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「ザ・タワー横須賀中央」 2015年11月に竣工した38階建ての居住棟。 低層階は商業施設になっていて「LIDRE(リドレ)」と名づけられています。 集客力の低下を回復させる「起爆剤」として期待されていましたが飲食店と医療関係のみでは集客は見込まれないと思います。
2024/12/01
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女坂 男坂不入斗(いりやまず)の「はまゆう公園」 戦後、旧陸軍病院跡地に整備されその後、関東学院のグラウンドとして使用されていたようですが1988(昭和63)年にサッカー場が完成し、はまゆう公園となっています。
2024/11/30
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「フェンダー」横須賀本港アメリカ艦船用の巨大なフェンダー(クッション)
2024/11/29
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「不入斗(いりやまず)公園」 面積16.3ha(東京ドームのおよそ3.5個分)の総合運動公園でメインアリーナ(体育館)、サブアリーナ(温水プール、体育館)陸上競技場、野球場2面、弓道場、テニスコート8面児童公園があります。 ここはかつて横須賀重砲兵連隊の練兵場があった場所です。 この辺り一帯には当時植えられたと思われるけやきがたくさんあります。直径数十センチの大木がおそらく100単位であると思います。
2024/11/28
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1866(慶応2)年頃 「横須賀村」現在の汐留付近だと思います。 明治初期 「横須賀湊」田浦あたりでしょうか。 大正中期 「諏訪公園付近からの街並み」手前のあたりがどぶ板だと思います。左下の方に見えるのが本町通りで左上は現在のアメリカ海軍基地になると思います。右上に軍艦が見えます。 大正中期 「大滝町通り周辺」現在の横須賀中央大通り。左の大きな建物は横須賀郵便局だそうです。郵便局は関東大震災で消失し現在地に移転したようです。自動車はまだ写っていません。 大正末期から昭和初期 「若松町から大滝町方面を望む」となっていますが逆方向ではないかと思います。大滝町さいか屋方面から若松町を見て正面が龍本寺の山だと思います。突き当たり右が現在の横須賀中央駅のあたりです。関東大震災のあと道幅が12間(約22m)に広げられています。 大正末期から昭和初期 「旧海軍鎮守府の周辺」旧・横須賀鎮守府は現在アメリカ海軍司令部で基地の中にあります。この風景が基地に近い本町付近だとは思えずよくよく見たのですがこれは龍本寺の山の上から撮った若松町付近ではないかと思います。左が中央大通りで手前の道を左に曲がったあたりが現在の横須賀中央駅前付近右上の建物は警察署だと思います。 昭和初期 「若松町~大滝町パレードの様子」昭和天皇即位のパレードでしょうか。 昭和初期 「三笠通り周辺」右は大通りで左の細い道が現在の三笠通りです。大通りはかつて「東郷(平八郎)通り」という名だったようです。 1933(昭和8)年頃 「横須賀中央駅付近」平坂側から大通りを見ています。中央にバスが止まっています。 1956(昭和31)年頃 「横須賀中央駅付近」駅前です。ロータリーがあり右上が米が浜方面、左がさいか屋方面。 1968(昭和43)年頃 「大滝町周辺」右が西友、この一帯が「LIDRE(リドレ)」という高層ビルになっています。左の細長い建物が三笠ビル。右奥がさいか屋。 2012(平成24)年 「横須賀中央駅より大滝町方面を望む」 駅前のデッキから撮影された現在の横須賀中央大通りです。
2024/11/27
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1876(明治9)年に撮影された「横須賀造船所」の全景 現在の横須賀本港の米軍基地側になります。 幕末、ここにフランスの援助で製鉄所が造られ1871(明治4)年に造船所となり、やがて海軍工廠(こうしょう)となって行きます。 全景の右に写っている船台と造船小屋(中央) ここで数多くの軍艦が建造され、進水式は天皇が行幸することが多く多数の招待者から一般庶民まで数万人が見学する一大イベントであったようです。 全景左手のドライドック 写真右が1871(明治4)年に完成した日本初の1号ドックです。左側建物の間に見えるのは3号ドックだと思います。 2号ドックはこの時点ではまだ造られていません。のちに1号と3号の間に建設されます。
2024/11/26
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上町(うわまち)の「中里神社」 この辺りはかつて中里という地名でした。 社殿右側に俳額があります。 松竹庵梅月を中心とする好風会が奉納したようですが文字はまったく読み取れません。 梅月は芭蕉の作風を受け継いだ俳人で全国に数千人の弟子がいたようです。
2024/11/25
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「パンジー」種まきからひと月半「種まき」この辺りでは9月に種を蒔きますが今年は暑かったので気温が少し下がった10月初めまで待ちました。
2024/11/24
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「米が浜(よねがはま)通り」 昔ながらの専門店が並びますがシャッターを下ろした店も少なくありません。
2024/11/23
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「安浦町埋地殉難者供養塔」 明治の末、地元有力者らによってこの地の埋め立てが始まりますが工事は難航を極め、資金も行き詰まってしまいます。 そのため埋立権を安田保善社(のちの安田財閥)に買い取ってもらいます。 完成したのは1922(大正11)年安田の「安」と港の意味の「浦」を合わせて「安浦」と名付けられました。 この工事で亡くなった17人の供養のため1925(大正14)年に建立されたそうです。
2024/11/22
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「御幸(みゆき)橋」 京急汐入駅付近にある「御幸橋」の親柱。おそらくレプリカだと思います。 1889(明治22)年、横須賀線開通以来天皇が横須賀造船所の進水式の折たびたび横須賀に行幸しお通りになったのでこの名がついたようです。 記録には「御料ノ馬車(天皇がお乗りになる馬車)ニ移ラセラレ 停車場(横須賀駅)ヲ御発御順序ナル湊町通リ左ヘ幸橋(御幸橋)ヨリ汐留及ビ元町通リ左ヘ鎮守府ニ御着」 と記されているそうです。
2024/11/21
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汐入の「横須賀芸術劇場」タワーは「メルキュールホテル」
2024/11/20
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「イチョウ」
2024/11/19
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「小川町」 横須賀市の市街地のほとんどは埋め立て地に広がっています。小川町もそのひとつです。 この地の埋め立てを主唱したのが「小川茂周(しげちか)」。 小川茂周は大津・池田の有力農民の子として1835(天保6)年に生まれました。 13歳で名主見習いとなり以後、名主など公職を歴任し三浦半島のリーダーとして活躍します。 明治維新後も戸長、区長となり1878(明治11)年、初代の三浦郡長に就任しました。 小川町の名は小川茂周の名前から名付けられました。 大津・信誠寺(しんじょうじ)にある「小川茂周(しげちか)の墓」
2024/11/18
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横須賀中央「千日通り」夜になると活気が出る通りです。
2024/11/17
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「平坂(ひらさか)」横須賀中央駅付近と上町(うわまち)を結ぶ坂。 明治初期、横須賀の中心は軍港のある汐入周辺でしたが軍港の発展とともに人口が増え上町方面にも住宅が建てられるようになります。 しかし汐入方面からつながる山道(浦賀道)しかなかったので1877(明治10)年、平坂の開削が行われその後拡張され現在のようになっています。 坂の下はかつて海で埋立が行われています。 上町の山側、深田台では縄文時代の貝塚が発見され戦後調査した結果、およそ9000年前の人骨がほぼ完全な形で出土しています。 「平坂人」とよばれ当時日本最古の人骨として注目されたそうです。
2024/11/16
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京浜急行横須賀中央駅前の「若松町」 鴨居(かもい)にあった会津藩の陣屋の世話をしていた豪商・高橋勝七氏が1867(慶応3)年から私財を投じて埋め立てをしました。 若松町は高橋家の屋号「若松屋」から名付けられています。 高橋勝七氏は第五代浦賀町長や郡会議長などを歴任し1904(明治37)年、衆議院議員になっています。 浦賀銀行などの取締役も務め横須賀の政治・経済界で活躍しました。 現在も鴨居に高橋家のお屋敷があります。
2024/11/15
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京急「横須賀中央駅」 前後がトンネルになっています。 1930(昭和5)年、湘南電気鉄道の黄金町 - 浦賀間の駅として開業しました。 駅メロディは山口百恵の「横須賀ストーリー」
2024/11/14
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京急「横須賀中央駅」 1930(昭和5)年京浜急行の前身である湘南電気鉄道の駅として開業しました。 この周辺を「中央」と呼んでいます。
2024/11/13
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旧陸軍の「横須賀重砲兵連隊営門」 1890(明治23)年、要塞砲兵第一連隊として設置され以後数度の組織改編を経て1920(大正9)年、横須賀重砲兵連隊となっています。 塀は1891(明治24)年、門柱は1907(明治40)年竣工と推定されています。 現在は坂本にある坂本中学校と桜小学校の門として使われています。 短辺の列、長辺の列と積み上げていくイギリス積み。
2024/11/12
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緑ヶ丘の「良長院(りょうちょういん)」 もとは泊浦(現在のアメリカ海軍基地内)にありましたが海軍用地となったため現在地に移されました。 良長院に安置されている薬師如来像は三浦半島唯一の鉄製鋳造の像で室町時代の作と考えられています。
2024/11/11
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原木栽培の椎茸菌種「森290号 通称・ニクマル」
2024/11/10
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「サクラ」
2024/11/09
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汐入の「子之(ねの)神社」 もとは楠ヶ浦(くすがうら)の波島(なみしま)(現・アメリカ海軍横須賀基地)にありましたが、海軍用地になったため1884(明治17)年、現在の汐入郵便局裏の通称子之神山に社殿を移しました。 しかし再び一部が海軍用地になったため1898(明治31)年汐入町四丁目の現在地に移されています。
2024/11/08
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JR「横須賀駅前」 ここは市街地からかなり離れたところになります。 上の道路は1992(平成4)年に開通した「本町山中有料道路」 横浜横須賀道路、横須賀ICに直結しています。 横須賀駅付近はかなりの急勾配です。
2024/11/07
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「酉の市」
2024/11/06
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「JR横須賀駅」JR横須賀駅
2024/11/05
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「石碑」旧陸軍の横須賀重砲兵連隊跡は現在、坂本学校群になっていてそのひとつ横須賀市立桜小学校の一角に石碑が二基建てられています。左が「誠心山之碑」右が「横須賀重砲兵聯隊跡」 「誠心山(せいしんやま)之碑」はかつて連隊の敷地内に誠心山という人工の山が営門を入った左手現在の聖佳幼稚園のあたりにあったようです。 前面には誠心山の由来が書かれています。「誠の心をもって事に当たりなさい」「この山は自らを省みる場所とする」「よってこの山を誠心山と名付ける」大正期の難解な文章ですがこのような内容のようです。 裏面は構築記録。「大正十三年、関東大震災の復興のために生じた余剰を利用し」「樹木は管内、練兵場から移植」「公務以外の時間に」「のべ2000人を要した」ということです。 誠心山にあったこの石碑が後にここに移設されました。 「横須賀重砲兵聯隊跡」の裏面には「嗚呼横重」という詩があります。「鎌倉山の星月夜 衣笠城址の蝉時雨 山河に残る英雄の 感化は如何で浅からん 桜花の春の競技会 紅葉の秋の裾野原」連隊の歌なのでしょうか。 そして創設から終戦までの歴史が刻まれています。昭和四十六年四月とあります。
2024/11/04
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坂本中学校不入斗中学校 桜小学校「坂本学校群」 旧陸軍横須賀重砲兵連隊跡地。 上から1947(昭和22)年創立の坂本中学校同、不入斗(いりやまず)中学校 1999(平成11)年、坂本小学校と青葉小学校が統合し開校した桜小学校。 そして2007(平成19)年に閉校した桜台中学校の校舎は坂本中学校が使用しています。
2024/11/03
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護衛艦 「いかづち」
2024/11/02
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「カモ」 くちばしの黄色の部分を正面から見ると犬の顔に見えるとか・・
2024/11/01
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「イナダ」以前うみかぜ公園で釣ったイナダ。ブリの幼魚で大きくなるとハマチとかワラサと呼ばれます。
2024/10/31
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ヨコスカジャンパー、通称「スカジャン」 戦後米軍兵士たちが自分のジャケットにエンブレムや和風の刺しゅうをしてもらったのが始まりといいやがて米軍兵士がパラシュートの生地(絹)を持ち込みジャンパーに仕立て刺しゅうを施したものになったようです。 アメリカ人や市外からの観光客などが買うようです。 デザインを持ち込むこともできるそうです。横須賀ではスカジャンを着た人を見たことがありません。
2024/10/30
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「HONCH」 アメリカ海軍基地のメインゲート前の本町周辺。 「どぶ板」と呼ばれる本町あたりをアメリカ人は「ホンチ」と呼ぶそうです。
2024/10/29
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「ベース」アメリカ海軍横須賀基地の正面ゲート この先はカリフォルニア州サンフランシスコ。 地元では「ベース」と呼んでいます。 横須賀の市街地より遥かに広い面積を専有しています。 人口約2万人、住居、商業施設、映画館やボーリング場プールやフットボール場などの娯楽施設病院、銀行、郵便局、学校など生活に必要な施設はすべて揃っています。 食料はアメリカから供給されます。
2024/10/28
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「農夫」
2024/10/27
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「秋色」
2024/10/26
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イージスシステム搭載護衛艦 「きりしま」
2024/10/25
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「戦艦陸奥主砲」旧日本海軍戦艦陸奥の主砲。長さ18.8m、重さ102トン。横須賀海軍工廠で1921年に建造されその後大改修の際積まれたそうです。しかし瀬戸内海で原因不明の爆発で沈没70年代に引き上げられお台場の船の科学館で展示されていましたが東京五輪に向けた再開発のため無償譲渡されたそうです。
2024/10/24
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逸見(へみ)の「ウェルシティ公園」公園の周囲には横須賀市内で実際に使われていた水道資材が設置されています。 消火栓の蓋が三枚組み合わされています。中にライトが埋め込まれ間接照明になっています。 「消火栓」 「海軍マーク」や「大正五年」「昭和七年」などの文字が見えます。横須賀の水道は明治初期に始まり、国内でも早期の近代水道施設です。ウェルシティ公園は「展示」されているものですが旧軍港周辺には「消火栓」や「止水栓」などが当時のまま残されているところがあるようです。
2024/10/23
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JR横須賀駅近くの「横須賀踏切」 横須賀線、横須賀駅~久里浜駅間は終戦間際の1944(昭和19)年久里浜に軍の施設が多く造られたため急遽敷設されました。 横須賀の市街地を迂回するルートになっています。 この区間は単線になります。 東海道線丹那トンネル開通によって本線からはずれた御殿場線を単線化しそのレールを転用したそうです。
2024/10/22
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佐野の「永島家長屋門」 江戸時代末期の建築と推定され「黒門」と呼ばれています。 現在「佐野天然温泉 湯処 のぼり雲」の出入り口として使われています。 施設整備のため本来の位置より数メートル曳き家されたそうです。 その際礎石は再用できなかったので門の作庭の石として残されています。 先祖は三浦大介義明で安浦の「永嶋家(赤門)」とは親戚になります。 門前の道路は旧三崎街道。
2024/10/21
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安浦町「永嶋家の長屋門」朱塗りであることから「赤門」と呼ばれています。 長屋門は上級武家の門ですが特に功労のあった家は簡素な門の建築が許されました。 永嶋家は戦国時代、小田原北条氏の支配下にあり浜代官を務め江戸時代には三浦郡の総名主を務めた家柄です。 島崎藤村の「夜明け前」に「山下家」として登場しています。 永嶋家は三浦氏の子孫と言われ、藤村の先祖も三浦氏であることから1929(昭和4)年ここを訪れています。 門前は浦賀道で明治末まで海に面した景勝の街道であったといいます。 門の右手にある榜示杭(ぼうじぐい・ほうじくい-石柱の道標)が当時を物語っています。
2024/10/20
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田戸台の「聖徳寺(しょうとくじ)」 1353年(文和2年)、楠木正徳(正成の子孫)の創建と伝えられます。 新田義貞の鎌倉攻めに加担した大田和義勝(おおたわ・よしかつ 三浦一族)の子大多和義政が現・安浦町に住み、永嶋と名を改めます。 この人が赤門のある永嶋家の先祖と伝えられています。 後に永嶋義政の妹と楠木正徳が夫婦になりますが永嶋義政には子がなかったので楠木正徳が永嶋家を継ぐことになります。
2024/10/19
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「漁船」東京湾横須賀沖で操業中の漁船 網を曳いています。 円すい形の黒い形象物は「漁労中」を示しています。
2024/10/18
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本町の「明治天皇横須賀行在所(あんざいしょ)入口」の石柱。 どぶ板通りを横切り階段を上って行きます。 横須賀幼稚園の園庭の前に「明治天皇横須賀行在所阯」があります。 行在所は天皇が行幸の際、宿泊、休憩した場所です。 ここは横須賀造船所の向かいにあったので向山(むこうやま)と呼ばれたそうです。 1933(昭和8)年に国指定の史跡となり1936(昭和11)年にこのことを記した碑が建立されました。 敷地は御影石の柵柱で囲まれ、かつては鉄パイプの柵と門扉が付けられていたことが分かります。 自然石には「聖蹟」と刻まれています。神聖な史跡ということのようです。 史跡指定は戦後、1948(昭和23)年に解除されています。
2024/10/17
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「延命地蔵尊」 現在の汐入付近を通る江戸時代の「うらが道」は海沿いの険しい道だったようです。 そこで下町(横須賀中央方面)とを結ぶ素掘りのトンネルが造られますがたびたび落盤事故を起こしたため安全を祈念し地蔵を祀ったそうです。 トンネルの入り口にあったことから「洞ノ口(どうのくち)地蔵尊」と呼ばれたようです。 その後、家内安全、商売繁盛、延命長寿などを祈願する人が多くなり「延命地蔵尊」と呼ばれるようになったそうです。 1923(大正12)年、関東大震災の直後どぶ板通りに移されています。 いつでも線香の香りが漂い、前を通る人が手を合わせる姿を見かけます。
2024/10/16
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不入斗(いりやまず)の「御嶽(みたけ)神社」 かつてはラッパ山と呼ばれる小高い丘の上にあったようですが陸軍練兵場の造成にあたり上から見下ろせるのは良くないとの理由から現在の平地に移設されました。
2024/10/15
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「潜水艦」
2024/10/14
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「不入斗橋(いりやまずばし)」 横須賀中央から三崎街道を少し行ったところに 「不入斗橋」というバス停があります。 しかし、橋はどこにもありません。 1929(昭和4)年の地図には写真左奥不入斗方向から流れてくる川が道路右側に描かれています。 そして手前のあたりのどこかに不入斗橋があったのではないでしょうか。 その後、道路の造成とともに川は地下に埋められ道路をくぐり、この車止めのあたりで半分むき出しになった土管を出て再び川となったのではないかと想像します。 川は1969(昭和44)年から1973(昭和48)年まで暗渠化の工事が行われそれによってこの不自然に始まる道ができたのではないでしょうか。 先に進むと時折、水の流れる音が聞こえてきます。 そして、地図にも記されている稲荷神社 柏木田(かしきだ)町内会館の裏手あたりで富士見町、上町(うわまち)方向から流れてくる川と合流します。 それがおそらくこの辺りだと思われます。 左が不入斗方面、右が富士見町、上町方面になります。
2024/10/13
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