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剥き出しの死がインドにはあった。ガンジス河を流れていく石鹸状になったブヨブヨの死体。それは正に目と下が飛び出てて鬼そのものであった。ガンジス河脇の火葬場では人が焼かれその灰は河に捨てられる。人の焼ける音。燃えた人間は水分蒸発の偏りか分からないが動く。直射日光にあたったまま死んでいる乞食。事故で死んで、むしろから腕輪が何本もはまった手。日本では死が隠されている。数年前、八王子市に1年程出張していた。JR中央線私の乗る列車は高尾駅の手前で、止まった。おばあさんが飛び込んだのだ。止まった電車の下を駅員はさぐる。そして私の座っている下から足を出してきた。靴だけではく肉片が小さくはっきりした色でおもちゃかマネキンのようであった。私の座っている下で体が止まったらしい。何両目か忘れたが、無惨な姿になったのだろう。私は、暫くして、新宿にいて、あの死体に呼び寄せられている気がして仕方なかった。寝たら、そのままずっと起きることがない気がして、新宿のホテルで全然眠れなかった。車で自宅へ向かう。下道はリッター6なのだが高速では12まであがるのだ。もっとスピード上げれば燃費上がるのか(上がるはずない)と思い、湾岸線を160キロで走ったら、リッター6。走っているとき、その死のことを思っていた。やばいなやばい。
2003.11.30
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本日は、大学のクラブのOB総会に出席した。学校の正門横に同窓会会館みたいのを建てているのを見ると、このご時世潤ってますなあ、と呟く。 久し振りに会う人々は、蛇頭の研究等著書数冊の方だとか、イエティ(雪男)を追い続けての人だとか、アラスカ氷河洞探索隊の方々とか、がお越しになられてて、その中で、休学してアフリカ大陸途中まで縦断した1つ上の先輩に会った。サハラ砂漠を縦断したのだが、飢餓の人間達を見て追い詰められた人間は何をするか分からないと言っていた。各地で物乞いに囲まれて、生命の危機を感じたという。タイを自転車で縦断してた頃。ある田舎道で気分良く朝もやのまだ涼しい中走っていた。両脇は田んぼ。1本のまっすぐな道を自転車は行く。しかし、不穏な野良犬の動きを察知したと思うと、野良犬が1匹自転車めがけて追ってきた、と思えば、2,3,4、5,6匹が草ムラから出て来て狂気の犬が、吠えながら迫ってきた。私は全速力で自転車を走らせたがなんせママチャリ。1匹目の追いつかれた犬には足蹴りをしたが、すぐに2匹目以降が迫る。と思った時前方からクラクションを鳴らしたバスが。私は道路の真ん中を走っていた。タイのバスは100キロはだしている。恐怖。50メートルぐらい前で、犬達はギリギリと見たか脇にそれた。そして私も道路わきに急ハンドル。1メートル横をクラクションの大音響と共にバスは通り過ぎた。風が舞った。犬は去った。バスは消えた。生命の危機は去った。
2003.11.29
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震災2日後、私は運転手をしていた。オーストリアのTVクルーの運転手をしていた。渋滞と交通ルール無視の中、私は運転をした。そのときにふと気がついた。後部座席に座るオーストリア人は私をどういった目で感じているのか、ただの運転手なんだなと、アジア人なんだなと。そしてもしかして私もタイ等に行った時運転手のことをどう思っているか思った。その後、学校に避難している人に、火事で燃える家の前で呆然とする人に、倒壊した瓦礫を片付ける人に、インタビュアーの質問は決まってこうだった。「これからどうしますか」そして人々の返事は決まってこうだった。「先のことはどうしていいか分かりません」私はそんな考える余裕もないわと多少憤慨もしたが、かくも西洋人っちゅうのは前向きというか、起こったことは仕方ないから対処どうするか考えるものなのだなあ、とも思った。それはそのインタビュアーの考え方だったのかも知れないが。人間は弱いものだよ。ほとんどの人が、お上を当てにしている様に感じた。仕方ないことだけれども。
2003.11.28
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先程、近所のお気に入りのバーに行ってきた。蘇州園。http://www.thegardenorientalsoshuen.com/ 御影の住宅街にあるシガーバーだが、私は禁煙この道16ヶ月ぐらいで18年間喫煙者で初めて喫煙してそのまま成功したのであった。ライトアップされた紅葉が美しい。松明に照らされた池が美しい。静か、あくまで静か。禁煙の成功の秘訣は、思い立ったらすぐ気楽に止めること。気合を入れて止めないこと。またいつか吸うつもりでいること。健康の為にや他人の為に等意味を持たせないこと。そして、吸ったら罰金を払うとお金を賭けること。蘇州の拙政園は世界遺産であり、同時に中国4大公園といわれている。「紅楼夢」の舞台といわれている。歩いて歩いて、私はよく分からなかった。虎丘塔、いつ倒壊してもおかしくないこの傾斜具合はピサ斜塔より傾いている感じで、いい感じだ。50メートル弱の高さで15度くらいも北へ傾いている。あまり長くみていると平衡感覚を少し無くす。阪神大震災のときのようだ。自然の中には直線はほとんどないのに平衡感覚は失わないが、ビルが倒れガードレールが歪み、アスファルトがめくれていると、何がまっすぐか分からなくなり平衡感覚を少し失った。人工物の敗北か?
2003.11.27
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私は、ファーストクラスに乗る人間になりつつあると、自分で感じる。何故なら、私は、ファーストクラスに乗ったことがあるからだ。それもマレーシア航空国内線だ。シンガポールの対岸のマレーシアの町ジョホーバルからボルネオ島のクチンまでだ。 私は、当時、重要な事実に気がついたのであった。それはマレーシアの国内線というのに、シンガポールで購入した方がチケットが安いということだ。 私は当時、ボルネオ島にゴムボートで河下りするつもりだったので4人組でタイから南下してきたのであった。 私は4人組では、隊長であった。何故なら、数ヶ月違いで私が最年長であったからに過ぎない。 しかし、私は人望もあった。私は隊長の立場を最大限に利用することもなく、民主主義を貫いた。機会均等を貫いた。じゃんけんで一番勝ったものは自分のザックのみ、2番目に勝った者は、ザックを二つ、3番目に勝ったものは、自分のザックにオール2本、最後に勝った奴(つまりじゃんけんに負けた奴)は35キロのゴムボートを持つということにした。しかし呼び名だけは、平民だの奴隷だの貴族だの僧侶だのとバラモン制度をひいた。または平等主義のエピソードとしては、ボルネオ島にはなかなか安宿がなくエアコン付の中流以上の1泊2000円するホテルばかりで、ネップ型計画経済を実施していた我々の予算を十二分に超えていたので、主と交渉、ツインに4人入ることを許されたのである。当然じゃんけんで二人は地べたとなる。私がじゃんけんに負け、じべたと決定したときには危うく指揮権を発動するところであった。(ちなみに何故ネップ型経済になったかというと、隊員最年少が出国1週間で全財産を使い果たして、いや落としてしまったのであった。ゆえに我々は勝手に自分の金といえど解散までは自由に使ってはならないというおふれを出し、計画経済に移行したのであった)ところで、ファーストクラスの話からついつい大きく離れてしまったが、うまい具合に言いたいことも忘れてしまった。そもそも何故そういうことを思い出したかというと、実はそれも忘れてしまったのである。また思い出したら書くつもりだ。
2003.11.26
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学生時代は、アホだった。今もアホだった。飲み会を終えて、お決まりの誰かの家へなだれ込む。誰かの家って、家主はまた違う家に行ったようだった。朝の3時。談笑中、言った。「広島お好み焼き食いたいな、いこや、この家の車借りて」と誰が言ったかは覚えてない。誰かが借りた彼の家の鍵には車のキーも光っていた。5人でファミリア号は行く。「なんぼもってんねん」誰かが聞いた。そして地道で行くことが決定した。ローリングストーンズの悪魔を憐れむ歌がガンガン鳴っている。今思えば、呉の湾岸線に浮かぶ工場群の夜景がエストニアの首都タリンに似ている。昼前、広島に着いた。取り敢えずよく分からなかったので原爆ドーム前に路上駐車して、お好み焼きやに行った。戻ってきたらしっかり駐車違反。時効だから言うが、シカトした。西宮の彼の自宅に戻ったのは翌日。携帯電話もなく、よい時代であった。「どこいってたんですか」程度で許してくれる、よい彼(詳しくは良く出来た後輩)であった。私は小学生の頃、「ハダシの元」をよく読んだ。何度も何度も同じ漫画を読んで飽きない懐かしい時代だった。クラスの皆が漫画を持ち寄って。ドカベンとかね。でも先生だけは小さな恋の物語という漫画を持ってきた。その若い先生は、1日だけ、授業を5時間共自習にして、ブローチを一生懸命カナヅチ当てたり眉間に皺寄せたりしてた。時効だけど、今考えれば仕事さぼってんだ。
2003.11.25
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今日本読んでいたら、ギリシアのアテネの旅行代理店「ヒマラヤトラベル」という文字が出てきた。15年近く忘れていた単語、店だよ。当時、私は、神戸から船やバスや列車等で、ついにギリシアまで来たんだよ。問題はお金がもうぎりぎりになってきたのだったよ。今考えたら後悔するけどエジプトには強制両替200ドルというのが当時あってそれはもう払う資力がなく、泣く泣く帰国することにしたんだよ。その時行ったのが、ヒマラヤトラベルだったよ。一番安いのがシベリア航空、しかしこいつは帰るだけ。その次に安かったのがパキスタン航空。おまけにストップオーバー1箇所につき2000ドラクマ(ギリシアの通貨単位)か2000円分か追加料金を請求されたんだよ。肝心の日本までの値段は忘れたけど、パキスタンのカラチ、バンコク、マニラ経由の成田にしたんだよ。お金がもうそれで2万円ぐらいしかないから、もうピンチだったんだよ。でもアテネ空港から成田空港まで10日以上かかったんだよ。そして成田でお金借りて、関西に帰らず群馬県にいったんだよ。伊香保温泉に行ったんだけど、その夜は、伊香保温泉街外れの竹やぶで寝たんだよ。事情はともかく、寝袋があったから助かったのさ。
2003.11.24
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ロシアのサンクトペテルブルグ、インドネシアのメナド、イエメン、ホンジェラス、ブータンなど、いつかは行くつもりの都市はあるが、私の中でベルギーのブルージュもその一つであった。それは、数年前、大阪の問屋街でたまたま買ったチョコレートに印刷されていたのがブルージュの風景で、「屋根のない美術館ブルージュ」と記載されていたにを見て、「よし、いつかここにいこう」と私の殺すリストではなく、死ぬまでに行くリストに加えられた都市でもあった。アムステルダムからベルギーのアントワープで乗り換えて、約3時間半でブルージュに到着。まず、駅構内の観光案内所で有料という地図観光ガイドを購入。有料とは憎たらしいなと思いながら、駅から2,30分歩いて中心の方に向かっていく。 港町として発展したブルージュは、その後、港町としての中心地をアントワープ、アムステルダムへとその地位を明け渡し、死都となっていく歴史を辿った。2000年に世界遺産に街が登録され、どうやら観光都市として再度やっと盛り上がっているようである。アムステルダムの邪悪さから一転、おとぎの国に来てしまった訳である。ベルギーの多くの都市は戦火で破壊されたし、工業化が早かったので、ブルージュほど中世の雰囲気を残している場所はないのである。 私の偏見から見ると、ベネチアのような観光都市の一員らしく、歩いている人のほとんどが観光客で、住んでいる人のほとんどが観光業に従事しているようなイメージがする。 早速、荷物を置いて、いつものように8時間散歩に出かけるのである。ベルフォート鐘楼。解説:この建物が、街の中心的建物であろうか。すれ違うのも大変な階段を400段近く登っていくと90メートル程度の鐘のある頂上付近に着く。90メートルというと、日本のマンションでいうと25階建て程度であり、これが13世紀頃から造り始められている訳である。特にフラフラしている私には、なかなか楽しい登山であった。ベルフォートから街全景。まあ、こういうのを見ると、日本も中は自由にしたらいいが、外観や色は規制したらいいのになあと思うのである。そうか、私は、5年前からこの風景を見たかったのだなと思う。ブルージュジュ州庁舎街の中心であるマルクト広場。解説:北と西には切妻屋根のレストラン、東はネオゴシックの州庁舎と郵便局、南側は鐘楼。何だろう、綺麗だな、おとぎの国だな、心地良いな、という快感と感想が頭の中を流れるのだが、誌的なものが浮かばない。それが、私の資質か。清潔で、物乞いも見当たらず・・・ディズニーランドの原型のようなものか。 ブルグ広場。解説:市庁舎がある広場で、マルクと広場から100メートルぐらいだが、こちらにはそんなに人が溢れているという感じがない寂寥感が良い。市庁舎、古文書館、裁判所、聖血礼拝堂に囲まれている。歴史歴史のヨーロッパ、古いものを大切にするという感覚は素晴らしいが、石が長持ちするといいながらも、1000年以上というと、そうでもないのである。法隆寺を見よ、木製も全然負けていないということを実感するのではなかろうか。明治維新以降なんだか、歴史認識がひん曲げられている気がする。 3匹の子豚、藁の家、木の家、レンガの家をそれぞれ造った子豚であるが、藁、木は崩れ、レンガの家に避難するといった物語だったと思うのだが、これってバカにしてないかと思うのである。レンガの家(=白人の家)が一番エライんだぞ、っと。聖母教会;解説、特になし。街には、3つ程度の塔があり、どこに迷おうとも、この3つのどれかの塔を目差せば迷うことのない便利なシステム。時間がある限り、道に迷うことに何の問題もないし、その多少の不安が楽しく、何某かの発見や出会いがあるのである。ただ、私の問題点は、人生においてもフラフラしていることだろうか。シモンスティン広場。解説なし。だいたい分かった。ブルージュジュ救世主大聖堂と運河(愛の運河)。解説なし。だいたい分かった。地名に愛がついているのは、結構恥ずかしい感覚があるのだが、ヨーロッパでは愛の定義が違うのだろう。愛は神(キリスト)である。それにしても、うさんくさい十字軍が持ち帰った聖血が祭られている。十字軍は免税になるから行ったり、病気で人口が減りすぎて、人口を増やす為に女を、労働力を得る為に子供をさらうために行ったのである。聖地奪還の士気のあった人々はどのくらいいたのであろうか。ちなみに大聖堂の下部はロマネスク、上部はゴシックである。聖地って面白い。こうやって途中から作り変えられるものや、例えばイスタンブールのように、イスラムモスクを教会に替えたり。教会の建つ前は、たいてい、その地域の土着的な聖地であったことも多いのである。磁場の力というものがあるのであろう。勿論、経済的な力もあるだろうが。ベギン会修道院。解説:世界遺産認定。現在はベネジクト派の修道女が暮らしているようだ。だいたい分かった。信号機には、自転車用もある。そういえば、オランダもある。そういえば、シーボルトはドイツ人である。しかし、日本はオランダとしか貿易していなかったので、オランダ人のふりをしていた。ある日、日本人から、おたくのくにの一番高い山は?と質問を受けてうっかり、ドイツの山の高さを答えたということだ。オランダに山なんかないちゅうに。ベルギーといえば、チョコレートのイメージが強いのであるが、朝早く散歩していると熱心に朝早くから店を開けているのはチョコレート屋ばかりである。不思議なものである。ちなみに、ベルギー王室御用達のチョコメーカーは、6社である。ゴディバ、ガレ、コード・ドール、メリー、ノイハウス、ウィッタメール。チョコレートを鼻血が出るまで食う私が、全制覇(量り売りだが)したことは、国家機密でもある。ベルギーといえば、ムール貝と白ビールというイメージが強いが、毎晩、ソレを食らう私は、観光客である。バケツにいっぱいのムール貝をバカほど食べ、ベルギービールでフラフラしている上に更にベロベロになっていくのである。ブルー十縦ベルギーといえば、ワッフルというイメージが強いが、チョコレート以外の甘いものはちょと苦手なのである。しかし、せっかくのベルギー、一度はワッフル食べなければベルギーに来た意味がないではないか!といいつつワッフルを食らう。でも、告白すると、フラフラしていると、甘いものが、死ぬほど旨いのである。というか、飯が悪党的に、いや、圧倒的に旨いのである。本能を取り戻すのである。馬です。ということで、富豪のブルージュは終わり。ちなみに唄松田聖子、作曲細野はるおみに「ブルージュの鐘」というのがある。私の中学校高校あたりの曲である。 ところで、私、どこか行く前に、その場所をネットで検索するとき、すぐに、「○○○(地名) 邪悪」って検索してしまうのは悪い癖かしら。
2003.11.23
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Jレノンの曲はよく聞くけれど、「マインドゲームス」と「ワーキングクラスヒーロー」をたまたま聴いた。大学4年の後期試験の頃、2月、よく聴いていた。当時、結構精神的にキツイ時で、精神的葛藤が続き、ヘルペスになってしまった。私はそういう病気を知らなかったから皮膚科に行ったが、違うと言われて、内科へ。「明日から暫く続けて来なさい」と言われたものの、試験はその日終わり、翌日インドへ。もらった薬は数日分。しかし環境が急に変わり、治る。でもその時に出来たおでこの傷跡は消えないままだ。よく見れば見るほど、自然も人工物も、人間……よく見れば見るほど、自然も人工物も、人間も人間の考え方も、ツクリモノだ。贋物でも本物でも、いずれにせよツクリモノだ。では自分のつくりたいように作ればいいのだな。
2003.11.22
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意味なし世界一周を敢行するには、まだ半分も来ていなかった、というのに、帰国しなければならない日はあと2日しかないのであった。 ベルギー、ブリュッセル空港までは、アムステルダムのスキポール空港同様、電車で約20分程度というスコブル便利な場所にあった。12月31日、朝からフラフラしながらも、荷物を持って空港に行くのであった。 ヨーロッパからアメリカまでは、6~8時間と、日本から東南アジアに行くのと変わらない感覚であろうか。飛行機から、マンハッタンが見えた。DCから370キロである。摩天楼がうっすら見えるのだが、手前の目下はただの田舎である。ニューヨークでもそうだったのだが、ワシントンも空港に向かう時に、何航空か尋ねられ、それぞれ空港別に専用搭乗建物があるのは、広い国ならではのことなんだろうか。 アメリカには、リムジンバスのようなものがあまりない感じがする。ワシントンDCダラス空港より、乗り合いタクシーで街に向かう。私が、不意にも、良く調べず、アムステルダムのネットカフェから予約したホテルは、街の中心から2、3キロ離れていたので、バスに乗って街の中心に行くということになった。バスは1.25ドルである。パトカーに馬が乗っていたが、私は、ホワイトハウスまでバスで行った。大統領が招いてくれているのだから、リムジンの一つでも用意して欲しかったのだなあ、としょぼく思う。 アメリカ人は大いなる田舎者と思う。学生の頃、黒人が電車の行き先と乗り方を聞いてきて、一通り教えてあげたあと、「キミはどこから来たの?」と聞いた。今までの旅行の経験からすると、国籍がでてくると思っていたのだが、彼は「ニュージャージー」と言った。なんだこいつは。と思った。急にそいつがとんでもない田舎者に見えた。 初めて行ったアメリカはニューヨークであり、ニューヨークはアメリカらしくないアメリカだよと聞いていたし、そういうものだと思っていた。今回、ワシントンDCに行き、街が徒歩サイズでないことを実感した。車サイズに人工無機的都市が形成されているのだ。 表向き、ただ美しい公園無機質都市は、アメリカでも有数の犯罪都市(ニューヨークの5倍)であり、特に殺人が多いという。アメリカには住みたくないと思う大きな理由は、銃がはびこっているということだったが、最近、カナダも同程度の銃の数があるということを知り、使い方や教育や環境に大きな問題があることを知った。といっても全体の治安が悪いわけではなく、街の中心などは、まだ安全な方だそうだ。地下鉄にも乗ったのだが、地下道というのがほとんどないというのが、ユニークで、エスカレータなどで、地下に降りるとすぐに改札になっている。治安を考慮してなのかと思うのであった。早朝、駅構内には誰もおらず、本当に地下鉄が来るのか心配になったほどだ。(あと何分で来るか表示されているのだが) 国会議事堂、ホワイトハウス、最高裁判所、そして証券・印刷局、FBI。リンカーンメモリアル、ジェファーソンメモリアルとルーズベルトメモリアルのあるワシントンメモリアル、アーリントン国立墓地、スミソニアン研究所の多数の部署どれもが無料というのはなかなかよいことではある。まあ、そんな訳で、速攻で街に出て、観光を敢行するのであった。6時間に及ぶ本業の散歩開始である。 以下、指南書USキャピトル 国会議事堂。隣接する巨大な国会図書館、最高裁判所。議事堂の北側には、壮大なユニオン駅、その隣には郵便博物館、全米日系米国人記念碑などが続く。続くがそこまでは行っていない。スミソニアン博物館のひとつ。16の美術館博物館の建物の複合群。いくらトバシヤの私といえど、1億4200万点の展示物、とても15分で見回ることはできない。そこまでは行っていない。リンカーンメモリアル。マーチンルーサーキングが「私には夢がある」と演説した場所なのだなあ、と思いながら、ここまで歩くのに何の変哲もない道を20分以上歩いたのだ。これ以上は歩けない、ということで、リンカーン像の前までは行っていない。(1月1日早朝の散歩)ワシントンモニュメントからリンカーンメモリアル方面。一応、世界で一番背の高いオベリスクまでは、歩いていったのだが、これまた結構歩くのも遠いのである。ホワイトハウスからワシントンモニュメント。芝生を横切り、ひたすら歩くのであった。ホワイトハウス悪の根源。ホワイトハウス悪の注意書きホワイトハウス横アイゼンハワーエグゼクティブオフィスビル。何でも良いけど、何となく、ヨーロッパ後のアメリカは、やっぱり新しいのである。申し訳ないけど、薄っぺらな感じもするのである。朝の散歩には、アーリントンナショナルセメタリーとペンタゴンに行った。ペンタゴンは世界最大の床面積を誇るオフィスビルである(2位はアメリカの旧パンナムビル、現メットライフビル)しかし、5角形なんかソラからしか見えないのである。和紙ントンたてオベリスクといっても記念塔。本物のオベリスクは世界に30しかないのである。 そんな訳で、朝の散歩を終えると、ケタタマシク、荷作りをして、速攻で空港に向かったのであった。
2003.11.21
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2泊外泊した。携帯電話も置いて、着替えもおいて、昼夜の仕事もほったらかして、行方不明の状態になった。外泊の外泊という言葉を思いついた。せっかくホテルを取っているというのに、遊びに出掛けるなり、民家に泊めてもらうなり、荷物だけ置いてしまってたりなんかして。インドのアメーダバードでは、一緒だったイギリス人が翌朝帰ってきた私を見て、えらく心配をかけてしまった。このときはついつい、遊びにいったホテルが心地よくてそちらにも宿を取ってしまい、寝てしまったのであった。インドネシアのスマトラ島中部の街ブキティンギでもそうであった。知り合ったインドネシア人にお祭りがあるから行こうというので行ったら、バスで数時間。女系ミナカウンバウ族の祭りであった。結局、イスラム教徒のお宅に泊めてもらったのであった。そこから数時間行ったところにパダンという街があり、インド洋沿いに1時間程海岸沿いに散歩していたら、海に向かって薄青い墓が並ぶ中国人墓地に出た。神戸の六甲山にも外国人墓地がある。遺族以外は入れないのだが、高台から墓地を一部見渡すことができ綺麗に整備されている。そこにはモロゾフとか我が母校の創始者ランバス先生等が眠る。そして宗派に別れて埋葬されているのだが、なんとゾロアスター教まであるのには驚き。残念ながら現存する世界規模の文明で消えかけの文明がゾロアスターだ。しかしいまだインドの2大財閥タタとビルラはパースィー(拝火教)と呼ばれるゾロアスターだ。ゾロアスターの神はアーリーマズダだ。マスダから車のマツダの由来(松田さんでもあるが)であると聞いたのは、イランのペルセポリスであった。先日2年ほど前にオープン(移転)した安藤忠雄建築の兵庫近代美術館でアレクサンドロス大王と東西文明の交流展という興味深い催し物を見に行った(チケットはオークションで購入)そこにも、ダリウス3世率いるアケメネス朝ペルシャの首都ペルセポリスが出てきた。また、散歩に行きたえと思った。アジア映画最近香港に行ったからではないが、インファナルアフェアという香港映画見てから、一人でなかなか香港映画に流行つつある。その関連という訳ではないが、韓国映画で南北問題を題材にした爆発的ヒットした「シュリ」と「JSA」を観た。銃撃戦のアクションは資金力にモノを言わせたハリウッド映画に任すがよいよシュリ~という感じであったが、JSAはなかなかほんわか(の筈はないけど)な感じがして観ながら「なかなかこの映画は好きだな」とつぶやいた。そういえば、イランのキアロスタミ監督の「友達の家はどこ」とか「運動靴と赤い金魚」ほのぼのして良かったねえ。そういえばフィリピンはなかなか映画のお盛んな国で劇場にいくと、皆がキスシーンでは冷やかし、ピューと口笛を鳴らす。悪人が後ろから迫ってきたら、主人公に向かって観客は「うしろーうしろー」と叫ぶ。いやあ映画観てる人ってほんとに面白いですね~
2003.11.20
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夜になってから30年以上前のオープンカーに乗っている友人の家に行った。シートベルトもないダットサンだ。雨が降れば止まってしまう車に乗っている彼のことだから車には詳しいのであろう。彼は私が乗っていた車のボンネットを開け、見つめた。私はまだボンネットを開けたことがなかった。彼はエンジンがでかいなといっただけでボンネットを閉めた。ウォッシャーがフロントガラスだけでなく、ライトに所にも吹き付けられていることを知った。ボンネットの開け方やサイドミラーの正しい調整の仕方を学び、車を走らせた。何故かすごく調子が良くなった。気分よく、家路に向かう。彼と肝心な用事を済ますのを忘れていた事に気がついたのは、すでに高速で150キロで走っていた。12時に締まりかけの家のまん前にあるツタヤに入り、物色したところ試聴に発売されたばかりのビートルズネイキッドがあり、聞き込んでしまった。THE LNOG AND WAINDING ROAD懐かしいとともに新鮮であり、そしてこの曲を初めて聞いた中学生の頃から今まで20年という間、いったい自分は長く険しい道を辿ってきたかという問いに愕然とした。中学生のとき、これからの人生は長く曲がりくねった道を辿っていくんだろうなと思って聞いていたというのに。首を振れ、エグザイル、これからででもこんな道を辿っていくのだと。おっと、閉店、急いで衝動買い。ビートルズで好きな曲に、「ワイルマイギタージェントリーウイープ」がある。ギターはクラプトンだったかな。タイをママチャリで縦断していた頃。まっすぐで照りつける道は退屈なので前かごにバンコク泥棒市で新調したラジカセを積んでいた。ボブデイランやストーンズ、ビートルズ等30本以上のカセットテープと共に旅を続けていた。スコールになれば、ビニール袋を前かごにかけ、後ろ荷物にはレジャーシートを巻きつけていた。おお、While My Guitar Gently Weepsの話であった。何だかこの曲を聴くと、あの激しい雨の中、ボリュームを大にしてペダルを漕ぐ自分を思い出す。名曲だ。
2003.11.17
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今日、スーパーの前でカステラパンダ焼きを売る男性を見ていた。彼は一日中、通行人の有無に関係なく、発声している。そこには寂しさというものは特にないし、仕事の辛さも微塵に出ない。それがプロなのだろう。「全然違いますよ」「さあおいしいですよびっくりしますよ」「勇気を出して食べてください」「本日限りですよ」「できたてですよ」そしてギャグもかかさない「押さないで押さないで~。あっ、誰もいなかった」36歳のその男は、この前までサラリーマン(宅配便運転手)だったらしいがフルコミッションのこの世界に入ってきたばかりとのことだった。場所代や親方に支払う代金や設備費材料費を除いて、日によってかなりの儲けの差があり、やっている時間が長い。食事なしで立ちっぱなしで12時間程度か。ジャワ島中部のウノソボという中都市に滞在していたときのこと。昼間、楽しくしゃべっていたよろず屋掘っ立て小屋(2メートル四方ぐらいの建物の中に駄菓子や日用品の商品がぎっしりはいっている。東南アジアでは味の素やシャンプー等ホテルやレストランのように1回~数回分が切り売りされている。瓶やボトルでは高すぎるから)の気さくな主は、出身はウノソボから遠く離れた所にあるらしい。トイレは裏の民家と契約?していて使わせてもらっているらしい。 夜、私は、そのよろずやの前を通りがかり、掘っ立て小屋の隙間から少し覗いてみた。主が商品にまみれてキョウツケをしたまま眠っていた。翌日聞くと、彼は2メートル四方で生活している。経済的に豊かになってしまうと何のために生きているかついつい考えてしまうよ。
2003.11.16
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かつて・・・空気と水と安全はただの国だった、ほんの10年前。19歳の時初めて水を買った。ペットボトル1986年。私はシンガポールから高速艇で30分程度に位置するインドネシア領のビンタン島にいた。ジャカルタ行きの船は沈没して今は運行されていないというので、唯一のスマトラ島行き、中腹の退屈な町ペカンバル行きのポンポン船に乗ることになった。工程は2泊3日、2日目にはスマトラ島の河に入っていくのでいろんな村で食料が手に入るが、それまでは食料がいるぞ、といわれ雑貨屋でパンや缶詰を買う。そのとき店の主が言った。「おまいさん、水はいりまんがな」(大阪弁ではないインドネシア語を勝手に解釈)とペットボトル入り水を売りつけられた。水を金出して買うことが不満であった。そっごく損した気分で船に乗った。あれから20年弱。いまや水は買うのがあたりまえの国になり浄水器を使う国になった。水道水が飲める国はUSAの一部やニュージーランド等いくつかあるが、いや、そんなことはどうでもいい。http://atom11.phys.ocha.ac.jp/wwatch/intro.html
2003.11.15
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実は、何を隠そう、釜山に行くといっておきながら、本当は、北朝鮮核実験問題早期解決のため、阿部定首相、虱国務長官、胡青島国家主席の特使として、かつての痴情の楽園といわれた国への潜入を謀りに行ったのであった。最近のニュースでは、国家起立が非情に乱れ、軍部に食って掛かるトラックのあんちゃんや、昼間から酔っ払って道端で眠っている兵士や、国家機関紙をキジ紙としてトイレの前で売ったりする映像が流れているが、私の使命は、国家機密であるので、言えないのであるが、金ジョン入るに罪は問わないので、亡命を勧めることであった。いずれにせよ、国家が崩壊しれば、2,300万人の難民が怒涛の如く押し寄せてくるので、韓国としても、シンパシーしながらも、大変びびっているのである。ここは何としても、ソフトランディングしなければ大変なのである。 密かに撮ってきた上部写真によると、国境に数年前に急いで北朝鮮は、建物を作ったのである。勿論、見える建物はハリボテである。人の出入りはなく、双眼鏡で見ると、よほど急いで造ったのか、窓もないとのことである。とりあえず、ソウル駅に着いて、取り急ぎ、夕日に感動するのである。急いで、更に北に向かう為、地下鉄に乗り込むのである。座席までがステンレスヘアラインで、なかなか渋いのである。南大門に到着した頃には、夜中なのである。ボヤボヤしておれないので、まずは腹ごしらえに、南大門市場に向かうのである。遂に国境地帯に伝っていくのである。ここの高速道路は、太陽政策で数年前に出来上がったものであり、私が20年前に板門店に行った頃には当然なかったのである。今は交通量が少ないので、片道2車線であるが、真ん中にグリーンベルトがあり、北とつながれば、おそらく片道5車線ぐらいにはなるのである。しかし、正規なルートで行くと、私も密航できないのである。20年前には北が攻めてくると恐れてこんな道はできなかったはずである。おまけに、最近では国境沿いにポツポツ住宅なんかも建てられていたりもするのである。勿論、ソウルの住宅の半値であり、通勤時間90分を我慢すれば、なーんもない僻地のマイホームパパ一家の城の主になれるのである。おお、何か祈りのはちまき類に阻まれてこれより前に進むことが出来ないハムニダ!昔、朝鮮戦争で、捕虜の交換を行った橋である。韓国では朝鮮戦争を、朝鮮動乱という。何となく、満州戦争を満州事変と呼んでいるのに近い気もするのである。密使で来ている私の先に、観光客が歩いているのも、どうも気に入らないのである。鉄道も、ここから先は北朝鮮行きなのである。鉄橋の向こうは、まだ緩衝地帯であり、まだ韓国なのである。何故、そう分かるかと言えば、緑があるからである。北朝鮮は燃料不足で木を切って薪にするので禿山だらけである。いよいよ写真撮影は禁止である、これからはスパイカメラ(携帯電話のカメラ)を使うことにしよう。その前に、北朝鮮の勉強の為、北朝鮮の飲み物を飲んでおこう。遂に潜入したのであるが、子供にしか相手にしてもらえず、子供も食糧を探しに出かけたのか、全く不在であった。 仕方ないので、「喜び組」に挨拶してすごすごと還ってきた訳である。極秘裏に成功を収めてきたかどうかは、今後のニュースで結果を待つしかないのであった。川の向こうが北朝鮮である。釜山観光案内ハムニダ無事、飛行機に乗り遅れることもなく、韓国は釜山にやってきたムニダ。もう釜山については、プロ級の情報を与えられるに違いないと思うニダ。何せ、今はインタルネットの時代、前日気になり、夜中に目覚め、釜山極悪情報を夜中2時間かけて調査したチュセヨ。おかげで、日本の大阪から韓国の大阪釜山まで、10分程度で着いた様な気がしたムニダ。そんな訳で、このバスに乗った訳ではないのですが、これから後学の為、釜山観光案内をするムニダ。ちなみに、不思議なことに、釜山は実は私の場合、初めてムニダ。まずは、釜山じぇんたいをご覧下さいハセヨ。龍頭山公園のタワーの上から、日本からのフェリーが見えるでごじゃいます。ラブラウンジでごじゃいます。綴りも随分怪しいハムニダ。とにかく、どこへ行くかといわれますと、市場ハセヨ。市場は、何でもあるといわれる国際市場と魚中心のチャガルチ市場と、繁華街の南面市場などが、有名どころでごじゃいます。どんどん、手当たり次第口に掘り込んで下さいムニダ。フラワープも健康志向ムニダ。きっとキムチ良くなるチュセヨ。やはり、わびさびは、裏道にあるハムニダ。ゆっくり歩くと、おばちゃん(オムニ)に手を引っ張られそうになるムニダ。今は、釜山国際映画祭の期間で、とにかく集まっている人が若いムニダ。さて、お待ちかね夜編でごじゃいます。チャガルチ市場周辺をまずはぶらつきも楽しいムニダ。ビールにマッコリ、ショチュ、どんどん飲むチュセヨ。ブラブラ歩いていると、置屋があって、ばばあに引き込まれそうになるチュセヨ。ちょっと、写真を撮るのは難しいムニダ。釜山駅に行ってみると、なかなか寂れている外国人街があり、フィリピン屋台で、サンミゲルビールを飲むのはいかがでしょうハセヨ?でもここで多いのは、ロシア人でごじゃいます。大方は、デブでドハデなロシア人がウロウロしているムニダ。でも、しっかり寂れており、またやり手ババアが寄って来て、私がイルボン(日本人)と分かると、「ジキジキ」といってきて、インドでよく聞かされたえらく懐かしい言葉ですなあと思ったハセヨ。看板はロシア語のオンパレードムニダ。南面エリアは夜中も不夜城状態ムニダ。夜食は屋台でどうじょ。混んでいる店をお勧めするチュセヨ。なんで混んでいるかよく見たら女性が入っていたからに過ぎなかったんですね、チャンチャン。焼酎とアテ3品ぐらいで1,000円ぐらいチュセヨ。もう夜中の3時過ぎたハセヨ。釜山イイトコチュセヨ、今度はオマエも連れてくるよハムニダ。慶州アイゴー慶州は新羅の首都であった。現在の前は、李氏朝鮮であるが、その前が高麗でその前あたりがいろいろあって新羅であったように思う。高句麗や百済、渤海というのもあったなあ。石窟庵と仏国寺は、世界遺産に登録されているが、そんなことより、遠足や修学旅行の子供達でごった返しているのであった。子供達は、それぞれの小さなノートに、説明されている文をメモしていたのが微笑ましい。そういえば、そんな頃も私にもあったような気がする。小学校の修学旅行、伊勢、意味も分からず、事前学習していったような気がする。日本より高いといわれるものは、ゴルフにガソリン、一部不動産のようである。慶州楽しかった?それは分からない。人間ネチョネチョプレイスか大自然が好きな様である。大邱より新幹線でソウルに向かう。いまや、韓国といえば、キムチに焼肉に整形である。韓国といえば整形天国である。街を歩いていても、そんな先入観からか、ほとんどが整形しているのではないかと思って見てしまうのものである。男も就職などで整形するらしい。大統領も整形してるのだ、あいごー。まあ、昔のようなドギツイメイクは見られなくなったが、骨太なのか、何となくお隣の国だが、男女とも体格が違う。性格は、擬似ラテン系である。2×1席であり、飛行機でいえば、ビジネスクラス並であった。
2003.11.14
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インドネシアではバス会社が溢れているのか、バスターミナルでの客引きが激しい。ジャワ中部の町スラバヤからのバスは、バリのデンパサールに早朝7時に着くバスだと客引きに言われ乗ったバスであったのに、フェリーに乗った頃からおかしいとは思っていたが案の定、朝の3時にデンパサールのバスターミナルに停まった。仕方なく屋台で軽くゆで卵とコピ(バリコーヒー。コーヒーが沈殿したら上澄み液を飲む)を飲み、クタ行きベモ(乗り合いタクシー)に乗った。何時に出発するか運転手に聞けば、すぐにいっぱいになるから、それからだ。と言われた。しかし客はこない。よりによってカセットを大音量に鳴らしていて、おまけにテープの聞きすぎで何度もひっかかたり。やっと乗ってきた人らは、バリの軟派師。クタではまず荷物をもったまま海に行った。人はいなかった。サーフィンにいい波が一直線に。明るくなってきた。神々しい。ごろりと横になって、海を見ている。バンコクからバスと船でバリまで来たことを思った。朝もやの中、当分バリにいたいと思った。歩き飯屋が目の前をとおり、ぶっかけごはんを頼んだ。皿はバナナの葉。やがて物売りが増え、クタは俗化していく。やがて観光客も増え、クタは俗化していく。
2003.11.13
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人間の関係って何か、錯覚の連続じゃない?それもちゃんとお互いが錯覚しているなかなか不安定な状態の上で成り立っているよね。幸せとか嬉しいという感覚は別にして、ふと、何故俺はここにいるのだろうとか、何故あんたがここにいるのだろう、って不思議に思う瞬間がある。「だからこれでいいのだ」と文学的に思うことが大切だろうが、たった1回のことで人生棒に振ったり、ツボにはまったり、不公平や不公正に満ち満ちていたり、まあ、それも人生、あっけらかんのカーか。数年前に毛沢東の主治医が書いた暴露本を買って、その夜にあった友達に貸したままになっていた。私は、偉人があまり好きではなかった。しかし、この本が本当なら毛沢東は面白い。本読んでばっかりで、女垂らしで、たいていバスローブ一枚の生活。気ままで夜中の3時や4時に思い付いたら人を呼び出す。虚無的で厭世的である。横暴な自由人。きっと会議とか終わって、すぐ部屋に引きこもりバスローブ一丁になって女の子でも呼んで「馬鹿馬鹿しい」とでもいっていたのではないか。なかなか毛沢東は面白い。学生の頃、「偉人を出してはいけない、偉人は人を殺すからたくさんの人を殺し、たくさんの人を振り回すから」と権力者を忌み嫌っていたんだけどな。藤原新也先生のトルコでの娼婦の言葉を思い出す。「人は肉でしょ、気持ちいっぱいつまってるでしょ」私がアジアをバスで横断してきて、トルコで久々に感動したこと。横断歩道で車が停まってくれて人間(私一人)優先してくれたこと。(エルズルムにて夜)
2003.11.12
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今日、日本テレコムから請求書がきた。8円。どうしたらいいものか。 雨が降って、お店で女性モノの傘を借りたが、柄の曲がり具合がエロチックファンタジックだった。 蚊に刺されやすいのはO型だ。ヒトスジシマカを使って調べた実験では、O、B、AB、Aの順に多く、O型はA型の1.7倍だったとか。 狙われやすい場所というのもあって、まずは足。血液が降りていっているからかというとそうでもなく、寝そべっていても足、手、顔の順。 蚊が1回に吸うことのできる量は、おおよそ自分の体重くらい。ということはアカイエカの場合で2~3ミリグラム。吸ったあとは体重が2倍になるわけで、動きが鈍くなる。叩くとすればそのすきか。 血を吸うのはメス。吸血によって卵巣を発達させ、産卵につなげるわけだ。だから、主食が血ってわけじゃない。花のミツや草の汁。花を吸う蚊って似合わない気はするけれど。 それにしても、どこにいるかわからない蚊の羽音ほど耳障りなものはない。そもそも蚊という漢字自体に飛ぶ音を含んでいる。ブンブン。それにしても、あの文明の利器、「蚊帳」はどこに行ったのだ。あの中に入ると、一種王様の気分になれるのだけど、あるいは竜宮城に監禁された可愛そうな浦島太郎。さて、今年もモスキットアタックの猛攻と勝負する季節突入だぜ。それにしても、軍事費を10%カットしてそれをマラリアに回せばマラリア絶滅させることができるみたいなんだけどねえ。昔ボンベイ(現ムンバイ)から乗ったエアインディアには重そうな蚊が飛んでいた。その力のない飛び方が敗者のダンスみたいで愉快だった。ありがりございます。ゆうとくけどバングラデッシュ空港から首都ダッカに行くまでの道がバングラデッシュの国家予算使って作ってしまったという感じ。(1991)
2003.11.11
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というタイトルで考えていたのですが、長くなりすぎるので今日はやめ。 先日、生まれてから1冊しか本を読んだことがないという人に出会った。それは人それぞれのことだからどうでもいいのだが、私自身に置き換えると、活字のない人生を送っていたらどんなにヒマを感じてしまうことだろうと思う。ぼーっとしている癖にぼぉとしている自分が嫌なんですね。 インド、ベンガル州カルカッタから数時間言った所にあるタゴールの町シャンティニケタンという所に行った。ここにはバウルと呼ばれる唄の芸術集団をはじめ学問芸術に栄えているところだ。そこに信用できるじいちゃんがいた。暫く部屋を空けるのに、そのじいちゃんに留守番を頼んだのだ。彼は仁王立ちで部屋の真ん中に立ち、ニコニコいってらっしゃいポーズをした。4時間後、帰ってきたら彼はまだ同じポーズのままだった。瞑想していたのだろうか?芸術家は違うな、暇の概念が違うな。今日はどんな仕事をしたのであろうか?・・・急に入った仕事……言われてやらされる仕事・・・…ルーチンワーク・・・夢に近づく仕事、自己実現する仕事は?
2003.11.10
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昨晩、香港映画「花様年華」をテレビでやっていて、野球の延長で3時過ぎてから。終わりは5時突破で、睡眠時間にエマージェンシー。今、親友がバリ島招待旅行に行っている。バリの本物は山にあるなんていわれるけど、その山を超え、バリ島北部の一番大きな町シンガラジャ。そこからベモ(乗り合いタクシー)に乗り、数キロで着いたビーチは、火山灰で黒い砂浜で、島の反対側のクタレギアンとは違い、波は穏やかであった。まだその頃は(今は知らない)コテジも数件しかなくどこも満員だった。ある「コテジで最後のコテジが一室あいておりチェックインしようとしていたらアメリカ人が部屋はないかとやってきたので、部屋をシェアしないかもちかけてあげた。彼は是非ということになった。よく考えたらそのアメリカ人の話はどうでもよかった。ここはイルカウォチングとダイビングで有名。ビーチは静かで、現地の子供たちが夕暮れ海岸でサッカーをして遊んでいるのがのんびりした感じ。(今ネット検索したら、随分にぎやかになってるみたい)することといえば、散歩と食事だけ。夜、ビーチから少し入った場所を散歩していたら、草むらからバリ人がぬっと出てきた。私はびっくりしたが、彼は私の顔をみた瞬間に商売人兼人懐っこいガイドになり、明日の夜明け前、シュノーケリングスポットに行こうと手を差し伸べてきた。彼は珊瑚や魚の話を熱心に語り、私は値段の事を熱心に交渉し、シェイクハンド。翌朝を楽しみに待つ・・・(多分、明日に続く)
2003.11.09
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人間は皆、心に傷を負って生きている。子供の頃、まだ心を閉ざすことのできなかった頃に受けた傷。親の足りない愛情、暴力、孤独、四六時中「馬鹿だ間抜けだ」と罵られ。いやたとえ普通の家庭や環境に育っても、解消されることのない心の傷は負っている。その傷は、大人になってからでも思考能力、思考パターン、行動、選択、人間関係、仕事、つまり人生そのものに影響を与えている。理由も分からず落ち込んだり、自虐的行動に走ったり、急にイライラしたり、怯えたり、存在そのものに孤独や切望を感じたりが、それである。人間の一生は、この苦痛に操られたパントマイムであり、この苦痛からの逃避の歴史だ。だから酒煙草ドラッグにおぼれたり、仕事に没頭しすぎたり、壁を作ったり、否定や我慢の人生哲学を生み出し、感情を抑制しながら生きている。感じるということは、その苦痛に触れるということだからだ。そんなもの感じるなら死んだほうがましだ狂ったほうがましだ、そうやって人間は少しずつ感情を押し殺しながら人生を歩み、いつのまにか泣くことも忘れ、腹の底から笑うことも忘れ、優しさや思いやりを忘れ、感動や悦びに鈍くなっていく。人間の本来の姿はもっとのびのびした生き生きとした子供のようなものではないか。今日車でCDを聞いた、ビートルズのホワイトアルバム。私の卒業旅行はボルネオ島であった。オラウータン(森の人という意味)のいるジャングル。私はジャングルで川くだりをしているというのに、まったく人工的なものがないというのに、ヘッドホンの中は、スタジオでしか演奏できない(ライブできない)ホワイトアルバムを聞いていた、音楽はサイケデリックで実験的であるが、やはり音楽は直線だった。自然は太陽等特殊なものを除いて、直線や綺麗な円、幾何学的なものはない。普段都会に住む私は、そんな音楽を聴くことによって均衡を保っていたのかも知れない。
2003.11.08
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夜、ディラーに行った。4万円で直ると信じられていたサイドミラーが73000円。心で泣いて、顔は余裕で、クレジットカードを差し出す。快楽を伴った無駄使いなら多少は許せる、いや大いに許せるとしても、犬死的な無駄な出費はビタ1文出したくはないだろう。誰でも。車の請求書のタイトルが「いたずらによるサイドミラー破損、交換」だ。それに目をやりながら、泣かずに、カードを差し出す。ユウスケサンタマリア似のサービス担当者はカードを見て一瞬びびった様子であったが「一回払いですか」と尋ねてきた。大真面目な顔で「10001回でお願いします」と言ってみた所、ユウスケサンタマリア似のサービス担当者は私の顔を見て一瞬曇った様子であったが「一回払いですね」と再度尋ねてきた。私は、車を転がし、そして、会社帰りの大学の後輩を拾った。車を転がし中、私はわめきにわめいた、訳でもないが「自由からの逃走」Eフロムを唱えるのではなく、生涯にやりたい夢をいくつか語った。1、もう一度チベットに行き、高山病の中、今度は詩を書く詩人になる!2、エーゲ海サントリーニ島かイビサ島の白い家で小説を1篇書き上げる!3、アムステルダムで好きなだけライブハウスや催しものを見学に行く!4、ニアス島でサーフィンを学ぶ!5、アマゾン河、ガンジス河、ナイル河の川下りをする!6、ニューヨークでセカイブラブラ記の個展をする、入場者数人!7、冬のペテルブルグで日本の友達数人とヘベレケになって外に飛び出し寒さのあまり一瞬でシラフに戻る!8、アントワープ郊外でA級ライセンスの試験を受ける!9、ロンドンタクシーで陸路でインドまで行く!10、モデルとつきあう11,12、、、、、と続く。彼は信じていないだろうが、おかまいなし。とりあえず、来年フィリピンに行って感覚を取り戻そう!と言った。これには賛同された。常夏の風の優しい夜に、50メートル程沖合いの材木で組んだ5メートル四方ぐらいの停留しているイカダまで酒とつまみをゴムボートに積んで、漕いで行く。満面星の下、ゆらりゆられながら、気の合う連れたちと、昔みたいに馬鹿みたいにラブ&ピースして、まどろんだ時間を過ごし、語る。酒は進む。そうなったら、きっと私は、また煙草を再会するだろう。そう言って・・・
2003.11.07
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レオナルド・ダ・ッチューノ 作 「>」が左端ですわ。>邸眥寄栲岾濕絛渕徑鋲節槭蜩翻鹽鱧躑輾躑鱧鹽鱧醍讀煙萸渫弄免否笑潸羌帝>尭毋溌溢鵁慂桔牲鈞啻禮闢釀鑒蠱躅蠅蠶躪靂蠅鞴鱧鹽鱧諞断認涕淋恠筑殊促>倖誌怏悦妊児祝俳啝醢軅蠱蟹羇躑鱧躅蠹闢觸靂觸靂蠹韈躅躅悃砿泄淕逑琺癸>淞途依拉紵区店癬蟷蠡圜羈魏羸翻繭鱧躑蠅蠶躪闢觸靂躪闢觸靂騰惇耿兌釆召>攷咲気世洗秋落覊鹽翻讎國義覇圏疆韈醒蠶躪闢觸靂觸靂轆蠶躪靂馳倥洗焚矣>怐弖袢牡來夜鑠韈讎囮迥捗髟侠栓姙釶蜜轢鞴蠅蠶觸靂轆轆觸靂觸蠶帚坂怠貳>活矜况妙住濠醴麺卮勾才儿Ωヰ災中甸逹箪關鑼蠹闢觸轆轆靂觸轆觸雖茉溶包>啖攻中佚桴殱翩奧抔Ζヒゅχで∋辷Н竏鴆暉醵韈蠅蠶轆轆觸靂觸靂觸罫孝玉>怜村沿泊梧翻艤余ゴеスぇクqСゲΒ灯芝徽簾闇躑躪靂觸靂躪靂觸靂靈拶忿>珍及古波軸躑靠泌РUСpеゎづどひ凵殳員軽黶幗韈蠅躅觸靂觸靂轆轆幎切>岱没丱鋒蟹靈茸台дらΡPΤヅ广Ьи行吽呈褄皹孅圜壘躪闢蠅靂轆轆轆酷密>叺本呼搗纒醫澹仔ξ♪N卞Э±кカ什払市良鯲崟厩賺藺闢觸蠶觸轆轆轆躪献>ぬ丈鳫譖鹽覲投ぎす卞グウ≒Nグ‡力仕仗况戎煢薮鰓醫醒醒躪闢觸轆轆靂閾>М宅麈矚輾陲粭叉かギサУ∥≡六ぉか匕お禾功拔寧盧圜蠹蠹靂轆靂觸轆轆圉>巾准腰轎軅罌仙匕ΕЕネΖβやW禾佶未命功形岐販聲鹽觸靂觸靂轆靂觸轆覊>坏鳫鰊鹽鞴薩恬芒浙悛衣今Еき柴頽憲卿敝種載耨麌輌羅靂觸靂觸轆觸靂觸團>埓鬚輌羅壘蠧懶篩乕郡褊珎込偐飃霾肅荼琵贓鹽鱧蟹國蠡蠅靂觸靂轆靂轆靂蠅>烽蹉屬醜躅韈轢躁嫖繭属狙尸綣墨鬟卓腰鱧蠡闔繩窯蜈圈蠹觸闢觸轆轆靂觸蠶>母鄙團翻靂鞭聢渝鬥堽鯰狩今嚆腰培化估緋斐腎仲双宥賺躅靂蠅靂觸轆觸靂觸>廖鰾釀韈觸椢炊正舮懷申谷Ξ駑胄凹并珱筏脊礼打許熾魑闢觸靂觸轆轆靂觸靂>鮭匯轜鞴靂瀾冂ぁΒ⇔从мж魚秧中ひOエπ匸泱溺躾嬲蠅靂躪靂觸轆轆靂觸>朧蝠譁軅觸蟯日爿Åн夲だポ峡泯沿∃ピヱКΦ向旆嫖釀蠶觸闢蠅蠶觸靂觸靂>臟韆韈闡輾躍矜工В九止Σめ捗濛夸びれн儿芥凋偶匯韈觸靂蠅蠶觸闢觸蠶躪>鱧鹽鱧躑軅壘涙й幺め伐今土庇簓忌き父尓共液癌鰭蟶輾靂觸蠶躪靂觸靂觸靂>鹽闡躑鱧靂觸楜矜文礼祉Ц似蟋濔虱ж斤庁究病嚼輌驢蠹觸靂躪靂蠅靂觸靂蠅>鱧躑鞴闢蠅靂蜀耗佑矛卆臥棚韈鱧墟允於咬刺鍾聲靄醴躅靂觸靂蠅蠶觸靂轆靂>輾躅軅蠅蠶觸躡繪吏毛分示蹇屬駟漲熱尿姙旁曉踝蠖圜躅觸靂觸蠶觸靂觸轆觸>鱧醒蠅鹽壘闢鱧霆銃疑游芹絋菖鑠豐鷭哽粘晧錬欝顳繭躪靂觸靂觸靂轆轆轆轆>鹽躅韈闡輾蠅靂畴級拷倉滂黛籍鯖襯誼赦祐硫岫弸鑒鱧闢觸靂觸靂觸靂轆轆觸>釀鹽壘韈觸靂轆鹽戰有冷辺詒詭樋靼樟孤叟駒鵑擱靈躅蠅靂觸靂觸轆轆轆轆靂>轜蠱蠹蠅靂觸轆轆繭狒迚茫抉酊絏熹蓼暗霆膈蠢轢躑醒靂觸靂觸靂轆轆轆轆觸>閻醍鱧蠶觸靂觸靂轆醴奥代Вざ市啾箍崕頼醋藺鹽鞴蠶轆靂轆靂觸靂轆轆轆靂>鋤醍躑躪輾蠅蠶觸轆轆羈島矢注瘁髪蜿麗驢鱧鹽鱧輾觸轆觸轆轆靂觸靂轆靂觸>間轜壘輾蠅蠶躪轆轆轆轆髑董蓑耡邏圏鹽闡躑躅靂觸闢蠅靂觸靂轆靂觸轆轆靂>勸轢壘軅靂觸靂欟躙欟轆轆靂軅鞴蠹躅躅蠹觸靂觸闢軅蠶躪靂觸靂觸轆轆轆觸
2003.11.06
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以前、ピナツボ火山が爆発したとき、普賢岳よりも心配って思ってしまったことがあるけど、知り合いがいるとか何らか関係があるからですよね。やっぱ、隣人を愛するって難しいね。隣人より遠方の貴方を思う。今日、吉野家に行った。年に数回食べたくなる薬物。完璧なまでにクズ肉。砂糖ぶっかけてるのとちゃうかという甘い味。味覚は年と共に変わってくるのであるが、10数年前にラクダ、インドの旅っていうとき、50度を超える灼熱の中で、冷房の効いた吉野家で牛丼を食う姿を想像したら、正直、よだれが出た。砂漠では、30センチ程先からドライヤーを顔に当てられている風が吹いていて、体温より暑いので汗も出ず(出ているがすぐ蒸発する)10メートル歩くのも嫌な状態で、口々に、「よしのや~」「おうしょう~」をただ連発するのみであった。決して、イタリア料理を想起しなかたところが、庶民であり、学生であったなあと思う。日本に帰って何をする?勿論、まずは吉野家に行く、そして王将で餃子を食う、それが答であった若かりし頃であった。多分、今でも、そんな事態に陥れば、変わらないかも知れないな。
2003.11.05
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ネパールの首都カトマンドゥの人通りのある宿の屋上から、よく、夕方、人通りを眺めていた。フト気がつく。男どもがそろいもそろって皆てぶらなのだ。ブラブラしているのである。散歩にはアスファルトは似合わない。散歩には腕時計は似合わない。散歩にはジョギングシューズは似合わない。フリーター200万人引きこもり80万人登校拒否20万人迷子の難民が続出。私を見つけて、探して、と喘いでいる。つくずくこの世はツクリモノだと思う。それが精巧に出来ているか、ちゃちく出来ているかの違いに過ぎない。この世は舞台セットだとつくづく思う。そして、うまく演技のできる人々と、大根役者の方々が混じり交じってら。
2003.11.04
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朝から車のディーラーに行った。簡易見積もりで修理代5万円。この1年でいたずらに20万円くらい払うことになり、割と虚しい。一応応急処置だけしてもらい、車を走らせながら、ちょっとTVを見たら、阪神優勝の御堂筋(かな?)パレードをしていた。そこには障害者のための席が用意されていた。障害者というのは、実は日本は割と多いという話を聞いたことがある。だからべトちゃんドクちゃんはアメリカの最新施設の病院でなく、事例の多い日本の病院にやってきたのだそうだ。何故多いかは分からないが、恐ろしいものをたくさん食べているからだろう。日本程添加物等の規制がゆるい国もないからね。それにしても見ない。隠されているんだろうなまだまだ。スエーデンやデンマークといった北欧に出掛けた時は、年寄りや障害者がやたらめったら外を出歩いている。バスやら公共施設がバリアフリーになっていたりするんですよね。「」
2003.11.03
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今日、車に乗ろうとしたら、悲しいかなサイドミラーがぶち壊されていた。酷い事する奴がいる。去る7月に事故で車を廃車にする半月前にも、駐車場にとめていてパンクさせられ、その半月前にはボディに傷つけられる。その半月前に車検で18万円使ったのに、ボディ傷に7万円、タイヤは1本2万円くらいやったかな?車とはガソリン等以外にもやたら修理費がかかるものである。今日はショックである。話は変わるが、チベットのラサでのホテル。共同トイレに行くと便器の横にくしゃくしゃになった紙が備え付けられていて、ペーパーあるやないかと取り出したら、何とも使用済みの山。どうやら詰まるようなので紙は流さないみたい。自分の尻を見られたり、しているところを見られるよりある意味、凄く汚いものに見える。(韓国もそう、使用済みボックスがある)そういえば日本のトイレは横向きもあるけど、入れば扉に背を向けてしゃがむのが多い。西洋式トイレやアジア(金隠しのないもの)は扉に向かってしゃがむ。何故だろうか。敵が入ってきた時にすぐ戦えるようにというのではないと思うけど、(私はレディファーストはもともと危ない所に女性を先に入れて安全を確認するためが発祥と思う。違うかな騎士道)おそらく、顔は個性、尻は没個性、そのあたりから間違えて扉を開けた時の反応に関係あるのかと思う。おそらく日本人ならばしゃがんでいたところに入られると、尻を見られるより顔を見られるほうが恥ずかしいのではないだろうか。確かに私は居酒屋で男女兼用のトイレで女性が鍵をかけわすれてしゃがんでいるところに踏み込んでしまったことがほんの2回あるが、確かに彼女は「キャー」といったが、顔を見られるより尻をみられるほうがましだったのかも知れない。顔隠して尻隠さずですわ・・・
2003.11.02
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昔々、覚えてないかなあ、米国在住のタイ人がミスユニバースに輝いた年のことを。1988年ぐらいだったんじゃないかな。あのとき、ちょうど2週間ほど、タイのビーチにいて、そんでもって西洋人なんかと暇を持て余していて、テレビに齧り付いていて、「どんな美人なのだあ」と盛り上がってて、そして、生中継でミスユニバースがタイに来て、飛行機から降りた瞬間、我々のテーブルはずっこけた。美の基準って難しいものですねえ。まあ時々西洋人のオリエンタリズムにはまいるけどね。
2003.11.01
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