父の戦争体験談







父から聞いた戦争体験談



父は山口県岩国市の出身で漁師の三男坊

13人兄弟の丁度真ん中で7人目です。


15歳の頃大阪の尼崎へ就職しました。

そこで成人し 22歳の頃召集され、

昭和19年太平洋戦争に行く事と成りました。

(その時勤めていた会社の社長婦人から

成田山のお守りを戴いたそうです。)


そして南方へ連れて行かれたのです

今のインドネシア辺りの基地で次の部隊を待っていた時

奇しくも腸チフスにかかってしまい

連日40度の熱にうなされ基地の療養施設で

病気の治療をしてもらっている間に

一緒に来た部隊の人たちは

もっと先の戦地へと運ばれて行ったそうです・・・

そして一緒に来た戦友達は皆、その戦地で玉砕に合い

全員戦死したそうです。。。




奇しくもと書いた腸チフスが父の命を救ったのです


そして何日か後

腸チフスも治り

次の部隊と今のシンガポールへ向かう途中の事。




一万トンの軍艦に乗っていたそうです

その日は父が食事当番で、

そろそろ食事を取りに船の下へ取りに行こうと

準備を始めた時だった

敵の潜水艦に魚雷を2発打ち込まれたのです

巨大な水しぶきが頭上に2本立ち上がったかと思うと

甲板がグーっと傾き、
並べてある戦闘車やトラックが次々と海に滑り落ち

殆どの人が海に投げ出されたのです



敵の魚雷が後5分遅かったら

父は食事を取りに船の下へ降りていて

助からなかっただろうと言っていました。


(まるで タイタニックの映画の1シーンを見る様な思いです)


そして次の瞬間 船が沈みだしたのです


隊長の指揮で海に飛び込み

船が沈む渦に巻き込まれない様

必死で泳いで船から離れたそうです

そして浮いている木箱などに捕まり

編み上げの靴を脱いだそうです・・・

そして長い時間南方の海に漂っていたそうです・・・


(鮫にもよく出くわさなかったと今考えると怖いです)




何時間も助けが来るのを待っている間にも

約半数の兵隊さんが海に沈んで行ったそうです・・・


父が一番覚えているのは

爆風で体中の皮膚が全てめくれ
手の先から その皮が引っくり返った状態で海に浮いて・・・

ゾンビの様になった人が
「助けてくれ」
と言いながら 何メートルか先で沈んでいくのを


助けたくても助ける事が出来なかった・・・と

涙を流し 言葉を震わせながら

思い出しながら 一生懸命話してくれました。




そして数時間後身方の潜水艦が

やっと助けに来てくれ・・・

残りの助かった 者を全て拾い集め

シンガポールの収容所へと辿り着きました。




程なくして終戦を向かえ約1年

日本人の兵隊さんは皆 戦争犯罪者として捕虜に成ったそうです


そこでも色々辛い事が有ったようですが・・・


暑くて食欲のない時

原住民がバナナやパイナップルを持ってきて

自分達の外米ご飯の食事と よく物々交換してくれ

それがとても口当たりがよく 美味しかったそうです




そして何年か後にやっと日本へ帰る事が出来た時

父は24歳になっていたそうです・・・


日本の千葉へ船が入港し

日本の大地を踏みしめた時改めて生きてると感じたそうです。


そして何時間かを掛けて故郷の山口へ戻ってきた時

その3ヶ月前にお母さん(私のお婆ちゃん)

が亡くなったと聞かされたそうです


一番逢いたかったお袋が死んでた・・・

と、とても悲しそうな顔で 話してくれました


その後何年かして京都で福井県出身の母と御見合い結婚をして

私が生まれたのでした。


私はこんな映画のような体験をしてきて

尚、生きて帰ってきてくれた父が

とても偉大に思います。




今 ラッ君と過ごせる
この幸せを与えてくれた事に感謝しています


戦争とは これ以上無く愚かな事だと思います

絶対に二度と同じ過ちは犯してはいけないのだと

父は今も涙ながらに力説しています。






文章だけのページを 読んで下さってありがとうございました。



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