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「かくあるべし」を減らして、事実本位に近づくために、言葉使いを意識して変えていくという方法があります。とっさの時に対応できるように、普段から訓練しておくことが有効です。まず、「でも」「しかし」という言葉を頻繁に使う人がいます。この言葉を使う人は、相手の話を途中で打ち切って、自分の考えや気持ちや要求を相手に飲ませるという方向に向いています。相手は話半分で消化不良を起こします。さらに、相手が自分を意のままにコントロールしようとしているのが分かりますので、その態度に敵対するようになります。森田では「傾聴」「受容」「共感」を大切にしています。この言葉を連発している人の周りには人が近づかなくなります。注意したいものです。相手の考え、やり方が自分の思っていたことと違う場合、「それは違います。間違いです」と相手を否定することが多いと思います。そのとき、「その考え方ややり方は面白い」という言葉に変えてしまうのです。機械的に使うようにするのです。習慣化するとよいと思います。「面白い」という言葉は、相手を否定していません。でも積極的に同意している言葉ではありません。相手にとっては、自分を認めてもらったという気持ちになります。相手の話がまるっきり違うと思った時は、「面白い、あともう少し変化したバージョンははないかな」というようにしたらどうでしょうか。相手に伝えたいメッセージは、「間違っている、箸にも棒にもかからない、このままではダメ、考え直しなさい」ということなのですが、相手への伝わり方、相手の受け止め方が全く違います。もう一つの言葉を紹介します。相手がこちらが考えている水準からはるか低水準なことしかしていない場合。例えば、仕事にしても、やるにはやっているが、おざなりである。部屋の掃除をさせると、中途半端で止めてしまう。勉強を始めてもすぐに止めてしまう。頼みごとをしても、依頼した以上のことをやろうとしない。こんな時「ダメじゃないの。やる気がないんだね」「自分でやった方がましだわ」「依頼した私がバカだったわ」これでは、相手を非難、否定、バカにしていますね。相手はいやいやながらもいったんは行動したわけです。何もしないでごろごろしているよりはましなわけです。そこに着目すると、「惜しいね」という言葉が効果を発揮します。相手にとっては、自分の行動を全面否定されたわけではありません。2割か3割はできている。そこは認められたという気持ちになれます。非難や否定されると、もう二度とやるものかという気持ちになります。惜しいといわれると、気持ちが離れていきません。5割か6割の出来にして、相手の期待に応えたいという気持ちにつながるチャンスが出てきます。あるいは期待以上に頑張るかもしれません。相手を生の欲望に突き進ませる魔法の言葉になるのです。この言葉も、こういう場面が訪れたときは、この言葉を使うという準備ができていないとなかなか出てくるものではありません。習慣化しておくことが大切になります。「その考え方は面白いね」「惜しいね」という言葉づかいを身につけた人は、人間関係がよくなります。使わない手はないと思います。また「かくあるべし」から、「事実本位」の態度を推し進める言葉でもあります。これ以外にも魔法の言葉がいくつかあります。明日ご紹介いたします。
2021.07.21
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「存在していて当たり前」「持っていて当たり前」「居て当たり前」「やってもらって当たり前」「問題がないのが当たり前」ということの中に、感謝や価値を見つけることが苦手な人が多いように思います。たとえば家族がいて当たり前、自分の世話をしてくれて当たり前、友人がいて当たり前、好きな食べ物を腹いっぱい食べられるのが当たり前、仕事があって当たり前、経済的に何不自由がない生活が当たり前、自動車があって当たり前、クーラーがあって当たり前、仕事があって当たり前、ノルマが達成されて当たり前、人間関係が良好であるのが当たり前。健康であるのが当たり前、安全に暮らせることが当たり前。当たり前ということが習慣になると、なかなか感謝の念は持てません。当たり前の中にことさら価値を見出す必要はなくなります。これらは、自由に手に入る空気や食べ物のようなものになるからです。普段の生活の中では、そこに注意や意識を払うことがなくなってしまうのです。それよりは、欲しいのに手に入らないもの手に入れる。問題のある現実を解消する。幸福感をさらに高めることなどを追い求めて、さらに「当たり前」のことを増やそうとしています。そうこうしているうちに、今まで「当たり前」と思っていたことに問題が発生することがあります。勝って当たり前という相手に、思わぬ不覚を取るようなものです。今まで「当たり前」と思っていたことには、注意や意識が向けられることがなかったわけですから、精神的にはかなり混乱することになります。これは今まで「当たり前」のことに光を当てずに、軽率に取り扱ってきたつけが回ってきたと考えてはどうでしょうか。森田理論は生の欲望を発揮して生きていくことが、人間本来の生き方ですよと教えてくれました。そのことに異論はありません。そのスタンスを維持することが肝心です。しかしザルで水を掬うようなことをすると、決して幸せは近づいてこないと思います。何を言いたいかと言いますと、普段から「当たり前」のことに感謝して、評価することに注意や意識を向けていきませんかということです。自分が今現在生きているということ、自分が持っているもの、恵まれた生活環境、居心地の良い人間関係に「ありがたい」と感謝することを、いつも忘れないようにすることです。ないものねだりばかりではなく、今存在しているもの、持っているものに光を当てることです。朝晩、仏壇に手を合わせている方もおられるでしょう。そこでは先祖様に感謝の念を言葉にして伝えています。食事をする前には、手を合わせて、食べられることに感謝している人もいます。この種の行動は、自然に感謝の気持ちが湧き上がってきますね。「当たり前」のこととして、今まで見向きをしなかったことをできるだけ書き出してみることをお勧めします。そこに大きな光を当てるのです。10個も20個も見つかると思います。日記を書いている人なら、今日の出来事の中から、「当たり前に感謝」を込めて、毎日3つずつ日記に書きだしてみるのです。これを最低1か月間続ける。感謝探しは、小さな幸せのかけらを見つけることになります。考えただけでも幸せになれるような気がしませんか。それは感謝探しは、「かくあるべし」のつけ入るスキがなくなるからだと思います。さらにこの手法を人間関係に応用していくのです。他人が自分にしてくれた「当たり前」と思っていたことに、感謝の言葉でお返しするのです。「ありがとうございます」という言葉を使うようにするのです。「申し訳けありません」「すみません」が口癖の人は、早速「どうもありがとうございます」に切り替えましょう。そういう気持ちを持っている人に、他人は安心して近づいてきます。
2021.07.08
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宇野千代さんのお話です。ある作家の話であるが、その作家は結婚披露の席上でテーブルスピーチを求められると、好んでこういう話をする。今日から新婚生活に入られるお二人に、私はこういうアドバイスをします。それは二人とも、仲の良いときばかりではない。けんかをするときもある。そのけんかのときに、腹が立ったら、相手をひっかいても、ぶんなぐってもかまわないが、決して言葉でもって、お前の顔はなんだ、サルが怒ったときみたいだぞ、とか、あなたは無類のけちんぼだとか、薄情者だとか、口がさけてもそんなことを言ってはなりません。打たれて痛かったことは忘れても、言葉で言われた痛烈なことは頭の中に刻み込まれて決して忘れることはないからです。(行動することが生きることである 宇野千代 集英社文庫)相手から受けた暴力は時が忘れさせてくれます。ところが相手から受けた言葉の暴力はいつまで経ってもなくなることはありません。心の中でいつまでもめらめらとくすぶっているのです。私も以前生活の発見会活動の中で、先輩会員から受けた人間性を否定する言葉は、今でも忘れることはできません。その方は、今では、他の人からは神様のように尊敬されている方ですが、私の心の中にはいつまでも怨念が渦巻いているのです。もっとも私も、「かくあるべし」を振りまいて、他人を非難、否定してきましたので、自分では気がつかないが、他人を生涯にわたって苦しめているのではないかと思います。自覚がないというのが実に恐ろしいことです。過去のことはもはや取り消せないわけですから、それ以上のことをしてなんとか返済しなければなりません。そう考えて、人の役に立つことを見つけるようにしているのです。結婚する前は、誰でも、努力して、相手の機嫌を取ることばかりをしています。プレゼントや暖かい言葉を投げかけます。必要以上にしている人が多い。ところが、結婚したとたん、釣り上げた魚にエサはやらないといった態度で、手のひらを逆さにしたように、相手のことを叱責、非難、否定してしまう人がいます。相手を無視するのはさらに悪い。DVというのは最たるものでしょうね。結婚する前は、ことさら相手の機嫌を取ることをしなくてもよい。極端なことを言えば、けんかを売るようなことをしてもよい。これはあくまでも結婚する前のことです。しかし、いったん結婚したからには、そのやり方は捨てる必要がある。結婚してからは、誕生日のプレゼントを欠かさない。母の日、父の日のプレゼントを用意する。相手のことを思いやり、暖かい言葉をかける。困っているときは相談に乗る。大変な時には助けに入る。結婚には、もともとそういう努力義務が課せられているのです。努力義務を放棄することは許されるものではないと心得るべきです。そうはいっても自己主張の塊のような夫婦が一緒に生活するわけですから、波風が立たないわけがありません。けんかの種はそこら中に転がっています。相手がおならをしただけでも許せない。せんべいや漬物を音を立てて食べるのが許せない。などなど。それを防ぐためには、結婚する前にお互いが衝突した場合は、話し合いによって解決するという約束を文章にして署名捺印しておくことです。クリナップ契約のことです。けんかばかりする夫婦は、それを額に入れて居間に飾っておくことです。結婚とはひたすら妥協を求めての交渉を繰り返すことなのです。その交渉が嫌だという人は、もともと結婚する資格がないということです。そういうことを続けていると、雨降って地が固まるようになるのです。そして私の人生はこの人でよかったのだという気持ちが生まれてくるのです。そして自分の人生を優雅に彩ってくれた配偶者に感謝できるようになります。相手に「かくあるべし」を押し付けることが習慣化している人は、自分にも「かくあるべし」を押し付けている人です。自己肯定感が持てないという原因は、ここにあります。まるごとの自分、現実の自分を認めることができないで、自分に対して喧嘩を売ることばかりしているのですから、自業自得ですね。これを改めるには、まず夫婦の人間関係を改善することです。それは子供の精神的な成長に、とても良い影響を与えるはずです。
2021.07.04
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西村貴好さんのお話です。人は、悲しいことが起きたとき、苦しいときが起きたときに本当の悲しみや苦しみを感じるのではありません。自分に悲しいことや辛いことが起きたときに、自分の悲しみや苦しみ、辛さに共鳴してくれる人がひとりもいないと感じる時に、本当の悲しみや苦しみ、あるいは辛さを感じるのです。あなたも、誰かから相談事を受け、その問題を解決したり、悲しみや辛さを取り除くことができないこともあると思います。そんなとき、相手の問題を解決することができなかったとしても、相手の悲しみや苦しみの感情に共感を寄せてあげることはできる。共感を伝えてあげるだけで、相手の悲しみや苦しみがぐっと和らぐのです。むしろ問題を解決すること以上に共感を伝えることで救われることがあるかもしれません。(ほめ下手だから上手くいく 西村貴好 株式会社ユサブル 140ページ)カーネギーは人を動かすという本の中で、「盗人にも5分の理を認めよ」と言っています。相手を非難、中傷したくなった時は、その前にしなければならないことがあります。相手の考えや行動を理解しようと努めることです。これが優先されるべきです。でもよく目にすることは、そのプロセスを飛ばして、是非善悪の価値判断をしてしまう。それが適切で非の打ちどころのない普遍的な考え方だと思い込んでしまう。それを駆使して、有無を言わせないで、相手を追い込んでしまう。これは、共感や受容とは真反対の態度です。人間関係を簡単に破壊に導きます。こういう人は、その矛先を自分に対しても向けていますので、二重の苦しみを抱えているはずです。この態度を改めないと、神経症から解放されることはないと思います。共感するというのは、観念優先の態度を抑制して、相手の考えや行動に寄り添うという努力を意識的に行うということです。この努力はエネルギーを使います。観念優先に凝り固まっている人は、相当なエネルギーが必要になります。この実践は、とりもなおさず、「かくあるべし」を抑制して、事実に寄り添う態度を身につけることにつながります。森田が目指している方向と一致しています。傾聴力、共感力、受容力を身につける努力は、「かくあるべし」を抑制して、事実本位に近づくための手段となるのです。集談会では意識してそのことに取り組まれていると思います。集談会で難なくできるようになると、はじめて社会生活の場で応用可能となるのです。集談会でみんなで切磋琢磨しながら、是非習得に向けて頑張ってみてください。
2021.06.28
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望月康彦さんのお話です。私は蜂を手で掴まえられるんです。掴まえ方のコツがあって、ギュッと掴んでしまうと、間違えなく刺されます。蜂が身のキケンを察知するからです。しかし、包み込むようにやさしく自然に、蜂の方から手にたかるようにしてあげると刺されません。そうすれば蜂は、私の手を敵だとは認知しないからです。たとえ、皆が嫌う蜂であっても、敵意をむき出しにさせなければただの虫なんです。この技を、人間関係にも応用することができたのです。嫌いな人、苦手な人を、好きになることは、非常に難しいことです。だから、無理に好きにならなくてもいいんです。ただし、敵として思わないことです。自分の方から、心の中で相手に敵対心を向けると、相手もそれを察知し、そこから摩擦や苦しみが生じてしまうのです。自分と合わないからといって、敵になる必要はないのです。肯定できなくても、否定しないことですね。相手を否定すればするほど、それが苦しみへと変わります。(「どうせ自分なんか」から「こんな自分でも」へ 望月泰彦 太陽出版 35ページ)嫌いな人や苦手な人がいると、態度に現わす人が多いようです。「私はあなたのことが嫌いです」から、私に近づかないでください。目を吊り上げ、しわを寄せて、ムカデやゴキブリを見つけたときのような、険悪な表情になります。そして敵対心を持つようになります。そして、暴言を吐く、実力行使に訴えたりします。まわりにいる人は、幼児が駄々をこねているように見えます。これに対して相手もすぐに敏感に対応します。こうして最後には犬猿の仲となるのです。こういう人間関係に陥ると、いつ相手と戦闘状態に入るか分からないので、いつでもスクランブル発進できるように緊張感を高めることになります。エネルギーの無駄遣いをせざるを得ないということです。やりたいことややらなければならないことがあっても、注意や意識の大半がそちらのほうに向けられているので、気もそぞろになってしまいます。森田では、嫌いな人や苦手な人とどう付き合うことを勧めているのか。ずばり不即不離の人間関係でしたね。嫌いな人や苦手な人に対して、自分を叱咤激励して近づいてはいけませんと言っています。最低限の人間関係を維持しているだけでよい。あいさつ程度でよいということです。さらに、相手のことをこき下ろすような言動は厳に慎む必要があります。嫌いだという態度や悪口、批判する言葉はぐっと我慢することです。役者は嫌なことがあっても、演技の最中はそんなことを態度に出す人はいませんね。役者の演技力を参考にすることです。少し、距離を開けて遠巻きに眺めているだけにする。無視、無関心というのは、相手を攻撃していることと同じことですから、慎む必要があります。そして時間の経過をひたすら待つという戦略です。時間と場面が変化すれば、それに対応して感情も変化してくるというのが森田理論です。森田理論では、人間関係はあまり親密でベタベタという関係はよろしくないといいます。そういう人は、反対に嫌いな人は全く寄せ付けないという態度になりやすいのです。広く浅く、必要な時に必要な人間関係を構築するのが基本だといわれています。イメージとしては、集談会、仕事、家族、親族、趣味、習い事、学習、同級生、OB会、ボランティア、町内会、地域社会など幅広い人間関係作りを普段から心掛けておくことです。さわやかでさらりとした人間関係を心掛けることで、嫌な人や苦手な人に過度にとらわれることはなくなっていくはずです。嫌な人や苦手な人は、いつの間にか自然に人間関係が途絶えてくるという運命にあるのです。付き合い方が間違っているから、自分で苦しみを作り出しているのです。さらに相手を巻き込んで二重の苦しみを作り出しています。
2021.06.11
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堀江貴文さんが、こんな質問を受けたそうだ。「私は営業力しか自信がありません。他のスキルがまったくないまま起業してしまいました。どうしたらビジネスを軌道に乗せられるでしょうか」堀江さんは、「優秀な技術者と組めばいい」と回答した。今から新たに「努力して新しい能力を身につける」なんて、遠回り過ぎる。それより誰かに頼って仲間を作ることを考えた方がよい。誰もが、自分の「よい面」をうまく使う。言い換えれば、「得意なこと」「自分の強み」だけを活かすように考える。そのために有効なのは、「他人のよい面だけを見る」ことです。人間はよい面と悪い面の両方を持っている。悪い面に焦点を当てていると、他人と親しくなれない。仕事も進まない。いちいち傷ついていたら、何も進まない。だから、人の「悪い面」を見てしまっても、「そういうものさ」と軽く受け流す。人の「いい面」だけを見ていたほうが生きやすい。人間は助けられたり、助けたりの相互関係で成り立っている。人の価値は、「いざというときに頼れる人の数」で決まる。(炎上される者になれ 堀江貴文 ポプラ新書参照)メンタルヘルス岡本記念財団の元理事長岡本常男さんは次のように話されている。人を使う立場にある人は部下の長所を伸ばすように指導することが肝要だ。ドラッガーは、管理者にとってもっともたいせつなのは品性を身につけることだといっている。すなわち部下の欠点ばかりを責めたてて、罵倒するのは品性にかける行為である。部下の長所を見つけて、育てあげるのが品性というものであり、管理者の最大の義務であると言っている。(自分に克つ生き方 岡本常男 ごま書房 160ページより引用)神経質者は放っておくと、相手の悪い面、欠点、弱み、問題点に目が行ってしまう。それを口に出して相手のことを非難、否定、軽蔑する人が後を絶たない。相手はよい面、長所、強み、夢や希望も持っているのだが、そこに光を当てて誉める、評価する、持ち上げるということに無頓着な人が多い。これは別に神経質者だけではなく、多くの人が持っている傾向です。どうして険悪な人間関係に発展することが分かっているのに、止めようとしないのでしょうか。相手の悪いところは見て見ぬふりをする。良い点に焦点を当てて、これをクローズアップして評価する習慣を持っている人はそういう意識をもって生活している人だと思います。これは誰もが身につけたいと思ってもなかなか獲得出来ないものです。その能力を身に着けている人は、相手のよい面と悪い面の両方をバランスよく見ようとしている。バランスをとるためには、悪い方には目をつぶり、よい面ばかりを見る習慣を作らないとバランスは維持できないということがよく分かっている人です。悪い点を口に出しそうになった時、抑止力が働くような能力を身に着けているのです。森田理論はバランスをことさら重視している理論です。これを対人関係に応用していくと、目についた相手の悪いところは目をつぶり、ちょっとしたよいところは実態以上に高評価するということを実践することなのです。
2021.05.28
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相手を非難し否定することが習慣になってしまっている人がいます。旦那の言うこと、なすことのすべてが気に入らない。奥さんの言うこと、なすことのすべてが気に入らない。子供の言うこと、なすことのすべてが気に入らない。親の言うこと、なすことのすべてが気に入らない。他人の言うこと、なすことのすべてが気に入らない。叱責、批判、否定、無視、からかい、侮辱、拒絶、激怒、憤慨、攻撃を生活信条として押し出しながら生活している人です。こういう人は、他人と常に対立して戦闘状態に入り、自己防衛に最大限のエネルギーを投入しなければなりません。無駄でむなしいことに取り組む人生にどんな価値があるのでしょうか。まちがいなく、自他ともに苦しい生活を余儀なくされます。でも分かっていてもやめられない。それはなぜなのでしょうか。私は太古から人間に引き継がれてきた本能の仕業だと思っています。アフリカの東海岸に人間のルーツはあるといわれますが、サバンナの中で肉食獣から身を守ることは大変なことだったのです。絶えず近くに肉食獣がいないかどうか、神経を研ぎ澄ましておく必要がありました。万が一危険な目に遭った時は、一目散に逃げる。木の上に逃げる。武器を持って戦う。仲間と一緒になって追い払う。逃げる、攻撃することで、初めて生き延びることが保証されてきたのです。周りは敵だらけだと思っている人の方が延命できたということです。相手を無条件に信頼し、好意を寄せることは自殺行為に等しいということです。そのDNAが脈々と人間の本能として受け継がれてきていると理解すれば、なぜ他人を見れば非難や否定したくなるのかが分かるような気がします。人間はもともとそういう特徴を持った生き物であると認めることが肝心だと思います。そういう特徴は、性格と同じようなもので、いくら無くしてしまいたいと思っても無理だと思います。叱責、批判、否定、無視、からかい、侮辱、拒絶、激怒、憤慨、攻撃を生活信条として生きている自分を受けいれるしかないと思います。しかしそれだけでは、高度な大脳を持った人間としては、芸がないと思います。また、その生活態度は森田理論で考えてみると、きわめてバランスが悪いと思います。バランスを失うと、その存在すら危うくなるというのが森田理論の考え方です。それは不安と欲望の調和、精神拮抗作用、不即不離の学習の中で学びました。このバランス感覚を人間関係に応用するためにはどうすればよいのか。批判や否定の反対は、相手のことを認めて受け入れるということです。相手の言動を認めて受け入れる。評価する。誉めてあげる。相手が「当たり前」と思っているような発言や行動に価値を感じて、感謝の言葉とともに伝える。その方にほとんどのエネルギーを投入するといういき込みで取り組む。地道な普段の行動の積み重ねが肝心です。とりあえず、これを夫婦や子供や親に対して取り組んでみませんか。それで少しずつバランスが取れてくるようになる。相手との信頼関係が生まれてくる。信頼関係がない状態で、非難や否定だけを前面に押し出す態度は、人間としてはとても未熟な人だと判断せざるを得ません。こうした信頼関係ができた人に対して、たまには叱責、非難、否定することは許されると思います。それが人間の本能なのですから。でも、信頼関係が全くない人に対して、叱責、非難、否定する言葉を発することは、決して許されることではないと思います。これはどんな状況においてもそうです。いつも自分の存在を認めて、評価してくれている人から、たまに叱責されても、それは私のことを思ってくれての言葉だと受け取れるようになります。人間関係にバランス感覚を応用している人は、問題あるときは、躊躇なく叱責、非難、否定できるようになります。自由自在です。自由人として生きていくことが可能になります。あえて苦言を呈することで、相手の信頼感は、さらに尊敬や畏敬の念に昇華されていくのです。
2021.05.24
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好きの反対語は嫌いです。肯定の反対語は否定です。相手のことを、嫌い、虫が好かない、非難、否定していると対立します。負けないように対抗しますので、ますます人間関係は悪くなります。そこに常にエネルギーを集中させていますので、目の前のなすべき仕事や家事などが雑になります。では「愛」の反対語は何でしょうか。嫌いではありません。「愛」というのは無条件に好きということです。尊敬しているということです。相手のことがいとおしい、かけがいのない人として心の底から思っている。貴重品を扱うように丁寧に大切に接しています。「愛」の反対語は、ずばり「無視」だそうです。「嫌い」には、まだその上があって、それが「無視」するということなのです。嫌いというのは、険悪ではありますが、まだ相手との人間関係があります。誤解が解け、人間関係が修正できるとまた交流できるようになる可能性を秘めています。太平洋戦争で日本とアメリカは敵同士で殺し合いをしていました。ところが今は唯一無二の同盟国といった関係です。男女の関係でも、あんなに犬猿の仲だったような人が、いつの間にか結婚したという光景を何度か見てきました。どこで和解したのでしょうか。不思議なことがあるものです。「嫌い」というのは、現在両者の間に、埋めることのできない大きな溝があるということだと思います。その溝を埋めることができれば、むしろかけがいのない仲間・伴侶として助け合う関係に変化していくのです。そういう人の方がむしろ固い絆で結ばれている。それは相手の欠点や弱点、主張をあるがままに認めて、受け入れることができたということです。こういう方向に向かうほうが望ましいと思います。そのためには、関係修復に向かって努力する態度がもとめられます。新たな人間関係を構築するという気持ちが大切です。しかし「嫌い」という考えにとらわれてしまうと、相手のことを徹底的に「無視」するという方向になることもあります。神経質者が選ぶのはむしろこちらの方が多いと思います。溝を埋めて、問題を解決し、妥協点を探していこうと努力する道よりも、相手を無視、排除する方が楽ができるからです。エネルギーの消耗を防ぐことができるのです。しかし非難や否定、無視を繰り返していては、永遠に険悪な人間関係は好転しません。無視するというのは、相手からできるだけ離れる、顔を背けるということですから、相手も同様の対抗手段を行使します。そして自己防衛に多くのエネルギーを投入しないと、不意に攻撃されて息の根を止められることになりかねませんので常時緊張・戦闘状態になります。すると、目の前のなすべきことがお留守になるという悪循環が始まるのです。無視するという人間関係がいったん発生するとあらゆる面に波及します。会社や友達関係だけではありません。たとえば家族の人間関係です。配偶者とは食事も別々、洗濯も別々。居間に集まらず個室で過ごす。当然寝室も別々。なかには配偶者が寝静まった後に帰宅し、起きてくる前に家を出るという人もいます。一つ屋根の下で暮らす意味がないという状態です。子供とは没交渉。子どもは心の安全基地を失って、他人が信頼できなくなります。子供を巻き込んで不幸の再生産をしているのです。森田理論でいう人間関係の原則は、「不即不離」です。引っ付きすぎず、離れすぎず、バランスをとっていく。必要に応じて必要な人間関係を、時と場所に応じて使い分けていく。濃密な人間関係ではなく、薄くて広範な人間関係を築いていくということです。無視するという態度は、最初から人を避けていることですから、「不即不離」の人間関係を構築するという出発点に立つことができない。天涯孤独に生きていくことを宣言しているようなものですから、じり貧で後悔の多い人生が口を開けて待っているということになります。そういう意味では嫌いという態度に戻って、お互いの溝を修復していくという段階に戻すことが必要になります。
2021.05.23
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「7つの習慣」の習慣の6つ目に「相乗効果を与える」というのがあります。これは人間関係で、1プラス1が2ではなく、3にも4にもなる結果をもたらすかかわり方のことを言います。プラスのシナジー効果が生まれるようなかかわり方、好影響を与える関係性のことを言います。そんな人間関係を築くためのヒントを考えてみたいと思います。植物の世界では共栄作物というのがあります。たとえばアブラナ科(ハクサイ、キャベツなど)の野菜を連作するとネコブ病菌が増殖します。ところが連作を止めて、アブラナ科以外の野菜であるネギなどを植えるとネコブ病菌は死滅することが分かっています。この2つの野菜を交互に植えることによって、病気を防ぎ合っているのです。クロールピクリンなどで土壌消毒を行なう必要はなくなります。双方が協力して病気にかかりにくい土壌環境を作り上げているのです。こういうかかわり方は素敵ですね。お互いの特徴を活かして、好影響を与えているのですから。人間関係においても、プラスの波及効果をもたらすことが可能です。私の場合を振り返ってみると、興味をもって挑戦したことは、すべて他の人から影響を受けています。テニス、スキー、チヌ釣り、加工食品作り、自家用野菜つくり、国家資格試験への挑戦、トライアスロン、沢登り、カラオケ、国内旅行、海外旅行、温泉巡り、グルメ、読書、ブログ、楽器演奏、コンサート、一人一芸、ホームページ制作、パワーポイントの活用術、株式投資、競馬、麻雀など。私は執着性が強いので、やり始めるととことんまでやり続けるという傾向があります。気づいてみると、影響を受けた人は、とっくに止めているのに、私だけがとりこになっていたというものもあります。それが神経症の克服に大いに役立っていたのです。生き方の面では生活の発見会の集談会、支部活動などで知り合った人から好影響を受けました。仕事で行き詰った時、精神的に落ち込んだ時、真っ先に相談したのは、気心の知れた集談会や支部の仲間たちでした。私は、安心できる心の寄港地、母港を持っていたので、なんとか荒波を乗り越えることができたのです。お世話になった方々には、感謝してもしきれません。それから生活の発見会が出している「生活の発見誌」の記事に助けられました。もう35年間も毎月丁寧に読んでいるのです。だいたい2日ぐらいで読み終えています。心に響いた記事はノートに書きだしました。切り抜きをして、項目別に整理してきました。そしてそれらを基にして自分の考えをまとめてきました。ただ読みっぱなしではなく、自分の意見や考えと比較しながら読み込んでいく作業が、今の生き方に反映されてきたと思っています。発見誌を通じて多くの人にお世話になりました。この場を借りて、感謝申し上げます。生活の発見誌をこのように活用するということは、まさにシナジー効果を存分に味わってきたと思うのです。こういう人たちの好影響を受けて、今まで生きてきたのだと感じます。集談会で森田理論を実際の生活に応用している人からは計り知れない好影響を受けました。集談会でそういう人に会えることは無類の喜びでした。愚直に森田道に邁進している姿を目の当たりにできたことは、とても幸運でした。一つのことに真剣に取り組むことは、知らず知らずのうちに、他人に大きな影響を与えるということが分かりました。森田理論学習の世界で、他人の人生を左右するようなかかわり方をしたいものです。これからは好影響を与えられるように精進してゆきたいと考えています。7つの習慣の最後は「刃を研ぐ」です。これについては、明日投稿します。
2021.05.18
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7つの習慣の4番目は、win-winの人間関係を作り上げるということです。人間関係には次の4つがあります。1、自分だけが勝って相手が負ける。2、自分が負けて相手だけが勝つ。3、二人とも負ける。4、二人ともが勝つ。1は自分の力が強くて、相手を自分の意のままに服従させるということです。自分にとっては短期的にみれば、うれしいでしょう。しかし相手にはストレスが残ります。また自分よりも強い人との関係では、今度は自分がストレスにさらされます。こういう人間関係は、絶えず勝つか負けるか、戦いが続きます。他人と仲良くなることはありません。絶えず警戒するようになって疲れます。2番目の場合は、逆パターンです。自信をなくして、オドオドするようになります。3番目の場合は、力関係が拮抗していて、お互いに妥協しない場合に起こります。周囲の人から、あの二人は犬猿の仲だとうわさされるようになると、その人を避けるようになります。夢の中に出てきてうなされるようになります。7つの習慣の中では、4番目の方法を目指して話し合いを心掛けている人は、葛藤や苦悩を抱えることがなくなる。人間2人いれば考えていることはどこかに食い違いが出てきます。たとえば大型連休の時、夫は家族でキャンプに行きたいと妻に持ちかけました。妻は実家の母親の病気で入退院を繰り返しているので、今度の連休は実家に帰り看護をしたいと言いました。お互いが自分の主張を押し通そうとすると、喧嘩になります。それがエスカレートすると、口もききたくない。勝手にしてという気持ちになります。ここで妥協を求めて話し合いをするとどうなるか。妻の実家に行って母親の介護を優先する。さらに家の片付けなどを手伝う。その合間を縫って、妻の実家から近くの釣り堀で釣りを楽しむ。あるいは、比較的近い湖で釣りを楽しむ。露天ぶろや観光地を散策する。このような形で双方が納得すれば、雨降って地が固まるということになります。人間は元々考えていることが異なっており、その溝を埋めていくのが欠かせないと考えて、実行している人は強いということです。神経質性格の人は負けず嫌いな人が多い。征服欲が強いのです。すべての面で相手と争って、相手に勝ちたい。相手の上に立ちたいということです。相手も同じ性格特徴を持っていると、戦いを意識するようになります。営業などで、成績の良い人をライバルとみなして、その人に追いつきたい。なんとかよい成績を出して追い越したいという挑戦の気持ちは、モチュベーションを高めて、「努力即幸福」の体験ができます。ライバルの存在はその人を一段と成長させる側面があるのです。しかし一方で、どうにも勝てないと判断すると、劣等感で苦しむことになります。あるいは、相手を蹴落とすために、足を引っ張ることを考えるようになるかもしれません。負けず嫌いというのは両面性があるということです。負けず嫌いの人がwin-winの人間関係を心掛けるとどうなるか。お互いにライバル心を燃やして切磋琢磨するばかりではなく、それぞれが目指すべき目標を別に設定するようになると思います。たとえば、相手を倒すという目標よりも、全国一の営業成績をたたき出して社長表彰を受けるという目標にすり替えることが起きます。そのために、当面ライバルを追い越すために切磋琢磨しているが、目標は相手を倒すのではなく、二人同時に全国優秀営業マンに名を連ねて、社内で一目置かれるような営業マンになる。そうなれば管理職になって昇進したり、ヘッドハンティングされるようになる。そのためにはお互いに営業ノウハウを開示して、さらに営業テクニックを向上させる。青山学院陸上部の原監督は、自分の練習メニューや指導方法などの多くを他の大学に公開しているという。企業秘密ともいえるノウハウを開示することは、リスクを伴うが、さらに自分たちが成長していくためにはそのやり方の方が有効であるといわれています。この方法は二人とも人間的に成長できます。ライバルでありながら、無二の親友であるという人間関係を築くことができます。明日は人間関係のシナジー効果について投稿します。
2021.05.17
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昨日の続きです。「7つの習慣」の4、5、6は人間関係に関するものです。5番目の習慣は、「まず相手のことを理解してから、自分のことを理解してもらう」というものです。私たちの自助グループの生活の発見会の集談会では、傾聴、受容、共感を心掛けています。どんなにしゃべりたいことがあっても、まず相手の話をよく聞く。相手に8割くらい話してもらって、自分が2割くらい話すくらいの気持ちでやっとバランスがとれて、会話が成り立つと聞いたことがあります。そういう心構えでやっと調和が保たれるということだと思います。話すことばかりに、気を取られていると、肝心なことを聞き逃してしまいます。また自分の「かくあるべし」を相手に押しつけるということにもなります。カーネギーの「人を動かす」という本に、「盗人にも5分の理を認めよ」というのがあります。この言葉をキャッチフレーズとして、しゃべり過ぎないように心がけましょう。相手を理解することに100%エネルギーを集中することです。集談会の自己紹介のとき、順番が来たら何を話そうかと考えている人がいます。そういうことは、集談会に参加する前に家で準備することをお勧めします。また、症状の説明は、あらかじめ整理してまとめておくことです。その原稿を見て話す態勢ができていれば、相手の話に集中できます。受容できない人は、事実、現実、現状を批判、否定することが習慣になっている人です。誰でも自分のことを叱責、非難、否定されると腹が立ちます。人間関係は対立関係に入り、勝つか負けるかの泥沼の状態になりエネルギーを消耗します。「でも」「しかし」「そういわれますが・・・」「一言言わしてもらいますと・・・」「その意見は違うと思います」という言葉が口癖になっている人がいます。相手が話しているのに、相手の発言の途中で口をはさんでしまう人もいます。これらは傍で見ているととても見苦しいことです。こういう人は他人を最初から受容しようという気がないのではないでしょうか。相手に勝つことばかりが優先されているのかもしれません。他人を受容しない人は、自分も受容できないことに通じます。このことを忘れないでください。自分自身で苦の種を作り出しているのです。自分で自分を否定しているのですから、将来にわたり生きづらさを抱えてしまうのです。さらに自分を取り巻いているあらゆることに対して、敵対的であるという傾向が強くなります。森田理論の中心的な考え方の一つが「事実唯真」です。どんなに受け入れがたい事であっても、実際に目の前で起きている事実に対しては、受け入れるしかないという考え方です。事実に対しては完全服従です。これに反旗を翻して、闘う、事実を隠蔽する、ごまかす、捏造することは、ますます葛藤や苦悩を抱えるようになるという考えです。事実を否定することが習慣になっている人は、否定して自分が勝つことが目的になっています。すると事実を正しく把握することができなくなります。事実に対して色眼鏡をかけて見誤ってしまので、間違った対策を立ててしまう。問題の鎮静化どころか、火に油を注ぐような結果となります。正しい課題や目標に向かって、行動するという態勢づくりができていないということです。集談会で共感、受容、傾聴を心掛けているということは、普段の生活の中で、自分、他人、自然などと折り合いをつける生き方を身につけることにつながるのです。集談会ではとても共感などできないという場合もあるかと思います。そういう時は森田理論の形から入るということを思い出してもらいたいと思います。ジェームスの言葉に「人は悲しいから泣くのではない。泣くから悲しくなるのだ」というのがあるそうです。集談会では、とてもこの人の考えには共感できないと思っても、形から入ることをお勧めします。相手の身になって形の上だけでも共感するのです。「大変ですね。つらいですね」と相手に寄り添っていくことです。すると不思議なことですが、時間の経過とともに、心から相手と共鳴しあえる場合があるのです。行動によって感情はどんどん変化していくということだと思います。森田先生は、親の理不尽な言動に反発していても、介護が必要ならばイヤイヤ世話をしているうちに、親と気持ちが通じ合うようになる場合があると言われています。「共感を心掛けよう」と言葉で言っているうちはダメです。共感に向けて一歩を踏み出したその行動が、カギを握っているのです。4と6の習慣については明日の投稿といたします。
2021.05.16
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堀江貴文さんの話です。堀江さんのところに「こんな商品(サービス)を開発したのだが、堀江さんの知名度を活かして、拡散に協力してほしい」という依頼が舞い込むそうだ。見も知らずの人にこういう依頼を突然することは失礼なことではないか。他人に物事を頼むときに重要なことは、その人へ思いをぶつけるのではなく、その人に、「自分に協力するメリット」を感じてもらうことが重要なのではないか。そのためには、相手のことを徹底的に分析しなければならない。そのうえで、自分が相手に何を与えることができるかを考えないといけない。端的に言うと、まず「自分に協力して相手が得られるメリット」(相手が喜んでくれそうなこと)を5~10パターン考える。そして相手が喜んでくれるまでメリットをひとつずつ小出しにしてプレゼントする。10も候補を用意していれば、相手に何かしら響くものがあるだろう。お互いにメリットを与えあう関係は、「対等な関係になる」ということだ。(炎上されるものになれ 堀江貴文 ポプラ新書 176ページ)堀江さんは、ギブアンドテイクの対等な人間のことを言われているのだと思います。見も知らない人に突然協力依頼をするということは、自分の「かくあるべし」を一方的に押し付けるという態度に近いと思います。強制や脅迫によって人を動かすことができると勘違いしているのかもしれません。そんな人間関係は、暴力、お金、物、食べ物などで一時的に自分の思い通りに、相手を動かせたとしても、隙を見せると猛反発されかねない。また、疑心暗鬼になり、防衛するための膨大なエネルギーが必要になる。この態度は、相手の気持ちや現状が全く把握できない。信頼関係はほとんど育たないと思います。むしろ、最初からすれ違っているために、いつか激しい争いになる可能性があります。元々自分と相手の気持ちや考えていることの間には、食い違いがあるのが普通です。それをどういう方法で埋めていこうかという発想が全くないのだと思う。こういう方向で良好な人間関係を維持することは難しい。他人と仲良くなりたい、他人に協力依頼を取り付けたいときはどうすればよいのでしょうか。まず最初に、相手とは、どこにどんな食い違いがあるのかを把握することが大切になります。元々食い違いがあるという前提に立つことができる人と、そんなものは全くないと思っている人では、次の展開が全く違ってきます。食い違いがあるはずだと思っている人は、まず相手の気持ちや考え方を理解しようとします。それが分からないうちは、何も始まらないと考えているのです。相手の気持ちや考えがある程度わかった段階で、今度は自分の気持ちや考え方を相手に伝えます。そして二人の間に存在する溝をどうしたら埋めることができるだろうかと考えます。目的達成のためには、話し合いや交渉で譲歩できるかどうかを探り合います。つまり妥協点を求めて話し合いや交渉を続けることになります。妥協できなくても力に頼って相手をねじ伏せるようなことをしてはいけません。どうしても和解や妥協点を見いだせない場合は、そのままにして、時間の経過を待つ。一時的に冷却期間を置くことになります。ここでの焦りは禁物です。堀江さんの言われているとことは、和解や妥協するための手段、方法について提案されていることだと思います。相手のメリットになることを10個くらい用意して、小出しにプレゼントする方法は特にセールスなどの場合は必須のテクニックとなります。ところで、対人恐怖症の人は他人とはもともと分かり合えないのが普通の状態だと思っている人が多いように思います。両親との関係が元々ぎくしゃくしていたので、他人は自分に危害を加える恐ろしい存在として認識しているのだと思います。ですから、いきなり先ほど述べた方向で動くことは、ハードルが高すぎるという面があります。岡田尊司さんが言うところの、心の安全基地、辛い時に立ち戻れる母港を持っていないので、まともな人間関係を築いていくのは大変なのだと思います。そういう方は、是非とも集談会に参加することで、先ず心のよりどころを見つけていただきたいと思います。私も対人恐怖症でしたが、集談会の仲間は暖かく受け止めてくれました。それが生涯の財産となりました。何か問題が発生したら、集談会の仲間に相談に乗ってもらえるという気持ちを持っていると、ある程度のことは、何とか乗り越えられるように思います。家族や会社や学校や友人関係がぎくしゃくしている人は、是非集談会の仲間に相談してみてください。きっと暖かく受け止めてくれるはずです。
2021.04.13
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先日プロフェッショナル 仕事の流儀という番組にサンドウィッチマンが取り上げられた。サンドウィッチマンは今やレギュラー番組を15本抱えている。そして「好きな芸人ナンバーワン」に3年連続で選出されている。どこにそんな人気の秘密があるのでしょうか。サンドウィッチマンは、伊達みきおさんと富澤たけしさんの2人でやっている。仙台商業高校のラグビー部で知り合ったという。高校卒業後伊達さんはサラリーマンをしていた。24歳の時富澤さんに誘われて漫才の道に入った。富澤さんが伊達さんを誘ったのは、高校時代のある体験がもとにあるという。部活の後、富澤さんは自転車を盗まれたことがあった。それを一緒になって探し回ってくれたのが伊達さんだったという。固いきずなでつながれているのは、この時からだ。二人は性格がまるで違う。伊達さんは人なつこい。他人とかかわることが楽しくて仕方がないという感じだ。漫才では絶妙なつっこみを入れる。食えない時代に営業担当をしていた。富澤さんは人見知りが激しい。ボケ担当だ。実は台本はすべて富澤さんが作っている。富澤さんは一つのミスを引きずるタイプだ。負けず嫌いの面も持っている。典型的な神経質タイプだ。二人はそれぞれ自分は半人前だという自覚がある。二人合わせて一人前という意味で、ニコイチだと言っていた。あいつがいれば大丈夫。あいつの分まで頑張るという気持ちが強い。24歳で漫才師になり、33歳でⅯ1グランプリで優勝するまでは極貧の生活だった。アルバイトの日々。でもライブに出ないと認められない。ひもじい。借金ばかりが増える。その時自分たちは世間から必要とされていないと感じていたという。30歳の時、富澤さんは、「もうだめだ。漫才をやめよう」と伊達さんに申し入れたという。伊達さんは、「もう1年間だけ必死にやってみよう。それでだめならあきらめよう」と返したという。伊達さんは、ここでやめたら富澤さんは自殺するのではないかと心配していたそうだ。いまは人気者になったが、いまでも生活は地味だ。いつまた売れなくなるか、危機感を持っている。つらい時期を経験しているので、後輩芸人に優しい。東日本大震災の復興支援ライブにも熱心だ。そして二人は性格は全く違うが、お互いに思いやりが深い。コンビの夢は解散しないことだと公言する。これが夫婦なら固いきずなで結ばれた素晴らしい夫婦になることだろう。お互いの違いを認めて、あいつの足りないところは自分がカバーしてやろうという気持ちを持っている。自分と違うという面を見つけると、「かくあるべし」を振りかざして、相手を誹謗中傷する人が多い。この二人を見ていると、足りないところがあるのが当たり前。それを非難するのではなく、補い合っていく方がよほど幸せになれるという信念のようなものを感じる。漫才をする時だけ一緒で、普段の行動は別々という漫才師が多い中で、この二人はいつも一緒である。不思議な感じがする。この二人は極貧の生活を9年間味わったことが、今の生活に生きている。私たちは神経症を抱えてのたうち回った経験がある。それが森田療法に出会うきっかけとなった。こんな幸運は神経症が取り持ってくれた縁である。有難いことだと思う。つらい経験は、森田療法によって一旦克服すると強みに変わる。人生に深みと味わいをもたらす。そこを出発点として、新しい人生に向き合えるようになるからだと思う。つらい経験は、他人の経済的、身体的、精神的な痛みを我がことのように感じることができる。こうしてみると山あり谷ありの人生だったが、あきらめないで生きてきて本当によかったと思う。集談会で、「60歳以上まで生きながらえた人は、100点満点の人生です」と聞いたが、まさにその通りだと思う。
2021.04.06
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相手を自分の意のままに取り扱うことが習慣化している人は、「かくあるべし」が強い人です。相手はこうすべきである。こうしなければいけない。などと言う考え方で付き合っていますので、相手はたまったものではありません。夫婦でしたら家庭内別居、離婚につながります。それは子どもにも悪影響を与えます。相手の存在、やることなすことを非難、否定、軽蔑、無視している人は、相手を上から下目線で見下ろしてコントロールしようとしているのです。こういう態度で生活している人は、反対に他人から非難、否定、軽蔑、無視されることにとても敏感になります。生きることがつらくなります。どちらにしても、人間関係は対立関係に陥り、自分を護ることにエネルギー投入せざるを得なくなります。神経質性格者の持ち主でしたら、容易に神経症の発症につながります。この征服欲、コントロール欲求は、完全主義、完璧主義、理想主義、目標達成第一主義などと同じようなものです。観念の世界を優先して、それを現実に当てはめていこうという態度です。森田理論ではこのようなかくあるべしを前面に押し出すことが、思想の矛盾(頭で考えていることと現実や事実に乖離が生まれること)を招いて、神経症の発症に結びついているとみなしているのです。この弊害から抜け出すためにはどうすればよいのか考えてみましょう。普段の生活の中で、一つには、他人に役立つことを見つけて実践することだと思います。溺れている人を助ける。線路から落ちた人を助ける。生活に困っている人に援助する。こうした大きな事ばかりではなく、できるだけ小さなことを見つけて実践するという習慣を作ることが大切だと思います。生きがい療法の岡山県の伊丹先生は次のように言われています。1、他人に言葉をかける。挨拶をする。2、自分の持ち物を貸してあげる。3、労力を提供する。例えばごみを拾うとか。4、自分の持っている知恵、情報を提供してあげる。5、他人の話を聞いてあげる。6、暖かい言葉をプレゼントする。日常生活の中で、相手を非難、否定することをぐっと抑える。そして反対に相手に役立つことを絶えず探しているという態度に切り替えるのです。集談会でこんな話を聞きました。バスに乗るとき小銭で支払う人は、事前に小銭を用意しています。あたりまえのことですが、これも人に役立つことだと思います。確かにそうです。高額紙幣では支払えないことがあります。酒屋からビールを配達してもらっているが、そのとき「よく冷えています」というシールが2本張ってあった。これも小さな親切ですね。そんなサービスをしている店がないので余計に感動を与えたのでしょう。サービス業についている人からこんな話を聞きました。一度来てくれたお客様が、何度も来店してくれないと店はつぶれてしまいます。リピーターを増やすことが商売をするうえで大切になるのです。相手の期待値以下の品ぞろえ、鮮度、雰囲気、価格、清掃、接客、駐車場、駐輪場しか提供できないと、リピーターにはなってくれません。当然と言えば当然のことです。消費者は他店のサービスや接客内容などと厳しい目で比較しているのです。反対に悪い噂を近所に拡散するので、やがてお店は立ち行かなくなります。相手の期待を裏切らないサービスを提供していると、なんとか次も来てくれます。しかし、競合店が多いと、他の店で自分の店よりも魅力のある品ぞろえ、接客態度、低価格、鮮度、店の雰囲気、駐車場、駐輪場、清潔感などで差を付けられるとこれまたじり貧になってきます。だから当たり前のサービスの提供だけでは、生き残っていけない時代になっているのです。そこでいかにお客さんにとって魅力のあるサービスを付け加えることができるのかと考え続けることが大切になるのです。イヤイヤではなく、いかに差別化を図り、自分の店の独自性を打ち出すことに情熱を傾けることができるのか。これが勝負の分かれ目となります。従業員のすべてがサービス精神であふれている店が繁盛店となるのだそうです。それらすべてを満たすことは難しいので、この1点だけはどの店にも負けていない。独自で他店がまねができないオリジナリティを打ち出しているかどうかが問題になるのです。むしろそのサービスが抜きんでていて、お客様から感動の言葉をかけていただける。できれば感動で目頭を熱くされるようなサービスを作り上げていきたい。期待値を大きく上回る感動を与えられる店にすることが目標だというのです。こういう気持ちで仕事をしていると、相手に「かくあるべし」を押し付けることはなくなると思います。相手の気持ち、要望に応えていると、相手は気分をよくするので、人間関係が対立することがありません。私たちも相手を意のままにコントロールしたいという気持ちを封印して、何か人様に役に立つことはないか、感動のおすそ分けができないかと考えることで、人間関係は大きく改善できるのではないでしょうか。幸い私たちは小さなことによく気づくという長所を持っています。それを人間関係の面に活用して、人の役に立つ人間になりませんか。
2021.04.03
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昨日の続きです。青山学院大学陸上競技部のサポート部隊の役割としてどんなものがあるのか。実際のレースでは出場選手への声掛け、応援、給水、手荷物の保管、走り終わった選手へのケアなどがあります。移動や選手の回収などの役割などもあります。沿道においては幟を立てて選手を鼓舞することも行います。それ以外に部活動としては、重要な役割分担があります。陸上競技部というチームの中には、キャプテン、マネージャー、寮長、学年長という役割を持つ人を置いています。これらは基本的に選手に選ばせています。キャプテンはチーム状態が悪い時に、チーム全体を明るく前向きな方向に導く人です。リーダーシップが求められます。部員からの信頼感がある人です。また部員に自分のメッセージを発信できる人です。会社でいえば経営者です。その時の状況を読んで、方針を立案し、みんなを鼓舞して、チームとしてまとめ上げる能力を持っている人が適任です。マネージャーは、選手のサポート役です。裏方になります。選手として箱根駅伝に出場する希望がかなわなかった人の中から選びます。選手たちのコンディションの把握に努め、日々改善していくのが仕事です。アンテナを、幅広く張って、状況により敏感な人が向いています。細かいことに敏感な神経質タイプに向いています。また、監督と選手のパイプ役という側面もあります。時には監督に変わって、厳しい言葉を伝える必要があります。先輩後輩に関係なく物申せる人物でないと務まりません。反面口の軽い人は向きません。伝えていいことと、軽口をたたいてはいけないことが、よく分かり、実行できる人でないと務まりません。マネージャーになるためには一つの条件があります。それは、選手生活をやり切ったという人でないとダメです。とことんまで自分の限界に挑戦してきたが、設定タイムを期限までにクリアできなかったという人の中から選びます。そういう人がマネージャーになったときに力を発揮するのです。マネージャーが務まる人は、卒業後会社に入っても立派な仕事がこなせます。つぎに寮長ですが、部員の生活管理、衛生管理、整理整頓、食生活の管理を通じて寮の運営を担当します。寮母との相性がよいことが条件です。細かいことによく気が付き、凡事徹底に徹することができる人が適任です。率先垂範の人が適任です。これも神経質性格者がぴったりと合います。学年長は学年全体を束ねる人です。明るく前向きな人で、将来のキャプテン候補です。たとえ、箱根駅伝に出場して選手としてスポットライトを浴びなくても、その人の持ち味を見つけて、部活の中で、居場所を与えて、伸ばしていくことがとても大切だということです。それぞれが自分の課題や目標を見つけて、それに向かって努力精進していくことが、なによりも重要だということです。これはすべての人に当てはまることだと思います。(フツーの会社員だった僕が青山学院大学を箱根駅伝優勝に導いた47の言葉 原晋 アスコム 185ページより参照)なおこの本は、森田理論学習に取り組んでいる人に、役に立つことが沢山ありますので、推薦いたします。
2021.03.28
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青山学院大学の陸上競技部には約50人の選手がいます。1学年にすると10名程度です。全員が箱根駅伝に出場出るわけではありません。基本的にはタイムの上の選手を起用していくことになります。上級生が年の功で優先的に出場権を獲得できるようにはなっていない。問題は出場できない選手が投げやりになって意欲をなくして、チームの結束を乱してしまうことです。チームがまとまらないと、箱根駅伝で優勝、あるいは上位に入ることはできない。最悪シード権を逃して、次の年の予選会にも敗退すれば、エントリーすらできなくなる。出場できない選手はどう取り扱うかは、監督としては大きな問題です。原監督はそういう選手をどうやって、人間的にも一回り大きく成長させていくかに力を注いでおられます。一つは箱根駅伝とは別の大会への出場を目指して練習させる。10キロの持ちタイムが28分40秒以内が箱根駅伝にエントリーできるかの分岐点です。しかしどんなに頑張っても記録が伸び悩む選手が出てくるのが現実です。能力の限界を超えて、成績を伸ばせと叱咤激励すると、ある程度までは頑張りますが、緊張の糸が切れたときは悲惨なことになります。そんな風に選手を追い込んでも意味がありません。ましてや、そんな選手を見放すことはあってはならないことです。人間無視されて見放されることほど悲しいことはありません。そんな選手には、個人目標を与えてそれを達成できるように支援していく。目標を達成したら最大限に評価してあげる。そして新たな次の目標を与えて、その努力のプロセスを暖かく見守り続けることが大事です。学生スポーツというのは、4年間それぞれの選手の能力に応じて、選手が自ら設定した目標に向かって、努力精進するということが一番重要になります。努力精進によって掲げた目標を達成して、能力の獲得と自信をつけることが大切なのです。それは個人としてもチームとしても大切になります。部活動を通じて、身体能力を鍛える、選手としての能力を伸ばす、日常生活の心構え、人間関係のあり方、折衝能力、交渉力、組織の活性化などを身に着けていくわけです。青山学院大学の選手は、就職面接の際、陸上競技に取り組んだ4年間の成果について、面接官に大いにアピールしているそうです。そういう貴重な経験は、めったに持つことはできない。そのことに寝食を忘れるほど取り組むことで、今後の長い人生に大いにプラスになります。この経験をしたおかげで、普通は学力面で優秀な学生しか入れないような有名企業に数多く採用されている。もう一つは、陸上競技部として成果を上げるためには、何も選手だけが個々の成績を伸ばすだけでは不十分です。それを支えるサポート部隊のすそ野を広げていくことも同時に取り組む必要があります。サポート部隊の重要性を理解させて、選手として出場がかなわない人に、その活動に生きがいを感じてもらうことで、一回り大きな人間になってもらいたい。適材適所の役割を与えることで、選手以上に大きな人間として成長することができます。この点については、明日の投稿で紹介します。(フツーの会社員だった僕が青山学院大学を箱根駅伝優勝に導いた47の言葉 原晋 アスコム参照)
2021.03.27
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この言葉は不即不離、精神拮抗作用の説明です。さらに、この言葉を深耕してみましょう。私がインテリア卸の会社に勤めていたころ、とても気むずかしい部長がいました。ワンマンというか、独裁的というか、不快な感情をすぐに態度にだす人でした。私はそのすぐ下で働いていました。いつも緊張していました。出先の所長職の人は、直接この部長に電話をすることは控えているようでした。部長の精神状態を確認しないで、部長の機嫌を損なうような話をしようものなら、フロアーにひび渡るような罵声を浴びることになります。しかも長話になるのです。そこで、所長職の人は、まず私宛に電話をしてくるのです。今事務所にいるのか。外出しているのか。忙しそうか。そうでもないか。今日はどんな機嫌か。今電話をしてもよい状態か。トラブルの対処やノルマの進捗状況の報告については、特に気を使っていました。「今は問題のある案件を抱えて、荒れている」というと、「分かった」といって、「落着いたら頃合いを教えてくれ」といって電話を切るのです。この作業を行わないと、本来の仕事に支障が起きることが多かったのです。この問題について、森田先生は次のような話をされています。ここに入院している人は、森田を尊敬し、あるいは信頼しているからこそ入院したわけで、森田がこわいのは当然のことであります。この森田がこわいという心そのままであると同時に、一方では森田の話を聞き、指導を受けたいという心があるはずです。このこわくて逃げたい気持ちと、近づいて幸福を得たい気持ちとがはっきり対立している時に、私どもの行動は微妙になり、臨機応変になり、最も適切になり、いわゆる不即不離の態度となるのであります。間違った態度の人は、こわいとか恥ずかしいとかという心を否定し圧迫しようとし、一方には近づきたいという心をやたらに鞭うち、勇気をつけようとして無理な努力をし、その結果は精神の働きがかえって萎縮し、かたよったものになってしまうのであります。こわくないように思おうとするから、ムリに虚勢を張ってかたくなになり、しいて近づこうとするから、相手の迷惑などには少しも気がつかず、ずうずうしくなってしまうのであります。これらの話から分かることは、相手にお構いなしの自己中心的な行動は問題だということです。自分の気持ちや感情を優先して行動するとうまくいかないことが多い。その時の相手の状況を観察して、接触のタイミングを見極めることが大切になるということです。そして時期尚早と判断すれば、いったん引き下がる。チャンスを待つことです。その際、全く目をそらせてしまうことはダメである。絶妙のタイミングがやってくるまで、遠巻きに観察を続ける。ここがチャンスと判断したときには、不安であっても思い切って行動する。この手順を間違えて行動してはならないと教えてくれているのである。言い換えれば、刻々と変化する目の前の状況をよく観察して、その変化にこちらから合わせていくという態度のことである。(新版 自覚と悟りへの道 白揚社 73~76ページ)
2021.03.26
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会社で営業をしていると、ノルマが毎月未達でチームの足を引っ張る社員がいます。女子マラソンの指導者の小出義雄さんは、そんな社員を叱りつけてはいけないという。他の社員と比較して、なじってもいけない。そんなことを言うと、できの悪い人間はますます小さくなり、落胆してしまう。希望を失って意欲は減退するばかりになる。小出さんはそういう社員がいたなら居酒屋などに誘う。酒を飲みながらの話はすぐに打ち解ける。そして、その社員のよいところを評価するようにするそうだ。どんな人間にも、必ず一つや二つ、取柄はあるものだ。不成績にばかり目がいき、長所を見逃している場合は多々ある。いいところをほめられて悪い気のする人はいない。普通はそこで終わってしまう。小出さんはもっとやる。実はここが一番言いたいところだ。それは、「へり下りと謝り」である。へりくだって相手のことを敬うことは、言葉でいえば謙譲語と言われている。「キミの成績が思うように上がらないのは、みんな上司であるオレのせいだ。オレの頑張りが足りないから、キミに苦労をかけてすまない。オレがしっかりしてさえいれば、キミの能力をもっと発揮させられるのに・・・。これから、キミに苦労をかけないように努力するから、キミも頑張ってくれ」(小出監督の女性を活かす「人育て術」 二見書房 72ページ)なんとも心憎い演出です。実際は居酒屋に誘っても、褒めるよりも説教する人が多い。上から下目線で相手を批判する。否定する。「かくあるべし」を一方的に押し付けるのだ。叱咤激励すれば相手は改心してくれると信じている。少し考えれば、事態はますます悪くなることが見え見えなのだが、そんなことには少しも気がつかない。はっきり言えば、上司、リーダー、監督、先生の器ではないということです。イソップ物語に北風とマントの話がある。北風が男のマントを脱がせようと、強風を吹かせる。力づくで男のマントをはぎ取ろうとするのです。しかし男ははぎ取られないように必死になって防衛する。北風は目的を果たせず退散する。つぎに、太陽が顔を出す。暖かい空気を送り込むと、男は自分からマントを脱いだ。成績の悪い部下は、会社でも居場所がない。孤独である。みんなから役に立たないお荷物として軽蔑されている。営業の基本が分からない。やり方が分からない。でも手を差し伸べてくれる人がいない。四面楚歌の状態で絶望しているのです。そんな時に、相手を否定することは北風のやり方と同じです。ここでとる態度は上から下目線で叱咤激励することではありません。相手の悩み、葛藤、言い分をよく聞いてあげることです。相手に寄り添う姿勢が上司に求められるのではないでしょうか。これは親子や夫婦の人間関係でも同じことです。一方的にこちらの意見を述べるのではなく、まず相手の話をよく聞く。弁明の機会を与えるのである。軽率に是非善悪の価値判断を行い、「かくあるべし」を押し付けない。事実をありのままに承認してもらうことが先に来ないと、相手からそっぽを向かれてしまうのではないでしょうか。溝はどんどん開いていく。集談会で家族の人間関係が悪くてストレスが溜まっているという話を聞きます。こういう場合は小出義雄さんの話を参考にしてみてはいかがでしょうか。
2021.03.22
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森田先生のお話です。人が自分ばかり、注意していると思うのは、高ぶった心です。誰もことさらに、自分のみ注意を払わないだろうと考えるならばへりくだりの心であります。この謙遜の心は、ことさら人に対抗する気持ちがないから、おのずから非常に安楽なものです。(森田全集 第5巻 594ページ)対人緊張の強い人は、他人は自分の一挙手一投足に強い関心を持って観察しているに違いないと思っています。特に自分の欠点や弱点、ミスや失敗などがないかどうかを鵜の目鷹の目で様子をうかがっているはずだと信じています。もしそれらが相手に見つかれば、相手に攻撃のきっかけを与えてしまうと考えています。これは大きな認識の誤りだと思います。野鳥は一日のうち60%から70%は、エサをとることに費やしているといわれます。これを怠ると生きながらえることはできません。生きとし生けるものは、自分の生命を維持することに最大の興味と関心を持っているということです。これは基本的には人間の場合も同じだと思います。自分や家族の生活を維持していくこと。命の再生産を図っているということです。さらに自分たちの生活を豊かにしていくことにエネルギーを投入しているのです。そんな状況の中で、他人の動向に強い興味や関心を寄せることはよほど暇な人だと思います。本来、他人は自分に影響を与えることや、目を引くような出来事があった時ぐらいしか関心を示さないのではないでしょうか。そのように考えると他人がことさら自分の動向に強い関心を寄せて、危害を加えてやろうなどと考えているという思い込みは、妄想に近いのではないでしょうか。このような思い込みに取りつかれると、命の延命を図るという本来の目的を見失ってしまいます。本来の生きる目的を忘れて、敵の攻撃から我が身を守り抜かなければならないと考えるようになります。欠点や弱点、ミスや失敗は存在してもよいが、他人に見つけられてしまうことは何としても避ける必要がある。他人に馬鹿にされるようなことをしてはならない。無視、軽蔑、拒否、脅迫、仲間外れにされるようになると、社会的な死を招いてします。何としても、それだけは回避したい。そのためには、専守防衛に徹するしかない。将棋や囲碁でいえば、相手に勝つという目的を忘れて、守り一辺倒に偏っている状況です。守り一辺倒では、勝負をかけてゲームを大いに楽しむ気持ちはなくなってしまいます。注意や意識が自己内省ばかりになると、自分で自分を否定し、責めることが多くなります。味方が身内を否定してしまうことほど悲しいことはありません。そうなりますと、目の前の生活を維持して、生命体としての自分を延命させることなどはどうでもよいということになるのです。手段の自己目的化が起こり、本来の人間の生き方から逸脱しているのです。それだけではありません。そういう人は、自分自身にも対立して、自己嫌悪、自己否定で苦しむようになります。さらに、問題が広がります。他人へのやさしさ、思いやりが持てなくなります。というよりも、他人の一挙手一投足に強い関心を持って観察するようになります。他人の弱点や欠点、ミスや失敗をことさら大きくして、相手を攻撃するようになるのです。自分や他人と対立して、葛藤や苦悩を抱えてしまうのです。このような落とし穴に落ちないようにする事が肝心です。そのためには日常茶飯事に丁寧に取り組む習慣がかかせません。習慣に従って、特段考えなくても、淡々と習慣化された生活を繰り返すということです。暇を持て余して考える時間が存分にあるという生活は問題です。「小人閑居して不善をなす」ようになるからです。夜中に目が覚めて考えることは、過去の失敗、恥ずかしい事、他人に迷惑をかけたことなどばかりが思い出されます。行動がお留守になり、観念の世界にどっぷりと漬かると、健康な精神状態は保つことができなくなります。昼間はできるだけ身体を動かすようにしたいものです。規則正しい生活を心掛ける。凡事徹底でものそのものになり切る。こうした森田の教えを実践することで、他人に振り回される状況から脱出していきましょう。
2021.02.25
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人前で自分の意見を理路整然と話すことが苦手という人が多い。営業やセールスの仕事をしている人は、巧みな会話や説得術を身に着けて、相手の断り文句をかわして、すべて成約に持ち込めたらどんなにうれしいだろうと夢見ている人が多と思う。そのためにセミナーに参加し、ハウツー本を読んでその極意を身に着けようとする。確かにある程度の自己主張やセールステクニックは必須です。しかし、しゃべり過ぎというのは相手から敬遠されるという面があります。反対に相手の話を聞くことが苦手で困っているという人はほとんどいません。聞くことはエネルギーを消費することもなく、受け身になる事だから簡単であると思っている人が多いのが現実です。それは認識の誤りである可能性が高い。今日は相手の話に耳を傾けるということについて考えてみたいと思います。これからあげる質問に対して、そういう傾向があるというものがありませんか。1、相手の話を早合点して分かったつもりになって聞き間違えることがある。2、講演や会議などで眠くなることがある。3、嫌いな人が話している時、心を閉ざして拒絶している。4、相手の話し方がくどいと、聞くことが嫌になり真剣には聞かない。5、相手が話していても、自分が話すことに意識や注意が向いている。6、自分が話すことを第一に考えて、途中で相手の話を遮ることがある。7、相手の話に興味や関心が持てないので、聞き流している。8、自分の考えと違うといかに反論して論破してしまおうかと考える。9、人の話を聞く時、時々腕組みをしている。無表情、無反応で聞いている。10、話の内容が理解できなくても、確認や質問をしないで放置する。ここにあげたことがほとんどありませんという人は、相手の話をよく聞いている人です。注意や意識が相手に向いているので、相手に敬遠されることはないでしょう。営業やセールスでは相手の話を聞いて、興味や関心、抱えている問題点などをつかもうとしているので仕事もうまくいくでしょう。問題は、ここにあげた傾向があるという人です。そういう人が、セミナーや話し方教室に参加し、ハウツー本を読んでさらに巧みな話し方を身に着けようとするのは方向性に問題があると思います。普通の会話は話しするのが40%、話を聞くのが60割ぐらいの気持ちの方が人間関係が円滑になるといわれています。その割合が逆の場合は、バランスが崩れているのです。話しすることに偏り過ぎていることが問題です。この場合は、話しすることに意識や注意を向ける比率を下げることが大切です。放っておいても話すことに注意が向いていますので、この際話すことは放置しておく。そして、相手の話を真剣に聞くという方向に、大半のエネルギーを投入していく。こうすることでやっとバランスがとれてくるのではないでしょうか。それを意識して聞くことに専念すると、いくらでもそのやり方は工夫できます。たとえば、身体を相手に向けて聞く。明るい表情で聞く。あいづちをうちながら聞く。相手の言葉を復唱しなから聞く。メモをとりながら聞く。質問や感想を入れながら聞く。相手の興味や関心、悩みや困りごとを引き出すような質問をする。こういう努力は、相手に「かくあるべし」を押し付けることから遠ざかり、事実本位に近づいてきます。よかったら、ぜひ実行してみてください。
2021.02.02
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結婚するにあたっては、誰しも相手の性格、容姿、仕事などあらゆる側面から検討していると思います。どういう点を基準にすればよいのか、森田理論をもとにして考えてみたいと思います。まず結婚するにあたっては、意見の対立が発生した場合はどう解決していくかを取り決めておくことが肝心です。これをあいまいなままにして結婚すると、自己主張の強い者同士の場合、必ず喧嘩が絶えなくなります。最悪の場合は離婚に至ります。そこまでいかなくても家庭内別居状態になります。心身ともに悪影響を及ぼします。さらに悪い事は子供の成長に暗い影を落としてしまうのです。世間では夫婦仲に問題を抱えているという話はよく耳にします。それは結婚する前に、そういう話し合いをしていないからです。合意していても、解決策を着実に実行していない。一つ屋根の下で生活している夫婦が、毎日顔を合わせないようにして暮らす生活は、苦しみ以外の何物でもありません。次に性格や趣味の合う人の方が楽しい家庭を築いていけるという考え方があります。やることなすことが対立することがない。夫婦円満になるという考え方です。これは頭で考えることと実際は違うということになるように思われます。性格や気性や趣味が異なると絶えず対立して波風が立つという風に考えがちです。でも夫婦の人間関係は、もともと小さい波風が立つのが普通の状態です。小さな波風が立った時、それを抑え込んだり、我慢すると問題はどんどん増悪してしまいます。しかし神経症の場合よく感じることですが、落ち込んだ場合、波長が同じなので同時に落ち込むことがあります。それが増幅されてしまうのです。特に二人とも対人恐怖症という場合は、特に注意が必要となります。強迫神経症と不安神経症の組み合わせはまだましだと思っています。基本的には、我々のような神経質性格者の場合は、発揚性気質など他の性格者の人の場合がよいのではないでしょうか。森田先生もそういわれていたように思います。その方が磁石でいえば、プラスとマイナスを近づけるようなものですぐにくっついてくれる。ところがプラスとプラス、マイナスとマイナスをくっつけようとすると、反発するばかりでなかなかうまくいかない。お互いに足りないものを相互に補うような人間関係の方がうまくいくように思います。結婚相手で「かくあるべし」を前面に押し出す人がいます。よく言えば信念が強い。強いこだわりがある。完全欲、完璧主義、コントロール欲求が強い人です。相手が自分の期待を裏切る事をすると絶対に見逃さない、許さないという人です。そういう人は、相手を思いやるやさしさが少ない。自己中心的で妥協や柔軟性はほとんど皆無です。そういう態度で結婚相手とかかわっていくのです。これに対して、あらゆることを我慢し、耐えて相手の言いなりになる人もいます。バランスの崩れた夫婦関係も心身の不調や子供の養育に悪影響を及ぼします。理想的な夫婦は、お互いに言いたいことを言い合える夫婦だと思います。そして絶えず小さな対立を抱えている緊張感がある夫婦です。これが普通の状態です。その時自分の気持ちや考え方を「私メッセージ」を使い相手に伝えている。我慢して引き下がるよりも、どう調整していくのかを常に考えている。一時的に対立しても、少し時間が経てば、いつの間にか水に流している。譲ったり譲られたりすることが臨機応変になされている。四六時中一緒に行動していても、全く苦にならない。人間関係のコツを会得しているかのように思えるような夫婦である。いろんな対立を抱えていても、心の中では相手を信頼して助け合っている。ミスや失敗があっても、基本的には寛容な気持ちで許すことができる。こういう対等な関係を維持している夫婦は見ていてほほえましい。1プラス1が2ではなく、3にも4にもなる夫婦だと思う。
2021.01.22
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対人恐怖を治そうとしないという決意を固めて、目の前の課題に取り組むことができるようになった人に参考になる話をします。1、人間関係は森田理論の「不即不離」を応用することです。1990年11月号の生活の発見誌に、人は親しくなることを目的として付き合うわけではありません。活動の場を通じて引っ付いたり、離れたりしています。対人恐怖症の人は、コップ一杯に満たされた親密な人間関係を築こうとしている人が多いようです。コップに1割程度しか飲み物が入っていないささやかな人間関係が普通なのではありませんか。神経質者は人間関係にのめりこむことがあります。これは極めて危険ですよ。薄くて幅広い人間関係作りを目指すことで、ストレスは大きく軽減されます。必要な時に、必要に応じて、必要なだけの人間関係を築いていきましょう。そのためには生活の幅を広げて、自分の方から積極的に声をかけていくことが大切です。こういう人間関係が身についてくると、無理がなくなり肩の力が抜けてきます。2、人に役に立つ人間をめざす。他人を喜ばす芸を身につける。森田先生は人の役に立つことを見つけて実行しなさいと言われています。私は集談会で世話役を長らく引き受けてきました。今も続けています。このブログはなんとか神経症で苦しんでいる人のお役に立ちたいと思って始めました。自分の症状のことはさておいて、他人の役に立つことを探して実行することが大切です。自分の症状のことは、その後で考えようと思っているうちに、神経症の苦しみは楽になっていくものです。つぎに、森田先生は鶯の綱渡り、民謡などいろんな宴会芸を持っておられました。私は、これに学びアルトサックス、どじょう掬い、獅子舞、腹話術、浪曲奇術などを身に着けて、老人ホームの慰問活動をしています。もっとも下手なものばかりですが・・・。するとそこでいろんな芸を持った人と知り合いになりました。ボランティアで一芸を身に着けている人は、一言でいうと面白い人の塊です。こういう人間関係に囲まれて暮らしている私は幸せ者です。3、高良武久先生は、対人恐怖の人はエキスパートを目指しなさいと言われています。世の中で役立つ知識や技術や能力を身につけなさいと言われているのです。10年ぐらい一つのことに真剣に取り組めば、その道の専門家になれます。そうなれば、自然に人が集まり、人間関係がうまくいくようになるといわれています。1992年6月号の生活の発見誌に曽野綾子さんが次のように書かれている。ある板前さんで、妻から「お父さんは、経済のことは何も知らない。カラオケに行けば音程がでたらめ、麻雀ではみんなにカモにされる。ゴルフも下手くそ。何をやらせてもダメ。そばにいる私が恥ずかしくなる」と皮肉を言われている。その話を聞きながら、当の板前さんは、悠々と笑いものになって平然としている。それは料理にかけては誰にも負けないという聖域を持っているからなのです。聖域を持つということは生きる自信を生み出しているのです。これは実に胸に響く言葉ですね。仕事でなくてもよいのです。特技や趣味、家庭菜園、ペットのしつけでもよいのです。10年ぐらいかけてそういう聖域を一つだけ作ってみませんか。4、対人恐怖で苦しんだことは無駄ではなかった。対人恐怖で苦しんだおかげで、森田理論に出会い、人生をより深く考えることができました。自助組織の生活の発見会にも参加し、素晴らしい経験を積み重ねることができました。即それは仕事、社会活動の面で大いに活用し応用できました。そして、とりわけ素晴らしい全国の仲間と知り合い交流することができました。発見会にやってくる人は、頭の回転がよい。優秀な人間集団です。好奇心が旺盛でいろんな趣味を持っている。親切で思いやりがある。いざというときなんでも相談に乗ってくれる。人生についてより深く考えている。素晴らしい経験をたくさん持っている。こんな人と交流できることは、普通に暮らしていてはあり得ないと思います。素晴らしい人の出会いは、人生のオアシスを見つけたようなものです。これはいくらお金を積んでも買い求めることはできません。望外の喜びでした。確かに神経症の苦しみの渦中は苦しいことの連続でした。いっそのこと死にたいと思ったこともあります。今考えると、その時は苦しかったけれども、それ以上に得たものが限りなく大きかった。計り知れない多くのものを受けとることができました。「神様は乗り越えられない試練は与えない」と聞いたことがあります。多分有意義な人生を築き上げるための試練として、神経症という課題を与えられたのではないかと思います。それをどう料理していくのか、どう味付けをしていくのか、あなたの腕の見せ所です。「人生に無駄なことは一つもない」と言いますが、まさにこのことを指しているのではないでしょうか。どうぞ災い転じて福となしてください。以上で、4日間にわたり対人恐怖症で苦しんでいる人の為にいろいろと話してきました。これに刺激を受けて元気を取り戻してくださる人が一人でもいてくれたらと願っております。これで対人恐怖症の乗り越え方の説明は一旦終了とさせていただきます。
2021.01.11
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対人恐怖症克服に向けての3日目の投稿です。対人恐怖症の人は、他人から自分の存在を軽々しく扱われることを極端に嫌がります。他人から非難、叱責、否定されることには耐えられないといいます。これをよくよく考えてみると、そのような出来事が起きた結果、不快感、不安感、恐怖感が湧き上がってくることに耐えられないということだと思います。もう少し細かく見てみましょう。不安、怖れ、おびえ、腹立たしい、むかつく、イライラする、侮辱される、非難される、けなされる、悲観する、見捨てられる、孤独になる、悲しい、憂うつになる、疲れ果てる、力が抜ける、傷つく、絶望する、無気力になることに耐えられなくなる。イライラしてすぐに取り除いてしまいたくなるのです。実際に起きた出来事ではなく、そこから発生した感情を問題にしているのです。ここは勘違いしやすいところですから、しっかりと理解してください。注射針を打たれたような痛みを感じる。注射針の場合は、覚悟を決めて、少し我慢すれば、すぐに楽になります。ところが、不快感、不安感、恐怖感は耐えることができない。我慢することができない。自分自身が精神的に混乱し、取り乱すことを見逃すわけにはいかないと考えるのです。また一方では、そういうものは適切な手を打てば取り除くことができるものだと考えているからだと思います。逃避するというのは、一時的ではありますが、簡単に不快感から逃れることができます。カンフル剤のようなものになるのです。実際には、そのような手っ取り早い手段を使って、解決しようとすることが、症状をどんどん増悪させていくのです。そのことが頭で分かるのではなく、心の底から体感できるかどうかが、その後の展開を大きく左右します。そのためには何度も失敗を繰り返して、いったんは絶体絶命のところまで落ち込むという体験が有効になるのです。中途半端はあまり効果がありません。これは不安神経症の場合は、生きるか死ぬかという切実な問題が突き付けられるのでそういう体験がすぐにできます。強迫神経症は生死に直結しないのでそういう心境に追い込まれないのです。なんとかなる、救いの道があるはずだと考えている段階では、いつまで経っても、その覚悟を固めることができないのです。私がスタート地点にたどり着くまでに15年かかった原因はここにあります。覚悟を固められるかどうかが、対人恐怖症が治るかどうかの分岐点になるのです。そういうマイナスの感情を放置することができるとどうなるのか。オリンピックのマラソン選手が選考レースを勝ち抜いて、スタートラインに立つことができたようなものだと思います。日本人の出場枠は3人程度です。並みいる強敵に打ち勝ち出場権を得るまでは大変な努力と実績が必要になります。でもここでスタートラインに立てたという意味は大きいと思います。その先にはまた大きな試練が待っているのですが、まず出場権を得ないことには、メダルを獲得することは、絵に描いた餅になってしまいます。森田も同じです。神経症を治そうとしないという覚悟を決めることがとても重要になるのです。神経症が治るかどうかのポイントはここにあるといっても過言ではありません。対人恐怖症の人が、不快感、不安感、恐怖感を取り除くことを断念すると、今まで無駄に使っていたそのエネルギーを別な方面に振り分けることができるようになります。家でいえば、コンクリートの基礎(土台)がしっかりと完成したので、その上に自分の思い描いた家を建てることができるようになるのです。森田ではその方向に向かうことを「生の欲望の発揮」といいます。出発点から、目線を一歩上に向けて、問題点、課題、目標の達成に向けて歩みだすことができるようになるのです。生産的。建設的、創造的な行動がとれるようになるのです。治そうという態度ではそんなところに注意が向かないと思います。とくかく神経症の苦しみを取り除くことが最優先になるからです。対人恐怖症の人が、不快感、不安感、恐怖感に襲われたとき、難しいことですが、深入りしないでさっと流し、目の前のなすべきことに取り組めるようになったときが対人恐怖症を克服した時です。症状が治ったかどうかを詮索するよりも、不快感、不安感、恐怖感などを、我慢して受け入れられるようになったかどうかを問題にすることがより重要になります。そしてスタート地点に立ち、目の前のやすべきこと、課題などにエネルギーを投入できるようになった人は、ほぼ対人恐怖症を克服した人です。そういう視点で、対人恐怖症を克服した人を集談会の中で探してみましょう。そして、どうすれば不安などに耐えられるのか、我慢して受け入れられるのか聞いてみてください。さて明日は対人恐怖の私が、生活の発見会活動の中で、学んだこと、役に立ったこと、実践していることを紹介します。
2021.01.10
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今日は対人恐怖症は治そうと努力すればするほど悪くなるというテーマです。こればどういうことだ。意味不明と思われる人が多いと思います。私は小学生のころから対人緊張が激しかったのです。中学生のころから、他人の思惑が気になってしかたがありませんでした。高校、大学、社会人になってからも苦しんできました。森田療法に出会ったのは、会社勤めをしていた37歳の時です。長谷川洋三先生の「森田式精神健康法」で生活の発見会を知りました。その時は会社内で人間関係が悪化して孤立していました。この本を読んで、私の対人恐怖症が治せるかもしれないと直感しました。あれから34年。ほぼ毎回集談会に参加してきました。入会してから「症状はそのままにして、なすべきことをなす」をキャッチフレーズとして、実践目標を掲げて頑張ってきました。世話役も引き受けて、様々な経験を積み重ねてきました。1年ぐらいですぐに効果が現れました。きめ細かな仕事ぶりで、上司からも信頼されるようになりました。ボーナスの査定もよくなり、昇進もできました。プロジェクトのリーダーにも推挙されたこともあります。行動面は申し分なかったのですが、対人恐怖症の葛藤や苦悩は全く改善できませんでした。昨日投稿したような葛藤や苦しみはどんどん強くなりました。その後15年くらいは、依然として対人恐怖症でのたうち回っていたのです。そんなある日のこと。森田先生の次の言葉にくぎ付けになりました。「神経質の症状はこれをなくしようとする間は、10年でも20年でも決して治らない。治すのをやめたら治る」これってなんかおかしくない。森田療法で対人恐怖症を治そうとしている人は、みんな涙ぐましい努力をしているではありませんか。そのために森田理論学習を続けているのですよ。森田療法は神経症を治すためにあるのではないのですか。治そうという努力をしなければいつまでも神経症で苦しむことになるじゃありませんか。何もしないほうがいいというのが、どうしても腑に落ちなかったのです。これが私の言い分でした。憤懣やるかたない気持ちになりました。つまりこの言葉は自分とは縁がないものだと思っていたのです。今考えると、これが最大の誤算だったと思います。反発心を持ったまま、症状から解放されることもなく、失意のうちに15年の年月が流れました。そのうち、森田理論にはたいした期待もしなくなりました。生活の発見誌も読まなくなりました。でも世話役をしていたので、仕方なく生活の発見会には残りました。懇親会での宴会が楽しみという有様でした。ある日の集談会の体験交流の時、ある方が「森田はまな板の鯉になったような気持で取り組むとよい」という話をされました。症状を治すという気持ちを捨てて、焼くなり、切るなり好きなようにしてくれという開き直りの気持ちになれば症状は治るといわれるのです。私はそれを聞いて、なるほど、これが森田先生の治そうとする間はいつまでも治らないという意味ではないかと理解しました。15年も対人恐怖症で苦しみ、絶体絶命、自暴自棄になっていましたので、この言葉は比較的すんなりと心の中に入ってきたのだと思います。ここでイチかバチかで、いったん治すことをやめてみようと決意したのです。このように決意すのまで15年の長い年月が経過していたのです。では果たしてどんなことができるか考えました。私の場合は対人恐怖の症状が出ると、一目散に逃げるという習性があります。逃げたのでは症状は取り去ることはできませんが、逃げた瞬間一時的に精神的に楽になります。逃げまくることで不快感、不安、恐怖から逃れようとしていました。でもその反動は実に恐ろしいものがありました。そのあとの味気なさは言葉では言い表すことができません。アフリカの草原でライオンに追われる小動物は一目散になって逃げています。逃げれば逃げるほどライオンは勢いよく追い掛け回して最後は仕留めてしまいます。私も症状から逃げれば逃げるほど、症状に追い掛け回されてしまうのです。そして症状はどんどんと雪だるまのように大きくなるのです。増悪してくるのです。そこで何とか踏ん張って、逃げないで一旦不快感、不安、恐怖を受けいれてみようと考えました。それも最初は10回に1回か2回受け入れられればよいという気軽な気持ちでした。受けいれたら自分で自分を誉めて、ご褒美を与えることを考えました。つぎにミスや失敗については、ごまかさない。隠蔽工作をしない。事後報告をすぐに行うようにする。弱点や欠点については取り繕ってなかったように見せることは止めよう。ありのままの自分をさらけ出してみよう。批判、叱責、否定されたときは、言い訳は止めよう。反発したり、喧嘩を売るのは止めよう。自分が悪かったら素直に謝ろう。相手の言い分を聞いてみよう。すぐにはなかなか実行できませんでした。いつも反省して、今度こそはという気持ちは常に持っていました。これらは、対人恐怖に伴う不快感、やりきれない不安感、恐怖を是非善悪の価値判断をしないでそのまま素直に受け入れることにつながります。これがその後の展開を大きく変えていくことに気づかされることになりました。この続きは明日投稿いたします。
2021.01.09
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今日から4日間にわたり、対人恐怖症や人間関係に問題を抱えている人の為に解決のためのヒントを投稿していきます。今回は対人恐怖症の人の特徴と問題点です。対人恐怖症の人は、他人の評価を気にしています。他人から自分の存在を無視される、軽くあしらわれることが我慢できません。また自分が完全に否定されて仲間として扱われなくなることを恐れています。欠点や弱点は他人につけ入るすきを与えているので、できるだけ隠蔽工作をします。ミスや失敗は、叱責、非難、否定の原因になるので、報告を遅らせ、ごまかし、責任転嫁をしようとします。注意や意識の大半が他人の動向に向けられています。他人が自分ことをどう取り扱ったか。またどう取り扱おうとしているのかを予測して、ビクビクしているのです。注意や意識が外向きにならず、内向きで、防衛一辺倒になっています。相手とけんか腰、対立関係に陥り、友好な人間関係を持つことができません。力の弱い人とは喧嘩をし、力の強い人には近づかないようにしています。あるいはしっぽを巻いてすぐに逃げる。最終的には、他人との信頼関係は持つことができなくなる。対人恐怖症の人は、他人から一目置かれる人間にならなければいけないという「かくあるべし」が普通の人と比べるとはるかに強いのが特徴です。自分のことを尊重してほしい。大切に扱ってほしい。評価してほしい。誉めてほしい。などという気持ちがとても強いのです。ところが、現実は自分の考えていることとは真反対のことばかり起きるので、そのギャップのはざまで葛藤や苦悩と闘っているのです。どうにもならないので精神的にも疲れ果て、肉体的な病気にもかかります。ネガティブで悲観的なことばかり考えてうつ状態になります。生きて行くことが苦しい。希望が持てない。そして予期不安に振り回されて、益々他人との接触を避けるようになります。他人との接触を避けていると、人間関係の社会体験が不足してきます。その結果、他人との距離感がつかめない。どう付き合ってよいのか分からない。特に異性と何を話してよいのか、どう付き合ってよいのか全く見当がつかない。他人は恐ろしいものという先入観や思い込みがどんどん大きくなっていきます。針の筵に座らされているようで、生きることは苦痛以外の何物でもないと考えるようになる。投げやりになり、ストレス解消のために、刹那的、刺激的な快楽を求めてさまようことになります。その日暮らしに甘んじた生活に陥ってしまいます。万策尽き果てて、集談会にやってくる人が多いように思います。私も対人恐怖症と格闘してきましたので、なんとか打開してほしいのです。明日は対人恐怖症は治そうと意気込んではますます悪くなると題して投稿します。
2021.01.08
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岡田尊司氏が「カサンドラ症候群」という本を書かれている。内容は夫婦の人間関係の問題点を指摘されている。夫婦の気質の違いが、家庭内別居や離婚に至るケースが後を絶たない。同じ家に住んでいても、会話が全くない、食事も別々、洗濯も別々という夫婦である。結婚当初はこの人なら一生添い遂げられると思っていたのに、いつの間にか決定的なボタンの掛け違いが起きてしまったのである。こうなると精神的に苦しくなり、身体面にも悪影響を与える。離婚してしまうと、精神的には楽にはなるが、経済的には苦しくなる。また子供への悪影響が懸念される。岡田氏は気質の違いについて次のようなパターンが多いと分析されている。夫婦のどちらか一方が、外見的には、理知的、勤勉、理想的、口数が少ない。将来のことも計画的に考えている。人間としてしっかりしている。それらが結婚する前には、安定感、信頼感、責任感がある人に見えてしまう。その一方で、家庭を持っても単独行動を好む傾向が強い。親戚付き合いや近所の人との交流は避ける傾向がある。多くの人との交流を楽しむというのではなく、自分の趣味を見つけて自分の世界に浸る。他人との交流の中で楽しみや心の安定を見つけたいという気持ちが希薄なのです。家事や育児を手伝うということも希薄である。妻が病気になっても、親身になって心配することがない。「すぐに病院に行きなさい」と指示しても、「今日の夕ご飯は外で済ましてくるから心配しなくてもよい」などと言う。病気の妻の看護や食事については無頓着なのである。また育児や子育てに関しては妻に丸投げとなる。授業参観日にも学校へ行くようなことはない。また単身赴任になっても動じることがない。水を得た魚のような感じで、赴任先での生活を謳歌している。月に一回の帰省も煩わしいとさえ考える人もいる。単身赴任先の気ままな生活が自分にはぴったりだと思っている。こういう人の特徴は、共感的な思いやりや情緒的な反応が元々乏しいのです。岡田氏は愛着障害や大人のアスペルガーを抱えている人もいると指摘されている。オキシトシンという愛情ホルモンの出が悪い人なのです。私が見るところ対人不安を抱えている人はこの傾向が強いように思う。反対に不安タイプの人は、家族や仲間の和を大切にされるケースが多い。そういう視点で人間観察をしてみると、はっきりと認識できると思います。共感性や情緒的なつながりを大切にする女性が、こういう傾向の人と結婚するとどうなるでしょうか。自分は自己中心的で思いやりのかけらもない鉄仮面のような様な相手を選んでしまった。人生最大の汚点であったと考えてしまうのではないでしょうか。一刻も早く離婚したい。経済的な理由で離婚不可能なら、没交渉でやっていくしかない。家庭内別居で会話もない。食事も洗濯も別々というふうになります。そういう夫婦が同じ家に住んでいると、精神的、身体的な悪影響がでてまいります。この問題はどちらが良いとか悪いとかの問題ではない。お互いに自分の気質とは、相いれない人と結婚したのだという認識を持つことが必要になると思う。認識できれば、その大きな溝をどうすれば埋めていくことができるかという出発点に立つことができる。認識できなければ、今の状態が継続されて、夫婦の人間関係は完全に破綻してしまう。自己中心的な人は、共感性や情緒的な人間的なつながりを求める配偶者に対して、歩み寄る必要があります。例えば、仕事先から「今から帰ります」というメールをする。急な飲み会に誘われたときは、事情説明をして了解を得る。土日はできる限り子供や家族で過ごす時間を作る。月に1回は、配偶者や子供のために花やお菓子などのお土産を買って帰る。単身赴任の場合は、必ず月に1回か2回は帰省する。あるいは家族を単身赴任先に呼び寄せる。子供の授業参観日には極力行くように心がける。家事の分担を決めて毎日手伝うようにする。年に1回は家族旅行を企画して、団体行動をする。これらは単独行動を好む人は面倒に感じることばかりです。ですから、あえてそういう意識を持って行動する習慣を作り上げる必要があります。これらはその気になればすぐに実行可能なものばかりです。この積み重ねが大事なのです。そういう気持ちをしっかりと持っていないと、絵に描いた餅になってしまいます。その認識を持つことが大切です。共感性を大切にする人は、単独行動を好む人に対して、あまり多く口を挟まない。相手の行動に対して、大きな支障がない限りは、大目にみてあげる。許してあげる。包容力を持って、見守るというイメージです。問題がある場合は、私メッセージで伝える。溝を埋めるために、イエローカードを利用する。家族会議を行う。難しいときは、カウンセラーなどに立ち会ってもらう。つまり森田理論でいう不即不離の夫婦関係を目指すということです。せっかく縁あって一緒になったわけですから、お互いにいがみ合って心身共に疲弊してしまう事だけはなんとしても避けたいものです。再婚して新しい生活を求める人もいますが、精神的・経済的には大変な思いをされている人が多いように思われます。
2020.12.28
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今日は森田理論を応用して上司が部下を成長させる方法について考えてみたいと思います。仕事をしているとミスや失敗は避けて通ることができません。ライバル会社との受注争いに敗れてしまうことは、日常茶飯事です。こんな時、怒りを抑えきれない上司からきびしく叱責されます。「どうしてこんなミスをしでかしたのだ。仕事に身が入っていないからこんなことになるのだ。馬鹿者が・・・」「君はこの仕事に向いていないようだ。会社のお荷物だからさっさと辞表を出せ」「この損失を取り戻すことがどんなに大変なことか分かっているのか」そして事態の収束に向かって矢継ぎ早に指示や命令を出します。部下はそれに従うだけです。それで仮に何とか収まっても部下は後味の悪さが残ります。後悔で苦しみ自信喪失します。積極的に仕事に取り組むことができなくなってしまいます。仕事を通じて自分を成長させることもできなくなります。仕事をすることが苦痛になります。こういう悪循環から抜け出しませんかと森田理論は訴えかけています。森田理論ではやる気や意欲を高めるためには、先ず目の前の出来事をよく「見つめなさい」と言います。現状を正しく把握するということです。すると感情が動き出してきます。気づき、発見、疑問、改善点、改良点、興味や関心、課題や目標が見えてきます。対策を考えているうちに工夫やアイデアが生まれます。そして行動して何とか問題を解決しようという気持ちになります。このようにして、初めてやる気や意欲が高まってくるのです。問題が解決し、目標が達成できると嬉しいものです。自信がつき、自分が成長できて、さらに大きな課題や目標、夢や希望に向かって歩みだしていけます。本来の人間の生き方はこの路線に乗っかっているかどうかということになります。これをそっくりそのまま部下との人間関係作りに応用できると好循環が生まれると思います。1、ミスや失敗などは隠蔽し、捻じ曲げられるようなことがあってはりません。そのような事案が発生したら、すぐに事実をありのままに報告させることです。感情的にならず、事実を正確に把握するということが肝心です。そうすることが事態を悪化させないために大切だという認識を持っているということが重要です。そういう会社の風土を作っておくことが大切です。2、次にミスや失敗に対して、部下に弁明の機会を与えることです。短絡的に叱責して責任追及をするのではなく、相手に話させて、考えさせるのです。どういう問題があったのか。発生原因について自分ではどう考えているのか。この事態を収束するために、自分としてはどんな対策をとればよいと考えているのか。上司に対してどのような援助を期待しているのか。3、上司はまず部下の意見を尊重する。不十分なところや問題点があれば、上司としての意見を述べる。捕捉やアドバイスを行う。「最終責任は私がとるので、思い切ってやってみろ」と後押しする。部下の動向を見守りなから、必要に応じて軌道修正を促す。この方向ですと、部下がミスや失敗に向き合うことができるようになります。まず正しく現状把握ができます。次に感情が動き出します。問題の解決に向かって、いろんな気づきや発見が生まれます。課題や対応方法を考えることができようになります。積極的な行動ができるようになります。ミスや失敗によってさらに自分が成長できることになるのです。上司は自分だけがやる気や意欲を高めても、そんなに大きな成果は出ません。課員や部員の一人一人がやる気や意欲を高める仕組みづくりかできていれば、自ずと会社の業績は上がってきます。これがポイントとなります。森田理論を学習している人は、いずれ集談会では先輩会員になります。家庭では親として子供を育てる立場になります。会社ではいずれ上司として部下を指導する立場にたつことになります。そのほか自治会の役員になることもあるでしょう。そんな時に、いかにして森田理論を応用して、相手のやる気や意欲を引き出していけるかがあなたの腕の見せ所になるのです。慣れてくればそんなに難しい事ではありません。それで人間関係が改善されて、信頼されるようになればこんなにうれしい事はありません。
2020.12.23
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生活の発見会の中で、森田理論の「不即不離」をどう活用していくとよいのか考えてみたいと思います。不即不離というのは聞きなれない言葉ですが、親しくて中身の濃い人間関係作りを目指すことではありません。頭の中で考えると、その方が効率的で素晴らしい人間関係を築くことができそうです。実際にその方向を目指している人が多いと思います。傍から見ていると、金魚の糞みたいにいつまでもどこまでも一心同体の信頼関係を求めているように思われます。この方法は実践してみると必ずしもうまくいきません。一時的にはうまくいくかもしれませんが、ちょっとした対立をもとにして解消せざるを得なくなることの方が多くなる。そうなると、自分としては孤立の道を進むことになります。あれ程相思相愛だったのに、今や顔も見たくない犬猿の仲にまで発展することもあるのです。森田でお勧めしているのは、浅くても薄くてもよいので、幅広い人間関係作りを目指しましょうという考え方です。これを集談会の中でどう実現していくのか。まずは地元の集談会に参加するようになると思います。そしてずっとそこから出ることもなく参加し続けるケースが多いと思います。特に地方の場合はそうなると思います。参加者がどんどん増えて、交流の場が広がっていく場合は、変化があり幅広い人間関係を作り上げることができます。ところが新しい参加者がいない。それよりも参加者が固定されていてマンネリに陥っている場合は注意が必要です。この状態に甘んじていると、井の中の蛙状態の人間関係にどっぷりと漬かってしまいます。好むと好まざるとにかかわらず、不即不離の人間関係作りから外れてしまいます。この方向は弊害が多くなるとみております。それをどう打ち破って不即不離の人間関係作りを目指していくのか。近くの集談会だけではなく、たまには近隣の集談会にも参加してみることです。あるいは旅行や出張のときに、参加者が多いと言われている集談会に飛び入りで参加してみる。どこでも大歓迎してくれると思います。これは間違いないです。これを多くの人が実践するようになるとよいのです。自分だけではなく、他の人や他の集談会の活性化につながります。自分が参加している集談会だけを取り上げていかに活性化しようかと思案するよりも、これを実行するだけでどんなに大きな効果があるか、計り知れないものがあります。目標の立て方を誤らないようにする事が大切です。面白そうな活動を模索していると、参加者は増えていくと思います。相互交流を取り入れることで、簡単に不即不離の人間関係に作りに入る事ができるようになります。生活の発見会の場合は、一度顔を合わせた経験は、その後の交流につながります。ラインでつながったり、体験発表や派遣講師の交流につながることもあります。個人としては、森田が目指している薄くて幅広い人間関係作りを体験することができるのです。人間関係の極意を身に着けることになるのです。それから私たちの瀬戸内支部では、1年に1回支部単位の宿泊を伴った研修会があります。瀬戸内支部の所属集談会は15くらいあります。こうした研修会に参加することで、不即不離の人間関係を簡単に作ることができます。私たちの支部研修会はすっかり定着しまして、はじめてから25年くらいになります。今では他の支部からの参加者も受け入れています。参加者は40名から50名くらいです。くつろいでお酒を酌み交わしながらの交流は誰でもすぐにうち解けます。ここでの人間関係作りが、どんなに自分たちを支えてくれているのか、計り知れないものがあるのです。不即不離の人間関係とは、こういうことを言うのだなということが実感できるようになります。狭い集談会の中で対立関係に陥っても、立ち寄世ることができる安全基地を別に作っているような状態になります。私たちの瀬戸内支部では、これを九州支部や関西支部と合同にすれば、さらに不即不離の人間関係の輪が広がるのではないかと模索しているところです。そういう方面に注意や関心を向けている人は、私生活の面でも趣味の会、同窓会、OB会、地域の活動、仕事関係、子供関係などの人間関係作りも熱心になると思います。必要に応じてくっつき、必要がなくなれば離れるという不即不離の人間関係が自然に身に付くのです。この人間関係は本当に楽になりますよ。そういう多彩な人間関係に囲まれていると、対立した場合は、一時的に付き合いを中止して時間の経過を待つこともできるようになるのです。実際に体験することによって認識の間違いを正していくことを、森田理論では修養と呼んでいます。対人恐怖症で苦しんでいる人はぜひとも取り入れてみてください。
2020.12.06
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孔子の言葉だそうだ。偉い人は人の意見を尊重して、いたずらにこれを排斥せず、しかも自分の意見は持っている。下等の人は、人が何か言えばただちにそうかと思いながらも一度は争ってみる。偉い人は衆議に服従するけれども、自分の見識は動かない。下等の人は自分の見識はなくて、いたずらに屁理屈をいって、自己の存在を目立たせようとする。(森田全集第5巻 白揚社 412ページから413ページ)耳の痛い言葉である。自分にもそういう傾向があるからだ。誰かが何か言うと、すぐに上げ足をとって、非難的で反対意見を述べる。その人たちは「そうはおっしゃいますが・・・」というのが口癖である。普段から憎々しく思っている人に対しては、相手の話を聞こうという気持ちが最初からないのである。そういう人の反対する理由を聞いてみると、ただ反対のための意見を述べているのに過ぎないので話の中身が薄い。話を聞いてみるとすぐに正体が分かる。森田理論を深めている人は、とにかく相手の意見や考え方に耳を傾ける。最初から反対のための反対意見を述べることは皆無である。目には目を、歯には歯をというような対立関係にはなりにくい。そして評価できる点はないか、貴重なアドバイスが含まれていないかという気持ちで対応する。片寄った先入観や悪いと決めつけるようなことがない。そして、特徴的なことは、元々自分の意見や考え方は、しっかりと持っている。普段から疑問に思ったことは徹底的に分析して、それなりの考え方を確立しているのだ。その立場と相手の考え方の違いはどこにあるのか、しっかり把握しようとする。立場の違いがはっきりすれば、その溝を埋めるべく話し合いをしていく。自分の考え方よりは、相手の主張が理にかなっていると思えば、自分の考え方はあっさりと取り下げる。自分の考え方のほうが、理にかなっていると思えば、相手が納得してくれるまでとことん説明する。違いを乗り越えて妥協する。調和を目指す気持ちが強いのだ。そう気持ちがあれば、たとえ相手から反対意見を述べられても、感謝こそすれ、腹立たしくはならないと思う。周りの人とともに、より良い方向性を目指していくという立場に立っている。こういう立場は、相手の存在、人間性を最大限に尊重しているので、友好的な人間関係に発展していく。自分の周りに自然発生的に人の輪ができるのである。楽しく生活できる。反対に、相手の存在を軽々しく扱い、人間を人間とも思わないような態度をとる人は、孤独な人生を歩んでいくことになる。他人と対立関係の態度をとり続けている人は、そういうオーラをプンプンと周りにまき散らしているのですぐに分かる。笑顔がない。険しい顔つきをしている。いつも難しい事を考えているようではあるが、中身は貧弱だ。自己防衛に躍起になっている。その態度がオドオドして自信のなさを醸し出している。言葉遣いが、ぞんざいである。けんか腰である。懸命に孤軍奮闘しているが、第三者から見ると、その姿は痛々しく見える。それは反対することでかろうじて自己存在理由を探し出そうとしているからである。そういう人には近づかないほうがよい。危害を加えられないように遠巻きに構えて見守る事が鉄則である。これは森田理論の不即不離の考え方の応用である。君子という人は、「かくあるべし」を他人押し付けることの弊害についてよく分かっている人だと思う。相手の意見や考え方、存在、性格、能力、職業、境遇などをあるがままに認めて、受け入れることができる人であると思う。そして大きな包容力で、相手を許すこともできる。森田理論を哲学にまで高めて、日常生活の中で縦横無尽に活用している人だと思う。自分は小人だと思う人は、森田理論を深耕することで、多少なりとも君子への道が開けてくるはずだ。
2020.11.26
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10月号の生活の発見誌に人間同士の付き合いについて次のように提案されていました。家族懇談会、親戚づきあい・兄弟姉妹でのカラオケ・同窓会・PTA・町内会・趣味のサークル・防犯防災の会、他のNPO法人といった発見会以外の身近で普通の社会活動をバランスよくやってみることもお勧めします。ごく少数の特定の人と親密な関係になるのではなく、その時その場の必要に応じて、引っ付いたり離れたりの人間関係を目指す方がよいといわれているのだろうと思います。森田でいうと、変化に対して臨機応変に対応できる不即不離の人間関係を目指すということになります。これは年賀状をどういう人たちに何枚出しているかでだいたい分かります。集談会の仲間、仕事関係、以前の職場の仲間、親戚関係、様々な趣味の仲間、子どもの関係で知り合った人、資格試験の仲間、スポーツや釣りの仲間、麻雀仲間、飲み友達、カラオケ仲間、株式研究会の仲間、同級生、町内会、田舎で近所付き合いをしている人たちなど。年賀状を出す時期になると、それぞれに思い出がよみがえります。遠くに住んでいて義理で出しているような人でも、近くに旅行するようなときに、連絡を取り合って会うことができると至福の時間を過ごすことができます。私はこの考え方でやっています。以前はコップ一杯の人間関係を5つぐらい作ろうと思ってやっていました。この方法はうまくいきませんでした。自分は親友だと思って深入りしても、相手にとっては煩わしく思っている場合もありました。またいくら親しくしていても、何かをきっかけにして、溝ができてそれが大きく広がっていくこともありました。この方法では、最後は孤立してしまう事になるのです。特定の人と一心同体になるような親密な人間関係作りは要注意だと思います。コップに少ししか飲み物が入っていない薄い人間関係は精神的に楽です。そういう人間関係を広く浅く作ることが森田の目指しているところです。友達の友達はまた友達という事になります。そういう関係にあると、自分が困っている時に、助けになる適切な人が頭に浮かんでくるようになります。人間関係は憎みあったり、対立関係になるケースは必ずでてきます。そういう時は、今は縁のないときだと判断して、基本的には距離を置き、離れてしまえばよいのです。その方が、ストレスが溜まりません。
2020.11.21
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今日は会社の中での人間関係で苦しんでいる問題について考えてみましょう。会社では上司や同僚などから、批判、否定、強制、対立、無視、リストラの危険にさらされています。ミスや失敗、会社に損害を与える、ノルマの未達、仕事の遅延、指示や命令に従わない、無気力でやる気が見られない、自分勝手で協調性がないと判断されると、容赦なく叱責、非難されます。また馬が合わなくなり、特定の人と犬猿の仲に陥る事があります。同じ事務所の中にいるのに、口をきかなくなります。挨拶もしないという人です。組織の中で周りの人から嫌われるということは、異物として組織から排除されてしまうのではないかという不安が付きまといます。そうなると社会的には死んだも同然ということになります。排除されてしまうと、収入源がなくなるわけですから、再就職先を探さなければならなくなります。こういう状況に陥る事は何としても避けたいということになります。そのために、自分の考えや言い分は抑圧して、相手の考えや言い分に同調するようにふるまうようになります。相手から「かくあるべし」を押し付けられても、言い返すことをしない。心の中では猛反発しながらも、表面的には波風を立てないで、平静を装っているのです。それが少なくとも一日の時間の三分の一以上を占めて、ストレスをため込んでいるのです。精神的疾患を発症するのは時間の問題だと思われます。この問題に対して、森田理論では人間関係は「不即不離」でいきなさいと教えてくれています。人間関係は、引っ付きすぎず、離れすぎずの距離感を維持することが大切であるという考え方です。会社では仕事の必要に応じて、必要なだけの人間関係を維持するだけで十分だということになります。親密な人間関係の構築を目指して、維持しようという考え方は間違っていますよと教えてくれているのです。薄くて幅広い人間関係を目指しているのが森田理論なのです。会社の中では極力必要以上の親密な人間関係を作ろうとしない気持ちが大切なのです。ところが神経質者は、問題のある人間関係が発生すると、それにのめりこむという習性があるのです。井の中の蛙というか、自ら対人関係での問題を作り出して、さらに増悪させているのです。それが、ちょっとした注意や叱責、非難や否定に対して、過剰反応する原因になっているのです。普通の人は嫌なことがあると、その時は落ちこみますが、すぐに水に流すことができているのです。会社勤めは生活費を得ることが第一の目標です。それが達成できていれば、人間関係に問題があっても、会社に残る事は可能です。ところが、会社での人間関係で悩んでいる人は、その目標を忘れて、人間関係を良好に保つことだけにフォーカスしているのです。本末転倒なのです。これではたとえ転職してもまた同じ問題で悩むということになります。森田理論で「不即不離」の人間関係を学び、実生活に活用している人がいます。そういう人は、会社の人間関係だけではなく、幅広い人間関係を構築しています。まずは集談会の人間関係を大切にしている。ここに参加していると、かかりつけのカウンセラーを持っているようなものです。神経症に限らず、人間関係、生活上の問題点、人生観の確立に至るまで幅広く相談することができます。その他、同級生、隣近所、地域活動、親戚、家族、趣味の会、勉強会。スポーツ仲間、学習仲間、OB会などの付き合いも大切にしています。そういう多彩な人間関係の中で生活しているのです。会社の人間関係だけにどっぷりと漬かっている人は大変危険です。その割合が現在100%に近いのでしたら、その比率をどんどん下げていくことが当面の目標になります。薄く幅広い人間関係を目指すことで。結果的に会社での人間関係も改善できるというからくりになっているのです。
2020.11.20
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私たちはどういう境遇の下でこの世に生を受けたかにより、その後の人生が運命づけられてしまいます。どんな国に生まれたのか、どんな時代に生まれたのか、どんな家に生まれたのか、どんな親から生まれたのか、男に生まれたのか、女として生まれたのか、どんな性格に生まれたのか、どのような潜在能力を持って生まれたのか、五体満足の身体で生まれたのか、そうではなかったのかなどです。このような境遇は自分が選択することはできません。その事実を価値批判しないで受け入れるしか方法はありません。ところが人間という生き物は、なかなかその事実をすんなりと認めようとはしません。知恵がついてくると、現実、現状、事実を上から下目線で見下ろして、価値批判するようになります。そして反抗し、否定するようになります。自分という一人の人間の中で、敵と味方に分かれて、絶えず戦いを繰り返しているようなものです。力関係から見ると、観念のほうが圧倒的であって、事実の方を痛めつけています。事実の方は誰の援助も受けられず、無援孤立状態に陥ります。雲の上にいる自分が現実の自分に寄り添ってくれるようになると精神的には楽になるのですが、そういう方向に向かいにくいのが人間の性かもしれません。例えば自分を生んで育ててくれた親の恩を忘れて、親に反発してしまう人が多いのが現状です。親がパーフェクトであったならば、今の自分はこんなに苦しむことはなかったはずだ。親のしつけ、子育て、教育はあまりにも問題が多かった。不幸な子供をこの世に作り出しただけだ。あってはならなかったことだ。だいたい親になる資格のないような人が、子どもを作ったのだから救いようがない。一方親は子供のことは目の中に入れてもいたくない。むしろかわいくて、心配で仕方がないのです。でも子供の方は「親の心、子知らず」で反発するばかりです。こうなりますと、必然的にいがみ合い親子の断絶となります。そして自分が親になった時に、実の子供から同じような目にあわされることになるのです。まさに歴史は繰り返されているのです。こういう人は、親だけを拒否し、否定しているだけでは済まないのです。生まれた国、時代、家柄、性別、性格、能力、容姿などすべての分野にわたって、批判的・否定的な立場に立っているのです。これらの多くが自分と敵対関係にあるのです。自分と対決している存在として自己認識しているのです。心穏やかに暮らせるはずがないのは当たり前のことです。この問題の解決策は森田理論の中にあります。一言でいうと事実唯真という考え方です。難しい言葉ですが、「かくあるべし」という態度を減少させて、事実本位に生きていくということです。事実を受け入れていくと、無駄なエネルギーを浪費することがなくなります。事実を見つめていると、建設的、生産的、創造的な課題が見えてくるようになります。そこにエネルギーを投入すると、生きがいが生まれてきます。目標が達成できれば自信もつきます。そしてさらに大きな目標を持てるようになります。人生の苦しみはありますが、神経症的な葛藤や苦悩はなくなります。森田理論は、自分の境遇を価値批判することはやめましょう。どんなに過酷で理不尽だと思っても、その事実を認めて受け入れる態度が何よりも大切なのだと教えてくれています。そこにしっかりと足場を固めましょう。足場を固めたら、それぞれの人が、それぞれの能力、持てる力を精いっぱい活用して、運命を切り開いていきましょうという理論なのです。その方向性を目指すことが、人間としてまっとうな生き方ではありませんかと教えてくれています。事実本位の立場に立てば、どんなに反発していた親でも、同じ時代を懸命に生きてきた仲間として、親しみが湧き上がってくるのではないでしょうか。いつの時代でも100%完全な親はいません。不完全な親でありながらも、元々は子供の成長と幸せを願ってきたのです。そんな親が子どもに対して、何とか幸せになってもらいたいと思っていたのに、思い通りにならなかった。むしろ子供との人間関係がぎくしゃくしてきた。心の中では申し訳なかった。親としては失格だったねと謝っているのです。その思いをくみ取って、心から許してあげることができないものでしょうか。親を許せるようになった時、親子の関係はよくなります。さらに自分を取り巻く境遇に対しても、寛容な気持ちで受け入れることができるようになるのです。対立関係にあった状態から、友好関係に変わるわけですから、生きやすくなるのです。そうならないと、自分が親になったときに、子どもに対して申し訳なかったと懺悔するようになるかもしれません。この問題は、不完全な親、理不尽なことをいう親であっても、その事実を認めて受け入れることができるかどうかにかかっているように思います。
2020.11.04
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2020年11月の生活の発見誌に「和談」という記事があった。これは「かくあるべし」を相手に押し付けるのを防止する効果があると思いますので紹介させてもらいます。和談というのは相手の意見を聞いた後、先ず「なるほど」ということをルールとします。自分の方に異論があっても無くても「なるほど」と返事をするのです。それから、決して相手の意見を頭から否定しないことがルールです。「なるほど」と先ず相手の話を聞いて肯定的に受け取り、そのあとで自分の意見を出すようにします。このような話し方を「和談」と呼んでいます。和談による話し方ですと、意見交換が和やかに進み、お互いの意見の違いによる「対立や不和、喧嘩、争いなど」などが起きなくなります。さらに、みんなで話し合った結果は、創造性のある建設的で優れた解決策を生み出すことにつながる話し方なのです。例えば、「なるほど、そうですか。でもこんな意見についてはどうでしょうか」「なるほど分かりますよ。私も以前はあなたと同じことを考えていました。でも、今は、こんな風に考えているんですよ」「なるほどね、そうなんですか。分かります。しかしながら、こういった意見についてはどう思われますか」・・・会議などにおいて、せっかく勇気を出して発言した意見などに対して「それは違う」と他の人に頭から否定されたり、いきなり「それは間違いです」とみんなの前で言われたりしますと、あまりいい気持ちはしないものです。中には腹を立てて話す気にもならず黙り込んでしまうという方もいたりします。目上の方には「なるほど」の代わりに「おっしゃる通りです」とか「その通りだと思います」などが宜しいかと思います。または、「なるほど、おっしゃる通りです」や「なるほど、その通りだと思います」と、付け加えるようにするといいですね。(生活の発見誌11月号 46~49ページ引用)この和談という考え方は、「かくあるべし」から事実本位に移行するための一つの手法として付け加えたいと思います。「私メッセージ」に匹敵する、素晴らしい考え方です。いきなり自分の考え方を、一方的に相手に向かって話し、対立関係になることを防止してくれます。「なるほど」という言葉は本心ではなくてもいいのです。形から入るということが肝心です。相手と話しするとき口癖にして、しまうことが大切なのです。これによく似た言葉で「そうなんだ」という言葉をよく耳にします。「分かるよ、あんたの気持ちは」というのもあります。これも「なるほど」という言葉に共通することがあります。これらは別に本心から出た言葉でなくてもよいのです。そういう態度が習慣化されているということが大事なのです。自分の立場、考え方、気持ちを最優先するのではなく、まず相手の立場、考え方、気持ちに寄り添うという気持ちが優先されています。ここが肝心なところです。こういう人間関係は歯車を動かす時に、潤滑油が十分に行き渡っている状態です。そうでない場合は、常に対人関係で対立を招き、歯車でいえばギイギイと音がしている状態です。その時、我々の場合でいえば自己防衛にシャカリキになってしまうのです。そして本来の生き方からずれて行ってしまうのです。
2020.10.29
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第47回形外会において、林さんが森田先生に次のように質問している。上役の人と議論するとき、自分の意見が正しいと思うけれども、しばらくその場ではその人の意見に賛意を表すことがある。そして時を経て後に、自然にそれに対する説明の工夫もできて、おもむろにその人に対して、あのことはこうも考えられないでしょうか、という風に持ちかければ、何かにつけて円滑にいくのではないかと思います。上役と意見が違うからといって、直ちにその場で反抗してしまえば、長上の顔をつぶすことになるから、にらまれることになる。これに対して、森田先生曰く。親や長上は何かにつけて自分より偉いはずである。したがってこれに対して畏敬の情の起こるのが人情の自然である。それで、親や長上のいう事は、あるいは自分と意見が違い、あるいは疑わしく、あるいは癪にさわることがあっても、それはそれとして、まずさしあたりその意見に従う、というのが僕のいわゆる柔順であって、実行上決して無理なことではありません。森田先生は、まず人情から出発することが大切であるといわれています。ところが、親や長上の考え方に無条件に賛同してはいけない。つまり、盲従するような態度ではいけないとも言われています。その考えを疑い、自分で事実を調べる。事実の裏をとることが大切だといわれている。林君の言うように、偉い人には何でもかんでも、常に必ず尊敬するとか、親のいうことは有難いと思わなければならぬとか、学者の説は信じなければならぬとか、そのような鋳型に自分の心をはめようとするのは間違いの元である。我々は疑うものは疑い、嫌いなものは嫌いで少しもさしつかえない。(森田全集第5巻 556ページより)この考え方は人間関係に大いに応用したいものです。まず相手の気持ち、考え、言い分を十分に聞くという態度が欠かせない。相手の立場や考え方を吐き出させるという態度を持つということである。実際には、聞く耳を持たず、相手を非難、否定、攻撃する人が後を絶たない。仮にある程度は聞いても、早合点して不十分ということが多い。こういう態度では、良好な人間関係は成立しない。そのうち話もしたくない。犬猿の仲になることは目に見えている。相手にいつまでも根に持たれることも発生する。しかし、そこで留まっていては、これまた問題である。言いたいことがあっても、抑圧していると、相手になめられてしまう。つまり親分と子分の関係が出来上がっています。相手との間で支配・被支配の関係が成り立ってしまう。それがいつまでも精神的なストレス、葛藤や苦しみをもたらす。またそういう関係が一旦成り立ってしまうと、修正することが困難になる。しかし神経質者の場合、後々の報復を恐れて、何も言い返せない人が多い。心の中では反発しているので、それがストレスとなる。そういう時は、森田理論学習の中で学んだ、「私メッセージ」をぜひとも活用したい。「私はこう思いました」「私の考えはこうです」「私はこうしたい」「私は好きではありません」「私はよく理解できません」相手に直接反論するというよりも、自分自身の気持ち、考え、言い分を相手に伝えるというものです。これは相手に対して喧嘩を吹っかけるものではないのです。相手との立場の違いを説明することになります。これができるようになると、支配・被支配の人間関係に陥ることは、ある程度防ぐことが可能となります。
2020.10.21
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元々西欧や中国は性悪説で成り立っているという。商売するときは、代金と引き換えが原則である。日本のように約束手形を発行して、3か月も6か月も支払いを猶予してもらうという発想はない。それは、元々他人や他国は信用できないものという根強い考え方があるからだ。商売するにあたっては、担保を取り、契約書を作ることから始める。言葉巧みに交渉を有利に進めることが最優先される。うまく相手をだまして、自分が得をすればよいという考え方である。騙された方が悪いという言う考え方に立っているので、相手に多大な損失を与えても罪悪感はない。相手にしてみれば、常に騙されないように自己防衛する必要がある。一瞬でも気を抜くと、相手に攻め込まれて、身ぐるみ奪い取られてしまうという危機感がある。自分や自国が豊かになるためには、戦略を立てて、武力や経済力を背景にして、他人や他国に攻め入り、奪い取ることが手っ取り早いという考え方である。そのためには早くから自立し、説得力や自己主張できる技を身につけていく必要がある。国でいえば、軍事力や経済力をつけて、相手国と同等かそれ以上の力をつけていく必要がある。これに対して、日本は性善説で成り立っている。他人や他国は、助け合いながら生きている同胞・仲間であるという考え方だ。人類みな兄弟であるという考え方である。人に役立つことや利益になることは、自分に何の見返りがなくても喜んでおこなう。根本的なところでは、無条件に相手のことを信用しているのである。元々相手のことを思いやり、信頼感が強いのである。和を重んじ、共存共栄を目指しているのだ。こんな国は日本やブータンなど少数派なのだ。世界中の人が性善説に立てば、争い、紛争、内乱、戦争はなくなると思う。しかし実際は違う。世界史は人間同士の醜い戦いの歴史だ。それは、日本のような性善説に立つ国民や国がほとんどないからだ。森田理論では、己の性を尽くし、他人の性を尽くすことを目指している。性悪説に立つ世界中の人々が、そういう考え方に切り替えることはできないものか。しかし現実は難しい。性悪説の立場に立つ国が多い中で、日本にとっては自己防衛という考え方が必要になる。そうしないと、日本人や日本は、欧米や中国人たちに、自分たちの領土や持ち物を根こそぎ奪い取られて、精神的にも洗脳されて、完全に支配されてしまうということになる。性善説があだになってしまうのだ。こうしてみると性善説の立場に立つのであれ、性悪説の立場に立つのであれ、自分の立場に固執することは将来に禍根を残すことにつながると思う。森田でいう両面観で両方にアンテナを張って分析する必要があると思う。今日本人と日本国にとって大事なことは、西欧や中国人たちのなすがままにされるのを指をくわえてみていることではない。特に欧米の国際金融資本と中国共産党の動向から目を離してはならないと考える。相手が何を考え、何をしようとしているのか、常に分析して、仮説を立てて対策を立てておくことである。そのためには、特に20世紀からの近代の世界史をよく学び、そのからくりを理解していくことだと思う。幸い日本には言論の自由がまだ保証されている。そして真実を伝え続けている人たちが、少なからず存在している。you tubeなどのチャンネルでは、批判や迫害を受けながらも、その真実に迫っている。有難いことだと思っている。そこから目を離さないで、本当の事実を掴むことを貫いていきたい。
2020.10.17
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人間関係が悪化している人を見ると次のような傾向があります。1、相手に自分の主義・主張を押し付けている。2、相手が自分の意に沿わないことをすると、すぐに相手を責めている。例えば、子供がいる家庭で、子どもに勉強やスポーツで過度の期待をかけて、叱咤激励している親がいます。夫婦で配偶者に仕事や家事でもっと頑張れと過剰な期待をかけている場合があります。会社で上司が部下に対して過度の営業目標を設定して追い込んでいる場合があります。戦時中の日本では、命を落としてでも、国民は国のために戦うべきだと洗脳していました。期待される方は束縛が強く、ストレスがたまります。期待というのは言葉の響きはよいのですが、自分の理想や完全主義を相手に押し付けていることです。この状態を、森田理論では「かくあるべし」を相手に押しつけているといいます。そういう人は、自分が相手から「かくあるべし」を押し付けられることには猛烈に反対します。自分だけが相手を都合のよいようにコントロールしようとしているのです。犬に紐をつけて自由を制限しているようなものです。自分がきちんと相手を管理しないと、とんでもない方向に行ってしまう。自分の言うとおりに従順に行動していれば、間違いないと思っているのです。思い上がりも甚だしい人のことです。これに対して森田理論の見解はどうか。森田理論の考え方は「物の性を尽くす」という考え方をとっています。拡大して考えると、「己の性を尽くす」「他人の性を尽くす」「お金の性を尽くす」「時間の性を尽くす」ということです。対人関係では、「他人の性を尽くす」ということです。人間は誰でも、この世に存在して、生きているだけで価値があるはずだ。その人独自の優れた能力、知識、知恵、性格、意欲などを発掘して、世のため人の為に活かしていくべきだという考え方です。これは雲の上にいる自分が、相手に指示命令を下している態度ではありません。相手の現実に寄り添って、相手を尊重して、暖かく見守っている感覚です。これは「かくあるべし」を一方的に押し付けるやり方とは正反対です。「かくあるべし」を押し付ける人は、それから外れたり、反抗する人を決して許すことはしません。攻撃、批判、否定、拒否、無視、抑圧、脅迫、迫害します。洗脳教育を行い、何とか矯正して自分に従わせようとします。どうにもならないと判断すれば、見放すようになります。関係性を断つということです。これは悲しいことです。最後には人間関係の破綻を招きます。事実本位の生き方を身に着けた人は、相手の欠点、弱点、ミス、失敗などに対して寛容です。事実をあるがままに受け入れることができます。つまり包容力を持って相手を許すことができます。相手は許されることによって、再びエネルギーを補給して、飛び立つことが可能になります。人間関係をよくしたいならば、相手に自分の主義・主張を強引に押し付けない。自分の意にそわないことをしでかしても、過度に相手を責めあげない。相手の立場を理解しようとする。相手を許してあげる。可能ならば、感謝の言葉をできるだけ多く使うようにする。これだけで人間関係は大きく改善できます。
2020.10.04
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2020年8月22日の中国新聞の朝刊に、相手からの頼み事や依頼に対して、自分が後腐れなく気分よく、相手にも不快感を抱かせない断り方についての記事があった。これを森田理論の立場から説明してみたい。まず、なぜ相手の頼みごとや依頼ごとをあっさりと断れないのか。それは、相手が気分を害して人間関係が悪くなるのではないかと恐れているのです。特に職場などの上司から頼まれると、「断ると今後の仕事に響くのではないか」とか、「自分が困った時に助けてもらえないのではないか」などと考えてしまうのです。そこで自分の本音(素直な気持ちや感情)を抑圧し、否定してしまうのです。人間関係に波風が立つことを恐れているのです。そんな関係を続けていると、相手に一方的に支配されてしまうということが起こります。自分の陣地がどんどん浸食されていくようなイメージです。小さな波風を抑えようとして、さらに大きな波風を立てているようなものです。なんでも「はいはい」と賛同して、自分の言いなりになってくれる人は上司や支配者にとってはやりやすい人です。少々の無理難題を吹っかけても、断ったり反対されることはない。安全パイとして、普段は意識することが少なくなります。空気のような存在です。対等な交渉相手とは思わなくなります。子分のような存在だと思ってしまう。これが後々大きな問題になるのです。子分は子分のままに生きていけば、命は保証されるかもしれない。しかし、意思や意欲を持った人間にとっては、針の筵に座っているような状況になる。そんな生き方は、生の欲望の強い神経質性格者にとっては、我慢できないと思います。自分の言いたいことを主張して、やりやいことに積極的に取り組んでいきたいという特徴を持った人間だからです。最初安易な気持ちでとった対応によって、支配被支配の関係が出来上がってしまうと、以後改善することは大変難しくなります。上司は、あなたがいつも無理を受け入れていたために、かえって「無理をしていた」と気づかない可能性が高い。主体性のない従順な人間だと決めつけている可能性があります。たまに反発すると裏切られたような気持になるのです。一方、あなたは「無理を聞いてあげたのに」という思いがあるために理不尽さを感じるのです。一回ぐらいは、自分の気持ちを尊重してくれてもいいのではないか思ってしまうのです。無理を重ねた挙句に関係性が悪化するのですからたまりませんね。一旦そういう関係性が出来上がってしまうと、覆すことは難しいということです。もし意を決して、相手の依頼を断ってしまうと、上司や支配者は反逆者、裏切り者として認識することになります。そして態度を豹変させて、反撃を加えることになります。他の仲間と徒党を組んで仲間から排除するようになるのです。これは人間関係で波風を立てないようにと思っていた人にとっては、解決困難な問題を抱え込むことになります。では森田理論では、この問題についてどう説明しているのか。人間が二人以上いる時は、意見の対立があるのは当たり前のことだと考えています。その対立をどのように取り扱うかが、ここで問われています。方法として、まず自分の考えや気持ちを相手に押し付けることが考えられます。これは自分の「かくあるべし」を無理やり相手に押し付ける方法です。当然言い争いになります。喧嘩になります。犬猿の仲になります。この方法はお互いにエネルギーを消耗して、自滅の道をまっしぐらといった感じです。もう一つは、自分の考えや気持ちを前面に出すと同時に、相手の考えや気持ちを吐き出させるという方法です。そして、どこに見解の相違があるのか確かめるという作業を行う。その溝を埋めるために双方が努力して歩み寄るための話し合いをする。少々の不満が残っても、ある程度のところで妥協する。その結果に基づいて行動を開始する。相手から依頼されたことについては、その依頼内容をよく把握する。納期はいつまでか、自分が適任なのか、能力的に可能なのか状況判断をする。その際、肝心なことは、自分の都合や自分の気持ちを優先することです。決して自分の素直や気持ちや感情を抑圧し、無視してはいけない。その気持ちを相手に伝えることも大切です。相手の役に立ちたい気持ちは、もともとあるわけですが、自分の本音の部分を第一に大切にしたい。そういう気持ちがあれば、自分の気持ちに反した、安請け合いはしないと思います。安請け合いをして、自分の正直な気持ちにうそをつくから苦しくなるのです。今はこの仕事を急いで仕上げないといけないので、申し訳ないが手伝えない。この後、友達との予定があるので、急にキャンセルはできません。今日は残業続きで気がめいっているので、気力がわいてこない。その代わり、あと2時間ほど待っていただければなんとか時間を作ります。明日は予定がありませんので、明日でよければ引き受けます。休息をとってエネルギーが回復すれば、お引き受けします。自分の都合と相手の都合の綱引きをして、ある程度のところで妥協点を見つける態度が欠かせないと思います。これは一般的にはwin winの人間関係作りといわれています。
2020.10.01
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相手に理不尽なことを言われたとき、「相手から一方的に暴言を浴びせられた」と思うことはよくあります。これに対して、相手が格下か、同程度の人と判断すると、反撃をすることが多くなります。強い相手には、さらに強い反撃をくわえられる可能性枷あるので、服従するしかない。しかし、その腹立たしい気持ちは怨念となり、きっかけがあれば仕返しをしようと考えます。これは、相手の暴言という事実に対して、被害者意識が湧きあがり、その感情に基づいて、臨戦態勢を整えて実際に戦うことにつながります。ここで注意したいのは、相手が自分の人格を否定するような暴言はいたというのは事実でしょうかということです。それは相手が自分に対して、人格を否定、拒否、無視、抑圧、脅迫するような暴言を吐いたように自分が感じましたということではないでしょうか。つまり、事実は違うかもしれないが、主観的にそのように感じたということです。事実に対して、ネガティブで否定的な感情が湧き上がってきましたということです。ここでは、事実として相手が自分を否定するような言動を吐いた。それに対して、私は不安になった。イライラした。腹が立った。つい反撃しないでは気持ちの収まりがつかないようになった。その感情に後押しされて、それらのマイナスの感情を吹き飛ばそうとした。つまり事実に対して、色眼鏡をかけてみているために、事実をネガティブに解釈しましたということなのです。目には目を、歯には歯をで、悪循環の始まりとなるのです。同じようなことを言われても、人によっては暴言とは思わない人もいます。第三者的な公平な立場から見て、あまりにも理不尽な言動だと思うような事でも、そうは受け取らないのです。貴重な忠告やアドバイスをしていただいた。私の行き過ぎた言動に対して、暴走を抑えてくれている。むしろ相手に感謝しているのです。相手のことをありがたい存在だと認識している。実に不思議な現象ですが、おおらかというか世にも珍しい人がいます。それは普段から信頼関係が出来上がっているからかもしれません。現象としては、同じ事実にもかかわらず、その事実の受け取り方と解釈によって、その後の経過が180度変わってしまうということです。カーネギーの書に、「極悪な犯人でも5分の理を認めよ」というのがあります。どんな凶悪犯人でも、「あの時はああするしかなかった」と言い訳をするそうです。ここで言いたいことは、相手には相手の言い分があるということです。暴言を吐く人にはそれなりの理由がある。その人の特徴かもしれない。成育過程で身につけた習性かも知れない。自分の将来のことを思ってのことかもしれない。その他、そう言わざるを得ないような理由があったのかもしれない。すぐに反撃する人は、事実を無視して自己中心的な面が強く出ている人かもしれません。そして格下の人に対しては、自分の「かくあるべし」を相手に押し付けてしまう人です。事実を先入観や思い込みで解釈しやすい人です。事実があいまいになり、事実とかけ離れたところで、言い争いをするようになります。腹を立てるのが悪いと言っているのではありません。その前に、相手の言動の真意を確かめるゆとりを持ちましょうと言っているのです。一旦相手の立場に立って、客観的に事実を見るようにする。つまり、事実に寄り添う時間を持ちましょうということです。これだけでその後の展開がよくなるとしたら、望外の喜びになるのではないでしょうか。
2020.09.25
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森田先生はやるかやらないか迷うときは、いったんイエスと引き受けなさいと言われています。やれる自信、能力、時間がなくても、興味や関心があれば、自分を背水の陣に追い込んだ方がよい。そうすれば、何とか課題や目標を達成しようと努力するようになる。チャンスの神様は前髪はあるが、後髪はない。じっくり考えて、より良い結論を出そうとしては遅すぎると言われているのです。ほんとにそうなのか。ある人が会社の採用試験を受けた。会社は経理に精通し決算書が作れる人を求めていた。その人は簿記の資格を持っており、やり方を教えてもらえれば、何とかなるだろうと思って、「できます」と答えた。運良く採用された。ところが決算時期を迎えて、目的が果たせなかった。結局は会計事務所に依頼することになった。その人は解雇されたという。この方は作成能力がないのに、採用されるために安請け合いをしたのである。入社後死に物狂いで、バランスシートや損益計算書の作成、税務申告書の作成方法を勉強すれば何とかなったのではないかと思う。入社できたことが最終目的地で、その後の努力を怠ったので経歴詐称を働いたと思われたのである。森田先生の言われていることは、イエスと答えたあと、何とか期待に応えるために、死に物狂いで努力精進することを前提としている。自信のない事、能力不足なこと、時間不足なことを引き受けるからには、なんとしても与えられた目標を達成するのだという覚悟がいる。もしそれがなかったとすると、軽はずみで、信頼のおけない人だと判断される。自分は赤っ恥をかき自信を無くする。それ以上に他人には迷惑がかかる。これは友達との約束についても同じことが言えます。友人と旅行にいく約束をする。コンサートに行く約束をする。スポーツ観戦の約束をする。飲み会やカラオケの約束をする。研修会や講演会に参加する約束をする。結婚式に参加するという約束をする。自分も興味や関心、意欲があって相手の提案に賛同したのである。一旦イエスといって約束したならば、約束を果たすという責任が生じる。これを忘れたり、安易に取り扱ってはならないと思う。スケジュール表やメモ用紙などに、日時を書いて忘れないようにする努力をしなければならない。当日になって、すっかり忘れていましたと言い訳するのは無責任である。忘れない工夫はいろいろとあります。配偶者に伝えて時間になったら教えてもらう。タイマーをセットしておく。玄関にメモを張り付けて意識づけを行う。電話の取次ぎでも、引き受けたからには、つい伝言を忘れてしまうことは許されない。めんどくさいと思ってもすぐメモしておく。人間は、別の事に関心が移ると、以前のことはすぐに忘れる生き物だからである。当たり前のことを怠ることで、一挙に本人も会社も同時に信用を落とす。こうなると後の祭りになってしまうのです。もっとたちが悪いのは、いったん約束したのに、自分の都合によってキャンセルする場合である。なかでも、ドタキャンは最もたちが悪いと思う。人間性を疑わざるを得ない。自己中心の権化みたいな人で、犬も食わない代物になる。そういう人とはなるべく距離をとった付き合いをお勧めしたい。一旦相手と約束したならば、基本的にはそれを第一優先順位としなければならない。それよりももっと楽しそうなことや大事なことがあっても、それはもはや第二優先順位にとどめるべきである。それを自分の都合や気分によって、キャンセルすると相手に多大な迷惑をかけてしまうことを認識すべきである。そして、ドタキャンの○○さんと噂を立てられて、信頼を失ってしまう。それなのに「カエルの面に小便」のような態度をとり続ける人がいる。そういうのが身に沁みついているので何度も繰り返すのです。そういう人は、安易にイエスといって引き受けるのではなく、最初に断るべきである。あるいは、期限ぎりぎりまで待って判断するべきであろう。この手の人は、森田先生の教えを真に受けていると、とんでもないことをしでかすのである。
2020.09.22
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森田先生は、自分の観念・主義を押したてようとすると強迫観念のもとになる。価値は常に必ず相対的なものである。これを絶対的に一定したもののように思い違いやすいから、その考え方から、種々の思想の誤謬となり、また強迫観念ともなるのである。強迫観念についても、従来の価値観を打破して、相対性原理を理解することによって、初めてこれを全治させることができるようになったのである。(森田全集 第5巻 520ページより要旨引用)森田先生の話をもとにして、人間関係に相対性理論を応用することを考えてみたいと思います。森田先生は、自分がこれまでの人生の中で身につけた思想、観念、主義などを絶対的な真理とみなすことは間違いであるといわれています。その考えを自分や他人に押し付けると、神経症を発症する。不安はあってはならないものである。他人に非難されるようなことがあってはならない。これらは、森田理論では「かくあるべし」ということなのですが、誰しもこの類の考え方をたくさん持っています。特に神経質な人には理知的でその傾向が強い。これは客観的に見ると、あまりにも一面的な見方であり、普遍的な真理とは言えません。そういう考え方を持つことは構いませんが、それが絶対的真理だとみなすことは弊害が多い。ましてやその考えを自分や他人に押し付けるようなことはよくないことです。自分独自の考え方は、世の中の普遍的な考え方からすると、間違っているかもしれない。別の考え方があるかもしれない。「井の中の蛙、大海を知らず」状態にあるのかもしれない。それは絶対的で唯一無二のものではなく、新しい普遍的な真理にとって代わる運命にあるかもしれない。そういう考え方でいるとよいのですが、自分独自の考え方を持ってしまうと、それにこだわってしまう。他人の話を、聞く耳を持たなくなり、異論に対してすぐに攻撃を開始してしまう。よりよい普遍的な真理を求めるという態度が希薄になり、相手を論破することが目的になる。相手をこき下ろし、対立をあおるので、当然人間関係は悪化します。自分の考え方にこだわり、他の意見を無視するというやり方は、とんでもない方向へと流されてしまうのです。人生そのものの歯車がかみ合わなくなります。森田理論では、自分の考え方をしっかりと持って主張することは大事であるといいます。そうしないと相手の言動に振り回されて、放置すると、最後には相手の言いなりになる。この生き方は苦しいばかりです。ただし、自分の独自の考え方を一方的に他人に押し付けてはならない。自分の「かくあるべし」を押し付けてはならないということです。他人には他人独自の考えがある。それを無視してはならない。それを吐き出させて、理解しましょうという気持ちを忘れてはならない。自分の気持ちと、相手の気持ちの間には乖離があるのが普通の状態です。その溝を埋めて、二人ともwin winの状態に持っていく。調整や妥協の労を厭わないで、粘り強くつきあっていく。これが森田先生の言われている人間関係における相対性理論なのではないでしょうか。「かくあるべし」の強い人は、自己主張が強く、自己中心的な人です。精神的なゆとり、包容力の広さは感じられません。いつも挑発的、好戦的です。2人の人間がいれば、意見の対立は必ず発生する。お互いにそれを出し合い、調整、歩み寄り、妥協を繰り返しながら生活するという態度を持ち続けることが大切になります。
2020.09.19
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他人を責める人は、自分を責める人である。他人を許せない人は、自分も許せない人である。他人に「かくあるべし」を押し付ける人は、自分にも「かくあるべし」を押し付ける人である。そんなことはないと反論する人もあるだろう。他人を非難、否定することは、自分の立場や主張を擁護して肯定していることだから、これは全く間違っているというのが言い分です。それが真実ならば、何も問題はありません。ところが冷静になって考えると、他人を責めることが多い人は、自分を責めることが多いというのが真実に近いのではないでしょうか。私自身の体験上そう思います。なぜそんなことが起きるのか。それは非難、否定することが多い人は、すべてをそのように思考するパターンが身についているからだと思います。すべてにわたって、懐疑的、否定的に考える思考回路が強固に出来上がっているのです。好意的、肯定的な考えが入り込まない体質になっているのです。回りまわって、他人を否定する人は、自分にも否定的に対応するようになるのです。人間は一方で他人を非難や否定していながら、片方でまるっきり反対の対応をとることは難しいのだと思います。称賛や肯定することは難しいのです。思考回路が非難や否定の流れになっていると、その流れを断ち切ることは難しいのです。川の流れに逆らって川上に向かって泳ぐことは無理があります。疲れます。最後には精魂尽き果ててしまいます。逆に川の流れに沿って泳ぐことは、こんなに楽なことはありません。逆に言えば、他人を評価できる人は、自分も評価できる。他人を誉めることができる人は、自分を誉めることができる。他人を受け入れることができる人は、自分も受け入れることができる。これは他人を非難、否定する方向とは全く違います。すると同時に自分を評価、肯定することにもつながるのです。この同時にということが大切です。他人を否定しておいて、自分だけを肯定するということはできないわけです。否定する方向では何もよい事はないわけです。こちらの方向を目指すことが、他人との対立を防ぎ、自分も葛藤や苦悩から解放されます。これは森田理論でいう「事実本位」の生き方のことです。事実本位というのは、基本的にどんな理不尽なことであっても、対応できないことは、あるがままに受け入れて、自然に服従していく生き方のことです。そんなみじめな生き方は受け入れられないと思う人は、森田理論学習をお勧めいたします。
2020.08.26
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森田先生のお話です。子供がダダッ子をいって泣くときに、どうすれば、これをやめさせることができるかと、判断できず、見込みが立たないで、迷いながら見つめていると、いつの間にか子供が泣きやむ。こちらで解決のできぬうちに、子供の方で自然に解決がつき、泣く時に対する最も正しき手段も、自ら分かってくるのである。教育のない親、さては教育のありすぎる母など、でたらめにほめたり、叱ったりする。子供は決して、思うとおりにならぬ。あまり自分の考え通りにしようとするから、少しも子供の心理を観察することができないのである。(森田全集第5巻 323ページ)子供を上手にあしらう事を考えていると、親の権力を利用して、子供を押さえつけようとします。その刺激に対して、子供は泣きわめき、暴力的になって必死に抵抗します。それを見た親は、さらに強い力を発揮して、子供をコントロールしようとします。こうした悪循環が繰り返されていくのです。子供が小さいうちは、圧倒的な力の差がありますので何とかなります。ところが子供が大きくなり、中学生ぐらいになると、形勢は逆転してきます。自分をいつも抑圧してきた親に対して反抗するようになるのです。親は言葉や力の攻撃を受けるようになるのです。一緒の家に住んでいることは、精神的な苦痛を強いられるだけではなく、身体の安全をおびやかされることになります。中には、子供の言いなりになって、おびえながら生活する人もいます。こういう状況が、死ぬまで続くと思うとやりきれないものがあります。ここまでくると、第3者の介入なしでは解決の道を探ることはできないだろうと思います。こういう悲惨な状況を回避するためには、幼児のころの親子関係をきちんとすることだと思います。その際、森田理論の学習が役に立ちます。森田先生は親が自分の不快感や怒りを払しょくするために、親の「かくあるべし」を安易に子供に押し付けてはいけないといわれています。不快感や怒りを持ったまま、「どうすればよいだろうか」と考えながら、子供を観察していればよい。すぐに叱責、脅し、抑圧、ご機嫌取り、ごまかしに走ってはいけない。ここで肝心なことは、安易な対症療法に走ってはいけないという事です。余計なことをしないで見守っていると、子供の方が自ら折り合いをつけて解決する。これは大人の人間関係でいうと、相手の言い分や気持ちを吐きださせる。よく聞いて、相手の真意を確認するという事だと思います。肝心なことは、客観的な立場から、あくまでも事実に基づいて行うということです。事実をうやむやにして、無条件に従うという事ではありません。それに対して、自分の言い分や意向はしっかりと持っていて、それを相手に伝えるという事を回避してはいけません。子供でいえば、電車の中で大騒ぎする。交通ルールを守らない。などがあれば、人に迷惑になる。危険な目にあうことになるわけですから、必死になって自分の考えを伝える必要があります。これは子供を自由自在にコントロールするという事ではなりません。まともな人間に成長するためのしつけです。大人になった子供から感謝されるようになります。一般的に言えば、子供いうことなすことは、包容力を持って見守る態度で接する。自分の主張は、私メッセージの手法を用いてしっかりと伝える。決して自分の「かくあるべし」を一方的に押し付けるという事にはならない。それは子供を一人の人間として尊重しているといえると思います。人間として対等に扱われて成長した子供は、大人になって他人に「かくあるべし」を押し付けるようなことはしないと思います。
2020.06.29
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対人恐怖症の人で、他人から軽蔑される。無視される。からかわれる。毛嫌いされる。馬鹿にされる。非難される。否定される。これらに耐えきれないという人がいます。そういう事があると、すぐにその人のことが嫌いになる。すぐに破れかぶれになり反発する人もいます。我慢して耐える人も心中穏やかではありません。そのことや言った人にとらわれて、気分が悪くなります。夜眠れなくなります。どんどん落ち込み、精神が不安定になります。胃がキリキリと痛むようにもなります。これは別に対人恐怖症の人だけではありません。自分のことを批判し、否定されると誰でも傷つきますし腹が立ちます。対人恐怖症の人との違いは、人間関係の考え方とその後の対応方法にあります。安倍首相の国会論争を見ていると、野党議員は事あるごとに反発しています。時には政治とは関係のない私生活のことを取り上げて攻撃されることもあります。非難、否定、中傷のオンパレードですから気分の良かろうはずはありません。しかし民主政治というのは、自分が攻撃のやり玉に挙げられるは苦しいけれども、対立関係を受け入れることでしか成立しえないという事を理解しておられるのだろうと思います。もしそれが嫌なら独裁国家を築いていけばよいのです。独裁国家というのは支配者が、縦横無尽に一般国民をコントロールするやり方です。一般国民は自由が制限されます。言論の自由、思索する自由、選択の自由、決断の自由、行動の自由はないのです。自由と平等の獲得の歴史から見ると時代錯誤も甚だしいと言えます。人間関係も同じです。2人の人間が一緒に生活していると、考え方や行動の違いがあるのが当たり前のことです。それを認めるか、認めないかでその後の展開が大きく違ってきます。他人の考え方や行動は自然現象と同じで、コントロール不可能という事を理解する必要があります。台風や豪雨が発生すれば、それが通り過ぎ、収まるのを待つしかないのです。コントロール不可能というものに戦いを挑む人はいませんね。あえて挑戦する人は最後には自滅してしまうのです。愚かなことです。人間関係は2人の人に好かれているとすると、2人の人には嫌われている。そして残り6人の人は好きでも嫌いでもないという関係にある。そういうバランスの上に人間関係が成り立っているといわれます。対人恐怖の人は好きな人は当たり前と思って、注意や意識を向けていない。無関心になっています。反対に嫌いな人に対しては、放っておけばよいのに、あまりにも肩入れしすぎている。やり方が逆になっているのです。ちなみに好きの反対は嫌いでしょうという人が多いのですが、好きと嫌いはコインの裏表の関係にあります。つまり好きは嫌いに、嫌いは好きに一瞬で裏返ってしまうものです。かわいさ余って憎さ百倍などと言います。またボーダーラインといわれる人格障害の人は、あれ程過大に褒め称えていた人でも、些細なことをきっかけにして誹謗中傷を繰り返す人に変身するのです。好き嫌いが表裏一体とすると、その反対語は無関心といわれています。この無関心というのは犬も食わない代物なのです。嫌いな人がいたら、その人とは森田理論の「不即不離」を応用して、距離をとることをお勧めします。遠巻きに眺めておくことです。反対に好きな人や好きでも嫌いでもない人と交流を図ることです。そのためには、濃厚な人間関係を少しだけ築いているという考え方は改めた方がよい。広く薄い人間関係を普段から築き上げておくことをお勧めします。親、配偶者、子供、親戚、友達、集談会の仲間、趣味の仲間、飲み友達、カラオケの仲間、会社、同級生などに広げておくことです。その時その場に応じて、付き合う仲間がどんどん変わってくるというイメージです。そして多くの人に好かれたいと思ったら、誰もができないでっかいことをやり遂げて注目を浴びることを目指すことはハードルが高い。それよりは小さなことで人の役に立つことや喜びそうなことをたくさん積み重ねて信頼感を高めていくように努力する方がよいと思います。
2020.06.22
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インナーチャイルド、アダルトチルドレン、愛着障害はほとんど同じ内容だと思われます。親が子供に過保護、過干渉、無視、放任、育児放棄することで、子供の成育過程に支障を生じている。自立できない。依存的になる。刹那的、本能的な快楽を追い求める。何かに挑戦して楽しみを見つけることができない。気分本位で逃避的になる。自分に自信が持てない。自己肯定感が持てない。自己嫌悪、自己否定が強い。他人が信頼できない。他人と対立的になる。自立できない。依存的になる。これらがその人の一生に付きまとうわけですから、やり切りません。こうならないためには、これから子供を育てる人や孫の世話をする人は、子育ての基本を学んでいく必要があります。まずは1歳6か月までに愛着の形成を確実に行うことです。親子の信頼関係の形成はとても大切です。親の温かい愛情の下で、子供は安心感と信頼感を獲得していきます。その後は常に子供のそばにいて、子供が挑戦する姿をじっと見守ることになります。様々なことに挑戦させて、多くの経験を積ませる。そしてやればできるという成功体験を数多く積み重ねていく。子育ては母親だけではなく、父親も積極的にかかわる必要があります。目標は、自分に与えられた問題や課題に対して、安易に逃げないで、積極的に取り組んでいける人間に育てる。経済的にも精神的にも自立して建設的、生産的、創造的な人生を歩んでいけるように支援することです。そのために森田理論学習を活用することを提案いたします。神経症の成り立ち、神経質の性格特徴、感情の法則、実践・行動の取り組み方、不安と欲望の関係、生の欲望の発揮、「かくあるべし」の弊害、事実本位の生き方、認識の誤りなどは子育てする親や祖父母に大変役立ちます。生活の発見会では、ファミリー集談会というのがあり、子育て中の母親が集まって子育ての悩みや原則を学んでいます。一般の人も一人よがりの子育てではなく、基本を学び、問題が発生したときには、相談できる仲間を持っておくことはとても大切です。不幸にしてインナーチャイルド、アダルトチルドレン、愛着障害を抱えてしまった人はどうすればよいのでしょうか。自分一人ではどうすることもできないと思います。遅まきながらでも、岡田尊司氏の提案されている、「心の安全基地」作りに取り組むことです。親との間で起きた問題ですから、親以外の人間関係の中で「心の安全基地」を作る必要があります。集談会の仲間、配偶者、友達、師、先輩、カウンセラーなどから見つけることです。何か心の問題を抱えたときに、信頼して相談できる人を見つけておくことです。私はアダルトチルドレンですが、集談会の中に信頼できる先輩を見つけることができました。その人も神経症で悩んでいた人だったので、傾聴、受容、共感力がありました。私は会社での人間関係などで問題が発生すると、相談に乗ってもらいました。今考えると、母港を持っていたようなものです。時々母港で心の洗濯をして、態勢を整えてまた新たに出航できたのです。集談会でも「心の安全基地」になれるような人は、数は多くはありませんが間違いなくおられます。そういう人は自分の話をよく聞いてくれます。非難や否定はしません。妙案がなくても、いつまでも寄り添って気にかけてくれています。そして秘密は決して他人に口外しません。そういう人を見つけて、後ろ盾を持っていると、安心感が生まれて、積極的な行動へとつながるのです。
2020.05.12
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夫婦喧嘩が絶えないという人に森田先生は次のように話しされている。この場合は、ただ自分は、不機嫌な気むずかしい我儘者であるということを自覚し、人にもこれを認めさせて、その結果として、当然人に嫌われ、うるさがられるものであるということを覚悟し、その応報を受けさえすればよい。決して自分はこのような性質であるから、人は大目に見て、自分を許してくれるべきである、人は自分が悪人でないことや、自分の正直のところなど認めて、理解してくれなければならぬ、などと考えてはならない事である。このように思い定め、覚悟して後には、社交的にあるいは家庭的に、時と場合とに応じて、笑うも笑わないのも、自由自在で、必ず自然の人情味が現れるようになるのである。夫婦の人間関係は、お互いが「かくあるべし」を押し付けあっていては、決してうまくいくものではない。相手のことを批判、否定、拒否、無視、抑圧、脅迫していては、一緒の家に住むこと自体が苦痛となる。森田先生はそういう自分の状態を自覚して、事実本位に切り替えて、因果応報を覚悟することを提案されている。私は夫婦は元々あかの他人であり、分かり合えないという前提に立つことが肝心であると思っている。そういう人が結婚して家庭を作るということにどんな意味があるのか。人間は一人で生きていくことはできない。他の人間とのかかわりの中で、はじめて物理的にも精神的にも延命させていくことができる。その最小単位として、夫婦関係があると思う。これが太古から繰り返されてきた。結婚すると、解決すべき共通の問題や課題が次々と出てくる。家事、育児、子育て、付き合い、生活費の調達などである。考え方や意思の違いのある二人が、その違いを乗り越えて進むしか道はない。そのためにどうするか。自分の気持ちや考えを相手に伝えることが必要になる。ここで相手とは当然気持ちや考え方に違いがあるはずだという前提に立つことが大切になる。次に、その違いを白日のもとにさらけ出すことだ。どこに違いがあるのかお互いが認識しあうことが大切である。二人の間にある溝を埋めていくために話し合いを持つ必要がある。妥協点をつけて、譲ったり、譲られたりする人間関係を維持する必要がある。アメリカでは結婚する前に、お互いが対立したときはどのように対応するのか、クリナップ契約で文書にしてあるという。結婚する前にきちんと取り決めをしておくことはきわめて重要です。埋めることのできない溝が出てきたときに、それを持ち出して、原点に返って話し合いをするのだ。いざこざの多い夫婦であっても、お互いが問題を話し合いによって調整していくという気持ちを持っていれば、きっと乗り越えていける。そして乗り越えていくたびに、夫婦としての器が大きくなっていくのだろう。「あの人は何を言っても聞く耳を持たない人だ」などとお互いが口にするようになると、すでに本来の夫婦関係は破綻していると思う。そういう人は、森田理論を夫婦関係に応用することを真剣に考えてもらいたいものだ。
2020.05.01
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森田療法の専門家の中には、「人のために尽くす」ことを神経症の治療の一つとして患者に勧めている人がいる。これはNPO法人生活の発見会の中で、共通認識となっているわけではない。それに関心を持たない人は、森田先生は「人のために尽くせ」という言葉を、理論的にきちんと説明されていないという。森田先生が説明されていないことを、実践目標として掲げることは如何なものかといわれる。一方では、以前の学習の要点の中に、「人のために尽くす」ことが堂々と記載されていた。それで「人のために尽くす」ことは神経症の克服には大切なものだと考えている人もいるのである。そして既成の事実のごとく頻繁にこの言葉を使われている。この矛盾をどのように考えればよいのか考えてみましょう。いい悪いにかかわらず、人間はもともと自己中心的な生き物です。生まれたときからその本来性に従って生きています。その目的から外れた生き方は、かなりやっかいなことになります。自分の命をいい加減に扱ってしまうようになる。自分の命を粗末に扱っている。自分の命の性を尽くしていない人になります。自分の本来性を押しのけてまで「他人のために尽くす」という考え方、生き方は、元々人間には備わっていないといっても過言ではない。この前提に立つと、「人のために尽くす」ということは、付け焼刃的に自分を奮い立たせないとなかなか意欲的には取り組めないと思う。自分が心から願っていることではない。それでもあえて、この言葉を持ちだすのは、神経症の克服に役立つと考えられているからだと思う。それは、一つには神経症に陥ると、注意や意識が自分の症状ばかりに向いています。「人のために尽くす」ことは全く眼中にはありません。それは周りから見るとあまりにも自己中心的に見えます。ここでいう自己中心的というのは、注意や意識が自分や症状に向いていることを言います。この自己中心的な内向性を外向に転換させないと神経症は治りません。その手段としては、第一に、症状は横に置いて、目の前のなすべきをなすことに取り組むのがよいのは分かっています。さらに「人のために尽くす」を入れると、転換を早める効果が期待できると考えられたのではないか。このように考えて、神経症の治療の一環として「人のために尽くす」を提案されているのではないか。これは理屈で考えると「なるほど」と納得できます。しかし元々そのように考えていない人にとっては、「人のために尽くす」ということが、他人から強要された「かくあるべし」になってしまいます。そんなことを考えてもみなかった人に、それを押し付けると、症状を治すための手段として使うことになります。症状を治すための実践や行動は、症状を治すのではなく、ますます症状を悪化させるといわれます。安易に「人のために尽くす」という言葉を標榜することは、症状を治すのではなく、症状を強めてしまうと考えるのが無難です。それが「人のために尽くす」と書いて「偽」(にせもの)といわれる所以だと思います。もっと拡大して考えれば、あえて意識して「人のために尽くす」という人は、何か魂胆があるのではないかとも受け取れます。私は、「人のために尽くす」というのは目指すべきものではなく、結果としてそこに存在しているものだと考えています。森田理論でいうところの「生の欲望の発揮」に邁進していたら、いつのまにか、世のため人のためになっていた。人から役に立ったと感謝されるようになった。つまりことさら「人のために尽くす」というのではなく、日常茶飯事、課題や問題点、夢や希望に向かって行動しているうちに、気がついたら、結果として「人のために尽くしていた」と考えるのが無理のない妥当な考え方ではないのか。最初から意気込んで「人のために尽くそう」としているのではないのです。不安というブレーキを使いながら、「生の欲望」に一心不乱に取り組んでいたら、周りの人から評価され、感謝された。つまり結果として人のために尽くしていたというのが実際のところです。「人のために尽くす」というのを目標として掲げて意気込んでいると、それが「かくあるべし」になって、事実として人のためになっていないことがあります。むしろ他人に多大な迷惑をかけているというケースが出てくるのではないか。人に親切心でした行為が、「小さな親切、大きなお世話」と言って煙たがられることがあります。それは相手が望んでいないのに、自己満足的なおせっかいの押し付け行為になっているのです。ことさら意識していなくても、森田実践を積み重ねることで、結果として、人びとの役に立っていたという状態を作り上げてゆきたいものです。無理のない自然体の森田実践によって、他人に生活の刺激や生きざまで、感動のおすそ分けを与えられるような人間になりたいものです。
2020.04.16
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対人恐怖症の人に限らず、他人とは対立したくない。犬猿の仲、けんか腰の人間関係にはなりたくない。他人とは基本的には和気あいあいと楽しく付き合いたい。暖かい思いやりのある人間関係の中で、みんなと一緒に人生を楽しみたいと思っています。誰でもそういう目的を持って生活していると思います。その方が楽しいし、一人で生きて見せるといきがっても、自滅するだけです。その目的を達成するためには、他人に好かれることを心がけて生活することが有効です。カーネギーは「人を動かす」という有名な本の中で次のように述べています。・誠実な関心をよせる。・笑顔を忘れない。・名前を覚える。・聞き手にまわる。・相手の関心のありかをつかむ。・心からほめる。誰でも簡単にできそうなことばかりですが、真剣に実行している人は少ない。森田理論では、「かくあるべし」を他人に押し付けない。それを前面に押し出していると、人は離れてしまいます。ただし他人の思惑に振り回されて我慢し、耐え続ける事ではありません。自分の気持ちは純な心や私メッセージの手法で吐き出していく。この方法は相手と対立しません。自分の欠点、弱点、ミス、失敗を隠さない。ごまかさない。責任転嫁しない。ありのままの自分をさらけ出して生きていく。不安を活用しながら生の欲望の発揮に邁進する。事実本位に生きている人は、他人と対立しません。むしろ自分の周りに人の輪が広がっていきます。これらを心がけて生活すれば、人に好かれたいという目的はほぼ達成できると思います。はたして現実はその方向に向かっているでしょうか。例えば、他人から無視された。からかわれた。軽蔑された。批判された。否定された。そんな時は誰でも不快になります。すぐに怒りが込み上げてきます。その不快感を取り除いてすっきりしたい。楽になりたい。仕返しをしたい。その気持ちに後押しされて、すぐに反発する。暴言をはき、暴力に訴えることはないでしょうか。人と仲良くなりたいという気持ちとは裏腹な行動をとっていることが多いのではなりませんか。頭で考えていることと、実際の行動があべこべになっています。こんなことを繰り返していると、人と仲良くできるはずはありません。むしろ、ますます他人からイヤな人と嫌われるようになります。ここでの問題は、本来の目的をいつの間にか忘れているのです。そして目的のすり替えが起きているのです。人と仲良くしたいという目的から、途中で目の前に現れてきた怒りや不快感を払しょくするという目的にすり替わっているのです。本来目指している目的をすっかりと忘れ去って、枝葉末節の無視したらよいような目的にとりつかれてしまっているのです。しかもそこに自分の持てる全エネルギーを投入しているのです。これはピエロを演じているようなものですね。自分ではその矛盾点に気がついていないというのが始末に悪いのです。この問題を解決するためには、人と仲良くしたいという気持ち、目的、目標から目を離さないことだと思います。目的を言葉にして机の前に貼っておく。自分なりのキャッチフレーズを作りいつも眺めるようにする。例えば、「一日3つは人の役に立つことを見つける」「一日のうちに一つは人の役に立つことを実行する」などです。日記を書くときに、今日一日、目的を達成するために思いついたことや取り組んだことを書くようにする。さらに、頭に血が昇って、暴言や暴力的になりそうなときは、森田の「不即不離」を活用する。「申し訳ありません。ちょっとおなかが痛くなりましたので、トイレに行ってもよいですか。後でどんな批判でも聞きますで」と中座する。一旦距離を置くことは大切です。そのうち相手も幾分かは冷静さを取り戻している可能性があります。さらに配偶者や親しい友達に、自分はすぐに激高してしまうので、そんな時は注意してほしいと日ごろから頼んでおくことです。「そんなしようもないことをするな。お前はあほか」といわれるだけで、ハッと我に返ればしめたものだと思います。そして本来目指すべき目的を思いだしてみることです。
2020.04.11
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形外会での篠崎氏の発言です。私は治らない時は、家の人に乱暴なことをいわなかったが、治ってからは、ちょっとの事で、弟と言い争って乱暴な口を聞くようになった。これはどういうことでしょうか。(森田全集第5巻 144ページ)これに答えて森田先生曰く。「根治法」の中に、陸軍中尉は、退院してから、以前と違って、よく部下を思うままに叱り、またよくかわいがるようになったといっているのと同じである。いたずらに自分を善人ぶらずつくろわず、自分のありのままをさらけだすからである。兄弟・朋友でも、いたずらに道学者流に礼儀正しく、常に慇懃であるという事が、必ずしも親密であり、愛情があるということはできない。我々はお互いに少々無理な事をいっても許され、自分の欠点をも知ってくれるのでなければ、本当の平和は得られないのである。これに対して私の感想を投稿してみます。篠崎さんは、治る前は、家族に対して言いたいことがあっても我慢していたのだと思われます。表面的には平穏で、波風が立つことがなかったでしょう。しかし精神的にはつらい状況です。自分の素直で正直な気持ちを抑え込んでいたので、イライラしてストレスが溜まっていたことでしょう。その後、入院されて、自分の正直な気持ちを打ちだすという方法を身につけられました。これは「純な心」の体得のことです。どんな感情も、価値判断しない。反発、反抗、抑圧しないで、そのまま味わう。できればその素直な感情を直接吐き出す。これができるようになった。森田理論が実践によって体得できたということです。そうなると、相手とは意見の相違が生まれてきます。お互いの自我のぶつかり合いが生まれるのです。その時に、自分の主張を押し通して、相手をコントロールしようとすると、喧嘩になります。森田でいう「かくあるべし」の押し付けになっては、以前よりも人間関係は悪くなります。森田では2人の人間がいれば、必ず意見や主張の違いが生まれます。そんな時はお互いに自分の気持ちを出し合う。そして、お互いの見解の違いを確認し合う。そして話し合いをして、妥協点を探り合うための交渉を行う。譲られたり、譲ったりする人間関係を構築していく。この態度は夫婦、これから結婚しようとしている人にとっては、とても重要です。結婚する前に、意見の対立したとき、どうしようかとすり合わせを行うことは必須となります。夫婦というのは、最初はラブラブでもすぐにいがみ合うようになりますから。取り決めたことを文書にして約束し、厳格に厳守することが大切です。離婚寸前の喧嘩をするような時に、この文書を机の前においてやり合うのです。約束を破って離婚に至ったときは、慰謝料を通常の2倍支払うなどという文言があれば、さらに有効になるでしょう。
2020.04.01
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野村克也さんと妻の沙知代さんは40年連れ添ったおしどり夫婦といわれている。なりそめは、野村さんが1972年に離婚訴訟中だったころ、沙知代さんと出会った。当時の沙知代さんには夫がいた。それで略奪婚などとバッシングを受けた。沙知代さんはマスコミの前でも言いたいことをいい、世間をあっと言わせる行動をとる人だった。野村さんが南海の監督だったころは、球場に出入りして、監督夫人として振る舞うようになった。そのあまりの横暴さに、オーナーは野村氏に「監督をとるか、女房をとるか」と迫ったという。野村氏は「女房をとります。仕事はいくらでもあるが沙知代は一人しかいない」と言ったそうだ。そして監督を解任されている。1996年に沙知代さんは衆議院選挙に出馬している。1999年には沙知代さんのメディア出演が続き「サッチー・ミッチー」騒動を引き起こしている。2001年には沙知代さんは、脱税事件で有罪判決を受けている。2009年には「女房よ」というシングルをリリースしている。沙知代さんが作詞を担当して、野村氏が歌手として歌っている。歌詞を見ると、「誰もいない この世のどこにも お前を超える人は」とある。沙知代さんは自己愛性人格障害者ではないかと思える内容である。それだけ沙知代さんは、あらゆることに自信満々だったのだろう。これだけの世間を騒がす問題行動が重なると、普通は離婚するのではないかと思う。ところが、野村さんは、不祥事を起こすたびに妻を許し、かばい続けていた。それが何とも不思議です。一切批判や否定をしないのですから。完全に妻を信頼して、どんな不祥事を起こしても妻の肩を持っているのですから。森田でいう事実をあるがままに認める。素直に受け入れるということです。そしてどんな不祥事を起こしても、自分が妻を護りきって見せるという太っ腹な性格なのです。これが自分を信頼し、選手を信頼して、成長させた原動力になっていたのでしょう。二人でテレビに出たときも、沙知代さんが言いたい放題のことを言う。時には夫の失敗なども持ちだす。性格も問題にする。野村氏は、その横で発言を控えて、苦虫をつぶしたような苦笑いをしている。監督としては言いたい放題、やりたい放題なのに妻の前では借りてきた猫だ。これは完全にかかあ天下の家庭だなと思っていた。脱税で有罪判決を受けたときは、「妻の問題で監督を2度もクビになっているのは、世界中を探しても私ぐらいだろう」と言いつつ、「老後の蓄えを思って始めたこと」と沙知代さんの行動を咎めることはしなかった。全幅の信頼を置いていたということだろうか。野村さんは妻のことを「ド―ベルマン」と評していた。その意味するところは「外では一見凶暴に見えるが、家では主人に従順」ということだそうだ。事実沙知代さんは家庭の問題はきちんとこなして、野村さんが野球に専念できる環境を整えてくれていたそうだ。それだけに沙知代さんが亡くなられたときは、無精髭を生やして痛々しかった。その後2年間で急速に衰えが目立つようになっていった。私は夫婦といえども不即不離を念頭に置いている。基本的にはそれぞれが好き勝手なことをしている。助け合う場面があればできるだけのことはする。発見会活動で出歩くことが多いが、苦情を言われたことはない。今では私も不十分ながら妻の話はできるだけよく聞くようには心掛けている。昔は「かくあるべし」を押し付けてばかりで、申し訳なかったと思っている。後悔で穴があったら隠れたいような気持になることがある。妻は趣味や飲み会、会合に出かけることが多いが、私も快く送り出している。お互い言いたいことを言いあうので、波風はよく立つが、別れるといった話になったことはない。料理、洗濯、掃除をよくしてくれるので大いに助かっている。今考えると、これでよかったのではないかと思っている。
2020.03.21
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今日は森田理論の中で出てくる、「平等観と差別感」について考えてみました。森田では差別感については、「劣等感的差別感」などと言われます。この意味するところは、自分だけがことさら外界からの刺激に対して、特別に抵抗力が弱い。他人と異なって、自分だけが精神的、身体的に重大な欠点や弱点を持っている。このように絶えずネガティブ、悲観的に思考する傾向がある人のことを言います。他人の持っている長所や強みと、自分の短所や弱みを比較して劣等感に陥っているのです。本来なら、自分に短所や弱みがあるのなら、その反対に長所や強みもあるに違いない。自分の長所や強みを自覚して、それを活かすことを考える必要があるのです。差別感というのは、自分と相手を比較して、その違いに着目して、自分なりの価値判断をしているのです。たとえば、人間は誰でも耳や目は2つ、鼻や口は一つあります。ところがその形状は十人十色です。その違いに着目して、美人、イケメン、ブス、三枚目などと勝手に価値判断をしてランク付けをしているのです。問題なのは、その判断は自分独自のものではなく、普遍性を持っていると勘違いしていることです。それを基にして、自分にも他人にも修正を求めてくるのです。整形美容、過度なダイエット、アデランスなどをして自分をごまかし、普通の人間を装おうようになるのです。差別感を前面に押し出している人は、隠す、ごまかす、否定する名人です。これに対して平等観を身に着けている人は、人間は誰でも苦しいときは苦しい。楽しいときは楽しい。人間は誰でも耳や目は2つ、鼻や口は一つあります。基本的には、体つきや考え方は同じようなものだと思っているのです。ところが詳細に観察してみると、考え方、思想、性格、容姿、能力、生育環境などは2つとして同じものはありません。その違いが存在していることを、あたりまえのことだと思っているのです。その違いを自分の価値判断に合わせてやろうなどと大それたことは考えていません。それを認めて受け入れないと何も始まらないと思っています。人間同士はもともと考え方が違うので、まず相手の考え方をよく聞く必要がある。そして自分と相手の考え方の違いを白日のもとにさらけ出す。その後話し合いを行ってその溝を調整していくしかない。つまり他人の存在、考え方、性格、容姿などを尊重しているのです。互いに自分の意見をぶっつけて言い争いにはなりますが、その底にはなんとか和解したいという気持ちが働いています。ストレスを二人の力で解消しようとしているのです。差別感を身に着けている人は、自分の考え方を相手に押し付けようとしているのですから、最初から信頼関係などはありません。殺し合いの喧嘩になることもあります。相手を自分の思い通りに手なずけてしまおうとしているのですから、お互いが傷つけ合うようになるのです。森田理論ではお互いの違いをあるがままに認めて、そこを出発点にして生活していきましょうという考え方なのです。
2020.03.19
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