ハッピー・タクシー~stage 3~

ハッピー・タクシー~stage 3~

石碑「ここより下に家建てるな」



東日本大震災の大津波に襲われた三陸沿岸の自治体で、先人が残した防災の知恵を受け継ぎ、被害を免れた地域があった。1933年(昭和8年)の昭和三陸大津波の後、高さ15メートルを超える巨大水門を建造した岩手県普代(ふだい)村と、石碑に刻まれた教えを守り、住居を高台に移した同県宮古市姉吉(あねよし)地区。壊滅的な被害に見舞われた沿岸部の中で、両地域では住民の命が守られ、住宅被害もなかった。

 普代村で津波被害を防いだのは、普代川の河口と市街地を隔てる全長205メートルの「普代水門」と、漁業者の集落と港の間に建つ全長155メートルの「太田名部(おおたなべ)防潮堤」。高さは、いずれも海抜15・5メートルある。

 「命があるのは防潮堤を造った先々代の村長のおかげだ」。防潮堤近くに住む漁業太田文吾さん(78)は感謝する。津波は防潮堤の8割程度の高さに達したが、集落には「海水が一滴も流れなかった」(村災害対策本部)。普代水門を襲った津波は水門を越えたが、約1キロ離れた市街地まで届かなかった。

 防潮堤の外側にあった漁船や港湾施設など漁業被害は大きく、船の様子を見に防潮堤の外に出た住民1人が行方不明となった。しかし、村内にいたそのほかの村民3千人余りは全員無事で、1118世帯には浸水もなかった。

 水門と防潮堤の総工費は合わせて約36億円。それぞれ84年、67年に完成した。県の事業で総工費の1割程度が村の負担。周辺自治体は「まちの景観を損ねる」などとして同じような防潮堤の建造を見送り、村民からも「そんなに大きなものが必要なのか」と反対の声が上がった。

 だが、村では1896年(明治29年)、1933年の三陸大津波で計439人の死者を出した。先々代の故和村幸得(わむらこうとく)村長(在任47~87年)は「いつか理解してもらえる」と意志を貫いた。当時、建設課職員だった深渡(ふかわたり)宏・村長(70)は「和村村長は正しかった。たいへんな財産を残してくれた」と話す。

 一方、宮古市姉吉地区では、港から約700メートル内陸にある石碑が、12世帯約40人の住民の命を守った。「此処(ここ)より下に家を建てるな」。石碑に刻まれた教えに従い、住民たちは全員そこよりも高台に居を構えていた。

 同地区の住民はかつて海岸沿いで暮らし、過去の大津波で大きな被害を受けた。生存者は明治の津波でわずか2人、昭和の時は4人だったという。石碑は昭和の大津波後に住民が建立し、以後、住民は石碑の教えに従ってきた。

 東日本大震災後に同地区の現地調査を行った岩手県立博物館の大石雅之・首席専門学芸員によると、今回の津波は同地区の最も高い所で海抜約40メートルにも達したとみられる。波は漁船や作業小屋をのみ込みながら集落へと続く坂道を駆け上ったが、海抜約60メートルにある石碑の手前50メートルほどの地点で止まった。

 石碑には「幾歳(いくとし)経るとも要心(ようじん)なされ」とも刻まれている。同地区の漁業川端隆さん(70)は「石碑がなかったら、津波の怖さを忘れてしまっていたかもしれない」と話した。(東京報道 水野富仁、報道本部 徳永仁)


© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: