曹操注解 孫子の兵法

提唱《戦犯再審理》



さて、中央宣伝部がつくりあげた「軍国主義・日本」は全くの過去の姿であり、現在の日本人大多数は平和憲法の下で平和的に暮らすことを望んでいることは、最近の中央宣伝部の路線変更でも明らかなことだろう。
中央宣伝部が、「反日の虚像」を自己批判しているのだ。
それで事態がおさまるのか、これは外国人の私はあずかり知らぬことだ。

さて、私の血縁の一人がアメリカ軍と戦って戦死し、靖国神社に合祀されていることは前に述べた。
彼は若くして独身で死んだので、私は彼の子孫ではない。
しかし、流れている血は同じだ。
だから、アメリカ軍と朝鮮半島で戦った中国人民解放軍の老軍人に、私は畏敬以上の親しみを感じるのだ。

幸いに、私の血縁は、中国大陸では戦わなかった。偶然だが、中国人の血は流さなかった。
ビルマ(現・ミャンマー)で、インパール作戦に失敗した牟田口廉也司令官と対立し、大喧嘩になり、たちまち他の中将とともに解任されたことはある。
この牟田口こそ、日華事変を引き起こした現地司令官であり、大罪人なのだ。
それなのに、私の知人、友人の中国人民たちは、一人として「牟田口」の名前も、存在も知らない。
これは絶対におかしい。
どうして中国の人々は冷静に「東京裁判の真実」を直視しようとしないのか。

中国の諸君は、東条英機が北京に軍隊を入れて砲撃したとでも考えているのだろうか。
とんてもないことだ。
東条英機は憲兵隊長として出世した軍警察官僚だ。
憲兵は参謀にならず、部隊司令官にもならない。
中国人民解放軍も同じであるはずだ。
東条の先祖は仙台の能役者であり、武士階級ではなかった。
父親は中将まで出世したが、大将になり損ねた。
だから東条は自分が大将に昇進した日が人生最高の日だったであろう。
酒もほとんど飲まず、公私にわたって優等生だった小心な男だった。

彼を弁護するつもりはない。
彼の部下たちは「東条憲兵」といって恐れられた。
元首相で東条を陸軍大臣に指名し、後に東条に地位をゆずった近衛文麿公爵は、辞職の後に平服姿で吉田茂の自宅を訪問したが、開口一番、こう言った。
「オイッ。東条の憲兵はこのあたりをうろついていないだろうな」
吉田茂は後にこう書いている。
「さすが摂政関白だ」
日本語で「セッショウ」というのは、天皇の地位を代行する「摂政」と、冷淡至極な「殺生」と同音だ。
近衛公爵が東条憲兵の一群をゴキブリのようにゾロゾロと引き連れてきた事実を吉田は皮肉ったのである。

だから、東条大将は実戦部隊の現地指揮官として、中国大陸を荒らしまわった人間ではない。
国民党軍ばかりでなく、一般市民も虐殺した牟田口廉也中将のような大罪人とは違うのだ。

昭和天皇が東条英機を陸軍大臣に起用したのは、大きな理由がある。
それは彼が関東軍の憲兵隊司令官に就任し、数ヶ月で満州軍と関東軍の混乱と、日本軍の中国人民に対する暴行・蛮行を抑えた。
これを「東条粛軍」という。
当時の新聞にも大きく報道された。
彼はまた、国民党の軍人を裁判なしで処刑した。
これはジュネーブ条約違反だが、国民党軍がジュネーブ条約を意識したのは戦争末期のことだ。

昭和天皇は、木戸幸一内大臣から、この「粛軍」の徹底ぶりを聞き、「東条ならば、あるいは陸軍の暴走を抑えられる」と考えられたという。
もちろん、これは木戸侯爵の後の推測である。
東条についての昭和天皇の感想や記録は一切破棄された。
それもおかしい。
つまり、戦後の雰囲気の中に「アメリカの天皇免責のシナリオに従わないと、天皇陛下の地位が危ない」と迎合する人々がいたのだ。
このことが国際的に普及した「東京裁判史観」の固定につながった。

それは「東条英機をヒトラーのような戦争指導者とし、天皇を免責する」というアメリカの戦略的な政策があったからだ。
当時の民主党トルーマン大統領は、共和党のデューイとの辛勝を目の前にしており、アメリカの選挙民にもわかりやすい「戦犯たち」をつくりたかった。

それで石原莞爾は訴追を免責された。
ここで中国の人々は、彼が満州事変の総設計師であり、満州帝国の軍事的支配者だったことを知ったであろう。
なぜ、石原中将は免責されたのか。
その理由も中国の人々は知らないだろう。
石原は終戦直前に、サイパン島陥落の責任で、東条英機の首相更迭を政治運動し、ついに実現したのだ。
軍需大臣の岸伸介も、東条の内閣改造に抵抗し、東条に辞職を迫った功績が認められ、戦争責任を免除された。
それで岸はアメリカとも良好な関係を維持し、総理になって安保条約を改定し、反安保の学生闘争の中で総辞職した。
この安保反対・反美闘争で、国会議事堂に乱入して逮捕された東大生の一人が、民主党の参議院議員の江田五月さんである。
岸伸介の外孫(実娘の三男)にあたるのが、今の自民党幹事長代理・若手の領袖・安倍晋三さんである。

しかし、牟田口は東京裁判では戦犯にはならなかった。
私の想像だが、これは(表向きはインド解放を目標とする)インパール作戦の実行者として、東京裁判に参加したインド代表が高く牟田口を評価していたからだと思う。 
満州事変の首謀者であり、大本営命令を無視して、在韓日本軍を満州全域に投入した石原莞爾中将も戦犯にはならなかった。
それで牟田口は戦後に無職者として街々をさまよい、昔の部下に金品をねだって回る有害無益な老人として長生きした。
石原莞爾は、訪問したアメリカの将校たちに「なぜ、私を逮捕しないのか。私こそ、戦争の大罪人なのだ」と主張したが、聴きいれられなかった。
正確に言えば、全く無視された。
彼らアメリカ軍はただ調査と称して、面白半分に石原を見物に来たらしい。
石原について、アメリカ軍の報告書はない。破棄されたかも知れない。

私はあえて中華人民共和国の皆さんに呼びかけたい。

今こそ、東京裁判史観を打破し、新たな北京裁判を日本と中国の歴史研究家たちの間でやってみようではないか。

私は喜んで証言し、牟田口廉也や石原莞爾が中国大陸でいかなる戦争犯罪をしたかを中国人民の前で明らかにしよう。


  ◇「A級戦犯」とは別に「真犯人」がいる。

 「A級戦犯の靖国合祀」ということを、中国外交部は明確に外交交渉でも使っている。
 これについて、私は実に不愉快に思う。
 いわゆる「A級戦犯」というのは、アメリカが主導した「東京裁判の指定した戦争犯罪」なのである。
 それにこだわっているのは、東京裁判史観を、日本国憲法のように必死に擁護しようとする旧社会党の人々であり、日本共産党の人々なのである。
 私は、これは全く不合理なことだと思う。
 中国政府がこのような主張をしているのは、全く社共勢力の「口車」に口裏を合わせるような行為なのである。

 あえていえば、中国政府・中国共産党中央が、「A級戦犯」を公式に認めているということ自体が不可解である。
 それは実際に戦争被害を受けた中国人民に対する「裏切り行為」である。
 私が「北京裁判をやって、東京裁判史観を打破しよう」と提案するのも、東京裁判が全く不完全な代物であり、戦争国アメリカの都合によって仕立てられた大がかりな裁判ショーであり、大日本帝国・軍国主義において、最も中国大陸に被害を及ぼした「真犯人」が誰一人として訴追されていないからである。

 南京攻略・虐殺の責任者である松田岩根大将は。
 あれは確かに問題があった。
 しかし、松田にしても、最初から意図的、計画的に大虐殺をしたわけではない。
 イラクのファルージャが壊滅したように、市街戦の実態と、その悲惨な現実を指揮官として想像する能力さえあれば、南京虐殺は回避できた。
 だから、これはいわば「職責怠慢罪」であり、業務上過失にあたる。
 松田は最終的には、その責任を感じ、部隊から資金を出して、中国の一般市民の犠牲者の遺体に葬儀費用を支払い、埋葬も行なった形跡がある。
 その後は軍人を退役し、戦犯として逮捕されるまで、南京事件の犠牲者の冥福を祈る記念碑を郷里に建て、毎日贖罪の参拝をくりかえした。
 この事実も、中国人民には知らされていないだろう。

 「真犯人」は別にいる。
 それが誰かは、私にも具体的にわからない。

 しかし、満州事変の石原莞爾中将、
 日華事変の牟田口廉也中将、
 「人体実験731部隊」の石井四郎軍医中将は「A級戦犯」ではないのだ。
 どうして中国政府は、この現実を直視しないのか。
 どうして中国人民は、このような中国政府の不合理かつ無定見な外交姿勢に疑問を持たないのか。

 「A級戦犯」に中国が厳しくこだわり過ぎるのは、まったく的外れな議論なのだ。
 だからこそ「東京裁判史観を打破する北京戦争犯罪法廷による再審理が必要だ」と、私は訴えるのである。



ban_kanzaki

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