《櫻井ジャーナル》

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2017.11.20
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カテゴリ: カテゴリ未分類
アメリカとトルコとの関係が悪化していることは本ブログでも繰り返し書いてきた。アメリカ、イスラエル、サウジアラビアの三国同盟が目論んだシリアの体制転覆が思惑通りに進まずに長期化、ロシアへ接近して防空システムS-400を購入することで合意する状況になっている。

それでもトルコはまだNATO加盟国であり、ノルウェーで行われていた軍事演習にも参加していたのだが、その中で​ トルコ政府が敵とされていたことに怒ったレジェップ・タイイップ・エルドアン大統領 ​は11月17日、自国兵士40名を引き揚げさせると発表した。そのトルコでは19日にトルコ、イラン、そしてロシアの外務大臣が会ってシリア情勢を協議し、その友好的な関係をアピールしている。

トルコがロシアへ接近する前、両国は軍事衝突へ発展しても仕方がない状況に陥ったこともある。アメリカをはじめとする三国同盟が侵略の手先として使っていたアル・カイダ系武装集団やダーイッシュ(IS、ISIS、ISILとも表記)をロシア軍が2015年9月30日にシリア政府の要請で攻撃を開始、戦況を一変させて政府軍が優勢になったのだが、そうした中、同年11月24日にトルコ軍のF-16がロシア軍のSu-24を待ち伏せ攻撃で撃墜、脱出した乗組員のひとりを地上にいた戦闘集団が殺害したのだ。

パイロットの殺害を指揮したとされているアレパレセラン・ジェリクは「灰色の狼」という団体に所属していた。この団体は1960年代に「民族主義者行動党」の青年組織として創設されたが、トルコにおける「NATOの秘密部隊」の1部門だとも言われている。

この撃墜はアメリカの承認、あるいは命令なしに実行できなかったはず。撃墜の当日から翌日にかけてポール・セルバ米統合参謀本部副議長がトルコのアンカラを訪問していた。

ところが、2016年6月下旬にエルドアン大統領は撃墜事件に関してロシアのウラジミル・プーチン大統領に謝罪、​ 7月13日にトルコの首相はシリアとの関係正常化を望んでいることを示唆 ​していた。

その直後、7月15日にトルコでは武装蜂起があり、短時間で鎮圧されている。事前にロシア政府がトルコ政府に対してクーデター計画の存在を知らせたとも伝えられている。エルドアン政権はクーデター計画の黒幕をアメリカへ亡命中のフェトフッラー・ギュレンだと主張しているが、この人物はCIAの保護下にあると見られている。つまり、クーデター未遂を仕掛けたのはアメリカ政府だった可能性がある。



つまり、トルコとアメリカの関係は冷え切り、NATO側もトルコは敵になったと考える状況になっている。それを正直に表現、トルコがNATOから離れる口実を作ってしまったとも言えるだろう。その​ NATOは加盟国に対し、部隊を緊急展開するために道路、橋、鉄道網などを整備して戦車など重い装備の移動に耐えられるようにしておけと11月8日に発表 ​した。1991年12月にソ連が消滅してからNATOは東へ浸食、ロシアとの国境が目の前に迫っている。





西側ではNATOの役割を防衛的に描くが、その創設で中心的な役割を果たしたイギリスやアメリカには好戦的な勢力が存在している。その象徴とも言える人物がウィンストン・チャーチル。第2次世界大戦でドイツが降伏した1945年5月当時、イギリスの首相だったチャーチルはJPS(合同作戦本部)に対してソ連への軍事侵攻作戦を作成するように命令している。そして5月22日に提出されたのが「アンシンカブル作戦」。7月1日に米英軍数十師団とドイツの10師団が「第3次世界大戦」を始める想定になっていた。

この作戦は参謀本部に拒否され、チャーチルは7月26日に下野するが、彼はソ連との戦いを続けた。つまり、翌年の3月5日にアメリカのミズーリ州フルトンで「バルト海のステッティンからアドリア海のトリエステにいたるまで鉄のカーテンが大陸を横切っている」と演説して冷戦の開幕を告げ、​ 1947年にアメリカのスタイルズ・ブリッジス上院議員に対し、ソ連を核攻撃するようハリー・トルーマン大統領を説得して欲しいと頼んだ ​と伝えられているのだ。

大戦でアメリカ本土は攻撃されなかったに等しく、製造業も無傷で残った。それに対してソ連はドイツとの戦闘で2000万人以上の国民が殺され、工業地帯の3分の2を含む全国土の3分の1が破壊され、惨憺たる状態だった。西ヨーロッパへ侵攻、占領する余力はソ連軍に残されていなかった。

そうした中、1949年4月に創設されたのがNATOと呼ばれる軍事同盟だ。参加国はアメリカとカナダの北米2カ国に加え、イギリス、フランス、イタリア、ポルトガル、デンマーク、ノルウェー、アイスランド、ベルギー、オランダ、そしてルクセンブルクの欧州10カ国である。

NATOが創設される一方、ヨーロッパでは統合の動きが現れ、EUにつながる。こうした考え方のベースにはオットー・フォン・ハプスブルク大公やチャーチルを含む支配グループが1922年に創設したPEU(汎ヨーロッパ連合)があるとも言われている。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000)

実は、NATOが創設される前から破壊工作を目的とした秘密機関が存在していた。当初はWUCCが統括していたが、1949年に北大西洋条約が締結されるとNATOへ吸収され、51年からはCPCというラベルの下で活動するようになった。CPCのメンバーだった国はアメリカのほかイギリス、フランス、西ドイツ、ベルギー、ルクセンブルグ、オランダ、そしてイタリアだ。(Daniele Ganser, “NATO’s Secret Armies”, Frank Cass, 2005)

SACEUR(欧州連合軍最高司令官)の命令でCPCの下部組織として1957年、あるいは58年に創設されたのがACC。各国の情報機関はこの委員会で情報の交換を行っている、あるいはこの委員会を通じてアメリカは秘密部隊のネットワークを操るとも言われている。

NATOの秘密部隊は国ごとに名称が違い、例えばイタリアはグラディオ、デンマークはアブサロン、ノルウェーではROC、ベルギーではSDRA8といった具合だ。こうした秘密部隊全てが米英の情報機関、つまりCIAとMI6(SIS)のコントロール下にある。



そのグラディオは1960年代から80年代にかけて「極左」を装って爆弾攻撃を繰り返し、左翼陣営にダメージを与え、治安体制を強化して国内の刑務所化を促進した。かつてイタリアやフランスはコミュニストの影響力が強かったが、今は見る影もない。

このグラディオの背後にはアメリカの秘密工作機関OPC(CIAへ吸収され、1952年に計画局が設置される際の中核になった)が存在、東アジアでは当初、上海に拠点があった。ところが中国では解放軍が1949年1月に北京へ無血入城、5月には上海を支配下におき、10月には中華人民共和国が成立している。解放軍が迫る中、OPCは拠点を日本へ移動させ、その中心は厚木基地に設置された。

その1949年に日本では国鉄を舞台とした怪事件が相次ぐ。7月5日から6日にかけての下山事件、7月15日の三鷹事件、そして8月17日の松川事件だ。これらの事件は左翼弾圧に利用されている。その翌年の6月に朝鮮戦争が勃発した。朝鮮戦争の最中、CIAは国民党軍を率いて中国への軍事侵攻を試みたが、失敗している。





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最終更新日  2017.11.20 14:08:06


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