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2006年08月12日
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宗助は玄関から下駄を提(さ)げて来て、すぐ庭へ下りた。
縁の先へ便所が折れ曲って突き出しているので、いとど狭い崖下が、裏へ抜ける半間ほどの所はなおさら狭苦しくなっていた。
御米は掃除屋(そうじや)が来るたびに、この曲り角を気にしては、
「あすこがもう少し広いといいけれども」
と危険(あぶな)がるので、よく宗助から笑われた事があった。

そこを通り抜けると、真直(まっすぐ)に台所まで細い路が付いている。

日当りの悪い上に、樋(とい)から雨滴(あまだれ)ばかり落ちるので、夏になると秋海棠(しゅうかいどう)がいっぱい生える。
その盛りな頃は青い葉が重なり合って、ほとんど通り路がなくなるくらい茂って来る。
始めて越した年は、宗助も御米もこの景色(けしき)を見て驚ろかされたくらいである。
この秋海棠は杉垣のまだ引き抜かれない前から、何年となく地下に蔓(はびこ)っていたもので、古家(ふるや)の取り毀(こぼ)たれた今でも、時節が来ると昔の通り芽を吹くものと解った時、御米は、
「でも可愛いわね」と喜んだ。

宗助が霜を踏んで、この記念の多い横手へ出た時、彼の眼は細長い路次(ろじ)の一点に落ちた。
そうして彼は日の通わない寒さの中にはたと留まった。

彼の足元には黒塗の蒔絵(まきえ)の手文庫が放り出してあった。
中味はわざわざそこへ持って来て置いて行ったように、霜の上にちゃんと据(すわ)っているが、蓋(ふた)は二三尺離れて、塀(へい)の根に打ちつけられたごとくに引っ繰り返って、中を張った千代紙(ちよがみ)の模様が判然(はっきり)見えた。

宗助は近づいて、この揉苦茶(もみくちゃ)になった紙の下を覗(のぞ)いて覚えず苦笑した。
下には大便が垂れてあった。

土の上に散らばっている書類を一纏(ひとまとめ)にして、文庫の中へ入れて、霜と泥に汚れたまま宗助は勝手口まで持って来た。
腰障子(こししょうじ)を開けて、清に

清は妙な顔をして、不思議そうにそれを受取った。
御米は奥で座敷へ払塵(はたき)を掛けていた。
宗助はそれから懐手(ふところで)をして、玄関だの門の辺(あたり)をよく見廻ったが、どこにも平常と異なる点は認められなかった。

宗助はようやく家(うち)へ入った。
茶の間へ来て例の通り火鉢(ひばち)の前へ坐(すわ)ったが、すぐ大きな声を出して御米を呼んだ。
御米は、
「起き抜けにどこへ行っていらしったの」と云いながら奥から出て来た。

「おい昨夜(ゆうべ)枕元で大きな音がしたのは、やっぱり夢じゃなかったんだ。
泥棒だよ。泥棒が坂井さんの崖(がけ)の上から宅(うち)の庭へ飛び下りた音だ。
今裏へ回って見たら、この文庫が落ちていて、中にはいっていた手紙なんぞが、むちゃくちゃに放り出してあった。
おまけに御馳走(ごちそう)まで置いて行った」

宗助は文庫の中から、二三通の手紙を出して御米に見せた。
それには皆(みんな)坂井の名宛(なあて)が書いてあった。
御米は吃驚(びっくり)して立膝のまま、

「坂井さんじゃほかに何か取られたでしょうか」と聞いた。
宗助は腕組をして、
「ことに因(よ)ると、まだ何かやられたね」と答えた。

夫婦はともかくもと云うので、文庫をそこへ置いたなり朝飯の膳(ぜん)に着いた。
しかし箸(はし)を動かす間(ま)も泥棒の話は忘れなかった。
御米は自分の耳と頭のたしかな事を夫に誇った。
宗助は耳と頭のたしかでない事を幸福とした。

「そうおっしゃるけれど、これが坂井さんでなくって、宅で御覧なさい。
あなたみたように、ぐうぐう寝ていらしったら困るじゃないの」と御米が宗助をやり込めた。

「なに、宅なんぞへ這入(はい)る気遣(きづかい)はないから大丈夫だ」
と宗助も口の減らない返事をした。

そこへ清が突然台所から顔を出して、
「この間拵(こしら)えた旦那様の外套(マント)でも取られようものなら、それこそ騒ぎでございましたね。
御宅(おうち)でなくって坂井さんだったから、本当に結構でございます」
と真面目(まじめ)に悦(よろこび)の言葉を述べたので、
宗助も御米も少し挨拶(あいさつ)に窮(きゅう)した。

食事を済ましても、出勤の時刻にはまだだいぶ間があった。
坂井では定めて騒いでるだろうと云うので、文庫は宗助が自分で持って行ってやる事にした。
蒔絵(まきえ)ではあるが、ただ黒地に亀甲形(きっこうがた)を金(きん)で置いただけの事で、別に大して金目の物とも思えなかった。
御米は唐桟(とうざん)の風呂敷(ふろしき)を出してそれを包(くる)んだ。
風呂敷が少し小さいので、四隅(よすみ)を対(むこ)う同志繋(つな)いで、真中にこま結びを二つ拵(こしら)えた。
宗助がそれを提(さ)げたところは、まるで進物の菓子折のようであった。

座敷で見ればすぐ崖の上だが、表から廻ると、通りを半町ばかり来て、坂を上(のぼ)って、また半町ほど逆に戻らなければ、坂井の門前へは出られなかった。
宗助は石の上へ芝を盛って扇骨木(かなめ)を奇麗(きれい)に植えつけた垣に沿うて門内に入った。

家(いえ)の内はむしろ静か過ぎるくらいしんとしていた。
摺硝子(すりガラス)の戸が閉(た)ててある玄関へ来て、ベルを二三度押して見たが、ベルが利(き)かないと見えて誰も出て来なかった。
宗助は仕方なしに勝手口へ廻った。
そこにも摺硝子の嵌(は)まった腰障子(こししょうじ)が二枚閉ててあった。
中では器物を取り扱う音がした。
宗助は戸を開けて、瓦斯七輪(ガスしちりん)を置いた板の間に蹲踞(しゃが)んでいる下女に挨拶(あいさつ)をした。

「これはこちらのでしょう。
今朝私(わたし)の家(うち)の裏に落ちていましたから持って来ました」
と云いながら、文庫を出した。

下女は
「そうでございましたか、どうも」と簡単に礼を述べて、
文庫を持ったまま、板の間の仕切まで行って、仲働(なかばたらき)らしい女を呼び出した。
そこで小声に説明をして、品物を渡すと、仲働はそれを受取ったなり、ちょっと宗助の方を見たがすぐ奥へ入った。
入(い)れ違(ちがえ)に、十二三になる丸顔の眼の大きな女の子と、その妹らしい揃(そろい)のリボンを懸(か)けた子がいっしょに馳(か)けて来て、
小さい首を二つ並べて台所へ出した。
そうして宗助の顔を眺(なが)めながら、泥棒よと耳語(ささやき)やった。
宗助は文庫を渡してしまえば、もう用が済んだのだから、奥の挨拶はどうでもいいとして、すぐ帰ろうかと考えた。

「文庫は御宅のでしょうね。いいんでしょうね」と念を押して、
何(な)にも知らない下女を気の毒がらしているところへ、最前の仲働が出て来て、

「どうぞ御通り下さい」と丁寧(ていねい)に頭を下げたので、
今度は宗助の方が少し痛み入るようになった。
下女はいよいよしとやかに同じ請求を繰り返した。
宗助は痛み入る境を通り越して、ついに迷惑を感じ出した。
ところへ主人が自分で出て来た。

主人は予想通り血色の好い下膨(しもぶくれ)の福相(ふくそう)を具(そな)えていたが、御米の云ったように髭(ひげ)のない男ではなかった。
鼻の下に短かく刈り込んだのを生やして、ただ頬(ほお)から腮(あご)を奇麗(きれい)に蒼(あお)くしていた。

「いやどうもとんだ御手数(ごてかず)で」
と主人は眼尻(めじり)に皺(しわ)を寄せながら礼を述べた。
米沢(よねざわ)の絣(かすり)を着た膝(ひざ)を板の間に突いて、宗助からいろいろ様子を聞いている態度が、いかにも緩(ゆっ)くりしていた。
宗助は昨夕(ゆうべ)から今朝へかけての出来事を一通り掻(か)い撮(つま)んで話した上、
文庫のほかに何か取られたものがあるかないかを尋ねて見た。
主人は机の上に置いた金時計を一つ取られた由(よし)を答えた。
けれどもまるで他(ひと)のものでも失(な)くなした時のように、いっこう困ったと云う気色(けしき)はなかった。
時計よりはむしろ宗助の叙述の方に多くの興味を有(も)って、泥棒が果して崖を伝って裏から逃げるつもりだったろうか、
または逃げる拍子(ひょうし)に、崖から落ちたものだろうかと云うような質問を掛けた。
宗助は固(もと)より返答ができなかった。

そこへ最前の仲働が、奥から茶や莨(たばこ)を運んで来たので、宗助はまた帰りはぐれた。
主人はわざわざ座蒲団(ざぶとん)まで取り寄せて、とうとうその上へ宗助の尻を据(す)えさした。
そうして今朝(けさ)早く来た刑事の話をし始めた。
刑事の判定によると、賊は宵(よい)から邸内に忍び込んで、
何でも物置かなぞに隠れていたに違ない。
這入口(はいりくち)はやはり勝手である。燐寸(マッチ)を擦(す)って蝋燭(ろうそく)を点(とも)して、それを台所にあった小桶(こおけ)の中へ立てて、茶の間へ出たが、
次の部屋には細君と子供が寝ているので、廊下伝いに主人の書斎へ来て、
そこで仕事をしていると、この間生れた末の男の子が、乳を呑(の)む時刻が来たものか、
眼を覚(さ)まして泣き出したため、賊は書斎の戸を開けて庭へ逃げたらしい。

「平常(いつも)のように犬がいると好かったんですがね。
あいにく病気なので、四五日前病院へ入れてしまったもんですから」
と主人は残念がった。
宗助も、
「それは惜しい事でした」と答えた。
すると主人はその犬の種(ブリード)やら血統やら、時々猟(かり)に連れて行く事や、いろいろな事を話し始めた。

「猟(りょう)は好ですから。もっとも近来は神経痛で少し休んでいますが。
何しろ秋口から冬へ掛けて鴫(しぎ)なぞを打ちに行くと、どうしても腰から下は田の中へ浸(つか)って、二時間も三時間も暮らさなければならないんですから、全く身体(からだ)には好くないようです」

主人は時間に制限のない人と見えて、宗助が、なるほどとか、そうですか、とか云っていると、
いつまでも話しているので、宗助はやむを得ず中途で立ち上がった。

「これからまた例の通り出かけなければなりませんから」と切り上げると、
主人は始めて気がついたように、忙がしいところを引き留めた失礼を謝した。
そうしていずれまた刑事が現状を見に行くかも知れないから、その時はよろしく願うと云うような事を述べた。
最後に、
「どうかちと御話に。私も近頃はむしろ閑(ひま)な方ですから、また御邪魔に出ますから」
と丁寧(ていねい)に挨拶をした。
門を出て急ぎ足に宅(うち)へ帰ると、毎朝出る時刻よりも、もう三十分ほど後れていた。

「あなたどうなすったの」と御米が気を揉(も)んで玄関へ出た。
宗助はすぐ着物を脱いで洋服に着換えながら、
「あの坂井と云う人はよっぽど気楽な人だね。
金があるとああ緩(ゆっ)くりできるもんかな」と云った。

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最終更新日  2006年08月12日 05時52分09秒
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