さてその見るもの聞くものにつけて、心の動きて、珍しとも、あやしとも、面白しとも、恐ろしとも、悲しとも、哀れなりとも見たり聞きたりすることの、心にしか思うてばかりはゐられずして、人に語り聞かすなり。語るも物に書くも同じことなり。さてその見るもの聞くものにつきて哀れなりとも悲しとも思ふが、心の動くなり。その心の動くが、すなはち「物の哀れを知る」といふものなり。(「紫文要領(しぶんようりょう)」、p.62)
さて「阿波礼(あはれ)といふは、深く心に感ずる辞(ことば)なり。これも後の世には、ただ悲しきことをのみいひて、「哀」の字を書けども、「哀」はただ「阿波礼」の中の一つにて、「阿波礼」は「哀」の心には限らぬなり。(「石上私淑言(いそのかみのささめごと)」、p.284)「あわれ」は最近では悲しいことだけに使われてるけど、もともと悲しみは「あわれ」の一つだと、宣長は言ってますね。悲しいことに限らず、心が動くことが「もののあわれを知る」ということで、「もののあわれ」とは、より一般的に「もの」がそれを見る・聞く・読む・触れる・嗅ぐ人の心を動かす作用ないしは影響力のようです。