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【君の名は。】あけましておめでとうございます。平成30年という節目の年の幕開けです。とはいえ、官公庁は4日から開庁しているので、すでにお正月モードではない方々も多いのでは。(お勤めの皆さま、ご苦労さまです。)吟遊映人も始動します。つたない記事と画像を細々とでもアップして参りますので、暇つぶしにでもご覧いただけたら幸いです。本年もなにとぞよろしくお願い申し上げます。 新年早々、初詣には行かなくても買い物にはいそいそと出かけてしまうというのが女性の性だろうか。私もその一人。近所の大型ショッピングモールへ出かけ、ニトリ→ユニクロ→無印良品→マック→食料品売り場という順にウロウロしていると、不意に背後から声をかけられた。 「あら、吟遊映人さんお久しぶり! あけましておめでとうございます」「あ・・・どうも、おめでとうございます」 顔は見覚えがある。でも名前が出て来ない。一緒に子供会の役員をやったあの人、ほら何と言ったっけ?喉まで出かかっているのに出て来ないのだ。いっそのこと「失礼ですが、どちら様でしたっけ?」と聞いてしまいたい。嗚呼、年は取りたくないものである。(結局、名前はわからずじまい。) だからというわけではないのだが、新年は『君の名は。』というアニメ映画からご紹介していこうと思う。 「おまえが世界のどこにいても、必ず会いにいく!」 2016年公開の『君の名は。』は、興行収入ランキングにおいて『千と千尋の神隠し』をおさえ、歴代1位となったらしい。(ウィキペディア参照)『シン・ゴジラ』もスゴかったが、『君の名は。』はそれを凌ぐ東宝の大ヒット作品となった。監督は新海誠。アニメオタクの友人と会話していると、時々この監督の名前が出て来たのだが、あまり興味がなかったのでスルーして来た。あれから何年か経ち、まさかこんなにメジャーになるとは思わなかった。同時に、先見の明があるアニオタの友人のスゴさに改めて脱帽である。 新海誠監督は長野県出身で、中央大学文学部卒。言うまでもなく代表作は『君の名は。』だが、他に『ほしのこえ』や『秒速5センチメートル』などのアニメも手掛けている。 『君の名は。』のストーリーは次のとおり。ある朝、目を覚ますと、立花瀧は女子になっていた。本来なら、東京の都心に暮らす男子高校生で、日々を友人たちと楽しく過ごし、バイトでせっせと稼ぐ今どきの若者だった。逆に宮水三葉は男子になっていた。本来なら岐阜県は糸守町というのどかな田舎町に住む女子高生で、つまらない田舎の暮らしに嫌気がさしていた。二人の身体が入れ替わるのは週に数回で、お互いに最初は生々しいほどの現実的な夢をみているに過ぎないと思っていた。ところがそれは正に現実で、瀧が三葉で三葉が瀧に入れ替わっていることに気付く。最初は戸惑いがちだったが、そのうち二人はメールでやりとりしながらフォローし合い、お互いを意識し、必要とするようになる。そんな中、入れ替わりが突然途絶えてしまう。瀧が三葉にいくらメールをしようと思ってみても届かない。さらには三葉という名前さえも徐々に記憶が薄れていく。瀧は必死に忘れまいと記憶を頼りに、自分が入れ替わった三葉が住む岐阜県糸守町の風景をスケッチに描き起こしてみた。瀧はそのスケッチを基に糸守町に出かけてみようと思うのだった。 私以外にも同じ感想を持つ昭和生まれは五万といるだろうけど、あえて言わせてもらおう。この作品は大林亘彦監督作品へのオマージュではなかろうか。もう作品の前半ぐらいで、「これって“時をかける少女”とか“転校生”みたいな感じだな」と思った。さらには、山中恒原作の『おれがあいつであいつがおれで』をアニメ化したのだろうかと思ったほどである。なのでストーリーに関してはあまり斬新さを感じることはなく、むしろ昔の映画の現代的にアレンジされたコピーを見ているような感覚だった。とはいえ、あれほどの大ヒット作品。一体なぜ??冷静に考えてみれば、さすがに平成のアニメだけあって、スピード感が違うし映像美も見事。おまけに使用されている音楽もRADWIMPSを採用することで、現代的でテンポがあり作品全体を効果的に盛り上げている。要するに雰囲気を楽しむ作品なのである。青春の一番おいしい部分をギュッと濃縮し、視聴者の気持をフワフワと心地良いものにさせる。そういう意味で、アニメ映画という娯楽を存分に駆使した世界観は見事である。ただし、私はこの作品に文学性は感じない。文学とは青春の光と影、美しいものと汚れたもの、幻想と現実を赤裸々に表現するものでなければならないからだ。(見る人それぞれに捉え方があり、私の意見を押し付けるものではないのであしからず) 平成生まれの私の息子が大絶賛した新海作品。そして息子の友人たちもシネコンに2回通ったという熱の入れよう。それらの事実を踏まえたら、私と同じ昭和生まれも一見の価値はありそうだ。 2016年公開【監督】新海誠【声の出演】神木隆之介、上白石萌音、長澤まさみ、市原悦子
2018.01.07
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【横山光輝「三国志」第十二巻】「私は少年のころ南の島で、奇怪な老人から奇門遁甲の秘策を伝授されました。風を呼び雨を招くことができます。私が東南の風を吹かせてみましょう。」世界は今、悲鳴をあげている。民族紛争に始まって、イスラム原理主義者によるテロ行為、国家に対する不満からクーデターが起こったり、とにかくありとあらゆる負のエネルギーが充満し、そこかしこで爆発している。だが、たいていの人々は戦争のない平和な世の中を望んでいる。それは、二千年前の中国だって同様なのだ。世の中が乱れに乱れ、どうにかしたいと思ったとき、天下統一を目指して誰かが立ち上がる。それがたまたま曹操であり孫権であり劉備なのだ。軍師・孔明は、ムリヤリの天下統一を避けるべきだと説いた。ムダな血を流さないため、まずは魏・呉・蜀と三国が鼎立するべきだと。互いの利益を守りつつ、バランスを取りながら共存・共栄していこうではないか、というのが孔明の「天下三分の計」であったのだ。 現代に置き換えてみても、その考え方に概ね間違いはない。世界がそれぞれの国家を重んじ、バランスを取りつつ共生していくのが望ましい。だが、ここへ来て日本は気づいてしまった。他の先進諸国と明らかに大きな差異があることを。そう、日本国憲法第九条の存在である。 とはいえ、今どき自衛隊を撤廃してやっていけるとは、とうてい思っていない。私のような政治オンチ、無学の者でもそれは分かる。しかし、どう考えてみたところで自衛隊というものは軍隊である。つまりここに、憲法の矛盾が生じるわけだ。これはやはり、苦渋の選択とはいえ、憲法を改正するしかないだろう。こういう簡単な理屈を、私みたいな一般大衆でも理解できるのに、とくにインテリたちは「護憲」を死守しようとしている。「九条を守ろう!」と声高に唱えることが当然のような顔をしているし、有名人らもそれに賛同してドヤ顔でいる。 他の先進国、たとえばイギリスには労働党がり、フランスには社会党があるけれど、一度だって軍隊の廃止、撤廃は主張していない!当然である。(日本の社民党、共産党は自衛隊の撤廃を声高に言っていた。最近ではそうでもないが。)これだけ日本近海で負のエネルギーがフツフツと音を立てているときに、無防備ではいられない。 私たちが言論の自由を与えられているのも、信仰の自由、表現の自由を与えられているのも、今の日本国家が統治してくれているおかげなのだ。好きな芸能番組を見たり、美味しいスイーツを食べたり、政治家の悪口をさんざん言えるのも、今の日本国家があってこそなのである。もし、社会主義国、共産主義国に攻撃され、この国の領土を占領されてしまったら、その自由はない! 有名人が口々にする「九条を守れ!」というのは、キレイゴトすぎはしまいか。現代日本の置かれた現状をしっかり把握すべきではないか。GHQによって日本が占領され、統治能力を欠いていた時代とは違うのだから。 三国志は、わけのわからない勢力があちこちで反乱を起こし、国としてのまとまりがつかなくなった戦乱の世を描いている。どれほどの農民が被害を受け、罪なき者たちが戦争の犠牲者になったかが行間から感じ取られる。そんな中、劉備のような統治能力に優れた者の下で、バランスの取れた政治手腕を発揮し、兵法家として活躍する孔明という存在があってこそ、対外への抑止力にもなり、国家が安定する。私たちは、劉備や孔明の代わりに、矛盾のない憲法の下で、優れた機能と防衛力のある自衛隊を保持し、対外への抑止力としていかねばならない。 三国志第十二巻では、次の3話がおさめられている。 第45話 鳳雛 連環の計第46話 赤壁の戦い(前編)第47話 赤壁の戦い(後編) あらすじはこうだ。呉の周瑜が指揮する水軍に対し、曹操軍百万の大軍がいつ押し寄せて来るか分からない危機的な状況にあった。だが、この期に及んで周瑜は体調を崩した。すかさず孔明は周瑜を見舞い、苦しい周瑜の胸の内を察した。孔明は紙と筆を借りると、周瑜の病の基となっている原因をさらさらと書きつけた。 曹操をうち破るためには火攻めを用いるがよろしい万事 用意は整ったがただ東の風だけが足りない 周瑜は一読するやいなや、脱帽した。火攻めに必要な武器十万本の弓矢も用意し、苦肉の策を用いて黄蓋をわざと曹操に寝返らせもした。だが、肝心の風だけは、季節柄、西の風しか吹かない。この状況下で火攻めを決行したら、逆に味方に被害が及んでしまう。何としても東南の風が必要だったのだ。すると孔明は、涼しげな顔で「私が東南の風を吹かせてみましょう」と言う。聞けば、孔明はその昔、風変わりな老人より「奇門遁甲の術」を授けられたと言う。周瑜はわらをもすがる思いで、孔明に天を祀らせ祈願を施してもらうことにする。 この後、孔明は南屏山に七星壇を設けさせ、心身を清め、道士の服をつけ、天を仰いで祈りを捧げるのだが、アニメ版ではこのシーンはカットされている。この時、果たして本当に孔明が妖術などを使えたのか?ということである。もちろん、神でもない人間孔明が、風を呼び雨を降らせることなどできはしない。天文学に通じていただけのことで、天気の予測をつけることが可能だったに過ぎない。 ここで大切なのは、「抑止力」である。風を操り、雲をおこすことができる人物だと知られれば、必ず皆が一目置く。ヘタに手出しのできる相手ではないと、警戒をされる。これが孔明の目的だったのだ。自分を防御する、これこそが戦略の第一歩である。二千年も前の歴史から、これほど多くのことを学ばせてもらえるのは、この「三国志」をおいて他にはないだろう。 横山光輝のマンガは15年という長きに渡って連載された大作である。黄巾の乱に始まり、劉備が登場し、三国が鼎立し、やがて蜀が滅びるまでが淡々と描かれている。(全60巻)小説では吉川英治の「三国志」があまりにも有名だが、なかなか活字を読む習慣のない人にとってはツラいものがある。そういう方々には、横山光輝のマンガ、あるいはアニメ版でぜひとも三国志の壮大な歴史ロマンに触れていただきたい。最高にして最良の人間ドラマなのである。 【原作】横山光輝【監督】奥田誠治ほか【放送局】テレビ東京系列【声の出演】劉備玄徳・・・中村大樹、関羽雲長・・・辻新八、張飛翼徳・・・藤原啓治、諸葛亮孔明・・・速水奨、ナレーター・・・小川真司※ご参考横山光輝「三国志」の第一巻はコチラ第二巻はコチラ第三巻はコチラ第四巻はコチラ第五巻はコチラ第六巻はコチラ第七巻はコチラ第八巻はコチラ第九巻はコチラ第十巻はコチラ第十一巻はコチラ
2016.07.24
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【横山光輝「三国志」第十一巻】「曹操軍がいつ襲って来るか分からないという大事なときに、たかが十万ほどの矢を用立てるのに十日とはかかりすぎというもの。三日あれば充分です。」世の中、自慢をするのが好きな人はたくさんいるが、自信を持っている人はたくさんいるのだろうか?自慢と自信は決して=(イコール)では結べない。自慢好きの人がみんな自信のある人かと言えば、そうではないからだ。意外にも、自慢する人ほど人には言えないコンプレックスの持ち主だったりする。自信がないからこそ去勢を張って、つまらないことを自慢したりするのだ。一方、自信のある人は、たいていが努力家であり、勉強家である。積み重ねて来た経験をムダにすることなく、知識と教養に支えられ、成長を遂げてゆく人だ。 さて、天才軍師・孔明。この人の知略は並大抵のものではない。兵法だけに才があるわけではなく、天文や地理に通じており、日常から多方面に渡って勉学に勤しんでいた。だからこそ、ここぞと言うときに胸を張って意見することができるのだ。漲る自信はその場しのぎのハッタリなどではなく、積み重ねて来た努力の賜物なのだ。 三国志第十一巻では、孔明が単身で呉の孫権のもとに行き、玄徳軍と同盟を結ばせることで、曹操軍に対抗するまでが描かれている。第十一巻には次の4話がおさめられている。 第41話 周瑜の殺意第42話 秘策! 水上大要塞第43話 十万本の矢第44話 黄蓋・苦肉の策 あらすじはこうだ。水軍大都督である周瑜は、決して愚鈍な将ではなかったが、孔明の知略を恐れ、また嫉妬もしていた。周瑜は上手い口実を見つけて、孔明を亡き者にしてしまいたかった。ある日、曹操軍との合戦を間近に控え、周瑜は軍議を開いた。そこに孔明も招いた。周瑜は、水上の戦にはどんな武器が適しているかをわざわざ孔明に向かって問うた。孔明は「弓矢が最適」だと答えた。すると周瑜は、呉軍には矢の数が不足しているとウソをつき、孔明に十万本の矢を調達して欲しいと依頼する。孔明は快く了承し、期日を問うた。周瑜は「十日以内で」と答えた。この時、周瑜は職人たちに言い含めて、仕事を請け負わないように根回ししていた。期限までに矢を揃えることができなかったという理由で、孔明を斬ってしまおうと企んでいたのだ。ところが孔明は「三日で」十万本の矢を揃えると言う。場内がざわつき、将軍たちが皆、顔を見合わせた。だが周瑜だけはほくそ笑んだ。孔明がまんまとひっかかったと思った。自分から死を求めたようなものだと、憐れみすら感じた。一方、孔明には自信があった。この三日のうち、深い霧が出ることが分かっていた。この濃霧を利用し、十万本の矢を用立てようと考えていた。果たして孔明は、三日後、ゆうに十万本を越える矢を揃えることができたのだった。 第十一巻の見どころは二つある。一つは、孔明が十万本の矢を三日というわずかな期限にもかかわらず用立てるくだり。もう一つは、老将・黄蓋が一世一代の芝居をうち、曹操に偽って降参するというくだりである。(「苦肉の策」という格言のもとになった逸話でもある。) いよいよ三国志も大詰めに迫って来た。次回は最終巻である。マンガや小説においては、話がまだまだ続くのだが、アニメ版では赤壁の戦における大勝利でエンディングとなっている。乞うご期待! 【発売】2003年【監督】奥田誠治ほか【声の出演】速水奨、石塚運昇※ご参考横山光輝「三国志」の第一巻はコチラ第二巻はコチラ第三巻はコチラ第四巻はコチラ第五巻はコチラ第六巻はコチラ第七巻はコチラ第八巻はコチラ第九巻はコチラ第十巻はコチラ
2016.07.17
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【横山光輝「三国志」第十巻】「奥方様、阿斗様、いずこに? この趙雲、天に昇り地を這ってもお探し申す。さもなければ戦場の土となるも覚悟。」最近は大切な日本語が簡単な横文字に置き換えられたり、口にされたりすることが多くなった。もちろん、カタカナの方が分かり易いこともあるので、ムリヤリ日本語表現することもないのかもしれないが、それでもあえて、日本語で表現したいときがある。 エフエム放送で流れる J-POP の爽やかで軽快な歌に耳を傾けていると、心の代わりに「ハート」とか、魂の代わりに「ソウル」が使われていたりする。それらはまだしも、「ウォンチュー」「ゲッチュー」「メイク・ラブ」などは、ほとんど感覚で歌っていて本来の意味など考えてはいないのかもしれない。 そんな中、日本人の DNA として受け継いでいるはずの「恥」は、カタカナにできるのだろうか?文字通りの「恥しさ」=「shame」とは少しニュアンスが違う。とても崇高で清廉なる精神である。 三国志第十巻では、玄徳軍が曹操軍に追われ散り散りになってしまうところから始まる。玄徳の妻とその子・阿斗を預けられていた趙雲も、戦いのさなか、見失ってしまった。趙雲は「恥」を知る武将である。大切な主人の奥方と若君を預けられた身でありながら、戦のさなかとはいえ、むざむざ単身、玄徳のもとに戻るわけにはいかない。趙雲はただ一騎で、曹操軍の群がる敵地へと引き返し、探し回るのである。趙雲は「誇り」高き武将であり、決して「プライド」の高い武将ではない。 さて、三国志第十巻は次の4話がおさめられている。 第37話 曹操怒りの逆襲第38話 大暴れ! 子守り剣士第39話 孔明大舌戦第40話 美丈夫・周瑜 あらすじはこうだ。曹操軍は、いったんは孔明の策略に破れもしたが、玄徳軍とは兵士の数からいっても比較にならなかった。全軍を率いて玄徳軍に迫って来た。新野から玄徳を慕って付き従う領民たちが足かせとなり、玄徳軍はなかなか早く前進することができないでいた。とうとう玄徳軍は曹操軍に追いつかれてしまった。江夏に援軍の要請に行った関羽はいまだ戻って来ない。玄徳は、趙雲に己の妻とその子・阿斗を預け、自らも死にもの狂いで戦った。趙雲も夜を徹して奮戦した。ところが奥方と若君の姿を見失ってしまうのだった。 アニメ版では、玄徳夫人は納谷のようなところで痛々しく横たわり絶命するのだが、小説においては、深手を負った夫人は阿斗を趙雲に託すと、己は足手まといになってはならぬと古井戸に身を投げるというくだりになっている。涙なくしては読めないシーンだ。 三国志第十巻は、現代人が忘れかけている「恥」そして「誇り」の精神がもりだくさんに描かれている。中国の歴史物語でありながら、日本人にたくさんの三国志ファンがいるのは、高潔さを彷彿させる武士道にも通じる精神性が描かれているからかもしれない。 【発売】2003年【監督】奥田誠治ほか【声の出演】小杉十郎太、井上喜久子※ご参考横山光輝「三国志」の第一巻はコチラ第二巻はコチラ第三巻はコチラ第四巻はコチラ第五巻はコチラ第六巻はコチラ第七巻はコチラ第八巻はコチラ第九巻はコチラ
2016.07.10
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【横山光輝「三国志」第九巻】「私が孔明を得たのは、魚が水を得たようなものなのだ」まったく意図が分からないのだが、この第九巻からオープニングとエンディングのテーマソングが変わった。最終巻まで見終わった今も、この第九巻からの変化によってどんな効果があったのか、謎である。可もなく不可もなし、と言ったところか。 それはともかく、この第九巻ではお待ちかね天才軍師・諸葛孔明が大活躍する。この孔明という逸材を引き入れるために、玄徳がどれほどの骨を折ったか想像してもらいたい。二千年も昔のこと。孔明という人物がもの凄い兵法家だと噂があったとして、現代のようにすぐにグーグルで検索して調べた情報ほどの信ぴょう性はないはずだ。せっかく孔明のもとに足を運んだところで、世間の噂が過大評価で、とんでもないデマだったらどうなっていたのだろうか?!玄徳は孔明の屋敷を三度も訪れ、やっと面会が叶うのである。もし、孔明が大した人物ではなかった場合、玄徳にとっては時間と労力の無駄に終わってしまうのだ。 しかし、物語はこうした努力の積み重ねと千載一遇のチャンスによって華やかに展開する。 さて、三国志第九巻は、次の4話がおさめられている。 第33話 徐庶の母第34話 三顧の礼第35話 孔明・初陣第36話 孔明大手柄 あらすじはこうだ。しばらく玄徳のもとで軍師として仕えていた徐庶が、都から届いた母の手紙を読み、にわかに玄徳のもとから去ることになった。人情に篤い玄徳は、親子の間こそ真の恩愛だと言い、関羽や張飛が引き止めるのを却下し、徐庶が許昌へと出向くことを許す。徐庶は去りぎわに、次のように玄徳に進言した。「この近くに優れた人物がいます。姓は諸葛、名は亮、あざなは孔明と申します」玄徳は、その孔明という人物こそが水鏡先生の助言にあった「伏龍」であることを知り、躍り上がらんばかりに喜んだ。後日、日を選び、玄徳は教わったとおりに隆中の孔明の庵を訪ねた。ところが孔明はあいにくの不在。わざわざ草深い隆中まで玄徳について来た関羽、張飛もがっかり。二度目に訪ねた時は、冬のさなかで寒気が厳しく、雪が行く手を阻むほどの荒れた日だったにもかかわらず、孔明は不在。張飛は孔明が居留守をつかっているのではと激怒する。そこをどうにかなだめ、いったん新野城へと戻った。そして三度目にようやく願いが叶い、玄徳は孔明と面会を果たすことができたのだ。 不思議なもので、三国志はこの人が主役なのではと思うほどに、孔明の登場によってがぜん面白くなる。玄徳軍のわずかな兵力で、曹操軍百万の大軍を討ち破る戦術などは、胸の空く思いだ。第九巻の見どころは、何と言っても「三顧の礼」であろう。雨の日も風の日も雪の日でさえくじけずに礼を尽くすという努力。それをアナログなやり方だと誰が批難できよう。 人の心を動かすのは熱意しかない。そして、いかにその人を必要としているかを、誠意を持って口説くのである。今、東京都知事に誰を立てるかでだいぶもめているようだ。三度礼を尽くしてでも立てたい候補者という存在は、さて、出て来ないものなのか。今後の成り行きを見守りたい。 【発売】2003年【監督】奥田誠治ほか【声の出演】中村大樹、速水奨八、藤原啓治※ご参考横山光輝「三国志」の第一巻はコチラ第二巻はコチラ第三巻はコチラ第四巻はコチラ第五巻はコチラ第六巻はコチラ第七巻はコチラ第八巻はコチラ
2016.07.03
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【横山光輝「三国志」第八巻】「あなたのそばには“人”がおらぬ。世に隠れ伏している龍、伏龍、いまだ大空に飛び立たぬ鳳、鳳雛。いずれかその一人を得れば、天下はあなたの心のままになるでしょう。」ごくごく当たり前のことだが、出会いというものはある意味、人一人の運命さえ変えることもある。その出会いが吉と出れば運が開けるし、凶と出ればそこで終わる。人は偶然の出会いを意外にも軽く考えすぎる。国立大学の理系学生が、たまたま出会ったオウム信者の勧誘を受け、麻原の教えを信じ込み、サリン製造に手を染めてゆく。そんな極端な出会いは少数派だとしても、ちょっとした出会いなんて、巷にはいくらでも転がっているのだ。ほとんどがつまらない、むしろ出会わなければ良かったと後悔の念を抱いてしまうような相手かもしれない。しかし中には、びっくりするような出会いが、人生には一度ぐらいあるものなのだ。 三国志第八巻ではたまたま劉備が、老いた学者の端くれだと謙遜する水鏡先生と出会うことで、アドバイスを授かる。というのも、劉備は己のふがいなさにホトホト嫌気がさし、ついつい弱気になってしまったのだ。それを知った水鏡先生が、軍師の必要性を説き、劉備に足りない人材についてヒントを与えるのだ。 我々は生きていく上で、様々な出会いの機会に遭遇するだろう。ほとんどが取るに足らない、通りすがりの出会いかもしれない。だがその出会いの質をしっかりと見極め、人生を良い方へと転じてゆきたいものだ。 さて、第八巻は次の4話がおさめられている。 第29話 玄徳軍・大結集第30話 官渡の戦い第31話 凶馬決死の渡河第32話 浪士・単福 あらすじはこうだ。袁紹は七十万の大軍を起こして曹操討伐を決起した。都である許昌を攻めるべく、官渡に向かって出発した。一方、対する曹操軍は七万の精鋭を率いて袁紹軍を迎え討とうとしていた。兵士の数だけで言えば、袁紹軍七十万の大軍に対し、曹操軍は七万。袁紹軍の十分の一でしかなかった。しかし袁紹は器量の狭い男で、部下の諫言に耳を傾けようとしなかった。持久戦を主張した参謀に腹を立て、軍の士気を乱した罰だと、首を討たせようとした。食糧の乏しい曹操軍にとっては、何としても持久戦には持ち込みたくなかっただけに、袁紹の無能さにほくそ笑んだ。戦いは短期決戦で勝負がついた。官渡の戦では、曹操に天が味方したのだった。一方、そのころ劉備玄徳は、ひょんなことから水鏡先生と出会った。本名は司馬徽と言ったが、周囲からは水鏡先生と呼ばれ、慕われているらしかった。ただびととは思えない風貌と物腰に、思わず劉備はうだつのあがらない我が身を嘆き、弱音を吐いた。すると水鏡先生は劉備に、兵士らを使いこなす人材が足りないことを指摘した。そしてさらに、伏龍、鳳雛の2人のうちどちらか一人でも得られた日には、天下は安らかになると説いた。劉備はこの助言をたいへん喜んでよく聞いた。こうして劉備は、山野に隠れた賢人を求めることを決意する。 玄徳が水鏡先生と出会ったことで、運命が転じていくことがよく分かる。第32話では、謎の浪士・単福と出会うことで、いよいよ三国志はおもしろくなっていくのだ。玄徳は最初、この単福という人物を伏龍と呼ばれる天才軍師と間違えるのだが、なかなかどうしてこの単福の兵法も見事なもので、敵の大軍をさんざんに打ち負かしてしまうほどの計略家であった。 第八巻のキーワードは、ズバリ、“出会い”である。玄徳が出会う好人物たちを、じっくり観察して頂きたい。 【発売】2003年【監督】奥田誠治ほか【声の出演】中村大樹、辻親八、藤原啓治※ご参考横山光輝「三国志」の第一巻はコチラ第二巻はコチラ第三巻はコチラ第四巻はコチラ第五巻はコチラ第六巻はコチラ第七巻はコチラ
2016.06.25
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【横山光輝「三国志」第七巻】「わしにも三つの条件がある。一つ、わしは曹操に降伏するのではない。漢帝国に降伏するのだ。二つ、主人の奥方の安全を保証すること。そして三つめは、もし主人・玄徳が生存の場合は、いかなるわけがあろうと曹操のもとから離れ、主人のもとへ帰る・・・!」人間に完全・完璧な者など誰一人としていない。どれほど義理と人情に厚かろうとも、武芸に秀でていようとも、知性と教養さえも持ち合わせているかどうかは疑問である。豪傑と謳われた関羽や張飛も、敵の大将一人を斬って捨てることぐらいはたやすいことであったろうが、100万人を一度に倒すことは難しい。だが、それを可能にした人物がいる。それは、100年に一人の大天才と謳われた、軍師・諸葛孔明である。見事な戦略を打ち立てて、敵を木っ端微塵にしてしまうのだ。いわば、頭脳戦である。 三国志第七巻では、人情に厚く義理堅い劉備が、己の人望と関羽・張飛の英雄、豪傑を持ってしてもまだ足りない何かに気付き始める。いつまでたっても一国一城の主とはならず、根無し草のように城から城へと流れ、落ち着くことを知らぬ劉備だったからだ。三国志第七巻には次の4話がおさめられている。 第25話 孤立の猛将第26話 乱世の伏竜・孔明第27話 引き裂かれた主従第28話 決死の千里行 あらすじはこうだ。曹操の勢いは、いまや董卓の比ではなかった。徐州にいた劉備は包囲され、わずか三十騎あまりで落ちのびた。小沛にいる味方のもとへ逃げようとしたところ、すでに火の手が上がるのが見え、断念した。劉備は這う這うの体で青洲まで一騎落ちのびるのが精一杯だった。辺りは一面、曹操の大軍が野山に満ち満ちていた。あとに残るは関羽の守るカヒの城のみ。曹操は、関羽の武芸と人柄を気に入っており、どうにかして味方につけたいと思っていた。それには関羽が、劉備の妻子を護衛していることが弱点であると思った。義を重んじる関羽は、容易には降参はしない。しかし、劉備の妻子を守るため、無事をまっとうするための忠義の降参ならば道理が立つ、と考えた。こうして曹操は、関羽の旧友であり弁の立つ張遼を関羽のもとに向かわせ、見事、関羽を説き伏せることに成功した。一方、そのころ劉備は身一つで袁紹のもとに落ちのびていた。妻子を預けた関羽のその後のゆくえも分からず、己のふがいなさに、ただただ絶望するのだった。 第七巻での見どころは、やはり何と言っても関羽の忠義であろう。曹操から名馬の誉れ高き赤兎馬(呂布が乗っていた愛馬)を与えられ、見目麗しき十人の美女や、金銀財宝を惜しみなく授けられたにもかかわらず、関羽は心動かされることはなかった。女たちは全員、劉備の妻の小間使いにさせ、己の傍には一人として置かなかった。唯一、赤兎馬だけは一日に千里を走る名馬ということで、劉備の行方が知れしだい、千里のかなたでも走って行けると言って、関羽自身の持ち物とした。この徹底した清廉なる精神は、戦乱の世にあって類まれな高潔さを示した。このくだりは、後世、ますます関羽を神格化させるにふさわしいエピソードなのだ。 次回、第八巻では、いよいよ孔明の存在がクローズアップされる。インテリ孔明の登場により、ますます三国志はおもしろくなってゆく! 【発売】2003年【監督】奥田誠治ほか【声の出演】中村大樹、辻新八、藤原啓治※ご参考横山光輝「三国志」の第一巻はコチラ第二巻はコチラ第三巻はコチラ第四巻はコチラ第五巻はコチラ第六巻はコチラ
2016.06.05
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【横山光輝「三国志」第六巻】「龍は小さくも大きくもなり、小さくなれば沼に隠れもするが、いったん大きくなれば雲を呼び、霧を吐き、天空を駆け巡る。龍は天下の英雄にもたとえられよう」人は皆、自分のルーツに興味を持つ。「自分とは何ぞや?」と内観した際、いやでも両親の家系をひもときたくなるものだ。たとえ未婚の母から生まれた子であっても、母一人だけの力でこの世に生を受けたわけではない。必ず父という存在がある。己が何者であるかを知るのはなりゆきではなく、意志なのだ。 第六巻では、天下随一の武勇を誇った呂布も最期を遂げる。アニメでは、はらはらと降りしきる雪原の中、仁王立ちとなり一身に矢を受ける弁慶の如く絶命するシーンで終わっているが、史実はかなり無様な最期だったようだ。劉備に罰を軽くするよう口添えを頼んだり、曹操には涙を流して命乞いをしたという記録がある。呂布ともあろう人物には、似つかわしくない小心者ぶりだ。ただ、これまでのいきさつを見ても、最初の養父・丁原を殺害し、次なる養父・董卓さえも次々と裏切った悪行は、決して許されるものではなかろう。 話を戻そう。劉備はもともとしがない草履やむしろ売りで、日々の糧にも困るほどだった。ところが母親がそのルーツを明かすことで、がぜん自分という存在が明確になるのだ。劉備は中山靖王の末裔、孝景皇帝の遠孫にあたる劉雄の孫、劉弘の子だという。三国志第六巻においても、劉備が献帝に拝謁した際、そのルーツを問われ、劉備は堂々と答えている。献帝はすぐさま皇室系図で確認をし、劉備が天子の叔父の世代にあたることが判明する。劉備にとってのルーツとは、アイデンティティそのものであり、己を知るための再確認でもあるのだ。 さて、あらすじはこうだ。徐州の呂布のもとにいて、画策を続けていた陳珪、陳登父子の助力により、曹操と劉備は呂布を討つことに成功する。都へ凱旋した曹操は、劉備を献帝に会わせ、手柄の報告をさせる。天子は劉備の姓に興味を持ち、そのルーツを問うと、劉備が帝の叔父の世代にあたることがわかった。天子は大いに喜び、叔父・甥のあいさつを交わす。一方、曹操は虎視眈々と天下を取る機会を狙っていた。ある時、曹操は天子を招いて狩猟を楽しんだ。その際、劉備、関羽、張飛も随行した。天子の前を大きな鹿が駆け出すのを見つけ、天子は張り切って弓を引くのだが、矢は当たらない。3本ほど射かけても、1本も当たらない。そこで隣にいた曹操に「そちが射とめてみよ」と言う。曹操は遠慮もせずに天子の弓矢を借りると、ものの見事に鹿に命中した。遠方で猟場を取り巻いていた文武の百官らは、金色に輝く矢が鹿に当たったのを見て、てっきり天子の射た矢であると勘違いしてしまい、大絶賛。そこで曹操はすかさず天子の前に立ちふさがり、鹿を射たのは自分であると豪語するのだった。あまりの無礼さゆえ、関羽が思わず刀に手をかけるのだが、だれよりも惨めな思いに打ちひしがれるのは天子であった。天子は曹操に対し、ある一つの決断を下すのだった。 さて三国志第六巻では、次の4話から成っている。 第21話 月夜の同士討ち第22話 呂布雪原に散る第23話 放たれた虎第24話 張飛の兵法 見どころはやはり、劉備と曹操が訣別するプロセスだろう。これまでは、何かと曹操の才覚に一目置いて、一歩引いたところに立ち位置を決めていた劉備だったが、度重なる曹操の帝に対する非礼に、ついに反旗を翻すのだ。結果、帝の忠臣をはじめとする血判状に、劉備の名も連ねることとなる。 三国志では、曹操が国家の逆賊として徹底的に悪役を引き受けているが、実際はなかなかの風流人なのである。梅の林に席を設けて酒を酌み交わしたり、詩を吟じたりする様は、曹操にはあっても、劉備にはまず見られないからだ。英雄たちの個性の違いを楽しむのも一興。三国志はロマンであふれているのだ。 【発売】2003年 【監督】奥田誠治ほか 【声の出演】中村大樹、松本保典※ご参考横山光輝「三国志」の第一巻はコチラ第二巻はコチラ第三巻はコチラ第四巻はコチラ第五巻はコチラ
2016.05.29
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【横山光輝「三国志」第五巻】「本当の戦いはこれからじゃ。呂布を葬るまでは、、、この徐州、玄徳殿以外には渡さぬ、、、!」“おごれる者も久しからず ただ春の夜の夢の如し”平家物語の序文にある文言は、実にそのまま董卓の最期を語っているようだ。董卓が殺害されたあと、少しは世の乱れもおさまるかと思いきや、一向に平和は訪れない。三国志のおもしろいところは、現代社会にも充分通じるような出来事がギュッと凝縮されていることだ。 たとえば私自身の経験に基づくことだが、昔、職場でパワーハラスメントで訴えてやりたくなるような横暴極まりない上司がいた。女性職員は、その上司から何か言われるたびに不愉快な気持ちになり、職場環境はサイアクだった。ところが幸いなことに、人事異動でその上司は他の部署へと異動に。女性職員は一同、ホッと胸をなでおろし、つかの間の春を謳歌した。ところが不思議なもので、パワハラ上司が抜けたポジションに就いた次の上司が、また似たような雰囲気をかもし出す人物だったのだ。 一体これはどういうことなのか?一難去ってまた一難。人の悩みは本当に尽きない。お金を稼ぐことは、それほど生易しいことではない。会社は現代の戦場である。殺戮こそないけれど、メンタルを病んでドロップアウトしていく会社員が、どれほど存在するか知れない。先進国では、領土をめぐっての戦争こそなくなったかもしれないけれど、お金をめぐっての利権争いは今もずっと続けられているのが現実である。 さて、三国志第五巻では次の4話から成っている。 第17話 二つの計略第18話 酔虎・号泣第19話 幻の和睦第20話 陳親子の陰謀 ストーリーはこうだ。流浪の将軍・劉備は、紆余曲折しながらも、仁徳の人として知られる徐州の陶謙を頼って身を寄せた。陶謙の死後、劉備は徐州をおさめ、元の陶謙の臣下から慕われ、敬われる。中でも、陳珪・陳登父子からは絶大な支持をされ、劉備を徐州の太守として仰ぐようになる。こうして劉備たち一行は徐州の地に落ち着いたかのように思えたのだが、そのようすを呂布は黙ってはいなかった。呂布は破竹の勢いで徐州をのっとり、劉備ら一行を追い出してしまう。陳父子は劉備を徐州の統治者として仰いでいたため、呂布の横暴に憤りを感じたものの、武勇を誇る呂布を相手にたてつくこともできず、いったんは降伏してしまう。しかし、陳父子は策を練り、劉備を再び徐州に帰還させるべく、呂布を舌先三寸で排斥しようと尽力するのだった。 三国志第五巻では、陳珪・陳登という父子が暗躍する。劉備を影で支えるという重要な役割を担う人物として描かれている。ただ、史実はもっとしたたかに表現されている。実際は、ホンネとタテマエを使い分ける、あるいは日和見主義だったのではと推察される。なにしろ仕えた主人がコロコロと変わるので、たとえアニメの上でも気になる点ではある。 陶謙⇒劉備⇒呂布⇒曹操 という具合だ。それはともかく、陳登のエピソードで興味深い記事を見つけた。陳登は刺身を食べて寄生虫にあたったことがあると。その際、彼を診察したのは天下の名医・華佗であった。華佗は、オリジナルの薬を処方して陳登の命を救ったのだが、「この病は3年後に必ず再発する」と予言して去った。果たして陳登は、3年後に再び重体に陥ってしまい、亡くなるという運命なのだ。(ウィキペディア参照)[『魏書』より華佗の往診記録が残されていたという。] 現代にも赤痢やO-157などの症例がある。華佗が生きていたら、どんな治療法を施すであろうか? 【発売】2003年【監督】奥田誠治ほか【声の出演】中村大樹、辻新八、藤原啓治※ご参考横山光輝「三国志」の第一巻はコチラ第二巻はコチラ第三巻はコチラ第四巻はコチラ
2016.05.22
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【横山光輝「三国志」第四巻】「董卓と呂布の仲を避けばよろしいのでしょ? そのお役目、この私にお任せ下さいませ。女には女の武器がございます・・・!」古来より、女性は政略的に利用されることが多々あった。現代なら人権無視と糾弾されてしまうようなことも、昔は当然のこととして問題にはならなかったのだ。いかに女性の地位というものが低かったかがわかる。アニメ三国志では、絶世の美女と謳われた貂蝉が、体を張って2人の男を陥れるという展開が山場となっている。小説でもアニメでも、貂蝉は董卓の暴政に苦悩する養父に同情し、その身を捧げて恩返しをしようとする美談となっている。だが、このくだりをよくよく掘り下げてみると、女性としての若さと美しい容姿が利用されたに過ぎないことがわかる。その証拠に、貂蝉は自分の役目が終わったあとは、さっさと自死を選んでいるのだ。本人が望んだこととは言え、生きて地位や名誉、財産を得るというメリットが一切ないことには、どう考えても乱世の悲劇でしかない。 三国志第四巻は、次の4話から成っている。 第13話 激動の獅子たち第14話 乱世の美女(前編)第15話 乱世の美女(後編)第16話 宿敵! 二人の英雄 第13話は、第一巻~第三巻までのダイジェストとなっていて、視聴者の思考を軽く整理させようとする配慮が見られる。なにしろ三国志というドラマには、数限りない登場人物が現われては消え、消えたかと思ったら再び現れたりするのだから、初学者は混乱してしまう。そして見どころは、やはり何と言っても第14話と第15話の乱世の美女 前・後編であろう。 あらすじはこうだ。董卓の暴政にほとほと手を焼いていた王允は、どうすることもできず、ただただ国家の危機を憂えていた。そのようすを見ていた養女・貂蝉は、義父・王允の苦悩を知り、何とかして役に立ちたいと望んでいた。董卓には策士である李儒と、天下随一の武勇を誇る呂布がつき従っているため、手も足も出せない。董卓と呂布が仲たがいでもしない限り、いつまでたっても董卓を討つことはできない。そこで貂蝉は一計を案じる。女の武器を利用し、色仕掛けで呂布に近づき、また一方で董卓にも近づく。嫉妬に狂った呂布と董卓を仲たがいさせるというものだった。王允は、貂蝉にとって命懸けの計略になることから、最後まで賛成できずにいたが、結局、背に腹はかえられず、その使命を貂蝉に託すのであった。 あれだけ暴虐の限りを尽くした董卓も、第15話では王允の計略に引っかかり、暗殺されてしまう。短い栄華となった。私はこのくだりを読むにつけ、いつも思うのは、色欲というものは何と恐ろしいものかということだ。たかだか女性一人に大の男が振り回されてしまうのだから。おそらく本人も、「女ごときにうつつをぬかす己の弱さ」を自覚しているに違いない。だが、どうすることもできない。底なし沼に足をとられていくように、どっぷりと色欲に溺れてしまうのだ。世の男性のほとんどが美人に目のないことは仕方がない。とはいえ、くれぐれもご用心を。(笑)実は、女性は弱き者などではなく、魔物かもしれない、、、 【発売】2003年【監督】奥田誠治ほか【声の出演】石森達幸、折笠愛※ご参考横山光輝「三国志」の第一巻はコチラ第二巻はコチラ第三巻はコチラ
2016.05.15
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【横山光輝「三国志」第三巻】「俺はまだ生きている。董卓よ、俺は今、負けて初めて知った。敗れて初めて悟り得ることを!」日本の歴史上の人物に織田信長という戦国武将がいるが、時々それに比較称されるのが、中国の曹操である。確かに、ところどころで共通性は感じられるけれど、中でも、非情にも思える行為を合理的であるとみなした場合の即断即決は似ているかもしれない。例えば、信長の比叡山焼討ちなど、それまでの伝統や慣例を覆す暴挙ではあるし、何百何千という僧兵が亡くなった。(司馬遼太郎の小説を読むと、そうするまでに至った信長の苛立ちやら苦悩が描かれてはいるけれど。)曹操にしても、天下統一という目的のためには手段を選ばず、時として敵とみなす相手を躊躇なく殺害した後、その家族から下人に至るまで皆殺しにすることがしばしばあった。とはいえ、信長も曹操も現代では絶大な人気を誇る戦国武将なのだ。戦乱の世にあっては、独裁的とも思える圧倒的なカリスマ性がモノを言うし、また、それほどの合理性を持ち合わせていなければ、天下統一など目指すことはできないからだ。尾張の田舎から流星のごとく現れ、桶狭間の戦で今川義元をこてんぱんにやっつけてしまった信長と、一介の役人からトップに上り詰めた曹操とは、確かに似たものを持っている。2人に共通するのは、天下統一こそがこの乱れた世の中を平和におさめる唯一の手段であると信じていた点であろう。 第三巻のストーリーはこうだ。袁紹は、逆賊・董卓を討伐するため曹操らと連合軍を作り、総大将となった。ところがなかなか董卓を討ち果たすことができず、そのうち仲間内の曹操ともめることになり、連合軍は必然的に解散という憂き目にあう。一方、董卓討伐の連合軍に加わっていた武将の中に公孫さんがいる。公孫さんは劉備と同じ蘆植の門下であったことから、劉備の兄弟子にあたった。その公孫さんは、連合軍解散後、長きに渡って袁紹と戦い続ける。そのころ白馬にまたがり、流浪の旅を続けていた若者がいた。趙雲子龍である。その武芸に秀でた豪傑に目をつけた公孫さんは、趙雲を客将として招き入れた。苦戦を強いられていた公孫さんの軍に、援軍として颯爽と現れた劉備軍を見たとき、趙雲は運命的なものを感じ、劉備に仕えたいと願う。ところが劉備は趙雲の申し出を断る。義に厚い劉備は、兄弟子である公孫さんが勝つまでは、趙雲に大いに武勇を奮って助けてやって欲しいと頼むのだった。 アニメ三国志第三巻は、 第9話 豪傑大合戦第10話 蘇る野望第11話 玉璽の魔力第12話 白馬の若武者 、、、の四話から成っている。見どころは、曹操が董卓追撃に焦るあまり、味方の疲労困憊も無視し、独断専行してしまうプロセスであろう。中でも、典韋が曹操にわざとつっかかって挑発し、一見、軍の足並みを乱そうとしているようにも思えたところ、実は、若く血気盛んな曹操を戒めるためだったというくだりが泣ける。さらに、第12話でいよいよ趙雲子龍が登場するところなどカッコイイ。三国志の優れている点は、登場するキャラクターそれぞれが良くも悪くもハッキリしていて、その一場面を大いに盛り上げてくれる駒であることだ。まだまだ物語はクライマックスからはほど遠いけれど、見て行くうちに次の展開が待ち遠しくて仕方がなくなるから不思議だ。 【発売】2003年【監督】奥田誠治ほか【声の出演】松本保典、沢木郁也※ご参考横山光輝「三国志」の第一巻はコチラ第二巻はコチラ
2016.05.08
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【横山光輝「三国志」第二巻】「俺の言うことは正しい。俺の為すことも正しい。俺が天下に背こうとも、天下の人間が俺に背くことは許さぬ!」もともと三国志のような軍記物語は、勇ましい武将の姿にあこがれる少年らに絶大な人気を誇った。馬上の英雄・豪傑は、いつの世にもヒーローに違いないからだ。とはいえ、正史三国志という本来のオリジナルは、なるべく史実に基づいた内容となっているため、まるでおもしろみはない。現在、我々が読み親しんでいるのは、唐時代の羅貫中が記した『三国志演義』という、オリジナルから派生したものである。これが今に伝わって様々な脚色を伴い、さらなる歴史大作ロマンとなったのだ。 アニメ三国志の原作者である横山光輝もこのスタイルに倣い、全60巻という大作を仕上げている。(文庫本は全30巻)最近ではゲーム化もされ、これまでは専ら少年向けの作品だったにもかかわらず、女子にも人気を博している。「歴女」という存在が際立つようになったのもこの頃で、登場人物のイケメンキャラにアイドル性を見出した女子たちが夢中になったのだ。いずれにしてもこれまで女子たちから敬遠されて来た少年向け歴史バトル漫画が、一気に射程内に入って来たのは喜ばしいことであろう。 さて、三国志第二巻であるが、次の四話から成っている。 第5話 十常侍の陰謀第6話 名馬・赤兎馬第7話 暴虐将軍・董卓第8話 乱世の奸雄 第一巻では義兄弟の契りを結ぶ劉備・関羽・張飛の主要キャラの登場で始まったが、第二巻ではあまり登場しない。代わって登場するのが、とんでもなく悪名の高い董卓と、後に劉備のライバルとなる乱世の奸雄・曹操が活躍する。吉川英治の三国志では、董卓の風貌をかなりの巨漢に描いており、肥満体ゆえ、死後はその屍から体内の脂肪がいつまでも滲み出ていたというからスゴイ。よっぽどの贅沢三昧な生活を送っていたことがわかる。(アニメではスマートに描かれている。) ストーリーはこうだ。霊帝が病死したあと、弁皇子が帝位に就く。だが弁皇子は愚鈍で、だれが見てもまるで帝位に相応しくない人物であった。勢力を伸ばす董卓は、朝廷に乗り込み、弁皇子を廃し、代わりに協皇子を帝位に就けさせることに成功する。董卓の参謀である李儒は、後顧の憂いを失くすためにも弁皇子とその母である何太后を暗殺した方が良いと進言し、董卓もそれに賛同。結果、霊帝の妻である何太后と、その長子である弁皇子を殺害する。一方、後漢随一の武勇を誇る武将・呂布は、丁原に仕えていた。董卓は丁原と犬猿の仲だったため、目障りな丁原をどうにかしたいとは思いつつも、いつもその後ろに控えている呂布を恐れ、手も足も出せずにいた。そこで李儒が一計を案じ、呂布を寝返りさせ、丁原を殺害させる。呂布は欲に溺れ、大金や名馬・赤兎馬と引き換えに、恩ある主人を裏切ったのだ。こうして董卓は、部下に呂布を引き入れることに成功し、ますます勢いづくのであった。 アニメなので、子どもも見るであろうことを考えてか、董卓の悪行が軽く流されているようにも感じた。もっと赤裸々に董卓の悪事を描いて、それに視聴者サイドが不満を募らせるプロセスがあっても良いような気がした。名門エリートのニオイをプンプンさせながらカッコ良く登場する曹操は、ここではまだ悪役として描かれておらず、半ばホッとした。他作品では、曹操をメチャクチャに、それも極悪非道に描いているものもあるが、そういう演出はいかがなものかと思う。 第二巻では、とにかく暴虐の限りを尽くす董卓と、一騎当千の武勇を誇る呂布の動向に注目してみたい。ますます第三巻が楽しみだ。 【発売】2003年【監督】奥田誠治ほか【声の出演】大友龍三郎、矢尾一樹※ご参考横山光輝「三国志」の第一巻はコチラ
2016.05.01
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【横山光輝「三国志」第一巻】「我ら、生まれた日は違えども、死すときは同じ日!」小学6年生の時、クラスの男子がコミックトムで盛り上がっていた。私はいつもフレンドやマーガレットを愛読していたので、少年マンガには興味がなく、コミックトムはスルーしていたのだが、本屋でたまたまチラ見したことがある。中でも横山光輝の『三国志』はチラ見では済まず、夢中になって読んだ。大人になってから知ったのだが、コミックトムは潮出版社から発行されており、某宗教の媒体となっている。とはいえ、宗教色の強いマンガなどほとんどなかったような気がする。 さて横山光輝だが、数々の大ヒット作を手掛けている人物なので、その名を知らぬ人などいないとは思うが、代表作に『鉄人28号』『魔法使いサリー』『バビル2世』『三国志』など数えきれないほどある。もともとは銀行員だったせいもあるのか、「商業作品は第一に経済的に成功させなければならない」という点で、自作の映像化にはとても寛容だったらしい。(ウィキペディア参照)その点、白土三平あたりとは主義主張が全く異なる。 今回私は、テレビ東京系列で1991年~1992年まで放送されたアニメ三国志を見る機会を得た。現在、全話収録のDVD-BOXが発売されており、その中の第一巻(第一話~第四話まで収録)を見た。 第一話 桃園の誓い第二話 激闘! 義勇軍第三話 死闘! 鉄門峡第四話 勅使の罠 ストーリーはこうだ。おおよそ2000年前の中国が舞台。世の中は乱れに乱れていた。飢饉が続いて百姓たちは食べることにも困り、略奪が横行した。また、腐敗し堕落した役人たちによって、国家存亡の危機を目前にしていた。そんな中、怪しげな妖術を使う太平道の教祖・張角とその弟らが決起してクーデターを起こす。彼らは黄色い頭巾をかぶり、盗賊まがいのことを始めたため、いつしか黄巾賊と恐れられた。そんな乱れきった世の中を憂えた劉備玄徳、関羽雲長、張飛翼徳らは義兄弟の契りを結び、義勇軍を募って黄巾賊の討伐に立ち上がった。とはいえ、リーダー(長兄)である玄徳は、貧しい農家の生まれであり、志は高くとも資材は全く持ち合せがなかった。言うまでもなく、官職もないせいで何かと下に見られ、辛酸と苦杯をなめること数知れずであった。そんな中、弟分である関羽と張飛はよく玄徳になつき、よく仕えた。一方、後漢を司る霊帝は、宦官である十常侍たちに操られ、ますます国家は滅亡への道をたどるのであった。 アニメ三国志は概ね原作に忠実で、生き生きとしたキャラクター作りにも好感が持てる。あえて難を言うなら、ジブリやディズニー作品に慣らされてしまった昨今においては、時代性を感じてしまうかもしれない。昭和の古き良きアニメと言えば聞こえはいいが、いわゆるアナログというものだ。 歴史というカテゴリと真摯に向き合った結果なのか、笑いの要素はなく、アニメ版の大河ドラマを見せられているような錯覚すら覚える。第一巻はまだまだ物語としては序の口で、ややおもしろみには欠ける。だが、義兄弟の契りを結んだ劉備、関羽、張飛ら豪傑たちが、今後どのように活躍し、歴史の一ページを刻んでいくのか楽しみで仕方がない。長編小説を読むのが苦手な方、『三国志』を一通り知りたい方、このアニメ版三国志なら、知的好奇心を充分に満足させてくれるに違いない。 【発売】2003年【監督】奥田誠治ほか【声の出演】中村大樹、辻親八、藤原啓治
2016.04.25
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「そうやって逃げてちゃ解決できない。だから(君は)独身なんだ。これじゃ一方通行だ。おいらがベジタリアンの話をすれば“ガォー”ちゃんと話そうと言えば“ガォー”。会話にならないよ」「ガォー」「ほらね、答えはそれだけ」アニメ映画を観て、こんなに楽しかったのは久しぶりである。猫も杓子もディズニーだ、ジブリだと誉めそやす中、そのどちらにも属さない「アイスエイジ」シリーズは、実に明るく陽気で楽しい作品なのだ。吟遊映人は、前二作とも楽しく鑑賞させて頂いたが、今回の三作目はベストのような気がする。どう表現したらご納得頂けるだろうか。とにかく悪役が不在というのが安心できる。誰かをこてんぱんにやっつけるという筋書きではなく、もっとコメディタッチで、それでいて冒険的なストーリー展開に飽きさせない。登場するキャラクターも様々で、その個性が活かされた作品となっている。マンモスのマニーはもうすぐパパになる予定。いつ産まれて来るのかと落ち着いていられない。産まれて来る子どもを待ち望む余り、周囲のことが目に入らなくなり、自己中心的になっていた。仲間のサーベルタイガーのディエゴは、野性を失いつつある自分に自信を失くし、悩んでいた。そんなディエゴに気付きながらもマニーはどこ吹く風。自分のことで手一杯。一方、ナマケモノのシドは、マニーが羨ましくて仕方ない。自分の子どもが欲しくなり、偶然見つけた3つの卵を持ち帰ってしまう。だが、孵化したのはティラノザウルスの子どもであった。海外アニメということもあり、小さい子には吹替え版での鑑賞をおすすめするのは当然のことながら、大人にもぜひとも吹替え版でご覧頂きたい。日本の声優陣、なかなかの活躍で実に愉快!特にナマケモノのシドの声を担当している太田光は、声質、雰囲気ともにぴったりで、憎めない愛嬌たっぷりのシドを多いに盛り上げてくれる。最初から最後まで、ぐいぐいと惹き付けられる素晴らしい娯楽アニメであった。2009年公開【監督】カルロス・サルダーニャ【声の出演】マニー・・・レイ・ロマーノ(山寺宏一)、シド・・・ジョン・レグイザモ(太田光)、ディエゴ・・・デニス・リアリー(竹中直人)また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。 See you next time !(^^)
2010.04.01
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「俺にはあの本に書いてあることが他人のこととは思えねぇ! きっと俺たちも過去に行くことになるんだよ!」「過去に行けたとしてどうやって帰って来るの?」「知らん!」「はぁっ?」「しんのすけのいない世界に未練なんてあるか?」マンガの本領を発揮するのは、マンガを超える瞬間に遭遇した時かもしれない。単なる子ども向けアニメで終わらないマンガ、それこそが万人を感動させる術を持ち、末永く支持される所以なのだ。これまで「クレヨンしんちゃん」は、どちらかと言えば子ども向けの王道を行くアニメであった。しんちゃんの奇抜でユニークな言動や行為が、幼い子どもたちの共感を呼び、思わず笑いの渦を作り上げた。しかし本作、劇場版「クレヨンしんちゃん~嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦~」は、これまでの作品とは一線を画し、大人にも何らかのメッセージを与えるシリアスドラマに仕上げられているのだ。おそらく、黒澤作品の好きな方ならば、すぐにラストシーンの悲劇を観たところで「乱」を思い出したのではなかろうか。夢か現実か、しんのすけは池の畔に立っていた。とぼとぼと歩いているうちに、戦国時代の合戦シーンに遭遇。偶然にもしんのすけは、いじりまたべえと言う侍の命を救う。またべえは、しんのすけを不思議な子どもだと思いつつも、春日城に案内する。一方、しんのすけの両親ひろしとみさえは、しんのすけがいなくなってしまったことで、躍起になって捜していた。しかし、忽然と消えてしまったので、何の手掛かりもなく行き詰る。そんな中ひろしは、しんのすけの残した手紙の内容が気になり、図書館で文献をひも解く。しんのすけの手紙には、『おら、てんしょうにねんにいる』と書かれていたのだ。原作者である臼井儀人先生は、静岡市出身の春日部市育ちである。誠に残念ではあるが、本年九月に荒船山登山中、不慮の事故によりお亡くなりになった。 まだまだ続編を期待していただけに、ファンの間でもショックは大きい。この場をお借りして、臼井先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。合掌2002年公開【監督】原恵一【声の出演】野原しんのすけ・・・矢島晶子、みさえ・・・ならはしみき、ひろし・・・藤原啓治、ひまわり・・・こおろぎさとみまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2009.12.22
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「よくポニョを連れてきてくれましたね。ありがとう。ポニョは人間になりたくて魔法の蓋を開けてしまいました。人間になるには、ポニョの本当の姿を知りながらそれでもいいという男の子がいるんです。あなたはポニョがお魚だったのを知っていますか?」「うん!」我々大人も、昔は子どもだった。子どものころはそれなりに純粋で、宇宙人を信じたり、神様や妖精なども信じていた。 吟遊映人も例外でなく、アンデルセンのお話にあるような「人魚姫」は必ずいるのだと信じ、もしもどこかで顔を合わせるようなことがあっても、決して大げさにするのではなく静かに見守っていてあげよう、などと心ひそかに決めていたものだ。「崖の上のポニョ」は、5歳の純粋無垢な男の子と、同年齢ぐらいの小さな小さな人魚との交流の物語なのだが、杓子定規な童話の世界とは異なり、悪役の存在しないファンタジー性にあふれた児童文学なのだ。海の中を悠々と泳ぐ古代生物や、おとぎの国に棲んでいそうな可愛らしい人魚の群れ。 小さくて愛くるしくて、思わず頬を押し付けて感触を確かめたくなるような、子ども心を上手く引き出すことに成功している。父から“ブリュンヒルデ”という名前で呼ばれていたが、沖で5歳の男児宗介に拾われた際、“jポニョ”と命名されとても気に入る。本来は海に棲む金魚であったが、宗介の傷口を嘗めたことで半魚人になってしまう。その後、宗介と同じ人間として暮らしたいと強く望むようになる。宮崎監督の描く子どもたちの表情やしぐさは、どうしてこれほどまでに可愛らしく、惹き込まれる魅力にあふれているのだろう!笑った顔はもちろん、怒った顔つきや泣き顔まで、全てが本来人間の持ち合わせている豊かな感情表現に彩られているのだ。幼いころテレビで毎週欠かさずに見ていた「未来少年コナン」や、友人といっしょに映画館で鑑賞した「風の谷のナウシカ」も実に素晴らしい近未来ファンタジー作品であった。宮崎監督の色褪せない才能と表現力と、そして何より、大人も子どもも魅了して止まない詩情あふれるストーリーは、永遠に子どもたちのバイブルとして語り継がれていくことだろう。2008年公開【監督】宮崎駿【声の出演】宗介・・・土井洋輝、リサ・・・山口智子、ポニョ・・・奈良柚莉愛また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2009.07.12
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「俺が子供の頃来訪した。南極始まって以来の大イベントさ。気づくと彼(ビッグZ)が・・・波の上に。まるで空中に浮かんでるかのように。大勢いたのにまっすぐ俺のとこへ来てこの“ビッグZ・ペンダント”をくれたんだ。そしてこう言った。“あきらめずに道を探せ。それが勝者だ”彼は最高だった。」この作品はペンギンが擬人化されていて、ちょっとしたドキュメンタリー風のストーリー展開になっている。パッとしない生活をおくっている者が、何か一つ光るものを見つけてそれに情熱を注ぐというサクセス・ストーリーは、わりとありがちだが、それを“ペンギン”という可愛い動物に置き換えたのがユニークだ。例えば、ウディ・アレン監督の「ギター弾きの恋」は、主人公エメット(ショーン・ペン)が天才ギタリスト・ジャンゴを崇拝していて、自分も少しでもそこに近づきたいと願うジャズ・ギタリストの話だった。これも実際にはエメットなどと言うギタリストは存在しない、架空の人物なのだが、エメットと接点のあったと言われる人物たちが取材に応じてその人となりを語る・・・的なドキュメンタリータッチの作風になっている。そういう前例があるとは言っても、「サーフズ・アップ」はユニークな脚本・演出・CGで作品を完成度の高いものに仕上げている。ペンギンのコディは、子どものころから“ビッグZ”を神様のように尊敬していた。ビッグZとは伝説のサーファーで、コディもビッグZのようなサーファーになることを夢見て、家の仕事もろくにせずサーフィンに情熱を注いでいた。そんなある日、“ビッグZ記念杯”という大会への出場をスカウトされたコディは、大会の舞台となるペングー・アイランドへと出向くのだった。テーマはいたってシンプルだ。それは、趣味は趣味として楽しもうということ。そこに勝ち負けや実益などが絡み合うと、趣味ではなくなってしまうという警告でもある。人はいつだって勝負根性や利害に囚われてしまう浅はかな生きものである。だが、自分が心から楽しみたいと思ったら、欲を捨て、己を解放して打ち込むことが大切なのだと教えてくれる。子どもに限定しない、大人向きでもあるアニメ映画なのだ。2007年公開【監督】アッシュ・ブラノン【声の出演】コディ・・・シャイア・ラブーフ、ビッグZ・・・ジェフ・ブリッジスまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2009.01.29
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「どっちが強いかマヌケ牛に教えてやろう!」「生意気な子供から食おうぜ。」「その前に私を倒していけ!」休日は子供といっしょに何かを楽しみたい・・・そう考えておられる世の親御さんたちは、キャッチボールをしたり、公園に出かけたり、あるいは買い物に出かけたりと、その都度家族のライフスタイルに合った休日を楽しまれているに違いない。だがもしもインドア派なら、やっぱりお茶の間でDVD鑑賞をおすすめしたい。「ライアンを探せ!」は、専ら子供向きなので、いっしょに観る大人は退屈を味わうことになるかもしれない。だが、吟遊映人は気付いてしまった。子供のころに見たアニメと、大人になってから見るアニメでは、その印象も感想も全く異なるものになることを。例えば小さいころ読んだ絵本。覚えたての字面を追いつつ、ドラマチックな挿絵にわくわくしながらページをめくったものだ。そして大人になってから読む絵本。それは、癒しとノスタルジアを求めて童心に返る。そう、我々はいつだって少年の心を忘れてはいない。「ライアンを探せ!」は、少年時代の夢と冒険を思い出させてくれるアニメ映画なのだ。 ニューヨーク動物園に暮らす仔ライオンのライアンは、父ライオンであるサムソンから野生時代の武勇伝をいつも聞かされ、励みに思うのと同時にコンプレックスも抱いていた。なぜなら、11歳にもなるというのに、いまだ父のような勇ましい雄叫びができず、他の動物たちからバカにされており自己嫌悪に陥っていたのだ。そんなある晩、ふてくされていたライアンは野生の世界へ行けるという緑の箱(コンテナ)に入ってしまう。コンテナを積んだトラックは、動物園から走り出し、それに気付いた父親サムソンは慌てて追いかけるのだった。サムソンの声を担当しているのは、キーファー・サザーランド。キーファー・サザーランドと言えば「スタンド・バイ・ミー」で、名前は忘れてしまったが不良グループのリーダー役を演じた役者さんだ。なんだか声だけの出演というのは残念な気もするが、その低音で落ち着いた声はアニメと言えども充分に存在感を発揮していた。絵本の世界がそのままアニメになったような印象を受ける、ファンタジーにあふれた作品なのだ。2006年公開【監督】スティーブ・スパッツ・ウィリアムズ【声の出演】サムソン・・・キーファー・サザーランド、ライアン・・・グレッグ・サイプスまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2009.01.23
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「なんかわたしたちってほんとによく似てると思いません?」「いよっ! じつはおいらも今気が合うなぁって。」「そうだ、どうです? 今度天気のいい日にいっしょお食事でも。」「いいっすねぇ。ひどいあらしで最悪のよるかと思ったけどいい友達に出会えて、こいつは最高のよるかもしんねぇっす。」異なる種族の禁断の友情。この物語を吟遊映人は、崇高なる愛の物語だと受け止めた。もともとは児童文学の類で、教科書にも掲載されており、あるいは太宰治の形を変えた「走れメロス」的な友情謳歌の作品であったかもしれないが。このマイノリティーに生きる2匹の異種、性別を超えた究極の愛は、胸を熱くせずにはいられない。お互いの愛を信じ、仲間を捨て、故郷を捨て、もう失うものなど何もない状況となって“ずっといっしょにいたい”と切望するのだ。これは正しく、“愛”と呼ぶにふさわしい。突然の嵐に見舞われたヤギのメイは、友だちとはぐれて山小屋に避難する。一方、オオカミのガブも、同じ山小屋に避難して来る。暗闇の中、風邪ぎみで鼻の効かない2匹は、お互いの正体を知るよしもなく、仲良くおしゃべりに興じる。2匹は意気投合し、天気の良い日にピクニックへ出かける約束をする。お互いの正体を知らないので、「あらしのよるに」を合い言葉に再び会うことにしたのだ。年末はたまの家族サービスと思ってどこかへ出かける予定でも立てている世の殿方、そんな時こそ家でのんびりDVD鑑賞をおすすめしたい。とりわけ「あらしのよるに」は子どもから大人まで楽しめるアニメ映画なので、家族サービスには持って来いなのだ。各人がどんな感想を持つのかも興味深い。「映像がキレイだった」「メイがカワイかった」「2匹の友情に感動した」etc.“喰うもの”“喰われるもの”“追うもの”“追われるもの”・・・弱肉強食の社会だからこそこういうファンタジックな世界観に共鳴してしまうのかもしれない。あなたは「あらしのよるに」を鑑賞することで、少数派に対する意識を改めるきっかけを与えられるだろう。2005年公開【監督】杉井ギサブロー【声の出演】中村獅童(ガブ)、成宮寛貴(メイ)また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.12.21
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「9回に僕が居眠りしてウイニング・ボールを捕り損ねたの。殴られたあとで監督が“もう忘れろ”って。だから忘れるよ。」「いかん! 人はすぐ“忘れろ”と言うが、それじゃ進歩がない。恨みの炎を燃やせ。心に秘めて生きる活力にしろ。憎しみを糧にすれば、どんな忌わしいことも平気でできる。」未来を担う子どもたちは、様々な夢とか希望で満ち溢れている。否、このご時世でそうまで言ってしまうと、ウソっぽい美辞麗句になってしまう。だが少なくとも与えられたチャンスを活かし、時流に乗って不断の努力を発揮することで、あるいは輝かしい未来が待っているかもしれない。それもこれも全て、周囲の環境にかかわらず、本人の心がけしだいということなのか。 先天的な素質なんて、数パーセントの可能性でしかなく、ほとんどが後天的なものに突き動かされてのことなのか。12歳の発明好きの少年ルイスは、養護施設で育った。いく度となく繰り返す里親との面接は上手くいかず、なかなか引き取り手が見つからなかった。ルイスは実の母親の顔を思い出したくてたまらない。恋しい母親の顔さえ思い出せれば、母親を探し出せるかもしれないと思ったからだ。ルイスは寝る間も惜しみ、忘れた記憶をよみがえらせる“記憶スキャナー”を発明し、完成させる。そしてそれを科学フェアに出品することにした。だが無念にも“記憶スキャナー”はきちんと作動せず、失敗に終わる。そんな中、不思議な少年と出会う。少年は、「山高帽の男からキミを守るために未来からやって来た」などと言い、証拠としてタイムマシーンをルイスに見せるのだった。ディズニー映画はいつも前向きで清々しい。どんな境遇に置かれた子どもでも、平等にチャンスは与えられるのだと教えてくれる。 作品の根底に脈々と流れているのは「自分を信じなさい」という積極的な勇気と自信。 「前進あるのみ」という胸を張った生き方は、正に、世界のアメリカを誇示している。 そう言えば、中学時代に英語を教えてくれたアメリカ帰りの恩師の座右の銘は、“Don't look back.”「後ろをふり返るな。(ただ前だけを見よ)」だった。この作品を鑑賞しているあいだじゅう、恩師の言ったその言葉を思い出さずにはいられなかった。立体感があって、キャラクターの表情が豊かに表現された、ディズニーらしいアニメ映画なのだ。2007年公開【監督】スティーヴン・J・アンダーソン【声の出演】ダニエル・ハンセンまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.06.14
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「本当に久しぶりに・・・男が訪ねてきたわ。」「剣なしでも(おまえを)殺せる。」「(フフフ・・・)そう、剣など必要ないわ。あなたは息子(の命)を奪った。だから(私に)息子を授けて。・・・私を抱いて・・・愛して。代わりに目もくらむほどの富を授けてあげましょう。きっとあなたを最も偉大な王にしてあげる。」イギリス文学に限らず、欧米文学に馴染みの薄い日本人にとっては、モラルや宗教や民族の絡み合う諸外国の作品を理解するのはもともと不得手だ。だからと言って無理に理解する必要もないと思う。ただ、“井の中の蛙”丸出しでこの作品を酷評するのはいかがなものかと。「ベオウルフ」を鑑賞する上で必要なのは、限りなくリアルに近いバーチャルな世界観を堪能することではなかろうか。舞台は6世紀のデンマーク。フローズガール王の催す盛大な酒宴の最中に、その怪物グレンデルは現れた。グレンデルがさんざん人々を殺戮した後は、死体の山が築き上げられ、床は血の海に染まってしまった。この醜態は、吟遊詩人たちによって一斉に各国へと広められた。見かねたフローズガール王は、グレンデルを倒す勇敢な戦士を募集。そんな折、ベオウルフが長旅を経て怪物撃退のためにやって来る。勇者ベオウルフは怪物を倒すのに鎧も剣も必要ないと言い捨て、全裸でグレンデルを仕留める。しかし戦勝祝いも空しく、翌朝目にしたのは虐殺された兵士たちの無惨な姿だったのだ。 この作品は英国文学最古の英雄叙事詩がもとになっている。だが原作は作者不詳で、かなり大雑把な内容に完結しているため、ゼメキス監督がそこに緻密な描写を脚色することでこのような大作に仕上げられたわけなのだ。日本文学に置き換えたら、そう、「大和の大蛇伝説」みたいなものかもしれない。脚本としておもしろいと感じたのは、“英雄”が必ずしも“清廉”ではないことだ。たとえどんな魔物を退治し、勇敢であっても、その一方で色と欲に負けてしまう弱さを抱えている。この、モラルに欠けた勇者を描くというのは、非常に難しい作業であり、視聴者を敵に回しかねない設定なのだ。人間が決して完璧な動物ではないことを改めて教えてくれる、イギリス文学ならではの、暗澹として皮肉たっぷりな作品に仕上げられている。「ポーラー・エクスプレス」でも定評のあるゼメキス監督の、CG技術を駆使したアニメ大作「ベオウルフ」を存分に楽しんでもらいたい。2007年公開【監督】ロバート・ゼメキス【出演】レイ・ウィンストン、アンソニー・ホプキンスまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.04.30
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「メスがいなくても・・・オスが守る! 太陽が消えても・・・オスが守る! 教えを守り、スクラムを組んで・・・卵を温めろ! 団結して・・・寒さをしのげ! 交代で盾となり寒風をしのぎ、終わりなき夜を生き延びよう。われらの神をたたえよ。グレート・ギンは、心に歌を、腹に魚を与えてくれる。」最近のアニメーションの傾向として、特に感じられるのは、社会問題となっている話題をストーリーの中に内包するというやり方だ。したがって対象とする視聴者は、子供に限定せず、大人にまで範囲が拡大されている。 しかし内容によっては、下手をすると、子供には難解になってしまうおそれもあるので、“子供から大人まで楽しめるアニメーション”というコンセプトにはリスクも付きまとう。この「ハッピーフィート」という作品も、そういう意味でかなり微妙な仕上がりになっていると思われる。全体的にはミュージカル仕立ての、明るく陽気なアニメ映画である一方、その根底には環境問題や差別、偏見などを糾弾するテーマが秘められているため、実はかなり社会派の作品なのである。舞台は南極大陸の冬。皇帝ペンギンの国では卵がいっせいに孵り始めた。そんな中、一番最後に生まれたのがマンブル。そのマンブルが小学校に上がると、歌の授業で致命的な歌声が発覚する。なんと、マンブルはおそろしく歌がヘタだったのだ。さらにマンブルは、心を伝えようとすると歌よりも足が勝手に動き出してしまい、リズミカルに踊ってしまうのだった。皇帝ペンギンらしからぬ風変わりなマンブルは、いつもいじめられ一人ぼっち。コンプレックスに苛まれる日々をおくる。マンブルはいつの間にか国を出て、異国の地へ旅に出る。そこで出会ったのは小型のアデリーペンギンのゆかいな5人組。彼らはマンブルのリズミカルなダンスを大絶賛。自信を失っていたマンブルは、少しずつ自分の持ち味を再認識してゆく。世間では何事にも“事勿れ主義”で、たいていは右に倣えとばかりに個性を好しとしない風潮がある。哀しい哉、いつの世でもマイノリティーは淘汰されてゆく運命にあるとも言える。また、汚染されていく海、崩れゆく生態系は、もはや歯止めがかからないところまで来ている。市民レベルで一体、我々に何ができるだろうか?このアニメは正に、娯楽のみを許さないキビしさが描かれていて、とりわけ捕鯨国である日本人には耳の痛い内容も含まれているが、将来を担う子供とともにあれこれ思考をめぐらしながら鑑賞するのも一興であろう。2006年(米)、2007年(日)公開【監督】ジョージ・ミラー【声の出演】マンブル・・・イライジャ・ウッド、グローリア・・・ブリタニー・マーフィまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.04.02
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「洪水の話は本当だ。」「洪水なんか起こらないって言ったのはあんただぞ!」「崖の上から見たんだ。ダムが壊れて谷が水没する。」(それを聞いて動物たちは一斉に大笑い。)「洪水は起きる。じきにな。見てみろ、ここは窪地だ。水が満ちたら逃げ道はないぞ。ただし、谷の端まで行ければ船がある。避難用のな。でも急いだ方がいい。地面は溶け、壁は崩れ、岩は砕け、生き延びても洪水と競争だ。3日もすれば洪水は間欠泉の原野に達し・・・ドカン!」ここのところ重い戦争映画ばかり観ていたせいか、心を軽くしたくなった。何も考えずに、素直に楽しめる映画を観たくなったのだ。それにはやはりアニメ映画が一番。老若男女問わず、CGアニメならではの躍動感を存分に楽しむことができる。「アイスエイジ2」は2回観てみた。最初は字幕スーパーで、そして次は日本語吹替えで。甲乙つけ難いが、あまりにも日本の声優陣が自然で、違和感がなくスッと耳になじんでいくところを考えると、日本語吹替えヴァージョンの方に軍配が上がりそうだ。今回の作品は前作の続編になっていて、登場キャラも、マンモスのマニー、ナマケモノのシド、サーベルタイガーのディエゴという異色の三者が個性豊かに生き生きと描かれている。舞台は約2万年前の地球。それまでの氷河期(アイスエイジ)が終結し、温暖化の波が押し寄せる、という設定である。そんな中、マニーは自分が生き残った最後のマンモスなのではという孤独感を抱えつつ、だが再び家族を持ちたいと願う。シドは、子供たちからもからかわれるほど軽薄に見られているため、もっと周囲から敬意を払ってもらいたいと願う。ディエゴは水へのコンプレックスから、恐怖心を拭い去りたいと願う。ある時、ものしりトニーやハゲワシが「氷が溶けて大洪水が起こり、世界が滅びる」と予言する。動物たちが助かるには水の少ない谷の反対側へ移動するしかない。そこでみんなは一斉に移動を開始する。ストーリーは聖書からヒントを得たのか、「ノアの箱舟」を連想させるシーンが出て来るが、問題はそこにあるのではなく、やはり「友情」というコンテンツを膨らませているのだと思う。信頼のおける友の支えによって、どんな困難な状況にも立ち向かっていく勇気を与えられるのだと教えてくれる。鑑賞後は、清々しい気持ちにさせられる一作なのだ。2006年公開【監督】カルロス・サルダーニャ【声の出演】マンモスのマニー・・・山寺宏一、ナマケモノのシド・・・太田光、サーベルタイガーのディエゴ・・・竹中直人また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.02.09
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「彼女は言ったんだ。“他のメスに求愛ダンスを踊る気なら用心して”女は恐ろしいと思ったね。」「妻は大切にしろ。お前は感謝が足りん。もう行け。」「結婚なんてバカらしいよ。こんなにモテる男が・・・」アニメ映画というのは、とかく食わず嫌いに陥りやすい。例えばディズニーやジブリの製作した、いわゆる「ブランド」化されたアニメなら、文句なしに観客の期待度は高いだろうし「とりあえずジブリだから観ておこう」という具合になるわけだ。ならばそれ以外のものはどうかと問われれば、前評判にもよるだろうが、たいていは子供のお伴で大人もいっしょに観る、という図なのではなかろうか。そういう意味で、まだまだアニメーションというジャンルは大人の間では「子供向き」という意識が強いように思われる。「アイスエイジ」はもちろん子供向きに製作されたのであろうが、なかなかどうしてあなどれない。いい年した大人でもうっすらと涙を浮かべてしまうほど、にじむようなあたたかいものを感じる。舞台は2万年前の地球。氷河期の到来により、動物たちが南へ移動し始める。そんな中、仲間から置いてきぼりをくってしまったナマケモノのシドと、他の動物たちが南下するというのに自分だけ北へ行こうとするへそ曲がりのマンモス、マニー。その一匹と一頭が川べりで人間の赤ちゃんを発見する。シドは赤ちゃんを親元に届けようとするが、途中で怪しげなサーベル・タイガーのディエゴも合流し、シドとマニーとディエゴの奇妙な珍道中が始まる。この作品はCGを駆使した立体的なアニメ映画である。透明感のある氷の描写や、はらはらと舞う雪などはリアルでしかも美しい。字幕スーパーでも良いが、日本語の吹替えもなかなか個性的で楽しめる。ストーリー性も豊かなので、本一冊分をアニメという形でじっくり堪能できる作品に仕上がっているのだ。2002年公開【監督】クリス・ウェッジ【声の出演】マンモスのマニー・・・レイ・ロマーノ(山寺宏一)、ナマケモノのシド・・・ジョン・レグイザモ(太田光)、サーベル・タイガーのディエゴ・・・デニス・リアリー(竹中直人)また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.01.26
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