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千鶴子さんへ母へもうこの3月29日という日は忘れていいのかもしれないあなたには2月15日という新しい誕生日ができたのだからでもね現世に生きる俺にはまだ小さな未練のような日付なんだよ 坂口良子が亡くなったというニュースがとびこんできたテレビには親子で坂口良子が映っていた生きてるじゃないかと思ったらテレビの左上に「追悼 坂口良子」と書いてあるやっぱり本当に亡くなったのか・・・昭和30年31年生まれはやはり同級生というか同志というかそういう感じってあるわけさ浅田美代子アグネスチャン麻丘めぐみ西城秀樹野口五郎郷ひろみ世良まさのり千代の富士江川卓掛布さんままだまだいると思うがやはり同級生が亡くなるのはさびしいものだ坂口良子訃報記事 孫3(3人目の孫という意味)はなんだか俺の小さいときにそっくりなんだ孫娘だから美人になることは間違いないが俺としてはあまり美人になってほしくない
2013年03月29日
千鶴子遺影 2012年3月14日から2012年10月15日までの母の七ヶ月間をここに簡単に記録しておく。2012年(昭和24年)3・14立石医院の医師が僕と直接話したいという電話を母がしてくる。立石医院の西田医師によると腹水がたまっているので総合病院での検査が必要とのこと。福岡市東区の和白病院で検査することを伝え紹介状を書いて頂く。午後、細君と母をむかえにいく。13:00福岡発。15;00楠久津着。18:00福岡着。表情がなかった母が高速でもどってくるうちに少し安心したのか表情がやわらかくなってくる。夕飯をウエストでうどんを食う。細めんのつけ麺うどんを美味しいと食べる。3・15和白病院へ。母、CTの検査後、はじめての点滴を受ける。母が2時間点滴を受けてる間に医師に呼ばれて・卵巣癌の可能性が高いこと・腹水が腹部胸部にたまってがん細胞が播種していること・和白病院には婦人科がないため浜の町病院を紹介するの3点を告げられる。夜母はすこぶる元気に夕食をとりお風呂にもはいる。3・16浜の町病院へ。安永医師から卵巣癌および腹膜癌であることを告げられ1.化学療法(抗がん剤治療)2.緩和ケアのどちらかの選択をせまられる。1の化学療法を選択し、入院が決まる。3・27腹水を抜く。胸部の水も抜き、癒着剤をつめる。3・28化学療法の1回目。3・29母、80歳の誕生日。誕生日プレゼントは昨日の抗がん剤だと言うと笑っていた。看護士さんたちからさまざまなお祝いをしていただく。 4・2伊万里市役所にいき、母の住民移動の手続き。4・3母、福岡の住民となる。介護保険の申請をする。4・42回目の化学療法(抗がん剤治療)4・9ケアプランセンター東部に連絡。介護の準備にはいる。4・18採血の結果、白血球の数値が低く化学療法を見送る。4・20一旦、退院する。4・24再入院。4.252クール目の1回目の科学療法。 5・1さつき(曾孫)誕生。5・7退院。5・11通院抗がん剤治療。2-25・21CT検査。5・25通院抗がん剤治療。3-15・29篠栗南蔵院参拝。 6・4通院抗がん剤治療。3-26・11通院抗がん剤治療。3-36・22二度目の南蔵院参拝。南福岡駅から博多駅まで新幹線にのる。博多駅を散歩。ルクルで帽子、夏用の服を購入。6・25科学療法・4-1伊万里ちゃんぽんを食べる。(金の隈) 7・2科学療法。4-2ルクルにておむれつを食べる。7・4青葉デイサービスとの契約。7・9科学療法スキップ。白血球2100のため。昼、親子丼完食。夜、釜あげうどん完食。河原歯科にて入れ歯の調整をしてもらう。7・10河原歯科で歯全体のそうじ。昼、トリアスで定食。夜、野菜天ぷら定食。食欲旺盛!7・23科学療法・5-1 8・6科学療法。5-2昼、伊万里ちゃんぽん河原歯科で歯のそうじ。8・15ことね(曾孫)誕生。8・208月6日の抗がん剤が効いていないことがわかり入院して、別の抗がん剤に変えることを提案されるが母、入院と抗がん剤を断る。 9・3安永医師に対処療法=緩和ケアについての簡単な話を受ける。(結果的にはこの日が安永医師との最期となる)大久保看護士から詳しく対処療法緩和ケアについての説明を受けて帰る。9・10浜の町病院にぼくひとりで原土井病院への紹介状をもらいにいく。9・14原土井病院へ。山下医師に挨拶しレントゲンを撮ってもらい特に異常は認められないと告げられる。9・21母便秘して食欲がないとのこと。9・25原土井病院へ。レントゲン、CT検査の結果腹水が大量にたまりがん細胞の転移体力の減退のため入院をすすめられる。入院用の靴を買いトリアスで化粧道具を大量に購入。9・26原土井病院東病棟305号室に入院。水を抜いたせいか表情が明るくなっていた。9・27病室から文化幼稚園の運動場がみえ僕の家の前にある緑色の集会所の三角屋根が見えることをすごく喜んでくれる。9・28お月見コンサートに出て、看護師さんとふたりで写真撮影。(これが最期の写真になった)9・30ゆうた家族見舞ってくれる。10・1~10・15までは前回書いたので省略する。10・15午後7時頃 死去。 母よ、このブログ記事が俺のあなたの初七日忌である。心をこめて供養しているつもりだがいかがなものであろうか?
2012年10月22日
親父のときの記録はない。ブログなんてのも知らなかったし記録なんてのを書く余裕もなかったのか・・・おふくろの場合は少し意識してメモ程度の記録を残した。それをここに書き残すことにする。母が入院する頃の記録10月1日(月曜日)朝。母の表情が薄い。言葉数が少ない。視線がうつろ。午後3時。山下医師と面談。病状の進行について。薬が飲めなくなった場合について。食事がとれなくなった場合について。最期のときの対応について。残りの寿命2週間と告げられる。青葉南斎場「彩苑」にいき会員になり葬儀関係資料をもらってくる。10月2日(火曜日)スイミング前に病院へ。表情は比較的おだやか。クロールと平泳ぎの特訓。スイミングをおえて再び病院へ。ソファーで昼寝。夕方細君と彩苑にいく。散髪をする。10月3日(水曜日)夕方玄米ジュースをもっていく。葬式について母と話す。・死に装束について・白い靴下について・位牌について・斎場を決めたことについて・葬式は基本、家族葬にしようということについて夜佐代子オバサン(親戚)と忍おばさん(母の妹)に余命2週間と医師に告げられたことを電話で伝える。10月4日(木曜日)出勤前に病院へ。玄米ジュースを美味しそうに飲む。10月5日(金曜日)佐代子おばさんミエコねえちゃん幾兄ちゃん康子さんが見舞ってくれた。10月6日(土曜日)広島からショウタ(三男)がもどってきてショウタしおりちゃんことねが見舞う。ことね(8月15日誕生)に初対面してすごくよろこんだそうな。10月7日(日曜日)忍おばさんなるみさん見舞ってくれる。ユウタあずさちゃんけいごさつき見舞う。僕は仕事がおそくなり夜見舞えず。10月8日(月曜日)幻聴・幻覚がはじまる。言ってることが意味不明。病院でなく自宅に居るという感覚の話し方。廊下に誰々が来ているなど。10月9日(火曜日)休日。スイミング。クロール背泳午後病院へ。母の病室のソファーで昼寝。「いびきかきよった?」「よ~ねとったね」腹水がたまり苦しそう。夜高木さん(父の友人)から電話。10月10日(水曜日)トイレを汚したと早朝(朝5時頃)細君に電話あり。看護士さんに連絡することにまだ抵抗があるのだろうか?腹水を1リットル抜いたそうで夕方病院にいくとさわやかな表情。10月11日(木曜日)腹水を抜いたことと薬のせいか表情が明るい。だが会話が支離滅裂。テンションが高いのも少し気になる。10月12日(金曜日)病院に母のアルバムと死に装束をもっていく。あと棺にいれてほしいというお寺からのいろんなもの。葬式に飾る写真を既に決めていたが再確認する。はじめて紙オムツをはいて昨夜寝たそうな。10月13日(土曜日)俺の体が疲れて仕事を休む。ずっと寝ていた。母の食欲がなくなった。薬を飲むのが辛そうだ。薬をバリバリ噛んで飲んでいる。飲み込むとき目を閉じて必死の様子。10月14日(日曜日)俺の体がきつい。母も苦しそうだ。薬を飲むとき寝ながら飲む。スプーンで砕いて飲ませるが全部飲むことができなかった。俺達が帰る前にトイレにいきそれから歯を磨く母。10月15日(月曜日)朝、9時半母の年金を銀行からおろす。聴力検査のためすが耳鼻咽喉科医院にいく。右の聴力は絶望的状態。左の耳も徐々に聴力が落ちていくとのこと。昼山下医師と廊下で立ち話。「あとどれくらいですか?」「2,3日だと思います」「苦しそうだからなんとかやわらげてください」「わかりました」その後母の病室で「ボブ・ディランを語りつくせ」を読みながら昼寝。午後4時半目覚める。母は静かに眠っていた。看護士さんがきたので「母が眠っているので自宅に戻ってまたきます」「わかりました」帰ろうとすると眠っていると思っていた母が右手を左右にふる。「おきとったと?ねとるておもったけん一度帰るね」母、軽くうなずく。夕食にカレーを食べ6時半細君と病院へ。母、右向きに寝て目を閉じて呼吸が夕方とはちがっていた。明日、あさってには最期のときがくるかもしれないと思いながら「また、明日の朝、来るけん」と言って病室をでる。ふりかえると妻が母の手を握りなでながら「明日また来ます」と言ってた。病院からジャスコへいく途中香椎のところで携帯がなる。病院からであった。「血圧が急にさがり危険な状態になりました」「危篤状態ということですか?」「はい」「あとどれくらいでしょうか?」「2,3時間だと思います」「わかりました。すぐ病院にいきます」「どれくらいで来られますか?」「20分くらいで来ます」病院に着いたのは7時半。細君が病室に先に入ったが俺が入ると声を出して泣いている。看護士さんの話だと電話をしている間に亡くなったそうだ。やすらかな表情で眠っている母に「よくがんばったね。ありがとうね」と言ったと思う。7時55分当直の医師がきて志望を確認する。志望時刻は7時55分なったが実際に亡くなったのは7時10分~7時15分頃だと思う。母、死去。享年81歳。おかあちゃん、よくがんばったね。おかあちゃん、おれをうんでくれてありがとう!再見! 「み」さんの写真より
2012年10月19日
親が死ぬまでにしたい55のことという本を読んだ。深い意味はないけど読んでおふくろのことおやじのことじぶんのことむすこたちのことあれこれ考えさせられたんだ。
2011年02月27日
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