その後、オレンジジュースを買いに出かけ、再び店に戻る途中、大失態をおかしてしまう。街角で女性とぶつかり、その拍子にジュースを服にこぼしてしまうのだ。ところがその女性は、なんと、ハリウッドの大女優アナ・スコットであった。再び目の前にいる大スターを目にしたウィリアムはオロオロしながらも、必死で近所にある自宅に招き、着替えをしていくよう提案する。アナはその申し出を断らず、ウィリアムの自宅で洗面所を借りた。ウィリアムは飲み物やスイーツなどを勧めたりしてアナをもてなそうとするが、アナは優しく断り、微笑んでいる。夢心地のウィリアムはアナを玄関まで見送り、現実に起こったことが信じられないでいた。アナが去ってしばらくすると、再びチャイムが鳴る。ドアを開けてまたまたウィリアムは驚く。アナが「本を忘れた」と言って戻って来たのだ。そして二人の視線がかみ合った瞬間、アナは突然ウィリアムに唇を重ねるのだった。 主人公アナ・スコットに扮するのはジュリア・ロバーツ。代表作でもある『プリティ・ウーマン』の大ヒットに気を良くしたのか、ロマンティック・ラブ・コメディ作品に度々登場することになる。『プリティ・ウーマン』では一介のコール・ガールが玉の輿に乗る恋愛成就ドラマを見事に表現した。大きな口で「ギャハハハ」と笑うおバカキャラを、厭味なく演じたのも高評価につながったと思う。『ノッティングヒルの恋人』では、ある意味、等身大の自分を演じてみせたような素振りもうかがえる。90年代を席巻したジュリア・ロバーツだが、この時期をピークに低迷が続いている。一方、英国人俳優ヒュー・グラントは、その気品もさることながら、見え隠れするインテリジェンスが止まらない!自分の立ち位置をよくよくわきまえた役者さんで、安定した演技力だ。 こういうお伽話のような恋愛なんかありえないとケチをつける前に、もともと恋愛とは幻想なのだと達観した心境で見てみると、すばらしいものに感じる。バブル崩壊後、本当に大切なのは「だれかを愛すること」なのだと、日本中が恋愛至上主義に走った。そんな時代を象徴するような笑いあり恋愛ありの代表作と言っても過言ではない。一見の価値あり。 1999年公開【監督】ロジャー・ミッシェル【出演】ジュリア・ロバーツ、ヒュー・グラント
2017.04.30
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【シー・オブ・ラブ】「私は一人 人里離れた森の中の 一軒家のように 私の心に手を触れる者はなく 木枯らしが吹く 温かい手よ この冷たい心を 温めておくれ 優しいほほえみと甘い歌で この家を満たして」今回は20年以上も前の旧作を見た。サスペンスとしては定石ながら、主役のアル・パチーノが若くて機敏で生き生きしていて、とにかくカッコイイ。ヒロインはエレン・バーキンだが、あれ、このコンビはどっかで見たなぁと考えた。そうそう、『オーシャンズ13』にもこの2人が仲良く出演していたっけ。悪役のアル・パチーノを補佐する有能秘書役として、エレン・バーキンが出演したのだ。とすると、ソダーバーグ監督がねらったのは、この『シー・オブ・ラブ』へのオマージュ(?)だったのだろうか。 それはともかく、この作品で特に注目してもらいたいのは、アル・パチーノの一つ一つの動作だ。フツーのオジサンがお酒を飲むシーンなんて、それほど様になるものじゃない。それがどうだ、アル・パチーノがグラスを手にした瞬間、中年男の悲哀とか孤独が画面を覆い尽くすのだから不思議だ。しかも、酔っ払って相手に絡むシーンなんか、せつなくなるほどのやるせなさを感じる。さらに、アル・パチーノの目力にも注目だ。冷酷なまでの威圧感を漂わせ、相手に付け入る隙を与えない。とにかくスゴイ。 ストーリーはこうだ。舞台はニューヨーク。ある日、全裸の男がうつ伏せになって銃で撃ち殺されるという事件が起きた。ニューヨーク市警に勤続20年の刑事であるフランクが担当することになった。被害者の傍に残されていたのは、口紅のついたタバコ、それに繰り返し流れるドーナツ盤のレコード「シー・オブ・ラブ」であった。その後、ブロンクスの分署に勤務するシャーマン刑事から、同様の手口で事件が起きていたことを知り、2つの事件は同一犯の仕業ではないかと捜査を始める。手がかりは、2つの事件の被害者らは、どちらも雑誌に詩を掲載し、恋人募集の広告を出していたのであった。フランクとシャーマンは、その雑誌に同様の広告を載せることでおとり捜査に踏み切った。2人は私書箱に寄せられたたくさんの手紙の差出人である女性たちと、コンタクトを取ることにした。そして、分刻みでカフェバーに現れた女性たちとデートし、グラスに着いた指紋を現場に残されたものと照合するのだった。 主人公フランクに扮するのはアル・パチーノだが、このキャラクターというのが、妻と別れて孤独な日々を過ごし、職場の同僚に絡んだりして、ちょっと残念なオジサンなのだ。だが、おとり捜査の際、たまたま出会ってしまった一人の女性、ヘレンに恋をし、容疑者であるにもかかわらずのめり込んでいく。この時の濡れ場がイイ。戸惑いながらもヘレンに惹かれていく自分を抑えられない男の悲哀が、烈しい欲求を伴って表現されている。サスペンスだが、もう最初の方で犯人は分かってしまった。それでも私はこの作品が好きでたまらない。古い作品だが、後味の良い結末に安心して鑑賞できる佳作だと思う。 1989年公開【監督】ハロルド・ベッカー【出演】アル・パチーノ、エレン・バーキン、ジョン・グッドマン
2015.06.13
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【her 世界でひとつの彼女】「コンピュータが恋人ですって?」「単なるPCじゃない、人格があるんだ。意志があるんだ」「そんなことを言ってるんじゃないの、リアルな感情と向き合えないなんて悲しい、、、」「リアルな感情だよ! 君に何が、、、(黙る)」ここ最近、人工知能(AI)がキーワードとなる作品をたくさん見ている気がする。これだけコンピュータ対人間を扱った作品が次から次へと登場すると、いよいよ業界もネタ切れかと、ため息の一つもつきたくなるところだが、『her 世界でひとつの彼女』はとても良かった。たぶん、リアリティを感じさせるからだと思う。人間の話し相手になる人工知能型ソフトは、近い将来、確実に開発され実用化されるだろう。社会がますます個人主義となり、単独世帯が増えれば、考えられるのはペットに代わるロボットだ。とはいえ、ロボットは維持・管理・見た目にも何かと問題がつきまとうことが予測されるが、ソフトをPCやスマホにインストールして気軽に扱えるとなれば、がぜんこちらの方が普及するように思える。 『her』においては、主人公が最新型人工知能(サマンサ)に惹かれ、やがて恋に落ちてゆく物語である。 ストーリーはこうだ。舞台は、近未来のロサンゼルス。手紙の代筆業をなりわいとしているセオドアは、妻・キャサリンと離婚調停中。キャサリンへの想いが深いだけに、なかなか離婚届にもサインができず、孤独で、精神的にも不安定な日々を送っていた。そんな折、最新の人工知能型ソフトのコマーシャルに釘付けとなった。セオドアはさっそくソフトを購入。人工知能型ソフトは自らを“サマンサ”と名乗り、セオドアの良き話し相手となる。サマンサは人間と同じように個性を持ち、勤勉で優しさを兼ね備えていた。そんなサマンサにセオドアは徐々に惹かれてゆき、やがて恋に落ちるのだった。 メガホンを取ったのはスパイク・ジョーンズで、代表作に『かいじゅうたちのいるところ』などがある。この監督のスゴイのは、SFをSFで終わらせずにちゃんとラブ・ストーリーとして完結させているところだ。近未来のことなのに、リアル・タイムな感じがしてウソっぽくない。なぜなんだろう?と考えてみたところ、主人公の不安や孤独な状況が、今を生きる私たちと五十歩百歩に思えないだろうか。つまり、共鳴できるのだ。この共鳴こそが、映画を鑑賞する上で高いポイントとなるのだ。 それにしてもつくづく感じたのは、大恋愛の末に結婚しても破局はあり得るし、濃密な間柄であればあるほど、その結末は残酷だということ。一方、実態のないコンピュータ上の人格でも、ひとたび感情移入してしまえば別れはとてつもなく辛く、悲しい現実となるのである。セオドアが妻・キャサリンとの楽しかった過去を回想するシーンと、人工知能型ソフト“サマンサ”とのひと時を比較してみるとおもしろいかも。万人におすすめだ。 2014年公開【監督】スパイク・ジョーンズ【出演】ホアキン・フェニックス、エイミー・アダムス、スカーレット・ヨハンソン(声の出演)
2015.04.04
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【アジャストメント】「これは何かの試験か?」「ある意味誰にとっても試験といえる。調整局も含めてね。君は彼女のために全てを賭け、彼女も君のために全てを賭けて、あのドアをくぐった」ハリウッド映画には、必ず傾向みたいなものがあって、それはどうやらキリスト教的宗教観にどっぷりと浸かっているか、あるいは多少の影響下にある作品がほとんどである。だからこの作品の原作となったSF小説は、全米でベストセラーとなったようだが、キリスト教圏ではない日本人にとっては、少なからずイマイチに思えてしまうのではないだろうか。とりたてて難しいことを表現しているわけではないのだが、“神”や“天使”といった存在は、日本人にとっては神話的な物語の架空の人物として捉えがちで、身近なものに感じられないのも理由の一つであろう。この作品のテーマとなっているのは、世界を支配する神にはいろいろと計画(プラン)というものがあり、その計画を実行に移すために、秘書的な存在の天使があちこち動き回って操作する、というものだ。さらには、そういう計画に対して人間は無知だし、意志のある動物なので自由でありたい、だから計画にはない方へと進んでいく場合も多々あるんだぞ、といったところだろう。ゴシップ記事の影響で、選挙の敗戦が色濃くなった上院議員候補のデヴィッド・ノリスは、トイレで落ち込んでいた。誰もいるはずのない男性トイレで独り言を漏らすデヴィッドだが、なんとそこには運試しに身を潜めていたエリースがいた。二人は他愛ない会話を交わすが、たちまち惹かれ合う。エリースとの出会いにより、デヴィッドは敗戦会見を無事に乗り越え、しかも後日、一流企業の役員として迎えられることになった。そんな中、人間の運命を操作する運命調整局のエージェントたちが、デヴィッドとエリースが結びつかないように画策するのだった。アジャストメント・ビューローのエージェントたちは、特殊な能力を使い、人間たちの運命を司るのだった。アメリカらしいラブ・ロマンスを感じたのは、やはりラストだろう。デヴィッドとエリースが二人で時空を超えるドアを次々と開けて、追っ手から逃げるという山場なのだが、最後の扉を開けるとニューヨークが一望できる。これはおそらく人間が自分の意志で自由を勝ち取った歓びを表現しているに違いない。(ニューヨーク→自由の女神)そして、愛のためなら神の計画さえ変更させるという意味も含んでいるかもしれない。 ハリウッドらしい自由とラブを尊ぶ作品なのである。2011年公開【監督】ジョージ・ノルフィ【出演】マット・デイモン、エミリー・ブラント
2014.07.24
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【わすれた恋のはじめかた】『第2章 幸せは心の在り方。何事も練習が必要だ。1日5分、ただ笑ってみること。そうすれば、いつか自然に笑える』『第15章 人生の岐路に立った時は、覚えておくこと。終わりは始まりにすぎない』 人間は、もともと弱い生きものだ。弱いからこそ、その身を守るため、必死に武器を作り、威嚇し、優位に立とうとする。 だが“自分とは何ぞや?”という永遠の命題に直面した時、人は丸裸で無力な自分にがく然とするのだ。救われたい一心で神によりどころを求める者たちはまだいい。宗教という名のもとに守られるからだ。一方で、神仏に距離を置く者たちは、より現実に即した生き方の模索を始める。苦悩する自分に焦りを覚え、何とかして打開策を見つけねばと、生きて行く上での指南書を探そうとする。言わばそれこそが“自己啓発書”と言われるものだろう。極端に言ってしまえば、宗教に代わる、生き方の指南書みたいなものかもしれない。本作「わすれた恋のはじめかた」では、主人公のバークが自己啓発書を出版し、思わぬ大ヒットに恵まれたという設定になっている。バークの本は、悩める人々の大きな支えとなり、ベストセラーとなったものの、当人にとってそのことは目的ではなく、結果としてそうなっただけのことであり、当惑ぎみなのだ。作品は、そんなバークがどういう経緯で本を書き、自分を見つめ直していくきっかけを得たのかが核となっている。自己啓発書を出版したところ、たちまちベストセラー作家となったバークは、全米を回って講演会に追われていた。そんなバークは、2年前に愛する妻を亡くし、その悲しみから立ち直れずにいた。多くのファンから支持されてはいるものの、バーク自身は、まだ本当の自分と向き合ってはいなかったのだ。ある日、バークはシアトルにやって来る。講演会のためであったが、バークは最後までシアトルは気が進まなかった。シアトルは、亡き妻との思い出がたくさん残る地だったからだ。そんな中、バークは花屋を経営するエロイースと出会う。エロイースもまた恋に傷つき、恋に臆病になっている女性だったのだ。主役のバークに扮したのはアーロン・エッカートで、代表作に「幸せのレシピ」や「ブラック・ダリア」などがある。地味な顔立ちながら、素朴で恋愛には真面目なキャラクターとして、好印象を与えている。また、ヒロインのエロイース役であるジェニファー・アニストンも、キュートで魅力的な女性を丁寧に演じている。ちなみにこの女優さんは、ブラッド・ピットの元妻である。ラブ・ストーリーとしては定石ながら、恋に傷ついた男女がお互いを癒し、再び人を愛していこうとする姿勢を見せてくれるラストとなっている。観終わった後は、なんとなく心がほっこりするような、優しい作品であった。2009年(米)公開 ※日本では劇場未公開【監督】ブランドン・キャンプ【出演】アーロン・エッカート、ジェニファー・アニストン
2014.04.02
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【春の雪】「今日・・・もしも僕が来れば・・・会ってもいいと・・・聡子は心に決めているかもしれない・・・そんな聡子を信じてやらなければいけないんだ・・・(清顕、咳き込む)」「ならば僕が行こう。僕のことも信じてくれ・・・僕は・・・君の友だ!」正直に言ってしまおう。私は三島由紀夫の作品が大好きだ。この作家の何が凄いかと言えば、日本の文学にありがちなじめじめ感や、しみったれた風土くささが微塵も感じられないところだ。しかも、海外読者を意識してのことなのか、言葉に力があり、しかも論理的だ。三島の美文は有名な話だが、ロマン主義に成り立つ緻密な文体は、ある種、芸術の域にまで達する。そんな三島の最後の大作である『豊饒の海』より第一部「春の雪」が、行定監督によって映画化されるとこうなるのか、ふむ。この作品が映画化されるのは初めてではないらしいが、先の映画を知らないだけに、充分見ごたえはあると思った。さて、「春の雪」について。時代は大正初期。新華族の松枝清顕は、公家の優雅さを身につけるようにと、幼いころは綾倉伯爵家に預けられていた。綾倉家には清顕より2歳年上の聡子という令嬢がおり、二人は姉弟のように育てられた。 18歳の清顕は、プライドが高く、だが繊細な神経を持つ学習院の学生となった。聡子はそんな清顕に恋心を寄せるが、清顕はそれを知ってか知らずか突き放したような態度を取る。つれない清顕に、なんとか思いを届けたい聡子は、日に何通もの手紙を書き、その気持ちを切々と訴え続ける。だが清顕は、それらを読みもせず燃やしてしまう。その後、聡子に洞院宮治典王殿下との縁談が持ち上がり、いよいよ婚姻の勅許が発せられる。こうして清顕は、聡子が自分の手の届かぬ存在となって初めて己の恋心に気づき始める。 清顕は、親友の本多と、聡子付きの女中・蓼科の協力を得て、逢瀬を重ねるのだった。 この映画は、清顕と聡子の悲恋をテーマにしている、と簡単に言いたいところだが、実は違う。これは清顕と本多との男同士の友情を讃えたものだ。剣道で精神を鍛え、法科で法と秩序について学ぶ本多は、自己中心的な清顕のことを忍耐強く見守り、支えていく最高の友として描かれている。ラストで清顕が病に伏しながらも聡子に会いたいと懇願した時も、傍には本多がいた。 本多は、病の清顕に代わり月修寺門跡を訪れるのだが、このくだりも泣ける。男同士の友情にだ。これは私なりの解釈だが、恋などは脆くも儚い幻に過ぎず、真の友情こそが永遠のものなのだと、三島が高らかに言い放った核心のような気がしてならない。さて、皆さんはこの作品をどうとらえるでしょうか?2005年公開 【監督】行定勲【出演】妻夫木聡、竹内結子
2014.02.16
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【やさしい嘘と贈り物】「君に相談がある」「いいよ、どんなこと?」「実は・・・女性のことだ」「女性? 女性の何が知りたい?」「ひょんなことから彼女と出会った。たぶん僕に気があると思う。デートに誘われたんだ」「任せろ。(僕は)専門家だ」本作「やさしい嘘と贈り物」は、ある意味スリリングでミステリアスな作品である。一方で、クレジット通りラブ・ストーリーとして鑑賞するならば、愛の結晶、または絆を謳ったドラマでもある。メガホンを取った監督は、まだ20代半ばの新鋭で、そういうプロフュールに対する先入観を持っても持たなくても、何か古典的なものへのあこがれの感じられる演出になっている。主役の二人の役者さんが老齢ということもあり、本音を言ってしまうと、華やかさには欠ける。脚本は、展開としてはおもしろく、下手なサスペンス映画よりも数段ミステリアスな作風で、視聴者を惹き付ける。だが、この作品で堪能して頂きたいのは、何と言っても役者さんの演技であろう。主人公ロバート役を演じた、マーティン・ランドー。この役者さん、忘れもしない「刑事コロンボ」シリーズの“二つの顔”という回に、犯人役として出演している。なにぶん、40年近くも前なので、当時は髪の毛も真っ黒フサフサで若々しかった。それよりももっと遡ると、ヒッチコック作品である「北北西に進路を取れ」にも出演している。今でこそ老いたりと言えども、オスカー俳優としての貫禄がそこかしこから感じられる、往年の大スターなのだ。さらに、メアリー役に扮するエレン・バースティンは、世界を震撼させた「エクソシスト」の、悪魔にとり憑かれた少女の母親役を演じた女優さんである。(吟遊映人もすっかり忘れていて、彼女のプロフィールを閲覧して思い出したのだ)一人暮らしの老人ロバートは、スーパーの仕事をしながら毎日規則正しい生活を送っていた。だが、孤独と寂しさからなのか、夜な夜な意味不明な夢をみて、朝はあまり快適な目覚めではなかった。クリスマスも近づいていて、外は真っ白な雪景色だというのに、それを愛でる余裕はなく、ポッカリと開いた心の穴は埋められず、淡々と日々は過ぎてゆく。そんなある日、いつものように仕事から帰宅すると、家の玄関扉が開けっ放しになっているではないか。おそるおそる家の中に入ると、自分と同じ世代のメアリーという女性がいた。メアリーは、向かい側の家に引っ越して来たばかりであいさつに来たのだった。この作品を観てつくづく感じたのは、やっぱり本物の演技はすばらしいということだ。 ごくごく日常的な会話、何気ないしぐさなど、これを視聴者に不自然さや違和感を覚えさせることなく演じられる役者さんは、本物なのだ。例えるならば、かつてCMに出演していた、三國連太郎と八千草薫の演技みたいなものかもしれない(笑)本作において、目を見張るような演技を、惜しげもなく披露してくれるマーティン・ランドーとエレン・バースティンの二人に、盛大なる拍手を送りたい。バレンタインデーの今日、絆を謳ったラブ・ストーリーを、わかい二人のみならずご家族一緒にご覧くださいな(^^)2008年(加)、2010年(日)公開【監督】ニコラス・ファクラー【出演】マーティン・ランドー、エレン・バースティン
2014.02.14
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【オーストラリア】「今年も雨期がやってくる」「雨期って?」「美しいよ。(雨期には)鳥が群れ飛び、小川が河になり、砂漠は湖に変わる。ファラウェイ・ダウンズは島になる。緑と花、生命が息づく」「砂漠の中の孤島に?」「サラ、乾期が来たら俺は牛を追う」「・・・でも今は雨期よ」ハリウッド界のドル箱女優と言えば、ニコール・キッドマンである。容姿端麗で知性的、申し分のない大スターなのだ。この女優さんを育て上げたのは、かのキューブリック監督に他ならないと言われているが、それにしても元々光る素材を持ち得ていたのは彼女自身なのだ。映画界の巨匠と出会い、その千載一遇のチャンスを逃さず、彼女はしっかりとその教えを手中に収めたのだ。本作「オーストラリア」においても、ニコール・キッドマンの存在感たるや見事なものである。正に、砂漠に咲く一輪の薔薇の如し、なのだ。イングランド貴族のサラ・アシュレイ夫人は、単身でオーストラリアに出向いている夫のことが気になって仕方がない。夫は仕事にかまけて1年もロンドンに帰って来ないからだ。痺れを切らしたサラは、思い切ってオーストラリアへ出向く。そこで待ち受けていたのは、粗野なカウボーイのドローヴァーであった。ドローヴァーの案内で夫の経営するフェラウェイ・ダウンズに向かったところ、屋敷は荒れ果て、夫は何者かに殺害されベッドに寝かされていた。本作「オーストラリア」の舞台となるのは、オーストラリアそのもので、時代的には第二次世界大戦が勃発するか否かの混沌とした時期である。人種差別はもちろんのこと、まだまだ女性が虐げられて来た背景も重なって、内容的には本来重く感じるはずのものである。ところが一人一人のキャラクターが、明るく魅力的で、ストーリーをギトギトさせない効果を発揮している。ヒュー・ジャックマンの演じたドローヴァーは、アボリジニの女性と結婚していたという経歴の持ち主で、同じ白人たちから蔑視される。また、不思議な力を持つ少年ナラは、白人とアボリジニとのハーフで、実父から命を狙われるという残酷な境遇にいる。このようなドラマチックなキャラクターセッティングにより、歴史的で膨らみのあるストーリーへと完成されている。何はともあれ、雄大なオーストラリアの自然を舞台に展開するヒューマン・ラブストーリーを、全編通してご堪能いただきたい。2008年(豪)、2009年(日)公開【監督】バズ・ラーマン【出演】ニコール・キッドマン、ヒュー・ジャックマン
2014.02.02
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【愛を読む人】「人は“収容所で何を学んだか”と訊くわ。収容所はセラピー? それとも一種の大学? 学ぶものはないの。それだけはハッキリ言える。彼女への許しが欲しいの? 自分の気を軽くしたいの? カタルシスが欲しいなら・・・芝居に行くか本を読んで、収容所なんか忘れてちょうだい。何も生まれない所よ・・・何も」本作はドイツ人作家であるベルンハルト・シュリンク原作の『朗読者』という小説を映画化したものである。シンプルなオリジナル・タイトルと比較すると、「愛を読む人」という邦題は、実にドラマチックで興味をそそられる。メガホンを取ったのはスティーブン・ダルトリー監督で、代表作に「めぐりあう時間たち」などがあるが、アカデミー賞9部門にノミネートされるなど非常に評価の高い作品を手掛けている。さて、本題に入る。本作「愛を読む人」のテーマは、ズバリ、“状況判断”ではなかろうか。もっと噛み砕いて言うと、“その時、もし自分がその人の立場にあったらどうするか”。 それを視聴者に問いかけているような気がする。ポイントとなるのは、刑に服すハンナの面会に出掛けたマイケルが、ユダヤ人収容所でのことをどう思うか、その後何を学んだかなどをハンナに問いかける場面がある。おそらくこの時マイケルの中では、「とても反省している」などのしおらしいハンナの返答を期待したに違いない。だが、ハンナの答えはマイケルが望んだものではなかった。マイケルにはその時、ハンナの収容所における看守としての立場など想像も出来なかったであろう。ハンナが与えられた職務を全うしたところで、ドイツのユダヤ人に対する仕打ちは常識的に許されざる行為であった。その後、ハンナが自殺することで、マイケルは少しずつハンナの置かれた立場、つまり状況を理解してくことに努める。このくだりは実に興味深い。マイケルがハンナとの過去の甘い記憶を胸に秘め、刑務所にいるハンナにせっせと朗読テープを送る献身的な面を持ち合わせながらも、一方でハンナの身元引受人を依頼する連絡には戸惑いを隠せないでいる。この苦悩は幸いにも、マイケルを単なる偽善者にさせない、人間の本質的な心理を追求することに成功している。そんなところからも、吟遊映人はこの作品を単なるラブ・ロマンスとして捉えるには余りに短絡的ではなかろうかと考える所以なのだ。第二次世界大戦後のドイツが舞台。15歳のマイケルは、気分が悪く、道端で嘔吐しているところを21歳も年上の女性であるハンナに助けられる。猩紅熱で何ヶ月もベッドに伏していたマイケルは、回復後にハンナのアパートを訪れる。 その後、2人は年齢差を越えた愛欲に溺れていく。そんな中、いつしか情事の後は、ハンナの要望でマイケルは本を読むことが日課となった。それは、「オデュッセイア」であったり「犬を連れた奥さん」といった作品である。ある日、いつものようにマイケルはハンナのアパートを訪れると、そこはもぬけのから。 訳も分からずマイケルは自分が捨てられたのだと傷心の日々を送る。やがてマイケルは、ハイデルベルク大学の法科生となる。授業の一環として、ナチスの戦犯の裁判を傍聴することになったところ、なんと被告席にハンナが座っているのだった。ハンナ役に扮するのはやっぱりこの人、ケイト・ウィンスレットである。この女優さんは不思議にこの手の役柄を演じると、見事にハマってしまう。何とも薄幸な雰囲気がそこかしこから漂うのだ。言うまでもなく、本作でアカデミー賞主演女優賞を受賞している。大学の教授役としてブルーノ・ガンツがチョイ役で登場する。「ヒトラー~最期の12日間~」での存在感たっぷりの演技は、ここでも健在だ。「愛を読む人」は、吟遊映人の心を掴んで離さない。人がその時、持てる力で状況を判断し、だが結果として相手を傷つけてしまったら・・・。挫折や後悔のない人生なんてない。苦悩を抱えて、人は生きてゆく。人はいつも、相手の置かれた立場を理解できずに過ちを繰り返すのだから。涙なしには観られない、重厚なテーマを扱う作品であった。2008年(米)、2009年(日)公開【監督】スティーブン・ダルトリー【出演】ケイト・ウィンスレット、レイフ・ファインズ、ダフィット・クロス
2014.01.26
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【眺めのいい部屋】「せがれはいつも考えているんだ。それも森羅万象に関することだ。君は、世間には悲しみだけしかないと思うかね?」「いいえ、違うと思うわ。エマソンさん」「そうでしょう? それをせがれに伝えてくれないか。永遠に続く“なぜ?”の問いかけは・・・自分にしか答えが見い出せないのだとね」この作品が公開されたのは80年代だが、私が初めて見たのは学生時代、深夜の映画特集でだ。たまたま見たに過ぎないのに、とにかく驚き、惹かれ、シビレた。だから40を過ぎた今も尚、大好きな映画3本のうち1本はこれだ。このブログを一緒に管理しているSさんにそのことを話したら、『眺めのいい部屋』の画像をケータイに送ってくれた。以来、待ち受け画面は『眺めのいい部屋』である。機種変をした後でさえ、待ち受け画面は変わらない。ずっとだ。主人公ルーシー・ハニーチャーチ役のヘレナ・ボナム=カーターは、正にイギリスの良家の令嬢役に相応しく、その出自は見事なものである。まず父親は銀行の頭取。母親は医師。ご本人もケンブリッジ大学に合格するほどの才女だが、女優業に専念するため、入学を辞退している。(ウィキペディア参照)ところがそんなヘレナ・ボナム=カーターは、良家の令嬢役というのが嫌でたまらなかったらしく、故意に汚れた役を選んで出演するようになった。それでもここへ来てやっと何かが吹っ切れたのか、『英国王のスピーチ』では堂々の王妃エリザベス・ボーズ=ライアン役に扮し、見事な演技を見せつけてくれた。これがまた誰よりも様になっていたので、思わず感嘆のため息が漏れたほどだ。さて、『眺めのいい部屋』について。舞台は1907年のイタリア・フィレンツェ。英国良家の令嬢ルーシー・ハニーチャーチは、年上でしかも独身の従姉シャーロットと一緒に観光旅行に来ていた。ペンション“ベルトリーニ”では、美しいアルノ河に面した南側の部屋を予約したつもりだったが、そうではなく、シャーロットは愚痴をこぼす。それを聞いていた同じ宿泊客のエマソンが、自分の部屋はとても眺めのいい部屋だから交換しましょうと申し出る。しかし、エマソンは明らかにルーシーやシャーロットより階級が低く、シャーロットは階級意識からその申し出を断ってしまう。そんな中、偶然にもハニーチャーチ家の教区のビーブ牧師も宿泊客にいて、仲介役を引き受けてくれる。そこで万事、ルーシーとシャーロットの部屋とエマソン父子の部屋とを交換することができた。翌日、ルーシーとシャーロットは別行動をする。シャーロットは同じ宿泊客のラヴィッシュ女史と観光し、ルーシーは一人でサンタ・クローチェ寺院に出かける。ルーシーがシニョーリ広場を通り過ぎようとした時、偶然にもイタリア人男性二人がひどい口論を始め、一方が他方の胸をナイフで突き刺すのを目撃してしまう。鮮血にまみれた男の姿を目の当たりにして、ルーシーは不覚にも気絶してしまう。そこに通りかかったのは、ジョージ・エマソンで、ルーシーを優しく介抱するのだった。 この作品はE.M.フォースターの同名小説が原作になっていて、ジェイムズ・アイヴォリー監督が映画化している。映画自体はラブ・ストーリーとして大変な完成度を誇っているが、原作ではイギリスの階級制度を暗に批判したものとなっている。映画においてもそれはやんわりと表現されていて、階級意識に左右されず、自由な発想と情熱的な愛を傾けるジョージにルーシーが惹かれ、最終的には階級意識の塊のようなシャーロットまでもが二人を見守るようになる。ある種の定番であるかのようなハッピー・エンドでさえも、格調高く優雅で、BGMであるプッチーニのオペラ三部作も効果的に使われている。ちまたに溢れるどんなラブ・ストーリーも、この『眺めのいい部屋』の前では精彩を放たない。それほどまで私は深く、この作品を愛しているのだ。1986年(英)、1987年(日)公開【監督】ジェイムズ・アイヴォリー【出演】マギー・スミス、ヘレナ・ボナム=カーター
2014.01.19
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【7つの贈り物】「卒業した大学は?」「故郷(オークランド)から最も遠い大学・・・マサチューセッツ工科大学だ。君の大学は?」「UCLAよ。・・・MIT卒業なの? あの名門のMIT?」「なのになぜ(国税庁の)税収員になったかって言うんだな? ・・・予想外のいきさつで・・・」我々が人の命の重さを考える時、一体どのように計ったら良いのだろうか?お金に代えることはできないけれども、かと言って誰かの命と引き替えという単純なものでもないような気がする。そのぐらい命とは尊いもので、唯一無二のこの世の“不思議”なのだ。キリスト教圏では、“慈悲”とか“償い”などのキリストの無償の愛や全能の神を称える言葉が度々引用される。キリストを裏切ったヨブのような存在が、実は人間の本来の姿かもしれないというのに、神はそんな罪深き人間をいつでも赦し給うのだ。本作「7つの贈り物」は、言い知れない切なさと、深い愛情とに包まれた人間模様に、不覚にも熱いものが込み上げて来るのだ。吟遊映人が注目したのは、主人公の回想シーン。父親に連れて行ってもらった水族館で見たハブクラゲ。大きな水槽の中を悠々と泳ぐそのクラゲは、地球上で一番と言われるほどの猛毒を持っている。なぜこのシーンが重要なのかは、ラストで納得する。ティムはある事情から弟ベンの国税庁のIDカードを使って、税金を滞納している女性エミリーを訪ねる。エミリーは印刷業を営んでいたが、心臓の持病を抱え入退院を繰り返していた。ティムがエミリーの飼い犬を連れて散歩したり、彼女と夕食を共にするうちに互いに惹かれ合って行くのだった。そんな中、エミリーの心臓肥大が進み、移殖をしなければ生存率は3%と宣告を受ける。 ティムは愛するエミリーのためにドナーになろうと決意する。なぜならティムは、昔起こしてしまった事故のせいで7人もの尊い命を奪ってしまったことを心から悔いていたのだ。その償いのため、己の命と引き替えに7人の命を救いたいと、切に願うのだった。「7つの贈り物」から感じられるある種のノスタルジーは、人が皆抱えている喪失感かもしれない。大切な人を失ったことや、過去の記憶、それに己の肉を削ぎ落としていくことなどの喪失である。主人公の深い罪悪感・責任感そして喪失感は、計り知れないものがあった。贖罪のつもりの行為も、傍から見れば大げさにも思えるかもしれない。だが忘れてはならないことがある。主人公は過去に己の過失から7人もの尊い人命を奪ってしまったという事実が存在するのだ。この重大な過ちを償うため、己の命と引き替えに、他の7人に新しい命を吹き込むという社会貢献を果たすのだ。この行為をどう捉えるかは人それぞれだが、無責任極まりない昨今の犯罪事情を考えても、主人公の命を懸けた償いは胸を熱くさせて止まない。この作品を徹底的に鑑賞することで、肯定的にならざるを得ない深い哲学を感じさせる。 命のあり方を根本から見つめ直すことを促す、実に見事な作品であった。2008年(米)、2009年(日)公開【監督】ガブリエレ・ムッチーノ【出演】ウィル・スミス
2013.12.01
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【ヒアアフター】「死んだらどうなるの?」「急に何だ? 電気が消えておしまい」「それだけ? ただそれだけなの?」「真っ暗闇だ。電気は点かない。永遠の暗闇さ」クリント・イーストウッドがメガホンを取った映画は、これまでにも何本かあるが、実際イーストウッドの得意とする分野は、ラブ・ストーリーであろう。それも道ならぬ恋的な、何かを背負った、あるいは孤独の影を感じるとでも言おうか。 そういういわく付きのラブである。『ヒアアフター』もその一つで、ラブ・ストーリーに完結している。内容は三つのストーリーが交叉する構成となっていて、ラストで上手い具合に融合する。この作品の見どころは、ズバリ、明と暗のギャップだ。例えば、リゾート地でバカンスを楽しむ有名ジャーナリストが、津波にのまれるまでを“明”とすると、その後、番組を降板し、自分がデカデカと掲載された看板から別の女性キャスターの看板に取替えられ、恋人の心が別の女性に移っていくところは“暗”となる。また、料理教室に通い始めたジョージが、隣の女性とペアを組んで二人仲良く料理を作るところを“明”とすると、女性がジョージの霊能力に引いてしまい料理教室に来なくなり、ジョージが一人ポツンと料理を作るシーンは“暗”となる。この対比が見事に表現されていて、これこそ正にイーストウッドのラブの世界観とも言える。1.パリを拠点に活躍するジャーナリストのマリーは、東南アジアでバカンスを楽しんでいた。その際、突然の津波に見舞われ、一時は死に掛けてしまう。だが、どうにか水を吐き出し、九死に一生を得る。2.ジョージは、兄に頼まれ、気のすすまない死者との対話を引き受けた。これが最後だと約束しながらも、霊能力を持つジョージを頼って来る者が後を絶たない。だがジョージは、霊能者としての自分が忌わしく、人生を変えたいと思い、イタリア料理の教室に通うことにした。3.ロンドンで、薬物中毒の母親とまだ小学生の双子の兄弟が細々と暮らしていた。ある日、双子の兄は薬局へお使いに出掛けたところ、不良グループに追いかけられ、交通事故に遭い亡くなってしまう。これまでずっと兄に頼りきりだった弟のマーカスは、ショックの余り兄の死を受け入れられない。その後、母親は立ち直るために施設へ入所。マーカスは里親に預けられることになった。この作品のラストは、何とも言えない、甘美でメランコリックな演出となっている。煽るような音楽もなければ、突出した演技にこだわっているわけでもない。ロンドンの街角にあるオープンカフェで、ジョージがマリーを見つけるという、とてもナチュラルな、それでいて胸がときめくようなロマンスを感じるから不思議だ。イーストウッド監督の十八番を、改めて認識した作品だ。2010年(米)、2011年(日)公開【監督】クリント・イーストウッド【出演】マット・デイモン、セシル・ドゥ・フランス
2013.05.30
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【天使のくれた時間】「ジャージーに家が(あるんだ)。子供はアニーとジョシュ。アニーはバイオリンを習ってる。ませてるけどそれは頭のいい証拠だ。笑うと・・・ジョシュの目は君にソックリだ。まだ話さないけど、絶対に利口だ。目をパッチリ開け、じっと見てる。顔に出てるんだ。新しい何かを勉強してることが。奇跡を見てるのさ。家は汚いけど僕らのものだ。あと122回でローン終了。君は・・・無料の弁護士、そうだ、完全に非営利でやってる。でも君は平気だ。(僕らは)愛し合ってる。」やっぱりこういうラブ・ファンタジーな作品はアメリカ映画に限る。こんなパラレルワールドが現実にあったらなぁと思わせるテクニックは一流だ。ニコラス・ケイジもこういう役どころを楽しんで演じているのがありありと感じられる。 洗練された都会のビジネスマンと郊外に家を持ち、妻と二人の子供に恵まれた平凡な家庭人を見事に演じていた。一心に愛を語るシーンと、本当に大切なものは何かに気付いたニコラス・ケイジの表情に注目。胸が熱くなるような切なさが滲んでいるのだ。ニューヨークのウォール街で、大企業の社長として悠々自適の生活を送るジャック。クリスマスイブだというのに遅くまで仕事をこなし、帰路につくが、途中スーパーにエッグノックを買いに立ち寄ったところ、黒人青年が店員ともめている現場に遭遇。黒人青年は、当たり宝くじ券を換金してもらえない苛立ちからついに拳銃を取り出す。 そこでジャックは、店に代わってその当たり宝くじ券を買い取ることにする。本作では、不思議な黒人青年が“天使”の役割をしている。イブの夜に与えたジャックの施し、やさしさへの恩返しという形を取っている。ジャックは地位も名誉も手に入れ、これ以上欲しいものなどないはずであった。だが、それは心のどこかで感じていた寂しさや孤独から逃れるため、無理にそこから目を背けていたに過ぎない。表面的には二者択一が物語のテーマになっているかのように思われるかもしれない。しかし、それは違う。愛する人を手放してはいけないという忠告だ。莫大な財産も、社会的な地位も、夢を分かち合う相手があってこそのものではないか。 愛する人がいなければ、我々は孤独の闇に埋没してしまうに違いないのだから。2000年公開【監督】ブレット・ラトナー【出演】ニコラス・ケイジ、ティア・レオーニ
2013.03.01
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【日の名残り】「電気がつくと、いつもこの騒ぎなの」「なぜです?」「夕暮れが一日で一番いい時間だと言いますわ。皆この時間を楽しみに待つのだとか」 「なるほど」 あけましておめでとうございます。本年もなにとぞよろしくお願い申し上げます。新年一作目は、私の大好きなジェームズ・アイヴォリー監督作品より、『日の名残り』について。この作品は、カズオ・イシグロの書いた同名小説を映画化したものだが、イギリスでは権威ある文学賞、ブッカー賞を受賞した優れた長編小説である。カズオ・イシグロは出生地こそ日本で、両親ともに日本人なのだが、5歳ぐらいで渡英してからはずっとイギリスでの生活を送っていて、日本語もほとんどしゃべることができないそうだ。したがって国籍も成人してからイギリス国籍を取得している。そんなカズオ・イシグロの描くイギリスは、どこか感傷的でストイックさに溢れている。日本では完全に解体された貴族社会も、イギリスではいまだ格式を重んじる内情があるとして、カズオ・イシグロは鋭いメスを入れているのだ。英国の名門ダーリントン卿に仕える執事役にアンソニー・ホプキンス。女中頭にエマ・トンプソンが扮している。この二人のキャスティングは見事なもので、代わりの役者さんなどとうてい考えられないぐらい様になっていた。執事とは、上流階級の家庭において、主人の給仕をするのが職務なのだが、単なる使用人だと思ったら大間違いだ。使用人は使用人でも、上級使用人であり、男性使用人全体のリーダー格なのだ。この重責を担う生真面目でストイックな精神の持ち主、スティーヴンス役を完全に自分のものとして表現し得たアンソニー・ホプキンスは、素晴らしい演技力の持ち主で、非の打ちどころがない。この作品では、彼の紳士然としたスマートな身のこなしを見るだけでも、損にはならない。物語は執事スティーヴンスの視点から進められていく。第二次世界大戦前と後では、同じ屋敷にいても仕える主人が変わるため、過去を回想しながら現在を描いている。1958年、ダーリントン・ホールは、アメリカ人富豪のルイスが所有することになった。執事のスティーヴンスは、前の持ち主ダーリントン卿の時から仕えているが、当時の使用人はほとんど去っていてスタッフが不足していた。そんなある時、かつての女中頭であったミス・ケントンから手紙が届く。彼女はすでに結婚していたが、どうやら現状はあまり上手くいっていないようで、昔を懐かしむ内容が書かれていた。スティーヴンスはさっそく彼女の元を訪ねることにした。スティーヴンスは、ひょっとしたら有能なミス・ケントンを再び迎えることができるかもしれないと思ったのだ。この作品で注目したいのは、スティーヴンスとミス・ケントンとの淡い恋だろう。二人は惹かれ合っていたのに、スティーヴンスはあくまで執事としての立場を全うし、またミス・ケントンも別の男性からの求婚を受け入れてしまう。これを大人の恋だと言ってしまって良いのかどうか迷うところだが、あまりにもストイックでせつなすぎる。また、アメリカ人富豪ルイス役のクリストファー・リーヴの元気な姿がまぶしい。年明けはやはり『日の名残り』のような、上質な映画を堪能して、自己の知識と教養の肥やしにしてはいかがだろうか?1993年(英)、1994年(日)公開【監督】ジェームズ・アイヴォリー【出演】アンソニー・ホプキンス、エマ・トンプソンまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2013.01.01
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「もしもし? バリーですが」「私よ、リナ」「やぁ」「言っておきたくて・・・あなたがどんな人でも・・・さっきキスしてほしかったの」 「ほんとに?」「・・・ほんとよ」ポール・トーマス・アンダーソン監督の表現する世界観は、一言で言えば“変わっている”。カテゴリなら【ラブ】や【コメディ】に区分される作品だと思うが、一般的な恋愛映画とは一線を画す。カンヌ受賞作というクレジットに踊らされ、期待して視聴した日には、ちょっと残念な気持ちになる。もちろん、個性豊かなステージの高い恋愛映画なので、こういう風変わりな作品を好む方々もたくさんいると思う。だが、“胸のときめくような”“せつなくなるような”“紆余曲折ある”恋愛ドラマを好しとする者には、この作品で描かれている世界は、まるでパニック映画だ。ポール・トーマス・アンダーソンという若き天才が作った映画は異質で、視聴者が心地良い共鳴に浸るタイプのものとは違う。『パンチドランク・ラブ』を評価するもしないも、ひとえに各人の好みによる。ロサンゼルスの郊外が舞台。まじめな青年バリー・イーガンは、工場に勤める販売営業マン。ある日の早朝、バリーがコーヒーを飲んでいると、道端にオルガンが捨てられていく。 さらに、隣の自動車整備工場に車の修理を依頼しに女性がやって来る。その女性はリナと言い、バリーの姉の職場の同僚だった。バリーには何人もの姉がいて、幼い頃より、からかわれたり口うるさく言われたせいで、事あるごとに情緒不安定に陥った。ささいなことで窓ガラスをメチャクチャに割ってしまったり、女性に対する強い不信感があった。そんなバリーのひそかな楽しみは、特典の付いた、4個パックのプリンを大人買いすることだった。また、ある晩バリーはふとしたことからテレフォン・サービスの風俗に電話したところ、クレジット・カードの番号や個人番号から情報が漏れ、ゆすり屋から脅迫まがいの電話がかかって来るのだった。ポール・トーマス・アンダーソン監督のスゴさの一つに、キャスティングがあげられるかもしれない。主人公バリーに扮するのはアダム・サンドラーで、実はこの人コメディアンらしい。ちょっとお笑いの人とは思えない演技力で、女性不信に苦悩する情緒不安定なキレやすい男、というキャラを見事に演じ切っている。さらにヒロイン役リナに扮するのがエミリー・ワトソン。この女優さんの薄幸そうな顔立ちと言ったらない。登場するだけで、背景に何かを抱えているようなムードをプンプン漂わせるから不思議だ。こういう俳優陣の顔ぶれや、映画人の好みそうな演出は、全て監督の計算し尽くされた映画的センスによるものだろう。既存の恋愛映画に飽き飽きしている方々にオススメだ。2002年(米)、2003年(日)公開 【監督】ポール・トーマス・アンダーソン 【出演】アダム・サンドラー、エミリー・ワトソン、フィリップ・シーモア・ホフマンまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2012.02.12
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「あまり話さないね」「うまくしゃべることができないの。ごめんね」「かまわないよ。僕もおしゃべりな方じゃないし」今から20年以上も前のことだ。『ノルウェイの森』は社会現象となるほどの話題を呼び、正に空前のベストセラーとなった。村上春樹の作品は大好きで、この作品以外にもたくさん読んで来たが、どれもすばらしく魅力的な内容ばかりである。読書の基本的なハードルを標準に設定してくれてあるおかげで、その文体はいずれも読み易く、途中で投げ出してしまいたくなるようなつまらない記述はない。憂鬱で、読者が滅入ってしまうような陰気な影はなく、もちろん、しみったれた貧乏臭さもない。どちらかと言えば、上流階級的で優雅なムードさえ感じられ、実体的な性交渉さえ風景の一部となっている。これはもう、村上春樹の作家としての特技としか言いようがない。今回、映画化された『ノルウェイの森』は、トラン・アン・ユン監督により、原作を忠実に再現することに徹していた。原作を未読の方々には、あるいは抽象的な世界に感じられたかもしれないが、実際にはあまりのリアリティな空間に度肝を抜く。高校時代、ワタナベは親友のキズキと、その幼なじみの直子と3人で遊ぶことが多かった。ところが17歳の時、キズキは自宅のガレージで車内に排気ガスを入れて自殺してしまう。 その後、ワタナベは東京の私立大学に進学し、寮生活を送るが、ある日偶然にも疎遠になっていた直子と再会する。だが直子は、キズキの自殺がきっかけで精神のバランスを崩していた。一方、ワタナベは大学で同じ授業を受けている、個性的で魅力的な緑に好意を寄せられていた。主演のワタナベに扮するのは松山ケンイチだ。最近はCM出演も多く、スカイパーフェクトTVでは森三中の黒澤と共演していて、人の好いのんびりとしたカレを好演。松山ケンイチの凄いところは、一般的な役者さんにはどうしてもつきまとってしまうイメージというものが存在せず、自由自在に演じる役の幅を持っているところだ。固定したキャラがないというのは、ある意味、ホンモノの役者であるとも言える。今後の活躍が楽しみな若手俳優だ。一方、直子役の菊地凛子に関しては、今さら言うまでもない演技派で、徹底したリアリズムを追求する姿勢を崩さない女優さんだ。この『ノルウェイの森』は、世界中の村上ファンに捧げるロマンス映画かもしれない。 2010年公開【監督】トラン・アン・ユン【出演】松山ケンイチ、菊地凛子、水原希子また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2011.09.21
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「恋って恐くて危険なものよ。私にも経験が・・・毎日祈ったわ。でもひどい夫で結局逃げ出したの。(見てちょうだい)これはバイクのヘルメットで殴られた傷跡よ。娘に泣きつかれたわ。“パパと別れて”って。たった4歳の子がそう言ったの。人は愛を求めて普通じゃない行動を取る。男と女って最初は皆同じ。幸せすぎて、喜びも多すぎる。それが過ぎて、胸焼けよ」本作の主人公リズ役に扮するのはジュリア・ロバーツだが、この女優さんは今回、初来日した。無論、本作のプロモーションのためだ。夏でも涼しげに首に巻いたマフラーが話題となり、ジュリアに続けとばかりに今や女性の間でファッション・アイテムの一つとして、タオル・マフラーが人気なのだ。そんなジュリア・ロバーツも、ここ最近はあまり良い映画には恵まれていないような印象が残る。興行的な成功のためにも、今回の宣伝には余念がない。これまでは、鼻にもかけなかった日本にさえ来日する気になったのも肯ける。今がジュリア・ロバーツにとって、女優としての正念場なのかもしれない。だが、本作「食べて、祈って、恋をして」は、あまりにも世間の常識から逸脱した、セレブな女性の自己満足に付き合わされた作品だった。とは言え、イタリアでパスタやピザをガッツリ食べるシーンや、古い街並みなどの風景は、何やらこちら側の旅行願望を刺激して、なかなかの出来栄えだったような気がする。ニューヨークでライターの仕事をしながら、趣味で旅行に出かけるのを好しとするリズは、結婚生活に漠然とした不満を抱いていた。何がどうというハッキリした理由はないが、一方的に夫に離婚を突きつける。その後、年下の役者志望の男性と付き合い出すが、リズはそれさえ満たされることはなかった。思い切ってリズは、自分を見つめ直すための旅行に出かけることにした。行き先はイタリア、インド、そしてバリ島だった。「食べて、祈って、恋をして」というのは、某女流作家の自伝的小説で、全米で大ベストセラーになった作品らしい。アメリカで大ウケした内容が、そのまま日本にも当てはまるかと言えば、それは何とも言えない。こういうセレブ感の漂う、自己満足と自己陶酔の極致を好む方々には、ホッとするような癒しを与えるのかもしれない。吟遊映人が思うに、主人公リズの振る舞いは、全てお金の絡んだ偽善的行為なのだ。旅行に出かけて長逗留するのも、母子家庭の親子に一戸建てをプレゼントするのも、写本するように言われておきながらコピー機を利用してしまうのも、全て金・金・金なのだ。そこには崇高な愛とか、清廉な魂と言ったものは、微塵も感じられなかった。ラブ・ストーリーであるはずにもかかわらず、である。かえって脚本に手を入れて、「ノー・カントリー」で有名なハビエル・バルデムが、ラストでジュリア・ロバーツに手をかけたりしてサスペンス色を出せばおもしろかったのに、と思ってしまった(笑)2010年公開【監督】ライアン・マーフィー【出演】ジュリア・ロバーツ、ハビエル・バルデムまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2011.06.26
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「私たち、うまくいくと思う?」「まるで見当がつかない。でも頑張る・・・約束するよ」「・・・散歩する?」「しよう!」ラブ・ストーリーはこうでなくちゃ、と思ったのは吟遊映人だけだろうか?とかく最近のラブ・ストーリーは、他者との模倣を避けるためなのか、あるいは差別化を図るためなのか、やたら思想的なエッセンスを含ませたがる。無論、恋愛を語るのにフェミニズム思想は欠かせないテーマかもしれないが、それでもやっぱり基本はスタンダードなラブ・ストーリーに軍配を揚げたい。本作「新しい人生のはじめかた」は、そういう意味から言っても、実に優れたラブ・ストーリーであった。設定もなかなかどうして、現代ならありえそうな男女の境遇だ。まず、主人公ハーヴェイはCM作曲家で、バツイチで、若手に仕事をかっさらわれて失業の身。そして、神経症を患う母親を持つ、いまだシングルの40代キャリア・ウーマンのケイト。この組み合わせはすばらしい。ストーリー展開にも無理はなく、引き込まれるように、最後まで魅入ってしまった。それもそのはずこの作品を彩ったのは、オスカー俳優二人の共演があったればこそなのだ。主人公ハーヴェイ役に扮したのは、ニューシネマ世代のダスティン・ホフマンである。 代表作に「卒業」や「パピヨン」などがあるが、この役者さんの魅力を数えたらキリがない。とにかく演技に関しては申し分ない。パーフェクトだ。さらにケイト役はエマ・トンプソンであるが、吟遊映人が大・大・大好きな女優さんなのだ。(個人的嗜好の披露で恐縮)代表作に「いつか晴れた日に」や「日の名残り」などがあり、名門ケンブリッジ大学卒の才媛で、イギリスを代表する女優さんなのだ。CM作曲家のハーヴェイは、一人娘の結婚式に招待され、ロンドンまで出向くことになった。離婚後、娘は継父のもとで幸せに暮らしていたこともあり、ヴァージンロードは実父のハーヴェイではなく、継父と歩くことを選んだ娘に、ハーヴェイはがっかりする。また仕事においても自分の作った曲が採用されず、契約を打ち切られようとしていた。 そんな中、ヒースロー空港のカフェで、昼間から強い酒を仰いだ。同じカフェに居合わせたケイトは、黙々と読書をしていた。空港の統計局の女性だと気付いたハーヴェイは、アンケート調査に協力的ではなかった非礼を詫び、ランチをごちそうすることにした。この作品のすばらしいところは、何か特別な背景を抱えている男女の出会いなんかではないことだ。確かに奇抜さには欠けるが、この世間にありきたりな設定で、ごく自然な流れの中に出会い、男女が会話を交わし、いつの間にか惹かれ合っていく。このシンプルさは、映画には不可欠な要素であろう。特にラブ・ストーリーは、こういう上品なプロセスと、清々しく心地良いラストが約束されていなければ、その意味がない。精神的な結びつきを訴えかける、知的であたたかなラブ・ストーリーこそが、本物の恋愛映画ではなかろうか。本作は、実に完成度の高い、見事なヒューマン・ラブ・ドラマに仕上がっていた。2008年(米)、2010年(日)公開【監督】ジョエル・ホプキンス【出演】ダスティン・ホフマン、エマ・トンプソンまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2011.02.05
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「(僕は)自制心を失ってた・・・君がとても心配だ」「私は何も感じない。(あなたを)愛してないのかしら? 今朝は愛してたけど」「ショック状態だ」「もうウンザリよ」「何に?」「この状況によ。早く離婚を進めてちょうだい」西欧の作品に色濃く感じるのは、ズバリ、“アイデンティティ”である。自分とは何ぞや? と、突き詰めて行く精神性は、無論、日本にだってちゃんと存在する。だが、西欧の文化と日本のそれが異なるように、やはり“アイデンティティ”の目覚めにも歴然とした違いがあるように感じる。(もっと突っ込んで言えば、その表現の仕方に違いを感じるということ)言うまでもなく、どちらの傾向にも甲乙付けるつもりはさらさらない。本作「50歳の恋愛白書」は、いくつになってからでも恋愛は可能なのだという熟年向けのラブ・ストーリーのようにも見受けられるが、その実、“アイデンティティ”の目覚めを促しているように思える。母と娘というDNAを分かち合う、一番近い同性という存在位置にありながら、反って生まれ出る反発心、虚栄心。たとえ親子であっても、互いが個々の人格を持ち、同一にはなれないのだという基本的自我の目覚め。さらには、自分の存在価値を見出せない時、人は将来に夢や希望を持つことが出来ず、そこにあるのは絶望しかないということ。自分を認めてくれる存在、つまり自分の価値を引き出してくれるパートナーを見つけた時、初めて人は自我に目覚めるのだ。・・・と、吟遊映人のつたない解釈として、そういうテーマをこの作品から感じ取ったのだ。ピッパは、夫である作家のハーブと、大都会マンハッタンからコネチカット州の田舎に移り住むことになった。夫婦の年の差は、なんと30歳。コネチカットの年寄りだらけの田舎町に住むことになったのも、ハーブの体調を考えてのことだった。だが50歳を迎えたばかりのピッパにとっては、退屈な日々で、奔放な過去の記憶を手繰り寄せては自己嫌悪に陥っていた。と言うのも、ピッパは十代の頃に家出をし、ドラッグに溺れて堕ちるところまで堕ちた青春時代を過ごしていた。母親の死に目にも間に合わず、半ば自暴自棄になっていた。そんな中、当時、妻帯者である人気作家のハーブと出逢ったのだ。主人公ピッパ役に扮したのは、ロビン・ライト・ペンで、代表作に「メッセージ・イン・ア・ボトル」や「消されたヘッドライン」「フォレスト・ガンプ」などがある。いくつになっても若々しく、綺麗な女優さんではある。役柄は50歳という設定だが、実際は44歳。とても50歳には見えないわけだ。しかしそれより何より驚いたのは、ピッパより15歳年下(35歳)のクリス役を演じたキアヌ・リーヴスだ!この役者さん、実は46歳とな!!でも充分35歳に見えてしまうからスゴイのなんのって。この役者さんたちを、この年齢の設定で抜擢した監督さんも見事な配役だ。作品そのものより、年齢のことや、役者さんたちの若さの秘訣を探りたくなるような、驚きと羨望の映画だった。2009年(米)、2010年(日)公開【監督】レベッカ・ミラー【出演】ロビン・ライト・ペン、アラン・アーキン、キアヌ・リーヴスまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2011.01.29
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「恥をかかせないのも礼儀だ」「でも、どなた?」「とぼける気かい? 再会を楽しみにしてたのに。会ったら何て言おうかって・・・でも俺は絶対に・・・」「誰かと間違ってるわ」「確かに名前の覚えは悪いけど、顔の記憶はB-ぐらいだ」本作のカテゴリを【ラブ】とするか【コメディ】とするか、最後の最後まで迷った。だが、ラストで主役の二人が同じ画面に納まっているところを観て、やっぱり【ラブ】にしようと思った。本作のメガホンを取ったのは、脚本家として名高いトニー・ギルロイ氏である。代表作として「ボーン・アイデンティティー」や「消されたヘッドライン」など、そうそうたる作品の脚本を手掛けている。サスペンス色の強かったこれまでの脚本からすると、「デュプリシティ」はややコメディタッチの仕上がりだ。また、ソダーバーグ監督を意識したものなのか、独特の心地良いテンポを生み出すことに苦心した感がある。さらに、時系列であることを解体したストーリー展開も、視聴者の不意をついて、よく練られた作風であった。トイレタリー業界最大手のB&R社に負けじと躍起になるのは、エクイクロム社のCEOディック。ディックは、B&R社の機密を探り出すため産業スパイチームを結成する。イギリスのMI6所属の諜報員であったレイは、エクイクロム社に雇われ転身していた。 ある日、レイはB&R社へ潜入中の情報提供者と待ち合わせていたところ、元CIAのクレアとばったり出会う。なんと彼女とは、独立記念パーティーの夜、一夜をともにした仲であったのだ。90年代を代表するハリウッド女優と言えば、言わずと知れたジュリア・ロバーツ。彼女の魅力は何と言っても庶民的であること。世の女性に共感を持たれる等身大のヒロインであったのだ。言い換えれば、インテリジェンスをかもし出すヒロインでは世間に受け入れられなかったに違いない。そんなジュリア・ロバーツが、本作では元CIAのエージェントという知的なニオイのする役どころ。だが心配ご無用。ラストでは一杯食わされ、放心状態でお酒を飲むシーンなど、まだまだ愛すべきジュリア・ロバーツは健在である。主役のクライヴ・オーウェンも、英国人俳優らしく紳士的で演技にソツがなく、安心して観ていられた。「ザ・バンク堕ちた巨像」でも見せた、一本気でしたたかなキャラを本作でも覗かせてくれる。脚本良し、演技良しの、バランスの取れた作品であった。2009年公開【監督】トニー・ギルロイ【出演】クライヴ・オーウェン、ジュリア・ロバーツまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2010.07.22
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「僕の運命って?」「それは自分で見つけるのよ。人生はチョコレートの箱。食べるまで中身は分からない」 ロバート・ゼメキス監督のテーマと言って良いのか分からないが、人間が自己をそのまま受け入れることの大切さを表現しているようだ。例えば本作「フォレスト・ガンプ」においては、知能指数の低い主人公が他者からのイジメにあいながらも、自分のできる範囲内で努力をして、いつの間にか世間に認められるという実に前向きで希望をたたえた作品なのである。完璧ではない不完全な人間が、自分自身とどうやって折り合いをつけていくのかという人生哲学的テーマが滾々と流れているのだ。アラバマ州グリーンボウに住むフォレスト・ガンプは、母一人子一人の母子家庭に育つ。 フォレストは知能指数が低く、歩き方に癖があったため幼いころから足の矯正機を付けていた。小学校に入学しスクールバスで通学するようになると、フォレストはイジメの対象となるが、ジェニーだけはフォレストに優しく、いつしか仲良しの二人になる。ある日、フォレストが同級生から石を投げつけられ自転車で追いかけ回されると、そばにいたジェニーはフォレストに向かって叫ぶ。「フォレスト、走って! 走って逃げるのよ!」と。するとフォレストは、取り付けられていた足の矯正機をバラバラと壊しながらも風のように走り出したのである。フォレスト役に扮するトム・ハンクスとは、「キャスト・アウェイ」においてもゼメキス監督とタッグを組み、実に息の合った監督と役者の相互関係となっている。ダン中尉役のゲイリー・シニーズも、ベトナム戦争で両足を失くした軍人役として、どこか孤独で自暴自棄に陥り荒んだ心を持つ男というキャラクターを見事に演じている。「フォレスト・ガンプ」は、人が誰かに支えられながら、そして自分も誰かを支え愛していくことの大切さを表現した、最高のヒューマン・ラブストーリーなのである。1994年(米)、1995年(日)公開【監督】ロバート・ゼメキス【出演】トム・ハンクスまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。 See you next time !(^^)
2010.02.09
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「まだ寝ない。やだよ!」「寝る時間を30分過ぎてるのよ。・・・規律からはほど遠いわね」「無意味だ、男の子を寝かせるなんて。目覚めるたびに年を取る。あっというまに大人になってしまう」本作に出演している役者陣には圧巻。まずは主人公のジェームズ・バリ役を演じたジョニー・デップ。この人の魅力はそのルックスだけによるものではない。どう表現して良いのやら、とにかく他者にはない独自の存在感、オーラようなものをひしひしと感じる。ティム・バートン監督とのコラボでは興行的にも大成功し、ますます個性派俳優としてその立ち位置なるものを確立した。だが決して同じような役ばかり演じているわけではない。ジョニー・デップという役者さんは、非常に頭の良い人だ。というのも、演じた役柄が類似してイメージが固定されるのを上手に回避しているように思われるからだ。一つ一つの作品にいつも新鮮な気持ちで挑み、視聴者の期待を裏切らない演技スタイルは、正にプロ中のプロだと言ってしまっても過言ではないだろう。本作「ネバーランド」は、イギリスの劇作家ジェームズ・バリが、ピーターパンのモデルとなる少年との出会いを綴った作品であるが、ここでもジョニー・デップはその類稀なる才能を発揮しているのだ。劇作家のジェームズ・バリは、ロンドン市内の劇場で新作の初日を迎えたものの、落ち着かなかった。それは、観客の反応の悪さ、さらには翌日の新聞で酷評を受けたことによるもので、失意のまま散歩に出掛ける。公園のベンチに座っていると、母につれられた4人兄弟の一家と出会う。未亡人で4人の子持ちながら、母親シルヴィアは美しく聡明で、その子、特に三男のピーターは感受性が豊かで繊細な少年であった。そんな一家にジェームズは心惹かれるものがあり、再会を約束するのだった。脚本家のテクニックによるものだろうが、実に見事なストーリー展開で、最初から最後まで視聴者を飽きさせないドラマチックな物語だった。チョイ役の出演ではあるがダスティン・ホフマン、子役のフレディ・ハイモア、未亡人シルヴィア役のケイト・ウィンスレットと錚々たる顔ぶれが揃った映画というのも見逃せない。秋の夜長、じっくりと堪能してみたい一作なのだ。2004年(米)、2005年(日)公開【監督】マーク・フォースター【出演】ジョニー・デップ、フレディ・ハイモア、ケイト・ウィンスレットまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2009.10.07
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「場所を指定してくれ。明日会おう」「あなたには2年後よ」「分かってる。待つさ!」「本気なの?」「この想いは揺るがない」「じゃ“2年後”に」「“明日”だ。待ち合わせはどこがいい?」「“イルマーレ”」いつのころからだろう、“韓流”という言葉をそこかしこで耳にするようになったのは。 それもそのはず、韓国人スターらのハリウッド進出には目覚しいものがあるし、それだけの教養・演技力・ルックス全てにおいてハリウッドスターらに負けてない。「イルマーレ」はオリジナル版が韓国映画であり、今回観たのはそれをリメイクしたハリウッド版の方である。韓国の作品がにわかに注目を集め、日本でも年々評価が高くなっているのだが、もともと映画というのは過去の記憶の繰り返し、そして先端技術の導入による更新なのだ。斬新さよりも見慣れたラブロマンスやヒューマンドラマに共感を得るのは、大衆の心理ではなかろうか。そんなところから本作「イルマーレ」は、年齢を問わず支持される作品となった。湖畔に建つガラス張りの家から引っ越すことにしたケイトは、シカゴの病院で医師として働いている。ケイトは郵便物の転送を頼むために、次の住人宛てに手紙を残したところ返事が届く。 新しい住人はアレックといい、建築設計士であった。数回の手紙のやりとりから、アレックはケイトが2年後の世界にいることを知るのだった。基本的に映画とはメガホンを取った監督のものであるとされているが、「イルマーレ」などのストーリー性の強い作品を観ると、やっぱり脚本家に興味が湧いてしまう。監督の力量とシナリオが同じ方向性を取って、上手い具合に絡んで完成すれば、素晴らしい映画になるのは間違いない。そこに抜擢された役者も視聴者の求めるようなイメージ通りに演じてくれれば、正に申し分ないというわけだ。そういう観点から「イルマーレ」を堪能すると、どれを取ってもバランスが保たれており、安心して鑑賞することのできる作品なのだ。2006年公開【監督】アレハンドロ・アグレスティ【出演】キアヌ・リーブス、サンドラ・ブロックまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2009.09.10
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「せっかくの式だ。僕らでどうだ? (君は)尻に敷く相手が必要だろ?」「正気? 重婚なんてお断りよ」「僕もだ。・・・離婚したんだ。21年間君を愛し続けて。今回島に着いた時からこの愛を伝えようとしてた。・・・結婚しよう」いくつになっても女性というのはかしましい。どんなにブランクがあろうと、仲良しが顔を合わせると年齢を忘れて盛り上がる。人にもよるだろうが、一般的に社会人になってからの友人より学生時代の利害関係が何一つ絡むことのない友人は、それこそスペシャルな存在である。「マンマ・ミーア!」の作中においても、ヒロインを囲む親友たちの存在は大きい。いっしょにゲラゲラ笑って、バカなことをまともに語り合える関係というのは、実に貴重な存在だからだ。主人公のドナや娘のソフィーを支える女友達の愉快なことと言ったらない。おもしろおかしいキャラで、青空の下、広大な海をバックに、素直に楽しませてくれるのだ。島の人たちが桟橋に並んで歌って踊るシーンも実に愉快!破天荒な人生さえ、どんな不幸に見舞われようと流す涙も笑い飛ばしてしまいそうなたくましさが感じられる。舞台は、エーゲ海に浮かぶ小さな島の古いホテル。オーナーであるドナは、女手一つで娘のソフィーを育て上げた。そんなソフィーも結婚式を明日に控え、有頂天。母親ドナの昔の日記を盗み読みして、自分の父親と思われる人物を3人とも島へ招待する。ソフィーはヴァージン・ロードを父親のエスコートで歩きたいと切望するのであった。 この作品を観ることで、ミュージカルの楽しさを改めて味わうことが出来たような気がする。吟遊映人にも、数少ない高校時代からの親友が存在するのだが、この人物がまるでミュージカルのような生き様なのだ。暗く、鬱々とした気分で塞いでいる時、歌うようなノリでおもしろおかしな冗談や、「これしきのことでくじけるな!」とばかりに激励してくれるのだ。生きることは決して楽なことではないが、「マンマ・ミーア!」にもあるように、人生を明るく陽気に、過去の汚点さえ福に転じてしまえるようなバイタリティーと前向きな精神が大切なのだと教えてくれる。思わず、顔がほころんでしまう・・・知らないうちに笑顔を浮かべている・・・それがこの作品のすばらしさである。人は、1人では生きていけない。誰かに支えられながら、弱い自分を奮い立たせる。「マンマ・ミーア!」は、山あり谷ありの人生がいかにすばらしいものであるかを、音楽に乗せて教えてくれる作品なのだ。2008年(英)、2009年(日)公開【監督】フィリダ・ロイド出演】メリル・ストリープ、ピアース・ブロスナンまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2009.07.05
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「親が苦しむのは子に先立たれた時と・・・子が自分と同じ人生を歩むのを止められない時よ。自分の無力さを呪うわ。腹が立って仕方ない。私も怒ってた。・・・ずっと長い間。もう疲れたわ。(中略)独りぼっちでも・・・歩き出すのよ。忘れないで、独りぼっちなのは・・・あなただけじゃない」役者の演技力について、少しだけ触れておきたい。(まず、吟遊映人は単なる映画好きの、芝居に関しては全くのド素人であることをお断りしておく。)自分も含めてごくごく一般ピープルでも、役者の演技が若さやルックスだけではとうていフォローできるものではないということを知っている。演技力とは、ある意味、存在感かもしれない。本作で痛切に思い知らされた。それは正に、キャシー・ベイツがスクリーンに登場した時の、えも言われぬ、他を寄せ付けない圧倒的な演技力の素晴らしさを目にした時だ。これは完全に主役を食ってしまっている。キュートでセクシーなヒラリー・スワンクも、残念ながらキャシー・ベイツとの共演で見事に打ち負かされてしまった。キャシー・ベイツは、主人公ホリーの母親役として登場する。90年代前半に公開されたスティーヴン・キング原作のホラー映画「ミザリー」で、アカデミー主演女優賞を受賞した実力派女優なのだ。「ミザリー」を観た時、キャラクターのあまりのパラノイアぶりに、この女優さんはもしか、私生活でもこうなんじゃないの?・・・と疑ってしまったほどだ。だが裏を返せば、それほどまでに完璧な演技を披露してくれるプロフェッショナルな役者さんということでもある。N.Y.のマンハッタンで、毎日を夫婦喧嘩に明け暮れながらも、陽気に明るく暮らしていたホリーとジェリー。そんな中、ジェリーは脳腫瘍で35歳という若さで夭逝。残されたホリーは幸せだった日々を忘れられず、毎日鬱々とした気持ちで過ごす。ある日、ホリーが30歳の誕生日を迎えた晩、亡き夫ジェリーからバースデーケーキと共に手紙が届く。そこには、これから毎日ジェリーからのメッセージやアドバイスが寄せられると書いてあるのだった。やや感傷的なストーリーだが、夫を亡くした若い未亡人が長い月日をかけて立ち直っていく姿が、厭味なく表現されている。女の友情や親子の絆に支えられ、癒されていく主人公。その役を演じていた女優さんも実にチャーミングで、屈託のない笑顔で視聴者を釘付けにしてくれる。そして何より、主人公の母親役を演じていたキャシー・ベイツが「独りぼっちでも歩き出すのよ。忘れないで、独りぼっちなのは、あなただけじゃない」というセリフを言った時の、清々しい表情に注目していただきたい。この映画「P.S.アイラヴユー」は、正に、このセリフのために制作されたのではと思われるほど力強く、視聴者を惹き付けて止まないのだ。2007年(米)、2008年(日)公開【監督】リチャード・ラグラヴェネーズ【出演】ヒラリー・スワンク、ジェラルド・バトラーまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2009.04.25
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「父は・・・数ヶ月前に他界したの」「(それは)残念だったね」「この一年はつらかった。父が亡くなり・・・夫は・・・(ため息をつく)・・・娘は私を嫌うし・・・。人生って、ラクじゃないわね」「ああ、まったくだ」寸分の隙もないシナリオというのは、こういうものを言うのだろうか。アメリカ映画はさすがだと唸らされた。原作はストーリーテラーのニコラス・スパークスだと知り、なるほどと思った。スパークス作品は、映画化されたものが多く、有名なところで「きみに読む物語」や「メッセージ・イン・ア・ボトル」などがある。どれも大ヒットしたことは、今さら言う間でもない。この作品について皆、口を揃えて言うのはおそらく、“大人の恋愛ドラマ”。もちろん、そうだ。もっと口幅ったく言えば、そこに辿り着くまでの共鳴が我々の心のひだを震わせるのかもしれない。なにしろ、ティーンエイジャーの見境ない恋愛ごっことは全く質が違うし、いい大人のシラけるような不倫とも一線を画す。酸いも甘いもかみ分けた、熟年の恋愛なのだ。恋は、ノース・カロライナの田舎町、ローダンテの海辺にある小さなペンションで始まる。ペンションのオーナーである、親友のジーンから留守番を頼まれたエイドリアンは、別れた夫から切り出された復縁の件や、今後の自分の身の振り方を考えていた。夫の浮気、思春期に突入した娘の反抗的態度、ぜん息の発作を度々起こす息子。全てのことに疲労困憊ぎみのエイドリアン。季節外れのリゾート地に客は皆無だったが、たった一人だけ予約が入っていた。ポールと名乗る客で、実は高名な外科医であった。吟遊映人は、正直、ラブストーリーには厳しい価値判断を持っている。だが、「最後の初恋」は実に素晴らしいラブストーリーに仕上げられていると思った。 この作品なら、自信を持っておすすめできる。(ただし、この作品に共鳴できるのは、ある程度社会経験を積んで、それなりの山や谷を乗り越えて来られた方々かもしれない。)ストーリー的には悲劇で、決して手放しでハッピーな気分にはならないかもしれない。 だがラスト、主人公エイドリアンはミラクルを体感する。海辺をさまよい歩く彼女は、希望の光、ファンタジーの世界に包まれる。それは、夢や幻などではなく、リアリティそのもの。このラストは、素直に言おう、大好きだ!!吟遊映人が認める、近年稀に見る良質なラブストーリーなのだ。2008年公開【監督】ジョージ・C・ウルフ【出演】リチャード・ギア、ダイアン・レインまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2009.03.27
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「奇跡のシンフォニー」は、言わずと知れた“愛”の物語である。そこにはもちろん、男女の恋愛シーンも絡んで来る。 だがそれだけに止まるものではない。 男女の恋愛は、やがて誕生するエヴァンという主人公の生き様を、より感動的で魅力的なものへと高めるための、前フリのようなものだ。 この作品は、観客を意識したラブシーンや、ドロドロした恋愛模様などに囚われず、ただひたすらエヴァンの愛の行方に迫ったストーリー展開になっていることで、真実の愛の形を表現しているように思える。 全篇、音楽がたゆたゆと流れ、決してオーバーにならず、完成されたヒューマン・ラブドラマとして崇高なイメージに定着させている。言うまでもなく、このメロディの美しさと親しみ易いオーケストラサウンドは、この作品にとって非常に効果的な作用をもたらし、愛を奏でる音楽の素晴らしさを表現している。 忘れてはならないのが、ハリウッド映画を始めとする欧米諸国の作品の根底には、必ずと言って良いほど宗教とモラルが内包されている。愛という観念もさることながら、唯一絶対的な存在である神を無視して、親子の絆はあり得ないし、男女の恋愛など成立しない。この神という超自然的存在と向き合い、感謝と尊崇の念を抱くことで、幸せが訪れるというわけなのだ。 吟遊映人が辿り着いたこの作品のテーマである“愛”とは、ひとえに、万物の創造主である神が施し給うた、奇跡に他ならない。
2009.03.25
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昨年秋に観た「奇跡のシンフォニー」は、年が明けてからも度々鑑賞している。一体何がこれほどまでに吟遊映人の気持ちを惹き付けるのか、あれこれ探ってみた。 主人公エヴァンは、N.Y.の郊外にある孤児院で暮らしている。ある日、マンハッタンで不思議な旋律と出会い、類稀なる音楽の才能を開花させる。貧しいエヴァンには、何もない。だが、ギター一本さえあれば、路上に立ち、思いの丈を風に乗せ、天空に解き放つ。 エヴァンは気付いたに違いない。 自分が音楽をこよなく愛していることに。 好きなことをやっている時、人は誰もが幸せになれる。楽しさで、胸がワクワクする。 そして、自然に笑顔がこぼれる。 明日のパンもないほど、苦しい生活を強いられていたら、現実には音楽など楽しんでいる心の余裕はないかもしれない。だが、音楽は不可能を可能にするマジックなのだ。 この作品の主人公エヴァンは、たまたま音楽の才能を持ち合わせていた。しかしこれは、特殊なことではない。ファンタジーでもない。我々も、きっと何かを持ち合わせているはずだ。 その才能は実益にはならない、取るに足らないことかもしれない。だが、信じようではないか。 己の才能を。誰にも譲れない確固としたものを、生涯に渡って温め続け、エヴァンのように愛のためにその才能を開花させようではないか。
2009.03.23
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「(ガウンの)前を開けよ。」「イヤよ。見せるなんて。なぜ?」「別に。君を見たい。」「イヤよ。」「15秒でいい。見せてくれ。」「何を見たいの? なぜ?」「なぜって・・・いいだろ? 愛してる女の体を見たいんだ。」恋愛映画にはお決まりのパターンみたいなものがある。それは例えば、家柄の違いによる悲恋であったり、どちらか一方が白血病で余命いくばくもなかったり・・・。最近多いのは、女性側に何か辛い過去があり、もうこれ以上傷つきたくないからと恋愛に対して臆病になっている・・・的なストーリーである。「恋のためらい」も例外ではなく、後者のパターンだ。しかし、主役の二人が一流俳優だから最初から最後までたっぷり見せてくれる。脛に傷を持つ男が実によく合うアル・パチーノ。作中、花をバックに濃厚なキス・シーンがあるのだが、もうなんだか貪るような接吻だ。 正直、これだけで恋愛映画としては大成功と言える。刑期を終えたジョニーは、出所後ニューヨークのとあるカフェのコックとして働き出す。 ウェイトレスのフランキーは、いつも見るたびに殻に閉じこもっているような印象を受け、ジョニーと同様の孤独を抱えた寂しさが感じられた。そんなフランキーに惹かれ、ジョニーは猛烈にアタックを続ける。ジョニーに心動かされたフランキーは、少しずつ自分を語るようになり、やがて体を重ねる関係となる。吟遊映人はアル・パチーノびいきなので、もはやどんな作品においても彼の演技力と立ち位置を評価したい!ミシェル・ファイファーとのラブ・シーンなんてもの凄い迫力で、思わず画面に釘付けになってしまったほどだ。(笑)見どころは、これでもかこれでもかと愛を語りかけるアル・パチーノの堂々とした口説き文句。ニコラス・ケイジの甘いマスクと違って、アル・パチーノは牙を隠した野生のオオカミのような、粗野で乱暴なイメージがあって、それはまたそれでアリかなと。顔の筋肉が弛むのを抑えられない吟遊映人なのである。(ハート)1991年公開【監督】ゲイリー・マーシャル【出演】アル・パチーノ、ミシェル・ファイファーまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2009.01.25
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「拓郎の詞は俺たちのバイブルだった。それが今じゃ・・・。いつの間にか俺たちが古い水夫になっちまった。冗談じゃねぇよ! 古い水夫だからってエクセルとかの人事評価を見ただけでリストラなんかされてたまるかよ!」「お前の言ってることは支離滅裂。」この作品は、吉田拓郎という偉大なるアーティストのプロモーション映像のような気がした。マルチタレントみうらじゅんの著書にもあるように、フォークソング全盛期は吉田拓郎は神様的存在で、自主制作盤『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』で若者たちから脚光を浴び、正にフォーク・ブームの中心人物となった。そんな拓郎的フリースタイルな歌詞に熱狂し、やさしく、それでいて情熱的なメロディーに陶酔した当時の若者が、青春の一ページを読み返すような、そういうノスタルジックなムードに包まれた作品なのだ。不動産会社の営業マンである香取卓は、妻と二人の娘の四人家族である。香取家には卓の決めた、あるルールがあった。それは、「晩ご飯は必ず全員揃って食べる」というものだった。だが長女の詩織には想いを寄せる青年が現れ、さらに二女の歌織は趣味が高じてライブハウスでの活躍が目立ち、家族四人が揃うことが段々と少なくなっていくのだった。この作品を観て思ったのは、ホームドラマとラブ・ストーリーのコラボレーションも悪くないということだ。サラリーマン役の三宅裕司は、その風貌も手伝ってか厭味のない自然体の演技で、ほのぼのとした雰囲気を作り出すことに成功していた。世知辛いこのご時世、「三丁目の夕日」に覚えた甘くメランコリックな感傷劇を、この作品にも垣間見ることができる。先の見えない不安と焦燥の世の中、常に闘い続けなければならない我々にとってつかの間の平安を与えてくれる作品だった。2008年公開【監督】佐々部清【出演】三宅裕司、真野響子また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)※吟遊映人ア・ラ・カルトはコチラまで。
2008.12.27
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「あたし、旦那の世話を受けているのがイヤで逃げて来たんです。旦那の世話を受けているというより、奥さんやお譲ちゃんに申し訳ないから逃げて来たんです。でも旦那がきっと捜しますわ。どんな犠牲を払っても捜し出そうとしています。・・・そんな旦那ですの。あなたの勘が・・・あなたの見えない目があまりよく見えすぎたんですよ。」「・・・お客様!」(土下座する。)率直に言って、地味な作品だと思った。派手な盛り上がりもなければ、時代劇にあるような大立ち回りもなく、始終淡々としていて展開は遅かった。だが、古き良き日本の風景とでも言おうか、そこには忘れられた自然美が画面いっぱいに広がっていて、しばし癒しの空間に様変わりしたかのような錯覚さえおぼえた。この静かな空間で淡い恋慕を表現するのは非常に難しい。もしも健常者ならば、視線の投げ方でせつなさや憂いを表現できたかもしれない。しかし主人公は盲目の按摩なのだから。それにしてもスマップの草なぎ剛はがんばった。(※「なぎ」の漢字が楽天ブログでは変換されません、嗚呼!)アイドルという看板を投げ捨て、この役に全力を尽くしたに違いない。穏やかな人柄が滲み出ており、按摩に対する誠意をこめた演技を評価したい。盲目の徳市ほか按摩らは、冬場を海の温泉場で過ごし、春先からは山の温泉場で稼いでいた。ある日、徳市は東京から来た品の良い女性客、美千穂のマッサージを頼まれる。美千穂は年のわりに肩がこっていて、どうやら心配ごとがあり、ストレスで神経をまいらせているようすが見受けられた。一方、湯治場のそこかしこの宿で、客の財布が盗まれるという盗難騒ぎが巻き起こる。 徳市は目が見えないだけに神経が研ぎ澄まされており、「もしや・・・」と思う節があった。この作品を観て感じたのは、映画俳優に舞台俳優のようなオーバーリアクションを求めてはいけないということだ。確かに、演技にメリハリが少ないキライはあるが、静かでゆったりとした経過の中で流れていく物語に、よけいなリアクションは不要で、むしろ重視すべきは“間(ま)”であろう。ほんのコンマ何秒の“間”が、作品を高尚なものへと高める効果があるのに気付かされた。そして、浮き出てきそうな映像美を堪能することも忘れてはならない。コンクリート砂漠で生きる我々にとって、しばしのオアシスを提供してくれる作品なのだ。2008年公開【監督】石井克人【出演】草なぎ剛、加瀬亮また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.12.25
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「自分のため鉄道を敷いた男がいる。どこまでもひたすらまっすぐ、一つのカーブもなく。・・・何か理由があった。(だが)もう思い出せない。理由は忘れられる。」派手なアクション映画に馴らされてしまっている方々には、この作品はあまりに静かで地味な映像に映ったかもしれない。この耽美的な世界観は、ある意味、通好みだ。文学性が高く、行間を味わう趣は、古き良き日本映画を彷彿とさせる。セリフに頼らない映像美、自然体の演技、煩わしさを感じない音楽。格調高く、優雅で、時間が光に照らされゆっくりと流れていく世界なのだ。谷崎文学に触れたことのある方々ならば、この“陰翳礼賛”のかもし出す空間をじっくりと楽しめたに違いない。この作品は正に、ムードを堪能する映画なのだから。19世紀のフランスが舞台となっている。エルヴェは、製糸業を営むヴァルダヴューから蚕の卵を入手するために、アフリカ行きを依頼される。と言うのも、その年流行した疫病のせいで蚕が全滅状態になってしまったため、感染していない蚕が必要だったのである。しかし、せっかく困難な旅を経て入手した蚕の卵だったにもかかわらず、病気にかかってしまい、次なる買い付けの依頼を受ける。それは未知の国、日本行きだった。作品を耽美的に盛り上げる効果を果たした音楽の旋律に、どこか聴き覚えがあると思った。確か、「シェルタリング・スカイ」で使用されていたBGM。「シェルタリング・スカイ」の音楽を担当したのは誰だったか? そう、坂本龍一だ。 この「シルク」も同様に、坂本教授が音楽を担当している。美しく静かに流れる旋律に、思わず感傷的な気持ちになる。「シルク」は感じる映画だ。そこに、湧き出る清水のような自然の情感を信じて欲しい。言葉などには表現できない、せつなさ、愛おしさが、泉のように滾々と溢れているのだ。 2007年(加)(仏)、2008年(日)公開【監督】フランソワ・ジラール【出演】マイケル・ピット、キーラ・ナイトレイ、役所広司また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.12.11
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「(おはよう)起きたのね。」「ママは? 死んだの?」「・・・(絶句)。」「そうなのね。」「・・・ええ。」ありがちなラブストーリーをどうやって観客に共鳴させるのか、それは正しく脚本家の腕にかかっているのかもしれない。ベタなセリフの羅列は人を飽きさせうんざりさせてしまうし、かと言ってあまりに斬新過ぎると難解なストーリー展開に疲れてしまうし・・・。そういう意味で「幸せのレシピ」のシナリオは、実に良かった。女性の社会進出が目覚しい勢いで伸びている今日、その反面様々なストレスを抱え、精神のバランスを崩してしまう女性が少なくないのも確かである。ほぼ24時間の緊張感に拘束され、最大限の努力と完ぺきさを求められるのだから一たまりもない。そういう女性が、何かをきっかけに少しずつ自分を解放していく、そのプロセスを物語る作品に仕上げられているのだ。N.Y.マンハッタンのレストランで料理長を務めるケイトは、オーナーの勧めでセラピーに通っている。完璧主義という性格が災いしてか、しばしば店の顧客と衝突を繰り返していたからだ。 そんなある日、ケイトのたった一人の姉が事故で急死。姉の一人娘ゾーイを引き取ることになったものの、ゾーイはケイトの作る完璧な手料理を食べようとしない。信頼のおけるベビーシッターが見つからず、ケイトは職場にゾーイを連れて出勤することになったところ・・・。とても嬉しかったのは、当管理人が好んで止まないプッチーニのオペラが挿入曲として使用されていたこと。「ジャンニ・スキッキ」より“私のお父さん”が流れた日には、この映画そのものが格調高く、優雅にさえ感じられるから不思議だ。人気レストランの女性料理長役のキャサリン・ゼタ=ジョーンズも、クールにキまっていた。ストイックなキャラクターということもあり、自分にいくつかのルールを課し戒めていくプロ意識は、女優キャサリンにも通じることではなかろうか。キュートな子役との絡みも、徐々に距離間を感じさせなくなるという演出も見事。「幸せのレシピ」は、正にタイトル通り心あたたまるハートフルな作品として仕上げられていた。2007年公開【監督】スコット・ヒックス【出演】キャサリン・ゼタ=ジョーンズまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.12.03
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「どのみち人は皆旅人にすぎない。つかのま地上を歩き、次には船を出して波間を行くが、いつか沈む運命だ。」この作品を見て思い出したのは、京都府舞鶴市から望む日本海の深くて濃い海の色だ。 “岸壁の母”でも有名で、海上自衛隊舞鶴基地のある所でもあり、昔は軍港として栄えた町である。この辺りでは、“弁当忘れても傘忘れるな”と言われるほど雨天が多く、年間を通して晴れ間を見ることが少ない。「シッピングニュース」は、そんな舞鶴とオーバーラップするかのような、ニューファンドランド島のさびれた漁港のある田舎町が舞台となっている。富も名声もないしがない男が娘をつれて、疎遠になっていた父の故郷を訪れる話なのだが、実に良かった。時間が人々の中を吹きすさぶ風とともにゆっくりと過ぎていくのだ。時には雷や大雨を伴うこともある。だが、降り止まぬ雨はなく、夜明けの来ない夜はないのだ。内向的で素朴で一途な男クオイルは、ひょんなことから知り合った見ず知らずの女性ペタルと男女の関係を結ぶ。お互いを知るわけでもないが、純粋なクオイルはペタルと結婚し、女児を儲ける。ペタルはもともとクオイルを愛して結婚したわけではないため、数々の男と享楽に耽り、家庭を蔑ろにした。そんな薄情なペタルを心底愛しているクオイルは、他に女性を作るわけでもなく、愛娘バニーの子守りと家事、そして仕事に追われながらも、ペタルの愛を信じているのだった。ある日、クオイルに一本の電話がかかる。それはなんと、妻ペタルが交通事故で即死したという知らせだった。そんな中、クオイルの叔母と証する女性が訪ねて来る。彼女は不幸に見舞われたクオイルとその娘バニーをつれ出し、故郷であるニューファンドランド島へと向かうのだった。この作品は昨今のありがちなラブストーリーとは一線を画し、役者のセリフと映像美と演出による効果で微妙な心の動きや情感を表現しているため、字幕による解説やナレーション等に一切依存していない。見どころは、愛を求めて止まない不器用な男と、不器用な女がすれ違いながらも吸引されるように結ばれていく場面。心に深い傷を負った悩める人々が、田舎町で少しずつ自分を取り戻し、解放され、癒され、再生していく、静かで良質なドラマなのだ。2001年公開【監督】ラッセ・ハルストレム【出演】ケヴィン・スペイシー、ジュリアン・ムーアまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.11.19
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「今夜僕の演奏会があるんだ。」「本当か?」「うん、でも行かれない。」「なぜ?」「わけがあって・・・。」「もし僕が君なら演奏会に行くよ。何が何でもね。」「うん。(でも)もし悪いことが起きたら?」「音楽は捨てるな。何が起きても。どんなにつらい時だって音楽さえあれば感情を吐き出せる。僕の経験だ。でも大丈夫。悪いことは起きない。自分を信じろ。」この子役どっかで見たなぁと、自分の記憶のあいまいさに半ば嫌気がさした。どこか薄幸そうで、貧相な顔立ち、でも笑うとこの上なくキュートなこの子役は・・・?そうだ、「チャーリーとチョコレート工場」にも出演していた子役だ!やっと胸のつかえがとれてスッとした。(汗)フレディ・ハイモアは、妙にこういう役柄が似合ってしまう。貧乏でめぐまれない環境にもかかわらず、健気で前向きで心は豊か・・・みたいな役どころである。「奇跡のシンフォニー」において、フレディ・ハイモア以外にこの主役は考えられないほどに適役だった。作品冒頭では、一面の小麦畑の中に身をうずめ、風の声に耳を傾ける主人公エヴァンの表情に注目していただきたい。物欲のない、無邪気な微笑みに吸い込まれそうだ。ニューヨーク郊外の養護施設で暮らす11歳のエヴァンは、並外れた音感にめぐまれていた。エヴァンはどんなに辛く悲しい時も、音楽とともにあり、両親がいつかきっと迎えに来ると信じて疑わなかった。そんなある日、彼は外界のあらゆる音に導かれるようにして養護施設を抜け出し、マンハッタンにたどりつく。そこで出会ったのは同年齢の黒人アーサー。彼はギター一本でストリートミュージシャンとして稼いでいるのだった。全体を通して感じられる流れるような詩的なセリフ。音楽に乗って天空を舞う浮遊感。このセンシティヴな心の動き、感情の起伏を、身体全体で受け留めていただきたい。男女の恋愛感情も、親子の絆も、それを結びつけるのは常に自分を信じ、願うこと。感性とは、物事に対して知的な批判を浴びせることではない。頭で考えた美辞麗句ではなく、心でときめいたほとばしる泉のことだ。「奇跡のシンフォニー」は、心の琴線に触れる豊饒なラブドラマなのだ。2007年(米)、2008年(日)公開【監督】カーステン・シェリダン【出演】フレディ・ハイモア、ケリー・ラッセルまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.11.05
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「偉大な(フェリーニ)監督が助言してくれたの。」「何て?」「こう言ったわ。“多くの可能性に向かって生きろ。”“子供のような熱意があれば道は開ける。”って。」世間では三連休。この秋の休日をみなさんはどのような状況の下、おすごしだろうか?全ての人が家族サービスに明け暮れるわけではないだろう。フリーの人は、自分のためにのんびりした休日を満喫するだろうし、中には「休日なんてとんでもない。フツーに仕事だ。」と、連休とは無縁の方々もおられるだろう。「トスカーナの休日」は、一人の女性作家が寝耳に水の離婚を経験し、異国で再生を遂げるストーリーである。働く女性にとって、食べていくための手に職はあっても、良きパートナーにめぐまれない不運はよく耳にする。精神的な打撃を若さだけでは乗り越えられない年齢に達していた時、誰かの支えが必要な時、環境を変えてみるのは一つの打開策であるかもしれない。書評家のフランシスは、離婚のショックから立ち直るため、イタリアのトスカーナ地方にツアーで訪れる。そこで目にしたのは、築300年の荒れ果てた売り家。“ブラマソーレ”という言葉に惹かれてその家屋を衝動買いしてしまうのだった。フランシスは、家屋の修繕のために人手を雇い、少しずつ完成させていく。その間、知り合った隣人の晩餐に呼ばれたり、身重の親友が突然訪ねて来たり、イタリア人男性と甘い関係になったり、様々な人間模様に彩られていく。女性作家フランシス役のダイアン・レインは、年齢とともに知的な役者さんに成長しているように感じた。以前の印象では、何かコンプレックスを抱えているような女優さんに見受けられたのだが、「トスカーナの休日」では、そういう暗い影みたいなものが払拭され、とても魅力的なヒロインを演じてくれた。フランシスの親友パティ役は、サンドラ・オーが同性愛者という役回りで、明るく健気に生きるマイノリティーとして熱演。イタリアという陽気で情熱的な土地柄のせいか、苦悩を抱えて生きる人間でさえ光り輝いて見えた。時間がゆっくりと過ぎていく、ほのぼのとした恋愛ドラマなのだ。2003年(米)、2004年(日)公開【監督】オードリー・ウェルズ【出演】ダイアン・レインまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.11.01
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「あなたと自分に腹が立って(あんなことをしてしまったの)。あなたが医学校に行けば気が晴れると・・・自分の気持ちが分からずに・・・(私は)本当にバカね。何の話か分かるわね? 先に気づいたのはあなた。」「なぜ泣いてる?」「分かるでしょ?」「ああ、分かる。」久しぶりに上質な映画と出会えた気がする。この作品は英国の作家イアン・マキューアンのベストセラー小説「贖罪」が原作となっている。13歳の少女の潔癖性と嫉妬が生んだ嘘によって、純愛を育む男女の悲劇を描いたものだ。 主人公のブライオニーは、作家を目指す聡明な少女だ。彼女の紡ぐ言葉はタイプライターのカチカチというリズミカルな音に伴って物語となり、表現される。しかし、タイプライターによって一度紙面に刻まれた文字は消えることはない。虚飾の世界が現実となってそこに存在するのだ。思春期に直面する少女が抱く淡い恋心が、やがて嫉妬に変わり、垣間見る大人の世界、性への恐れが彼女を狂わせてしまう。この少女ブライオニーが、作家を夢見て日夜タイプライターに言葉を紡ぐという設定はすばらしい。そんな彼女だからこそ、背負った罪の重さは計り知れず、生涯をかけてつぐなうというエンディングでまとめられているのだ。1930年代、忍び寄る戦争の影、夏のイングランドにおいて、上流階級の令嬢セシーリアは使用人の息子ロビーと惹かれ合っていた。ロビーは学業優秀で、セシーリアの父親の援助によってケンブリッジ大学の医学部へと進学が決まっていた。一方、セシーリアの妹ブライオニーは、ロビーに対して淡い恋心を抱いている。だがロビーとセシーリアのただならぬ関係を察知し、ロビーに対して警戒心を抱くようになる。そしてある夜、事件は起きた。切なさを誘うほどの広々とした草原。バロック調の建物、レコードから聴こえる優雅なオペラ、ミツバチの羽音。文学性の高い演出、映像美、脚本、全てにおいてすばらしかった。また、引き裂かれた二人の痛みを伴うほどの恋愛と苦悩は、ジェームズ・マカヴォイとキーラ・ナイトレイの二人の役者によって最高に格調高いドラマに仕上げられていた。2007年(英)、2008年(日)公開【監督】ジョー・ライト【出演】ジェームズ・マカヴォイ、キーラ・ナイトレイまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.10.16
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「君を愛してる。僕は不器用な男だがどうやら本気で愛してしまったらしい、君を。別れる運命やセックスの相性も関係ない。悲観的な見通しもどうでもいい。理屈じゃない・・・君を愛してるんだ。信じられないほど。」これはハンパない女性のための映画だ。この感触はどこかで覚えがある・・・すぐに記憶をたどって思い出した。そう、これは「ブリジッド・ジョーンズの日記」をほうふつとさせるものだ。男運のない女性が、新しい出会いの中に、じょじょに自信を取り戻して自分らしさを発揮していくプロセスが見どころである。女性というのは仕事で自分を生かしたいと思う反面、恋愛も充実させたい、あるいは家庭円満にと願う欲張りな生きものだ。だが、古今東西、全て物事が円滑に運ぶという奇跡はまず起こり得ない。仕事で大成すれば私生活にひずみができるし、私生活を重んじれば仕事は全うできない。 バランスの取れた人生なんて、しょせん夢物語でしかないのかもしれない・・・そうあきらめがちな女性に対する覚醒の映画とでも表現しようか。ロサンゼルスの映画予告製作会社の女社長アマンダと、イギリスはサリー州に住み、新聞社に勤めるアイリス。二人は男運にめぐまれず、クリスマスを目前にして失恋する。ネットを通じて知り合った二人は、傷ついた心を癒すためにお互いの家を2週間だけ交換することにする。ロサンゼルスのアマンダは、ロンドンの片田舎へ。ロンドンのアイリスはロサンゼルスの高級住宅地へ。彼女たちは、それぞれの休日を満喫するのだった。ジュード・ロウのセリフに注目していただきたい。日本語に訳すと単なるクサイだけのセリフも、英語の言い回しは流れるように甘く、それだけでロマンスを感じてしまう(?)誰かを愛することに恐怖する女性には、失ってしまった自信を取り戻すきっかけになるかもしれない映画だ。どんな女性でもきっかけさえあれば、恋愛はやり直せる。真実の愛をささやく人の声に耳を傾けて、一心にその言葉を信じなさい、そう語りかけているような気がする。2007年公開【監督】ナンシー・メイヤーズ【出演】キャメロン・ディアス、ケイト・ウィンスレットまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.10.10
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「君の目は青空の色だ。」「私の唇はロゼ色。」「君の唇が欲しい。」現代社会の目まぐるしい時世の速さは、老若男女問わず疲労感を覚えさせる。その時流の波に上手い具合に乗ることができた、言わばビジネスに成功した“勝ち組”と呼ばれる者たちですら、少なからず苦悩している。“今の自分は果たして幸せなのか、これで本当に良いのだろうか”だが、余計な雑念は、鎧を着け仮面を被って肩肘を張る己の精神を脆弱にする。そんな我々が求めているのは、“癒し”の世界なのだ。せめて映画の中では甘い夢を見ていたい。忙殺された日常を消し去りたい。そんな願望を、誰もが抱いているはずなのだ。ある時、シャトーにヘンリーの娘だと名乗るクリスティが訪れる。見れば鼻の形が亡きヘンリーにそっくりで、間違いはなかったが、マックスは相続がすんなり運ばなくなることを懸念。わざとクリスティをヘンリーの実子であると認めようとはしなかった。だが、クリスティに野心はなく、父親が永住の地に選んだプロヴァンスを愛しむ気持ちと、芳醇なワインを生み出すぶどう園をなんとかして残したい想いに駆られるのだった。一方、マックスはひょんなことからレストラン“ラ・ルネッサンス”の美人オーナーであるファニーと出逢い、恋に落ちる。ふだんは男性を寄せ付けないファニーだったが、マックスのデートの誘いを受け入れ、一夜を共にする。だが、あくまでシャトーとぶどう園を売却しようとするマックスに対しファニーは批判的で、彼が「ここは僕の人生に向かない」と言うと、「違うわ、あなたの人生がここに向かないのよ」と切り返すのだった。すばらしい映画は、我々に作品を通してとても大切なことを教えてくれる。例えば、「ここは僕の人生に向かない」→あくまで主体は「僕」にあり、「ここ」が変わらない限り僕の人生には不向きである、の意。一方、「あなたの人生がここに向かない」→主体は「ここ」にあり、「あなた」の人生を「ここ」に合わせるべきなのだと。凝り固まった金儲け主義を捨て、本当に大切なものを見つけなさいと諭されているのだ。 さらに、少年時代にマックスがヘンリーとテニスの試合をしてヘンリーに負けてしまうシーンがある。その時、ふてくされて悔しがるマックスに向かって言った言葉は、次の通りだ。「勝利から学ぶことは何もない。負けは知恵を生み出す。大切なのは、負け続けないことだ。」挫折を知らない人間は、実はとても脆くて弱い。挫折を乗り越え、それをバネにして生きる人生は尊い。そこから本当に大切なものを見出していくのだ。この映画から、あなたは何を学ぶだろう?セリフの一つ、風景の一つ、小道具の一つを取っても、我々の意識の闇に一筋の光を射し込んでくれるに違いない。稀に見る最高傑作の映画なのだ。2006年(米)、2007年(日)公開【監督】リドリー・スコット【出演】ラッセル・クロウまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.05.18
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「“この唇を許して。この世の楽園で喜びを見つけた・・・いたずらな唇を。”」「私がプールでささやいた詩を覚えていたのね。あの日の出来事を・・・。」「思い出した?」「もちろんよ。」今年度上半期にしてすでに最高の作品と出会ってしまったのかもしれない。これまで数多の戦争モノ、アクション、サスペンスを鑑賞して来たが、こんなにドラマチックで優雅な気持ちにさせられたのは久方ぶりだ。洗練された都会と、素朴で豊饒な田舎との対比が見事。人間が刺激を受けるのは、決して都会だけではないことがわかる。豊かに降り注ぐ陽射しと大地の匂い。風が音もなく囁き、緑に萌える樹木が呼応するようにゆらゆらと揺れる。時間は煩雑な日常を溶かし、ゆっくりと流れてゆく。ロンドンの証券会社でトレーダーとして多忙な日々を送るマックスのもとに、一通の手紙が届く。それは、イギリス人でありながら南仏のプロヴァンスに居住し、ワイン造りを楽しんでいたヘンリーおじさんが亡くなったという報せだった。マックスはヘンリーの相続人として遺産を受け取ることになり、相続手続を済ませたらすぐにロンドンに戻るつもりでプロヴァンスの地を訪れる。少年のころ、毎年夏になるとヘンリーの所有するぶどう園を眺めながらヴァカンスを楽しんだことをあれこれと回想するマックス。若くしてトップクラスの座に登りつめた彼の基礎を支えたのは、ヘンリーから様々な知識や教養を学んだおかげだった。だが、そんな甘い記憶もすぐに消えた。マックスは、たくさんの思い出の詰まったシャトーとぶどう園を売却するつもりでこの地へ赴いたのだ。彼はすでにロンドンという洗練された都会でのビジネスがあった。プロヴァンスの片田舎の不動産を維持していく暇などなかったのだ。携帯電話を片時も離さない主人公を見て、我が身を振り返る視聴者の方もおられるに違いない。忙しなく働いて、お金を稼ぐことが美徳だと勘違いしてしまう現代人。もちろん、生活費を稼ぐことは生きていく上で必須だ。だが、それに縛られて真実を見誤ってしまうことがあってはならない。マックスが上司に呼ばれて、部屋の壁に飾られたゴッホの絵に目を留めるシーンに注目して欲しい。(ちなみにその絵は「糸杉と星の見える道」というゴッホが晩年にプロヴァンスで制作した作品である。)マックスはその絵が本物だと思ったのだが、上司に言わせると本物は高価なので厳重に金庫へ保管してあり、マックスが目にしているのはレプリカだと。「いつ(ゴッホの)本物を見るんです? いつですか? 夜中に金庫を(こっそり)開けて眺めるんですか?」全ての答えは、この言葉の真意に凝縮されている。まるで、芳醇なプロヴァンスのワインのように。2006年(米)、2007年(日)公開【監督】リドリー・スコット【出演】ラッセル・クロウまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.05.17
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「本当に誰かを愛した人は愛情豊かなのよ。(亡くなった)奥さんと同じに別の人を愛せるのでは?」「そんな事、想像もできない。」「じゃどうするの?」「そうだな、毎日朝になったら起きて・・・一日中呼吸をする。そのうち努力をしなくても、毎朝ベッドを出て呼吸し続けるようになる。やがて幸せな日々があった事を・・・あまり思い出さなくなる。」この作品のモチーフになっている「めぐり逢い」は、多くの監督によって何度かリメイクされているのだが、何と言ってもケイリー・グラントとデボラ・カーの「めぐり逢い」が最高だと思う。ヒッチコック作品の常連役者でもあるケイリー・グラントは、サスペンスであろうがラブ・ロマンスであろうが視聴者の期待を裏切らない、一流の俳優なのだ。すでに婚約者のいるアニーだったが、ある晩、車内でラジオを何気なく聞いていると、彼女の胸に何か熱いものが込み上げた。それは、リスナー参加の人生相談番組で、シアトル在住の8歳の少年ジョナが、「ママが死んで落ち込んでいるパパに新しい奥さんを」と訴えかけるものだった。ジョナに促されて電話口に出た父親サムは、事態が飲み込めずにいたものの、やっとラジオ番組であることを把握し、自身の心境を淡々と語り出す。妻に先立たれてからの切ない想いや、孤独と寂しさから眠れぬ夜をすごすこともあると告白するサムの声に、思わずアニーはもらい泣きしてしまうのだった。その晩からアニーは、見ず知らずの“シアトルの眠れぬ男性”に心惹かれる一方で、婚約者に運命的なマジックを感じない関係に疑問が生じてしまう。作中、アニーが「めぐり逢い」を鑑賞しながら感情移入してしまい、思わず涙に濡れるシーンが出て来るのだが、これこそがこの映画のテーマであろう。そう、多くの女性がドラマチックな恋愛を夢見ていて、運命の相手を待ち望んでいるのだと。ヒロインのアニーを演じたメグ・ライアンは、あくまで自然体で等身大の女性を演じている。そのチャーミングで厭味のない演技は、この作品で見事に開花されている。共演を果たしたトム・ハンクスとは、この映画の後にも「ユー・ガット・メール」でもコラボして大ヒットになった。ラブ・ロマンスというカテゴリにおいては、おそらく女性視聴者の割合が多くなると推測できるが、メグ・ライアンが等身大ヒロイン像を演じることで親近感を持たせることに成功し、男性視聴者にはキュートな魅力でそのハートを釘付けにした。この作品では、「ロマンティック・コメディの女王、ここにありき」を大いに感じさせてくれるのだ。1993年公開 【監督】ノーラ・エフロン【出演】トム・ハンクス、メグ・ライアンまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.03.20
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「今日、船に(上着を)忘れてった。」「彼女に電話したか?」「いや。親父が(彼女の泊まっている)ホテルに届けてくれ。」「お前が自分で届けろ。会いたくないのか?」「・・・多分。」「なぜだ?」「(そんなに)簡単じゃないんだ。」この作品は「きみに読む物語」と同著者の原作を映画化したものである。作者ニコラス・スパークスの作品には「純愛」がクローズアップされることが多いが、「メッセージ・イン・ア・ボトル」も例外ではない。この著者の作品は次々と映画化されており、それはベストセラー作家として当然の過程であろう。おそらく、オリジナル小説を読んだら、涙無くしてはページをめくれないほどの感動に見舞われるに違いない。しかし、映画という芸術(娯楽とも言えるが)は、物語ることと見せることとの融合なのだ。そのどちらか一方のバランスを欠けば、深い穴に落ちることになってしまう。浜辺に打ち上げられた手紙入りの瓶を、シングルマザーのテリーサが拾い上げるところからストーリーは展開する。テリーサはシカゴの新聞社の調査部に勤務しているため、瓶の中の手紙をさっそく同僚にも披露する。そうしないではいられなかった理由とは、その手紙の内容があまりにも誠実で、一人の女性に宛てられた愛情あふれる言葉に満ちていたからだ。その手紙の全文は、さっそく上司の意向で新聞に掲載。読者の反響はことのほか大きく、何百通もの投書が寄せられる。そんな中、テリーサは手紙を書いた人物に好奇心を抱き、しだいに心を奪われていく。 手を尽くして、やっとの思いでその人物、ギャレットの居所をつきとめるのだ。ギャレットは2年前に妻を病気で亡くしていたが、いまだに妻を忘れることができず、消え失せぬ愛に生きているのだった。主役のギャレットを演じたケヴィン・コスナーは、おそらく誠実で真面目な役者さんに違いない。一つ一つの演技にそつがなく、どういう役柄に徹すれば良いのかを、努力によって培っていることがよくわかる。セイリングのシーンにしろ、嵐の海へダイブするシーンにしろ、彼は全力投球でこの役に打ち込んでいる。しかし、90年代前半に放っていた輝きを、残念ながらこの作品では感じることができない。「ダンス・ウィズ・ウルブズ」「JFK」「ボディー・ガード」どれも素晴らしい作品に恵まれていただけ、惜しい気がした。あるいは本作、ラブ・ロマンスというカテゴリにおいても息の長い役者であろうと、役作りの幅を広げるための挑戦だったのかもしれない。一方、妻の死を乗り越えられずに深い哀しみに暮れる息子を、影から励まし、見守り続ける父親の情愛に胸を打たれた。この作品の存在意義は、全て、ここに集約されていると捉えても差し支えないかもしれない。その父親を演じたポール・ニューマンの圧倒的な存在感と円熟した演技に、脱帽なのだ。 1999年公開【監督】ルイス・マンドーキ【出演】ケヴィン・コスナー、ポール・ニューマンまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.03.18
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「うまくやるのは難しい。努力が必要だ。でも俺は努力したい。ずっと君が欲しいから※。一緒にいたいから。お願いだ。将来を思い描いてみて。30年後、40年後誰と一緒だ? もしヤツ(を選ぶ)なら・・・行け! それが君の望みなら俺は耐えていける。無難に選ぶな!」「無難って? どうやっても誰かが傷つくのよ!」「人のことは考えるな。俺(のこと)もヤツ(のこと)も両親(のこと)も忘れろ! 君(のこと)だよ、問題は。」「そんな・・・(わからないわ)。」「君は(一体)どうしたい?」※「ずっと君が欲しいから」→「ずっと君が必要だから」と訳した方がわかり易いかもしれない。原作を読んでいないため、憶測で物を言うことをお許し願いたい。著者は「純愛」をテーマにこの物語を書き進めたに違いない。身分違いの恋と言えども、お互いがお互いを思う気持ちがあればどんな障害も乗り越えて行ける。他人など関係ない、最終的には「自分」の問題であって、責任を誰かに転嫁し被害者ぶってはならない、何事も自分を信じるのだ。自分の信じた道を選ぶのだ。・・・と言う純愛の定義、純愛の真髄のようなものがそこかしこに漂っている。ただし、このテーマは単調でわかり易いだけに出演者の演技力やルックスもさることながら、時代背景、脚本、ストーリー展開の難しさが伴うのだ。舞台は1940年ノース・カロライナ州シーブルック。休暇をすごしに都会からやって来た富豪の娘アリーは、地元の製材所で働く青年ノアと出逢い、恋に落ちる。しかし、娘の将来を案じたアリーの両親は、身分違いのノアとの交際を反対し、休暇も早々に都会へと戻ってしまう。ノアは365日欠かさずアリーに手紙を書くものの、アリーの母親が故意にその手紙を渡さなかった。そうすることで、アリーに一日でも早くノアのことを忘れさせたかった親心からなのだ。 その後、第二次世界大戦が勃発。アリーは軍の病院でボランティアとして負傷兵たちの介護に携わる。そこで知り合った兵士は、大富豪の息子で、ノアのことが脳裏をよぎるも、アリーはたちまち恋に落ちてしまう。そして、身の丈に合ったふさわしい二人は、両親の祝福も受け、すんなりと婚約に至る。 数十年後、療養生活を送る認知症の老婦人の傍らで、静かに物語を読み聞かせる老人がいた。それは若かりし日の、ノアとアリーの恋愛ストーリーであった。この作品は、おそらく賛否両論分かれるところだろう。愛を貪る若い二人が、多くの人々を傷つけてまで手に入れた恋愛の代償。その結果が究極のハッピーエンドではあまりにキレイゴト過ぎやしまいか。様々な苦悩と犠牲を払って成就した恋愛だが、どんな若者にもやがては訪れる「老い」。 その時、人は同じ相手を同じ気持ちで変わらぬ愛を誓うことができるであろうか。世知辛い時世には、甘美なラブ・ロマンスが乾いた心を潤してくれるのかもしれない。 2004年(米)、2005年(日)公開【監督】ニック・カサヴェテス【出演】ライアン・ゴズリング、レイチェル・マクアダムスまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.03.17
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「君には分からないんだ。どんなに一生懸命頑張っても頑張ってもどうにもならないんだ! 君は生まれつき優秀で、僕はこうだからね。君は完璧さ。君は分からない。心に受けた傷の痛みを。君には感情がない。心が冷たくて何も感じないんだ!」「自分だけが苦しんでるとでも? なら私はどうなるの? いつも道に迷い、劣等感にさいなまれてる人間よ。(自分なんて)クズだと。」いつのころからか、映画の撮影技法として手持ちカメラでの作品が多くなったような気がする。安定しない、揺れるような感覚の手持ちカメラは、ドキュメンタリーのような臨場感をかもし出す効果がある。あくまでフィクションとしての作品でも、この手法によれば、よりリアル感が増してその境界線があいまいになるという効果が生まれるのだ。「アイ・アム・サム」でもこの手法が時折見受けられる。それによって映画の中の世界が、観客である我々に身近な印象を与えてくれるのだ。身内や知人に障害を持つ人がいる場合、この作品はきっと他人事ではなく身につまされる思いで感情移入できるかもしれない。だが、日常生活の中でそういう人たちとの接点がない場合、作品との間に距離が生まれてしまうかもしれない。その溝を埋めるためにも、この「手持ちカメラ感覚」の撮影はとても効果的に思えた。 知的障害を持つサムは、ホームレスの女性レベッカとの間に子どもができる。レベッカは出産後すぐに行方をくらませてしまうが、サムは愛娘ルーシーを必死に育てる。しかしルーシーが成長するにつれ、サムの知的能力を追い抜いてしまい、サムは父親として養育能力がないと判断を下されてしまう。ルーシーは施設で生活することになり、サムはどうにかして親権を取り戻したいと奔走する。サムは同じように障害を持つ仲間の助言から、法廷で争う決意を固め、敏腕女性弁護士リタに依頼。結果、サムは条件付きで親権は認められるが、ルーシーは里親のもとで暮らすことになる。作中、絶えず流れていたビートルズのカバー曲の引用は、作品全体をアナログ的なカラーを上手く引き出し、落ち着いた雰囲気にまとめていた。娘の誕生の際、看護師から「名前は?」と聞かれてとっさに「ルーシー」と答える件は、サムがビートルズマニアであることをよく物語っている。1967年、ちょうどサイケデリック全盛期にリリースされた『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』に収録された“Lucy in the Sky with Diamonds”より「ルーシー」と名付 けたというわけだ。このナンバーのゆがんだ音といい、派手な色合いといい、ビートルズのストライク・ゾーンをねらったアルバムからの引用だと思った。この作品を、知的障害を持つ父親とその愛娘との強い絆を描いた作品であると、ストレートに受け止めてしまうのは短絡的なような気がする。作者は暗に視聴者に投げ掛けている。知的障害を持ってはいても、精一杯頑張って育てようとする父親のもとでルーシーが暮らすのが一番良いのか。(だがルーシーはこれから思春期を迎え、やがては大人の女性になる。生きていく上での社会的な常識なども身につけていかねばならないのだ。)それとも健常者である里親のもとで人並みの生活をしていく方が幸せなのか。(だがあくまで里親とは血のつながりはなく、サムほど愛情を持って育ててもらえるかどうかは未知数である。)「本当の幸せとはいずれか?」幸せの度合いを量る物差しはないので、こればかりは当事者でなくては何も言えないかもしれない。世間が押し付けてくる既存の価値観に、一石を投じた作品であると思った。2001年(米)、2002年(日)公開【監督】ジェシー・ネルソン【出演】ショーン・ペン、ミシェル・ファイファー、ダコタ・ファニングまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.02.20
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「恋とは一時的に衝撃に襲われるようなものだ。地震のように揺れて、やがて治まる。治まったら考えるのだ。二人の根があまりにも深く絡み合っていたら、別れることはもう不可能だ。それが愛というものなんだよ。愛は胸の高鳴りや息苦しさ、抱き合うことじゃない。体中を這う彼のキスを夜中に想像することでもない。」我々が映画を観る理由なんて、実にシンプル極まりない。楽しみたいからだ。ドキュメンタリータッチの反戦映画には、残酷な殺戮シーンや目を覆わんばかりの惨たらしい場面もあったりするが、わざわざ情報収集のためだけに足を運ぶ観客は少ないだろう。基本的には「感動」を求めて映画を観に行くはずだ。メッセージ性の強い社会派映画は、時に製作者サイドの意図があからさまに出てしまい、おもしろさや楽しさが半減されてしまう場合がある。逆に作り手が一人でも多くの大衆に受け入れられようと、興行的成功をねらって努力を重ねた作品の方が、結果として社会性や政治性を帯びた内容になったりする。「コレリ大尉のマンドリン」は、昨今の反戦映画としては他に類を見ない、格調の高い芸術的センスにあふれた素晴らしい作品だ。1940年、第二次世界大戦下のギリシア・ケファロニア島が舞台となっている。イタリア軍が隣国のアルバニアへの侵略を開始する中、ギリシアもその脅威にさらされていた。島の医師の一人娘であるペラギアは、ハンサムな漁師マンドラスと恋仲。知性と教養のあるペラギアに引きかえ、マンドラスは文字も読めない無学な青年だったが、ペラギアは盲目な恋に夢中。マンドラスはペラギアと婚約した後、アルバニア国境へと出兵。その後、彼の消息もわからぬまま一年が過ぎてゆく。ケファロニア島はイタリア軍とドイツ軍に占領される。島民たちの不安感や緊張感をやわらげたのは、イタリア軍のアントニオ・コレリ大尉だった。彼の背中には、マンドリンが背負われていた。コレリとその部下たちは、陽気で楽しげなイタリア人らしく合唱隊を組んでいた。ペラギアはそんな彼に心惹かれてゆき、二人は恋に落ちる。フランシス・F・コッポラの甥であるニコラス・ケイジが、この作品では七光りに恥じない好演を果たしている。キャスティングを見たら驚くようなそうそうたる顔ぶれで文句のつけようもなく、ワンカットワンカットの映像美は観客の視線を釘付けにして止まない。原作を裏切らない脚本はラストまで実に見事な奥行きを持たせ、音楽に至っては厭味なく、しかも効果的に流れていた。名匠ジョン・マッデンにスタンディング・オヴェイションを送りたい。「ブラボー!!」 2001年公開【監督】ジョン・マッデン【出演】ニコラス・ケイジまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.01.31
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