街を歩いていたら信号の柱の影に背を丸めたみすぼらしい男がいた。きたないボロ着を重ね着し、髪もヒゲも伸び放題だった。
かかわりあう必要も無いから、無視して歩いていくと、男のほうから声をかけてきた。
「すまんが、夕飯代を恵んでもらえねえか?」
だまって通り過ぎようとすると、
「俺のことは忘れたかね、○○さん」と、名前を呼んできた。
立ち止まり、近づいてきた男の顔を見ると確かに見覚えがあった。
数年前、一緒によく酒を飲んだ小さな会社の社長だった男だ。そういえば、会社はつぶれたと聞いたことがある。
「ああ、信じられない。あんなに立派だったのに。生活に困っているようですね」と言うと、
「いいや、こんな不景気だ。あんたのように成功しているほうが珍しいんだよ。ところで、何も食ってないんだ。むかしのよしみで三千円でいいんだ、恵んでくれ」
「分かりました」私は財布を出し、中から一万円札を引っ張り出した「これで、がんばってください」。
男に金を渡そうと、その眼を見たとき昔を思い出した「ちゃんと食べてくださいね。好きなワインなんか買っちゃダメですよ」。この男、当時、結構羽振りがよく、高級ワインを飲みながら競走馬の話なんかをするのが好きだったのを思い出した。
「ははは、ワインかあ、なつかしいな。でも、心配はいらねえ。酒なんてもう何年も一滴だって飲んじゃいないんだ」と言いながら男は頭を掻いた。フケが舞い上がった。
「そうですか、でも、これをギャンブルで増やそうとするんじゃないでしょうね」
「そんな無駄なことする訳ないじゃねえか。俺はずっと生きるのに必死なんだ。賭け事なんて大昔の思い出だ」とさらに頭を掻いた。皮膚病なのだろう。
「ワインも競馬もやめてしまったんですね。大変だったんですね。ん、そうか、あれでしょう。この金をわたしたら、女を買いにいくつもりでしょう」
「何言ってんだ。こんな格好でどこへ行けるって言うんだ。女なんてとっくに卒業した。俺はただ腹が減ってるんだ。それ以外は生きるために必要ねえんだ」
私は少し考えた。そして、手の一万円札を再び財布に戻しながら男に言った「そうですか、じゃあ、この金をあげるのはやめておきます。そのかわり、これからあなたをレストランへ連れて行っておいしいものをご馳走することにしましょう」
男はそれを聞いて明らかにうろたえていた「馬鹿なことを言うな。俺は、安いパンやラーメンで生きていけるんだ。だいたい、この格好で入れるレストランがあるもんか」
「いいえ、実は今夜はこれから、そこのフランス料理屋で妻と二人で特別な食事を取ることになっているんです。今日は私の誕生日のお祝いで、貸し切りにしてあるから心配はいらないんです」
「ああ、何てことだ。お前のような素晴らしい人間に会ったことが無い。だけど、お前の奥さんは本当に大丈夫なのか、だって俺はこんなにみすぼらしくて、不潔だし、ひどい臭いがするし」
「つまり…、そこが重要なんです。あなたには、今ここで私に言ったのと同じことを私の妻にも言ってほしいんです…。そうすれば私のうるさい妻にもやっと理解できるはずだ。男が、酒と賭け事と女をやめると一体どういうことになっちまうかがね」