1938年10月16日にドイツのケルンで生まれる/本名=クリスタ・パフゲン。父親は、トルコの血を半分ひいていたそうで、裕福な家庭の出でしたが、戦争でナチスに従事し、頭を負傷、精神障害が原因で軍に射殺されました。 ニコという男名の名前の由来は、友人の映画監督ニコ・パパタキスの名前から取られたという。10代にして既にファッション・モデルとして成功。『ヴォーグ』『エル』のグラビアを飾り、1958年、20歳の時ヴァケーションでローマを訪れた際、友人の知り合いの男優に誘われチネチッタ(イタリアにある巨大な映画撮影所)を訪れ、その際に映画監督のフェデリコ・フェリーニの目に留まり、映画「甘い生活」(1960年作品)に出演。23歳の時『太陽がいっぱい』のロケ現場で出会ったアラン・ドロンとの間に子供をもうけたが、彼女は息子アリのオムツを替えることもせず知人を招いて麻薬打ちまくる生活をしていたという。アラン・ドロンとの間に生まれた息子のアリをアラン・ドロンは、生涯、認知をしようとしませんでした。1965年にはブライアン・ジョーンズと親密な関係になり、そのつてでローリング・ストーンズのマネージャーだったアンドリュー・ローグ・オールドハムのレーベル「イミディエイト」からジミー・ペイジのプロデュースによるシングル「I’m Not Saying/The Last Mile」でに歌手としてデビュー。このシングルは全く売れず、そのためか、この後、ニコは、役者の勉強をするために、ニューヨークに渡りました。そして、ニューヨークで、ボブ・ディランらと交流を持つようになり、ディランの紹介により、アンディ・ウォーホルのファクトリー周辺に身を置くようになりました。『太陽がいっぱい』のロケ現場で出会ったアラン・ドロンとの間に子供をもうけ、アーティストへと転身。アンディ・ウォーホルに見いだされ『ザ・チェルシー・ガールズ』に出演し、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドに参加しルー・リードと出会い、ドアーズのジム・モリソンと出会い「ジ・エンド」を歌い、フィリップ・ガレルの映画に出演したニコ。ヴェルヴェット・アンダーグラウンド脱退後はソロ・シンガーとして、ジョン・ケイルやイギー・ポップとのコラボレーションを発表。70年代の初めフランスに定住し「マグマ」などフランスのロック・グループとともに活躍していた。まさに波乱の人生。1986年4月には初来日を果たしています。来日公演 時のインタビューの中で、彼女は、初めてLSDを教わったのは、ブライアン・ジョーンズだということなどを語っていました。