一般的に「即」という言葉は、すぐにただちにという意味があります。
それから拡大解釈されて、「とりもなおさず、つまり、すなわち、言い換えると」という意味を持つようになりました。
しかし普通煩悩で苦しんでいる状態がすなわち解脱といわれてもよく分かりません。全く正反対のことなのにどうして同じことだと言えるのかと反発してしまいます。
ここで「即」という言葉のかわりに、 「反抗しないでものそのものになりきることができれば」
という言葉に置き換えてみませんか。
煩悩 そのものになりきれば
菩提となる。煩悩に なりきれば
涅槃となる。
煩悩に なりきれば
解脱できる。雑念に なりきれば
無想となる。
矛盾に なりきれば
統一である。諸行無常に なりきれば
安心立命となる。
強迫観念に なりきれば
安楽となる。耳鳴に なりきれば
無声である。
病気に なりきれば
未症となります。
これだとなるほどそういうことだったのかと思えませんでしょうか。
神経症で苦しんでいる人は、不安、苦しみ、雑念、矛盾、不安定、耳鳴り、病気などをあってはならないものと思っています。
そしてそれらは取り除くことが可能であると思っています。
そのままにしておくと苦しいので取り除くために様々にはからいを始めます。
森田理論学習によって、不安や不快な感情は自然現象であり自由にコントロールできるものではない。
また神経症的な不安は欲望があるから湧き上がってくるものであると学びました。
「ものそのものになりきる」というのは、例えば自分の乗っている電車と並行して走っている電車が同じスピードの場合、高速で走行しているにもかかわらず、さも動いていないように感じることがあります。この現象とよく似ています。
「病気即未病」とは、実際にはガンや難病で苦しんでいても、できるだけ健康な人と同じように日常茶飯事をこなしていけば、病気ではあっても、精神的には健康的であると言えます。
「耳鳴即無声」とは、不快な耳鳴りを我慢しながら、日常生活を進めていけば、いつの間にか耳鳴りのことが気にならなくなります。
雑念にしても、強迫観念にしても、それを目の敵にして戦いを挑んでいると、症状としてはどんどん悪化してきます。
強迫観念と一体化して、苦しいときにそのまま苦しむことができるようになると、強迫観念とは手が切れます。
そして、目の前の仕事や日常茶飯事に手を出していけば、煩悩、雑念、耳鳴りなどは実際にあっても生活するうえで支障はなくなります。
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