クリームな日々

クリームな日々

加藤登紀子の時間泥棒(アスパラクラブ)


加藤登紀子の時間泥棒

1968年、今、あの日々をまざまざと思い出す。


1968年8月24日 ソ連大使館へチェコ侵略反対の抗議デモを行う藤本氏(中央)=撮影・田嶋征爾氏

 1968年は私にとって、「卒業」の年。

 1月、佐世保にアメリカの原子力空母エンタープライズが入港、学生が集結し、各セクトがはじめてヘルメットで色分けして抗議行動を行っていた、同じころ、私は卒業試験の勉強やら、リポート提出やらに大あらわだった。

 何せ、本郷の学部へ進学してからすぐにキャンパスを捨ててしまっていた私は、2年留年して合計4年間、ただ在学しただけで数単位しかとっていなかった。最後の1年で55単位を取るという離れ業を狙っていたので、とんでもなく大変な「卒業」だったのだ。どうにかその難関を突破し、いよいよ卒業ということになった。

 その前日になって、学生と学校との対立が激化、学生が卒業式ボイコットを宣言したというニュースが飛び込んできた。

 65年の歌手デビュー以来、「歌手であること」に必死の戦いを挑んでいた私は、学生運動の流れとは全く離れていたので、誰一人連絡をくれる人もいない。

 卒業式前夜、私はどう行動するべきか自問自答した。

 「卒業式を振り袖で」という、マスコミ各社からの注文も受けていた。そんな芸能界のまっただ中に私はいたのだった。

 翌朝になって結局、ジーンズとTシャツで卒業式ボイコットのデモに参加する決断をした。


「女性自身」68年4月号に掲載された登紀子さん
 マスコミ各社は私のジーンズ姿を報道し、その記事を見て藤本敏夫(当時の反帝全学連副委員長)と数日後に出会うことになる。

 すべての歴史は通り過ぎる偶然の一瞬でしかない。

 けれど、よりによってこの年が私の卒業の年であり、私が決断を迫られたというこの偶然は、私の人生の根本を決めるものだったと思う。

 ここからは、学生運動のまっただ中を走る男と私の68年がはじまった。

 明治大学学友会館に寝泊まりしていた藤本と私の綱渡りのようなあいびきの中で、パリ5月革命が起こり、それに呼応する神田カルチェラタン闘争、御茶ノ水駅周辺を学生がうめつくすというデモを企画。指揮した藤本は、数日後に逮捕される。

 1カ月後出所した彼は全学連委員長になるのだが、その翌日が私のソ連演奏旅行出発の日だったので、会えるのはたった1日。

 私の演奏旅行先の上田に、まさかの彼がブラリとやって来た。

 その時、別れ際に渡された手紙。

 その手紙の中につづられた寂しい言葉が今も、心に深く沈んでいる。

 「私は5年の学生運動で何をしてきたのでしょう? 残念です。新しい一歩を踏み出そうとした時にそれはくずれました。なぜくずれたのか、つまらぬことです。また始めることにしましょう。失敗は失敗して味わえばよいのですから」

 私には、何があったのか今も全くわかっていない。ただこの手紙の中の「マルクスは私にとっては大乗仏教です」という1行がその後の藤本を解く鍵になった。

 私がソ連に旅立った後、7月27日には、アスパック反対闘争があり、再び拘置され、出所後の8月末にはチェコ侵入への抗議活動、秋には10月21日の防衛庁突入、11月7日の首相官邸闘争があり、結局、この日から翌69年6月19日まで8カ月という長い拘留生活を送ることになる。

 そしてその出所の時、彼を迎えたのは、分裂と内ゲバという惨めな現実だった。

 結局、藤本敏夫は、7月6日、学生運動のいっさいから離脱。平戸でひと夏を過ごし、「地球に土下座してゼロからやり直す」というエコロジストとしての方向を打ち出した。

 以後、2002年に他界するまでこれが彼の生涯の、そして私と彼との共通の想いでありつづけた。

 葬儀の後、彼のデスクから出て来た古ぼけた封筒の中に、7月6日のビラが入っており、ノートには70年までの反安保闘争のスケジュールがぎっしり書き込まれていた。

 彼にとって1968年とは何だったのか。

 その後の彼の言葉で言えば、

 『急ぎすぎた革命』

 60年日米安保条約を機に日本は大きく先進国、当時の言葉で言えば帝国主義へのかじを取る。

 そのことへの「NO」が基本的には学生の主張だった。

 70年、もう一度、日米安保条約、つまり日米軍事同盟を見なおす闘いをするための大切な10年。

 70年闘争のために彼にどんな思惑があり得たのか、私は知らないが、彼の中のこの時の悔しさは最後までつづいた。

 「とにかく時間が足らなかった。67年10月東大生の山崎君が死んだことで一気に進みすぎた学生運動はベトナム反戦で盛り上がり、日本の未来図をしっかり描く前に暴走した。そのエネルギーは俺たちの無内容を暴露する形で結局崩壊したのだ」(藤本)

 62年、農業基本法が変わり、大型化、近代化の道が、この時すでに始まっていた。

 水俣、四日市・・・。公害も起こっていた。


2007年5月5日、鴨川自然王国で田植えをした
 40年たった今、あの時、本当に見つめるべき日本の行く末についての大きな示唆はすでにあったと気づく。

 「ソ連型社会でもなく、アメリカ型社会でもなく、日本の自然と風土と歴史の中で描くべき未来図」

 今こそ、そのまっとうなライフスタイルを示さなくてはいけない。

 2008年、全世界は金融資本の大なたに振り回されている。この構図はマルクスが資本主義の最終的な地獄図として描いたものだったなあ、と深くうなずく。

 ロシアも中国もインドもそしてアジア全域がグローバリズムに組み込まれ、もはや、それを抑えこむ力学がない。

 68年、パリで、チェコのプラハで、アメリカで、日本で、そしてベトナムで、若者たちが傷つきながら求めた「戦争のない平和な世界」。それは、今もまだ夢でありつづけている。

 私たちにとって68年はなつかしい昔話などではない。

 それは地球上に生きるものとしてのゼロからの革命のはじまり。

 20世紀を終わらせ21世紀をはじめるための新しい生き方のスタート地点だった。

 私は、今、はっきりとそう感じている。

加藤 登紀子(かとう・ときこ)

加藤登紀子 1943年12月、中国東北部(旧満州)ハルビン生まれ。東大在学中に日本アマチュアシャンソンコンクールで優勝、歌手デビュー。69年「ひとり寝の子守唄」、71年「知床旅情」でレコード大賞歌唱賞。2007年5月9日にシャンソンアルバム第2弾「シャントゥーズII~野ばらの夢~」 をリリース。2000年から国連環境計画(UNEP)親善大使。

加藤登紀子コンサート・CDなどのお問い合わせは
(株)トキコ・プランニング TEL:03-3352-3875
オフィシャルホームページ:http://www.tokiko.com(TOKIKO WORLD)で。


次回の更新は3月19日水曜日の予定です。

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