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生活の発見誌の4月号からの引用です。柳生但馬守という剣豪に沢庵和尚が送った手紙がある。その中に、何の某と呼ばれて、「ハイ」と即座に返事する。そこにスキのないところがあるんだよといっている。ところが何の某と呼ばれて、しばらくしてから何の用事だろうかと思いながら、「ハーイ」といったら、そういうのは駄目だといっている。物事に即する態度というのは、その刺激に対して自分が一体になる。外界の物事を処理する場合に、その物事を処理することそのものを目的とすると、何のため、何のためという余計なことはいわなくなる。面白い話です。これは外部からの刺激に対して、即座に反応することの大切さを指摘している。どのような変化が起きても、間髪を入れずに適切な行動がとれる。特に命の危険にさらされた場合、とっさの行動が生死を分けます。韓国で地下鉄の火災や大型船の沈没で多くの人が命を落としました。火災を甘く見た人や「船内にそのまま留まっていてください」という放送に従った人は命を落としました。即座な行動・対応ができなかった人は、悔やんでも悔やみきれないことになりました。外部刺激に対して即座に対応できる人と対応できない人はどこが違うのでしょうか。私は普段から精神が緊張状態にあるか、弛緩状態にあるかの違いだと思います。森田理論に「無所住心」という言葉があります。身の回りのあらゆることに神経を張り巡らせて、神経が張り詰めている状態のことです。そういう精神状態にある人は、間髪を入れずに即座に対応できる。反対に「退屈だなあ。何か刺激のあるおもしろいことはないかな」「どうやって時間をつぶそうか」と考えている人は、精神が弛緩状態にあるのです。昼間の活動時間帯は精神緊張状態を維持することはとても大切です。そのためには「凡事徹底」をお勧めしたいと思います。目の前のなすべき課題に心を込めて取り組んでいる人は、すぐに精神緊張モードに入ります。興味や関心、気づきや発見、工夫やアイデア、意欲や情熱が生まれてきます。行動は積極的、生産的、建設的、創造的に変化してきます。ただ単に歩いているのではなく、手を大きく振りながらランニングをしているようなイメージです。すると弾みがついて好循環が始まるのです。他人から声をかけられて、どのように返答するのかをみるだけでこのようなことが分かるのです。
2020.05.21
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人間にはコントロールできない事とできる事があります。コントロールできないことは、どんなに承服しがたいことでもあるがままに受け入れていく。コントロールできることは、どんなに気分が重くてやる気が起こらなくても取り組んでいく。この態度で臨めば、生活するうえで、何も問題が起こらないようになっています。ところが、これが逆になっている人がとても多い。神経症に陥っている人は、その最たるものです。まずその区別をすることが肝心です。コントロールできないことはどんなことでしょう。・自然に湧き上がってきた不安、恐怖、違和感、不快感などです。・自分の境遇です。親、兄弟、容姿、性格、能力、生まれた国、生まれた時代などです。・自分の弱点、欠点、ミス、失敗などです。どんなに取り繕ってもごまかせない。・他人を自分の思いのままにコントロールすること。他人の自分への仕打ちなど。・自然災害、経済変動、紛争や戦争などです。自然災害などは、あらかじめリスク回避のための準備をすることが欠かせません。しかし基本的には、どんなに理不尽だと思っても受け入れるしかありません。その他の項目に対しては、白旗を上げてあるがままに受け入れて、そこを出発点と考えていくことが賢明だと思います。しかし現実必ずしもそうなっていない。むしろ反対の行動をとっていることが多い。自ら葛藤や苦しみの元を作り出している。次にコントロールできることは何でしょう。というよりもコントロールしなければならないことは何でしょうか。・どんな感情でもあるがままに受け入れるという事です。そのためには森田理論の「感情の法則」「欲望と不安」の学習は必須となります。そして一つの感情に固執するのではなく、感情を山奥の小川を流れる水のように、流す技術を身に着けることが大切になります。・運命は受け入れるしかない。自分の運命を受け入れて、まさにそこを出発点にできた人が素晴らしい人生を築き上げていく。自分の人生を終えるときにはっきりと目に見える形で結果が出る。後悔したくなければ、グチを言わずに運命や境遇は受け入れたほうがよい。・「かくあるべし」が少なく、事実本位の生き方は肩の荷を下ろしたような楽に気持ちになれる。そういう人は素敵なオーラを醸し出している。自然に人の輪が広がる。・地震、津波、土砂災害、台風、大雪、雷、伝染病などは事前の準備が大切です。そして実際に自然災害が起きたときに、あらかじめ決めていた素早い行動が、生死を分けます。不安に学んで用意周到な手立てをしておくことが肝心です。そのために国土強靭化のための政治をしてもらうように政治家に働きかける。
2020.05.19
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元ロッテのキャッチャーだった里崎さんは、「ネクストバッターの選手を観察しないキャッチャーはキャッチャーではない」という。そこでの選手の動きを観察することが、攻め方を組み立てる上での一つの指標になるという。意識や注意があらゆるところに行きわたっていることが、大切なのである。ご存じだろうが、ネクストバッターボックスは、バッターボックスの斜め後ろにある。1.5Mほどの円である。ここには4点セットが置かれている。マスコットバット、バットウエイト、すべりどめ、ロジンである。私は今まで、試合の進行を早めるために、ネクストバッターはそこに待機するルールになっているだけのものだと思っていた。深い意味は見いだせなかった。ところが球辞苑で、「ネクストバッタボックス」の特集を見てから、急に関心が高まった。多くの選手は、まじかでピッチャーの球を見て、気持ちを整えて、勝負に臨んでいた。だからネクストにいる時間が長いほど、打撃成績が良くなる傾向がある事がわかっている。前の打者が1球で打ち取られた場合の、次打者の打率は、2割4分2厘、7球粘ったあとは2割6分3厘に跳ね上がっている。ファールで粘る選手の後を打つ打者は、ほとんど打率が高くなっている。ではどのようにして、気持ちを整理しているのだろうか。ピッチャとのタイミングを計っているという選手がほとんどだった。野球ではバットと球のタイミングが一致するということが不可欠なのだ。出会いがしらのホームランというのはタイミングがぴったりと合っている。ピッチャーが球をリリースした瞬間に、自分の打撃のトップの位置と合わせる作業を真剣に行っていたのだ。タイミングを合わせるだけで、実際にバットを振るわけではない。バットを振るのは、投球の合間なのである。巨人の丸選手が面白いことを言っていた。持ち球や配球のデーターは試合の始まる前にすでに頭に入っている。キャッチャーの癖もすでに分析済みである。ピッチャーの調子は、日々刻々と変化している。その日の変化に合わせてタイミングをとる必要がある。真っすぐがきているのか、普段と変わらないのか、きていないのかを感じ取っている。また右手一本でバットを立てて、右目でバットのマークとピッチャーを見ていると集中力が上がるという。球に対しての反応がよくなってくるという独自の判断を紹介していた。国立スポーツ科学センターの森下義隆氏が興味深いデータを紹介していた。ネストバッタボックスで次のことを心掛けて実行することで、成績がアップするというのだ。一つはバットを全力で振ることだ。回数は4回から5回が望ましい。筋肉の活動後増強が起きて、スィングスピードが1~3%速くなる。飛距離にして5Mほど伸びる。ただし欠点は、1分30秒ほどしか持続しないということだ。だからバッターボックスに入ってからも、何回かは実行するとよい。もう一つは、1.7倍を超えた重いバットを振ってはいけないことだった。これをすると、通常順番に動いていた筋肉の運動バランスが微妙に崩れるという。野球では微妙なバランスの崩れは命取りになる。この二つは、数多くの実証実験で明らかにされているそうだ。元ヤクルト監督の真中満氏は、これは現役の時に聞きたかったといわれていた。ここで森田で学習するバランスの重要性がよく分かる。
2020.04.28
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球辞苑という番組で「選球眼」を取り上げていた。この内容は、森田理論の「変化に素早く対応する」というテーマにピッタリと合っていた。これによると、ピッチャーが145キロのスピードで投げたボールが、キャッチャミットに収まるまでの時間は0.46秒であるという。その間にバッターはボールを見極めてスイングする。スイング時間はどんなに速い選手でも0.16秒かかる。目で見て打つか打たないかを判断するのに0.17秒要する。残りの余裕は0.13秒しかない。これが何を意味しているかというと、人間に備わった動体視力では、ボールの動きや変化は見えていないことだ。見ようとすればするほど見えない。「じっくりボールを見て打て」と言われても、不可能に挑むことになる。これではいくら変化に対応しなさいと言われても、物理的に無理だ。どうしてプロのバッターは150キロのストレートや変化球を打ち返しているのか。実は、バッターはあらかじめピッチャが投げる球を予測して待っているのだという。相手ピッチャの持ち球は、対戦する前にデーターとして詳細に調べ上げている。そして配球パーターンもキッチャーのリードの傾向も事前にある程度分かっている。バッターは、それぞれのピッチャーに対して、リリースの前から打つか打たないかは決めている。球種や軌道を予測しているという。予想通りの球だと察知したときに打ちに行く。目線はボールが来るところに置いて、予測したイメージのところでボールを待っているのだそうだ。変化に瞬時に対応できないときは、そういう仮説をたてて待つことしかできないという。心理的イメージと物理的イメージが一致したときにヒットが生まれる確率が高まる。決してピッチャーがリリースしたボールを追っているのではないという。目付をピッチャーやボールから離して、チャンスボールを待つというイメージだそうだ。自分が予測したところにボールが来たとき、自然に体が反応して勝手に動いているという。打ちやすいところや狙っているところにボールが来て、無理なくスィングをしている。川上哲治氏が、「ボールが止まって見える」という言葉を残しているが、仮説が当たると145キロのストレートでも止まったかのように見えるのだそうだ。巨人の丸選手が次のような発言をしていた。練習で狙い球を確実に打ち返す技術を身に着けることは大事だ。そのためにはスイングスピードをつけるなどの猛練習を重ねる必要がある。次には、目付が大事になる。変化をあらかじめどのように予測するかということである。例えば、鋭いスライダーを投げる投手の場合、スライダーが真ん中に来るとボールになる。打ちにいってはいけないボールなのです。スライダーが自分に当たるのではないかと思えるようなボールがストライクになる。本来ならデットボールを恐れて、のけぞるようなボールを積極的に打ちにいかないといけない。予想は7割近く外れる。でも自分の予測したボールしか追わない。予想していないボールは我慢して見送ります。バットを振らなければドラマは生まれないなどというのは、甘い幻想です。逆に、どんなボールでも手を出していると、自分の予測したボールが来たとき、打ち損じが起きる。基本は自分の狙った真ん中付近にきた甘い球を打つしかないのです。ですから予想した変化が起きないと、手を出すことはできないのです。四隅にきたきわどい球がストライクと判定すると、三振になります。それはそのまま受け入れて、次で勝負するしかないのです。どんな球でも手を出して追うようになると、真ん中付近の球も打ち損じるようになります。予想通りのボールが来たときは、積極的に打ちにいきます。ところが、ボールになると分かるときがあります。その時の対応として、バットを止める技術が必要になります。打ちにいくときに手首の返らない、バットの出し方があります。グリップが相手ピッチャーに向いているようなバットの出し方をすると、手首が返りにくい。私が森田で学んだのは、目の前の出来事をよく見て、その変化に合わせて動きなさいということでした。変化が先で、その後で自分がどう行動するかという順序だったのです。プロ野球の世界では、変化を見極めること自体が難しい。そういうやり方では決してうまくはいかないということです。そういう場合は変化を予測して、予測したところで変化が起きるのを待ち伏せすることしかできない。変化を先取りするということです。そのためには事前に情報を集めて、こういう変化が起きると、こうなるというシュミレーションを繰り返す必要がある。仮説を立てて取り組むことです。仮説だから、外れることは多々発生する。それを潔く受け入れる態度が欠かせない。野球の場合は7回失敗しても、3回成功すれば一流プレイヤーだ。失敗から何かをつかんで、次に生かすという姿勢が大事になる。一番ダメなのは、せっかく立てた仮説がうまくいかないからと、すぐに放り出してしまうことだ。いったん立てた仮説は、放り投げるのではなく、精度を高めていく方向に向かわないとまずい。
2020.04.27
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森田先生の話です。近頃、フランスのアランジーという人の書いたものを、桜沢という人が訳して、「西洋医学の没落」と題した本が出ているが、西洋医学を分析医学と名付け、一方を綜合医学といって(ごく適切の名称とは思わぬけれども)、西洋医学を攻撃し、漢方医学などを称揚してある。しかし物事には必ず、利害・得失の相伴うもので、その弊害のみを見て、論を立てる場合には、両方ともに迷妄・弊害のある事は当然のことである。真の識者は、その両方の有効なところを正しく観察・批判することができるのである。(森田全集第5巻 211ページより引用)森田理論の両面観の話である。調和やバランスを意識するということですが、森田では重要な学習項目となります。私は以前に五十肩になって、整形外科にかかった。テレビにも出たことのある有名な医者であった。何回通っても治らないので、漢方や針きゅうを併用することを尋ねてみた。その先生は、漢方や針きゅうのことは知らないと、それらの治療を拒否した。というより、そういう治療をしても治らないと即座に否定した。現代医学の最先端の治療をしているのだという自負が強かった。そんなことを言うのならここには来ないでくれといっているように感じた。私はいつまでたっても治らないので、通院を止めて、針と整体に変えた。自由診療で治療費が高くついたが、1年ほどで完全に治った。今思うとその先生は患者目線に立っていないのではないかと思った。西洋医学の大家かもしれないが、視野が狭く、態度が横柄で不愉快であった。患者の痛みを取ろうとすれば、西洋医学に加えて、整体や針きゅうのことも研究するのが、信頼される医師ではないのか。自分がそこまでは手が回らないというのならば、ネットワークを組んで信頼される鍼灸師を紹介ぐらいはしてもらいたいものだ。西洋医学に偏り、決められたことしかしないというのは、いかにもバランスが悪いと思う。そういう人は、得てして患者を見ることはしないで、一心にパソコン画面と格闘している。まさにその医者がそうだった。タイピングスピードを自慢しているかの如くである。その後変わったことはありませんか。そしていつもの薬を出しておきましょうというのが口癖だった。長い時間待たされて2分から3分ぐらいで診察は終了である。患者はもっと自分に顔を向けて話しを聞いてもらいたいと思っている。朝まで生テレビの司会者の田原総一朗氏を見ていると、議論する場合、まるきっり見解の違う人を呼んでいる。そして意見を戦わせる。時にはけんかに発展することもある。しかし真実は、その相対立する意見を戦わせることで、自然に浮かび上がってくるようだ。森田理論学習では、両面観は特に2つの面で役に立つ。一つは神経質性格の特徴です。神経質性格は、消極的で引っ込み思案、悲観的に物事をとらえやすい面がある。そのようにネガティブに考えていると、お先真っ暗になる。親を怨むようになる。なかには性格改造に取り組む人まで出てくる。神経質性格の学習をすると、この性格はたぐいまれなる優れた特徴を持っていることがわかる。それを自覚して、もともと備わっていた神経質性格を生活や仕事に活かしていくことが、自分の進むべき方向だとはっきり分かってくるはずだ。もう一つは、不安の裏には欲望があるということです。私たちは神経症の蟻地獄に陥った時、不安、恐怖、違和感、不快感ばかりに振り回されていました。森田理論学習のおかげで、その葛藤や苦しみの裏には必ず大きな欲望がある事がわかりました。欲望と不安はあざなえる縄のようなものだと学びました。不安にばかり偏った生活は間違っている。生の欲望をまず優先させていくことが肝心であることがわかりました。その際、欲望が暴走しないように不安を活用していくことも学びました。不安と欲望は、車のアクセルとブレーキの関係にある事が理解できました。神経症に陥った時は、欲望の発揮が蚊帳の外になり、手段の自己目的化が起きていることが理解できました。これが理解できれば、目指すべき方向性がわかりました。あとは生活や仕事に応用していけばよいのです。
2020.04.24
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「迷いの内の是非は是非ともに非なり」は難しい言葉である。森田先生は、次のように説明されている。間違った断定から出発した推理・判断は、それがいかに適切であり、道理にかなっていても、結局は間違いであって、これがいわゆる「迷いの内の是非は是非ともに非なり」というのであります。(森田全集第5巻 184ページ)「迷い」というのは、間違った断定から出発することであると指摘されている。間違った断定とは、私が思うのは「かくあるべし」から出発する態度のことではないかと思っている。「かくあるべし」から出発した場合は、それがいくら理論的に理路整然と説明できたとしても、結局は間違いであるというのである。問題が出てくるというものです。これを例を上げて説明してみよう。父親が胴元になって花札賭博をやっているところを、その父親の子が見つけた。その子は学校で法律に違反するようなことは決してやってはいけないと教えられている。人のものを盗んではいけない。交通法規は厳守しなくてはならない。友達をいじめてはいけない。などなど。こういう「かくあるべし」を生活信条として、かたくなに身に着けているとどうなるのか。隠れて花札賭博やカケ麻雀などをすることも法律違反だ。とんでもないことだ。そんなことをしている人は、たとえ肉親だろうが警察に通報して取り締まってもらうべきだ。その父親は踏み込んできた警察に逮捕された。この子はまれにみる正義感の強い子供として表彰された。でもめでたしめでたしというわけにはいかない。生活費を稼いで、自分を育ててくれている父親が逮捕されたのだ。すぐに自分たちの生活が苦しくなる。父親は、拘置所に入れられ、裁判になり、刑務所に送られるかもしれない。そうなれば父親は前科ものの烙印を押されることになる。自分も前科者の子供という扱いを受けるかもしれない。それでも正義を貫くためにはやむを得ないと考えている子ならば精神異常者と判断せざるを得ない。博打はよくないがやっているのが、実の父親だ。父親をかばって見逃してあげるのが普通の子供がすることだ。ここでの迷いは、法律は絶対に厳守しなければならないという「かくあるべし」だ。それは社会が決めたルールだから厳守するのは建前としてはその通りだ。しかし時と場合に応じて、ルールは活用していくものだ。だから実情に合わなくなれば、ルールはすぐに改訂される運命にある。このような場合、森田では、人情から出発することをお勧めしている。最初に感じた感情を大切にして、そこから行動を開始するということである。そのように心がければ間違いがないと教えてくれている。森田では「純な心」として学習している部分だ。この場合でいえば、「お父さんがよくないことをしている。でもせめて警察に見つからないようにしてもらいたい」という気持ちだろう。そこから出発すると、警察に通報するということはあり得ない。しかし悲しいかな、人間には、そんな感情はすぐにかき消されてしまうという特徴がある。それに替わって、「かくあるべし」を含んだ、第2の感情が発生してくるのである。普通はその感情の影響を強く受けてしまうのだ。それに基づいた行動は常に問題になる。その感情は一見理性的でまともに見えるのだが、肝心の最初のハッとした感情を無視しているので、結果として問題を発生させるのである。「迷いの内の是非は是非ともに非なり」で森田先生が伝えたいことは、「かくあるべし」から出発しないで、純な心を大切にして生活しなさいという事ではあるまいか。事実、現実、現状を素直に受け入れて、そこを出発点とした事実本位の生活になると間違った行動は起こりにくいのである。
2020.04.21
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森田先生は人力車から落ちたことが三度あったといわれている。一度もケガをされたことはない。その理由を説明されている。それは不安定の姿勢、休めの姿勢をとっているからだといわれている。休めの姿勢というのは、片足で全身の重さを支えて、他の方は足を浮かせて、つま先を軽く地につけている状態のことだ。この状態を保っていると、つま先に鋭敏に身体の動揺を感じることができ、すぐに周囲の変化に迅速に適切に対応できるそうだ。(森田全集第5巻 197ページ)これを心がければ、電車の中が込んでいて手すりを掴むことができないとき、電車が揺れたときにとっさの行動ができる。人の足を踏みつけたり、倒れることも起きない。大体そういうときは、もし揺れたときはどうしょうかという心づもりはしていると思う。そのような心づもりのない人がとんでもないリアクションをみせることがある。株式投資をしている人の場合も同じだ。株価はラグビーボールを投げるようなものでどう変化するのかは分からない。自分の予測と外れた場合に、すぐにロスカットをしないと塩漬け株を作ってしまう。これが株式投資の世界では常識となっている。休めの姿勢、不安定の姿勢の説明で森田先生の言いたいことはなんだろうか。それは万が一の変化を予想して、日頃からその対策を立てて、いざというときに素早く適切な対応でできるように心がけて生活しなさいということではなかろうか。変化を先取りするような生活態度を維持していくことが大切なのだと教えてくださっている。そう考えると、東海、東南海地震が発生する確率が高まっていると聞くことが多くなった。これを予想して、いまから準備することは何か。家具の固定、建物の耐震化、避難場所の確認、避難訓練への参加、ヘルメット、懐中電灯、ラジオ、非常食、飲料水の備蓄、簡易トイレの用意など最低限怠りなく行っておく必要がある。津波を想定した準備が必要な場合もある。そのような準備がなく、突然大地震が襲ってきたらどうなるか。右往左往することは目に見えている。下手をすると命を落とすことになる。それとこの話で森田先生が言いたいことはもう一つあると思う。それは精神を緊張状態においておくことの大切さである。このことを森田では「無所住心」という。昆虫が触覚をピリピリと緊張させて、忙しく動きまわっているようなイメージである。そうすると、様々なことによく気づくようになる。感情が活性化してどんどん流れていくようになる。問題点や課題、発見や工夫、アイデアが次々と湧き上がってくるようになる。弾みがついてますます意欲的になる。そういう状態は、注意や意識が一点に集中することがない。一時的にとらわれても、どうにもならないことはそのまま流して、次のことにとらわれていく。諸行無常に世界に入ることができる。神経症とは縁のない世界である。つまり変化を先取りする気持ちを持っていると、気が張って、その瞬間瞬間を大切に生きているということなのだ。課題や目標を意識しているので、生きがいを持てることが大きい。そのためには、毎日の日常茶飯事に手を抜くことなく、丁寧に取り組むことが肝心である。人に依存することは極力避けて、自分のできることは毎日自分で取り組む。日常生活にものそのものになって取り組むことができるようになると、緊張感に満ちた森田的生活ができるようになる。変化を予測して対応する態度を身につけたとき、その人の人生は大きく花開いていく。
2020.04.20
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森田先生は、「風邪をひくのも魔がさすのも、必ず常に気の緩んだ時で、周囲の状況とこれに対する自分の反応が、適応性を失ったときに起こるものである」と言われている。暖かいところから急に寒いところに入り、また寒いところから暖かいところに入る時に、これに対する心の変化が、適応せず、気が緩んだところで風邪をひくのである。故にうたた寝のようなことがよくない。ここでは周囲の状況の変化に対して、素早く対応できるように心がけて生活しなさいと言われている。目の前の変化をよく見て、緊張感を持続して生活しなさいと言われている。森田先生は車に乗るときも、ゆったり、のんびりされていることはなかったようだ。急ブレーキで止まったり、事故に備えて、片足を前に出してとっさの危険回避の態勢をとっておられたという。何をそこまでと思われる人がいるかもしれない。森田理論の中でも、この「変化対応力」はぜひとも身につけたいところだ。変化対応力で分かりやすいのは、サーファーの波乗りである。上手なサーファーは大きな波のうねりをとらえて、素早くその波に乗る。その後は波の変化を予測して、その変化に対応している。波で体が隠れるので、見ているものまで興奮させる。うまくいけばそのまま波打ち際まで疾走することができる。爽快な気持ちを味わうことができるのだ。しかし素人ではなかなかうまく波に乗ることはできない。それは技術が未熟で、波の変化をうまく捉えきれていないからである。変化対応力が身についてくれば、爽快で人を感動させるような波乗りができるようになる。気象の変化の兆候は、つねに気象衛星が観測している。人間はその衛星画像を目で確かめて分析している。そのおかげで、1週間先の天気までほぼ正確に当てている。台風が発生するとその進路がほぼ分かる。適切に対応すれば、被害も最小限に抑えることができる。特に太平洋などを航行する大型船舶などは、気象レーダーなどで気象の変化を分析して、航路を変更している。航空機もそうである。これらは観察を怠らなければ、ある程度、変化の予測が可能なものである。関心を持って、事象を観察すれば、変化の兆候をつかむことができる。小さな変化を見逃さないで掴もうとする生活態度の養成は必須となる。そうなれば、森田理論でいう「無所住心」の世界に入り、緊張感のある生活となる。次に変化が予測できないものがある。交通事故、ケガや病気、伝染病、地震、雷、火事、土砂災害、火山の噴火、経済変動などである。予測するまえに突然人間を襲ってくる。変化に対応する時間的余裕がない。変化予測不可能なものに対しては、仮説を立てて、変化を予測し、対応策を事前に決めておくことが有効です。そうしないと慌てふためくことになる。こういうのは取り越し苦労とは言わない。地震に備えて家具を固定しておく。耐震化工事をしておく。非常食を備蓄しておく。生活用品を用意しておく。ヘルメットを用意しておく。ラジオや懐中電灯を用意しておく。家の中ではどこに身を寄せるのか。逃げるときはどこに避難するのか。津波が発生したときはどこに行くのか。もしものことを予測して普段から対応策を準備して、避難訓練をしている人は、とっさの行動がとれる。変化の予測を無視している人は、頭が混乱して、右往左往することになる。最悪の場合は命を落とす。変化には観察していれば容易につかめるものと、予測や予想が極めて困難な変化がある。どちらの変化にも対応できるようにしておくことが大変重要であると思う。普段から変化対応力を身につけた人は、神経症とも縁が切れていく。
2020.03.20
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森田先生は次のように言われています。神経症を克服しても、犠牲心が発動しないで、自分の打ち明け話が恥ずかしい。人に知られては損害だという風では、まだその人は小我に偏執し、自己中心的であって本当に神経症が全治しているのではない。集談会でも神経症を克服してまったく寄り付かなる人をたくさん見てきました。その後の動向を見ていると、元気に森田を活用して生き生きと生活しておられる人はごくわずかのようです。むしろ悶々として、そのまま失意の人生で終わってしまうのだろうなと感じることが多いのです。結局森田には縁のなかった人なのだなと思っている。森田先生は縁なき衆上度し難しといわれている。私が参加している集談会に、高齢だが休まず続けて参加している人がおられる。その人は森田理論の神髄を掴んでおられる。そして森田理論を実際に生活に存分に活用しておられます。私はその方は森田理論学習の世界では10本の指に入る人だと思っている。その人は淡々と自分の体験したことを基にして話しされる。すごいオーラがあるので、人を引き付けてやまない人だ。治ったということから見ると、森田理論はもはや必要がない。集談会に来ても得るものはほとんどない。それでも毎回欠かさずに集談会に参加されている。その態度は、森田理論の「物の性を尽くす」「己の性を尽くす」ことの実践ではないかと感じている。自分は森田のおかげで神経症を克服した体験を持っている。それをいま悩んでいる人たちに、語り部となって、学習で掴んだことや体験談を話してあげている。それは人のためにしているようではあるが、自分を極限まで活かし尽くしていることにつながっている。「人のために尽くす」というのは、思想の矛盾に陥りやすいが、その方は言動が結果として、多くの人に大いに役立っている。神経症の体験は貴重なものであった。これがあったおかげで自分の人生をよく深く考えることができた。いろんな教訓を得ることができた。さらに神経症を克服して、神経症の成り立ち、克服方法について体験を通してつかんだ。現在は精神的に安定した生活を送っている。これを悩んでいる人たちに話してあげることは、自分が苦労の末に掴んだもの、持っているものを今に活かしきることに通じる。神経症を克服して、森田から離れて、我が道を突き進むことも考えられるのだが、その人は自分の持っているものを、困っている人たちのために活かしていく道を選ばれたのだ。自分が神経症から解放されればそれでもう森田とは縁を切るという考え方は、実は自分の掴んだ貴重な財産を眠らせてしまうことになる。つまり、せっかく自分が身につけた森田的な考え方、生き方、活用の仕方は宝の持ち腐れとなってしまう。森田の考え方は、ないものねだりをするのではなく、自分の思想、存在、性格、能力、所有物、時間、財産などの価値を見つけ出して、とことんまで活かしきるという考え方なのである。この考え方を発展させると、欲望の暴走が起きないようになっているのです。争いや戦争などが起こらなくなる。人々はお互いを尊敬して、仲良くなれる理論なのです。そういう基本となる森田の考え方を無視するということは、実は森田理論の核心部分が身についていないということにつながる。
2020.03.16
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五木寛之さんは、日本が戦争に負けて、13歳の時、朝鮮半島から引き揚げてこられました。その体験から多くのことを学ばれたそうです。昭和20年8月15日、天皇陛下の玉音放送がある前から、ごく一部の人たちは、ここにいては危ないといち早く察知して、さっさと列車に乗って、ソウルの方に南下していきました。政府の要人やその家族、利口なグループは、荷物をまとめて、なるべく早く日本に帰ることを考えていたのです。ところがほとんどの人は、その時、政府からのラジオ放送を信じていたのです。政府は、「治安は維持される。一般人は軽挙妄動することなく現地に留まるように」という放送を繰り返して流していました。取り残されたのは、政府の言うことを信じていれば間違いないと、愚直に信じていた日本人だった。五木さんもそうだったのです。するとすぐにソ連軍が侵攻してきました。日本が敗戦を認めた後に侵攻してきて、すべての財産を奪いました。難民となり、なかにはシベリアに連れて行って強制労働させられる人もいました。極寒のシベリアで粗末な食事で過酷な労働を強いられました。無念のうちに亡くなる人もたくさんいました。これが変化に対応し損ねた人の紛れもない実態です。五木寛之さんは次のように語っておられます。国という権威は何でもできる。人間の命を、紙切れ一枚で戦地に引っ張り出すこともできるし、植民地に残された国民が、悲惨な状況に陥ることが分かっていても、大丈夫だといって放置する。私は、その後、国によりかからないで、自分の感覚というか、勘をセンサーにして生きていく覚悟を決めました。むしろ指示される方向とは別な道はないかと、自分で考えるような癖がつきました。いま政府が、「人生100年時代構想」の提言をしていますが、それを鵜呑みにして、踊らされるのではなく、「百歳人生」とは、自分の人生の幸せを構築するための、長いスパンを、天から与えられた一種のモラトリアム、と考えたほうがよいのではないかと思う。(百歳人生を生きるヒント 五木寛之 日経プレミアシリーズ参照)五木寛之さんは大切なことを言われていると思います。変化に即座に対応するような生き方を身につけたほうがよい。変化に対応していくためには、自分から積極的に情報収集をする必要がある。そうしないと自分の身の破滅をおびき寄せることになってしまう。そのために、普段からそこに起こっている事象をよく観察する習慣を身に着けることだ。もし変化の兆しを感じたら、直ちに行動を開始する。もたもたしていてはならない。むしろ仮説をたてて、変化を先取りするような気持ちを持つ方がよい。他人からもたらされた情報をそのまま鵜呑みにしてはならない。もし信じるのならば、自分の目でしっかりと確かめて、必ずその裏付けをとるようにする。森田先生の言われていることと同じです。政府の行っている施策についても同様です。特に補助金のついた施策はよく考えてみる必要があります。政府が誘導したいほうに補助金がつくのです。甘い蜜ほど毒がある。減反政策がそうでした。米を作らなくてもそれなりのお金が出る。最初は農家の人は喜びました。汗水たらさなくても収入になるからです。その結果、米作りに対する農家の情熱を根こそぎ奪い取ってしまいました。成果を上げた後で、減反政策は打ち切られました。農家は困っています。現在、米価低迷、後継ぎ不足、高齢化、農業機械の高騰で米作りに情熱を持って取り組んでいる人はほとんどいません。農村では、耕作放棄地の拡大、後継ぎ不足、過疎、限界集落の問題で苦しんでいます。共同体、コミュニティの崩壊を招き、夜になると、イノシシ、猿、熊の天国となっているのです。中山間地でも夜間に一人で出歩くということは、とても危険な状態になっています。食料を輸入に依存している国は極めて危険です。現在日本人は外国からの輸入食品に頼っています。しかし世界の人口が90億人を超えて、さらに開発途上国の生活レベルが上がってきた時には、食料の奪い合いが全世界で起きることが予想されています。その時、食料は高騰し、またお金を積んでも売ってくれないという事態が想定されます。今は飽食三昧の日本人ですが、そのうちすぐに戦時中の食糧難と同じような辛苦に直面することが予見されます。食料不足が起きたとき、政府は責任を持ってくれるでしょうか。多分、その時政府は言うでしょう。自己責任の世界ですからと。ご自分とご家族の食料を、自らの力で調達するのが当然ではないですかと。現に家庭菜園などで食料を自給自足している人がいるではありませんか。実際にはそういう人は困ってはいませんよと。そういう将来が確実に予想されるのに、変化が見えないということは恐ろしいことだと思います。人生100年時代への対応ですが、身体の健康と増進、経済的な自立計画、精神的な安定、人間関係の持ち方、やりがいや生きがいづくりが大切になると思います。これらのリスクは、あらかじめ分かっているわけですから、その対策を50代ぐらいから立てて、実行する必要があると思います。不安は安心のための用心であるということです。この点、神経質性格者は、創造性、好奇心、分析力が旺盛ですので、リスク管理を早めに立てて将来に備えることができるのではないでしょうか。さらに集談会でもそういう問題について、問題提起をして普段から話し合うことが大切だと思います。集談会はそういう問題も含めて有効活用する必要があります。それが森田を生活のために活用するということになるのです。そうすればマンネリに陥り、集談会に参加することが苦痛ということはなくなると思います。
2020.02.24
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これは中国の禅僧雲門の言葉である。森田療法ではこの言葉は治療の場でよく使用されていたようである。「ひびこうじつ」ではなく、「にちにちこれこうじつ」と読むのが正しいそうだ。これは毎日毎日がよい日だということではありません。毎日毎日をよい日にしようという強い意志が包含された言葉である。人間、生きていくのに苦労はつきものである。人生に希望がなければ苦しみもない代わりに、喜びもない。人生に強い希望を持てば、苦難も多いし、またそれを克服したときの喜びも多い。気分だけをとり出してみると、毎日毎日が、よい日でありえようはずがないのである。しかし行動面をとり出してみれば、気分とかかわりなく、その日、その日を充実させることは可能である。仕事・勉強で充実した日が送られればよい日であるとし、そうでない日は悪い日と想定すれば、自分の努力によって、毎日をよい日にすることができます。(生活の発見誌 1996年1月号 大原健士郎 12ページより引用)我々人間は誰でも素晴らしい人生にしたいという気持ちを持っている。でもしんどいことはしたくない、楽をしたい、現状維持でよいなどという気分本位に翻弄されてしまう。その方向に進むと、「日々是好日」とはならない。イヤイヤ仕方なしに実践・行動に舵を切れば、そのうち状況は様々に変わっていく。振り返ってみれば「日々是好日」を味わうことができるのである。
2019.12.28
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少年野球の守備練習を見た。先入観としては、例えばショートゴロが飛んできた時、ショートが確実に捕球して、正確なスローイングでファーストでアウトにする練習かと思っていた。そんな簡単なものではなかった。当然それぞれのポジションの守備練習には時間をかけていた。しかしそれが終わると全員による守備練習を行っていた。これが素晴らしいと思った。ショートゴロ一つで全員がそれぞれの役割に従って、スムーズに動いているかどうかの練習をしていた。ショートゴロが飛んでくると、捕手とライトは一塁方向にカバーに走る。ショートの暴投に備えているのだ。セカンドは二塁に走る。センターとレフトは二塁ベースの後方に走る。サードはショートのカバーからすぐに三塁ベースに戻る。レフトはその後三塁のカバーができる位置に戻る。ピッチャーも三塁ベースの横あたりに移動する。そうすれば万が一の暴投に備えて失点を未然に防ぐことができるというのだ。あるいは失点しても最少失点でくい止めることができる。これがランナーなしの場合、一塁にランナーがいる場合、二塁にランナーがいる場合などを想定してどう動くのかを確認していた。少しでも動きをゆるめる選手にはすぐに指導が入っていた。暴投というリスクに備えて、全員で最悪の事態を想定して練習に取り組んでいたのだ。まさに全員野球だ。打球方向とは関係のないところにいる選手でも、次の事態に備えた行動が求められているのである。そして習慣になるまで反復しているのだろう。私は少年野球の練習を見ていて次のように感じた。森田理論は目の前の出来事は絶えず変化消長していくという。森田先生は、ことさら「変化流転」「諸行無常」を説明されている。「万物の変化流転・世の中の定めのないことは、これを生死盛衰の法則で、けっしてこれを不変常住にすることはできないものである」(森田全集第五巻 710ページ)これは宇宙の法則であり、人間の意志の力でコントロールすることはできない。不安や恐怖も例外ではない。嫌なものだが、「変化流転」「諸行無常」に身を任せることだ。私たちができることは、その流れに乗って前に進むことだけである。その際、少年野球の守備練習のように、不安が教えてくれたリスクに対して事前に対策を立てて準備をすることはできる。できるだけ不安に学んで、これから想定されるリスクや事態に対して事前に手を打っていく。そうして致命的な事件や災害を回避して命を守っていくことが、生きるということではなかろうか。現状に満足して緊張感とは無縁な生活だけは避けたいものだ。
2019.12.03
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不安や恐怖を感じたとき、あるいは緊張感のあるときに有効な「漸進的筋弛緩法」についてご紹介します。基本的な手順としては、体の各部位に力を入れてから一気に脱力し、その脱力した感覚を味わっていく、ということを繰り返します。例えば、両手にギュッと力を入れて、5秒間ほどその状態を保ってみてください。次にその力をストンと一気にゆるめます。指や手のひらの筋肉がすっかり弛緩している状態になっているのが分かるでしょうか。その感覚をしばらく味わってみてください。それがリラックスしているときの手の状態です。次に両腕で同じことを試みます。ギュッと力を入れてからストンと脱力し、腕の筋肉が弛緩している状態をしばらく味わってください。同様にして、両肩、首、顔、背中・・・というふうに、身体の末端から中心へ、各部位に力を入れてから、一気に緩め、その時の筋肉の状態を味わう、ということを繰り返していきます。なぜ一旦力を入れるのかということについては、こう考えると分かりやすいでしょう。不安になっている人や緊張している人は「全身の筋肉に力を入れよう」として入れているわけではありません。無意識に力が入ってしまっている状態です。そういう人に「力を抜きましょう」といっても、そもそも力を入れている自覚がないので、どうすればいいのか分からなかったりします。そういう「無意識に力が入っている状態」を一旦「意識的に力を入れている状態」に変える。そのために力を入れるのです。そうすることで、全身の筋肉を意識によってコントロールしやすくなります。これを訓練として続けていると、意識的に筋肉をコントロールすることが上手くなり、筋緊張に気づいたときにストンと力を抜けるようになります。(悩み・不安・怒りを小さくするレッスン 中島美鈴 光文社新書 157ページより引用)これと同じようなことが森田理論でもあります。不安に取りつかれている人は、不安を気にしないようにしようと思えば思うほど不安に注意が向いてきます。例えば神経症的な不眠症の場合などがあります。眠らなければいけないと思えば思うほど、頭がさえて眠ることができなくなります。こんな場合は、逆に眠れないならこれ幸い本でも読んで過ごそうと考えて、実行するのです。しばらくは本を読みますが、そのうち疲労で集中力が途切れたころ、ふと目をつむるとそのまま寝てしまっていたということが起きるのです。このやり方は、意識して、不安に身を任せて、さらに積極的に不安を高めていくという方法です。すると不思議なことに、あれほど問題視していた不安が遠のいていくというものです。森田先生は、不安神経症の人にも応用されています。不安はそれを取り上げて問題視しているとどんどん大きくなっていくものですが、それを積極的にさらに増悪してやろうと意識を高めていくと、頭で考えていることとは逆な結果が生じてしまうという現象が起きるのです。
2019.10.28
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アテネオリンピックの男子100mの金メダル最有力は、ジャマイカのパウエル選手でした。何しろ9秒74というとてつもない記録を持っていたのです。ところが金メタルはとれませんでした。パウエル選手がレース後にその時何が起きたのかを語っています。「75メートルまではトップで勝ったと思った。そのとき横を走る選手の足が見え、まずいと思った。自分がなぜ負けたのか分からない」これを分析してみましょう。パウエル選手は、75メートルの時点で、まだレースが終わっていないのに勝利を確信しています。ということは、その時点で自分では気が付いていないかもしれませんが、気が緩んだのだと思います。100メートルの予選では、勝利を確信した選手が最後に力を抜いてゴールするという光景がよく見られます。このときは、誰が見ても「あっ、スピードが急に落ちた」と気づきます。パウエル選手もこんなシナリオを思い描いていたのではないでしょうか。いったん気が緩んでしまうと、「これはまずい」と思っても、すぐに緊張状態に切り替えることは難しい。というよりも実際にはできない。それが、コンマ何秒を争う陸上競技では命取りになるということです。このことはよく心に言い聞かせておいたほうがよい。反対に緊張状態を弛緩状態に持っていくことは、努力しないですぐにできるということだと思われます。これに関連して森田先生は次のような話をされています。乗り物酔いをしそうになった時の話です。この時は決して心を他に紛らせないで、一心不乱に、その方を見つめている。息をつめて吐かないように耐えている。吐けば楽になるかと考えて、決して気を許してはなりません。断然耐えなければならない。思い違いをしやすいのは、自分の苦痛を見つめていると、ますます苦しくなるような気がして、ツイツイ気をまぎらせて、他のことを考えたりしようとすることである。早く行きついて寝ようとか、ここまで来たから、もう十分間だとか、都合のよい楽なことを考えるからいけない。こんなとき、もう2、3分というところで、安心し、気がゆるんで急に吐き出すようなことがある。(森田全集第5巻 455ページより引用)次に、パウエル選手は、「隣の選手の足が見えてまずい」と思ったといっています。これはネガティブな言葉です。「負けてしまうかもしれない」という否定的な考えがとっさに頭をよぎったのです。脳は否定的に無意識で感じたことをそのまま実行してしまうといわれています。理性でいくら「そんな考えを起こしてはダメだ。勝つために頑張ろう」と思っても、否定語が足を引っ張るのです。無意識の力は顕在意識よりも強力なパワーを持っています。馬を無理やり水飲み場まで連れてきたのに、肝心の水を飲んでくれないようなものです。「挑戦してもどうせダメに決まっている」「やるだけ無駄なことだ」「どうせ結婚なんかできるわけがない」「合格なんで夢のまた夢」と心の奥底で感じている人が、困難を乗り越えて夢や目標を達成することができますか。反対に、他のできない理由をいくつも見つけ出して、自分を説得するようになるのです。そして安心して現状維持にとどまってしまうのです。自分が心底「絶対にものにするんだ」と念じているのではなく、「実現できたらうれしい」というような他人事のような希望的観測を述べているにすぎないわけですから、思いが現実のものとなるはずがありません。無意識の世界で失敗やミスを容認している人は、むしろ心の中で思ったことが起きることで、「やっぱり思った通りのことが起きた。自分の考えたことは正しかったのだ」と納得して安心することになるのです。否定するということは、百害あって一利なしと心に刻んでおきましょう。
2019.10.13
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最近「不問」という言葉をよく耳にするようになった。何を「不問」にするのかということですが、もちろん「症状」のことです。症状を取り除きたい、緩和したい、苦しみから逃げたいという考え方や行動をとらないということです。ただ、考え方のほうは、自分の頭の中にコールタールのようにべったりと引っ付いていますので、取り除くことはとても難しいです。しかし行動には意志の自由があります。症状を不問にするということは、実際には行動を変えていくということになると思います。実践や行動が伴わないで、「不問」を口にしている人は、多分すぐに行きづまるでしょう。私の体験では、最初は実践課題を作り、実施することに取り組みました。そのうちに、気のついてことをすぐにメモして、雑仕事、雑事に丁寧に取り組みました。その中で「仕事に追われる人と仕事を追っていく人」の違いも体験することができました。仕事面では約1年という短い期間で、上司や同僚に評価されるようになりました。それを、集談会で発表してアドバイスをもらっていました。すると弾みがついて、自信が生まれてきて、好循環が生まれてきました。森田でいう「ものそのものになりきる」という実践でした。そのうち、趣味や習い事の方面にも広がってきて、充実した人生を送ることができるようになりました。振り返ってみると、結果として、かなりの部分で「症状不問」の状態になっていたのです。症状でいっぱいだった頭の中が、その比率がどんどん少なくなっていったのです。ところが、この時点で神経症を克服したかのように見えるのですが、実際は対人恐怖で押しつぶされそうなつらい人生とは決別することはできませんでした。この時点では、森田療法は、症状はそのままにしておいて、目の前のなすべきことに取り組むことで、神経症をなくする理論だと思っておりました。それ以上の対人的な苦しみや葛藤は、森田ではどうすることもできないと信じて疑わなかったのです。集談会では世話活動をしていましたので、不満足ながら発見会活動は続けていました。その私に衝撃的な出来事がありました。岩田真理さんの「流れと動きの森田療法」(白揚社)の冒頭部分に、森田理論で治った人の中には、ときどき独特の臭みを持った人がいるという指摘でした。妙な胸騒ぎがしました。ごく一部の方なのですが、独特の、それも似たような個性をお持ちの方がいるのです。頑固で、自己主張が強く、どこか尊大で、人の気持ちや場の雰囲気などお構いなく自分の言いたいことを言う人たちです。集談会の中では、「あの人は症状があった時の方が付き合いやすかった」と評価されるような人たちです。これにはドキッとしました。腰砕けになりそうでした。正直、これって私のことを言われているのかと思いました。たしかに私は、自分の成功体験を吹聴し、天狗のようになっていたのです。症状を不問にして、なすべきことをやりなさい。なぜあなたは真剣に取り組まないのですか。そんなことでは森田理論の学習をしている意味がない。そもそも症状を克服したいという気持ちを持っておられるのですか。などと声を荒げてみんなを叱咤激励していたのです。今思うと穴があったら隠れたい気持です。そのしっぺ返しは強烈でした。そのことを言えば言うほど浮き上がってしまうのです。すればするほど、他人が自分から距離を置いていくのです。終いにはあなたは集談会に参加しないでくれといわれるのです。私はみんなのためにと善意で行っている行為が、総反発を食らっていたのです。次第に私の居場所はなくなってきました。むなしさだけがつのってきました。私はそのうち腹が立ってきました。恨みつらみで我慢の限界を迎えていたのです。私は善意で行っているのに、非難や否定されることは理不尽極まりない。批判する人に電話をかけては喧嘩を売ってしまうというような有様です。どう考えても自分の方が正しい。間違っているのは相手だと思っていました。でも事態はどんどん悪化してきます。決して好転することはありませんでした。退会しなかったのは世話活動があったからです。そんな時に、岩田真理さんのこの言葉はずばり自分のことを指摘されていたのです。私はこの言葉でやっと目が覚めたようです。今考えると、自分の「かくあるべし」をみんなに押し付けていたのです。その時、相手の症状、苦しみや葛藤は全く眼中にありませんでした。自分の言いたいことだけを主張して、自己満足の世界にいたのです。しかも、実践行動が乏しい、観念中心だったので、犬も食わない代物だったのです。一人相撲をとっていたことに気がつきました。相手が症状で苦しみのたうち回っているのは、「症状不問」になっていないからだ。「症状不問」で目の前のなすべきことに取り組めば、間違いなく症状を克服できる。その考え方を今現在症状で苦しんでいる人に伝えたいと本気で思っていたのです。今思うとなんという勘違いをしていたのでしょうか。さらに、森田先生の「思想の矛盾」、事実、現実、現状から出発するという「事実本位」の考え方を学習して実践する中で、私のやり方は間違いだったことにはっきりと気がつきました。私の「かくあるべし」という信念を他人に押し付けてはいけない。自分も他人も不幸になるばかりだ。いくら物足りないなと思っても、相手の立場を理解して、相手に寄り添い、ただ少しの刺激を与え続けることしかできない。私と同じようなタイプの人はときどきいらっしゃいます。「症状不問」をことさら訴え続けている人の特徴は、相手のことが全く見えていないと思います。相手のことよりは、自己存在感をアピールする世界に入り込んでいるような感じです。それは百害あって一利なしだと思います。このことは十分に認識しておく必要があると思います。ただ、そういう人は、とてつもない爆発的なエネルギーを持っておられます。そのエネルギーの吐き出し方を間違えているために、自他ともに蟻地獄に陥って苦しんでいるのです。そのエネルギーの放出先がまともになると、日本のあるいは世界の森田理論学習の先陣をきれる可能性を秘めていると思います。「かくあるべし」の弊害と、事実本位の生き方を学習し実践できるようになったとき、その人は再び大きく脚光を浴びるようになることでしょう。そういう意味では大変貴重な人材である可能性があります。是非復活してほしい。人生において敗者復活は可能です。そのほうがかえってかっこいいじゃありませんか。爆発的なエネルギーはそういうところで発揮すればよいのです。そうしないと、他人を巻き込んで、自分自身も不幸な人生で終わってしまうかもしれません。
2019.10.03
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ほとんどの株価は毎日変化流動している。いくら持っている株が上がってほしいと神頼みしてみても、株価はどこ吹く風である。上がっては下がり、下がっては上がる。一定期間上げや下げのトレンドが続いていても、いつかは崩れる。この変化に対して、株式投資をしている人は、どのように対応しているのだろうか。まず、その変化を受け入れない人がいる。下がり始めてもロスカットしない。この株は絶対に上がるはずだ。今は一時的に下がってはいるが、必ず持ち直すはずだ。そういう先入観を持っている。あるいは上がってくださいとお祈りをしている。しかしそんな人の気持ちを逆なでするかのように下がり続ける株はいくらでもある。株価の変化に対応しないと、含み損を抱えた塩漬け株を作り、手出しできなくなる。そういう株を5年とか10年とか持ち続けている人もいる。現物株で持っていれば、配当収入が入るのでまだましである。ところが信用取引で売買していた場合は、最終的に強制決済にかかり、最悪再起不能なほどの痛手を受けることもある。定年後退職金などを株式投資で運用する人は多い。銀行に預けてもわずかな利子収入にしかならない。日常生活はギリギリなんとか年金で生活できる。でも冠婚葬祭費、家の修理、家電の買い替え、自動車関係の費用、旅行の費用、大きな病気、老人ホームの費用、税金、健康保険料、介護保険料、医療保険、火災保険、子供や孫への出費などは貯蓄の取り崩しで対応するしかない。このままでは蓄えが底をついてしまう。その危機感の表れが、少しでも貯蓄を増やしたい。目減りするのを何とか遅らせたいという気持ちにさせるのである。では比較的短期の株式投資で貯蓄を増やしたい人はどうすればよいのか。まず株価の目まぐるしい変化を受け入れて、予想に反して下がってきた場合に、自分の決めたリスクの許容範囲内で、すぐにロスカットする勇気を持つことである。ここで一旦損失が確定してしまうが、これを確実に行っていると再起不能なほどの痛手にはならない。これは最低限守る必要がある。普通はある一定の自分なりのルールを決めて、その方法で愚直に取り組んでいても、7割がたはロスカットにかかるという。そのロスカットを少なく乗り切ることがとても重要なのだ。残り3割が自分の思惑通りに変化してくれる。その時はトレイリングストップという手法を使って、上昇の変化に対応していくことが肝心である。決して少しの上昇ですぐに喜んで利食いをしては、トータルではよい結果は出ないのだ。またこの法則は200回の試行回数を重ねることでやっと確率的に表面化してくるという。20回や30回のトレードでこのやり方はダメだ、もっとうまくやれるやり方があるのではないかと思う人が多いが、結果として株価の流動変化に振り回されているのである。そういう人は、あちこちのセミナーに参加し、またコロコロと自分の手法を変えてしまっている。この態度は、株価の変化を受け入れるのではなく、変化に対抗してうまく立ち回る方法ばかりを追求しているのである。自然の変化に反旗を翻しているのである。これは森田理論学習の中で徹底的に学んだことだ。これを絶え間ない変化流動の株式投資に応用して、少しでも財産の目減りを少なくしたいという願いを叶えてみたいものだ。反対に株価の変化に少しでも抵抗すれば、虎の子の貯蓄を大きく減らすことを肝に銘じてほしい。これは私がきちんと検証作業を行って、またこのブログで取り上げてみたい。とりあえず1セット20回の試行作業を100セット、つまり2000回の試行、検証作業を行ってみたい。今50回の試行作業をおこなった。時間もかかり、根気のいる作業だが、お金もかからず、楽しい。
2019.08.17
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東京の下町の金属加工の社長の岡野雅行さんは、2005年医療メーカーのテルモより依頼された極細の注射針を開発して、グッドデザイン賞を獲得された。その他従来の常識では不可能とされた金属加工を次々と成功させて、「神の手を持つ男」「不可能を可能にする男」と評された。ニューズウィーク誌では、「世界が尊敬する日本人100人」にも選ばれた。その岡野さんの生き方、考え方は多くの人に勇気を与えているという。その岡野さんは、次のような話をされている。仕事を長い時間、根詰めていると、物事のとらえ方に拡がりがなくなったり、融通が利かなくなったりするものだ。そうなると発想のパターンが同じになったりして、ひらめきというものが湧き出てこなくなる。おれは、開発で壁にぶち当たったとき、いつも、全然、場違いな人とたくさん話をすることにしている。饅頭屋のおやじとか、時計屋のオヤジとか、樽屋の親父とか・・・。同業者じゃない人と話をするんだ。これって無駄話のようで、実は、知恵の蓄積になるんだよ。「こうやって、樽はつくるんだな」っていう具合にね。忙しいとき、疲れたときでも、おれは休憩はあまりしない。そういうときは、休むよりも、人と打ち合わせを入れたりするんだ。そうすることで精神的な勢いというか気持ちの張りが維持できるから、仕事の能率は下がらない。もし、仕事から、まったく離れて頭と精神のリズムを完全に止めてしまったら、再び、元のハイスピードなリズムを取り戻すのには時間がかかるもんだからね。(試練は乗り越えろ 岡野雅行 KKロングセラーズ 52ページより引用)これは森田理論の「休息は仕事の中止ではなく仕事の転換にあり」を身を持って体験されていることですね。私もこれを生活の中に積極的に取り入れています。昼間眠くなったときでも、頭を休めて、掃除や草花の手入れなどをしていると、気分転換になります。そして眠気もどこかに飛んでいき、様々なことが片付きます。1時間以上も昼寝をすると、夜の寝つきが悪くなりますし、あとで後悔しますね。症状でつらいときには、「超低空飛行」を心がけるとよいと聞いたことがあります。症状がつらいからといって、全く行動しなくなると、次に行動を起こすにはかなりのエネルギーが必要になります。そうなると益々行動を起こすことが難しくなります。仕方なく、ボツボツと日常茶飯事に手を出すことが大切なのです。行動には波がありますから、どん底の時はいつまでも続きません。どん底の次には波が次第に持ちあがってくるのが世の常です。これはどなたでも経験されていることではないでしょうか。つらいときでも必要最低限ことだけは手を出していくことがとても大事です。
2019.08.05
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森田理論は一言でいうとどんな理論ですかという質問を受けた。一言でいうのは大変難しいのですが、今後説明を求められた時のためにまとめておこうと思う。薬物療法にしろ、森田理論以外の他の精神療法と大きく違うのは「不安」についての考え方です。一般的な治療は「不安」を取り除いたり、軽減することを目指している。森田理論では、「不安は欲望があるから発生している。欲望がなければ不安は発生しない」という考え方である。人間は欲望を無くすることはできないわけですから、不安も無くすることはできない。無くそうとしてはいけない。無くそうとすることは、無駄な努力となる。ではどうすれば不安に対してどう対応すればよいのか。不安はとりあえず横に置いて置き、欲望を膨らませていくという考え方をとっているのです。不安との格闘がなくなり、目の前の目的、目標、課題があり、そちらに注意や意識を向けていくと、不安は小さく変化してくる。これは自動車のアクセルとブレーキに例えると分かりやすい。アクセルが欲望で、ブレーキが不安である。目的地に行こうと思えば、アクセルを踏み込んで車を前進させることが必須である。神経症で苦しんでいるときは、アクセル操作を一切行っていない状態である。車が動いていないにもかかわらず、さらにブレーキを強く踏み込んでいるようなものだ。傍から見ると実に滑稽な現象が起きているのだ。そのことに気づくと、生の欲望の発揮に目を向けることができると思う。一旦車を前進させることが最も大切なのだ。一旦車が動きだすと、欲望が暴走して事故を起こさないように、不安を活用して速度を制御していけばよいのである。そこで不安は大いに役立つ。不安には大切な役割があるのだ。一言でいえば、欲望を最優先させて、次に欲望と不安のバランスをとりながら生活するということが、森田理論の考え方なのだ。それから、もう一つ大切な考え方がある。これも森田理論の核心部分だ。森田理論では、自分という一人の人間の中に2人の人間が住みついているとみているのだ。その2人が険悪の関係で、対立して、喧嘩を繰り返しているとみているのである。一人は、弱点、欠点、ミス、失敗など様々な問題や課題を抱えながらもなんとか必死に日々生活している自分です。もう一人の自分は天高く雲の上にいる自分です。雲の上にいる自分が現実の世界で必死に生きているもう一人の自分を、上から下目線で、冷ややかに眺めていつも罵倒しているのです。力関係でいえば、雲の上にいる自分が、完全に主導権を握っており、現実の自分を服従させようとしているのです。現実の世界にいる自分はやることなすこと否定ばかりされているのでみじめです。苦しいです。さらに、このような対立関係は、他人や自分が管理を任されている所有物にも及んでいるのです。ですから葛藤や苦悩はあらゆる方面に拡散しているのです。人間関係で苦しい原因はここにあります。森田理論では、その対立関係を解消するための理論だといっても過言ではありません。森田理論を学習して実践することで、最終的には現実の自分に寄り添って1つになることができます。他人や自分が管理している所有物との関係も、客観的、肯定的に見れるようになるので好転してきます。この2つが森田理論学習と実践によって身についてくるのです。一口で説明することは難しいが、2口だったら説明できる理論だと思う。ぜひとも森田理論でものにしていただきたいと思っています。
2019.07.26
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古田敦也さんのお話です。高校生で甲子園で活躍した投手がいるとします。そういう選手がプロ野球の世界に入ってきて、「僕の得意なボールはストレートだ。だからストレートでどんどん押していきたい」などと言います。その選手のストレートが140キロそこそこだったら、プロの打者ならすぐに打ち返します。プロの世界で生活している人は、打撃のレベルが高校時代とは雲泥の差があるのです。そこでどうするのか。自分の今までのスタイルを変化させていくことが大切なのです。一つには自分の持っているストレートをもっと速くしていく。145キロ後半から150キロ台になればプロの世界で通用するようになります。もしそこまでのレベルアップができない場合は、他の抑え方を考えないといけないのです。制球力、変化球、球のキレなどの方法を工夫してみる。そういうまわりの環境に対応してやっていく能力がないと、プロ野球の選手としては生き残っていけないのです。ところが投手の場合、例えば「フォークボールを身につけるとよいのでは・・・」と提案をすると、「フォークボールは得意じゃないから投げたくない」と固辞する人も多いのです。自分のスタイルにこだわりすぎることは、自分の成長を止めてしまうのです。そしてプロの世界からはじき出されてしまうのです。棋士の谷川浩司さんは、羽生善治さんの強さの秘密を次のように見ています。先手であっても後手であっても、得意戦法が3つか4つぐらいあるような感じなんですね。将棋界広しといえども大変珍しい人で、羽生さんの右に出る人はいないと思います。一時期の羽生さんは、全くどう変化されるか分からない予想もつかないような手でこられるので、事前に作戦を立てておいても全く歯が立たないのです。相手の戦法に合わせて、自分のスタイルをどんどん変化させるのでついてゆけない感じです。お二人の話を聞いてみると、いつまでも自分のスタイルに固執することは、それ以上の発展は見込めないということだと思います。カメレオンのように周囲の環境、状況に合わせて、自分のスタイルを変化させていくことが大切なのだと思います。進化論を唱えたダーウィンは、「この世に生き残るものは、最も力の強いものか。そうではない。では最も頭のいいものか。そうでもない。最後まで生き残るものは、変化に対応できる生き物である」と言っています。このことを臨床心理士の岩田真理さんが分かりやすく説明されています。 サーフィンでは、サーファーは「波」という、動いているものに乗っているのです。常に波の様子を読まなくてはいけません。波はその日の天候によって変化し、動き、下手をするとサーファーを飲み込みます。サーファーにとっては一瞬一瞬が緊張です。波を読み、波の上でバランスをとり、波に乗れれば素晴らしいスピード感が体験できます。自分の力だけではなく、勢いよく打ち寄せる波の力を自分のものにして、岸まで疾走することができるのです。 人生の波に乗るとは、結局、毎瞬毎瞬、緊張感を持ち、周囲をよく観察し、そのときそのときで適切な判断がとれるように努め、自分の生を前に進めていくことです。流れに乗る、ということです。流れに乗るとき、人は注意を一点に集中したままではいられません。四方八方に目を向け、状況を考え、自分の姿勢を判断しバランスをとっていくのです。いわゆる「無所住心」の状態です。 (流れと動きの森田療法 岩田真理 白揚社 64ページより引用)感情の波はあがったり下がったりします。無理に反発しないで、動きに合わせて、その波に乗ってゆくことが、自然に服従するということです。その生き方がいちばん安楽な生き方となります。
2019.07.05
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宇宙の法則を見ていると、2つのことに気が付きます。一つは、静止してじっとしているということはなく、常に動き回っているということです。常に流動変化しているというのが宇宙の法則の1番目です。すべての物質は原子と電子からできていますが、電子は原子の周りを絶えず回っているのが事実です。もう一つは、他者とのバランスのとれた関係の中で、はじめて自分という生命体が存在できているということです。地球という天体が単独で宇宙の中に存在しているわけではないのです。月や太陽、他の天体とのバランスの上に地球という惑星が存在できているという事実があるのです。月は地球の周りを常に移動しています。地球は1年かけて太陽の周りを1周しています。その太陽は銀河の中心にあるといわれている、ブラックホールの周りを秒速300kmというスピードで、2億年かけて1周している。私たちの住んでいる銀河系から200万光年先にはアンドロメダ星雲があり、お互いの重力でもって秒速275kmという猛スピードで近づきつつあるという。将来は私たちの住んでいる銀河系とアンドロメダ星雲は、合体して一つの銀河になるそうです。この2つの宇宙の法則は精神世界にも貫徹されているものと考えています。どんな悩み、葛藤、不安、恐怖も、時が経てば、流動変化の流れの中に飲み込まれていくということです。それに抵抗するということは、川の流れに逆らって泳いでいくようなものです。どんなにエネルギーのある人でも、すぐに精根尽き果てて無残な敗北を味わうことになることでしょう。川ではそのような愚かなことをする人はいないでしょう。しかし精神世界の問題となると、その流れに合わせて生きていくという方法をとらない人が多いのです。神経症になって、不安、恐怖、違和感、不快感などがあると取り除こうとしたり、逃避してしまうのです。これは自然の法則に立てついて反逆を企てているようなものです。自然の法則に反対する人は、その存在さえも許されないのだということを宇宙の法則から学ぶ必要があるものと考えます。次に、自分と他者の関係についてみてみましょう。宇宙の法則でいえば、お互いの引き合う力と遠心力のつり合いがとれた場合のみ、お互いにその存在が許されているということです。そのバランスが崩れると、力の大きい天体に力の弱い天体が飲み込まれてしまいます。この法則は人間関係の中にも貫徹されているものと考えます。体力や経済力、機転の利く人がそうでない人を服従させるということは、短期間で見れば可能かもしれません。しかしその反動は必ず起きてきます。それが自然の法則だからです。まず人間関係は、自分の素直な感情、気持ち、意志を相手に向かって明確に打ち出すことが前提になります。ただ相手は他者に対して自分の素直な感情、気持ち、意志をぶっつけてきます。そこには絶えず言い争いのもとになる見解や意志の相違が生じてきます。その違いをまずお互いが十分に認識することが大切になります。次に話し合いや、交渉によって、溝を埋めていく作業に二人して取り組むことが欠かせません。それを怠り支配、被支配の関係になってしまうと、自然の法則からは大きく逸脱してしまうのです。生きるということは、絶えず相手との緊張感の中で、いかにバランスや調和を目指して努力していくかという一点にかかっているものと考えます。自然の流れに沿って生きていくことができれば、また人間に生まれ変わってみたいという気持ちになると思います。
2019.03.17
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道元禅師は座禅をするときの注意点について次のように述べています。 精神を訓練して度胸をつけよう。健康になろう。特別な問題を取り上げて思索しよう。智恵をつけよう。無念無想の状態になろう。精神統一をはかろう。瞑想して特殊な心境になろう。こういう目的や思惑を持って座禅をしてはならない。 悟りを求めて座禅をすると打算になるといわれています。つまり永遠に悟りには到達することができない。 この点、森田も同じです。症状をとろうとして行動・実践していると、症状はまったくなくならない。注意や意識がますます症状に向いてくる。つまり症状を強化してしまう。かえって症状が泥沼化してくるといわれています。ですから、行動は、症状のことは横において、行動そのものに一心不乱になることが大切だといいます。つまり「ものそのものになる」瞬間をたくさん作ることです。 でも現実問題として座禅をしていると、次から次へと雑念が浮かぶようにできています。雑念は自然現象ですからどうしようもないものです。これについてはどう考えたらよいのでしょうか。 道元禅師は、当然無念無想という事はあり得ない。次々に雑念が浮かぶのは仕方がない。雑念を思わないようにする。雑念を考えないようにするという事ではない。雑念は、そのままの状態にしておく。思い浮かんだことにとらわれないようにする。雑念は浮かぶがままにしておく。この態度が大切であるといわれています。これがポイントでといわれています。 普通は気になることに注意や意識を集中してしまいます。つまりこだわってしまいます。その結果自然な感情の変化流転は妨げられてしまいます。それが不安や不快感だったらどうでしょうか。取り除いたりはからったりしてスッキリとしようとします。流すことを忘れて、一つのことにこだわってしまいます。注意と感覚が相互に作用してどんどん増悪してしまいます。そして神経症に陥ってしまうのです。 道元禅師は、一つの雑念にこだわらず、次々に湧き起ってくる雑念にそのまま乗っかっていく態度の養成を求めているのだと思います。瞬間的に次々に湧き起こる雑念に対し、次々にこだわれば、現実には何にもこだわっていない状態となります。これは私たちが日常いつも経験している事です。たとえば飛行機にのる。新幹線にのる。高速エレベーターに乗って高速移動している。これを意識化すれば恐ろしくて居ても立っても居られない状態になります。そうならないのは高速移動の状態を自然に疑いもなく受け入れている。ものそのものになりきって一体化しているから混乱に陥らないのです。森田でいえば、「かくあるべし」的思考から離れて、自然を受け入れて自然に服従した生き方になっているのです。こだわりのない生き方は葛藤や苦悩が無くなるのでとても自然な生き方となります。この生き方を勧めているのだと思います。
2019.03.02
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森田先生は精神拮抗作用について次のように説明されている。精神現象は、常にある意向が起これば、必ずこれに対抗する反対観念が起こって、我々の意思・行動が調整されている。この拮抗作用が調整を失えば、精神異常になる。ちょうど、筋肉には伸筋と屈筋との拮抗作用というものがあって、例えば腕を伸ばすときには、その伸筋の反対の屈筋の力の加減をして、調子外れの運動ができないようにしている。もし脳脊髄病になるときには、この拮抗作用ができなくて、麻痺とか痙攣とかさまざまの異常か起こるのである。(森田全集対効果763ページより引用)この精神の調節作用がなければ、例えば、人間の行動できれば、からくり人形のようになり、我々の日常の生活で言えば、心は臆病のほうにのみ向かえば、その人は安逸無為、怠惰、引っ込み思案になる。これに反して、もし人が欲望のみに向かうときには、いわゆる「むこうみず」になり、軽率、放縦、無遠慮、でたらめ、自惚れ、すれっかしになるのである。 (森田全集第7巻587ページより引用)精神拮抗作用は誰でも経験していることである。例えば、酒が好きな人は、飲み放題の宴会などがあると浴びるほど酒が飲みたいと思う。ところが実際には、二日酔いで苦しんだことが思い出されて、自重する。酒ばかり飲まずに食べることも意識する。中には酒と一緒に水を飲んでいる人もいる。酒を飲みたいという気持ちと同時に、二日酔いにはなりたくないという気持ちが拮抗しているのである。欲望と不安は調整されて大事に至らないようになっているのだ。これがどうせ明日は休みだし、飲み放題なんだからとことん飲もうと思ってしまうと結果は分かり切ったことになる。また酒は体にとって良いことは何もないのだからと、酒は好きなのに一切飲まないで我慢している人もいる。そういう人は、あるきっかけでまた大酒飲みに逆戻りすることもある。若い人は、好感の持てる異性がいると、お付き合いをしてみたいという気持ちが強くなる。普通はあらゆる手を使ってきっかけ作りを始める。ところが、この時、もし交際を断られたらどうしようという不安もでてくる。不安に取りつかれていると、積極的にアタックする気持ちはなくなってくる。結局は静観することになり、後で後悔することになる。天体の動きを見ていると、高速で回転や移動を繰り返しているが、引力と遠心力が釣り合っているためにそれぞれの惑星は存在できていることが分かる。耐えざる動きと変化、そして絶妙なバランスの上に存在が許されているのである。しんどいからと言って、それらを止めてしまうと、存在すら許されないということなのだ。私たちの精神生活もバランス感覚を磨くことが大切である。どちらか一方に偏ることは、不安や葛藤を招いてしまうのだ。私は精神拮抗作用は、いつもサーカスの綱渡りをイメージするようにしている。長い物干し竿のようなものを持って、バランスを維持することに神経を集中して、ゆっくりと前進している。私たちもこのような態度で生きていくことが大事なのだと思っている。
2019.02.27
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今日は「直観」と「直感」の違いについて考えてみたい。というのは、森田全集第5巻の306ページに、森田先生は「直観的」「直観力」という言葉を使われているからである。注目するのは「直感」という言葉を使われていない。これは森田先生の明確な意志が感じられるような気がする。国語辞典によると、「直観」とは、 「推論を重ねて結論に達するという道筋をたどらないで、全体を見ていちどに本質を見る事」とある。類似語として「直覚」とある。「直覚」とは、ちょっと見ただけで、 「ああ 、あれだ」とピンとくる事である。これに対して「直感」とは、 「説明や経験をぬきにして、直接に感じてわかること」とある。私流に解釈すれば、「直観」とは、他人や物事、出来事を実際に自分が出向いて、詳細に観察することによって真実を知ろうとする生活態度のことではないか思う。そういう立場に立てば、森田先生の行動はよく理解できる。例えば、熊本の五高時代に幽霊が出るという屋敷を真夜中に探検されたこと。よく当たるという占い師のところへ直接出向いて、その占いの実際を調べられた事。犬神憑きの実態について、実際に家々を訪問して調査されたこと。温度の違う熱湯の中に手を入れて、それが人間の体感に及ぼす影響を調べられたこと。関東大震災の時に、流言飛語がどのように人間に影響を与えていたのかをつぶさに調べられた事。これらは他人の話や書物などを見て、自分の頭の中で納得し結論を得るという立場とは違うのである。事実を自ら出向いて詳細に観察し、事実の中から真実をつかむという明確な意志が感じられる。われわれは、先入観、早合点、思い込み、決めつけによって真実を見誤ることが多い。森田理論は、事実を正確につかむことから始まる。事実が曖昧であったり、抽象的であったりしては出発点からして間違っているのである。事実は自分の目で確かめ、具体的である必要がある。森田道を歩もうとする人は、多少手間暇がかかっても、事実を正確に観察するという態度が不可欠である。次に「直感」ということだが、この言葉も森田理論学習の中ではとても大きな意味がある。「純な心」は、素直な心、あるがままの心であるといわれている。もっとわかりやすく言うと、初一念、直感力のことである。物事や出来事、他人の言動に接して、最初に湧き上がってくる感情のことである。しかし、人間は初一念や直感に引き続いて、 「かくあるべし」を多分に含んだ初二念、初三念の考えが湧き上がってくる。それに基づいて、反応したり対策を立てたりすることが多い。森田理論では、そういう対応のやりかたは間違いが多く、かつ葛藤や苦悩を抱え込むことになることが多いという。神経症に陥る大きな原因となっている。そんな時、森田理論学習と修養によって、常に初一念や直感に立ち帰るという能力を身につければ、神経症に陥ることが少なくなる。またとても楽な生き方に変化してくる。したがって、「直観」と「直感」という言葉は、森田理論の世界の中では、それぞれにもとても大きな意味を持っていると言わざるを得ない。どちらが正しいとか間違っているとかいう問題ではないのだ。森田療法理論には、言葉にとらわれてしまうと、森田先生の伝えようとするところからそれてしまうという面がある。そうなると何のための森田理論学習なのかということになってしまう。大まかに森田先生の真意がつかめればよいのである。
2019.02.15
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森田先生が形外会である患者に次のように質問された。先生から「神経症が少しは良くなったか」と聞かれたとき、君ならどう返答するか。ある患者は次のように答えた。実際には、まだ良くなっていなくても、それをそのまま口にすることは憚られる。だから、 「おかげさまでだいぶ良くなりました」と答える。これに応えて森田先生曰く。それで上等だ。先生に対しても、 「治りません」とは言いにくいから、つい会釈笑いをしながら「だいぶ良くなりました」という。それでよい。その人情の自然から出発すれば、万事がスラスラと流れるようになる。先生に対して、 「ちっとも良くならない」と言い放つ患者は、自分もいつまでもその不快の症状にとらわれて、その執着から離れることができず、医者からも愛想つかされるようになる。これに反して、少しでも良くなったことを喜んで感謝するようになると、次第に自分の良い方面ばかりが気がつくようになり、ますます症状は軽快して全治するようになるのである。(森田正馬全集第5巻 766ページより要旨引用)ここで間違いやすいのは、自分が理想としている神経症の完治から現状を見てみると、まだまだ不十分のような気がする。100%神経症が完治したとは思えない。その事実を事実のままに発言することが正しいように感じる。ましてや森田理論では事実本位の生活態度を身につけることが重要であると言っている。このケースでは、 「少しは改善できているかもしれませんが、まだ全然だめです」というのが、事実に正直に対応することになるのではないか。森田先生は、そういう発言は屁理屈であると言われている。事実唯真、事実本位を盾にして、 「事実に正直であるべきだ」という「かくあるべし」 にとらわれている態度だ。こういう時は、「純な心」から出発することが大事である。ここでの「純な心」はどんなものであろうか。森田先生に好かれたい。自分勝手なことを言って嫌われたら困る。これからも森田先生にすがって神経症を治したい。だから、自分の都合ばかり主張することはできない。とっさにこのようなことが頭の中を駆けめぐるのではないだろうか。この気持ちから出発すると、頭をかきながら、バツが悪そうにしながら、本心とは違う発言をするようになる。自分の最初に浮かんだ感情、気持ちから出発すると、万事うまく収まるのである。反対に初二念や、初三念を基にして発言することは人間関係にヒビ割れを生じさせることになるのだ。それは、人情から出発していないから問題が大きくなっているのである。
2019.01.13
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相手の言動に腹を立てて「無言電話」をかける人がいるそうだ。面と向かって自分の気持ちや意見を言うことができず、憎しみや恨みが頂点に達し、陰湿な嫌がらせをしている人だ。発散のやり方に問題があるのだが、本人はどうしてよいのか分からない。無言電話を受ける人は気味が悪い。電話の主はたいてい見当は付いているのだか、確たる証拠がない。無言電話が度重なるたびに、 「いったい誰なんだろうか。どこからかけているんだろうか。もしかしたら無言電話は終わらないんじゃないだろうか。もっとエスカレートして、外を歩いていて襲われたらどうしよう」などと妄想を膨らませて、その度に恐怖心を募らせてしまう。無言電話をかけている人は、 「最初は罪の意識があって、体が震えたが、繰り返していくうちに、そんな思いは消えてしまう」という。そして無言電話をするのにすっかり慣れてしまうと、玩具を手にするような感覚で、 「腹が立ったら電話をするという風に、相手を選ばず、気軽な気持ちで電話に手を伸ばしていくようになる」という。無言電話を受ける人の対応は次の5つのパターンに分かれる。「怒って対応する」 「冷静に答える」 「優しい言葉をかける」 「黙ってすぐ切る」 「怯える」無言電話をかけていいる人からすると、相手が怒って対応すると、すごく愉快になるという。次に相手が怯えるというのも、相手が怒る以上に愉快になるという。陰湿ないじめやイヤがらせに対して、受け手が怒りや恐怖で反応すると、無言電話をかける人はどんどんエスカレートしてくるという。「無言電話はやめてください」 「どなたですか」と強く言われると、相手が感情的になってイライラしていることが分かりとたんに嬉しくなる。しかし、相手が私をいぶかっていないことがわかると、やってもムダだと感じる。無言電話をかけてむなしくなるのは、何度電話をかけても相手が感情的に反応しない。自分の無言電話が相手に何の影響も与えていない。気にもかけていないんだと思うとむなしくなる。特に相手から幸せというか、満ち足りた日常感が伝わってくると、寂しくて辛くなる。電話をするたびに、自分の孤独感が感じられて無言電話はやめてしまうという。(もう、他人にふりまわされない 石原加受子 大和出版 133ページ参照)この本から分かる事は、相手の無言電話に対して、恐怖や怯えている態度を見せていると、相手の無言電話もどんどんエスカレートしてくるということである。それが相手の自分に対する精一杯の復讐なのだ。その復讐の効果があると判断すると、再び繰り返される。だから気味が悪くても、すぐに売り言葉に買い言葉の対応をしてはならないのだ。ではどうすればよいのか。こんな時はすぐに自分に立ち返ることが大切であると思う。自分にどんな感情が湧き上がってきたのか。どんな気持ちになったのか。自分はどうしたいのか。自分はどうしようとしているのか。相手に反発する前に、自分の素直な感情や気持ちを思い出すことだ。自分は最初無言電話受けて、何だろうこれは。間違い電話なのかな。「どなたですか」と聞いても何も答えない。気味が悪いなと思った。そのうち無言電話だと思った。だいたい相手はだれだか想像がつくけれども、正確に相手が誰なのか知りたい。もしその相手が自分に対して不平不満があるなら聞いてみたい。そして自分の気持ちも伝えたい。できれば双方の溝を埋めたい。そのためには、例えば「君は僕に何か言いたいことがあるのだろう。一回会いませんか」と提案してみる。そのような対応ができれば、感情的になって相手に怒りを爆発させたたり、怯えまくるということはなくなるのではなかろうか。相手も自分に対して、言いたいことを我慢しているうちに、憎しみが恨みに変わり、精神交互作用でなかなかマイナス感情を手放せなくなり、とうとう陰湿な無言電話に手を出すようになったのです。そういう対応がとれれば、自分だけではなく、相手も救うことになるのです。
2019.01.03
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親や会社の上司などが「かくあるべし」を振りかざして自分のことをバカにしてきたらどうすればよいのか。その言動に対して、 「なめられてはならない」 「この腹立たしい気持ちを取り去りたい」という態度で対応しようとすると、相手と言い争いになる。我慢すると憎しみがどんどんエスカレートして、恨みに変わってしまう。相手の理不尽な言動に対して、相手といがみ合う方法は、決して良い結果をうまない。こういう時は森田理論の「純な心」を応用したいものだ。親や会社の上司に注意や意識を向けて、腹を立てて反発しようとする気持ちがわき起こってきたら、すぐに初一念思い出すことだ。初一念に引き続いて、初二念、初三念が湧き起こってくるのですが、こういう時は初一念に立ち戻るという癖をつけていくのです。この能力を身につけたいものです。 1番最初自分にどんな感じがわき起こってきたのだろうか。自分はその感情に対してどういう気持ちになったのか。その感情を受けてどうすればよいのか。どうしたいのか。その気持ちを相手にどう伝えたらよいのか。つまり売り言葉に買い言葉で相手と対応するのではなく、 1番最初に感じた初一念から出発するのである。それは五感・身体を通じて湧き起こってきた感情であり、一切夾雑物が入り込んでいない素直な感情なのである。この感情を、「私メッセージ」を使って相手に伝えていくのだ。例えば会社の上司で、仕事上のミスをして叱られたとする。「バカかお前は。こんな初歩的なミスをして。能力がないのならさっさと辞めろ」まさかこんなことをあからさまに言うような上司はめったにいないかもしれません。例えばの話です。こんな時後先考えないと、すぐに破れかぶれで反発するか我慢します。そして会社にいられなくなるかストレスが溜まり精神障害を引き起こします。そんな時森田の「純な心」で対応するのです。私「ミスをしたことは謝ります。申し訳ありません。でもバカだ、無能力者だと言われて、私はとても傷つきました。」上司「なにを子供みたいなこと言っているんだ。そんなこと言うからバカだって言われるんだ」私「そのような人格否定をされると、私は恐ろしくて何も言うことができなくなります」上司「恐ろしいだと。俺のどこが恐ろしいんだ。俺は正当なこと言ってるつもりだ。本当にお前は馬鹿なやつだ」私「そんな風に言われるとますます嫌いになってしまいます」上司「それはお前が会社のお荷物になるようなことをしたのだから当然のことだろう。反省して、おとなしくしておれ」私「課長はそういう気持ちなんですか。私はあなたには失望しました。お話する気力もありません。残念です。失礼します」これは言い訳をしたり、相手にこびて服従しようとしているのではありません。私は上司の言動が恐ろしくて仕方がありませんという「初一念」の気持ちを伝えようとしているのです。あくまで自分の素直な感情を伝えようとしているのです。森田でいう「純な心」です。そうすると、上司は最後の言葉で返す言葉を失ってしまいます。気が抜けたような気持ちになります。この上司と話をしても時間の無駄だと部下は判断しているのか。もうこれ以上自分と話をしたくないという事は、自分にはついていけないと思っているのか。それが噂をよんで、他の同僚や私の上司に知れ渡ったらまずい。自分には部下を育て、組織をまとめあげる能力がないとみなされるのはイヤだ。自分の言葉は、天に唾するようなもので、最終的には自分に降りかかってくる。自分の最初に湧き起こってきた感情を思い出して、そこに焦点をあてて自分の気持ちを口に出していくと最悪の事態に至らず、しかもストレスをため込むことがありません。そんな対応ができないから苦しんでいるのだという反発があるかもしれません。すぐに自分の初一念や気持ちを上司に向かって伝えることはできません。理屈が分かったからといっても、そのような行動がとれるのは別問題です。まずはその方向が神経症に陥らず、自分を救う道なのだということをしっかりと理解することが大切だと思います。
2019.01.02
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自動車を所有すると、様々な税金が課せられている。自動車取得税、重量税、自動車税などである。ただし新車の場合は多くの優遇措置がある。新車(トヨタアクア 1.5L ハイブリッド)を購入すると、取得税は0円、重量税は0円、自動車税は通常3万4,500円のところを2万2,500円です。さらに1年後の自動車税は、 75%減税で9,000である。 2年目以降は通常の3万4,500円になる。さらに3年目の初めての車検時、通常1万5,000円の重量税は0円になる。ところが、登録から13年以上の車は自動車税は標準課税額より15%加税される。重量税についても、 13年目で大幅加税があり、さらに18目になるとさらなる加税がある。これは見方によると、新車購入の後押しを官民が歩調を合わせて行っていることではないか。さらに、自家用車をメンテナンスしながら、大切に乗りこなしてきた人に加税をするという事は、 「 13年も過ぎたような車は、もう車の価値はない。たとえエンジンが丈夫でまだ乗れるような車でも、早く廃車にして買い換えなさい」と暗黙のうちに購入を促しているようなことではないだろうか。私は、これは反対ではないかと思う。自動車を13年以上も丁寧に取り扱ってきた人は、資源を大事にしてきた人であって、むしろ感謝を込めて減税をするべきではないのか。さらに15年、 18年、20年と乗り続けた人は、感謝状を出してもいいぐらいだ。使用できるうちは、こまめにメンテナンスをしながら、なるべく長く乗り続けるというのがまともな考えなのではないだろうか。この考え方は、森田理論の「物の性を尽くす」ということに通じる。森田先生は、入院生にこのことを徹底して指導されている。例えば、水を使うにも洗面には一杯の水で済ませる。洗面の水をそのままこぼさないで、バケツにとり、これをぞうきんがけに使い、さらにそれを植木や散水に使う。この手の話は枚挙に暇がない。風呂の残り湯もそうだ。ちびた古下駄を燃料として使う。新聞に入っている広告の裏紙の利用。自転車の古タイヤを机の脚に巻く。これは、机の脚が床を傷つけていることが気になっていたころ、偶然自転車屋の古タイヤを見つけられ、とっさに思いつかれたことである。これは倹約だけを目的としているのではない。むしろそのものが持っている存在価値を役目を終わるまでまで全うさせようとしておられるのだ。森田先生自身は、検体を考えておられたようだ。自分が亡くなったとき、自分の亡骸を医学のために役立たせようとされていたのだ。森田先生は神経症で苦しむ入院生を見て、神経症を克服し、社会のために役に立つ人間に生まれかわらせようとされていたのである。温かい人間愛で貫かれていた。ものを平気で使い捨てする人は、一事が万事ものを粗末にする人である。まだ使用価値があるのに、流行を追ってすぐに新しいものに飛びつく。そして自分の持っているものについては、見向きもしなくなる。ましてや、壊れたものやメンテナンスが必要なものは、修理して使おうという気持ちはない。安くて新しいものがあればすぐに買い替える。こういう考え方は人間関係にも影響を及ぼす。やる気がない、能力がない、面白みがないなどの人間を見ると、すぐに意識のうえで、その人間を切り捨ててしまう。自分自身についても、弱みや欠点、短所や能力不足を感じると、自分自身を毛嫌いして否定してしまう。どんなものにも頼りないものであっても、必ず存在価値があるはずだという視点に立つと、そのものの持っている可能性を見つけることに注意や意識を向けるようになる。そうすると発見や気づきがある。それを元にして工夫していけば、やる気や意欲が高まり、有意義な人生を送ることができる。物、自分、他人の持っている存在価値に注意や意識を向けて発掘して、その価値をどこまでも活かし尽くすという考え方は、神経症から解放される一つの方法である。
2018.12.18
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インターネットが普及した時代には、短所を逆手に取って、むしろ成功するという事例が出てくる。例えば、パソコンの販売をしているデルという会社は、生産工場を持たない。販売チャネルを持たない。それなのに、どうしてあんなに大きな会社になることができたのか。それは、欠点を逆手に取って、インターネットによる直販のシステムを作り上げたからだ。デルはインターネットでお客様の注文を受け、好みに合わせてカスタマイズして、全世界の提携会社に発注を出す。出来上がると直に顧客の元へと発送する。既存の会社は、自前で生産工場を立ち上げ、さらに販売網を確立している。相当な資金力が必要だ。巨大な生産ラインや販売網、それにかかわる多くの人を雇用しており、直ちに販売戦略を変更できないのである。全世界でインターネットによる販売が主力になってくると、自力で立ち上げた生産工場や販売網は大きな足かせとなっているのである。一昔前にはデルという会社が、パソコンの販売で全世界の首位に立つという事は考えることができなかった。パソコンも作れない、販売網もない。そんな会社は既存のパソコンメーカーと同じ土俵の上に上がることさえ不可能であった。ところが、インターネットの時代になって、形勢は一挙に逆転をした。既存メーカーは、デルと比べると生産や販売に関するコストが格段に高い。そのため、販売価格に大差がついてしまい、太刀打ちできなくなってきたのである。インターネットは情報や生産、販売の方法を一挙に変革していったのである。この変化の波をうまくとらえて、大躍進を果たしたのがデルという会社である。最近ではアマゾンがそのやり方で情報、生産、物流、販売を大きく変革した。今では本はすべてアマゾンなどで、中古の格安本を物色するという人が普通になってしまった。これは短所を見直して、長所として活かした例ではないだろうか。一般的には、弱みや欠点などの短所があると、悲観的になってしまう。しかも人と比較して劣るところがあると、自己嫌悪、自己否定に陥ってしまう。隠す、言い訳をする、ごまかすばかりで、事実を認めようとしないのである。このように弱みや欠点の裏に長所が隠れているとは夢にも思わないだろう。例えば卑近な例で申し訳ないが、イケメンや美人に生まれついていると、異性にモテて幸せな人生が待っているかのように思われている。確かに一面では正しい。しかし、それを鼻にかけて有頂天になっていると、思いもかけない悪い虫がたくさん寄ってきて、取り返しのつかない失敗をすることがある。特に、抑制力のない人がイケメンや美人だと、見境もなく恋愛、結婚、離婚を繰り返し、年代を重ねるにつれて周囲の人たちから見放されて、じり貧な惨めな生活に陥って人がいる。その点、体型や容姿に恵まれない人は、いくら抑制力がない人でも男女関係で失敗することは稀である。また、いったん結婚した人を大切にして、最後まで添いとげて、温かい家庭を築くことも多い。それはそういう欲望があっても、悪い虫が寄ってこないので、結果として助かっているのだ。欠点や弱点が自分の人生に役に立っているということだ。この場合も一長一短あると言うことだといえよう。欠点や弱点ばかり見て悲観している人は、その裏に隠れた強みや長所にも考えを及ぼさなければ、物事を正確に見たことにはならない。森田理論でいう両面観、多面的な考え方は、ぜひとも身に付けたいものである。
2018.12.07
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広島カープの丸選手がFA権利を行使して巨人に移籍した。これについて、 SNSでは様々な意見が飛び交っている。丸選手は2年連続で最優秀選手に選ばれたセリーグを代表するスラッガーである。広島ファンの気持ちとしては、ぜひともカープに残ってほしい。それが切なる願いだった。丸選手はいなくなると、 4連覇は厳しいのではないか。巨人に移籍すると、カープの戦力が落ちるだけでなく、巨人の戦力が格段に上がる。先日のファン感謝デーを見ても、プラカードを掲げてファンは神様に祈るような気持ちだったのだ。「ぜひ残ってくれ」という悲痛な叫びだった。これは森田理論で言う純な心だ。最初に感じる素直な気持ちだ。初一念というものだ。ところが、その気持ちは時間の経過とともに、どんどんとあらぬ方向に変化してくるようだ。丸選手が巨人に移籍したことに対する腹立たしさだ。今まで11年間カープで育ててもらったことに対してどう思っているのだ。FAは選手に与えられた権利ということは分かるが、どうしても腹立たしさが湧き上がってくる。その気持ちは球団にも向けられる。どうしてカープは、もっと積極的に丸選手の引き止めに積極的でならないのだ。広島は、 4年の契約でで17億円のオファーを出していたという。広島としては精一杯かもしれないが、ロッテは5年の長期契約で20億円を提示し、さらに将来の監督候補として処遇するという。巨人は5年の長期契約で30億円の破格の契約を提示していたという。これは絶対的エースと言われている菅野投手の今年の年俸を大きく上回るという。これでは子供が大人と相撲を取るようなものだ。カープ球団の勝ち目はほとんどない。これでは年俸がすべてのプロ野球選手が、カープに残ってくれるはずがない。来年以降もFA権取得の選手が目白押しなのに、自前で育てた選手をすみすみ移籍させてもよいのか。カープは今まで、川口投手、江藤選手、大竹投手が巨人に、金本選手、新井選手が阪神に移籍した。球団に対する恨みつらみがSNSで拡散している。また巨人に対しては、毎年他球団の有力選手がFA宣言するたびに、根こそぎ獲得に動いている。巨人はなぜドラフトで指名した選手を育てることに力を入れないのか。だから巨人に入団した若い選手は、モチベーションが高まらず、宝の持ち腐れになっているのではないのか。移籍するとしても、せめて直接対決の多い巨人よりは、ロッテを選択してほしいという投稿もある。こういう気持ちは、森田理論でいえば初二念、初三念である。素直な感情の次に湧き出てくる気持ちである。ここから出発して発言すると、丸選手、カープ球団、巨人球団などに対する不平不満、怒りなどがどんどん増悪してくる。イライラして、カープファンは精神的に不安定な状態になる。私は森田理論を学習しているので、こんな時は初心に戻ることが大切だと思っている。初一念を思い出して、その感情から改めて出発するようにしているのだ。 この方法はとても有効なのがよく分かっている。丸選手は広島にとってはとても大事な選手なのだから、ぜひとも広島に残ってほしい。それをファン感謝デーでは、球場全体で丸選手に伝えたのだ。丸選手もその願いに大きく手を挙げて応えていた。でも最終的には丸選手は熟慮の上巨人への移籍を選択した。私たちに広島ファンにとっては痛恨の極みだ。とても悲しい。このやるせない気持ちを十分に味わうことが大切なのだ。そうすると次に向かうことができるのだ。この態度でいると、割合早く自分の心が自然に癒されてくる。反対に、初一念を見逃して、初二念、初三念で対応しようとすると、丸選手やカープや巨人球団の批判ばかりを繰り返し、自分たちもみじめになるばかりである。初一念を大切にすると、新たな楽しみも出てくる。巨人からどんな選手が来てくれるのか。一岡選手のような若手の有望選手が来てくれるかもしれない。また今まで丸選手は不動のセンターだったので、他の有力選手は力はあっても出場機会がなかった。今まさに外野の選手にはチャンスだ。やっと出番がやってきたのだ。一層やる気に火がついていることだろう。誰が出てくるのかとても今から楽しみだ。丸選手は巨人で日本一のプロ野球選手になってもらいたい。その源流は広島での11年間にあったと証明してもらいたいと思っている。
2018.12.01
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考えすぎて動けない人のための「すぐやる! 」技術(久米信行 、日本実業出版社 164ページ)という本に、森田理論の関連記事がありました。「法」という字は、さんずいに去ると書きます。つまり、本来「自然の法」は、常に流れ去っていき、一瞬たりとも同じ姿がないということです。ところが、 「人間の法」はそれを言葉にし、形にとどめようとするから、悩みが生まれてしまうのです。時代はゆったりと、しかし確実に流れていく川だとすると、今の場所にしがみついていることは、かえって気力や体力を必要とします。むしろ流れに身をまかせながら、行き先を見極めて泳いでいく方が、実は楽なのです。ときには、石にぶつかることもあるかもしれません。流れにうまく乗れないこともあるでしょう。それでも、泳いでいくうちに、もっと遠くを見通せるようになるでしょう。そして、もっと楽に速く泳げるようになるでしょう。川岸で見ている人や、岩に懸命につかまっている人には、流れに乗って泳ぐ人は、奇人変人か、特別な達人に見えるかもしれません。そして、なんて危険な行動をしていると思っていることでしょう。しかし、実際には、誰もが使おうと思えば使える「自然な流れ」に身を任せて泳ぎ続けているだけなのです。鴨長明は方丈記の中で次のように言っています。ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、かくの如し。森田理論の考え方も全く同じです。このことを、森田先生は「諸行無常」といわれています。気になることにいつまでもしがみつくよりも、サーファーのように、刻々と変化する波を予測して、その変化に素早く対応する生き方が健全な生き方なのではないでしょうか。
2018.11.19
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私は森田理論学習を30年以上続けてきた。以前と比べてどのような変化があったかまとめてみた。1 、体がよく動くようになった。迅速な行動ができるようになった。興味や関心、好奇心のあるものには、できるだけ手を出せるようになった。2 、他人と交流することが楽しみになった。時と場合に応じて、広く浅く、どんどん付き合う人が拡がってきた。3 、事実本位の生き方が身に付いてきた。最初に浮かんだ素直な感情から出発すること、私メッセージの応用、他人と意見の相違があるときは話し合って調整することなどが生活習慣となった。 「かくあるべし」と現実のギャップで苦しむことが少なくなった。4 、小さな日常茶飯事を丁寧に行うことができるようになった。凡事徹底の実践ができるようになった。5 、目的本位の行動ができるようになった。夢や目標が持てるようになった。森田理論学習を継続し、森田理論を生涯にわたって深めること。老人ホームの慰問活動を続けていくこと。6 、世の中の出来事、その他様々な問題に対して、森田療法理論を使って、よく分析できるようになった。自己内省力がプラスに発揮できるようになった。人間の生き方、人間関係、子育て、政治問題、資本主義の問題点、社会の在り方、自然との共生、環境問題などである。7 、対人恐怖症の苦しみはあるが、悩みはほぼなくなった。人の思惑が気になるという性格は、他人を思いやる性格として捉え直し、プラスに生かすことができるようになった。対人恐怖はなくならないが、それにいつまでも振り回されることがない。8 、森田療法理論学習は、神経質性格を持った人にとって、生き方の指針となるものであることが分かった。この指針なしで、人生を乗り切ることは、GPSや羅針盤を持たずに、太平洋の荒波に飛び込むようなものであるという考えに至った。森田理論でどうしても身に付けることはできなかったものは、人を統率し、リーダーシップのとれる人間になることだった。これはそういう特性を持った人に譲るしかないようだ。神経質性格を持った人は、NO.2の立場に立った時、その能力をいかんなく発揮できるような気がする。神経質性格のよい点を評価して、いかんなく発揮して生きていくことがより重要であると思う。
2018.10.13
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「完全欲」と「完全主義」は、言葉はよく似ていますが、水と油のようなものです。その意味するところは全く違います。森田先生は、「完全欲」というものは、どこまでも際限なしに、押し伸ばしていかなければならないと言われています。例えば、心の健康セミナーを企画・実施する場は、事前準備をできるだけ完璧にする必要がある。気になることをそのままにしないで、きちんと紙に書き出しておく。計画を立てて、問題点を一つ一つ潰していく。このような態度で入れば、次から次へと問題や課題が増えていく。これらに少しずつ取り組むことによって、集客力も増加し、よりよいセミナーを開催することができるようになるのだと思います。実際に開催してみないと、結果はわかりませんが、少なくとも準備をしなければ結果は火を見るよりも明らかです。これが森田先生の言うところの「完全欲」の発揮であろう。これは1つの例ですが、完全欲を発揮する場面は、我々の生活の中に無限に存在します。私たちは一つ一つ取り組む課題に向かって、できるだけ「完全欲」を発揮しなければならないと思います。次に、「完全主義」とはどういうものか。これは「かくあるべし」と関係があります。自分の方針、信条のようなものです。これでは臨機応変に変化対応ができません。自分の立ち位置が完全、完璧主義でがんじがらめになっている状態です。地上に自分の立ち位置はなく、雲の上に自分の立ち位置をとっています。そして、不十分で、問題だらけの自分や他人を冷ややかな目で見つめ、批判、叱責、否定しているのです。地上にいる自分や他人は、存在自体を否定されているのですから、たまったものではありません。そのうち、自己嫌悪、自己否定、他人否定で自暴自棄になってしまいます。「かくあるべし」と現実、現状、事実が乖離して、葛藤や苦悩が生まれ、神経症の発症の大きな原因となっています。森田療法理論は、 「かくあるべし」を少なくして、事実本位、物事本位の生活態度を身につけることが大きな目標となっています。事実の観察、事実を具体的に話す、事実に服従する、純な心の体得、私メッセージの体得などは、事実本位の生活態度を獲得するための方法です。 「かくあるべし」が少なくなってくれば、生きづらさが次第に弱まってきます。森田理論を学習する方は、是非ともものにしていただきたいと思います。
2018.09.24
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森田先生のお言葉です。「心頭滅却」とは、苦痛に対する想像すなわち精神交互作用をまったく止めることで、すなわち苦痛に対する批判をやめて、苦痛そのものになりきることである。これによって神経質の症状は、本来観念的のものであるからもちろん全治する。さらに「火もまた涼し」と言うように、実際の苦痛でも、これを感じなくなるものである。(森田全集第5巻 93頁より引用)森田先生は、 「心頭滅却」とは、神経症を治す努力を止め、苦痛そのものになりきることであると言われている。森田先生は、苦痛そのものになりきれば、神経症はたちまち治ると言われている。神経症を治すためにはからいや逃避はダメだと言われているのである。症状、不安、恐怖、違和感、不快感などに対して、無抵抗で自然に服従する態度をとることが大事だと言われているのだ。今年の夏は異常に暑かった。その暑さになりきって仕事をすれば、さほど暑さは気にならないということだ。しかし現実問題、炎天下の中で営業で外回りをし、肉体労働をすることは熱射病を招きやすい。とても「火もまた涼し」という呑気な心境にはなれないのではなかろうか。夜寝るときはエアコンを一晩中かけておられた方も多いだろう。それなのに、この言葉にとららわれてしまうと、自分を叱咤激励して炎天下の中で無理をしてしまう。これでは本末転倒ではなかろうか。これについて、森田の大先輩である山中先生が的確に説明されている。「なりきる」というのは、なかなかできるものではありません。これは気づくかどうかの問題で、別になりきったかどうかを問題にする必要はありません。不安・恐怖があっても「やれるな」というのが一種のなりきりだと考えていただいてもよろしいです。ここで言う「火もまた涼し」と言うようななりきり方でなくてもよろしいです。なりきろうとすると思想の矛盾に陥ります。とても分かりやすい説明で納得できた。ここで肝心なことは、不安があってもそれに振り回されないことです。それは横において、なすべきことに手が伸びていれば、結果として「なりきって」いるのです。「なりきる」ということを、このように考えることができれば、肩の力が抜けるのではないでしょう。そもそも「なりきる」と言うことを、目標に掲げると、「なりきる」ことによって神経症の苦痛を回避したいという気持ちが強く出てきて、症状は悪化の一途をたどります。「なりきる」という言葉にとらわれて、言葉遊びをしてはならないのである。不安や恐怖を持ちこたえながらも、目の前のなすべきことに嫌々仕方なしにでも手を出すことができる。そういう人は、第三者から見ると立派に森田理論の「なりきる」を習得した人であるように見えます。外観的には、不安と格闘することを止めて、目の前のなすべきことに注意や意識を向けることができているので、すでに森田理論でいう「なりきる」ことが体現できているのです。
2018.09.05
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このブログで比較的よく読まれている記事を検索してみた。それによると、以下の通りである。順不同で紹介してみたい。2014年3月12日 自分中心と自己中心の違い2013年2月2日 神経質同士の結婚はよくない2017年7月10日 主観的事実と客観的事実2013年2月28日 他人を敵視する生き方2014年8月30日 共依存から抜け出る2015年5月23日 自分の特徴や能力を見極める2018年2月22日 落合選手のバット2015年6月14日 白か黒か、0か100かの発想2014年6月20日 変則交差点に思う2016年7月5日 子供の自己統制力の獲得2013年10月2日 0歳から3歳までの子供と母親との関係2013年5月24日 対人恐怖症の人の職業の選び方2015年11月21日 他人を意のままにコントロールするということ2015年7月29日 擬態うつ病について2013年5月7日 神経質者の長所2015年2月28日 五木寛之氏の自力と他力2015年9月28日 愛着障害とは何か2015年10月2日 恐れ・回避型愛着スタイル2013年7月23日 自発性と自己統制能力2014年6月21日 仕事を追う人と仕事に追われる人の違い2013年1月11日 自己内省の役割この中で過去1番読まれた投稿記事は、「0歳から3歳までの子供と母親との関係」でした。これらを分析してみると、神経質性格とは何か、神経症に陥った自分は今後どう生きていけばよいのか、森田を応用してどう子育てしていけばよいのか等に集約されるような気がします。このブログでは、今後、神経質性格を持った人に、生き方の指針を獲得してもらうことを最大の目標にして投稿を続けたいと思います。尚神経質性格者同士の結婚はよくないについては、反論意見もいくつかいただきました。実際、集談会で知り合い結婚されたカップルもたくさんおられます。その人たちはこの記事を見て苦々しく思われたのだと思います。失礼の段はお許しください。ここでいいたいのは、神経質性格同士の結婚はプラスに出ると、きめ細やかな愛情のある夫婦になることができます。ただし磁石のようにプラスとプラスを引っ付けようとしても反発する場合もあります。神経質同士の結婚の場合は、神経質性格がマイナス効果として相乗的に働く場合があるということです。そのことを二人でよく自覚して、二人して落ち込んだ場合はどうするのか、お互いの欠点が気になり出したときはどうするのか、日ごろから話し合っておくことが大切だと思います。お互いに思いやりのある人間関係を目指していただきたいと思っております。
2018.09.01
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8月24日投稿の記事に対して、 4つの問題について回答を投稿してほしいという意見がありました。参考のため、私の考えを投稿します。これに近い答えは全て正解です。1 、森田療法では「不安の取り扱い」に他の療法にない特徴がありますが、 100字以内で述べなさい。他の精神療法では、不安は生きていくための障害物であって、取り除くことが目的となっています。森田療法では、欲望があるから不安も存在している。不安と共存していく生き方を提唱しています。2 、森田療法でいわれている「精神交互作用」について100字以内で説明しなさい。神経症か固着する過程は、自分が気になる症状に注意を向ける。すると感覚が鋭くなる。次第に注意と感覚が相互に作用して、どんどん症状が悪化してくることをいう。3 、森田療法でいわれている「生の欲望の発揮」について100字以内で述べなさい。森田療法の根幹をなす考えである。日常茶飯事、仕事、勉強、家事、育児、興味のあること、夢や大きな目標に向かって努力精進していく生活態度を維持していくことをさしている。4 、森田療法でいわれている「思想の矛盾」について70字以内で説明しなさい。自分の頭の中で理想的な状態と考えることと、現実、現状、事実の間でギャップが生じ、そのギャップの間で葛藤や悩みが尽きない状態を言う。5 、森田療法でいわれている「かくあるべし」の弊害について説明しなさい。自分の立ち位置を理想主義、完全主義において、現実や事実を見下して、批判や否定を繰り返すようになると容易に神経症を発症するようになる。 森田療法では「かくあるべし」を少なくして、事実本位の生き方を目指していくことが大切であると言われている。
2018.08.25
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今日は、 「自然に服従」という意味について考えてみたい。まず、「自然」とは何か。一般的には台風、地震、津波、火山の噴火、大雨、洪水、土砂災害、雷、大雪、寒波、隕石の落下などの自然災害を思い浮かべる。これらは自然の圧倒的な力を前にして、人間はほとんど無力である。好むと好まざるとにかかわらず、最終的には受け入れざるを得ない。次に、地球の温暖化、酸性雨、オゾンホールの破壊、森林破壊、海洋汚染、大気汚染などの環境破壊の問題がある。これらは、人類が作り出した自然破壊である。自分たち人類が自然を自分たちの都合のよいようにコントロールし過ぎた結果である。ここには自然に対する畏敬の念は全くない。自然は人類が簡単に征服できる相手もみなしているのである。これはいったん暴走しはじめると、もう後戻りすることはできない。森田先生は、湧き上がってくる様々な感情も自然現象であると言われている。不安だ、恐ろしい、不快だ、苦しい、痛い、悩み、怯える、腹が立つ、悲しいなどの感情は、人間がコントロールできない自然現象である。神経症に陥るのは、自然現象に対してコントロールできると思って戦いを挑むからである。森田先生はそれ以外に「境遇」についても、自然現象であると言われている。生まれてきた時代、生まれてきた家、産んでくれた親、先天性の心身の疾患、神経質性格などは、自分で選択することはできない。また、成長していく過程で、大事故に遭遇し、大病になることも自分の力ではどうすることもできない。また自分に対する他人の理不尽な仕打ちも自分のコントロールできることではない。その他、政治、経済変動や金融不安、紛争や戦争なども自由にコントロールすることはできない。こうしてみると、自然という言葉は、大自然のみならず、多くの意味を含んでいる。それらはほとんど人間の意志の自由がきかないというのが特徴である。それを無理矢理にコントロールしようとすると、天に唾するようなもので、必ず人間に災いが降りかかってくる。基本的には、できる範囲の備えをして、それ以上の惨禍については、不満足ながらも受け入れざるを得ない。次に「服従」という言葉について考えてみたい。これは、ほとんどの人が忌み嫌う言葉である。経済力・政治・権力を持った人に一方的に支配される状態を連想させるからである。服従には、国家権力、多国籍企業、独裁者、奴隷、支配・被支配、征服・抑圧などの言葉を思い浮かべる。支配・被支配、征服や抑圧などのの人間関係は、いずれ行き詰まっていくのが人類の歴史である。その解消のために、平等な人間関係を求めて紛争や戦争が繰り返されてきた。そういう歴史を学ぶこともなく、紛争や戦争は今でも繰り返されている。本来は、人間はお互いに平等で、共存共栄の関係が望ましい。しかし、人間の性なのだろうか、少し気を抜くと支配、被支配、征服、抑圧の関係に陥ってしまう。調和やバランスを得ることがとても難しい。自然、服従という言葉は以上のように分析できるだろう。森田先生は、この2つの言葉を結びつけて、 「自然に服従せよ」と指摘されている。自然に戦いを挑んではならない。自然に対しては、どんなに承服しがたい出来事が発生しても、その事実を受け入れるということが基本であると言われているのだ。森田先生の場合は、主に境遇や感情について言及されている。不安、恐怖、怯え、違和感、不快感など、自然に沸き起こってきた感情はひとまず受け入れることが大切である。それらの感情を嫌だからといって打ち消そうとしたり、逃避してはならない。抵抗は無用である。どんな嫌な感情でも、理不尽な事実であっても我慢して持ちこたえることが大切なのである。これを一言で言えば、 ずばり「自然に服従」するということであろう。そういう前提に立って、目の前の仕事や、やるべきことに取り組んでいく。そうすれば、あんなに嫌だったネガティブな感情は気にもならない小さな感情に変化していくのである。これが森田療法理論の最も重要な考え方の1つである。
2018.08.18
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森田先生は、 「即」という言葉をどういう意味で使われておられるのだろうか。煩悩即菩提、煩悩即涅槃、煩悩即解脱、雑念即無想、矛盾即統一、諸行無常即安心立命、強迫観念即安楽、耳鳴即無声、病気即未症などである。一般的に即という言葉は、即席ラーメンという言葉があるように、すぐにただちにという意味がある。それから拡大解釈されて、 「とりもなおさず、つまり、すなわち、言い換えると」という意味を持つようになった。即という言葉をこれらの言葉に置き換えてみると、少しはわかりやすくなる。煩悩を持って苦しんでいる人は、「言い換えると」解脱した人である。耳鳴りを持ってイライラしている人は、「すなわち」耳鳴りが気にならない人である。でもこれではまだまだ説明不足で何のことかさっぱりわからない。私たちは一般的に煩悩で苦しんでいることと、煩悩をなくして心安らかな日々を過ごす事は全く正反対のことであると考える。だから煩悩を持っていることが、そのまま解脱していると言われてもにわかには信じがたいのだ。理論的に整理して分かるように説明してくれないと、言葉遊びのようなものに終始してしまう。私は次のように考える。煩悩を持っていると、自分の思い通りにいかなくて葛藤や苦しみが生じる。いわゆる森田理論でいうところの「思想の矛盾」である。そこでその葛藤や苦しみをなんとかなくしてしまおうと、様々なやりくりをする。そのようなことをすると煩悩は煩悩のままである。葛藤や苦しみはなくならない。葛藤や苦しみがなくなるどころかどんどん増悪してくる。煩悩をなくそうとする様々な抵抗を止め、そんな気持ちを持ったまま我慢して耐えていく。それがいいとか悪いとか、価値判断をしないようにするのだ。そして目の前の仕事や、やるべき事、興味や関心のあることに手を出していく。そうなれば、煩悩はあるにはあるが、気になる度合いがどんどんと小さくなってくる。これは自分の乗っている電車と並行して走っている電車が同じスピードの場合、自分が動いているということを意識していないということと同じことだ。防災ヘリで人命救助に当たっている人が、次のように言っていた。高層ビルの上や高い山の山頂で人命救助をしている場合、高所恐怖症に見舞われることはほとんどない。ところが、救助活動が終わり、ヘリコプターが動いて少しでも位置がずれると、急に距離感が変わって高所恐怖感が出てくる。急に自分の身を守るという意識が自然に働くのだろう。「病気即未病」とは、実際にはガンや難病で苦しんでいても、できるだけ健康な人と同じように日常茶飯事をこなしていけば、病気ではあっても、精神的には健康的であると言える。「耳鳴即無声」とは、しつこい耳鳴りをなんとかなくしてやろうとやりくりをしていれば、意識や注意がその一点に集中し、ますます耳鳴りがひどくなってきます。不快な気持ちを我慢しながら、日常生活を進めていけば、いつの間にか耳鳴りのことは忘れていたという状況が訪れてきます。そのようなことが増えてくれば、いつの間にか耳鳴りは気にならなくなってくるものです。雑念にしても、強迫観念にしても、それを目の敵にして戦いを挑んでいたのでは、症状としてはどんどん悪化してきます。即という言葉が意味する通りの状態にもっていくためには、条件があります。治すための努力を放棄するということです。どんなに不快で理不尽なことであっても、それらに耐えて我慢して受け入れるということです。そして、目の前の仕事や日常茶飯事に手を出していれば、煩悩、雑念、耳鳴りなどは問題にならなくなるということです。つまりそれらの葛藤や苦しみから解放されているということです。
2018.08.15
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7月15日、高知県民ホールで森田正馬没後80年記念講演会が開催された。定員は1000名の会場であったが、ほぼ埋まっていた。その中で特別講演として、作家で精神科医の帚木(ははきぎ)蓬生氏のユーモアに溢れた楽しい話を聞くことができた。演題は、 「生きる力~森田正馬の15の提言」であった。この題名の本はすでに読んでいたが、講演を聞いてまた読みたくなった。今日はその中から印象に残った話を投稿したい。先生は、毎日4時から6時までを執筆活動に当てておられる。これを30年間続けられた。その中から、多くの文学賞に輝く数多くの作品を世に送り出された。昼間は精神科医の仕事をされている。自身のことを、 1日中机に座っているのではないので、パートタイマー作家だと言われていた。アイデアが浮かばない時は、「へのへのもへじ」と書いている。この点は神経症の時の倉田百三とよく似ている。森田先生は神経症の倉田百三に対して、小説が書けなくても、書き続けなさいと言われていた。そういう習慣は、 1日中机の前に座って小説を書いているプロの作家に引けをとらない成果を出す。よい習慣は才能を超えると言われていた。その説明の際、 1万時間の法則についても紹介された。1万時間を3時間で割ると、 3,333日となる。 約10年間である。何を言いたいかというと、毎日コツコツでも10年間も続けていると、その道のプロになれるということである。私はそれに遠く及ばないが、毎日6時40分に起きて8時までの1時間20分をこのブログを作成する時間に当てている。先生の半分の時間である。さらにまだ6年目に入ったばかりだから、先生の30年間にははるかに及ばない。それでもある程度のアクセスはあるので、 「継続は力なり」と決意も新たに精進していくことを心に誓った。その際、「が」「だが」「こと」という言葉は、文章をダメにすると言われた。知識のひけらかしに通じる。これらの言葉は先入観や決めつけによって、自分の「かくあるべし」 を前面に押し出す態度がみえみえである。物事をよく観察することができる人は、文章がうまくなるそうだ。それは観察したことを素直に表現するからだろう。事実を事実のままに文章にすることが肝心である。面白い話は、医者で文章を書くことが下手な人は、よい医療行為はできないと言われていた。診断をを下す前に、患者を観察するという態度を持ち合わせていない人である。過去の経験をもとにして先入観で決めつけをしてしまう。文章を書くことを苦手にしている医者にはかからない方がよいと言われていた。そういう医者は病巣ばかりに注意や意識が向いていて、目の前の患者を見ていない。中にはパソコンのカルテ作成に集中して、患者の顔すらまともに見ない医者もいる。あるいは自分の治療成果の実験台として利用しているかもしれない。そういう医者は得てして、日記は書いていない。文章を書かせれば小学生並みである。結局そういう医者は、上から下目線で患者を見ているのである。それは私たちが問題にしている「かくあるべし」的態度である。患者に寄り添い、患者の身になって医療行為を行っているのではないのである。そういう医者は、一刻も早く見切りをつけないと大変なことになる。ここで先生の言いたい事は、物事をよく見つめる。よく観察するということが極めて大切なのだということだろう。
2018.08.10
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発明王のエジソンは、 「複数の仕事を同時並行させる」という信念を持っていた。6つから7つの構想を同時に練っているというのだ。同時に複数のテーマを考えると、思考が分散されて、効率が落ちるように思える。しかしエジソンは、あえて複数のテーマを同時並行させることで、アイデアの相乗効果を狙っているという。あるテーマで、常識的に考えられる原理や材料を使って実験を続けたものの、結果が出なかったとしよう。ひとつのテーマしか追っていないと、普通はそこで行き詰まる。常識以外の発想をしようと思っても、ヒントになるものがないからだ。しかし、別のテーマを同時並行で進めていれば、 「こちらで使った原理はあちらに応用できるのではないか」という発想が浮かんでくる。こうした視点は、多ければ多いほどいい。エジソンはそれを狙って、複数のテーマを同時に抱えるというルールを意図的に実践していた。そもそも発想というものは、既存のモノや考え方の組み合わせに過ぎない。斬新と評価される発想も、元をたどれば組み合わせが異質であるだけだ。ただし、視野の狭い人に、異質なものを組み合わせる発想は浮かばない。そこで重要になるのが仕事の複線化だ。例えば、新商品の企画を練りながら、既存商品のテコ入れ策を考えるのもいい。さらに異業種のレポートを作ったり、全く関係のない社内のイベントを企画するうちに、なにかのヒントが得られるかもしれない。ビジネスの現場では、実際に数多くの案件を抱えて忙殺されている人も多いだろう。そこで、上司から新たな案件を割り当てられると、 「勘弁してくれ」と考えるのが普通の感覚だ。しかし、アイディアを深めるという意味で、複数案件を同時に抱えるのは大きなアドバンテージになる。新たな案件が発生したら、それはむしろ喜ぶべきことである。アイディアと仕事の数はイメージとしては、y=x2乗の二次曲線の関係にあると考えていいい。ひとつの仕事しかしていないと、アイデアもひとつ。しかし、仕事が10に増えれば、アイデアは一気に10の2乗で100に増える。仕事が20ならアイディアは400だ。仕事が1つ増えるたびに、アイデアは雪だるま式に増えていく。そう考えれば、目の前に積み重なった多くの仕事にも前向きに取り組めると思うが、いかがだろうか。(凡人が一流になるルール 斎藤孝 PHP新書 42ページより引用) 森田先生は、 「休息は仕事の中止ではなく、仕事の転換にある」と言われた。ひとつの仕事を長時間続けていると、身体的疲労が溜まってくる。また刺激が少なくなり、飽きがきて、マンネリ化が起こると言われている。これを解消するためには、一定の時間が過ぎると、仕事の内容を変えるとよいといわれているのだ。勉強をしていると、急に睡魔が襲ってきて眠たくて仕方がない時がある。そのまま寝てしまうと、気がついたら朝だったということにもなりかねない。そういう時は、風呂に入ったり、犬を連れて散歩に行くなど別のことをする。するといつの間にか眠気が取れて、新たな気持ちで勉強に取り組むことができるようになる。エジソンの考え方は、森田理論の「無所住心」の考え方に近い。森田先生は、我々の心は最も働くときは、 「無所住心」と言って注意が一点に固着、集中することなく、しかも全神経があらゆる方面に常に活動して、注意の緊張があまねく行き渡っている状態であろう。この状態にあって、私たちは初めてことに触れ、ものに接して、臨機応変に最も適切な行動でこれに対応することができる。昆虫のように、触覚がピリピリしてハラハラしている状態である。電車に乗っていて、つり革を持たずに立っていても、少しの揺れにも倒れずに本が読める。スリにも会わず、降りる駅も間違わない。また、自動車の運転をしていても、音楽を聴いたり、景色を眺めたり、ナビを見ていても、車線変更もでき、赤信号では止まれる。交差点では歩行者や自転車にぶつかるようなこともない。森田理論では、 1つのことに神経が集中している状態はよくないといっている。例えば森田先生が学生達に講義をしている時のことを考えてみよう。決して講義内容にばかり神経を集中している訳ではない。躓いたり、コップをひっくり返したりしないように注意している。学生達の様子や周囲の変化などにも注意を向けている。その上で、自分の話の筋道を工夫している。この四方八方に心が散った有様の事を「無所住心」といい、周囲のすべてのことに気がついて、しかも何事にも心が固着しないで、水の流れるが如くに心が自由自在に。適用していく有様である。あたかも明鏡に物の映るが如く、来るものは明らかに映り、さればただちに影を止めないと言う風である。この時は、精神が緊張して張り切っているのだ。アイデアはそういう精神状態の時にこそ、泉のように湧き上がってくるのである。
2018.07.09
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長谷川洋三氏は、森田療法、さらには森田人間学は神経質者に与えられた特典のようなものだ。これを学ぶ事は、人間としての土台を固めるようなものであると言われている。森田理論の中で、 「事実唯真」 「実践の立場」 「両面観」 「運動観」の考え方が大事であると言われている。私が集談会に通い始めた頃、 「森田6原則」という話を聞いたことがある。これによると1 、健康的な生活をする。2 、他のために尽くす。3 、事実唯真の立場に立つ。4 、実践の立場に立つ。5 、運動観6 、両面観長谷川先生の話と「森田6原則」では、同じ文言が出てくる。森田理論を学習する上に置いて、これらの言葉はとても大きな意味を持っているといえます。神経症を治すという観点から、これらの言葉を簡単に説明してみたいと思います。「事実唯真」とは、理想の立場に立って、現実や事実を否定するという考え方を改め、どんなに嫌な事実であっても、それらをあるがままに認めて、そこに自分の立ち位置を決めて、事実から視線を今一歩上に向けて生活していくという態度のことをいいます。「実践の立場」とは、、不安や恐怖はそのままにして、目の前のやるべきことに取り組むことです。まず日常茶飯事を大切にし、規則正しい生活をすることが大切です。次に 「生の欲望の発揮」に注意や意識を向けていくことが大切です。「運動観」を重視するとは、目の前の不安や恐怖をいちいち解決するという態度を改めることです。現実は、時間とともにどんどん流れて変化しているわけです。どうにもならない不安や恐怖は、持ち抱えたまま、現実の問題に対応することが大切だということです。波に逆らうのではなく、変化の波に上手に乗って生きていく事を勧めているのです。「両面観」とは、一面的なものの見方考え方は、間違いが多い。もともと人間にはある考え方が起きると、それを打ち消すような考えも同時に沸き起こってくるようになっている。このことを森田理論では、人間には精神拮抗作用が備わっているという。2つの相反する考えで早急に態度を決めかねる時は、その居心地の悪い状態のまま「待つ」という姿勢が大事です。私は神経症を克服し、人生観を獲得するためにこの4つの言葉を具体的に活用することを考えました。1、欲望と不安のバランス回復手法2、実践・実行手法3、認識・認知の修正手法4、不安・恐怖の受容手法神経症に陥ると、頭の中の大部分が自分の気になる症状一点で占められています。その比率をどんどん小さくしていけばよいのではないかと考えました。その際、一つの手法だけではなく、これら四つの手法を総合的に使う方法を考えました。具体的な方法は、明日以降紹介いたします。
2018.06.30
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私の机の前に1枚の色紙がある。「仕事の大部分はいつも主観的には遊びごとだ」昼間の大部分はほとんどの人は仕事をしている。しかし、その仕事を趣味の釣りのように遊びごととして楽しんで取り組んでいる人は少ない。むしろ、仕事をすることは苦痛であると思ってる人が多い。できればやりたくない。しかし、食べていくためには、年金が出るまでは仕方なく続けるしかない。なんとしても65歳までは仕事を続けていくしかない。このように仕事を消極的に捉えている人が多いのではなかろうか。なにしろ食費、住居費、衣類、教育費、自家用車、家電製品、冠婚葬祭費、交際費、厚生費、医療費、保険代、税金など毎月の出費はバカにならない。これらを積み上げていくと、軽く20万円を超える。派遣労働やパートなどの仕事が多い中で、それなりの経費をまかなうことは大変である。莫大な生活費を考えると、 「主観的には仕事は遊びだ」などと呑気な事は言っておられない。多くの人は生きる手段としての仕事に振り回されているといっても過言ではないだろう。太古の昔は、自分と家族や部族が生きていくために狩猟や農耕などの仕事をしていた。命をつないでいくために、必死になって仕事をしていた。生活と仕事が一体化していた。そこでは仕事の意義などを考える余裕も意味もなかった。ところが、イギリスで産業革命が起こり、生産性をさらに高めるために、仕事の分業化が起きた。人々はそれぞれ専門の職業に分かれて、高い生産性を上げるようになった。そこで仕事は自分たちの生活とは分断されたのだ。このことは、精神面では大きな問題となってきた。高度な文明を享受できるようになった反面、仕事に対する意欲や意味が見出されなくなってきたのだ。ストレスで精神障害を抱える人が増えてきた。自動車の組み立て工場においては、ベルトコンベヤーを流れてくる自動車のある1部分だけの仕事を来る日も来る日も続ける。ある人の仕事が遅れると、赤い回転灯がけたたましい警告音とともに回りだす。すぐにお助けマンが駆けつけて、仕事の遅れを取り戻す。その間、ベルトコンベヤーが止まることはない。 1人の人が同じ仕事を最低2年間は続けるという。しかもこのラインは24時間休みなく動いている。そのため、 1週間交代で昼間勤務と夜間勤務が繰り返される。これでは人間が機械に使われている様なものだ。従業員に聞いてみると、休みも多いし、年収も多い。仕事自体はマンネリで面白くはないが、それはどんな仕事についても同じだろうという。慣れてくるという。その話を聞いて、この仕事は私には無理だと思った。多分ストレスで精神障害を引き起こして退職を余儀なくされると思った。ここで遊びとはどういうものか考えてみたい。遊びに熱中しているときは時間忘れる。時間を忘れるほど楽しいものだ。釣りの好きな人、ゴルフの好きな人、ゲームの好きな人、カラオケの好きな人、トライアスロンの好きな人、登山の好きな人、マリンスポーツの好きな人、花や家庭菜園作りの好きな人、ものを作ることが好きな人、ペットの好きな人、家族を大事にする人等、人によって様々である。仕事と遊びの1番の違いは、遊びは他人から強制されたものではないということです。自分が積極的な気持ちを持って、やる気や意欲を持って取り組んでいるということです。そして興味や関心、気づきや発見がどんどん泉のように湧き上がり弾みがついてきます。そして夢や目標がどんどん膨らんできます。自分の身体や脳の機能を最大限に活用している状態です。森田理論でいえば「己の性」を活かしている状態です。 生きていることを心から喜び、生きがいを持って生きている状態です。これが遊びの本質だと思います。仕事は、基本的には他人から指示命令されて、やる気や意欲がない状態でも、強制的に行動することを求められます。そのような気持ちで仕事に取り組むと、自分の気持ちと解離していますので、ますますやる気や意欲が減退してきます。1日の生活の大半を占める仕事が、いつまでも嫌々仕方なしでは、精神的なストレスは大変なものになります。仕事を遊びにすることはできないものでしょうか。森田理論では、この問題について次のように教えてくれています。仕事はお使い根性ではなく、ものそのものになりきることが大切である。目の前の仕事に時々は一心不乱に取り組んでみる。我を忘れて、目の前の仕事をよく見つめて観察する。気持ちを内向きから外向きに変えていく。すると、興味や関心が湧いてくる。気づきや発見、改善点が見えてくる。そうするとしだいに行動に対する意欲やモチベーションが高まってくる。弾みがついてくると、仕事が面白くなってくる。この状態で、仕事に取り組んでいけば、仕事は苦痛ではなく、遊びと同じように楽しみそのものとなってくる。
2018.06.28
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将棋の名人、木村義雄氏は、次のようなことを語っている。「自分は古今の棋譜読んで、どんな定跡でも、みな頭にはいっている。だから相手と将棋をやっていると、どんなのでも、ここはこうだ、あそこはこうだと棋譜が頭にでる。ところが、それをやっても、どうしても勝てない。 名人になれない。そこでよく考えたら、 1つの角度を落としていた。それは自分が向こうにすわり直して、向こうの立場で考えることだ」今までは、自分はこっちにすわっていて、相手の出方ばかりを、あらゆる角度から研究し、検討して考えていたけれども、自分が向こうにすわり直してこっちを見て考える、というその立場を忘れていたのである。これでは、どうしても、一面的なものの見方、考え方にとどまることになる。ものを見るのに、単に肉眼だけで見たのでは、一面だけしか見えないから、どうしても一面観に陥ることになる。それは例えば、満月を表面から眺めるようなもので、その表面は肉眼で見えるときには、他の半面は肉眼では見えない裏側に隠れているのである。このように、物を見るときには、一面は常に自分の立場とは反対側に隠れているのであるから、肉眼による観察の足りないところを心眼の働きを持って補わなければならない。裏と表の両面から見て初めて正しい認識に達することができるのである。 (あるがままに生きる 水谷啓二 白揚社 186頁より引用)これは森田理論で言うところの「両面観」の説明である。将棋で言えば、勝ちたいと思って攻めることばかり考えていては、守りがおろそかになり、相手に簡単に攻め込まれてしまう。プロ野球で言えば、得点を取ることばかり考えて、ピッチャーを含めた守備の練習を怠れば、相手にそれ以上の点をとられて負けてしまう。勝負事で言えば、攻撃と守備がバランスを失ってしまえば簡単に負けてしまうということだ。これと同じように、私たちは神経症に陥った時は、一面的な考え方をとってしまう。たとえばミスや失敗などをしたすぐに「自分の人生はもう終わったも同然だ」などと悲観的に大袈裟に考えてしまう。ミスや失敗を積み重ねると、少しずつ成功に近づき、最終的には目的を達成することができるという風には考えることができない。また自分に1つでも欠点があると、自分は全てがダメで、生きている価値や資格がないと考えてしまう。人間は誰にでも弱みや欠点を持っている。その半面、多くの人間は強みや長所も持っている。10の欠点や弱みがあるのなら、10の長所や強みを持ってバランスがとれているのが事実である。弱みや欠点だけにとらわれるのではなく、自分の持っている強みや長所を活かしていこうという風には考えが及ばない。このような一面的な考え方しか出来ない人は、精神的にどんどん追い込まれていってしまう。悲観的、ネガティブに物事を捉えてしまい、自己嫌悪、自己否定に陥ってしまう。ですから、物事を見る場合は、両面観で見ることができる能力を獲得することが大切になる。神経質性格についても、マイナスの面もあれば、プラスの面もある。細かいこと気にしていろいろ気をもんで苦しいという面もあるが、それは裏から見れば感受性が豊かで鋭いということでもある。神経症に陥ると心配性という性格をネガティブに捉えてしまう。これは一面的な見方である。森田理論学習を続けていると、感受性が豊かで鋭いという事は大変な能力であるということがよくわかるようになる。音楽や絵画、ミュージカルや映画など、より深く味わうことができるのは、この能力のおかげである。また、人の心の動きも手に取るようによくわかり、人の役にたつ行動も取れるようになる。また分析力も優れており、プロ野球の解説や本の書評などではその能力は大変に役立つ。神経症が治ると言うことは、一面的なものの見方、考え方が修正されて両面観、多面観で考えて検討することができる様になるということである。この能力を獲得するには、森田理論学習をする必要がある。また、ひとりで学習していてもなかなか身につくものではない。実例を挙げながら、仲間と共に検討して行く中で獲得できる能力である。この能力を獲得できると、先入観や決め付けですぐに結論を出して右往左往することがなくなる。バランスのとれた中庸の考え方で生きていくことができるようになる。この生き方を自分のものにすることが大切である。
2018.06.19
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神谷美恵子さんは、肉体と精神の関係について、次のように述べられている。長い進化の歴史の中で、人間の意識は次第に肉体から分離してきた。分離しただけではない。精神が肉体を眺め、隷属、反抗、排斥、無視、蔑視などさまざまな態度をとるようになってきている。つまり精神が肉体の上に立ち、精神が肉体を自由自在に支配するようになった。このことは難病にかかったときほど強烈に意識されることはないであろう。たとえばハンセン氏病の人ならば、周囲の人は、病気が移らないように彼の傍から離れていく。彼は次第に孤立してくる。彼は自分と他人を比較して、自分の肉体に対して恐怖と嫌悪を感じるようになる。なぜ自分だけがこんな目に遭わなければならないのかと、理不尽だと病気になったことを呪う。そのうち身体が変化してくる。草履もうまく履けない。手足も自在に動かすことはできない。自分のかつての容貌は大きく変化して、喜怒哀楽の表情もうまくできなくなる。物が見えなくなったり、耳が聞こえない、うまくしゃべることもできなくなる。人の目を避け、自己嫌悪、自己否定ばかりするようになる。ハンセン氏病になった人は、普通の人のことを、「壮健さん」という。その人たちを別人種のように思い、絶対に頭が上がらないと思っている。あるいはまた、この劣等感が裏返しになって、反対に威丈高になる人も出てくる。しかし、人間の存在価値というものは、人格にあり、精神にあると考えるならば、自分の肉体の状況がどうであろうと、これに関わりなく、自己の精神の独立の価値を認めてよいはずである。患者が自分の存在に正しい誇りを持ち、自尊心を維持し、積極的な生きがいを感じようとするならば、この道しかないであろう。しかし、頭の中で観念として思想として考えるのは簡単だが、生存観自体にまで沁み込ませるのは容易ではない。そこに至るまでには、様々な迷路に迷い込む。例えば、精神の独立を強調するあまりに肉体の無視や蔑視に陥り、治療を怠ったり、悪いと分かっていながら不摂生をやったりする人もある。またときには自分の肉体がひどく弱っているのに素直に認めようとせず、無理な強がりの姿勢をとるのに苦労する人もある。稀には精神だけで生きているつもりになって、極端な禁欲的方向を取り、医薬のみならず、食事まで拒む人もある。失われた眉を植毛してもらう手術や整形外科術などを受けて、少しでも外観を普通に見せようと苦労する人もある。また自分の肉体の状態を客観的に評価し得ず、絶えず小さな故障にとらわれ、いわゆる心気症の形で肉体に隷属している人もある。肉体に対して、つかず離れずの適切な態度をとることは、人間にとってなんという難題であろうか。肉体からくる制約を素直に受け入れ、苦しい時は苦しみ、治療を要するときには治療をし、肉体の持つ自然治癒力を信じ、医学の力も認め、しかもこれにとらわれないこと。肉体とは離れた存在価値というものを適切な形で意識すること。これがどんなに難しいことであるかということを、ハンセン氏病にかかった人々の姿はまざまざとあらわしている。この人たちは長い時間かけて、次第に自分の肉体と融和して暮らす心の姿勢と技術を身につける。指はほとんど動かなくなった手で食事や洗濯や書きものまでもするようになる。指先の神経の麻痺した盲人は、舌で点字を読むようになる。これは精神が肉体を受け入れ、肉体とうまく融合しながら、しかもこれをリードしている姿である。「壮健さん」に対しても、目に見える壁を乗り越え、卑屈さやその裏返しの攻撃的態度ではなく、同じ人間、対等の人間としての品位と友情を持って対することのできる患者もおられる。そういう自分を受け入れた人たちこそ、「肉体を持った存在」としての人間の最も本質的な問題と対決し、肉体を正しく受け入れる道を学ぶと同時に、精神の自由をもかちえた人々である。(生きがいについて 神谷美恵子 みすず書房 150ページから要旨引用)これは森田理論で言えば、どんなに理不尽で受け入れがたい事実であろうとも、事実は事実として認めて受け入れるしか方法がないということだと思う。そこが出発点でなければならない。しかし、その出発点に到達するまでが大変困難である。現在将棋界では、羽生善治名人が持っている竜王のタイトルを巡って死闘が繰り広げられている。羽生善治名人と対局するという出発点に立つまでには、次々に立ちはだかる難敵との死闘を乗り越えなくては出発点に立てないのである。果たして中学生の藤井7段がその出発点に立つことができるかどうか、大変興味深い。私たちも、事実を受け入れるしかないことは、頭の中でよくわかってはいるが、実行することは大変難しい。私の実感としては、 「かくあるべし」という思考方法は、私の身体を骨の髄まで縛り上げ、身動きも出来ない状態にさせている。自分は自分にとって最大の味方である。どんなに醜い容姿を持ち、弱点や欠点をかかえ、ミスや失敗を連発する自分であっても、決して自分は自分を見捨てない。そんな自分にそっと寄り添い、どこまでも行動を共にする自分でありたいと思っている。そのための手段として、森田理論学習にすがっていきたい。その道は大変険しい。一歩前進しても二歩下がる。二歩前進しても三歩下がることの連続である。しかしその方向性は間違っていないと思うので、いつかは事実を素直に受け入れられるような人間になっていきたいと思うのである。
2018.06.13
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1987年プロ野球のドラフト会議の開催日に、古田敦也さんは、立命館大学が用意してくれた記者会見場のひな壇に座り、自分の名前が読み上げられるのを今か今かと待ち構えていた。「うちは1位か2位で指名します」事前にそう言ってくれていた球団もあり、プロ入りはほぼ確実だと思っておられました。実際、その場にはマイクやカメラを手にした大勢の報道陣が詰めかけ、決まった瞬間に「おめでとう」の垂れ幕が降りてくる段取りまでされていました。ところが、最後の最後まで古田選手の名前はどの球団からも呼ばれませんでした。親も友人も近所の人たちも、テレビ画面を前にして楽しみに待っていてくれたのに、格好が悪くて、大変恥ずかしい思いをされた。プロ野球球団のスカウトに対する裏切られたという思いと、猛烈な悔しさ、怒りが沸き起こってきました。もしここで、やけくそになって、 「どうせ俺なんかプロ野球の選手になれっこない」と投げやりになってしまえば、そこで僕の人生は終わっていたかもしれません。古田選手は闘争心に火がついたそうです。いったん社会人野球のトヨタ自動車に入りました。そして2年後のドラフト会議では、 「今度こそ呼ばれる側になって、絶対に見返してやる」と固く心に誓いました。翌年の 1988年9月ソウルオリンピックが開催されました。古田選手は、手始めにオリンピック出場選手に選抜されることを目標にしていました。それが、 2年後のドラフト会議で指名権を得るための近道であると考えていました。最初は有力選手が70名ぐらい集められました。その中から振るい落とされて、最終的には20名に絞りこまれます。その中のキャッチャーの席は2つしかありません。最終選考で選ばれるためにはどうしたらいいのか。古田選手は必死になって考えました。合宿が始まる当初から、監督が「キャッチャーは1人は安定的なベテラン、 1人は今後の為にも若い選手を連れて行きたい」と言っていました。自分は若手なので、 1つの席をめぐって、ライバル達と争わなければなりません。そこで古田選手は、キャッチャーの強化担当のコーチがどんなキャッチャーを理想としているのか研究しました。その時のコーチは、元気があって最後まで手を抜かないで一生懸命に練習をする選手を求めていました。そこで古田選手は常に大きな声を出すようにしました。ランニングの時でも、そんなに足が速いわけではないのに、 1番前を走りました。カバーリングでも、 「そこまでやらなくてもいいだろう」というところまで走りました。その作戦と実践がコーチの目に留まり、最終的にオリンピック選手に選ばれることになったのです。ここがその後の運命の分かれ道でした。合宿に呼ばれるような選手は、実力的にはほぼ互角です。古田選手が選抜されたのは、その時の監督やコーチの意向をくみ取り、それに沿った努力を続けたからです。その後古田選手はヤクルトに指名され、野村監督の下で大成功されたのは記憶に新しいところです。(優柔決断のすすめ 古田敦也 PHP新書参照)この話から、次の2つのことを投稿してみたいと思います。1つは、どんなにどん底に突き落とされても、そこで諦めて投げやりの態度を取ってしまってはならないということです。そこを出発点にして前進することです。私たちは、会社などでミスや失敗をすると、 「もうこの会社に自分の居場所はない」 「みんなが自分のこと軽蔑している。退職してお詫びするしかない」などと短絡的にネガティブ思考に陥ってしまいます。少しのミスや失敗が、自分のこれから先の長い人生を左右するような思考に陥ってしまうのです。自分たちのミスや失敗は、古田選手がドラフトで指名されなかったような悔しさや憤りに比べるとまだマシなのではないでしょうか。古田選手は反骨精神で自分の運命を切り開いていかれました。私たちの人生には、自分の思い通りにはいかないことの連続です。そこで、簡単にあきらめてしまって投げやりな行動をとってしまうと後で必ず後悔します。なかなか受入入れがたいことですが、その理不尽で不快な気持ちを受け入れることしかありません。その状況の中で、目線を少し上に上げて、運命を切り開いて現状を打開していくのだという気持ちを見失ってはいけないのだと思います。簡単にあきらめて、投げやりになってしまえば、苦渋の人生が待ち構えているのです。次に古田選手は、オリンピックの出場選手に選ばれるために、監督やコーチの選手の選抜方法について研究されています。これは森田理論でいうと、現実や現状をしっかりと観察するということだと思います。じっと観察していると、監督やコーチがどんな選手を欲しがっているのかが分かります。すると、自分のとるべき行動がわかるようになります。後は実践するのみです。そこから古田選手の運命の歯車が噛み合うようになってきたのです。これは変化の兆しを的確につかみ、その変化に対応した実戦であると思います。小泉元首相は、平成13年の所信表明演説の中で次のように述べています。私は変化を受け入れ、新しい時代に挑戦する勇気こそ、日本の発展の原動力であると確信しています。進化論を唱えたダーウィンは、 「この世に生き残るものは、最も力の強いものか。そうではない。では最も頭のいいものか。そうでもない。最後に生き残るものは、刻々と変化する時代のスピードに適切に対応できた生き物だ」という考えを示している。 森田理論学習では諸行無常、変化流動の流れの中で、自分をその変化に適応させる生き方を提示しています。私はそういう生き方を身につけて、人生を駆け抜けたいと考えています。
2018.05.31
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「なりきる」という言葉を誤解している人がいる。言葉というのは便利ではあるが、 誤解も生みやすいという事だと思う。1番多い間違いは、 「わき目もふらず1つのことに集中すること」と思うことである。これは森田先生が言うところの「集中する」ということは全く意味が違う。森田先生の言う「集中する」とは、例えば、先生が学生を前に講義をしているとする。先生は講義の内容だけに集中しているのではない。机の上に置かれた水差しや自分の持ち物、学生たちの授業に取り組む様子、遅刻して入室してきた学生のこと、外から聞こえてくる騒音などに次から次へと注意や意識が移っているのである。注意の対象がひとつのことに固定されていない。一時的に注意や意識が向いても、すぐに他のことに流れていってしまう。固定しようとしても肯定できるものではない。森田先生はそういう目まぐるしく変化している状態に一つ一つ注意を向けている状態を集中していると言っているのである。考えてみれば、神経症に陥ったのは、ひとつの不安や恐怖に取りつかれて、注意や意識が固定した結果、精神交互作用によって増悪して、蟻地獄に落ちてしまったのである。もしこれが、いったんとらわれても、速やかに流すことができれば、神経症に陥ることはなかったのである。それでは「なりきる」という事何を指しているのか。これは2つのことを指している。1つには、森田先生のところに入院すると、様々な日常茶飯事の作業に取り組むことになる。その時に、日常茶飯事に精を出すことによって、神経症が治るのだという気持ちを持っていては、神経症は治らないということである。最初のとりかかりはそれでもよいが、いつまでもそんな気持ちではまずい。治らないどころか、神経症はますます増悪していく。誰でも最初は嫌々仕方なく手を出したことが、つい興味が出て一心不乱に取り組んでいたという経験はある。日常茶飯事に取り組む時は、症状を治す事とは無関係に、 「ものそのものになりきる」という態度が欠かせないのである。そして気づきや関心が湧いてくることが肝心である。もう一つは、不安や恐怖、違和感や不快感などが沸き起こってきたとき、それらが嫌だからと言って打ち消すようなことをしてはならないという事である。そのような感情は、人間の意思ではコントロールできない自然現象としてとらえることが大切である。そのような感情に反抗しないで素直に受け入れる。正直に向き合って、よく味わうということが必要である。そういう意味では、嫌な感情と一心同体になる。敵対したり逃げたりしない。そうしていると感情の法則にあるように、どんな感情でも一山登って次第に下降してくる運命にある。神経症として増悪していくことがない。これはちょうど、並行して走っている電車が同じスピードであった場合、実際には高速で動いているにも関わらず、全くスピードを感じることがない。これと同じように、 「なりきった」状態の下では、最初注射針を刺されたような痛みがあるが、その後いつまでもわれわれを苦しめるような葛藤には陥らないのである。「なりきる」というのは、以上のような2つの意味がある。これは森田理論の学習で、しっかりと理解しておく必要がある部分である。
2018.05.26
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元プロ野球の選手の古田敦也さんのお話です。変化を好まないものは成長しません。プロ野球選手は成功体験を繰り返してきた人たちの集まりなので、壁にぶち当たってしまうと、元に戻そうとしてしまい、母校に帰って指導を仰ぐ選手がよくいます。私に言わせると意味がないと思います。なぜなら、アマチュアとプロはレベルが違うからです。違うからこそ、変わらなければならないのに、原点回帰してしまっては、元も子もないのです。イチローが毎年バッティングフォームを微妙に変えて言っていることは有名ですが、かつてあんなにも賞賛された振り子打法といわれた打ち方は、今ではほとんど原形をとどめていません。つまり、一流は変化をする。いろいろとトライする。可能性のある事は、どんどんチャレンジしていくのです。(古田式・ワンランク上のプロ野球観戦術 古田敦也 朝日新聞出版 186頁より引用)森田先生は「変化対応」「流動変化」という事について、宇宙の話をされている。宇宙は絶えず猛スピードで動いている。すべての天体が絶えず動き回り、引力と遠心力のバランスの上に宇宙が成り立っているのである。月は絶えず地球の周りを回っている。その地球は1年をかけて、太陽の周りを1周している。その太陽系は銀河系の中心に対して、秒速300 kmというスピードで、 2億年をかけて1周しているという。私たちの住んでいる銀河系から200万光年の彼方にはアンドロメダ星雲があり、お互いの引力で、秒速275 kmの猛スピードで絶えず接近しているそうです。この2つの銀河は将来合体して1つになる運命にあるそうです。この流動変化、諸行無常という自然の法則は、精神世界にも貫徹されています。どうすることもできない不安や恐怖、違和感、不快感などは、いちいち立ち止まってそのつど解消して、次に進むという余裕はないのです。自然の法則に従えば、それらを持ったまま、目の前のなすべきことに取り組んでいくということが、理にかなっているのです。変化に対応した生き方の事を岩田真理さんはサーフィンに例えて説明されています。サーフィンでは、サーバーは「波」という、動いているものに乗っかっているのです。常に波の様子を読まなくてはいけません。波はその日の天候によって変化し、動き、下手をするとサーバーを飲み込みます。サーファーにとっては一瞬一瞬が緊張です。波を読み、波の上でバランスを取り、波に乗れれば素晴らしいスピード感が体験できます。自分の力だけではなく、勢い良く打ち寄せる波の力を自分のものにして、岸まで疾走することができるのです。人生の波に乗るとは、一瞬一瞬、緊張感を持ち、周囲をよく観察して、その時その時で適切な判断が取れるように努め、自分の生を前に進めていくことです。感情の波は上がったり下がったりします。無理に反発しないで、動きに合わせて、その波に乗っていくことが、自然に服従するということです。その生き方が一番安楽な生き方となります。
2018.05.23
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森田先生、森田理論の立場は「心身同一論」 「心身一元論」です。 これについて森田先生は次のように説明されている。「身体の新陳代謝に変化があれば、同時に精神にも変化がある。呼吸、消化、結構な科活発に調和よく行われるときは、精神も活発で気分爽快である。(中略)内臓の変化により気分が良いとか悪いとか変化があり、これによって我々の思想、人生観などに常に著しき影響を及ぼすものである」「感情のおこるときには血行、呼吸、分泌、筋肉の運動など、すべて身体に一定の変化があるのである」これに対し、 「心身二元論」がある。心と身体は無関係に存在しているという考え方だ。このような考え方の違いは、その後の対応方法が全く違ってくる。「心身二元論」は、例えばがんになったとき、どこにどのようながんが発生しているのか分かると、そのガンを外科手術、放射線、抗がん剤などで除去したり、がん細胞を縮小させようとする。これらの治療は免疫機能に大きな負担を与える。そして完治できなかったときは大変だ。がん細胞が退治できなくて、他の臓器に転移した場合はお手上げになる。現代の医療では処置できないとして、ホスピスなどに送られて放置される場合が多い。これに対して、 「心身同一論」 「心身一元論」ではどう考えるのか。もちろん「心身二元論」と同じように、がんの病巣について徹底的に調べ、その人に合った必要な措置を講じる。しかし、その後が違う。1つには、がんが発生したということは、心の構え方が大きな影響を持っているとみているのだ。つまり、ストレス、絶望とか、悲しみとか、イライラとか、不安感、恐怖などの生活上の悩みが、がんに対する抵抗力を低下させているとみている。一方、希望や喜び、あるいは建設的な生きがいを持った生き方は、がんに対する抵抗力が大幅に強くなって来る。健康な人でもがん細胞は毎日3000個は作られている。それに対してナチュラルキラー細胞などの白血球ががん細胞に戦いを挑んで、がん細胞を除去してくれているのである。がんになるということは、体の中でナチュラルキラー細胞が減少して、がん細胞との戦いに敗れているということを意味している。がん細胞は一旦勝利を収めると無限に増殖していく。本来人間には、病気になると自然治癒力が働くようになっている。がん細胞が体の中で増殖するということは、白血球の力が弱まり、がん細胞との力のバランスが崩れ、がん細胞が体の中を我が物顔で支配しているということになる。がんになって外科手術、放射線治療、抗がん剤治療によって、病巣を完全に除去し、がんを退治したとしても、白血球の働きが活性化してこないと、いずれまたガンが再発すると見ているのである。がんに対する抵抗力を高めるような生活習慣、食習慣、精神的なストレスや苦悩に対してどう普段から取り組んでいくのかという視点が欠かせないのである。そうしないと自然治癒力が働かないのでまた再発や転移を繰り返す。結局は「心身一元論」の立場に立たないと、ガンは根絶できない。神経症にしても、不安、恐怖、違和感、不快感などの原因をつかみ、それに対して薬物療法、精神療法、カウンセリングによってそれらを除去するという考え方は、 「心身二元論」の考え方であり、この場合は容易に再発を繰り返す。たとえば、肩こりや腰痛などの慢性疼痛で苦しんでおられる人がいる。これらは器質的な面に加えて、注意や意識がが過度に肩こりや腰痛に向けられることによって重症化してくるという。この場合は、森田的な考え方を取り入れて、多少の痛みを抱えたまま、普段の日常茶飯事を丁寧に行うことによって、むしろ痛みを軽減できる場合があるという。対人恐怖症の人も、人の思惑が気になるからといって、ハウツーものの対症療法にばかり走っていると、精神交互作用によって症状として固着してしまう。森田療法では、精神的な改善を図るよりも、普段の生活に目を向けて、身体的に健康的で規則正しい生活をすることによって精神的な問題を乗り越えようとする理論である。「心身一元論」は何を言っているのか、全く分からないという人が多いと思う。またそんな難しい理屈を聞いていると頭がいたくなるという人もいる。ここではあまり難しいことはいわない。神経症を治そうと思ったら、心の治療と生活をまともにするという両面から取り組まないと、労多くして達成は難しいということを覚えておいてもらいたい。神経症の解消のために薬物療法や精神療法だけに偏る事はその目的を達成することは困難である。心と体はあざなえる縄のごとく一体であるので、その両面から取り組んでいく必要があるのである。その点森田療法理論に忠実に取り組めば、バランスがとれて、神経症が克服できるのみならず、人生観まで確立できるのである。
2018.05.13
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今日は「自己肯定感」と「自己受容」について考えてみたい。「自己肯定感」とは、どんなに辛い状況にあっても、決して投げやりになることなく、将来に希望を見出して自分を信じることができる人である。あるいはいくら他人から自分のことを否定されようとも、それに振り回されないで行動できる人のことである。自分が自分の最大の味方になっている人のことだろう。「自己受容」とは、 「かくあるべし」という理想主義、完全主義的な考え方をしないで、今現在の自分の状況を踏まえて、そこから一歩前を向いて行動できる人である。現状や事実を大事にして、事実本位の生活を送っている人のことである。森田で言う思想の矛盾で苦悩や葛藤を抱えていない人である。神経質者は、目の前に手強い壁が立ち塞がるとすぐに諦めてしまう人が多いようだ。また、他人から避難や否定されると、すぐに自己嫌悪や自己否定に陥ってしまう。さらに、完全主義や完璧主義が強く、現実でのたうちまわっている自分を、軽蔑して、理想の自分に引き上げようと涙ぐましい努力している。つまり集談会では、 「自己肯定感」 「自己受容感」が持てないで生きづらさを抱えて悩んでいる人が多いようだ。ところで、この問題を考える場合、今までは十把一絡げに取り上げていたが、これではまずいのではないか。その中身を分析してみることが必要である。そのヒントを見つけた。これは名古屋の生活の発見会の会員が、「自己受容」に関しての論文を発表してくれたのである。これは全国の会員にメール配信されていると思われますのでぜひご一読ください。内容はとても格調の高いものです。事実に基づく分析はとても好感が持てます。私は、その中で「自己受容測定スケール」に興味を持ちました。その中身は「自分の生き方」「対人関係」「神経質性格」「身体・容姿」「自分の能力」などである。それぞれについて、「自己受容」の変化の度合いを検討していくのである。これを私の場合で説明してみたい。まず「生き方」の指針であるが、森田を知る前は全く将来に対して希望が持てなかった。現在は、神経質性格の持ち主としてどう生きていけばよいのかが分かった。それに沿って毎日の生活をしている。この方面での自己肯定感、自己受容はほぼ100%に近い。森田を深めていけば誰でも人生観を確立できると思っている。次に、「対人関係」をみていきたい。私の症状は、対人恐怖症であった。他人が自分のことをどう見ているかについて四六時中気になっていた。注意や意識が内向化して、専守防衛に偏っていたため、苦しくて仕方がなかった。現在は、人の思惑が気になるという自分の性格特徴はそのままである。ただ、そのことに引きずられて、やるべきことから逃げたり、嫌な人を避けたりするという事はかなり減ってきた。対人関係に伴う葛藤や悩みはあるが、最低限の必要なことだけはこなしていけるようにはなった。また、それ以上に大きいのは、気の合う人、趣味の合う人などとの交際が格段に増えたことである。さらに集談会を通じて全国の多くの人と親交を結ぶことができた。これも精神的支えとなっている。今ではこうした薄い人間関係をどんどん拡大していきたいと思っている。100%修正できたと言いたい所ではあるが、実感としては70%くらいか。次に、「神経質性格」である。これについては、森田理論学習を始める前は、心配性でちょっとしたことにこだわりやすい性格が嫌で仕方がなかった。そのことで親を恨んだりもした。森田理論学習によって性格には二面性があることがわかった。心配性であるという事は、感受性が非常に鋭く豊かであるということに気がついた。また、普通の人は気がつかないような事にどんどん気がつくという優れた性格であることもわかった。自己内省力もあり、好奇心旺盛で生の欲望も強い。夢や目標に向かって粘り強く努力していくという特性も兼ね備えていることがわかった。今ではこの神経質性格を与えてくれた自分の親、特に父親に対してとても感謝できるようになった。以前は憎んでも憎み切れない父親だと思っていたのには全く様変わりした。この点での自己肯定感、自己受容は100%である。次に、「身体・容姿」である。身体面では、身長は低く、肥満気味である。身長が低いことに対して、ずっと劣等感を持っていた。今はほとんど感じないが、背の高い人と話をしていると威圧感があった。何よりも今まで大病をしてこなかったことが幸運であった。容姿は全く自信がない。それは他人と比較するからであろう。髪は抜け落ちてしまった。顔かたちもどちらかと言えば見栄えが悪い。しかし最近、あることに気がついた。私の周りには紳士的な人が多いのだが、そういう人の中には歯が悪くて歯医者通いをしている人がいる。あるいは入れ歯をしている人もいる。その他にもガンになったり、若いにもかかわらず痴呆状態の人もいる。このように考えると、全体で見るとバランスがとれているのではないだろうか。「身体・容姿」の面の自己肯定感、自己受容は100%とは言い難い。でも70%ぐらいはいっているような気がする。次に「能力」である。森田の学習をする前は私に特別な能力があるとは全く思っていなかった。そのために、世の中で生きていいくことができるのだろうかと、とても不安であった。森田理論学習を始めて、神経質性格を実際の生活の場面で生かしていけば、それが他人と違う能力の獲得につながるということに気がついた。例えば細かいことによく気がつくという性格であるが、気がついたことをきちんとメモして実践、習慣化すれば、大きな能力の獲得につながることがわかった。それを仕事の面で応用したところ、会社の上司から高評価を受けることができた。自己内省という面であるが、これは出来事や現象を詳細に分析して、将来の予測をたてたり、事前に危機を防止することに役立つ。そのおかげで森田関係の本も3冊書くことができた。またこのブログも5年以上にわたって、ほぼ毎日無理なく投稿できているのも、この能力のおかげではないかと思うようになった。好奇心が強く生の欲望が強いという性格を生かして、生活の幅が以前と比べて格段に広がってきた。それに伴って貴重な人脈も増えてきた。この方向で生活していけばほぼ間違いないないという段階にまで達して来た。能力は、実行することによって自信をつけ、さらに弾みがついて、最終的に能力の獲得として身に付くものだと思う。この面の自己肯定感、自己受容は100%である。集談会では、「自己肯定感」が持てないというような話が出るが、このように分解して、具体的に検討してみることをお勧めしたい。このように分析すれば、全部の分野で、「自己肯定感」が持てないということはあり得ないのではないか。私の場合、こうして振り返ってみると、「自己肯定感」「自己受容」は森田理論学習と実践に伴い徐々に確立されたものである。ですから、もし森田理論学習に出会うことができなかったならば、「自己肯定感」「自己受容」を獲得することなく、人生を終わることになっていたと思われる。
2018.05.11
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今年はよく病気になる。もともと痛風があり、平成25年3月から毎日薬を飲んでいる。それに加えて、今年の2月7日インフルエンザにかかり、治療を開始した。今年のインフルエンザは、熱はなかった。喉の痛みもない。悪寒もない。痰や鼻水もない。ただ、咳が止まらない。それも10日ぐらいで小康状態になった。このまま回復すると思っていたが、 10日ぐらい前から再び咳が出始めた。昼間も夜もひっきりなしに出る。体力を消耗し、体が痛くなり、だるくなった。そこで、かかりつけの病院に行った。そこのお婆さんの医師は、簡単に現在の症状を聞いてきた。レントゲンや触診をすることもなく、すぐに薬を出した。そして、咳止め、気管を広げる薬など6種類の薬を処方された。 5日分である。私としては、咳が出る原因を知りたかった。最悪の場合、 肺がん、肺結核、肺炎、気管支炎などが頭をよぎった。案の定、処方された薬は全く効き目がなく、咳はますますひどくなった。これはダメだと思って、呼吸器内科に病院を変えた。そこの先生は、時間をかけて病状について詳しく質問された。その後のどや内臓などの触診をされた。またレントゲンもとられた。検査の結果は特に重大な病気ではないと言われた。レントゲン写真を見るときれいな肺に見えた。これらから判断すると、気管支炎が咳が出る原因ではないかといわれた。そこで、気管を広げる吸入剤と炎症を抑える吸入剤を処方された。家に帰って説明された通りに使用した。すると、あれほどひっきりなしに出ていた咳が5分の1ぐらいにまで減ってきた。薬が自分の症状に合っていたのである。今回は2つの病院に行って診察を受けました。最初の病院の医師は、病気の原因を追求しようという気持ちは持ち合わせていなかった。表面上の症状で病気を判定して薬を処方するというやり方だ。病気の患者には触りたくもないし、長く接触すると自分に病気が移っては困るといううな感じだった。咳といえば、無難な薬を出して様子を見ようという考えだ。ダメなら別の薬に変えるのだ。私は咳が出る原因がわからなくて、疑心暗鬼になっていたのである。ひょっとすると重大な病気にかかっているのではないか、突然死するのではないかと、大変不安であった。その患者の気持ちに寄り添うことがなく、ただ単に咳止めの薬を処方するだけでは市販の薬局と変わりないのではないか。幸いにも私は呼吸器内科に病院を変えた。そこでは、最初から咳が出る原因をできるだけ究明しようと対応してくださった。聞いてみると、咳が出る原因は5つぐらいの原因があるという。検査や触診によって、ある程度原因は特定できる。原因がわかれば、適切な治療法につながる。こういう医師を我々は見つけなくてはならないのだ。森田理論でも事実を無視して、先入観や思い込みで対策を立てては、全く方向違いの努力をすることになる。できるだけ事実を観察し、事実に基づいた行動を心がける必要があると改めて感じた。
2018.04.29
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無量寺住職の青山俊董さんのお話です。ここに一瓶の花は生けられている。白蓮の枝がおおらかに立ち上がり、その中間に淡いピンクの百合が、ひかえめながらしっかりと焦点を絞り、その下に水仙が春の色の黄で根元には柳を添え、その全体をこでまりが伸びやかな曲線を見せながら、下からつつみうけている。白蓮の素朴なゴツゴツとした線と、こでまりの柔らかい変化に富んだ線の調和、白と淡紅と黄と緑の色の調和が、床の間の空間、果ては書院全体の空間を、さらにはそれを眺める人々の心までも、美しい春のいろどりに染めてくれる。色も姿も皆同じでは一瓶の花にならない。皆違った姿を持ち、それぞれの持ち味を充分に生かしてくれてこそ、 一瓶の花が成り立つ。しかも、それぞれの個性を十分に持っていても、互いに調和していなければ一瓶の花はほとんどなりたたない。どんな小さな枝も、葉一枚も互いに生かしあいこそすれ、競いあったり邪魔しあったりすることのないよう、きめ細かく心が配られて初めて、 一瓶の花は美しい調和のあるものとなる。(凡人の道 渓声社 228ページより引用)私は生花、フラワーアーティストといえば假屋崎省吾氏を思い浮かべる。色彩感覚と空間構成力に優れている方である。素人がいけた花をひと目見ただけで、どこにバランス上の問題があるかすぐにわかるようだ。修正された作品とその説明を聞くとなるほどと納得できる。もともとバランス感覚が優れていたのか、その後に精進して獲得されたものかよくわからないが、バランス感覚の優れた方である。こういう方は生き方に無理がかからないように感じる。森田理論学習すると、精神拮抗作用や両面観の学習をする。これは森田理論の大きな学習テーマとなっている。私たちが神経症で苦しんでいるときは、本来大事にしなければならないバランスや調和が崩れている。不安や恐怖一辺倒に偏っていたり、あるいはその反動として本能的な欲望に偏っていたりする。本来、欲望と不安はあざなえる縄のような関係にあり、どちらかに偏ることがあってはならない。バランスをとる必要があるのである。この関係は車のアクセルとブレーキに例えるとわかりやすい。アクセルを踏みこまないと車は前には進まない。アクセルを踏み込むことが一番大事である。ところが、ブレーキが壊れている車は凶器となる。危ないというより、破滅してしまう。アクセルを前面に押し出しながら、適宜ブレーキをかけてバランスを取りながら運転することが大事である。我々の生活も、生の欲望の発揮に邁進することがとても大切である。しかし、それにのめりこむことは躁鬱病の躁の状態と同じである。問題行動が多く、周囲との調和を欠く。不安を活用しながら、欲望を制御することも大切である。私はそのために意識付けとして、やじろべいや、天秤を机の前に置いている。常に両面観で物事を見たり考えたりする習慣が育ってきたように思う。森田理論を学習している人は、バランス感覚という能力をぜひとも獲得してもらいたいものだ。
2018.04.13
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