北朝鮮 がまたとんでもないことをしました。ミサイル発射の意図がいまひとつ読めません。強国を相手にしたたかな対応をしているというような人もいますが、あの国は実はそんなに統制がとれた状態ではないのではないかとも思ったりします。 少なくとも中国様や韓国様、ロシア様の面子をつぶしたような 感じになりますので、ますます各国から見放されることになると思います。
さて、話は変わりますが、私は中学生のころ、 BCLと言って、海外の短波放送(ラジオ)を聴いて受信状態や番組の感想などを書いた報告書を送ると、放送局からベリカード(Verification Card)が送られてくるのですが、そのカードを収集するという趣味 が一時的に流行したとき(同世代の男性であればご存知かと思います。SONYのスカイセンサーとかNATIONALのプロシードといった機種が人気でした)、初めて北朝鮮と接点をもちました。当時は1977~78年ごろですが、私はそのころすでに外国のことに関心をもっていましたので、手軽に外国の雰囲気に接することができる短波放送を毎晩のように聴いていました。
そのころ、日本の周辺の国は各国が日本語放送をやっていました。その中で社会主義の国、中国、ソ連と北朝鮮は、特に電波の出力が大きかったので、夜になるとかなりよく聞こえていました。中2くらいだった私は、社会主義の意味もわからず聴いていましたが 、「偉大な指導者毛沢東主席」とか「民族の太陽、偉大な首領金日成主席」などといった言葉 がしょっちゅう出てくるのは違和感を感じつつも、何かひかれる部分も正直あったような気がします。これらの放送局は「受信報告書」というものを出すときに、いろいろリクエストをする、例えば語学講座のテキストがほしいとか、地図がほしいと書くと、気前よく短期間でそういうものを無料で送ってきたりしました。 北朝鮮の朝鮮中央放送からは国境のない朝鮮半島のきれいな地図をもらったこともありました 。
拉致問題のニュースで、 横田めぐみさん の話が出てくるといつも思うのですが、私がそのような地図を北朝鮮からもらっていたのが77年ごろで、横田さんが拉致されたのも77年で彼女が中1のとき、私が中2のときでした。ほとんど歳も変わらないだけでなく、私のほうは数回北朝鮮に「受信報告書」を送っていたので、 私の住所などの個人情報はあの国にあったわけです。ちょっと間違えれば、自分も拉致された可能性があったのではないかと 、後で考えると他人事とも思えず恐ろしい気がしています。今も 拉致問題のニュースを見ると、そんなことでとても身近に感じています 。
さて、そのころから北朝鮮には関心を少しずつ持ち始めました。また、朝鮮半島の問題にも関心を持つようになり、高校生のときから韓国語を少しずつですが独学で始めました。その後大学卒業直前には韓国を短期間旅行し、当時(85年)はまだ緊張していた 板門店へのツアー にも行きました。(このあたりのことは 6月1日の日記 でも少し触れています)
そんなわけで世間でまだあまり注目されていない時期から北朝鮮問題には関心がありましたが、90年代後半北京に駐在していたとき、一度自分の目で見てみたいと思ってチャンスをうかがっていましたが、念願がかなって 北朝鮮旅行をすることができました 。長くなりましたので、北朝鮮旅行ネタは明日の日記に続く・・・
さて、昨日の続きで 97年に北京から行った北朝鮮旅行 について書きます。昔話ですいません。 でもあの国はほとんど変化していないと思いますので、今もきっとこんなもんかと 思います。
北京駐在になったときから、機会があれば絶対行ってやろうと思っていましたが、97年8月にそのチャンスがやってきました。日本人会の会報に専門旅行社の案内がありましたので、当時の駐在の同僚といっしょに申し込みました。 その同僚は当時私より10歳以上年上のおじさんでしたが 、若いころ韓国でレンタカーを借りてドライブしたり、北京でも中国語がそれほどわかるわけではないのに、 夜の危ない世界へひとりで突入する「冒険王」 と社内では呼ばれていました。ちなみに旅行費用は3泊4日で日本円払いで14万円。ちょっと日数にしては高すぎますが、まああの国ではしょうがないと思って、すべてを旅行社にゆだねました。旅行社に直接カネを払いに行きましたが、狭くてシャビーなオフィスに日本人らしき(在日の人かも)人が2名くらいでやってました。ビザは北京の北朝鮮大使館で旅行社が手続きを行いますが、数日でとれます。パスポートにスタンプを押すのではなく、通行証のような紙がビザとして発行されます。
さて、前日には会社の人たちに盛大に 「送別会」 をやってもらい(当時はすでに拉致疑惑が取りざたされていましたこともあり)、朝の 高麗航空 の便でピョンヤンに旅立ちました。北京空港では現地に着いたら迎えに来ているであろう北朝鮮人ガイドのために、二人でマイルドセブンを2カートン買いました。
飛行機は中型のロシア製アントノフだったかと思いますが、乗り込もうとすると、 金日成さま(の銅像)にたむける大きな花束をもった人たち が何人も乗ってきました。おおさすが北朝鮮!って感じ。行ったのは8月上旬でしたが、 座席に座ると異様に暑い 。座席前のポケットには小さな団扇が入れてあります。少し時間が経ってわかりましたが、 地上にいるときは燃料節約のため冷房を切っている ということでした。おいおい。飛んでからはちゃんと空調を入れるんだろうな、窒息させられることはないのか少々不安になりました。
何分後か、ようやく離陸の準備ができたようで飛行機が動き出しました。でも周りを見ると、スッチーさんたちがまだ乗客に飴を配っています。いつ座るのか見ていると、一向に座るそぶりを見せません。そう思っている間、 飛行機は最大加速度に達し、もうスッチーも座席に戻ったかと思ったらまだうろうろしています。そして飛行機は完全に離陸して急上昇しました。それでも彼らは席につかないまま 。さすが将軍様の国のスッチーさんたちは高度な訓練を受けているのだと感心しました(ウソ)。
やっと飛行機が離陸しましたが、まだ中国領空上の話でした。ピョンヤン到着から先は明日へ続く。小出しにして申し訳ありません。それでは明日また。
連続北朝鮮ネタ3日目 に入ります。記憶をたどりながら書いているので、多少の間違いはお許しください。今度当時の写真が見つかったら別途アップしたいと思います。
さて、 飛行機は依然立ったままのスッチーさんたちとともに急上昇 後、やっと水平飛行に移りました。するとようやく機内の冷房が効いてきました。ちなみにこの高麗航空のフライトは当時週2便しかなく、確か中国東方航空が別の曜日で週2便飛んでいたかと思います。この日は8月上旬平日の朝の便ですが、座席は7~8割埋まっていたぐらいでした。ピョンヤンを目的地とするフライトは北京と大連、ロシア極東のハバロフスクかウラジオストックのどちらかくらいしかなく、国際交流が極めて限定されていることが改めて明確にわかります。昔、冷戦時代はモスクワ便や東欧便もあったらしいですが、ソ連崩壊後は中国様とロシア様としか直接的行き来ができないわけです。こういう面からも これほど閉鎖的な国は世界にないといえます 。
大連上空を経由するとまもなくピョンヤンのスナン(順安)空港に着きました。 フライト時間は確か1時間半くらいだったと 思います。 心理的には遠い国ですが、距離的にはきわめて近くにあること を改めて思い知らされます。ややでこぼこの滑走路に着陸すると、周りには駐機している飛行機も少なく、確か飛べなくなった古い機体が何機か見えた記憶があります。空港やそのまわりは閑散としており 田舎の空港 といった感じ。ターミナルの近くに駐機するとタラップを降り、地上を歩いてビルに入ります。建物にはハングルで「ピョンヤン」、金日成の肖像画があったと思います。
さて、入国手続きは別に時間もかからず、偉そうに高い位置に座った検査官がスタンプを押し、税関を通ります。ここでもし 携帯電話をもっていると当時は没収 されるか、特別な手続きを経て一時預かりをされてしまうことになっていて、中国のケータイは持ち込めないことになっていました。事前にそのことを聞いていましたので、この旅行には中国のケータイはもってきていませんでしたのでよかったですが、仮に知らなかったりすると相当面倒なことになっていたと思われます。
荷物をピックアップすると、我々の名前を書いた紙をもった男性二人(30代半ばと20代後半くらいか)が近づいてきました。 この二人が我々の道中完全同行するガイド です。我々は二人で行ったので、ガイドは一人いれば十分だと思いますが、 ガイド同士で相互監視 する必要があることから、この国ではこれが基本パターンのようです。二人とも日本語は若干の独特のアクセントはありますが、レベルは高く、ガイド慣れしている感がありましたが、年上の方は目つきも鋭く、何を考えているのかわからないところもありました。一方若い方は、なかなか愛想のいい兄ちゃんで、いろいろ軽口もたたいていました。とりあえずこちら側からは「お世話になります」といった感じで、 北京で買ったタバコを1カートンずつ 手渡しました。
外に出ると、ドライバー(50代くらいのおっさん)が待っていて、全員車に乗り込みました。でも普通の乗用車なので、運転手含め5人乗るのはちょっときつく、 ガイドが二人もいることは旅行者から見れば迷惑な話 です。空港から市内まで30分程度だったかと思いますが、車はほとんど走っておらず、仕事に行くところなのか、 黙々と歩いている人たちが道路の両端を埋めていました 。これだけでもちょっと 異質な世界 に来たことを感じさせます。
北朝鮮では、在日などの里帰りでも、日本人など外国人でも、 ピョンヤンに着くとまず金日成の黄金の巨大な銅像が立っている広場に直行 することが決まっています。ここの名前がしばし思い出せませんが、テレビなどでよく出てくるところです。広場では花を売っている店があって、ガイドからここで花束を買うように促され、それをもって銅像に向かいます(まだ北朝鮮の通貨を持っていなかったので、ガイドに借りたような記憶があります)。他の人たちの真似をして、 一礼して花束を壇上に置き、またもう一礼 して銅像から離れます。周りには「千里馬(チョルリマ)」の銅像もありました。
その後ホテルに向かいます。ホテルは外人向けの「普通江(ポトンガン)ホテル」。ホテルに着く直前の道路で、ほとんど車は走っていないのに、木にぶつかって停まっている車がいました。
ホテルは2人で一部屋、ツインルームでした(14万円も払ってこれかい!)。ガイドも我々の対面の部屋にチェックインしました。部屋は一応冷房が効いていましたが、音がすさまじく、これは夜簡単には眠れないと思いましたが、こんなにうるさいと 部屋の盗聴 はできないのではとも思いました(部屋の中をいろいろ探しましたが、盗聴器がどこにあるかはわからず)。
一休みするとそろそろお昼だったので、食事をするためにガイドとともにホテルを出発しました・・・ さて、今日はここまで。ちょっと細かく書きすぎたので最後まで書こうとすると1週間くらいかかってしまいそうです。この旅行、今でも経過を鮮明に覚えていますが、書いていると細かいことも思い出してきてしまいます。適当に読み飛ばしていただければ幸いです。
北朝鮮ネタ4日目です。昔の記録をいろいろ調べてみたら、当時以下のような日程で旅行したことがわかりました。
1997年8月2日(土) 11:30北京発(高麗航空152便)→14:00ピョンヤン着
・到着後万寿台の丘など簡単な市内観光
8月3日(日) ・板門店軍事境界線、開城市内観光
8月4日(月) ・ピョンヤン市内観光(チュチェ思想塔、地下鉄、託児所等)
8月5日(火) 9:00ピョンヤン発(高麗航空151便)→9:40北京着
ということなので、昨日の日記には朝の便と書きましたが、昼の便でした。また、昼飯を食べにいくというところで終わりましたが、昼飯は食べてなかったですね(確か機内食のみ)。金日成の銅像にご挨拶したあとホテルに戻ったのは確かでしたが、その後市内観光をして晩飯に至るという順番でした。訂正してお詫びいたします。 やはり10年近く前の記憶はいい加減だったと 思います。失礼しました。
さて、お詫びを兼ねていろいろ部屋を掘り出したところ、以下のようなものが出てきました。
これがおととい書いた 機内のうちわ 。
もろもろ出てきました。基本的にパンフは日本語のものが多いです。当時あの国で見る商品は ほとんど日本製 のものばかりで、 ある意味日本の属国ではないかと 感じさせる雰囲気もありました。いろいろ日本のことを公式には言いますが、日本からの物資を確保することは、最近中国製品が相当増えたといっても、国の根本にかかわることなのではないかと感じました。ちなみに真ん中上の紙幣は5チョン。チョンはウォンの下の単位ですが、漢字で書けばウォンが「円」、チョンが「銭」なので日本語と同じです。また、この紙幣は昔中国にもあった外貨兌換券で、外人専用の紙幣です。「こども銀行」のような札ですが、外国人が行くところはそのまま日本円払いもできましたので、ほとんどこの札を使う機会はなく、まして北朝鮮人が使う国内用の紙幣は見ることはできませんでした。あと、右上に ゴルフ場 のパンフレットがありますが、ピョンヤンにもゴルフ場があります。誰がやるのかは知りませんが・・・。このことは下でも少々触れます。
さて、1日目、空港到着後、 金日成の銅像のある「万寿台(マンスデ)の丘」 経由でホテルにチェックインしたあと、 金日成の生まれたところとされる、「万景台(マンギョンデ)」 に行きました。ここも完全に北朝鮮ツアーではお決まりの訪問地ですが、市内中心部から南西方向の小高い丘になっているところにあります。金日成が生まれたという質素な萱葺きの家がいくつか建っていて、昔の食事風景など、当時の様子が再現されています。確か日本語で専門の説明員が滔々と「偉大な首領様はこちらで・・・」と長々と説明していました。家のそばには白くてまん丸な石が敷き詰められた石庭のようなものがあるのですが、どれも均一な大きさで非常によくできていることは認めますが、こんなものに時間をかけるより、もっと別のものを生産でもしたほうがいいと強く感じました。
このあと、万景台の近くにある、スポーツ施設が集中して集まっているところに向かいました。そろそろ夕方になったので、この中にあるレストランで晩飯を食べますとガイドから説明されました。このスポーツ施設は、過去ソウル五輪に対抗して北朝鮮が「世界学生祭典」を同時期に開催したときに作ったもののようで、スタジアム、体育館など多くの施設があります。ただ、人影はほとんどなく、閑散としていました。まだ食事まで時間があるので、射撃でもしませんかとガイドに促されて 屋内射撃場 に向かいました。どうも ガイドが自分も遊びたかったようです 。私は北京でも人民解放軍経営の射撃場でライフルや高射砲を実弾で撃ったことがありましたので、話しのネタになるかと思ってやってみました。施設はとてもきれいでしたが他の客はだれもいません。ピストルを数発撃って、後で的で使用した紙を記念にもらいました。射撃代は結構高かったですが、ガイドの分も合わせて全部払わされました。
その後ゴルフ場(打ちっぱなし)の施設内にあるレストランに晩飯のために向かいました。ここも他に客はいませんでしたが、打ちっぱなしそのものは施設としては小規模ではあるものの、日本のものとそれほど大差のない雰囲気ではありました。さて、「晩飯のメニューは?」とガイドに聞くと、「カルビです」みたいな答えだったので、 韓国のように食べきれないほど料理が出てくるのかと一瞬期待しましたが 、ガイドが出て行ったあと、運ばれてきた料理は焼肉が10切れと野菜少々、これを岩谷産業のカセット式コンロで自分で焼いて食べるというもので、かなり期待はずれ、「これが14万円ツアーのメニュー?」とも思いましたが、当時すでに北朝鮮は 食糧危機 が取り沙汰されていましたので、しょうがないと思ってあきらめました。
食事が終わるころになると、ガイド2人が戻ってきました。若い方のガイドは、先ほど食事を給仕してくれたレストランのウエイトレスの親しいようで、アタックをしているように見えました。 ああいう体制の国でも若者はちゃんとやることはやるんだなと 思って、少しほのぼのとしたものを感じました。
翌日は朝早くから板門店(パンムンジョム)の軍事境界線に行くスケジュールだったので、食事後はホテルに戻ることになっていましたが、我々が「ちょっとコーヒーでも」と行ったので、ピョンヤンで最高級といわれる「高麗(コリョ)ホテル」に立ち寄りました。最上階が回転レストランになっていて、ここでコーヒーを飲みましたが、外は明かりが極めて少なくて真っ暗、他に客もいなかったので閑散としていました。コーヒー代はそんなに安いわけでもなかったですが、当然のようにガイド2名分のコーヒー代も我々が払いました。
1日目なのでとりあえずおとなしくして、その後宿泊しているホテルに戻りました。部屋には盗聴器は見つけられませんでしたので、同行者と北朝鮮の悪口をためしにいろいろ話をしてみました。次の朝ちゃんと我々二人が無事でいるかちょっと不安になりましたが、うるさい冷房の音を気にしつつも、とりあえず結構疲れたのですぐ眠れた記憶があります。
ではまた続きは明日・・・
引き続き連続 北朝鮮ネタシリーズ5日目 に入ります。ほぼ9年前の話ですがおやじの昔話としてご覧ください。
さて、2日目は 板門店の軍事境界線 への訪問の日です。朝は早めに起床し、ホテルのレストランで北朝鮮初めての朝食です。前日にここへ行けといわれていたので、ホテルの1Fのだだっ広い食堂に行きました。朝7時半前後だったと記憶していますが、我々二人以外に他に客は誰もいなかったような気がします。女性の服務員が何品か料理を小皿で運んできました。あまり具体的メニューは印象に残っていませんが、いずれにしても質素なものだったと思います。ただ少し覚えているのは、 服務員のマナーが非常によかったことです 。外国人慣れしているのかもしれませんが、同じこてこての社会主義下にあった20年くらい前の 中国とは大違い 、呼んでも来ない、迷惑そうな顔をして無礼な言葉遣いで話をする中国様の人たちとはかなり違うと率直に感じました。北朝鮮というか朝鮮・韓国人は日本とは本来文化や習慣的にきわめて近く、 中国人と比べれば相対的にかなり日本人に近い (もちろん各論での違いはありますが、相対的にです)ことは、北京で出会う朝鮮族のカラオケ小姐のふるまいを見てもよく感じていました。また、北朝鮮の人たちは日本の植民地統治下から民主主義的段階を全く経ずに今の体制下に入りましたので、 上の人の命令には滅私奉公的に絶対服従することが当たり前 になっており、時代の変化を要求されないままある意味 古きよき日本の習慣もそのまま保守的に残しているような感覚 を持ちました。
その後ガイド二人とともに昨日と同じ乗用車で板門店に向かいました。 ピョンヤンから板門店の軍事境界線までは確か300kmくらい だったかと思いますが、一応高速道路が走っていて、3時間程度で着きます。高速道路といっても、日本の低規格な一般道路と特に変わらない、自動車専用道路といった趣です。しかし、 ピョンヤン市内も高速道路もほとんど車が走っていない 。世界の途上国含めいろいろな国に行ったことはありますが、 これほど車が走っていない国というのは初めてです 。この日は日曜日だったので、ガイドによれば日曜日は車は使わないことになっているみたいなことでしたが、それにしても少なすぎ。燃料となる石油などの輸入も絞られ、石炭も古い技術で大して生産できないといった状況が垣間見えます。市内も信号はほとんどついていなくて、たまに交通整理の女性警官が立っていたりしますが、それも必要がないほど車がいない。 高速道路も3時間ちょっと走りましたが、対向車は10台程度 しかなかった記憶があります。そんなことでこの国は 「おまえはすでに死んでいる」とケンシロウのセリフ がぴったりはまるところだと感じました。
途中、サービスエリアで一服して、予定どおり順調に板門店に着きました。 6月1日の日記 でも書きましたが、前に韓国側からもこの板門店の軍事境界線に行ったことがあったので、北側から見てみることが大きな目的のひとつでした。でも、 中国人の100人規模の団体ツアー客と一緒になったこともあって、軍事的最前線という緊張感はぶち壊し 。彼らのマナーの悪さ、騒々しさでかなり拍子抜けしてしまいました。韓国側から行ったときは「北朝鮮兵士に話しかけるな、手を振るな、微笑みかけるな」といろいろ注意事項があり、さらに「当局は命の保証はしない」という誓約書に一筆書いたこととは大違い、 北朝鮮兵士はとてもゆるんでのんびりした感じですし、田舎の観光地に来たのとあまり違いはありません 。同じ場所でも見る角度が違うとこんなに歴然とした違いが出てくることをあらためて思い知らされました。板門店では休戦会議が行われた会議場の中を見学します(ちなみに両国は今も「休戦中」で戦争は一時的に停止している位置づけ)。 テーブルの上を走るマイクのコードが境界線 になっており(なぜか東芝製)、その両側に韓国と北朝鮮の小さな国旗が立っています。一時相手側の旗よりも高いものを立てようとお 互いに意地を張り合ったため、両国の国旗が天井を突き破りそうになったそうです 。さすがにお互い馬鹿馬鹿しくなったのか今では同じ高さに落ち着いています。
その後、板門店にある朝鮮戦争の展示資料がある建物などを見学して、軍事境界線近くにある、 南側が見える展望台 (本来は軍の見張り台みたいなところ)に行きました。ここに行く途中、田舎のとても細い一般道を通るのですが、ここで出会う 通りすがりの農民を見ると、みんな顔の色がとても黒いことに気づきました 。これは畑仕事で日に焼けているということはあるでしょうが、風呂に入っていなくて汚れていること、さらに 食糧事情が相当悪くて内臓に支障を来たし、顔がどす黒くなってしまっていることも 想像されました。事実みんなやせ細っています。展望台ではあと2kmくらいで南側が見えるところにあり、韓国側の宣伝の看板やのどかな農村の様子も見えました。この時代よりもう少し前までは両側から相手に大音量で宣伝放送を流してお互いに亡命者を呼び込んでいたりしたわけです。 この国境一体は人が入らないので、緑が色濃く、自然がそのままの形で残されていることは皮肉です 。
板門店のあとはここから30分以内でいける一応北朝鮮では大都市で、古都でもある 開城(ケソン) に行きました。ここは100万近く人口がいるはずの都市ですが、 ピョンヤンよりさらに「死んでいる」印象 。活気というものは全く感じられず、暗そうな顔をして歩いている人しか見えない気がしました。開城は京都のような李朝時代の古都ということで、「民俗博物館」みたいなところを見学しました。確か古い時代のもろもろの展示物があったと思いますが、特別に印象に残るものもなく、ここの状況はほとんど思い出せません。この博物館の近くで昼食をとったはずですが、この部分は何も覚えていません。
帰りもがらがらの高速道路を飛ばして、夕方にはピョンヤンに戻ってきました。ピョンヤン近くになると、一直線で片側4車線くらいの広い道路を通過しました。この両側には新興住宅地のような新築の高層アパートが並んでいたりしましたが、人影は少なく生活感が全く感じられないところでした。さらに市内の中心からやや西側にある、 建設途上で工事が中断し、吹きさらしになった105階建て「柳京ホテル」 の近くを通りました。形は三角形の独特なものですが、今となっては全くもって無駄な巨大建築物になっています。 ガイドもこのホテルの話題には触れてほしくない感じ がありました。
この日、夕食は何を食べたか思い出せませんが(たぶんホテルの中だったかと)、夕食後はガイドにお願いして、 カラオケ に行くことになりました。同行者の冒険王氏がカラオケと小姐好きだったので(私も好きですが)、とても楽しみにしていました。場所としては裏道の薄暗いところにあり、ひっそりと地味なネオンが輝いていました。個室ではなく大部屋でしたが、他に日本人客が何人か個室にいたかと思います。日本のちょっと昔のカラオケバーといった風情で、ここに日本語の少しできるおねえさんが数人つきました。ちょっと 金正日の「喜び組」を味わった 感覚。曲目としてはそれなりに新しいものもありましたが、基本的に少し前の歌が中心で、演歌好きのおじさん向けといったところ。私のようなアイドル系好きには少々物足りませんでした(一応守備範囲は広いので対応は可)。おねえさんたちと何を話したか覚えていませんが、あまり変なことをいうと捕まるかもしれないと思って、そんな突っ込んだ話はしなかったと思います。夜11時ごろまで歌い続け、 日本円でひとり1万円くらいは払わされた 記憶があります。酒とつまみを少々頼んだだけでしたが、ここも必要ないのにガイドも一緒だったので出費がおのずとかさみます。
2日目はこんな感じで終わり。短期間ですが、中身は結構濃いです。そんなことで明日へ続く・・・
今日は 連続北朝鮮シリーズ6日目 になります。3泊4日の旅行でしたが、ようやく3日目のネタです。4日目は基本的に朝北京に帰るだけなので、この3日目が実質的な最終日です。
3日目は主に市内と近郊の見学です。少々訪問した順番は間違いがあるかもしれませんがご容赦ください。朝食後まず最初に行ったのは 「金日成広場」 。よくテレビでも出てくる、軍事パレードなどをやるところです。北京の天安門広場ほど広くはないものの、かなり広いことには違いありません。ここがピョンヤンの中心部で大同江(テドンガン)という結構幅の広い河のほとりにあります。今更ですが、北朝鮮の中は基本的に写真撮影については、我々観光客が行くようなところはなんら問題ありません。
金日成広場の河をはさんだ反対側に 「主体(チュチェ)思想塔」 ( 7月8日の日記にある写真の下段左から2番目) というのがあります。高さは確か100m以上はあったと思います。これは一応金日成が国の基本的思想として定めた「主体思想」のシンボル的モニュメントです。「主体」は本来「自主独立」ということだと思いますが、 今となっては世界に迷惑をかける「自分勝手」「独善的」に意味が変わってしまってます 。この塔はエレベーターに乗って上まで見学できます。日本人がここに行くと、いわゆる 日本人妻として北朝鮮に渡った日本人の何とかさんという当時50~60歳くらいの女性が金日成の業績について滔々とかつ熱心に説明してくれます(ほぼ常駐している模様 。本当にこの人が本心からそう思っているのかはわかりませんが、あまりにも金日成のことを崇拝した内容なので、ちょっと気持ち悪くなるくらいでした。この方はいまだに説明員としての仕事をしているのでしょうか。
この塔の近くには確か、他にも共産主義の象徴であるカマとカナヅチの巨大モニュメントもあったような気がします。この日途中に 「凱旋門」 (同下段一番右) にも行きましたが、これも大理石の巨大なモニュメントで、 パリの凱旋門よりはるかに大きい ことを売りにしています。確かに遠巻きには美しく見えますが、初日の金日成の金の巨像も含め、人民の生活に何のプラスにもならず、生産手段でもないこのようなモニュメントに金をかけるのは明らかに大問題であり、 この国の国名にもある「民主主義」や「社会主義」「労働者の国」とは完全に対極にある状態にもかかわらず、それを誰もチェックもできない独裁体制というのは人間のやることのなかで最も愚の骨頂であると嘆かざるをえません 。
この日は少々郊外にある金正日が指導しているという 芸術学校 のようなところに行きました。金親子を描いた大きな絵がたくさんありましたが、 たくさんの人民に囲まれた金親子のところだけ後光がさしている絵や、雨の中で金親子が人民に指導しているのに、彼らのところだけ雨が降っていないというような絵もありました 。ここまで極端な個人崇拝があると、我々から見れば かなり滑稽 に見えますが、ここまで気を使わないと生きていけないことを考えるととても悲しくなります。
順番は違うかもしれませんが、 託児所 (幼稚園といったほうがいいかもしれません)もお決まりのコースとして見学しました。我々と同じような行程で回っている別の日本人ツアー数名と一緒になりましたが、ここでは5歳前後の幼児のパフォーマンスをいろいろ見せられます。 歌や踊り、楽器の演奏など、幼児とは思えないほど上手です 。みんな一生懸命、笑いたくもないのにニコニコ笑って我々に接してきます。選抜された優秀な子供たちなのでしょうが、 こんなに小さいころから強制的に国のために働かされているところを見てこれもまた悲しくなりました 。最後に子供たちと我々ツアー客・ガイドが手をとりあってダンスを踊るのですが、なんともいえない気持ちになりました。
この日はピョンヤン市内の 地下鉄 にも一駅だけ乗りました。これもお決まりのコース。有事の際のシェルターとしても使用することから、とても深いところに駅があり、長いエスカレーターで降りていきます。駅のホームも天井が高くてシャンデリアのようなものもありましたが、全体的に暗いイメージ。北京の地下鉄1号線の駅の作りによく似ていますし、行ったことはないですがモスクワの地下鉄も確かこんな感じかと思います。電車の中は少々薄汚れた感じで、電気も暗く、そんなに混んでいなかったものの、 乗客はみんな覇気がないように感じられました 。ちなみに地下鉄の駅名は「勝利」とか「革命」(ちょっと違うかもしれません)というように地名と何も関係のないものばかりで、ここまで徹底しないといけないものなのか、 ある意味人民を信じていない裏返しなのではとも 思いました。
夕食前には サーカス の見学にも行きました。他の国でちゃんとサーカスを見たことは確かなかったので、それなりに新鮮さを感じました。施設はサーカス専用らしく、かなりの収容人数です。空中ブランコなどアクロバット的なものはレベルの高さを感じましたし、犬猫など動物が出てくるところは結構面白く、まわりの観衆も非常に喜んでいました。これといった娯楽のない世界で、サーカスはこの国では恐らく最大級の娯楽で、サーカス団員もいい生活が保障されているのでしょう。
夕食は ピョンヤン冷麺の老舗として有名な「玉流館」というところに 行きました。このレストランは非常に豪華な造りで、恐らくピョンヤンの特権階級を中心とした客で結構にぎわっていました。またガイド分も食べさせないといけないのかと思いましたが、なぜかここはガイドは同席しませんでした。ローカルのビールを飲みながら冷麺を食べましたが、確かにここの冷麺は美味でした。 北朝鮮に来て初めてツアーらしい食事 をした気分になりました。
そんなわけでいろいろなことを感じながら、あまりボケるネタのないまま3日目が終わります。最終日の模様はまた明日。では。
連続北朝鮮シリーズ7日目、たぶん最終日 です。
9年前の北朝鮮旅行、昨日までに3泊4日の3日目まで書きましたが、4日目は朝北京に帰るだけの日です。お決まりの朝食を簡単に済ませ、ガイドとともにホテルをチェックアウトしました。 結局二人のガイドと別行動をとることは一瞬たりともありませんでした 。いろいろと一般の北朝鮮人民の話を聞きましたが、基本的にピョンヤンに住んでいる人たちはやはりいろいろな面で恵まれていると感じました。郊外や地方都市、農村で見かける人たちとは明らかに雰囲気が違います。ガイドの若いほうなどは、日本でいえばノー天気で素朴な田舎のにいちゃんみたいな感じで、たいした娯楽がない世界でも、比較する世界を知らされなければ、 あれはあれで幸せなのかもしれないと 思ったりします。でも 全体的に人の顔は暗かった ですけどね・・・
その後スナン空港に着き、運転手のおっちゃんとはここで別れます。無口な人でしたが愛想はよく、握手をして別れました。そして空港でチェックイン、ガイド二人からは 「ぜひ私たちの写真を送ってください。住所はここです。」 と言われ、メモ書きを渡してきました。こちら側も確かにべったりでしたがいろいろ世話になったことは事実ですので、たくさん撮ったうちの何枚かを送ることを約束し、彼らともここで別れました。北京に戻ってから写真を彼らに送りましたが、特に返事はなかったのでわかりませんけど、ちゃんと手元に届いたのか、どこかで検閲が入ったのか、 間違って失脚したりしてないか 、いろいろ考えが頭をめぐりました。
空港ではばかでかい中国のバスケットチームと一緒になりました。出国手続きをすると、ビザの一枚紙がパスポートから抜き取られます。一応この紙を旅行前にコピーしていたので、今でもどこかに残っていると思いますが、 パスポート上には何も北朝鮮に滞在した記録が残りません 。飛行機は1時間半程度で北京に着きましたが、 あの4日間は幻ではなかったかと 思ったりもします。
書きながら思い出しましたが、北朝鮮がらみでは1987年にも北京から中朝国境にある 丹東 まで列車で行き、 国境の鴨緑江 で北朝鮮対岸ぎりぎりまで行く遊覧船に乗ったこともありました。このころは中国も北朝鮮も経済的にそれほど格差はなかった時期ですが、それでも遊覧船に向かって北朝鮮側から子供たちの集団が不自然に微笑みつつ手を振っていたことや、川岸にある北朝鮮の工場が全く稼動していなかったことが思い出されます。今回の北朝鮮の暴発で今後の行く末がどうなるかとても心配です。罪のない一般の人民にはもっと世界にはいい世界もあることを知らせてあげたいと心から思います。
国連安保理決議 が最終的にどうなるかわかりません。中国がいろいろ裏工作を進めているようです。 韓国なんかはまるで北朝鮮のような言い方で日本の強硬姿勢を非難するコメント を出しています。いずれにしても、北朝鮮指導部のごね得が通ってしまうようでは、今後が心配になります。中国や北朝鮮のように民主的でもなんでもない、ただ規模がでかい、声がでかいといったような国が将来世界を支配するような気がしてなりません。 どこか間違った方向に世界が進んでいるのではないかと憂いを感じつつ、シリーズ最終日を終わりにしたいと思います 。
全部ご覧いただいた方、 ありがとうございました 。