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以上!(笑)2月の日記履歴を見ても、明らかに「平日は書く時間が…」はお分かりかと。2月、3月は、会社の仕事に全力を傾けるのが、教育のため、そう信じて進みたいと思っています。とはいえ、気分転換に書きにくるかも、ですけど。
2007.02.18
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ちょっと前の日記でも書いておりますが、会社のブログのスタッフブログを書いております。新しく立ち上げたブログであり、かつ、ブログ全体の管理もしているため、仕事がしっちゃかめっちゃかの上、「どの表現媒体で、どのように表現していくのが一番良いか」まだ整理できていません。あくまでも自分は、教育というお仕事、そして個人の志向性に基づき、社会全体に+αを与えられればそれでよい、という気持ちで、いろいろなことに臨んでいます。その+αとなる行動が、会社の仕事を通じて、であれば、業務中で発揮することを目指しますし、プライベートで、一個人として発揮した方が良い場合は、プライベートで表現していきます。※往々にして、組織を通じて自己実現した方が、社会全体に与える影響は大きいですけどね。だから、サラリーマンと言う職業、決して嫌いではありません。しばらくは重点を、スタッフブログにおいて書き物をしていきます。あちこちふらふらして申し訳ありませんが、どうぞごゆるり眺めてくださいませ(^^
2007.02.11
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※会社の公式ブログで、スタッフとしてもブログを書き始めました。表現媒体がかなり多くなり、今ポジショニングが出来ていない状態です。。。しばらく、公式ブログと同じ内容でこのブログを掲載することもかなりあるかと思いますが、どうぞご容赦ください。担当業務領域の一つとして「広告・宣伝」があります。その関係で、広告や宣伝についての会議に出ることも多々あります。一緒に働いている多くの人は、自分の良き理解者で、パルティオゼットやZ会ブログを立ち上げるのを後押ししてくれるんですが、たまに「あのねぇ…」と思う発言を聞くことがあります。大嫌いな発言の一つが「もっと宣伝効果のある媒体(=TVや新聞広告などの総称です)はないのか?」という、とても今の宣伝を勉強していると思えない方からの発言です。今、世の中に、「これを使えばとてもよい宣伝になる!」という媒体なんてまずありません。あってもものすごくお金がかかります。そりゃ、TVCMをもっともっとバンバン流せば、とてもいい宣伝になりますけど、簡単に1億、2億と吹っ飛びますからね。※Z会も今、TVCMやっていますけど、かなり限られた予算で細々とやってます。でも世の中には、TVCMをやるほどのお金もない企業なんていっぱいありますから、幸せなことなんですよね。メディアが氾濫した今、「効果的な広告」というのは“その広告が(見ている側にとって)面白いかどうか”“広告の中身で、しっかり自社のことを伝え切れているかどうか”“自社のファンになるような仕掛けがあるかどうか”これらにつきます。つまり、広告そのものに中身があるようにしなければいけないんです。(広告の)中身を作る努力を怠って、上っ面だけバンバン宣伝しても、自分が見る側だったら振り向きもしません。このブログも、「世の中にある」だけではだめですよね。適当な更新頻度で更新していかないと、面白くないですもん。…といって、自分にプレッシャーをかける。。。
2007.02.05
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日記がすっかりご無沙汰で申し訳ありません。(他にやっていないことが山積みの状態で、この日記に書き込む気持ちにはなれなかったので。苦笑)1月下旬、ドタバタで作り上げたブログサイトがようやくできました。Z会ブログです。※私はシステム的な?裏方さんとこちらの日記を担当します。まだまだ未完成のサイトで、これからチューンナップしていきます。「まっとうな人たち」が手を取り合って、今、子ども達に良くない影響を与えている大人たちの立ち居振る舞いを改めさせるようなサイトに…そう成長させるのが夢です。どうぞ皆さんもトラックバックなどで応援してください。
2007.02.04
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「ネット教育」についていろいろ書きました。仕事がバタバタしており、先週も平日に時間が取れず、日曜日に4日分ほどまとめてアップしました。権利関係の話が中心でつまらないかもしれませんが(苦笑)よければご覧下さい。まだまだネット教育について続けたいと思っています。
2007.01.21
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突発的な仕事が毎日入り(朝に連絡が入って「今日中に!」みたいなもの×いくつも)、なかなかしんどい毎日を送っております。ネット教育についての連載は頑張りたいので、必ず書きますが、もう少々お待ちくださいね。とりあえず「生きてますよ」代わりの日記アップまで(^^
2007.01.17
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6.肖像権・パブリシティ権について教える備忘録です。続きは後日…
2007.01.15
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5.著作権についての考え方を教える~引用~子ども達からすると、話題の取っ掛かりとして「やりたい!」と思うものに、「引用」があります。引用についてはもちろん「(著作権上の引用の要件を満たしていなければ)やっちゃいけないこと」と教えることも大切なのですが、「(著作権上の引用の要件を満たしていれば)やってもいいことなんだよ」と伝えていくことも大切ではないか、と考えています。そのために、パルティオゼットでは、下記のように引用の要件を明確に「利用上のルール」でうたっています。=========他の人がつくった小説・詩・短歌・俳句・川柳・マンガのせりふなどについては、条件付きで引用できる場合に限り、ルールに沿って引用してください。引用のルールが守られていないとZ会が判断した場合は、削除させていただきます。【引用のルール】以下の条件をすべて満たしていればほぼOKとみなされます。(ただし、一つでも満たしていない条件があれば著作権に反する可能性があります。)○引用箇所の内容・表現・文字などを引用元とまったく変えていない。○著者名・作品名(出版社名)などの引用元を明記している。(例:増進太郎『名探偵Z』××出版社)○「引用した」と明記してある。○引用元よりも自分の文章の方が「主張が濃い」など、投稿全体の「主」である。○引用しなければならない必然性がある。○最低限の範囲で引用する。○新聞記事や見出しを引用する場合は、著者名・作品名のかわりに新聞名と日付を明らかにする。※統計データなどのデータ(値)そのものは著作物として保護されません。 しかし、データの選択の仕方、データの並べ方に独自の工夫がなされている場合には、著作物として保護されますので、適切に引用し、出典を明記する必要があります。著作権については、文化庁サイトで詳しく説明しています。==========これでどれくらい効果があるかわかりませんが、引用にあたらない行為をしたときに「ここを見てね、大事なことなんだよ」と伝えるとともに、「これさえ守れば大丈夫だよ」と伝えることも大切ですよね。
2007.01.14
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4.著作権についての考え方を教える~著作者人格権について~著作権についてもう一つ、子ども達が理解できていないと思われるものが、「著作財産権と著作者人格権は異なる!」という点です。たとえば、ブログなどで、著作権違反と思われる行為をした人間が「え~これで金儲けしようなんて思っていなかったよ。」と反論!?することがあります。つまり、その文章を利用することで、出版物にするつもりはさらさらない、ただ多くの人に自分のブログを見てもらいたかった、というものですね。しかし、お金を稼ぐ意志がなくても、著作物を著作者の許可なく使用して、著作者が不利益を被ることもありますよね。音楽関係のサイトにしか自分の著作物を公開していなかった著作権者が、アダルトサイトに掲載されたらどう思うでしょうか?ということです。著作者がその著作物に対して有する人格的利益の保護を目的とする権利の総称、これが著作者人格権です。また、これは、他人に譲渡できる性質のものでもありません。どんな著作物にも著作者人格権があります。有名人じゃない人が作った著作物にも著作者人格権はもちろんあります。これは子ども達に伝えなければいけない、大切なことです。他人のことを思いやる気持ちをはぐくむことにもつながりますね。
2007.01.13
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3.著作権についての考え方を教える~親告罪について~これも1項と関係のあることですが、とくに「著作権」については、インターネットに関わる上で極めて大切な権利ですので、あえて項目として設けました。著作権について触れるときに、まず大切なのは「親告罪であること」を明確に伝えることです。-あの掲示板でも同じことやってたから、いいじゃん、これくらい。-YouTubeでもいろんな動画はりまくってあるじゃん。-アーチストの宣伝にもなってるじゃん。いけないことじゃなく、奨励されるべき。これらは「親告罪」という罪の性質をわかっていないから、の発言です。つまり、著作物を作成した当の本人が「ダメ」といえば、たとえ類型の行為であってもダメで、法律に問われることになる-ここをしっかり、子ども達に伝えないといけません。セクシャルハラスメントなどと同じですね。出来の悪いおじさんが(苦笑)「いいじゃん、これくらい」と、よれよれと若い娘に手を出す。昔はこれくらい普通だった、と話す。でも、受けている本人が「性的いやがらせ」と思えば、立派なセクシャルハラスメントとして罪に問われる可能性があります。行為そのものが罪になるのではなく、「被害を受けた」と感じた人が訴えることで、罪になる可能性が出てくるもの~これが「親告罪」です。だから、上の主張に対しては、-あっちではよくても、こっちではダメ。-Youtubeで動画をはっている人は簡単に訴えられますよ。-宣伝になる、と思っているアーチストもいるだろうけど、「そんなことするな」と思っているアーチストもいる。アーチストに直接会って許可を得ない限り、そんなことはわからない。だからダメなんだ、と、パルティオゼットでも伝えております。
2007.01.12
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2.「仕返しチクリ」の発想を正す。昨日の日記の話の拡大解釈にもなるのですが。。。パルティオゼットでは、自分のプロフィールや日記の中での表現はさておき、「コミュニティ」~多くの人が集うサロン~での表現は「他人に迷惑がかからないように」を絶対的な基準として設けています。誹謗や中傷はもちろんですが、その一つに「ギャル文字を使用しない」があります。ギャル文字に慣れている人はいいのでしょうが、慣れていない人にとっては読みにくく、使用することで「ギャル文字を読める人だけの集団」を「公のコミュニティ」の中に形成しかねないからです。※利用者からも「禁止」の要望が多かった、というのもあります。さて、あるAさんがギャル文字を使い、スタッフから注意を受け、トピックスが停止となったとします。このAさん、停止になった翌日以降、「あの人も使ってるよ~。いーの?」「ここでも使われてるよ!」…チクリ魔になること多々あります。“コミュニティで使ったから禁止”という理屈もわからないで、日記などに使われていてもあらかたチェックする場合も多いです。善意としても「お節介」の領域ですし、だいたいはこの手のものは、「自分だけが注意されているのは嫌だ」という感情の裏返しではないかと思うんです。うんうん、そこで使われているのも良くないよね。でもさ、それであなたの行為が正しいってわけじゃないんだよ。他の人もしてるってことは、あなたの行為を担保するわけじゃないんだよ。あなた自身の行為を正しくすることが何よりも大切なんだよ。ネットの世界だけのことだけじゃないでしょうが、ここで「幼さからの脱皮」が、ネットでのコミュニケーションでは求められると、切に感じます。
2007.01.11
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1.「別のところでもやってる。だから良い」という考えを改めさせる。一番大切なのはこれだと思います。たとえば2ちゃんねる。私は、2ちゃんねるそのものの存在意義は否定しません。ああいうのが好きな人々が日本人に多い、その縮図が2ちゃんねる、それだけのことです。2ちゃんねるの管理責任を問う前に、もし、あのようなサイトの存在そのものを否定する人がいるのであれば、まずは「ねたみ」や「ひがみ」や「陰口」が大好きの日本人の国民性を変えることが先決だと思っています。私も2ちゃんねるをROMることがありますから、恩恵を受けていない、といえばウソになります。それとは別に、「じゃあ、2ちゃんねるが好きか嫌いか」「2ちゃんねるで使われている用語に耐えられるかどうか」という問題があります。私自身はどうか、と言いますと、2ちゃんねるは「好きでも嫌いでもない。単にナマナマしい情報が得られるサイト」という位置づけですし、「誹謗中傷まがいの言葉に(余裕で)耐えられる」人間です。“そんなもんなんだ”と割り切っていますから。ただし、嫌いな人、そして、あのテの誹謗中傷に耐えられない人も世の中にはたくさんいるでしょう。ましてや若いうちに、あのテの言葉を受けて、心に深い傷を負う人も少なくありません。つまり、2ちゃんねるに許されている言語は、2ちゃんねる利用者の共通認識~ここは激しい表現が飛び交うのだ~があって初めて成り立つのであって、その共通認識が他のサイトで成り立つとは限りません。コミュニティサイトは一つの社会であって、ルール(暗黙のものを含む)があるのです。「えっ、そんな表現、2ちゃんねるじゃしょっちゅうだよ」こういう表現をする人がいます。多いです。「2ちゃんねるではよくてもパルティオではダメ。社会が違うから。」“あっちではよかったのに”論を社会で展開すると、まず「使えない社員」と思われるんですけどね(^^子ども達をそういう風に育てたくありません。
2007.01.10
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何度かこの日記でも書きましたが、パルティオゼット(SNS)の運営にちょびっとだけ携わっています。※管理はほとんど別のスタッフがやってくれているのですが。特徴としては…-中高生中心のネットコミュニティです。-メール機能に制限を加えています。(直接やり取りは不可)-投稿をほぼすべてチェックします。-テーマは「学ぶこと」です。(今、センター試験への意気込みを語ってもらっています)いろいろあるのですが、パルティオゼットの講演を聞きに来てくださったふじふじさんのレポートがとても丁寧に書いてくださっていますので、こちらを参考にしていただいた方が早いです。パルティオゼット、始まってもうすぐ1年になろうとしています。このサイトを通じて、中高生にネット教育をする際に「この辺に気をつけたほうがいいのでは」ということ、散見されましたので、私自身の備忘録代わりとしても、しばらくこのテーマについて書いていこうと思います。
2007.01.09
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昨日の日記に書いたパルティオゼットだけではなく、他に保護者の方が集まる場所を用意できないだろうか…と、仕事を通しても思っています。また、個人の活動の中では、この楽天日記で出来ます。まっとうな大人のつながりを作ること。そのつながりで、余り子ども達のことを考えないような大人が自然に消滅するような社会にすること。そのことで子ども達に安心感を与え、自ら命を落とすようなことなどないように…このような活動は焦って成果を求めても結実しません。まず、味方を増やしたい。味方を増やす場所を作っていきたい。徐々にでいいので、そういう1年になればいいと思っています。最後に。蛇足になるかもしれませんが。「死んじゃいけない」と声高に叫んでも効果もなければ逆効果、もっと別のことを…と考える大人がいらっしゃるかもしれません。いや、そうじゃない、いくらキレイゴトのように聞こえても、「死んじゃいけない」と叫び続けなければいけない、と思う方もいらっしゃるかもしれません。どちらがいい、じゃなく、どちらでもいいんです。どちらも、子ども達の考えての言動なんです。それよりもまず、子ども達のことを考えない大人がマイノリティになるように…手をつなぎませんか?
2007.01.08
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あとは周りの大人たちが連携することも不可欠です。自社の話で恐縮ですが、パルティオゼットには-子ども達の普段の姿を見ながら(=中高生がメインのSNSです)-そのような保護者の方が連携できれば。そんな場になれば。と思っていたのも事実です。もちろん、パルティオゼットは、自社であるZ会のことを少しでも知ってもらいたい、「最初から頭の良い人しかやらないんでしょ」という声に対し、「いやいやそうじゃないですよ」「普通の人だけど、頑張りたい!って思いがある人がやるんですよ」とわかってもらいたい、という、販促目的(笑)なのですが、そんな人たちが集まる、そしてそんな子ども達の保護者が集まる、そうすればマジメに、いろいろなことが語り合えるのでは…そう思っていました。信じていました。まだまだ成長中のSNSですが、大変子ども達のことを考えた保護者の方が集まりつつあり(小学生の保護者の方が多いですね)、嬉しい気持ち、そして、子ども達のことを考えている彼女らの気持ちをさらに多くの人に波及するにはどうしたら…という気持ち、常に持ち続けています。一人の声ではなく、複数の声。複数の力。そうしなければ表層的な言葉ばかりが支配的になった現代社会を変えることは難しいと思います。でも、変えなければいけません。子ども達がかわいそうですから。
2007.01.07
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「防ぎにくい」「おきやすい」からといって、大人たちが黙ってみていてはいけません。周りの大人たちは・子ども達の様子に気を配り、変化を敏感に察知できるよう心がける。・間違っても「いじめている」側を擁護してはいけない。などはもちろんなのですが、対処法(気の持ちよう?)として大切なのは「防ぐのではなく、継続させないようにすること」ではないかな、と思います。昨日、おとといの日記で述べたように、防ぐことはなかなか難しいですし、防ぐように子どもへの障壁を高くすれば、子どもの自立心を壊してしまう可能性がある、と思っています(おとといの日記を参照してください)ですので、最初から防ぐ…つまり、「いじめはいけないよ」「いじめられる側の心境になって考えてみて御覧なさい」、とばかり伝えるのではなく、察知して、事が重大になる前に、厳しく接し、反省を促し、次に起きないようにする、これが大切なような気がしています。私自身も悪ガキでしたから、「ダメダメ」と言われるほどやりたくなるんですよね。(自立心から)ただ、やった後に厳しくされると、心から反省したものです。(依存心から)自立心と依存心の両方を兼ね備えた思春期、このような対処はいかがでしょうか。
2007.01.06
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昨日の日記の通り、「いじめ」に類する行為そのものを、最初から防ぐ、ということは、思春期のうちはちょっと難しいようです。さらに、子ども達は、「自分の言動がどれだけ相手に影響を与えるか」について、無頓着です。たとえば中1の子が、「知らない」ばかりに、(大人から見たら)とても幼い行為をしたとします。すると中2の子が「あいつガキだよね~」「ちょっとバカなんじゃないの?」と、さっ、と言います。こんな中2の子が集団になると、中1の子へのいじめ構造の出来上がりです。中2の子自身もまだまだ幼いです。「だって余りにもバカなんだもん」「ちょっと言っただけでしょ」と繰り返します。こちらも、伝えれば反省もするでしょう。しかし、反省の度合いと、中1の子が受けるダメージの大きさは、後者が前者を上回ることがほとんどです。インターネットが普及し、携帯でも気軽にメールができる環境になりました。今ヤッカイなのは携帯メールでのいじめのようですが、これは昨日の日記、および上記のようなことから、「防ぎにくい」(思春期の特有の心の持ち方から発生するので。しかも自立心はある意味大事なので)「起きやすい」からこそ、大変ヤッカイな問題と言えます。
2007.01.05
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ただ、子どもにとって、「いじめ」にあたる行為を(自主的に)擁護しないようにすることは、とても難しいことだと思っています。私自身幼少時代、深刻さ具合はさておき、「嘲笑する」「嘲笑される」という関係が周りにあった、しかも決して少なくはなかった環境でした。恐らくこれが“一切なかった”という環境で会った人は皆無ではないでしょうか。日本の子ども達の思春期は・自立心の芽生えから、両親に反抗したい自分・しかしどこかで両親に甘えたい自分(依存心の継続)の両方を持ち合わせているそうです。そして、後者の自分がニョキニョキと出てきても、両親に甘えるわけにはいきませんので、友人などに「甘え」の感覚を委ね、そして自立心を満たすための「反抗行為」が伴う結果、友人とグルーピングし、反社会的な行動をするようになるようです。従って、たとえ心はキレイな人であっても、思春期に置かれた子ども達が、第三者から見たら「いじめ」に類する行為をしてしまうことは、ある意味仕方のないことなんです。心の成長の過程ですからね。。。
2007.01.04
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みのもんたの朝ズバッ!でとりあげられた投書をまとめた「いじめ緊急レポート 死んではいけない」を読みました。ホンネを言いますと、「頑張れ」や「死んではいけない」といった言葉をどれだけ叫んでも、余り効果ないのでは…、という自分がどこかにいました。しかし、読んでみて思ったのは、こうメッセージングすることも大事なんだ、ということです。表層的な「頑張れ」や「死んじゃだめ!」というメッセージではなく、いじめられた体験者の方からの、心からのメッセージだったから、余計にそう感じたのかもしれませんが。それはさておき。一番感じたのは、いじめた人間よりも、「いじめ」にあたる行為を擁護した人が罪深く、その擁護行為が最もやってはいけないことではないか、ということです。いじめた側を擁護する担任の一言、いじめた親の無関心と「うちの子」だけを可愛がろうとする精神、そして、いじめを初め、他人に迷惑をかける行為を「かっこいい」と称賛する周り、中でも先輩からの擁護の一言は、いじめられる側をどん底に追いやります。そういう行為を「かっこわるい」とか「反社会的行為だ」とか、周りが自然に気付かせる社会になることが大切なのでは、と、強く感じました。
2007.01.03
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あけましておめでとうございます。今年も皆様に、そして私に(笑)、幸いの多い1年になることを祈念しております。昨年の漢字は「命」になりましたね。自殺やいじめ、昔からあったことですが、昨年とりわけ注目された、ということは、やはり目立っていたのでしょうか。また、お付き合いのある学校関係者や保護者の方からは、「親のマナーが悪い」という声をよく聞いた1年でもありました。※こちらの意見もどうぞご覧下さい。いじめる子には、直接注意しても、「聞いてもらえる」ことが少なくなったご時勢です。保護者の方にもしかりでしょう。じゃあ、どうするか。。。いつもそんなことを考えています。2007年1月時点での私の結論は「まともな人を増やしていくこと」「まともな人同士が手をつないで、迷惑行為をする人間を居辛くさせること」「子ども達には“そんなことすると恥ずかしいよ”“そんなことする大人を御覧なさい、誰も味方になってくれていないでしょ”と背中で教えること」これしかないと思っています。
2007.01.02
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やりたいことなんていっぱいあります。もっと子どもたちの近くにたちたーい、とか、もっと自分の魅力を高めて、様々な人に恩返ししたーい、とか、この楽天日記を毎日書きたい、とか(笑)しかし、1日24時間しかありません。だから、優先順位をつけて考えざるを得ません。しかし中には、自分に期待してくる人もいます。その気持ちは嬉しく受け止めますし、その期待に応えられる自分でいたいとも思っています。が、24時間で処理できないことは、私は平気で無視します。冷たいようですが、それが一番、相手への真摯な態度と思っていますので。♯もちろん、「できるだけしてあげたい」という自分でいることが前提ですけど、ね。そんなわけで、この楽天もしばらく書きませんでした、というより、かけませんでした(苦笑)。ごめんなさい。だって年賀状まだ全然書けていないのに、書くわけにはいきませんからね。そういうわけで今日も賀状と苦闘します。みなさん、良いお年を。来年も、少しだけみなさんに、おすそ分けが出来る自分でありたいと思っています。
2006.12.30
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人の為、あわせると、偽になる。鬼丸昌也さんから頂戴した言葉です。うん、いい響きですね。ボランティアにしても、教育にしても。「あなたのためにやってます」が先に出てはいけないと思います。自分のためにやってるんだと。それが好きだからやってるんだと。そしてそのことが、人様のためになれば、それ以上嬉しいことはない、と。そう思うことが一番、与えられる側との関係をすばらしいものにしてくれますね。
2006.12.20
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高校生からの「~が苦手です」「得意になるにはどうしたら?」ってタイプの質問をこれまで散々見てきている私なんですが、たいてい「覚える」って作業が嫌いで、怠って、それでコツや「最短距離で得意になる方法」を求めている方の場合がほとんどなんですよね。国語であれば単語や句法を「覚えようとしない」、数学であれば公式や定理を「覚えようとしない」、英語であれば単語や基本構文を「覚えようとしない」という具合に。僕が東大に合格できたのは、この「覚える」という作業を厭わなかった部分が大きいと、未だに思っています。国語は嫌いだったけど、古文や漢文は「覚える」ことによってある程度克服できるので、いつの間にか現代文は苦手のままだったけど古文・漢文は得意になっていたり、英語が東大のボーダーには達していなかったので、2年後半から「とにかく単語」と単語帳を毎日100個分強制的に進め、なんとなく英文が読める気になったらかなり成績も上がったし。まずはそこからじゃないのかな、(私も含めた)凡人の対処策は。コツ的な勉強法で進められるのは「自分に合ったコツを見つける」のに努力を厭わず、自分で発見したコツを信じて進められる人間だけじゃないかな、と。※人のコツは参考になる場合もあるけど、それをそのままやっても駄目な場合がほとんど。そうじゃなければ、「勉強すること」(=知識・教養を得ること)そのものを好きになることですね。(教科に限らず)
2006.12.17
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「保護者以外の送迎」で停学処分【相談】 共学私立高校に通学する1年生の母です。 娘が高校の最寄り駅で先輩に会い学校まで送ってもらったら、保護者以外の送迎は禁止で停学5日間と学校側から処分を言い渡されました。学校条例にはそのような事は記載されていないし説明も受けた事がないので その処分には納得できないと学校側に申し立てしました。学校側は「そんな事は一般常識だから」といいますが、この措置は一般的には妥当なのでしょうか。心配してくださっての注意としては有難く受け止められるのですが、なぜ停学になるのかが理解できません。学校からの通告には必ず従わなければいけないのでしょうか。アドバイスをよろしくお願いいたします。―――千葉県、女性===(以上、本日の「よみうり教育メール」より引用)===防犯ブザー必須、このような処置。知り合いの息子さんが通う小学校では「知らない人に挨拶されても挨拶し返さないように」と規則に明記されているらしいです。こんな社会で育った子どもが、他人を信頼することができるでしょうか。もちろん、「冷たい社会」になるのは間違いないのですが、このような社会は「費用がかかる社会」ということ、冷静に判断できていないような気がします。だって、今まで「(気軽に)近くの人に聞く」で解決していたことをすべて自分で判断しなければいけないわけで、判断のためには勉強が必要で、勉強するにはお金もかかる。勉強していない人は「(勉強するより多くの)お金を払って人に聞く」ことで片づけるしかない。アルビン・トフラーは「富の未来」の中で「生産消費行動」という概念を紹介しています。子育てやこういった地域社会の助け合いなどは、現時点での経済学の指標でははかれないが、この点を無視して、経済学的な指標のみで「豊かな社会」と定義するのは間違っている、と。話を戻して。学校がそのように規定するのが悪いことなのでしょうか。規定するに至った何かがあるのではないでしょうか。もし、相互信頼社会を望むなら、どんなことが必要でしょうか。一人一人が考え、できることから行動する。そんな動きをする人たちが連携して周りを変えていく。まずはそこからですね。
2006.12.16
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「いのち」について考えさせられる出来事や話、このところ続いています。昨日、今日と、全く違うお2方から伺ったのは「最近の子どもは“人は生まれ変わる”と信じているそうだ。6割も。それが、善行による、とかではなく、“一回(人生を)リセットして再び”みたいな感覚のようで…」とても(教養面でも)信頼しているお2方から、なので、表面的な記事ではなく、子どもたちの真実を現す記事なんでしょう。きっと。今を一生懸命生きることの楽しさ、まずは感じてほしいものです。
2006.12.14
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パルティオゼットの中での投稿を見ていますと、結構-いろいろやっているけど、成績が伸びないという、回答者丸投げ方の質問も、残念ながら目にします。このような方は…今までの経験則で見ると、大体「暗記」とか「ドリル」とか、いわゆる単調な勉強を避けてきている傾向があるんですよね。つべこべ言わずにまずは英単語の暗記。国語でいえば古文単語の暗記。数学は計算力。これだけで志望校に合格できるとはいえませんが、これを避けていると合格できないのも事実だと思いますよ。
2006.12.11
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昨日の日記とまとめて書いているのですが、今日は昨日の日記とは打って変わったテイストで(笑)。2年ぶりにディズニーシーに行ってきました。20代の頃は純粋に「サービスの受け手」として楽しんでいましたが、今はマーケティング担当として“この配慮すごいよなあ”と感じることもある辺り、ちょっと職業病はいっているかもしれません(苦笑)。さて、そんなディズニーワールド。「環境問題解決のために!」と突っ走っていた私の志向性を見事に変えてくれた世界でもあります。初めてディズニーランドを訪れたのが大学4年のGW。環境のために「紙の無駄遣い」や「電気の無駄遣い」がとにかく嫌いだった私。そのことから、派手に電気を使うエンターテイメント系のテーマパークに、ちょっとした拒絶反応を持っていました。が、仲間に誘われて、“ま、一回見てみてもいいよね”って感じで参加。で、噂に聞いていた「エレキトリカルパレード」。とっても電気を使うようなネーミングで、自分が受け入れられるかどうか心配していたのですが…。ワクワクしました。心が躍りました。子どもたちへのエンターテイメントって、こういうのを言うんだろうなあ、と、心底思いました。そして、こういうことにエネルギー(つまり環境負荷)を使うのは悪いことじゃないんだ、と、本当に思ったんですね、このとき。それから、やたらめっぽう“環境を大切に!”と叫ぶのではなく、意義のある負荷は仕方がない、けど無駄なことや浪費活動で環境を破壊するのはやめようね、という志向に変わりました。それが転じて「環境教育」そして「教育」への道を進んできています。※今、所属している企業を選んだのは、他にもいろいろな理由が複雑に混じっているのですけどね(^^そんな思い出の地。いつきても楽しませてくれますし、これからも楽しませてほしいと思っています。
2006.12.10
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元々胡散臭い論調が多い日刊ゲンダイですが、今日たまたま東京に出かけていると、「まだまだある怪しいIT企業」云々の宣伝コピーが目に入ったので、思わず購入。※仕事でいろいろなIT企業にお世話になっていますので、どう書かれているか気になるんですよね。記事を見ると…近未来通信とライブドアを一くくりにして、IT企業たたき。事実のまとめ方といい、そこからの論の展開といい…幼稚にもほどがあります。※幼稚=批判するためだけの記事であり、それが文脈から透け透け、何の中身もないことの例えで使っています。「平成電電、ソフトバンク、楽天、ミクシィ…おいおい、全部一緒かよ!全然違うじゃん。」「それからWiiなどのゲームに熱中する子どもを煽る大人が悪い、とかいう?」んで、最後に「儲けるが勝ち、の商売をしているIT企業???はあ?」って感じ。そこまで言うなら、記者さん、絶対パソコン使っちゃいけないよ、これから。IT企業には善良な企業、多くの人の不便を解決する企業、たっくさん、あります。むしろ、そういう夢を持って邁進している企業の方が多いと感じます。こういう腐れ記事を信じる人たち、いるのかなあ。。。いや、「こんな腐れ記事を書く人がいるからまだまだ俺はマシ」と、サラリーマンを勇気付けているのでしょうか?(笑)
2006.12.09
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未履修問題に端を発し、免許外授業の申請がラッシュのようですね。こちらの記事がわかりやすいでしょうか。先生数と生徒数の需要と供給の関係がありますから、免許外の授業を行うことがあっても仕方がないと思います。しかし、「他の教科の先生が教える」ことに比べて、「その教科を教えられる能力を持った民間の人間」が教えられるハードル、なんだかものすごく高い気がするんですよね。自社を持ち上げるようで恐縮ですが、うちの会社の教科担当の人間の教科能力、秀逸を通り越して、超人的なものを持っている方もいらっしゃいます。私自身も7年ばかし数学の教材作成に携わりましたが、「この人の能力と熱意は超えられない!」と心底思える方もいらっしゃいました。そういう人間を1年臨時で雇うとか(本人が希望するかどうかは別にして)、その方が良い場合もあると思うんですよね。また、定年退職した後でも教えられる能力を持った先生、これからどんどん出てくると思います。もう少し、人材活用法を緩やかにしてもいいのではないんでしょうかね。
2006.12.05
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保護者の年収が違うとか、都会と地方の違いだとか、そういうことで教育格差が語られることが多い気がしますが…。本当の格差は、そのようないろいろな外的要因からくる「子どもが受ける文化の違い」だと思います。パソコンを使える人と使えない人で、今では情報収集力は雲泥の差。でも、地方では「親がパソコンを知らない」そして「パソコンは金持ちだけのものだ」みたいな変な先入観も一部ではまだあり、そのことによりパソコンをそこそこ自由に使える環境にない人、まだまだいるんです。こういうのはどうしたらいいのか…日々考えてしまいますね。
2006.12.04
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虚偽の住所を登録することにより「ポイント稼ぎ」を行った高校生のアフィリエイターが逮捕されたようですね。ちょっとしたいたずらのつもりだったのでしょうが、これからかなり辛い人生を歩むことになるでしょう。「ばれないだろう」そう思ってやる未成年の行為は、だいたい大人にバレてます。経験則ですが。日本社会は、正々堂々と生きてきた人間がまだまだ認められる社会だと思っています。そんな豊かな社会にいるわけですし、その豊かさをこれからも享受しようと思うのであれば、やはり自分自身も正々堂々たるべきなんですよね。
2006.12.03
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先の日曜日に、義務教育改革シンポジウムに行ってまいりました。いろいろここでお話されたことについても(著作権などに差しさわりのない範囲で)触れたいのですが、まだ会社にもレポートを提出していない身ですので(苦笑)ここでは勘弁してください。シンポジウムそのものは、講師の方々皆さん、とてもバランスの良い発言をされており、かつ、目線が「子どもたち」に向いているような発言ばかりで、とても好感を持ちました。(学校ばかりが悪いわけでもなく、かといって学校も改善しなければいけないところもある、みたいな)発言内容もいちいち納得のいくものばかりで。よく勉強し、よく実践されている方ばかりだなあ…と。そんなシンポジウムの終了直前に、質疑応答の時間がちょっとだけありました。最初の質問者。どうやら学校の先生のようです。「いろいろ聞いていてちっとも納得いかない。今は保護者への応対だけで時間がかかる。手紙やメールが来るたびにいちいち応対しなければいけない時間なんて昔から比べるととんでもない!忙しすぎて何もできない!どうしてくれるんだ!その回答がない!」みたいな(発言が完全にイコールではありません)。きっぱりと。「呆れました」。※会社から同行していた人間がみんな「呆れた」と話していたので、ああ、まだまだうちの会社、頑張れるなあ、と再認識したのでした。シンポジウムの中でもそこかしこで「確かに保護者が学校任せになってしまった部分もあります」「学校、家庭、社会が協力しなければいけませんよね」みたいな、アタリマエかつ大切なニュアンスの発言、出てきていたんですよ。それなのにこれ。「保護者が変わった。」それが現実ならば、その現実に対処すべく、頭を使って、体を使って、そして心を使って考える、行動するしかないじゃないですか。もちろんすべてがすべて先生に押し付けるわけにもいきませんが、かといって先生が何も努力しなくてもいいことにはなりませんよね。それを職業として選んでいる限り、プロなんですから。プロが「なんとかしろ!」って、あのねえ、って思うわけですよ。じゃあ、税金倍払って、教職員倍にします?保護者の要望も確かに一方的なのかもしれません。でも、その一方的な意見に一方的に答えても、何も生まれません。ましてや、教師の立場で、そんな恥ずかしい振る舞いを見せてほしくありません(これは「願い」「祈り」の範疇ですが)。代替案を考えられなくなった、考えようとしなくなった社会に未来はありません。気づいている人間同士ネットワークして、なんとか社会を少しずつ変えていかなければ、本当にやばいですね。
2006.11.28
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受験生、そして保護者の皆さんにとってとっても気になるところ、学費についての注目すべき最高裁判決が出ましたね。簡単に示せば1.入学金は(大学側の)返還義務なし…なぜなら「入学できる地位の対価」に当たるから2.授業料は(大学側の)返還義務あり…なぜなら大学側が特に(入学辞退による)損害を受けていないから3.AO入試合格者に対しては、場合によっては授業料の返還義務を免除されるという、通常の大学入試の実態に照らし合わせれば妥当な判決だったと言えましょう。詳しくはこちらを参考にすると、より深くわかります。
2006.11.27
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初等教育~小学校中等教育~中学校・高校高等教育~大学なんだってば。日本の場合。高等教育=高校この勘違い、ホントに多いです。もう1つ。最高学府~大学最高学府=東大、ではありません!
2006.11.26
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去年の12月、北海道・旭川へ行きました。三浦綾子記念館が妻の希望でしたので。余り文学作品を読まない私は、そこで三浦綾子の作品に初めて出会いました。今日、「氷点」見ました。いろんな人に、いろんな人に、見てほしいテレビですね。
2006.11.25
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どんなにいい制度をつくっても。その制度を忠実に守る運用者がいても。子どもの周りにいる人の心が真摯でなければ、誠実でなければ。子どもたちは…。このブログで何度も繰り返していますが、ひがみ・ねたみの社会。自分だけがよければいい、という社会。批判だけして代替案を出さない社会。変えたい、変えなきゃ。。。
2006.11.22
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よく批判される「ゆとり教育」ですが、理念自体、文科省が間違っていたとは思いません。むしろ、すばらしい教育制度を目指したんだなあ、と思います。子どもに選択肢を与え、選んだ選択肢に突き進めるよう制度的に補完しよう、という考えが元にありますからね。結果的に子どもたちに良い影響を及ぼさず、いろいろ批判されていますが、これは文科省が運用、そして現場の人材の能力(と時間)を読み誤ったわけです。理念に基づいた「ゆとり教育」を、理念どおりに実行できる教師がどれくらいいたでしょうか。また、能力があっても、途方もない時間が必要だったのではないでしょうか。そして、過度に教師に要求を連ねる保護者、という状況があったのではないでしょうか。もちろん、教育行政を担う省庁として、責任は感じるべきでしょうが、子どもたちの教育に対する実質的な責任は、大人全員がおっているのです。そんな自分自身をないがしろにして、文科省だけを責める大人、その人自身がさらに子どもたちへ悪影響を及ぼしています。
2006.11.21
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であれば。「いじめが多いのを何とかしてほしい」と文科省に訴えたとしても、彼らができるのは「いじめが極力多くならないような“仕組み”を作ること」でしかありません。これで「いじめが多いのを何とかしてほしい」と訴えた本人の願いが解決するとは思えないんですよね。そもそも論、になりますと。このテの話は、自分が当事者ではない限り、気持ちだけで文句を言ってはいけないことのような気がします。そして、当事者であるならば。まずは事件に関わっている人に掛け合う(先生、周りの人など)。その人たちが改心しないようであれば、運用を手がける教育委員会に、その人たちの処遇を考えるように伝える。そこでも解決しなければ、いきさつを説明し、教育委員会の体たらくを文科省に伝える。まわりくどいようですが、これが一番筋道が通っていると思います。この時点で文科省が動かなければ、そこで批判すべき(というのも変ですが)なのです。
2006.11.20
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子どもたちがすくすく育つように、問題を起こさないように。学力、知恵がつくように、専門的なことにも興味がわくように。そのように仕向けるのは、一番近くにいる、学校の先生であり、保護者であり、地域社会なのです。こと「教育行政が働く範囲」~学校教育、を中心に考えれば、それは学校の先生、ということになり、そんな学校の先生を適切に評価する制度と、制度の運用が必要になります。その大元の制度を考えるのが文科省のお仕事。教育委員会はその制度に基づき、適切な運用を考えるところ。そして、直接子どもたちに影響を与えるのは、学校の先生、ということになります。
2006.11.19
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かといって。自殺予告の手紙を文科省に出した子どもたちを責めるつもりはありません。たとえ、客観的に見れば「安易な行動」の部類に入るものとしても、子どもに責任はありません。子どもたちをそこまで追いつめたものがあるならば。あるいは、子どもたちの行動を「安易な行動」というのであれば。間違いなく大人社会に生きる私たちみんなが、責任を感じなければいけないのです。文科省に手紙を出す前に。家族に相談できないでしょうか。友人に相談できないでしょうか。学校に相談できないでしょうか。隣のおじさんおばさんに相談できないでしょうか。それができない状態だったのではないのでしょうか。そういう状態を生んでしまったのは何なのでしょうか。文科省に自殺予告の手紙が連鎖したことは。何かを見てすぐ真似をする、楽な方に逃げる、大人社会があったのではないでしょうか。
2006.11.18
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このテーマで書きたいことと話が逸れてきましたので、戻します。そもそも、今回のテーマで書こうと思ったのは、11月12日の日記で書いた、下記のような感想からです。===さて、この件に限らず、こと、教育の世界において「何か陳情をするならば文科省に」つまり「何か物申すときは(その分野で)一番大きなところに」という雰囲気が、社会全体にあるような気がします。===誤解を恐れずに申し上げるのであれば、「大きな組織」にはそれ相応のお仕事があるのです。決して1人1人の陳情を聞くのがお仕事ではありません。教育基本法をはじめ、学校教育に関する法律、教職に関する法律、公務員そのものを定める公務員法…そのような大事な「法律」をしたためる人が、どこかに必要です。そして、まさにこれが、文科省の大切なお仕事の一つです。さらに、法律に従って、現場の運用、そしてサービスの受け手(国民全体)の利益が最大化するように、制度や仕組みを決めるのもとても大切なお仕事です。文科省の人たちが「現場を見る」ことは大事な姿勢ですが、「現場に直接関わる」のは違うんです。最終的な現場でのアウトプットを素晴らしいものにする「枠組み」を作ること、これはとても難しく、かつ大切な、大切な作業です。陳情のような個別案件に携わる仕事が文科省に求められるのであれば、それ相応の人の手当が必要です。これでは、国に払う税金はいくらあってもたりません。
2006.11.17
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11月14日の日記からの続きです。公教育分野のお話に費用対効果のお話は余りあいませんが(苦笑)、ちょっと考えてみましょう。年収800万円の公務員がいらっしゃるとします。1日の労働時間を、残業がほぼなしの8時間と考えると、年間労働時間は8時間×5日(週休2日と考えて)×52週間=2080時間。祝日もありますから、ざっくりと2000時間と考えられます。800万円÷2000=4千円です。つまり、年収800万円の公務員が1時間働くと、税金が4000円とんでしまいます。応対が必要なクレームが多くなるほど、当然、対応する公務員の数も増えます。批判したいとき、クレームを言いたいとき、そういうときは誰だってあるでしょう。しかし、気持ちに任せて一方的な行動をしても、自分自身が「税金の無駄遣い」の元凶になる場合もあると思いませんか?これだけの労働を生んでしまう「クレーム」と言う行為。・自分自身が被害を受け、そのクレームを伝えなければ自分自身の権利が著しく奪われてしまうとき・そのクレームを伝え、クレームへの対処が施されれば、多くの人の幸せがもたらせるときそのようなときのクレームではなければ、自分勝手な行動と取られても仕方がないのです。
2006.11.16
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ちょっと体調が悪いので、これから床に伏せようと思っています。※単なる寝不足だと思いますが。昨日までの連載で、「一回中休みが必要かな」と思っていたときに、こんな記事を見つけました。高校生から見た一面、はっきりと捉えている記事だと思います。体調が戻れば、これについての感想を書きたいと思います。
2006.11.15
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クレームを言うことによって、問題が解決に近づくのであれば、そうすればいいとは思います。でも、官僚だって人間です。しかも、相当な勉強量を積んだ人間です。BSE問題という好ましくないことが起きれば、自分たちが真っ先に問題解決に当たらなければいけないことくらいわかるでしょう。そんな人間たちにクレーム電話をする人は、心底、問題の解決を願っているとは思えません。いじめと自殺の連鎖。この1、2週間くらいで、かなりのマスコミ記事があったかと思います。今の日本社会では、きっと、文科省の電話もなりやまなかったことでしょう。そしてまた、問題解決が遠のく、という悪循環を生む。問題解決を願うのであれば、問題解決に一番尽力しなければ行けない人間に時間を与え、そして気持ちよく働くような環境を作ることの方が、よっぽど建設的なような気がします。少なくとも、「邪魔する」よりマシなのは間違いありません。そして、すぐにクレームを伝える人々は、その応対の1分、1秒に、自分の税金が使われていることを判ってほしいと思います。つまり、高い税金の世の中を作っている一因が自分でもある、と言えるんです。
2006.11.14
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私の後輩で、厚生労働省に勤めている人間がいます。いわゆるキャリア。例のBSE問題のとき、彼は2年目でした。彼の勤務時間は、その頃だいたい8時半~深夜4時過ぎ。<勤務内容>9時~17時半:クレームの応対「だけ」17時半~深夜4時:2年目としてこなすべき仕事をこなす<おしまい>クレームの応対とはいえ、メンタルな問題があるときもありますから、やはり官僚クラスがでなきゃいけない側面もあるようです。しっかり法律などを勉強し、試験に合格したキャリア。そんな人だからこそ、BSEの問題など、専門的な知識が必要なときには、自らの知識をフル動員して考え、そして行動を起こしてほしいもの。クレームの電話は、そんな貴重な人間の時間を奪っている現実があります。
2006.11.13
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自殺予告騒ぎはもうおさまったのでしょうか。さて、この件に限らず、こと、教育の世界において「何か陳情をするならば文科省に」つまり「何か物申すときは(その分野で)一番大きなところに」という雰囲気が、社会全体にあるような気がします。※もっとも、小さなお願い事はマスコミが取り上げませんから、私が気づいていないだけかもしれませんが。。。でも…たとえば、いじめ問題が各都道府県で頻発し、たまたま1週間に10件程度、いじめによる自殺が連鎖したとしましょう。文科省に「なんとかしろ!」とクレーム電話をしたり、陳情書を文科省に提出することが、事の改善につながるでしょうか。はなはだ疑問なんですよね。とくに「なんとかしろ!」というクレーム電話を直接文科省にかけたりする行為などは、感情だけで行動し、一番子どもたちのことを考えていない行動だと思います。
2006.11.12
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知人(教育関係者ではありません)といろいろ、今回の未履修問題についていろいろやり取りしていて、ふっと疑問が。「情報や家庭科、世界史って未履修となり世間も騒いでいるようだけど、体育の未履修ってないよね。」受験に関係ある・なし、であれば、体育も受験対策に振り替えてよいはずなのに。結局、本質的な問題は「受験対策のため」ではないんですよね。こういう事実(実際はどうかは正確にはわかりませんが)に気づくと、そう思います。
2006.11.11
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未履修問題から自殺予告。昔からあった問題かもしれませんが、ここまでマスコミを賑わせ、そして「子どもたちがどうかしちゃっている」というイメージが蔓延しつつある強さは、これまでになく強いですね。友人から「自殺なんてやめようよ」といろんなところで呼びかけることで、何か変わることがないか、協力してください、そういうメールをいただきました。このような活動をしている友人はすばらしいと思いますし、心の底から子供たちを愛している、そんな友人です。しかし、「今私のできること」を「最大化」するには、このようなメッセージを投げる(=対処療法的な)ことだけではなく、社会の構成員全体が、「自らの幸せをつかむためには、(いろんな意味で)豊かな社会にならなきゃいけないんだ」そういう認識を、1人でも多くの人に持ってもらい、かつ、そのために「自分のできること」の範囲で行動するように、メッセージすることだと思っています。やな世の中になったなあ。。。子どもたちが心配だなあ。。。僕だってそう思います。事実から目をそらさないのは大切です。もちろん。だけど、嘆くだけなのはもっと嫌です。幸せじゃない社会があり、その構成員である自分であるなんて、嫌でしょ?恥ずかしいでしょ?だったら、個々人が「(自分が思っているところの)『嫌な社会』にならないようにできることはないか」考えませんか?そして、何かしてみませんか?「誰か何とかしてほしい」ではなくて。他人に頼りきってもたらされる幸せなんて、脆いですよ、きっと。自分の人生です。そして、僕は自分勝手な人間です。だから、自分の幸せは自分で決めていく。勝ち取っていく。他の誰よりも幸せになりたいから。そのためには、今一番必要なのは、社会全体に「幸福感」を浸透させること。だから、ひがみ・ねたみ。一番忌み嫌うものです。ひがみ・ねたみから人の揚げ足を取る人なんて、はっきりいって最悪です。しあわせは じぶんの こころが きめる(あいだみつを)
2006.11.10
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事実が出てから知ったかぶりのように話すのも気がひけるのですが…伊吹文科相が発言したとか言う「センター試験6教科義務化」の話。未履修問題を朝日新聞がすっぱ抜き、そして問題が広がったのは、この話を出すことが前提で進められたような気がしてなりません。報道を見たとき「やっぱりきたか」という感覚になりましたから。正直、必修にしなければ学ばない若者が増えたのは事実ですし、このままだと日本社会の富がどんどん下がっていくことが懸念されます。しかし…しかし…「若者が勉強しなくなったのは、大人から向上心がなくなったからじゃないのかな?」※仕事がいっぱいいっぱいになってきたので、今日はこれくらいで。
2006.11.09
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11月4日の日記では間違ったことを書いてしまいすいません。こんな中、また制度的なことを書くのも恥ずかしいのですが、きっと間違っていたらどなたかが指摘してくれるだろう、と信じ(笑)、書かせていただきます。中学2年生のとき、私の英語を担当したのは、普段国語の先生でした。(蛇足ですが、私の幼い頃の最大の恩師です)しかも、授業を始めるときに、「○十年間の教師生活で、英語は初めてですよ~」と語って、「みんなと一緒に勉強するね」という姿勢で1年間、授業をしっかり行ってくれました。今思うと、彼女は、免許外教科担任制度を活用していたんですね。しかも彼女、社会などのほかの教科は何度も教えたことがあるそうで。この事実から考えると、「免許外教科担任制度」は、条件さえ整っていれば、比較的簡単に認められそうです。一方で、教員免許がない人が(特定教科の)教壇に立つのは、とてもハードルが高いような気がします。※制度としてはないことはないのですが。中学までの知識であれば、「大人」ならなんとか教えることはできるでしょう。しかし、高校の知識は、おいそれと「免許外教科担任」はできないと思います。教科の知識がとても詳しい、しかもその教科を楽しく教えることができる人(代表例は予備校などの先生でしょうか)って、結構世の中にいると思うんですよ。活用し切れていない、と思うのは、気のせいでしょうか。
2006.11.07
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