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埼玉のtoshi,さんが製作してくれたYou tubeです。俺の青春の写真が並んでいる。バックで弾いてるギターは三男である。
2012年11月20日
ゆうやけはゆうやけのままにしのそら 百二十五年物語よいつ再開するのやら・・・・・
2011年07月21日
長男が仕事の延長上でお客から相談されるのがパソコンの基本的なことだそうで「PCレスキュー」ということも人の役に立つのではないかと福岡界隈中心としたブログを立ち上げたところ地元の人からはもとより大阪の方からも相談や依頼が出てきたそうである。 昨晩、夕飯を食べにきて会話。長男「親父のブログはどのくらいのアクセスがあると?」おれ「2000くらい」長男「2000も!!!」おれ「5年つづけてるけんな」長男「5年もしよると?」おれ「うん」長男はi-Phonをのぞきながら長男「すごい!8位やん」おれ「それは楽天だけの順位やろ?普通は10位から15位の間やね」長男「ばってん、すごかやん!」おれ「おまえのパソコンレスキューも宣伝しちゃろうか?」長男「して、して!どんどん宣伝して!」それから俺のブログの数の多さに驚いてあきれた様子であった。(内心、俺だってこの数の多さにはうんざりしてるさ)それから。この機会にとIDとパスワードを書いた手帳を見せて「お父さんが突然死んだときには、埋もれ日のアンソロジーにだけでいいけんが、『長い間親父がお世話になりました』ってお前が書いてくれ!」と頼んだ。長男は、複雑そうな顔をしていた・・・ま、それから長男からあれこれ教えてもらって別れた。約束なので伊東ゆかり特集の途中なのだが息子の仕事の応援をします。どうぞ、利用してやってください!PCレスキュー↑あれ!今見たら、ブログの写真を更新したらしい。夕べまでは上のような写真だったんだ。ま、いいか・・・。「埋もれ日のアンソロジー」ファンの全国1660万人の皆さんへ!飛んでいってtwitterをクリックしたりコメント書いてやって励ましてくださいよ!(就職活動をはじめたコックンより)
2011年02月28日
引揚船 信濃丸
2011年01月22日
国見に積もったかすかな雪竹の古場のほうの風景縄屋の倉庫を中心とした風景比古太の残影RAKUTEN FARM錆びた鉄棒と白い橋
2011年01月17日
大連の街から
2011年01月07日
大連の街並み
2011年01月06日
旧満鉄本社跡
2011年01月06日
祖父よ父よこの歌を俺は満州鉄道社歌を聴いてるぜ!昭和86年なう!
2011年01月05日
息子らよ!2011年になってしまった。おまえらはそれぞれ27才、25才、21才となり俺は56才になる。お前らの祖父であった比古太が亡くなって8年。お前らの曽祖父である清吉が亡くなって半世紀が過ぎた。1885年から計算すると「126年目」になるわけだがタイトルはそのまま「百二十五年物語」として今年こそ完結する気持ちで書こうと思うがまず今年最初はYou tubeにある満鉄、大連のアップから。おまえらに語りかけるつもりで書いてゆくが道をそれる場合があってもそれはそれでいいだろう?
2011年01月04日
今年も一年間ありがとうございました。来年もよろしお願いいたします。
2010年12月30日
比古太が生きていたら見せてあげたいYou tubeがあたくさんある。もちろん祖父清吉にも見せてあげたい。もうそんな地上への執着は消えた頃だろうけど。
2010年12月29日
大連 南満州鉄道株式会社本社屋跡と隣接の資料館 BBSとか読んでいなくてBBSにコメントくださった皆様ありがとうございます。そして失礼しました。長七さんが貴重なYou tube資料を教えてくださった。謝謝。
2010年12月28日
大連の街から こんな大連で検索できるYou tube親父に見せてやりたかった。
2010年12月21日
大連市清吉が住んだ町が大連であり、そこでツナと再婚し、又衛と比古太が生まれた。この大連という町について知ろうと昨夜の「坂の上の雲」を見ながら思った次第。
2010年12月20日
南満州鉄道南満州鉄道株式会社南満洲鉄道株式会社、みなみまんしゅうてつどう、通称 満鉄は日露戦争後の1906年(明治39年)に設立され、1945年(昭和20年)の第二次世界大戦の終結まで満州(中国東北部)に存在した日本の特殊会社である。鉄道事業を中心にするが、きわめて広範囲にわたる事業を展開し、満洲経営の中核となった。本社は関東州大連市であるが、のちに満州国が成立すると満州国首都の新京特別市に本部が置かれ、そちらが事実上の本社となった。また東京市麻布区麻布狸穴町[1]に東京支社が置かれた。最盛期には80余りの関連企業を持った。「日露戦争後の1906年(明治39年)に設立され」ということは清吉はいったいいくつで大陸に渡ったのだろう?それがわかったからといって全部謎がとけるわけではないのだが・・・。1906年。清吉21才。年齢的には、自分の命運をかけて大陸へ渡るにはいちばんいい年令のように思うのだが・・・。
2010年12月10日
日露戦争1904年(明治37年)2月8日 - 1905年(明治38年)9月5日)は、大日本帝国とロシア帝国との間で朝鮮半島と満洲南部を主戦場として発生した戦争である。1904年、清吉19才。日露戦争に兵士として出兵した話は聞いていない。日露戦争を考えなかったらぼくの想像では19才の清吉はすでに南満州鉄道に従事していたと思うのだが・・・。高学歴があったとも聞いていないからその清吉が大連で高い地位につき小銭を貯めたには何かの要因があるはずなんだがそれがわからない・・・。 とにかく清吉19才、20才の頃日露戦争があったことをここに刻むのみである。 この写真が清吉の19才20才の頃のような気がしないでもないがこの格好はモダンだな~。どこの学生だったんだろう?
2010年12月09日
日清戦争1894年~1895年明治27年~明治28年日清戦争とは、1894年(明治27年)7月から1895年(明治28年)3月にかけて行われた主に朝鮮半島(李氏朝鮮)をめぐる大日本帝国と大清国の戦争である。清吉の生誕を1885年と仮定してこの話を書いているゆえ清吉9才~10才のときの戦争である。いくつか年下の弟キヨマツその下の妹八重が生まれているから兄弟姉妹4人両親がどのような人かはわからないが神戸須磨区界隈で穏やかに暮らしていたのか?それともいわゆる「造り酒屋」が傾いて経済的に厳しい状況だったのかはわからない。数多くの大連での裕福な時代の写真は残っているが神戸時代のものは家族で帰省した際に奈良公園などを旅したときの写真が残っているだけだ。
2010年12月04日
この「百二十五年物語」を書く目的を今夜は記録しておく。主人公は僕の祖父清吉(せいきち)である。1885年か1886年に生まれて1967年6月13日に亡くなった僕の愛する祖父が主人公である。ただ、1885年か1886年も曖昧であるように清吉の誕生日もわからぬ。その生い立ちや満州での仕事などまた父親としての清吉のことなど祖父が日記を書いてたわけでもなく何もわからんのだ。清吉のことを話してくれた親父比古太(ひこた)も7年前に死んでしまった。僕は清吉のただひとりの孫として来年55歳になる。そんな何もわからない中で何を書くのか・・・何を書くのかわからない。わからないが知ってることを書くにすぎない。わかったことを書くにすぎない。何のために。清吉ー比古太ー僕ー三人の息子が貧乏なバトンリレーしているような感覚なのだが僕としては清吉を三人の息子の中のだれかに伝えたいそれがこの「百二十五年物語」を書く動機になっているのだ。我が家には家系図があるわけではない。そういうものを嫌ってきた空気の中で育ってきた。そういう話もしていくが清吉を語る上ではその周囲の脇役たちのことを語ることができる。それらが昨日の登場人物一覧表になっているのであるがこれを書くにあたって思うことは人間はみなどこかでつながっているということ。広大な宇宙の小さな星のその星の島国と大陸を行き来した清吉とその孫である僕が「百二十五年物語」をこれから構築していくのである。家を建てるときは柱から建てるのかもしれないがこの物語はいきなり屋根瓦から作ったり、トイレから作ったりするお話である。1885年から来年2010年までを区切ってとりあえず「百二十五年物語」というタイトルにしたがこの話が完結するのが5年先になった場合は安易に「百三十年物語」とかえればいいだけである。はやく「おしまい」と書いて、この物語を三人の息子に捧げる。と、書きたいものだ。
2010年11月11日
この写真見たからに夏だ。幼い親父が祖父に抱かれ祖父の帽子をもった祖母そして伯父祖父の白いズボンがお洒落だ。1932年か33年前後だろう・・・祖母は庭に百日紅の花を植えていた。サルスベリの名前の由来を教えてくれたのは祖母だ。百日紅の赤と白の花を見ると思い出すのは祖母のことだ。祖母と五家山(ごかやま)を歩いていた。トウゴローさんの家の前で立ち止まって藤の花がきれいだねとぼくに話しかけたことがある。当事のぼくが藤の花の名前など知るはずがない。でも、藤の花も祖母を思い出す花になってる。こんなことは父も母も知らないことだと思う。おばあちゃん、サルスベリの花はピンクや桃色(いっしょか・・・)や薄紫や黄色の花もあるんだぜ!黄色はあったかな?ま、いいや!俺、法螺吹きだから・・・
2010年08月26日
祖母ツナとぼくが過ごしたのは14年半だった。その間の記憶にのこっていることを少し話したい。同じことをくりかえすことになるかもしれないがそこは気にしないで繰り返し書くことを自分に許します。祖父清吉が生きているときは、二階の和室北側6畳か8畳が3人の寝室だった。3人とは祖父、祖母、俺。で、祖父が亡くなったあとの記憶は下のテレビのある部屋がぼくと祖母の寝室だった。祖母が南側で隣のテレビに近いほうがぼくの布団だった。あれ?あの部屋は食事をする場所だったけど布団は毎日、あげさげしていたのかなあ?昔は台所が土間で昭和38年までは水道もなかったからおふくろが水汲みをしていたが、台所を増築して居間とつないだはずだ。で、食事の場所は、板張りの狭いところ柱の傷はおとつぃの~♪があった柱の南側になってそこで食事をするようになったんだ!すごい記憶力だ!書きながら気づいたんだが、祖父清吉は水道を知らないまま亡くなったんだ。祖父との思い出がむくむくとわいてきたが今夜は祖母との思い出だ。祖母の話は伯父又衛のことばかりだった。幼いおれは気づかなかったが親父比古太の話の100倍は又衛の話を聞かされたと思う。医者にまでなった長男又衛は祖母の自慢だったんだろうと今は思う。7才年下の比古太が生き残ったことが不満だったわけではなく戦後の暮しを支えてくれるであろう伯父又衛の死は祖母にはかなりこたえたのであろう。又衛が亡くなっているのは昭和22年9月26日。その8年後に生まれた俺をそしてたったひとりの孫を優しく可愛がった祖父。しかし、祖母は違っていた。俺の誕生に再び又衛に抱いた希望を感じたのだろう。スタインベックの「怒りの葡萄」もそうであるが男は人生をどこかで投げるというか捨てる。それが祖父清吉の戦後だったとするなら、女は人生を最後まで捨てない、諦めない。それが祖母ツナの戦後のさらなる戦いだった。ニワトリの卵でコツコツ小銭をため、父比古太と母千鶴子の安い給料を全部管理し、孫(=俺)の教育も祖母が管理していた。小学校に入学するときにはかけざん九九を丸暗記させたのも祖母。文字を大きくきれいに書くように厳しかったのも祖母。テレビの時間を厳しく管理し、勉強について口出すのも祖母だった。山代東小学校で、俺は祖母のイメージでは1番の成績でなければ祖母のプライドが許さなかったのだろうと思う。ところが、皮肉なことに俺の家の三軒先にカツが生まれて俺とは4才で親友になり、こいつが完璧な神童だった。俺も神童だったがニセ神童だった。ひとつの村に神童は普通ひとりで十分なのに。神様は試練をくださった。俺に試練はなかったが、祖母には試練だったと思う。カツにはどこまでいっても勝てなかった。やがて、勉強にうるさく言う祖母と俺の対決時期がくる。俺の第二反抗期(中学生になってから激しさを増した)そんな反抗期の最中に祖母は死んでいったので、俺のこころは複雑だったことをかすかに記憶している。でも、熱を出して寝込んでる俺の額にてをあてて水枕を準備してくれたり、氷で冷やしたタオルで額を冷やすときの祖母の冷たい手には感謝した。祖母は布団の下に緑色の財布をかくしていたがその財布からはよく金を盗んだ。10円玉、5円玉・・・わからないように盗んでいた。祖母が教えてくれた歌は2曲だけだ。♪ここは御国の何百里 はなれて遠く満州に~♪なんていう題名だったかな?それと♪柿に赤い花咲く~♪この2曲だった。小学生時代はほとんど祖母と二人で風呂にはいった。カツが遊びに来たときも祖母と3人で風呂にはいってたのかな?もうその頃は、右半身不随から少し回復したころだったかどうかはくわしく覚えていない。祖母の白いお尻と垂れ下がったおっぱいは鮮やかに覚えている。おばあちゃんと二人で風呂にはいっていったいどんな会話をしていたんだろう?「早くぬくもりなさい!」とか「はい、首の下を洗って!」とか言われてたのだろうか?祖父との風呂は露天風呂時代でホタルが舞ってた記憶があり、俺を抱きしめて微笑む祖父清吉の姿が思い浮かぶ。父比古太との風呂では、タオルで空気風船を作ってオナラのような音をだすのが親父の数少ない技だった。祖母とのお風呂は、曇った窓に漢字を書いて何と読むかとか常に向学心あふれる時間だったような気がする。母とは一度もふたりで風呂には入ったことがないそうで、そのことを最近、母から聞いて、「たったひとつの心残りは、あんたをお風呂にいれてないことだけ」と言われて、その家族の関係とか慣習とかが自然にでてくるんだと感じた。つづく。かな?
2010年08月13日
祖母ツナは72年間(71年間かもしれない)のうち何年間を大連で過ごしたのだろうか?長男又衛が25才か26才で亡くなっているのだからおそらく25年~30年間、大陸で暮らしていたんだと思う。おもしろいのはその間に、ツナを頼って楠久津村からツナの親戚のものたちがたくさん大連へ渡っているという事実である。キンズシのサヨコおばちゃんの若い頃の写真を見せてもらった。満州鉄道で列車の女給さん?ウウェイトレスみたいな仕事をしているモダンなサヨコおばちゃんの姿があった。ほかにも俺の知らない人たちが大連に就職を求めて渡ったそうだ。ツナを頼ってだが仕事を紹介するのは清吉だったそうである。清吉が満鉄の中でどういう役職だったかは知らないが人事に関してもかなり力をもっていたとサヨコおばちゃんは話してくれたことがある。ツナの友達について知ってる限りを書き記す。おタツおばさん。バンシャンハタ(番所ノ端?)の海辺に家があった。おタツおばさんは背が高く大柄な女性だった。ツナよりも年上だったと記憶している。幼い俺をつれておタツおばさんの家にはよくいった。青い火鉢があってその火鉢をはさんでふたりで語り合う午前中。俺は退屈で退屈で火鉢のまわりをうろうろしてやがては「帰ろう、帰ろう」とダダをこねていたのかもしれないがダダをこねた記憶はない。火鉢のそばでミカンをよく食べた。食べ物の記憶って結構残っている。おフミおばさん。有田に住み、有田焼のお店を営んでいた。楠久津の我が家にもよく遊びに来ていた。派手な服装でお金をもっているおばさんのイメージがある。有田焼で儲けていたのだろう。当事は既におフミおばさんの息子たちの代になっていた。大きな家だった。ツナにつれられ泊まりにいってた。秋だったのか、大きな甘い葡萄を食べた。今で言う「巨峰」だったのだろうか?それまでには食べたことない甘くて美味しい葡萄だった。おフミおばさんは金持ちなんだなあ~とこどもごごろに葡萄を食べただけで圧倒されてしまっていた。おキヌおばさん。佐世保に住んでいた。遊びにいった記憶がある。おキヌおばさんはツナの姪にあたるのかな?サヨコおばさんの姉さんだったと思う。昔の人の兄弟姉妹関係は複雑でわかりにくいんだよね。サヨコおばちゃんやミエコねえちゃんとツナとぼくで「山代座」にはよくいった。美空ひばりの道中ものの映画がほとんどで俺はただついていくだけって感じだったが、帰りの夜道の暗さは幼い俺にはスルル満点だった。特に、佐賀銀行楠久支店前の大きな溝が怪獣の口のように不気味で恐ろしかった。ホタルを四軒屋(荒熊稲荷神社のそば)に見に行ったことがある。ホタルを見てみんなが感激の声をあげて喜んでいたが我が家の清吉&比古太手作り露天風呂からホタルなんて日常的に見ていたので俺は感動しなかった。ミエコ姉ちゃんか誰かが田んぼに落ちたことのほうがよほど鮮やかに記憶に残っている。昭和35年前後の頃の出来事である。昭和35年といえば、1960年。ツナ62才か63才。俺5才。父比古太が31才、母千鶴子28才のことである。清吉75才。もっともしあわせな時代だったと思う。テレビも冷蔵庫も掃除機も何もなかった。電気製品はアイロンとラジオだけだった。家族5人の我が家は絵に描いたような昭和を暮らしていた。 当時の頃の様子を思い出して昔、歌を作っている。「風鈴」という歌です。風鈴縁側で 孫ひざにだき おじいさん真っ赤な夕焼け ながめているよかたわらで ウリの皮むく おばあさん甘い香りがしています チリリン チリリン 風鈴なってるよ チリリン チリリン 風鈴なってるよ浴衣着て 庭に水まく おとうさんまだまだ咲かない 月見草なつかしい歌を歌って おかあさん チリリン チリリン 風鈴なってるよ チリリン チリリン 風鈴なってるよ チリリン チリリン 風鈴なってるよ チリリン チリリン 風鈴なってるよ(1977・6・4)
2010年07月31日
清吉が亡くなるまでは二階の天井の低い部屋で清吉とツナの間で寝ていた。祖母ツナがにわとりの卵を売ったお金の収益?をノートに記録していたような気がする。庭には10数羽のニワトリが飼ってあってよくイタチに狙われていたのであわびの貝がニワトリ小屋の周囲にぶらさがっていた。清吉が亡くなったあとは祖母とふたりで寝ていた。祖母の布団の中で掛け算九九を覚えさせられたから小学校1年生のときはかけざん九九は完全にマスターしていた。歌で祖母から習ったのは・・・♪ここは御国の何百里 はなれて遠く満州の~♪と♪柿に赤い花さく いつかのあの家?♪の2曲だった。祖母は「明治31年生まれ」だと語っていたような記憶があるのだがやや曖昧なんだ。明治31年生まれとすると1898年生まれということになる。なくなったのが1969年11月だから1969-1898=7172才(おそらく数え年)だから計算がピッタリ合う。祖母の話で印象に残っていることで誕生日のことがあった。4月に生まれたのだが、なんだか忘れたが経緯があって10月生まれになったと話してくれてたことがあった。「おばあちゃんはふたつの誕生日があるとやね」幼い僕の認識はその程度のものだった・・・。祖母ツナは5人兄弟姉妹の末っ子だったそうだ。これは母千鶴子から聞いた話だ。長男礼造(れいぞう)がいた。漁師だったらしい。礼造の漕ぐ舟で大連に渡ったらしい。二男は幾造(いきぞう)。このおじさんが亡くなった時は祖母の隣ではじめて死人をみて怯えていたことを覚えている。長女はイエ。このイエさんが大連で出産することになったためツナは姉の出産の手伝いをするため大連に渡り清吉と出会うのである。次女トミ。そして5番目が末っ子ツナであり、僕の祖母である。つづく。
2010年07月18日
祖母の話をする。ぼくは祖母に育てられた。かなりの時間を祖母と暮らした。そんな思いがある。1969年11月30日、自宅で亡くなった。中学2年生だったぼくは日曜日だったが文化祭で発表する水質検査の発表準備で学校にいた。昼過ぎ、用務員の先生が、理科室にやってきて「おばあさんが亡くなられたから、帰りなさい」と教えてくださった。ひとりでバスに乗って帰った。親戚が右往左往していて慌ただしかったのでペスをつれて庭の山にのぼってペスを抱いて「おばあちゃん、死んじゃったよ、ペス」といってペスの首を抱いて泣いたことを覚えている。ツナの人生は命日からはじまる。つづく。
2010年07月15日
大連時代の写真はかなりの数が残っている。引き上げの際、親父ががんばって運んだと聞かされている。清吉にとって、1920年前後から1940年くらいまでの20年間は幸福な時代だったのではないだろうか。上のような写真を見ても裕福な幸福そうな家庭に見える。祖父、祖母、伯父、父こうした4人の写真をながめるだけでこの時代に思いをはせてしまう俺がいる。親父から聞いた話をすこし。清吉は骨董品が好きで、親父を連れて中国人の市場みたいなところへ休日出かけたそうだ。清吉は英国風の帽子をかぶり高級なコートを着てステッキを手に持って、実にお洒落だったそうだ。ちなみに引き揚げるときも手にはステッキだけを持ち「何も要らん!」と言って引き揚げてきたそうである。好もしい骨董品をみつけるとステッキの先で「これ」というだけでリヤカーで運搬する人を雇ってその人にどんどん積ませていたそうである。自宅に持って帰り骨董品を洗って干したりするのは親父の役目だったそうである。おれが生まれて7年間祖父清吉と過ごした家は築150年とも200年ともいわれる古い家だったからその時代の祖父からは想像できないのだけど祖父は異常な潔癖症だったらしい。親父によると清吉とふたりでうどん屋にいくのが苦痛だったそうである。なぜかと言うと「比古太!丼に口をつけずに汁を飲め」と言われて閉口したそうである。具体的には、下唇を内側にして下唇の下のところを丼のふちにあてて飲めと言われたそうだが熱くて熱くて、清吉が見てない隙に親父は一気に汁を飲んでいたそうである。そんな幼児期体験の反動からか親父は俺をチャンポンやラーメンを食べに連れて行くたびに清吉の話をしながら、美味しそうに食べて俺には「麺とスープとどちらが値段が高いと思う?」などと問いかけながらスープの最後の一滴まで飲み干すのがラーメンやチャンポンを作ってくれた人に対する正しい生き方だ!とほざいていた。伯父又衛は青島大学医学部を卒業し外科医になった。伯父は26才か25才で亡くなっている(結核により)ので医者としての期間は短かったんだと思う。7才年下の親父は勉強はできなかったのでお金の力で慶応義塾大学の歯学部を卒業して歯科医になるというのが祖母ツナの考えだったそうである。 祖母ツナの夢はあの世界大戦によって粉々に砕かれて生まれ故郷の佐賀県伊万里市で晩年を過ごすことになる。さて、次回からは「ツナの人生」について書こうと思う。つづく。
2010年07月11日
妻と3人の娘を結核という病でなくしたわが祖父清吉。どのような気持ちでその時代を生きていたのだろう。あの優しい祖父のことを知っているだけにこれを書きながら涙があふれてきてとまらない。清吉がなくなってから48年。2010年7月の西国の陽射しは相変わらずまぶしく美しい。話を先にすすめる。年令で計算するとき、ややズレが生じるのは数え年で年令をいってたことによるものなのかもしれないし、単にぼくの認識のちがいかもしれないが細かい数字にはあまり重点をおかないことにする。祖母ツナと祖父清吉が出逢った時期に想いをはせているのだが、1920年前後ということにしよう。祖母ツナについては後日書くのであるが、軽く触れておく。生まれは佐賀県伊万里市。ぼくの生家がある場所が祖父の生まれた地である。そこから何故大連に行ったかというのは母から聞いたのだが祖母の姉が大連で子どもを生むにあたって姉の身の回りの世話のために大連に行ったのだそうだ。交通手段は何か?伊万里市瀬戸町に住み漁師をしていた兄の舟で行ったそうである。あの小さな櫓こぎの舟で行ったことを想像するだけで明治、大正の日本人のたくましさには圧倒されてしまう。どういう形で祖父と祖母が出逢ったかはわからないが母の話によれば祖父が祖母に惚れたということらしい。二人の年は12才か13才はなれていた。上の写真をみると恋愛結婚だったのだろうか?ふたりはすごく似合ってるような気がする。これは孫(僕のこと)の贔屓目なのかもしれないが。そして、清吉とツナの間にふたりの男子が生まれる。長男又衛(またえい)が1922年に生まれ次男比古太(ひこた)が1929年に生まれている。大正時代祖父と祖母は出逢い、結婚し、長男又衛に恵まれ昭和のはじめに次男比古太にも恵まれ幸せな時間だったと想像する。比古太が生まれた年が世界恐慌の年であり、世界はやがて戦争へ戦争へと向かっていくことになる。つづく。
2010年07月09日
祖父清吉の人生は、一旦終えて早く祖母ツナについて書こうと思ったが、やはり、清吉のあらましをここで話してからツナストーリーにいきたい。理由は、祖母ツナが後妻だからだ。清吉が最初の結婚をいつしたか知らない。わかっていることは、最初の奥さんとの間に3人の娘に恵まれたということと、そして、奥さんと3人の娘さんを結核で亡くしたということである。僕はこの事実を父と神戸に行ってはじめて知った。父のいとこにあたるタダシさんが教えてくれた墓に父に連れられていったのである。僕が高校2年生だったから、父は43才だったということになる。墓は小さく苔むしていた。父と僕はその墓の掃除をして手を合わせた。「誰の墓?」「うん・・・」父は少し言葉を選ぶような気配があった。「おじいちゃんの前の奥さんと娘さんの墓だ」「どういうことや?」追求する高校2年生のぼくに父は上のようなことを話してくれた。実は、この話以上のことを父も知らなかったと思われる。最初の奥さんの名前も3人の娘さんの名前も父は知らなかったと思われる。1962年(昭和37年)6月13日。祖父清吉が亡くなった。その時、神戸からは清吉の弟キヨマツさんと妹八重おばさんがやってきた。その八重おばさんが父に言ったそうだ。「比古太、あなた、お兄さんから聞いてるの?」「何をですか?」「ホント、あの兄さんのことだから何も話してないのね」「何も聞いてないです」父が言うに明治男気質の特徴に自分の過去について語り継ぐような慣習はなく卑下した言い方で「山の中の田んぼにあったから山田なんだ」と、素朴に語ってたそうだから父はその通りに受け止めてきてたそうなんだが、八重おばさんによると先祖は熊本県八代の下級武士だったらしく明治になるとどうじに神戸に移って造り酒屋をはじめたそうだ。そこに男子3人、女子1人が生まれた。清吉は4人兄弟妹の次男だったそうだ。酒屋を継ぐ気はなく、弟のキヨマツに酒屋はまかせると言って兄と一緒に満州に渡ったと聞いている。清吉の結婚が神戸時代なのか、満州時代なのか今となっては知る由もない。つづく。
2010年06月23日
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