出羽の国、エミシの国 ブログ

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2016年11月07日
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 1863/5/15(文3/3/28)、浪士組が攘夷実行のために約50日ぶりに江戸に戻ってきた時、江戸は大騒ぎになっていた。


 「1863/4/22 (文3/3/5) に、イギリス国軍艦数隻が来航し、幕府は応接の様子によっては開戦する可能性があるという内容で、大名・旗本へ触れが出された。・・・12日になるとさらに、女・子供・老人や病人は勝手次第に避難するように命じられた」(幕末御触書集成/幕末日本と対外戦争の危機/ 保谷徹)
 「文久3年には、前年の生麦事件の処理が紛糾したため臨戦態勢がとられ、江戸では老幼女子や病人を近郊に疎開させるために混乱し、物価はさらに上昇した。」(東京の歴史/山川出版社)

 イギリス軍艦3隻(ユーライアス号、ラットラー号、レースホース号)が横浜港へ来航したのは、2か月前の1863/3/22(文3/2/4)。幕府と薩摩藩の双方に対して、生麦事件での犯人の処罰、賠償などの要求とそのための圧力をかけることが目的だった。ホープ提案によるラッセル(外相)訓令が文3/1/25に到着していて、イギリスは江戸湾と瀬戸内海を海上封鎖する作戦を練り、いつでも発動できるものにしていた。

「この頃、外国の新聞では、対日戦争必至の記事がとびかうようになる・・・、タイムズ紙も“だれもが戦争になるにちがいないと思っていた・・・”」(国際ニュース事典 外国新聞に見る日本/内川芳美・宮地正人監修)。
 八郎が亡くなる直前に書いた実家への手紙にも、“遠からず戦争になるでしょう”とあり、この時期の緊迫した様子が読みとれる。

 八郎の 文3/3/9の池田修理宛ての手紙では、「幕府から(全国へ)攘夷の号令をさせる」というのだから、具体的なイギリスとの戦争を想定していたようだ。その後に起こるかもしれないイギリス国との戦争をどのようにしようとしていたかの詳細は不明だが、父への手紙に書いている「戦争」はイギリス兵とその軍艦との戦争だ。
現在で考えれば無謀な計画にも思えるが、なにか考えのあってのことなのだろう。幕府は結果的にはこの行動を阻止することになるが、八郎たちの計画は下関戦争や薩英戦争に魁ける計画だった。


 浪士組が京都に向かい江戸を出発したのは 1863/3/26 (文3/ 2/ 8)なので、イギリス艦隊の横浜来航のわずか4日後。このような緊急の情報は早く伝わるものなので時期から考えて八郎が江戸を発つ前、すでにこのイギリス艦隊の横浜来航を知っていたとしても何ら不思議ではない。江戸が緊迫している中、浪士組は京都へ向かった。

 以前、『父への手紙に「4月はじめにまたまた江戸に帰り申すべく候」とあることについて、京都に来たばかりの浪士組を八郎は1か月あまりで江戸に引き返させるつもり(自分たちの意志で江戸へ戻ることを計画)でいた・・・』と、書き、江戸へのトンボ帰りを不思議に思ったのだが、イギリス艦隊を狙うのがその理由・・・と考えれば、謎が解ける。八郎が”新徳寺の演説”で、焦りがあったのではないかと考えたことについても、「イギリス艦隊の来航により、早く江戸に戻り攘夷をしなければと思う焦り」とすればより理解が深まるようだ。


 とにかく江戸は戦争に備え、緊迫していた。一部の外国人の傲慢なふるまいに対する怒りもあり、闘志が満ち国を護ろうという気風が張り始めた時期だったという。そこへ浪士組が攘夷の勅命を受けて戻ってきたのだから、江戸の人々は浪士組をたのもしく思っただろう。
 八郎の父母への手紙によれば、浪士組は“評判”になり本人自身も当惑するほどだった。“(八郎たちの)名声がとても高まり立場も重きをおくように”になった、と書き残している。江戸の町の人々はみんな攘夷を待ち望んでいたにちがいない。

 八郎は当初、幕府との(幕府と共同の)攘夷を画策したとされる。しかし、幕府が破約攘夷(生麦償金拒絶による開戦)に踏み切らないことに失望し、横浜でのイギリス艦隊(後に薩英戦争に参加する3隻)と夷人館焼打ちの攘夷を計画した。
 なぜ、横浜(軍艦と外国人居留地)焼打ちなのかといえば、生麦事件があったことと、当時 孝明天皇が横浜鎖港を希望し、徳川慶喜が朝廷(実際は京都公家たち)に横浜鎖港(港の閉鎖)を確約していたこと(文2/5月)が関係するのだろう。

 浪士組での横浜焼打ちは、軍艦が標的に加わり 1861/6月(文元/5月中頃)以来2年ぶり2度目の計画だった。
 江戸では、浪士組が京都にいる間 、浪士の追加募集がなされ160名が参集していた。浪士組は総勢500人規模に拡大する予定で、攘夷のための軍資金も自分たちで準備した。実行は、1863/6/1 (文3/4/15)を予定日とし、5日前(文3/4/10)に横浜へ下見にも行っている。攘夷は時間の問題だった。

 八郎は京都にいる時から命を狙われていたが、運も見方し難を逃れられていた。幕府組織下の浪士組が、イギリスを攻撃するということは幕府にとっては一大事だ。攘夷計画の情報がどのようにして幕府に漏れたのかはわからないが、幕府は八郎の暗殺(だまし討ち)の指令を 文3/4/7 と4/12の2回に渡り出した。

 攘夷実行予定の2日前の、4月13日の夕方の4時ごろ、八郎は、用事をすませ 麻布上山藩(松平家)邸を出た。麻布十番通りの(古川へかかる)“一の橋”を(西から東へ)渡り終わった辺りで、浪士組の佐々木只三郎ほか6人に 前後挟み打ちで切り付けられて生涯を閉じた。34歳だった。
 暗殺犯の6人とは、佐々木只三郎、早見又四郎、窪田千太郎、中山周助、高久安次郎、家永某。八郎1人に対して6人もの刺客が立ちはだかった。かなり大がかりに感じられそこからは八郎の剣術を相当警戒していた様子が見てとれる。いつもは連れ添っていたとされる護衛5人はこの時はいなかった。


 八郎の大きなの謎の1つについて触れたい。京都ではまっしぐらに攘夷運動を進めたと思われる八郎だったが江戸に戻ってからは攘夷に消極的になったと考えられている。これはこれまでのスピード感ある行動との違いから多くの人の理解をむずかしくさせ悩せてきた。早すぎる行動のためにコンセンサス(一致した意見)が不十分になり反動も生まれたのだろう。私はこれを八郎が時代を先駆けながら現実的に行動していたために起こった情報の交錯による自然の成り行きだったと考える。

 八郎の死後、結果的に歴史は八郎が予想していた形に近い内容で進む。八郎が直面し抱えた悩みと八郎の死後の日本の悩みは同質のもので幕末当時の誰もが(国も含めて)乗り越えなければならない試練のようなものだったと思えてならない。これはこのテーマのジレンマの要因でもある。

 八郎は江戸に返ってから悩ませたもの、八郎の行動を自制させたもの、攘夷を躊躇させた誤算や修正が必要になった理由を考えてみたい。
・勅諚(攘夷の命令の原本)が鵜殿に渡って八郎の元に帰ってこなかったこと。
・横浜の港と町の急速な発展(攘夷計画1回目と2回目の2年間で変わった町の将来性)。
・幕府の方針転換(攘夷に対する動向の変化)
 (文3/3/19: 幕府は”攘夷の勅”を奉戴することを全国に布告)
 (文3/4/ 1: 朝廷から幕府に、外国応接の事を水戸の徳川慶篤に委任させた)
 (文3/4/10: 攘夷の期限を文3/5/10 とすべき旨(攘夷実行の約束日)を諸藩に布告させた)・・・など。
・想定外のイギリス軍他 各国の兵力規模。
・長州藩との攘夷の連係の画策。
 そのほか、亡くなる直前に残した句が辞世の句に近い内容だったことなど、八郎の暗殺はまだまだ解明されていない謎が多い。

 これまで見てきたように八郎の行動は、幼少から成長する段階での厳しい体験や経験がその土台にあった。天保の清川の悲劇や、庄内藩天保国替騒動(三方領地替)の一揆、藤本鉄石の諸国行脚などその手法も含め多くを学んだ。江戸に行き千葉道場(北辰一刀流)で鍛錬し、東条塾でも学び人脈もつくった。自分で江戸で唯一の文武両道の塾も開いた。八郎の並々ならぬ努力と人生を通じて出会った人達の輪が八郎を幕末維新の魁けに・・・と思う。

 元清河八郎記念館館長の成沢米三さんは、八郎について書いた著書に「明治維新に火をつけた男」という復題をつけた。藤沢周平の「回天の門」では、八郎は「回天の門を開いた人」、という意味に取れる。革命家という意味もある。これらの言葉が八郎の業績と時代の役割を端的に現わしている。
(敬称略)


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 ※このつづき、"清河八郎編"はこちらの本でまとめてご覧になれます。
👉 出羽庄内 幕末のジレンマ(1)(清河八郎 編) Kindle版
 ※"清川口戦争/戊辰戦争編"はこちらの本でまとめてご覧になれます。
👉 出羽庄内 幕末のジレンマ(2)(清川口戦争/戊辰戦争編) Kindle版





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最終更新日  2024年09月16日 17時30分29秒
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