━ロベール・ブレッソン『やさしい女』



ロベール・ブレッソン 監督作品 『やさしい女 (Une Femme Douce 1969/仏)』



「まなざしは 口にされない言葉である」



質屋に嫁いできた若い女性の不可解な行動を描いた、ドストエフスキーの短編小説の映画化作品。彼女は、夫の熱愛を受け入れながらも、理由もなく自殺してしまう……。
映画をシネマと呼ぶことをブレッソンは否定する。発生の通りにシネマトグラフと呼ぶことに固執し続ける。映画が芝居であることをもブレッソンは拒否する。『抵抗』以来、プロの俳優は基本的には使わない人で、映画に出たことのない新人しか起用しない。そしてそこから密度の濃い崇高な映像の傑作をうみだしてきた孤高の映画作家。ブレッソン初のカラー作品。ドミニク・サンダの映画デビュー作でもある。



「やさしい女」の冒頭、キャメラが最初に映し出すのはドアの把手のクローズアップ。ドアの音、靴音、黒い服を着た太った女中の手が把手を掴む後姿、第二のショットはベランダで大きな音をたてて倒れるテーブル。そして第三のショットは空をひらひらと舞う白い布(ストール)。そして次のショットは、路面に横たわる無惨な女の死体。頭部から赤い血が路面に流れ出ている。冒頭からキャメラは部屋からベランダのテーブルに飛び乗り手すりを越えて飛び降りた女の気配のみを忠実に追っていたことがここで初めて判る。一分のすきもない導入部に震える。
女の死体が部屋に運び込まれている。窓から投身自殺してしまった妻の屍体を前に過去二年間の二人の夫婦生活をふりかえり、妻の不可解な自殺の原因をつきとめようとする夫.....。その回想がこの映画の全て。
一体何が起きたのか?、ブレッソンはすべてを見せず我々の想像力に訴えかける。
その演出に一切の虚飾を廃し、ただ在るがまま事象を積み重ねることに終始し、既成概念の「映画」造りを一切拒否したかのように見える。



『やさしい女 (Une Femme Douce 1969/仏)』

監督 ロベール・ブレッソン
脚本 ロベール・ブレッソン
原作 フョードル・ドストエフスキー
撮影 ギスラン・クロケ
出演 ドミニク・サンダ / ギイ・フライジャン

仏本国でさえも未DVD化。掲載のUSA版VIDEOも廃巻です。しかしながらなんという酷いジャケ!これではまるでアクション映画?!外国の映画ソフトのパッケージ写真のセンスの無さには呆れます。



映画の中で彼女が夫を見るまなざしについて、あなたは彼女のすべての感情の前兆となっていると言われるのですが・・・・・、

「そうですね、あれは空白でしかありません。映像のフラットさが調和して、演技者の動きを用いないで、というのはそれはしばしば邪魔でしかなから、映像自体の内的な関係によって私が私自身を表現できるのです。私にとって映像とはサインにすぎません。たえずひとつの映像の意味が、それに続くもうひとつの映像の意味を変えていく。私は断絶を追及しているのでなく、映画というものの本質である同時性を追求しているのです。ひとつの映像が、他の映像につながったときに価値が得られるものであれば、それはフラットでなければならないのです。」



「まなざしは 口にされない言葉である」



「ブレッソンがつくりだす空間というのは、とても奇妙です。ずいぶん不思議なことをさせられました。たとえば、相手役と話をするとき、彼の目でなく左耳の、それもとても厳密に指示された個所を見るようにと言われたことです。それは私にはとても奇妙な体験でした。けれども、そのうちに少しずつ、ブレッソンが私の表面上のあらゆる反応をできるかぎりとり去って、私の内部からにじみでてくるものをみつけたいのだということがわかってきたのです。」

ヒロイン、ドミニク・サンダは当時16才のファッション・モデルで、非・女優(ノンアクトレス)志向のブレッソンの目にとまり出演した。ドミニク・サンダにとっても、今でも自分の出演した一番好きな映画としてこの「やさしい女」をあげている。「やさしい女」と同じくドストエフスキー原作の「白夜」の主演女優イザベル・ヴェンガルテンはドミニクサンダと同じモデル出身で二人はとても良く似ている。



■ROBERT BRESSON ロベール・ブレッソン■

映画史に屹立する孤高の映画作家ロベール・ブレッソン。音とイメージが作り出す芸術・シネマトグラフ。その後継者として、生涯13本の長編作品を残したロベール・ブレッソン。映画の文法を破棄し映画を解体していながらも、その独特の手とまなざしと物の映画は、文学でも演劇でも絵画でもない「裸の映画」とでもいうような純粋なまでの映画世界に到達していた。



『スリ(1959年)Pickpocket』

1907年9月25日、フランスのブロモン・ラ・モト生まれ。美術学校で絵画を学び画家を目指していたが、20代後半より映画に携わり、シナリオなどを手がけるようになる。1934年には中篇映画「Les Affaires publiques」を発表。
その後、第二次世界大戦に従軍し、1940年から一年半ほどドイツ軍の捕虜となり、収容所生活を送る。
その時に知り合った司教の依頼で、1943年に修道院を舞台にした初の長編映画「罪の天使たち」を発表。フランス・シネマ大賞を獲得し注目される。1945年には「ブローニュの森の貴婦人たち」を撮った。
1949年にはジャン・コクトーらとともに、後の“カイエ・デュ・シネマ”の母体とも言うべき組織“オブジェクティフ49”を創設。真実の映画を追究する自らの作風を“シネマトグラフ”と名付けた。その演出に一切の虚飾を廃し、ただ在るがまま事象を積み重ねることに終始し、既成概念の「映画」造りを一切拒否したかのように見える。しかし、ブレッソンに於いては外的な事柄よりも内的な部分、つまり語られる部分より語られない空白の部分が重要なのである。



『バルタザールどこへ行く(1966年)Au hasard Barthazar』

1950年には「田舎司祭の日記」を発表。ヴェネチア映画祭で監督賞を受賞する。
以後、カンヌ映画祭で監督賞を受賞した「抵抗」、「スリ」、「ジャンヌ・ダルク裁判」、「バルタザールどこへ行く」でその演出スタイルを確立し、遺作となった「ラルジャン」(トルストイ原作)など、傑作を遺した。
一切の抑揚や叙情性を排し、フォルムを重視することで映画本来の魅力を引き出す独特のスタイルは、ヌーヴェル・ヴァーグの監督たちから絶大な支持を得ていたという。”ブレッソニアン”!映画作家ロベール・ブレッソンの信奉者、影響を受けた人をフランスではこう呼ぶという。



1999年12月18日ウール・エ・ロワール県の自宅で老衰の為亡くなった。享年92歳。



◇ロベール・ブレッソン監督作品リスト◇

公共問題(1934年)Les Affairs pubilique
罪の天使たち(1943年)Les Anges du peche
ブーローニュの森の貴婦人たち(1945年)Les Dames du bois de Boulogne
田舎司祭の日記(1951年)Journal d'un cure de campagne
抵抗-死刑囚の日記より(1956年)Un condamne a mort s'est echappe
スリ(1959年)Pickpocket
ジャンヌ・ダルク裁判(1962年)Proces de Jeanne d'arc
バルタザールどこへ行く(1966年)Au hasard Barthazar
少女ムシェット(1967年)Mouchette
やさしい女(1969年)Une femme douce
白夜(1971年)Quatre nuits d'un reveur
湖のランスロ(1974年)Lancelot du Lac
たぶん悪魔が(1977年)Le Daiable probablement
ラルジャン(1983年)L'argent



「映画は撮影された演劇ではないのだ」ロベール・ブレッソン

俳優はなし。(俳優指導はなし).
役割はなし。(役割の研究はなし).
演出はなし。
だが生活のなかでとらえたモデルの使用はある。
見えること(俳優)のかわりに在ること(モデル).
~ブレッソンの著作『シネマトグラフ覚書』(筑摩書房)から。



映画をシネマと呼ぶことをブレッソンは否定する。発生の通りにシネマトグラフと呼ぶことに固執し続ける。映画が芝居であることをもブレッソンは拒否する。『抵抗』以来、プロの俳優は基本的には使わない人で、映画に出たことのない新人しか起用しない。そしてそこから密度の濃い崇高な映像の傑作をうみだしてきた孤高の映画作家。



「私は物の映画と魂の映画をつくるつもりです。ですからひとは本質的に手とまなざしを見るでしょう。私は物のクロウス・アップとまなざしのクロウス・アップのあいだに、不変の平衡をもとめます。私はできるだけ現実につきまとい、なにもあたらしくそれにくわえないつもりです。しかし生活の現実と映画の現実のあいだには、一致したズレがあるでしょう。・・・私は「田舎司祭の日記」の方向にむかって仕事をしています。だがもっと大きな純粋さに、もっと大きな皮剥ぎに到達したいと思います。こんどは一人の職業俳優も使いません。そのほうが私はずっと自由です。」(1956年トリュフォーのインタビュー)



◇ブレッソンの著作『シネマトグラフ覚書』(筑摩書房)から。◇

取るに足らぬ(意味を欠いた)映像の数々に専心すること。

雑音が音楽と化さねばならぬ。

感情が事件を導くべきだ。その逆ではなく。

観念に似た形式(フォルム)。それを真の観念とみなすこと。

互い同士の内的な結合をあらかじめ見越している映像たち。

運動するものの光景は人を幸福にする―馬、運動選手、鳥。

或る芸術が人を強くうつのは、その純粋なフォルムにおいてである。

魚を得るために池を干上がらせること。

そのゆるやかさと静けさが映画館内のゆるやかさや静けさと混同されてしまうような映画は駄目な映画である。

「芸術映画」という内容空疎な観念。芸術映画というのは、芸術をもっとも欠いている代物のことだ。

何一つ変更を加えず、かつすべてが違ったものとなるように。



◇ドミニク・サンダ Dominique Sanda (Dominique Varaigne) ◇


●1951年3月11日、フランス・パリ出身。10代半ばで結婚と離婚を経験。「ヴォーグ」や「グラマー」(モード雑誌)のモデルとして活躍した後、友人にローベル・ブレッソン監督を紹介され、『やさしい女』('68)のヒロイン役に起用される。'76年、『フェラモンティの遺産』でカンヌ映画祭主演女優賞を受賞。出演作は、『暗殺の森』('70)、『悲しみの青春』('71)、『初恋』('71)、『刑事キャレラ10+1の追撃』('72)、『マッキントッシュの男』('73)、『家族の肖像』('74)、『1900年』('76/日本公開は'82年/リバイバル:'93年)、『沈黙の官能』('76/日本公開は'89年)、『世界が燃えつきる日』('77)、『ルー・サロメ善悪の彼岸』('77/日本公開は'85年)、『二人の女』('79/写真A4W「フランス シネマ フェア」'86)、『肉体と財産』('86)、『ムーンリットナイト』('89)、『ラテンアメリカ光と影の詩』('92)など。




『1900年 (1976)』~ドミニク・サンダに捧ぐ! も合わせてご覧ください。



『たぶん悪魔が(1977年)Le Daiable probablement』『湖のランスロ(1974年)Lancelot du Lac』










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