時代劇としては異色の本格的海洋スペクタクル巨編です。
戦国時代 、瀬戸内海の島々を根城として、八幡大菩薩の旗を翻し、遠く東シナ海を渡り交易のため雄飛した八幡船の男たち。二代目頭領に扮した橋蔵さんの海の若武者ぶりは、スケール雄大な異色時代劇として、ファンの思い出となりましたでしょう。
沢島監督が情熱を賭けロケでみせる、芸術祭参加作品「海賊八幡船」・・・
「ロケ費用、ロケ期間からすると、映画制作の常識からすれば、このシナリオは大部分は特撮にたよるところだが、今の日本の特撮技術では、どうしても小手先の誤魔化しになる恐れがあるので、無理をいってロケーションをやらしてもらいました。もちろん特撮も併用しますが、この作品のスペクタクルな面、絵柄の大きさといった面は、すべてロケ効果にかかっているといってよく、ロケーション場面の演出の機動力如何が作品の死命を決定するものと考えています」と沢村監督。
そのため、会社が瀬戸内海あたりの距離でという意向でしたが、探し歩き、劇中の八幡船の根拠地に駆る因島がふさわしい部落を発見した時は、思わず涙がこぼれそうになったといいます。
沢島忠監督にとっては念願の作品でした。本当は一年前に撮ることになっていたのですが、クランクイン直前に身体を痛めのびのびになってしまいました。
沢島監督のねらいとは・・・
海を嫌い、恐れる一人の青年が、次第に海の大きな魅力に魅せられていき、最後には雄々しく立派な海の男に成長していく。これがこの作品の骨子となっています。が、中心は、あくまでも海洋の大スペクタクルを狙うということなのです。 ”
八幡大菩薩 ”
の旗のもと、南海に雄飛する海の男達の雄大な海洋ドラマを描くのが制作意図です。
唐津の立神、博多の芥屋など、約 1
ヵ月にわたる長期ロケで、ロケーション費だけで 2,500
万円という大がかりな金額、これは大作一本分の製作費に相当、東映創立以来の大規模なロケになりました。
海戦シーンの撮影現場になったのは、福岡県糸島郡志摩村芥屋の海岸。玄海灘の荒波がくだけ散り効果満点です。
現地には、佐賀県の漁港、呼子で建造された八幡船五隻が待期し、その中で最も大きいメクラ船には、呼子から長崎まで石炭を運んでいた 160
トンの貨物船を、その他全部が 150
トンクラスの漁船を改造したものです。
砲撃戦には、ダイナマイトを使用、水柱一本につき、約 8
本のダイナマイトを点火、水柱も 30
mの高さまで吹き上げたのです。海賊船がのろのろと走ったのでは迫力が出ないと心配したりしたのですが、風が吹きすぎて面食らう有様でした。
今までの日本映画の常識を破った迫力のあるシーンを作り上げたい・・・沢島監督の狙う大きな見せ場は、海賊シーンと堺の港の焼打ちシーンです。
この船に乗って、橋蔵さんが大活躍するのですが、沢島監督の狙いは、優男の堺の町人が、次第に海の男として生きるようになる、その過程をいかに描くかということになります。
堺の町人時代の鹿門はつけまつげをつけ優男の感じを、海のシーンになると強いメーキャップに変え、胸毛をつけ、逞しさを強調するようにしました。そこには、橋蔵さんの新しい魅力を発揮したい、と願っているといいます。
観客の人々に、その気持ちが判っていただけるようになれば、成功したといえるのだそうですが・・・と。
▲
第 67
作品目 1960
年 9
月 18
日封切 「海賊八幡船」
磯野鹿門 大川橋蔵
寿賀 丘さとみ
謝花 入江千恵子
浅茅 円山栄子
小静 桜町弘子
伝馬 田中春男
宮地与太夫 沢村宗之助
五兵衛 高松錦之助
磯野丹後守 北龍二
磯野右衛門太夫 阿部九州男
村上入道 月形龍之介
黒白斎 進藤英太郎
村上新蔵人 岡田英次
臺屋道休 大河内傅次郎
めくら船 ?
永禄四年、貿易港堺の船問屋壷屋道休の息子・鹿門は、ある夜男達に囲まれ、八幡船旗頭・佐和山城主礎野丹後守の遺児、道休は丹後守を裏切り、八幡船の一つめくら船を奪った張本人だと告げらますが、鹿門は信じません。八幡船の動きを知った道休は、財宝を淡路丸に積んで足止めの禁令を破り脱出を企んだが、放たれた矢に道休は殺され、淡路丸は鹿門の妹小静を乗せたまま出港してしまいます。道休にすがり離れない鹿門を、黒白斎たち八幡船の男たちは、失神させ連れて行きます。鹿門が気がついたときは、大海原の青影丸の船中でした・・・・・
始まりのスクリーンに昭和35年度芸術祭参加作品の文字がでて、船が進んでいくような画面に歌声と共に配役がでてきます。そして、暗闇の海原を船が進んでいってるような画面から入り、夜が明けてくるなか、船が見えてきます。
”
”
の説明が流れます。
八幡船とは、戦国乱世の頃、瀬戸内海の島々を根拠とした水軍の将兵が、遠く明国、朝鮮、ルソン、シャム等の諸国へ、八幡大菩薩の旗を揚げ、通商交易の為雄飛した船団のことである、彼等にとって、戦乱の国土より、海こそは、最大の自由の地であった。
永禄四年、当時日本最大の貿易港、泉州堺の町にも、うち続く戦乱の波が容赦なく押し寄せていました。
淡路丸で積み荷を運ばないとつぶれてしまうといい寄る長崎屋に、足止め禁止令が出ているのだから出せないと壺屋道休がいっているとき、船乗りたちに漂流しているところを助けられたとみられる一人の老いた狂人が現れ、「八幡船が沈む」「八幡大菩薩の旗が沈む」とおかしなことを言いながら、町の方へ歩いていきます。
その老人は、船問屋壺屋に駆け込んで行き、しきりに「盲船」という謎の言葉を呟いて店の周りをうろついているというのです。五兵衛からそのことを聞いた道休は慌て、息子鹿門のことを心配すると、出かけていると聞き、「また廓通いか」と呟くと、五兵衛に長崎屋にあすの朝淡路丸を出すと伝え、出かけている息子鹿門を連れて来いといいます。
鹿門が通っている廓では、船乗りたちが宴を開いている座敷に、昼間老人を助けたといっていた船乗りを待ちかねていたようで、「守備はどうだ」と聞かれ「ちゃんと町へ送りこんだ」という会話が聞かれます。廊下ですれ違ったとき、浅茅の髪から取った櫛を取りに来るかと思っていたら、持ち帰って結構ということをいってきたので、「馬鹿にするな」と浅茅の部屋に乗りこみます。
伝馬「これ女、わしはな、ものもらいと違うぞ」
というと、浅茅の膝枕で横になっている男が、
鹿門「 なら
、 置いていったらいいじゃないか
」
と言ったので、「町人のくせに、海の男を馬鹿にしやがって」と、男に手を出すと、簡単にやられてしまいます。
鹿門「 こいつは
、 面白れえや
、・・・ よーし
、 表へ出ろ
」
そういうと、鹿門は立ち上がり、伝馬を外へ連れ出します。船乗りたちや店の者たちみんなが外に出ています。
鹿門「 おい
、 この堺ではな
、 町人も侍も対等なんだ
。証拠を見せてやるから、 一度
に来い
」
鹿門がそういうと、先頭をきり、船乗りの宮地与太夫が「 生意気な
」とかかって行きます。浅茅の櫛のことをめぐるささいなことから、乱闘が大きくなり 鹿門が追い詰められたとき
、「若旦那」と番頭の五兵衛が飛び込んで来ます。
船乗りたちをかき分け、 鹿門との間に割って入る
と、
五兵衛「待ってください。何の騒動か存じませんが、この方は手前主人、 壺屋道休
の大事な跡取り
、間違いがあってはなりません、どうぞお許しを」
というのを聞き、与太夫が「なに、壺屋道休・・・」というと、伝馬が「あかん、与太夫、問題の人や」と、すると「引け、引け」と声がかかり去って行くのを見て、鹿門が「どうした、・・・逃げんのか」と声をかけて来たので、伝馬がこれに答えます。
伝馬「あんたに刃を向けると、わしら村上水軍は、 八幡船の掟に背くのや
」
鹿門「 村上水軍
?
・・・ 八幡船の海賊
か。・・・その八幡船の掟が、 この俺にどう
いう関係があるのだ
」
伝馬「それやったらな、はよ帰って、お父つぁんに聞いてみなはれ、 めくら船っ
てなんやって
・・・」
鹿門「めくら船」
船乗り達は、謎めいた言葉を残し去って行きます。
道休に命じられた甚内は、気の狂った老人を誰にも気づかれないように暗殺しようと襲いますが、川に飛びこまれ逃がしてしまいます。廓からの帰りその現場を通りかかった鹿門は、慌てて、
鹿門「 陣内
、 どうした
」
続きます
。
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