やきもの屋のくらし1~3



ひとりでできるベンチャービジネス。
陶芸家になりたいあなたは必読。『やきもの屋のくらし1~3』

うん、陶芸家はいいよ、ひとりでできるもん。
だいたいヒトと合わすのニガテですね、ぼくなんかも。
合わすとなったらテッテイ的に合わしてしまうねんけど、実はわがまま。
わがままモンにはぴったりの職業です。だれの云うことも聞かんでエエもん。
ひとりで作って、それを売ってごはんが食べられれば、こんなエエ職業ないね。まあお店とのおつきあいとかになると・・・苦労はおんなしかな。
でも何にもないところから器や花器の完成まで、ひとりでできるもん。

さてそれなりのムツカシさもふくめて、ひとつの事例を報告しましょう。
瀬戸市でやってるKさんのバヤイ はじまりはじまり~


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やきもの屋のくらし1 

ことしの夏も京都山科の清水焼団地の陶器祭に参加しました。
瀬戸でやってるKさんとテントを分け合ってます。

7/18陶器まつり初日の昼ごろ、Kさんの携帯が鳴り、
ちょっと切迫した調子と安堵のトーンが聞き取れた。
彼のはじめての子供が生まれたと云う連絡だった。

Kさん37才、奥さん32才、ともに陶芸家。1年前から瀬戸在住。
8月初めが予定日だったが、川添さんが午前4時に瀬戸から京都山科にむけて
出発するころ、破水/出血、病院に向かうという連絡が奥さんの実家から・・・

暑い京都の夏、汗みずくで10時から来られるお客さんに自作を買ってもらうための展示準備をしているあいだも奥さんと子供のことを心配してた・・・。

帝王切開、母子ともに健全。男子出生。

「オメデトー、団地の陶器祭初日に生まれたんやから
 名前は 団一クン やねー」

まわりはみんな無責任な命名をしてました。
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やきもの屋のくらし2

京都山科清水焼団地の陶器祭の初日に長男が生まれたKさんとは
おととしの信楽陶器祭で知り合いました。となりのテント。

独学でやってきて灯油窯(薪併用)での炭化焼成の黒いものが主体。
モノと値付けがしっかりしてて自分の思い入れのみで美術工芸品めかして売ろうとしない。

独学だけでやってきて、窯元/工房/弟子などのプロの現場を経験しないでも、
こんな人もいるんやー、というのが最初の印象でした。
ルックスはオウムのA 尊師を小作りにしたカンジ。
またはショボくれた恵比須さん。

その後も各地のフェア/室内イベント/陶器祭でいっしょになり
昨年から団地ではテント分け合うようになりました。

彼の経歴がちょっと変わってて、『一人でできるベンチャービジネス→陶芸家』の好例だなーと思いました。ただし貧乏(清貧)バージョンの陶芸家→やきもの屋ですけどね、美術工芸作家じゃなく工芸としてのやきもの屋。

静岡の東海大水産学部卒(水族館の学芸員志望)
名古屋の水産会社でマグロのブローカー(中卸し/市場外流通)になる。
配達の土地カンをやしなうため大型バイクで東海エリアを走り回りやきものと出会う。

休みのたびに瀬戸/美濃/常滑/万古の窯元/ショップ/資料館をたずねて
瀬戸陶磁資料館の作陶館で日曜陶芸にのめりこむ。公共なので安くできるし、
突っ込んだアマチュア、高名な陶芸家たちの薫陶を受けるうちにプロをめざす。

「薪で焼くのが『陶芸』」という考えにとりつかれてたんで、先輩アマの
「まず資金」というアドバイスにしたがって勤めてた水産会社を退職し(2年勤務)、佐川急便でかせぎにかせぐ、5年で1400万ためる。朝5時起きで寝るのは午前2時。もちろん休みは作陶館に通いづめ。

さて身体を責めて貯めた1400万を手に、29才の青年は念願の薪窯と仕事場を無償で手に入れ(!)、運営することになるのだが、どのようにそんな道が開けたのか?

さらにー、このように『高いレベルの陶芸』をめざして、いきなり薪窯だけではじめた場合(薪代、向こう持ち)、1400万の資金は何年で無くなるのか?
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Kさんの御長男の名前は『団一』ではなく『陸』クンに決まりました。
そりゃ『団一』ではちょっとねー。

ほかのやきもの屋仲間で誕生祝い自作のグイ呑をプレゼントしたヒトは
「オレみたいな酒呑みにせぇーよ」と言ってました。
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『一人でできるベンチャービジネス→陶芸家』

やきもの屋のくらし3

さて水産大を出てまぐろブローカーになり、陶芸にのめりこみ、
佐川急便で5年、1400万ためた川添さんは・・・名古屋近郊のA市の
ある寺の山内の穴窯と仕事場をまかされます。

彼が余暇のすべてを注ぎ込んで陶芸をやってた場所は瀬戸資料館の作陶館。
こういうトコにはつっこんだアマチュアも集い、高名な陶芸家たちとの知遇も
得ることになる。また彼のような青年を「利用」したい大人とも会えるわけで・・

都合7年も作陶館でやってた彼は、ある年長の骨董屋さんと知り合います。
「A市のさるお寺の住職さんで骨董の趣味があり、自身でも穴窯を築いて
 やきものを焼きたいという御仁がいるが、そこでやってみないか」
ということで29才から31才までの3年間、年3,4回の窯を焚く暮らし。

仕事場の光熱費や水道料、薪原木購入費などは住職さんが持ってくれるが給料はなし。見返りにその住職さんの作品を一定の量焼くのが条件。
陶芸教室をやるとかそうゆうのではなく、この御住職の趣味としての穴窯での陶芸を技術/実労働でささえる人間になる。
まあ檀家さんに手びねり教えたりして焼いて差し上げたりはしたそうですが。
最初の御住職の導入された穴窯は温度あがらないので、壊して新規の窯を
ひとりで積んだそう、つめてやれば一ヶ月。

薪は原木を買って手割り。
当時はロクロもあんまりできなかったし、凝った造形をねらってたので
輪づみで徳利なども成形。標準的な大きさの穴窯だとこういう一人の労働では
年3、4回の窯焚き。土もさまざまに焼いたそうです。

最初の1年、3回の窯ではモノになる物は取れなかったそうです。
そのあと2年6回の窯ではすこし見られるものが出るように。
伊賀/信楽/焼〆/若干の釉薬ものを焼く。でも年1回の
瀬戸の陶器まつりやフリマで売っただけだそう。

バブリーな時代、大つぼ5万とかで年に5~60万の売り上げ。土代に消える。
店に持ち込まなかったのは、そこまでの水準ではなかったから。

ここで自分の『目』の基準を下げなかったトコがエライ。
ともすると「薪で焼く」=「本格」=「土と炎の芸術」という神話にからめとられるのと、かけた資力と労力を回収しなくちゃならないという切実な理由で自分の中にあった基準を下げてしまうことが多い。すると迷いの森。

思ってるものと現実との差。ほかの人の作品との歴然たる差。
プロは他者の『目』で『他者の作』と比べられる。質も値段も。
そういう土俵で生きることを覚悟してするからプロ(仕事=事に仕える)。
『売って食っていく』とはそーゆうコト。

迷ってると必ずケントーチガイにほめるシロートさん達があらわれて、
そのコトバにすがってしまいがち。ありがたいことではあるんやけど、
さらに迷走することも。自分のなかの高い基準をゆるがすことなく保つことが大事。プロはどの観客よりも先に客観的に自分の品を批評、そして評価できなければ。

自作に惚れるのは一瞬だけにしておかないと。
まれに自分と自作に惚れ続けることで『理解者(買ってくれるコレクター)』と巡り会えることもあるでしょうが、理解者の人数がまとまることは・・・まれ。

技術はあとからついてきますが、
それまでの『失敗』に精神的金銭的に耐えれなければ、再生産できません。
もう一方でプロなら売れる物は基準をさげても売る時は売る。
下げたことを自覚しながら。生きのびるための妥協です。

Kさんは1400万あったのでかなり持ちこたえましたが、
家賃・食費(外食)で1400万は3年で無くなるそうです。

3年後このお寺の近郊が建て込んで来て、ばい煙問題で焚けなくなり、
彼は別に自前で穴窯を築窯。2年で6回、都合5年で18回の窯焚き。
独立後の2年は食うや食わず、フロにもはいれず谷川で身体を拭く生活。
ごくたまにフォークリフトの運転でバイト。若いからできること、35才。

さすがにこのやり方でこの時代、売って食う再生産はキビシーということで
ガス窯の大和の社長の好意で試験炉を使わせてもらって成り立つ作陶を開始。
陶器まつり/室内イベント/クラフトフェアに売りに出るようになったのが2年前。

瀬戸のガス窯最大手だった大和倒産でまた仕事場を失ったので、貸しスペース、(輸出してたような製陶工場を部屋小割りにして個人作家に貸す)を調べると7ケ所も。見てまわって決めたところにすでに入ってたのは3人の女性作家。そのうちの一人がKさんの伴侶です。知り合って一年。彼もやるときはやるな。

奥さんは渋くてカワイイものを女性ならではの細かい気づかいで作るヒト。
ちっちゃな植木鉢が受け皿と一体成形で水を受ける物や、
タタラ成形ウズマキ型一輪挿しの縁まわりに櫛目が入ってギザギザなので
「なんで?」と聞くと、「入れた花が止まりやすいように」。
彼女の御実家は渥美半島の花栽培農家。

お子さんができたのでKさんはがんばんなきゃ。
奥さんもいずれ仕事再開したら、また2人で最強タッグ組めますよ。
いつかまた穴窯やれる日もくるでしょう、『余剰』の部分で。

Kさん、奥さん、陸くん、
この家族の幸多からんことをやきもの屋仲間として願ってやみません。
やきもの屋の家族、みんながんばりましょうよね。


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