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昨日、セルフのガソリンスタンドで、金が無かったので、とりあえず500円分だけ、給油をしたのです。1000円札を入れました。残りの500円は、コンビニでコピー代に使う予定でした。 ところが、スタンドの店員さんが、車のチェックをしてくれていたので、給油が終わるや、私は彼と話し込んでしまったのです。レシートだけ、取って、あいさつして、「どうも」2時間後、コンビニに行って、コピーをしようと思ったら、あれ?金がありません。 「アッ! 」 です。奇跡的に、500円玉は、残っていました!ラッキー。 でもね、先日も、資料づくりをしていたら、小学校のPTAさんとの打ち合わせ時間を過ぎてしまっていたのです。 そんなこと、誰にもあるだろう、って思うかもしれませんが、私は不思議でなりませんし、我ながら面白いと思うのです。 大切なことはわかっているのです。ついさっきまで、意識していたのです。それを、スパッと忘れちゃう。 人間がモノを忘れるメカニズムにも、いろんなパターンがあると思いますが、(アルツハイマーなど)「次にやらなければと思いながら忘れてしまう」現象は脳ミソ内の電気信号の機能の低下と考えた方がいいのではないでしょうか? これは、仮説ですが、人間はいろんなやるべきことを、抱えています。そして、その中で優先順位を決めて、最初にやるべき脳の部位に、一番励起が起こる。そして、次にやるべきものに、2番目の活性化が。一番目の課題が終了すると、そこの振動が収まり、相対的に、2番目の課題が一番高くなるのです。 それを判断するためには、それぞれについて、常に、意識が循環して、監視していなければならない。人間は一秒間に、相当の数の想念のチェックをしているものと思われます。 ところが、何らかの原因で(主には高齢化のため)巡回速度が遅くなると、相対的なチェックをして、2番目の課題が活性化する時間がかかってしまう。その間に、別の刺激が入ったりすると2番手の課題の脳ミソが活性化しないで終わるのです。 この「循環理論」によると、この「優先順位忘れ」症候群への対策は、頭の中の思考の回転速度を上げることとなります! できるだろうか?いや、この年であきらめるのは、まだまだ早い。常に意識して、意識をめぐらしていれば、ボケにも、相当の抵抗力ができそうに思います。 さあ、今日は、南児童センターで宮城県の児童館の職員の方々向けの打ち合わせです。これから、レポートづくり。ここいらへんが限度だ!!はい、やめます。 では、お互いに、ボケない脳ミソをもち続けましょうね。
2009.07.24
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選挙の風が吹いていますね。時代の変わり目の時、どういう行動を取るかその人の生き方が問われる場面です。 私は、これまで、多くの組織を去ってきました。相澤は、裏切り者だ、逃げ出す習性をもってる、と言われてると思います。確かに、そうい意気地のない面もあります。しかし、「これはおかしい」、と感じ、しかも、組織を変えることは困難だ、と判断したら、去ることは、とっても素直で、かつ、とっても勇気のいることだと私は思っています。 民主主義を形式的なものにしてしまうものにも、抵抗してしまいますし。もちろん、ワンマンも嫌いです。つまり、形式としては、割り切れないものが、この世の本質なんだよな、って、思います。 いろんな人に会ってきましたが、自分の仕事を誠実にしている人、この確かに生きている人を見極める目を養う修行をしてるのかなと思います。 私は、自分と同じ意見をあまり信用しません。人は、考えが違うのが当たり前だと思うからです。 意見が違って、一見、離れ離れになっても、裏切ったように見えても、確かに生きている人とは、必ず、いつかまた出会うという確信をもてます。 これは、子ども達との付き合いでも、同じです。「へえ、こういう生き方をする大人がいるんだ。ああいう生き方をすると、ああいう世界になるんだ。」「真似はできないし、するつもりはないけど、ああいう大人と出会えて、うれしいなあ」って、思ってもらえたら、最高です。少なくとも、人間というものへの信頼感、厚みを増すお手伝いだけはしたい。 そして、「科学的なものの見方は、やっぱり素晴らしい」と、表面的な理解を超えて、感じてもらえるそんな大人になりたいと思います。 何を言いたいのか、わからない文章ですが、私に対する期待というのをずいぶん分かってきたました。 その期待を裏切らない、確かな人間でありたい、と思います。 さあ、今日も、問題を抱えた、だからこそ素晴らしい子どもたちへの私なりの「授業」という、最高の「実験」に出発します。
2009.07.13
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あけましておめでとうございます。 久々の更新です。実は、冬休み、「出稼ぎ」に行ってました。受験生の応援団をしていました。 科学寅さんのモットーと違うじゃないか?!そうですね。学問の楽しさとは、違います。でも、試練をどう乗り越えるか、というお手伝いは、やっぱり、ワクワクします。 極限られた条件の中ですが、その中でも、学問の楽しさを伝えるチャンスはあります。 それよりも、私にとって、大きな気づきがありました。それは、私が、「押しつけ」の教育スタイルを、まだまだ持っているということでした。私がしゃべることを、いかに少なくできるか、に挑戦してみましたがなかなか、難しい。 押しつけを少なくしないと、本人が「わかった」にならないのです。あくまで、プレーするのは、選手であって、コーチではないのです。 だいたい、何にテーマを絞ったらいいのか、何が問題で、ネックになっているのか、その判断も的はずれになってしまいます。押しつけをしていると。 で、ふと、さらに気づいたことがあります。受験生は、受験生自身に、いろんな先入観をもち、自分に対して「押しつけ」をしているということです。その押しつけをはずせば、どーんと伸びるのに、と思うことがいっぱいです。 振り返って、この科学寅も、自分自身に対して、いろんな押しつけをしていることに気づきました。 それを、はずすこと。これを新春のモットーとして、大いにバカになって、遊びたいと思います。 お屠蘇の酔いが抜けない中で、いつもお世話になっている皆様に、ご挨拶申し上げる次第です。昨年中はありがとうございました。こんなふつつかな、アホとおつきあいいただき、ありがとうございます。本年もよろしくお願いします。
2009.01.01
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暑い日が続いています。今まで、全国の猛暑を尻目に、避暑地として売りだそうと思っていたことがアダとなった感じさえします。 この炎天下で、100キロイベントさすがに、子どもたちも、昨日から、ダウンが相次いでいます。 でも、それよりも、冷房のきくトラックを運転して、日陰で休んでいる寅さんが、ダウン。頭痛が治まらず、今日は、10時にリタイア。 日射病かと思いきや、肩凝りから来ているようです。 そうです。最近、運転していないトラックのせいで、大丈夫だと思っても、相当緊張しているようなのです。 ダメだ、こりゃ。こと、事故や、人の命に関わる問題です。運転手も、今年が潮時のようです。あと一日。最後の力をひり絞って、トラックの後片付けまで、頑張ろうと思います。 誰か、後継者を探さなくては。
2008.08.09
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お陰様で、動けるようになりまして、これから、学校に行ってきます。お見舞いのメッセージありがとうございます! ま、風邪だったのですが、しばらくぶりに、高熱が出ました。私にも、熱が出る力がある。これで、ガン細胞も殺せる、と喜んでおりました。 ところで、今回、急に熱を出したのも、やはり、因果応報といいますか、原因と結果の法則があるように思います。いや、そう思いたい。いろいろ反省するところがありますが、ズバリ言えば、「ねばならない」病に犯され、それにつれて、いつの間にか不満を溜めていったということです。 モノゴトは、勉強も含めて、つらい仕事を楽しく味付けするのではなく、そのもの自体が楽しいのだ。楽しさそのものが、目的であり、本体なのだ、 感情は、主観的だけど、主観的だから、いい。主観的に楽しいのが、人生の目的だ。 なあんてね、さ、行ってきます。
2008.07.09
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最近、記事の内容が物議をかもしているブログに出会うことが多いです。紙媒体に書く日記帳なら、そりゃ、どんな罵詈雑言でもいいでしょう。でも、このブログというものは、世界中の何処からでもいつでも閲覧可能、言い換えればいつ、誰が閲覧してるか分からない代物とも言えるでしょう。さらに、そもそも、ブログとは、読者とのコミュニケーションに命があるのであって、ただの自己主張なら、ホームページにしてしまえばいいのです。だから、もし、感情の赴くままにブログ上に何でもぶちまけてしまうと気分を害する閲覧者が、必ず発生します。犯罪行為に近い行為や言動を平然と載せているようなブログは、もちろん論外です。それらには、すぐにコメントが殺到し、「ブログ炎上」状態に陥るでしょうし、全焼しちゃうべきでしょう!これは、一つの自浄作用とも言えるでしょう。でも、怖がるだけでもないでしょう。批判的な意見が殺到するだけではないでしょうから。もしかすると、一個人の発言が新たな仲間を呼び、さらに大きな声に拡大していく可能性が十分にあります。これは、従来一個人では対抗しにくかった大企業や政治に対して影響を与えることができるのです。分厚い、教育行政の壁も穴を開けることもできるのです。正に、中国で蝶々が羽ばたきをすることで、アメリカで竜巻が起きることも、あり得ることなのです。これは今までには無かった現象です。ネットにおける市民運動の可能性そのものの姿なのかもしれません。また、それらによって、どんな世論が存在しているのか? そしてそれらの世論はどのように分かれ、あるいは衝突しているのかを知ることができます。もし、炎上しても、管理人の対応が素早く適切であれば、場合によっては炎上以前よりもそのブログの読者を増やす効果もあるでしょう。 また、コメントやトラックバックを閉じて、一方的な情報配信のサイトとなる手もありますね。でもこれでは、ブログやSNSのメリットである双方向性を捨ててしまうことでもあり、ホームページで情報を発信するのと変わらないので、ブログやSNSを利用する意味が半減してしまいます。 さらに、炎上に管理人が耐えられなくなり、閉鎖してしまっても、解決とは言えません。ブログやSNSを閉鎖したからといって、書かれたものはGoogleのキャッシュに残りそれが、他のサイトに転載されるなど別の方法により批判が殺到する場合もあります。 私たちブロガーは、常に、ネットの向こう側に存在する膨大な数のユーザーを念頭に置いて、運営する配慮が必要です。これが、ブログの運転免許みたいなものでしょう。自戒しようっと。(でも、炎上も面白そう。)
2008.03.27
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先ほど、洗脳という言葉を使ってしまって、・・・・・・実は、どうしても、意識してしまう体験があります。 (洗脳という言葉を使うには、語弊があるかもしれません。しかし、どんな宗教も善し悪しは別として、その機能は、「洗脳」だという意味で、使わせてもらいます。どんな教団が良くて、どこが悪いという意味では一切ありません。特定の宗教指導者を非難してるのでも、一切ありません。) まだ、高校生の時です。演劇部で演出を担当していた寅さんは、ある日、好きだった主役候補の子から、宗教活動のために日曜日、ダメだから、下ろしてくれと言われ、ショーゲキを受けました。 宗教なんて、徹底的にバカにして、(当時、愛読書は、毛沢東の遊撃戦論など)自信の塊の私は、浅はかにも、彼女を救い出してやろうと、その教会に、ネギカモで入ってしまったのです。 そこで、常識を徹底的に、糾弾され、非難されそして、反対に孤独な心を「理解」され、硬軟織り交ぜられ、典型的な洗脳パターンに入り込んでしまいました。きれいな「一本!」でした。 その後の七転八倒は、この世の地獄でした。地獄よりも地獄らしいところになりました。でも、その苦しみさえも、美しく感じてしまうのですから、フィルターを替えるということは、スゴイことです。 普通なら、もうそれで、一生その教団に吸い取られてしまうところだったでしょう。どうやって、抜け出せたのか??? それは、偶然だったのです。 演劇公演当日、私も、日曜日の礼拝のために、何と、休もうとしたのです。これは、私にとってもすごい葛藤でした。それに対し、部員が、全員ストライキをかけてきたのです。私は土下座をして謝りました。信仰的には、敗北だと打ちひしがれました。 ところが、教会では、予想に反し、軽い言葉で、「それは責任上、公演に行くべきですよ。」と言われたのです。 教会のその指導は、正しかったでしょう。何の落ち度もありません。当然のことでしょう。落ち度があったのは、私の方です。 しかし、その瞬間、ハッと、覚めたのです。そして、フィルターの恐ろしさ、おぞましさをブルブル震えるくらいに感じたのです。 私が愛して愛して止まない演劇、それをも捨てる覚悟で臨んだのに、それをあっさり間違いで否定される。 こんな怖いもの、恐ろしいもの、人にすすめられるわけがない。と思いました。熱いお湯の沸騰状態が、一気に手を入れると「つめた~~い!」状態に。 しかし、すぐに抜け出ることはできませんでした。そのまま、そこを出たら、何も無くなってしまうのです。空っぽは、人間、どうしても耐えられないようです。 そこで、苦労の末、私は、180度違った仮説を導入したのです。「この世は、ただの遊びだ。」という。 この間、半年くらいの期間の出来事です。しかし、私はとんでもなく成長しました。そして、学校に行かずに、自学で、現役で大学に入りました。学校や学歴体制も、鼻で笑うことができるようになったのです。 そこから、またフィルターを二転三転させるのですが、、とにかく、あの瞬間が、寅さんのスタートでした。 なぜ、あのとき、私は、疑問をもつことができたのか?それは、演劇と演劇部のメンバーを愛していたからです。心から愛していたからです。 人間の論理なんて、はかないものです。愛情の土台の上へなら、何でも立ててしまうのです。無理矢理、理屈を引っ張って来れるのです。 やはり、愛です。その意味で、寅さんの場合、家族の愛は、そこまでの引力は無かったのです。家族は、愛していたのでしょうが、本人は、理解された愛だとは、思っていませんでした。本当の私には、関心が無いと思ってました。だから、簡単に引きずりこまれたのです。 子どもの土台を作るのは、理解してやることだと、つくづく思います。
2008.02.25
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忙しさにかまけると、かえって、本筋から離れてしまうことがある。「今日のブログ早く書かなくちゃ」って考えて、いつの間にか、どっぷり脱線。 もともと、ブログも、活動も、すべて「子どもたちの笑顔のために」だったはずだ。 だったら、常にそれを中心線にして、楕円を描きながらでも、グルグル廻っていればいいのだ。エネルギーは、闘争でも、新理論でも、PRでもない。金儲けでも、売名でも、名誉でさえない。「子どもたちの笑顔」だ。 ただ、一直線に進まないで、グルグル走り回っているのが、最善のような気がする。中心点の周囲のいろんあ人と影響をしあって、軌道修正や、さらに小さな渦を作りながら。人と人とを引き合わせる引力は、「思いやり」。利害損得は、宇宙の秩序の一部でしかない。多様性が是とされる宇宙をみれば、異質なものと調和し、ハーモニーを創る意義を宇宙は前面に出していると感じる。 めちゃくちゃなメモでした。さあ、今日は忙しい!走り回るぞ!
2008.01.24
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本当の魔法は、「思いやり」。何気ない、予想を超えた、小さな思いやりが、世界を一瞬で変えてしまう。悲しみの涙を、あっと言う間に、うれし涙に変えてしまう。絶望を希望に。 子どもの進路希望さえ、変えてしまう。 「はてなランド」は、夢と魔法の王国ディスニーランドを目標に、命名しました。 本当の魔法使いになりたい。
2008.01.21
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私にとって、パッと視界が開けた文章に出合いました。ちょっとしたパラダイム転換といっていいと思います。抜粋ですが、載せさせていただきます。昨日の「森の声」さんの日記から。思春期前の子どもが何かを学ぶ時には喜びとハラハラ・ドキドキ・ワクワクという感情の動きが必要だ”ということです。感情が動かないことには感覚も、頭も、からだも能動的に働かないのです。実は、人間が何かを学ぶことが出来るのは無意識的に学んだ時か、能動的に学んだ時だけなのです。人間には“意識”というフィルターがあって、そのフィルターを通り抜けることが出来るのはそのフィルターに気づかれないで入り込む無意識的なものか、本人が能動的に許可したものだけなんです。そして、喜びとハラハラ・ドキドキ・ワクワクという感情の動きがフィルターの門を開くのです。ですから、喜びと共に学んだことはどんどん入っていってしまいます。だからこそ子育てでも教育でも無意識に働きかけることと、感情に働きかけることが非常に重要になってくるわけです。人間は意識のレベルで否定的な感覚を感じたものは自分の内側(心・魂)には入れないようになっているのです。それで、逃げるか、避けるか、表面的にだけ相手をすることになります。そういう時、人間は自分の心とからだをまるで道具のように使います。自分の感情と切り離して使うのです。でも、そういうことが長く続くと心や魂にエネルギーが届かなくなって虚無的になり、鬱になります。なぜなら、生き生きとした感情の働きこそが心と魂のエネルギー源だからです。また、無意識に働きかけることで、そのフィルターの質を変えることができます。だからこそ、無意識に働きかけることと、感情に働きかけることが非常に重要なんです。じゃあその方法ですがが、無意識に働きかけるためには“さりげなく”が重要です。一番簡単な方法はお母さんやお父さんや周囲の大人がお手本を見せてあげることです。その際、言葉で説明してはだめです。無意識に届かなくなってしまうからです。子どもはお母さんやお父さんを見て、自分のフィルターを作ってきます。無意識の働きには一つの特徴があって、無意識的に出たものは相手の無意識に響くのです。そして、意識的に出したものは相手の意識に響きます。だから、子どもは親に似るのです。お母さんが一生懸命自分に似ないように気を付けていても、子どもはお母さんの無意識を真似してしまうのでかえって逆効果になってしまうのです。お母さんが自分を変えようと努力する時、子どもはそんなお母さんを見てお母さんを超えていくのです。私が咀嚼したことを、次のページに書きます。
2008.01.14
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今日は、娘の成人式。私は、なああんにも、してこなかった。良い影響を与えたのか?悪い影響を与えたのかも、さっぱりわかりません。 少なくとも、「よく大きくなった。」成長してくれただけで、拍手。
2008.01.13
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昨日は、お陰様で、特別支援教室では、「お店屋さんごっこ」ができ、娘の中学校のPTA講演会では、大勢の参加をいただきました。 途中、勤務の学校を抜け出して、会場設営をしたのですが、その椅子が足らなくなり、3列ほど、足すまでになりました。 皆々さまのご協力に、心より感謝いたします。 ただ、寅さん個人としては、 実は、うかつにも、勤務してる学校と、PTAの学校の行事がバッチリかち合うことに直前まで気づかず、どちらにも御迷惑をかけてしまいました。まったく、委員長として、曲がりなりにも教師として申し訳ないことです。ここで申し上げても仕方がないことですが、あらためてお詫び申し上げます。 終わった後、どおっと、自己嫌悪に陥りました。でもね、寅さんが間抜けなのは、前提条件なのです。初期設定の問題なのです。その間抜けの割には、よく際どいところをすり抜けたといや、訂正!(語弊があります。) 幸運にも破滅には陥らなかった。救われた。と(どっちも同じか)感謝・感謝なのです。 本当に、PTA役員の皆様、健全育成委員の皆様、教頭先生はじめ職員の皆様、社会指導主事の先生、講師の前教育長さん、そして、特別支援教室のI先生、M先生のあたたかああああい、大きなふところのお陰です。おっと、特別支援教室の生徒諸君の真っ直ぐな応援があったればこそです。 本当に、彼ら(生徒)には、勇気とパワーをもらいます。ありがとうございます。保護者の方々、失礼いたしました。いつもありがとうございます。 今回に限らず、寅さんは、いつも引っかき回しておいて、後始末、整理ができず、自己嫌悪と社会的な活動への罪悪感とに苛まれます。もう、やめた。やめた。と本気で思います。 でもね、これって、とっても傲慢なことだってことを、これまた、すぐに思い起こすんですよ。自己嫌悪に陥るって、自分が、ある一定の何様かのつもりでいるからこそ、思ってしまうんであって、最初から、ゼロだと認識していれば、失敗という痕跡を残せるだけでも、とってもありがたいことだと気づくんです。 たとえ、犯罪者になったとしても、生を得ているだけで、儲け物です。大自然に抱かれて生きていることは、人間の小賢しい社会活動を吹き飛ばすくらい、すごいことです。人間そのものが、無限の宇宙そのものです。 生きているだけでありがたいのに、さらに、おまけとして、奇跡的に守られている幸運がいっぱいあるわけです。何十年と生きてきただけで、幸運ですし、当家では、破局に至らないできただけでも幸運です。ウソとごまかしをモットーにしている寅さんが、いまだに、M次官のように、また、A建築士のように、また、A餅屋さんのように捕まって、子どもに顔向けできない状態になってないだけでも、こりゃ、奇跡的なことです。あれらの事件は、決して人ごとではありません。そういう境遇と場に置かれれば、寅さんもきっとしてしまっただろうと想像します。笑い事じゃないのです。 幸運にも、そういう立派な立場にいないだけなのです。 それに、こんなフーテン生活を8年も続けて来ることができたってのも、奇跡的な幸運と言うほかありません。もう、ダメだって時に、何度、いろんな方に救われてきたことでしょう。 自己嫌悪なんて、自分が何様のつもりなんだってんでしょう。ただただ、ありがたい、ありがたい、合掌の世界です。それにしても、この世は、おもしろいことがいっぱいあります。これも、ありがたい、ありがたい、合掌。 こんな私に、本当の先生にならないか、という声をかけて下さる方も、チラホラいらっしゃいます。これも、信じられないくらい、ありがたいことです。でも、現実的に、壁はいっぱいあります。奇跡が起こってなれたとしても、また、そうでなくても、素晴らしいことです。ありがとうございます。 教員でないから、私は自由に活動できました。大勢の子たちと接することができました。 もしかして、どの先生よりも多いかもしれません。 たとえ一期一会だとしても、その瞬間に命をかけることができたのです。
2007.12.08
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この日記で、もっともらしいことを、しゃべっている寅さんですが、てめぇがもっとも、なっちゃいない!のです。実は。 そもそも、人の欠点に気づくってのは、自分に同様の問題点があるからなんですから。 「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか」とイエスは言いましたが、自分の目から梁を除けば、「はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができる」のです。 科学を本当に好きで活動してきたのか?子どもを本当に好きで活動してきたのか? 不純な動機がゴロゴロしている寅さんを発見して、唖然とします。金銭を気にしています。そしてその裏側には、まだ、社会への反抗心、恨みつらみが、残っている現実に、圧倒されます。見返してやる!世間を笑ってやる!バカにしてやる! まだまだ、この宇宙を信じていない。つまり「本気」になっていない。実は、寅さんの実体は、子どもを欺す、ペテン師だ。 私は、本気で生きてみたい。こんな寅さんだけれども、唯一、実験教室の直前は、「本気」だと自分でも確信がもてます。ここで、死んでもいい、いや、死にたいと思って、毎回臨めています。本番が始まってしまうと、もう、意識はぶっ飛んでいますんで、何を考えているのか、わっかりません。しかし、終わると、すぐ不純な本性が出ます。 あの「本気」で、24時間生きたい。感謝の念にあふれて、それだけを動力源に、燃焼し尽くして、真っ白になりたい。 どんな小さなことでも、実験教室でなくても、目の前のことに、真っ白になり続ける寅さんを目指します。
2007.12.06
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昨日、小学5年生のPTA行事で、実験教室をさせていただきました。私自身の反省と感想が、まだ、ごった煮状態なんで、アンケート結果も含めて、後ほど、公表したいと思います。 簡単に言えば、どうなのかと言えば、結果オーライと言えばとってもオーライなのです。 しかし、自分に対して、何と言いましょうか、がっかりだあ!!!! しかし、それにも関わらずですよ、さまざまな汚点を乗り越えて、結果が良い ということについて、かえって言葉が見つからないのです。(もちろん、準備や整理がハチャメチャなことを指摘された感想もあります) それにしても、私という人間は、いい加減な人間だとは思ってましたが、ここまで整理がつかない、鈍くさい人間だとは、自分で思ってもみませんでした。(今頃、気づいたのか!!) 特殊学級の生徒にも笑われます。 これで、不真面目に取り組んだのなら、それはそれで納得するところもあります。しかし、頑張ろうという意思はありながら、そして、結構ドタバタ試行錯誤しながら、「整理がつかない」、「準備が整わない」ということに、正直 いらだちます。自分自身に対して。 これで、大失敗すれば、それはそれで納得するのですが、内容自体は、これまた、結構、響いているのです。「弟子にしてくれ」という感想もあります。 「楽しそうにしているのが、良かった」とも書かれています。しかし、心は泣いているのです。 せっかく考えた、構想や準備をすっかり吹っ飛ばして、その場しのぎで、やってしまう自分が情けないです。 でも、さらに、考えると、構想通りやったからといってもっと良い結果が出せたかというと、そうとも言えないのです。「ここは、やっぱりこうしなきゃ」という私の心の声が、準備にブレーキをかけていたのかもしれません。 だったら、その声に従って、整理して準備すればいいものを、まったくチグハグです。 プロとしては、失格です。ま、もともと、プロになる気はなく、アマチュアとして子どもと接したいと思ってますが、講師料をもらうのが、恥ずかしい限りです。でも、これをもらわなくちゃ、次につながらない。何もできなくなってしまう。いただかなくてはなりません。これも辛い。 そっかあ、アホな標本として、見てもらえばいいんだなあ。アホな「悪の天才科学者」への同情として、献金をいただいているのです。 少し、アタマの整理ができてきました。「私は、最悪。 だけど、科学は最高。」このプレゼンだったわけです。何も、私のパフォーマンスを誉め称えるために、皆さん集まってくれたわけでもないわけで、科学に対する、良い印象を受け取ってもらえば、それで十分なわけです。 こんな鈍くさい寅さんでも、とっても楽しめるものが「科学」なんだ。君たちに、科学のトビラを開けられないはずはない、って。 主役は、寅さんではなく、科学なのだ。ただ、その人の人間性を離れた科学ってのも、存在しないから始末が悪い。 現代の科学にはいろんな流れがありますが。ある意味、「この世」は、人間の意識が作りだしたものだという考え方があります。ある研究者は、極端なことを言えば、科学の法則とサイエンスフィクションは、差はないというのです。言語哲学者のヴィトゲンシュタインの影響で、言葉のやりとりというのは、ゲームにすぎないという考えです。 これも、丸ごとでないにしろ、間違いなく真理の一部だと思います。 ですから、私の意識と参加者の意識の交流、参加者同士の意識の交流が、科学の認識をつくっていくのです。 そういう意味で、寅さんの意識も、たいへん重要な要素ではあります。そうなんだ、科学は「空」なんだ。 それなのに、私は、「モノ」や「事象」にこだわった準備をしてしまい、それが、現場に立ったとき、参加者の意識を受けたときにズレを感じ、パニックになってしまうんだ。 モノにこだわらず、意識の交流パターンを複数想定して、それに基づいた、準備をしておけばいいのだ。だから、当然、「モノ」としての準備物は、いっぱい多くなってしまうのだ。それでいいのだ。そうだ、それほど、間違いではなかったのだ。使わないものが大量で残っても、それはそれで、気にしなくていいのだ。 ただ、それが、参加者の目に入ると、「何をしてるんだ」ということになってしまうだけなんだ。気にならないように、整理して隠しておける道具を開発すればいいのだ。 だって、現場に立たないと、実際はどれを使うか、決定できないんだから。 と、まあ、私の自問自答でした。
2007.11.14
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果たして、「競争」そのもののは、肯定されるものなんでしょうか?それとも、別の切り口が、本当の原理なんじゃないでしょうか?または、ある種の制限を設ければ、そのルールの中でなら「競争」はOKなんでしょうか?言い換えれば、「競争」を通じてでしか人々は能動的に働かず、「効率性」は実現できないのでしょうか?すぐにわかることですが、人間には自己利益の追求という動機だけではなく、他者のためという動機が働いています。これは、自己の利益のためにこそ、他者のために働かざるを得ないという見方もできます。、人は社会的存在ですから、自己のための活動と他者のための活動は、コインの裏表で、切り離すことができません。ですから、自己利益を追求することの延長線上に、他者の利益を追求することが重なるように。また、逆に、他者の利益を追求することが自己利益に結びつくように、社会制度を設定・設計すれば良いとわかります。以上は、競争を有効だと肯定した上での、修正案ですが、根本的問題として、「競争」そのものが、本当に避けられないものでしょうか?競争のメリットは「効率性」でしょうが、競争の本質は順位付けです。ある特定の基準に基づいて順位を決め、順位に応じてメリットが与えられるシステム(ルール)です。基準がなければ順位を決められないし、順位を決めてもメリットが与えられなければ「競争」が成立しません。そこで、狭い特定の基準で競争すれば。幅の広い価値観、人権や環境などを排除したり軽視してしまうのは当然です。21世紀の世の中では、競争の原理に代わる、別の原理をしっかり認識することが求められていると思われますね。
2007.09.24
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私もしつこいと言うか、また、競争についての思いめぐらしです。昨日は、学校内の競争の原理を批判しましたが、社会的にはどうでしょう?私は堺屋太一さんの「競争の原理」を昔、読んでから、競争は人類の進歩に貢献するもので、この世の原理だと思ってきました。もちろん今も、出版年は古いのですが内容に色あせがない名書であると思っています。ちょうど、日本株式会社の護送船団方式に批判が集まっている頃で、歴史を振り返ることで競争の重要性を伝えています。 いろんな例が挙げられていますが、ガラパゴス諸島は、他地域から新種動物の流入がなかったので、鳥が飛ぶ必要がなく羽を退化させてしまい、一旦外から犬がきたら、あっと言う間に絶滅してしまったこと。日本の鎖国時代は、無競争時代でしたが、唯一競争に晒されていた商人だけが何度弾圧されても発展したこと。 などなど、競争原理が機能する社会のシンプルさ、強靭さ、厳しさとその世界で成功する条件について書いています。また、競争原理の厳しさについて誇張することなく、事実から論証しています。たしかに競争社会は辛いです。厳しいです。しかし、競争なしにはいずれ衰退に繋がることが、もっともだと思われてきます。でも、ひねくれ者の寅さんは、競争原理が本当に社会の進歩の原動力なんだろうか?疑ってみたくなります。なぜなら、この本のように実例をいっぱい出したからと言って、競争原理を肯定する証拠にならないことは、科学的に明白だからです。たとえば、新聞には、毎日悲惨な事件がいっぱい掲載されていますが、それは、事件が異常だからであり、世の中には、心温まる明るい話題が圧倒的に多いはずです。それらは、身近にありすぎるから、ニュースにならないのです。まず、競争原理がもたらす社会的なデメリットを考えてみましょう。すぐ思い起こされるのは、新自由主義に基づく市場の競争原理が生んだライブドアの堀江前社長や村上ファンドに代表される「勝ち組」の「金銭至上主義」です。また、自分の利益のためには、どんなことでもOKの「耐震偽装問題」「偽装コロッケ」など、人間の価値観や行動基準を大きくゆがめています。 勝つためならあらゆる手段をつくそうとするのが、悲しいかな人間の性です。逆に「ズル」もできないのは愚かな「負け組」である、という狂った考えの若者や子どもたちを生み出しています。 私は若者たちを決して、ひとり非難できるものではないと思います。彼らは、大人の心の本音をマジメに学習した優等生なんです。 人が「生きる」ということを、真正面から見つめ直す必要があります。人生は効率中心の「勝ち負け」の次元で切り分けられるものでは、断じてないことを確認しなければなりません。 もちろん、切磋琢磨は大切です。しかし、これは、「相手に勝つ」ことではなく、お互いに刺激し合って、互いに磨き合って「君も僕も共に」より真実の幸福に近づこうとすることです。 競争意識を養わせ、サバイバルなコマンド兵になることを是とする風潮は、日本の何をもたらすのでしょう。企業内競争でも、給料の格差をつければ、勤労意欲が増す人間が望ましいと思っているなら、その会社は、そういう人間の巣窟になってしまいます。本当に金が好きなら、村上さんの弟子になればいいのであって、普通の企業に来るサラリーマンなんて、才覚も度胸もない中途半端な人間の集まりだということになります。人間が何の為に働き、何のために意欲を燃やすのか、会社の経営者がわからないようでは、その企業の先行きが知れています。
2007.09.24
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自分は、自分で生きているわけではない。自分の力は、自分のものではない。自分から湧き出る、思いもよらない力に、ただただ、讃美するのが正しい、謙虚な生き方だろう。その一つに、自分のスピードへの賞賛を忘れてはならない。常識を遙に越えた、スピードを私たちは期待していい。能力の大きな部分は、そのスピードにある。特に、私にとっては、スピードは、意義のあるもののようだ。 計り知れない力を、常に賞賛し、感謝する毎日でありたい。
2007.07.16
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環境問題の授業を準備していたら、エントロピーの問題にぶつかってきた。「閉じた系」と「開いた系」そうか、開いた系じゃないと、恒常性は維持できない。地球は、宇宙に「ゴミ」を捨ててこそ、成り立っている。 ところで、私は、片付けが大の苦手だ。エントロピーを小さくするには、(限定空間だが)エネルギーが必要だということは、すんなり理解できる。そして、整理整頓とは、結局は、よそに、しわ寄せを押しつけるんだってことも。 私は今まで、せっかくのエネルギーをエントロピーを増大する方向に使っていたなあ。黙ってても、増大するのに。 私にとっては、感謝や喜びのエネルギーしか、エントロピー減少に使えないと思われます。
2007.07.16
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フーテンの科学寅さんは、ぐうたらPTA役員ですが、PTAに参加しているだけで、エライもんだと自分をほめています。先日のPTA総会で、執行部の仕事の仕方の甘さが厳しく問われました。全く的を得た指摘で、一層ピシっとしなければならないと思います。その意味で、発言をされた方は、PTAの宝だと思います。その一方、別の側面も忘れてはならないと思います。それは、このご時世、親がPTAに参加するだけでもすごい事なんだということです。参加したくても環境が許さない親はごまんといます。何を隠そう、科学寅さんも以前の酒問屋を経営していたときは、1回も学校に足を踏み入れませんでした。父親が顔を出すことが大事なことは、十分わかっていました。しかし、それ以上に、社会的な責任がのし掛かっていたのです。娘のお世話になっている古川中学校の標語に「常に正しきを求めて・・・・・・」というフレーズがあります。「正しさ」というのは、いろんな解釈があります。私は、不正をあばくことでは無いと思っています。寅さん流の「正しさ」は、「いつもニコニコ・楽しく生きること」です。どんな劣悪な環境からでも、楽しさは、導き出せるものです。そして、真の楽しさは、他人に喜んでもらうことにあります。私の科学教室の本質は、そこにあります。神様からいただいた生命の活かし方として苦々しい顔は、決して「正しく」はないと思うのです。組織活動の上でも、「正しいことを言えばわかってくれる」もんじゃありません。相手の心を柔らかくとろかし、ほんわかとさせることによって、自然と人は動いてくるものです。PTAは、上意下達の軍隊とは違います。任意のボランティア組織です。来てくれたお父さん・お母さんに、それだけで、拍手を贈り合いたいと思います。
2007.04.28
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古川第三小学校5年生向けの第一日目が終わりました。またまた、早速、校長先生にこの写真をいただきました。何と、スピーディーな。そして、画質がとってもいいんです。今日の子どもたちの中で、すでに私の実験を体験している子は、まだ、数人しかいませんでした。そっかあ。だったら、何も新しいことにこだわる必要もなかったんだ。今回は、私の生き方そのものが、テーマです。その意味で、十分に伝えられたのか?最後の質問の時間がなくなってしまった。昨日、三時までブログの更新にかかってしまったので、寝坊で、準備がギリギリに。それが、結局尾を引いた。明日は、余裕で向かっていこう。それにしても、学校内の倫理レベルは、一般社会より、やっぱりというか、当たり前と言うか、高いことを実感します。何を、と言うのも憚られますが、特に小学校には、清さ・聖さが漂ってます。そんな中で学べる子どもたちは、幸せです。あまりにも、清いから、こそ、不祥事が目立つのであって、もう最初から濁っているのが当たり前なら、不祥事も全然、注目されもしないのです。全く、小学校でのボランティアは、心の洗濯です。
2007.02.13
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昨日、中学校の同期会に参加してきました。幹事さん、本当にありがとう。みんな、今年、50になるなんて信じられないくらい中学生のまんまです。本当に変わっていない人がほとんどだ。と言うことは、今の中学生もそのまま大人になっていくんだろうなあ。でも、それぞれの人生は、いっぱいいろんなことが詰まっている。それでも、この場では、仲間だ。こんなに気持ちのいい会も少ないと思う。高慢さを自覚しながら、言うのですが「生徒会長」だった私に、期待しているのってやっぱり、あるんだって、驚きの発見をさせてもらいました。相澤だったら、何か奇抜なことをしてみんなを救ってくれるんじゃないかって、思い。早とちりかもしれないけど、感じてしまった。仲間である、みんなのために、そして、昨日、来られなかった人のためにも、地元に残る者の勤めとして生徒会長として何かしてやりたい、という思いを持つことができました。これをエネルギーにして、頑張りたいと思います。ところで、お世話になった、先生方が、当時、20代だったことを知りました。すごく年上で人生経験豊富のような気がしてたので、とてもびっくり。ううん、20代じゃ、相談ごとに適切なアドバイスができないのは仕方がなかったなあ。逆に、よくやってたなあって、拍手したい気分でした。さらに、ところで、ですが、私のパソコンが電源コードがいかれたために、使用できない状況です。今、パソコンを借りて打っています。しばらくギクシャクすると思いますが、ご勘弁を。(激励いただけます方は、クリックをお願いします。)
2007.01.03
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本年、多くの方々にお世話になりました。そして、御迷惑もお掛けしました。 新年は、必ず、2倍3倍返しで、ご恩に報いさせていただきます。期待しないでしょうが、期待して待っててください。 これまでの、イターイ学習成果を生かして、歯車の方向を変えてみせます。今まで、寅さんに投資してくださったことが、ムダではなかったことを実感していただきます。ありがとうございました。(激励いただけます方は、クリックをお願いします。)
2006.12.31
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前の記事では、訳の分からないことを書いてしまいまして申し訳ありません。書きながら、アタマを巡らしていたもので、あの論理の流れは、私にしかわからないでしょう。皆様のためには、消してしまうのが、自然なのですが、私のために、思考の記録として残しておきたいと思います。だって、この日記は、私のためですもんね。ところで、結局もって、寅さんは、新しい目標をもったようです。って、人ごとのように言うのも、おかしいですが、燃える目標をもつことができました。まだ、公表できませんが。科学実験が人生の第二のスタートだとするとこれが、第三のスタートとなるでしょう。たった今から。燃えられることは、ありがたいことです。この目標をくれた、環境すべてに感謝したいと思います。よいお年を。って、まだ1日あるなあ。(激励いただけます方は、クリックをお願いします。)
2006.12.30
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聖書はたえず「救いは貧しい人々を通して訪れる」というメッセージを響かせています。救いはだれにもやって来ますが、貧しい人々を通して来るのです。どうして、金持ちは「恵まれない」のだろう。金持ちにこそ、人格者はいるんじゃないでしょうか?神さまがお求めになるのは、たった一つのまなざし、たった一つのため息です。しかし、金持ちは、その大切さに気づかないのです。また、この世の成果は、本人の努力と才能によるのだとすれば、成果(金)の上がった人は、正当な努力によるランキングの上位の人だと見られて当然です。しかし、神様の恵みは、聖書によると義務を果たすエサウより、陰謀を企てるヤコブに降り注ぎました。サムソンという、とんでもない不良に超自然的な強い力を授けます。小さな羊飼いの少年ダビデをイスラエルの王に仕立てます。そして、そのダビデ王の密通の実であるソロモンに知恵という最高の贈り物を与えるのです。これは、まるで「アマデウス」で敬虔なサリエリには神をたたえる不朽の音楽を創作したいという真摯な願望があったものの、その才能がなかったこと。代わりに神が、前代未聞の音楽の天才という最も偉大な贈り物を思春期前半のいたずらな少年ウォルフガング・アマデウス・モーッアルトに惜しみなく与えたことにサリエリは激しく憤ったことに通じます。「アマデウス」の作者は、神はなぜ、神からの賜物を受けるに値しない悪ガキなんぞに「報いる」のだろうと考え込みます。聖書は、恵みは神からの贈り物として受け取るのだよと教えています。苦労を重ねて得るものではないのです。救いの恵みも、その後の喜びも感謝も、あるいはその人にとって苦しみと思われる試練という恵みも、すべてが。恵みは自分の功績によって受けられるものではないのです。なぜならもし神がそのような功績という条件を満たさなければ恵まないとするなら、その条件を満たすことのできる人は誰一人いないからです。何より、恵みは神の愛から出ているのです。イエスが語られたたとえ話の中で、主人は、丸一日働いた人と同様に、1時間だけの労働者にも一日分の賃金を払っています。騙したわけではありません。きちんと約束されたものを彼らは得たのです。朝早く雇われた者も愛され、また遅く雇われた者も愛されたのです。『私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。』という愛から恵みは下されるのです。パリサイ人を筆頭とするユダヤ人たちは、われこそ神の選民と言い、一番神から愛されていると自負していました。しかし、イエスは異邦人をも愛されました。異邦人にも同じ恵みを施したのです。私たちは、しばしば自分を誰と重ね合わせるでしょうか。その日の終わり頃に加わった労務者より、丸一日働く者に、ではないでしょうか。私たちは責任感ある労働者だと考えたがるのではないでしょうか?神は私たちに、愛の贈り物を、それもお返しのいらない贈り物を与えるつもりなのです。いや、もう与えているのです。これだけやっているのだから恵みを受けて当然だという自己中心は私たちのうちに根強いものがあります。これこそ、神様の恵みを受けるのに、一番の障害になるのです。なんで、こんなことを寅さんは、急に書いたのか?それは、実は、ある復讐心に囚われているからです。寅さんは、ある不当な辱めを受けました。それを思うと憤りと悲しみで涙が出ます。「復讐とは対等になろうとする情熱である。それは誰かが自分に与えた苦痛と同じ苦痛を与え返そうとする熱い願望である」とある本は言っています。しかし、また、同じ作者は、「赦さなければ、自分を過去に閉じ込め、変化へ向かう可能性をすべて締め出してしまう。」とも書いてあります。でも、私には許す度量はありません。「恵みは宇宙の中で、幾世代をも呪縛する鎖を断ち切るだけの強さを持つ唯一の力であるからなのだ。」そうです。「恵み」、唯一これこそが世界を救うのです。私は十分に恵まれており、恵まれすぎており他人との関係など、目じゃないのです。神は何故、正義の仇討ちをするよりむしろ、正義を育てるという時間のかかる、どうしようもないやり方をよしとされるのでしょう。インドのガンジーはかつて、キリスト教徒の作者に言いました。「あなたは勇気を見せなければならない、とキリストは言ったのではないかと思います。つまり喜んで一度か数回か殴られて、あなたには殴り返すつもりもないし、逃げるつもりもないと示すのです。そうすれば、人間の本性の中にある、彼の憎しみを減らし、尊敬を増やす何かに訴えることになるのです。キリストはそれを知っていたと思いますし、私はそれが功を奏すのを見てきました。」「良きサマリア人」の聖書の箇所で律法の専門家である質問人の、その後の反応を見ると、そこには、自分の正しさを示そうという専門家の言葉があります。彼は「私は正しい人間だ。私は神を愛し、隣人を愛する正しい生き方をしているではないか。イエス様、私がそのようなことを実行してないとでもおっしゃるのですか?」といわんばかりの自信とプライドを持って生きていたようです。言い換えれば、「彼は自分の正しさによって生きていた」といってもいいでしょう。イエスがこのたとえを彼に語った理由は、神の憐れみによって生きてないことを彼に悟らせ、彼が自分の正しさではなく、神の憐れみによって生き、そうすることによって永遠のいのちを、神からの一方的なプレゼントとして受け取らせるためだったのです。この意味でも、金持ち(自分の正しさをいっぱい持っている人)が神の国に入るのは、ラクダが針の穴を通るより難しいんですね。私も往々にして、現金がなくても、自己正当化の金持ちになってしまいます。注意をしたいと思います。神様、分不相応ないっぱいの恵み、ありがとございます。(激励いただけます方は、クリックをお願いします。)
2006.12.30
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自殺する人が後を絶たない。私の友人も、何人か、命を絶っている。ときどき、自分自身さえ、そのシュミレーションをしていることに気づく。最後の最後で、自殺を思いとどまらせるものって、何だろうか?それこそ、人生のお宝じゃないだろうか?決して、財産でも、株でも、ネットワークでもない。自ら死んでいく人もいれば、生きたいのに生きられない人もいる。今年、I子さんは、急性骨髄性白血病のため亡くなりました。彼女の人生はあまりにも短く、将来は大学への進学を夢見ながら志半ばで世を去りました。しかし、死に至るまでひたむきに精一杯生き抜きました。病に倒れても学び続けました。彼女にとって、学ぶということは、生き甲斐であり、生ける証だったのでしょう。一日一生の思いで毎日を一生懸命に生きた彼女の思い出は、近くで接した者はもちろん、遠く離れても志を同じくする人々にはいつまでも鮮やかなイメージを残して消えることはないでしょう。人は、自分の思いだけで生きているのではないのです。無数の人々の思いを自分のものとして、生き抜きたいものです。(激励いただけます方は、クリックをお願いします。)
2006.12.30
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人を助けるには、力をもたなければいけない。まず、自分がパワーをもて。と考えがちです。寅さんも、いつも悩んでいました。つい、さっきまで。しかし、それは、もしかして違うんじゃないかって気づきました。助けられた経験が無い人は、人を助けられないんじゃないか。自分自身誰かに助けてもらった経験があればこそ、今度は、誰か苦しんでいる人がいたら、自分がその人の隣人としてその人を助けたいと思うものです。私がすぐ思い起こすのは、「良きサマリア人」のたとえですが、キリスト教徒であるか否かを問わず、人が他の誰かを助けようするのは、自分が助けようとするその隣人に、かつて苦しんでいた時の自分と、さらには、その苦しんでいた自分を助けてくれた隣人を見るからではないでしょうか。それ以外に人助けがなされるとすれば、それはかなり不純な動機に基づいているはずです。「たとえ、全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」というイエスの言葉。他人を無視して、あるいは他人をうまく操作しながら自分のわがままに生きるのか、それとも、他人に遠慮し、屈服し、そして実際には密かに他人を恨み、自分を抑えながら生きるのか、この二つの選択肢しかないように思いこんでいないでしょうか。しかし、どちらの選択肢にしても、自分の命を失うことになります。イエスはけっしてわたしたちに闇雲に自己否定や自己放棄、自虐を求めているのではないと思います。そんなことをしても、わがままな生き方をする場合と同様に、本当の自分、命は得られないでしょう。わたしたちは、自分が人から何をしてもらいたいかを自覚してるでしょうか?それがわかっていなければ、人になにをしていいのか、何をしてはいけないかもわからなくなります。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなた方もひとにしなさい」というイエスの言葉。自分では親切な人間だと思いこんでいる人々はしばしば、「人がしてもらいたがっていることは何でも、その人にしてあげなさい」と誤解しては、そんなことは実際にはなかなかできないと思ってしまいます。わたしたちは、自分が何をしてもらいたいかを考えないように毎日を生きているのではないでしょうか。そんなことを考えるのは、わがままだとか大人げない、子どもっぽい。人の世話にならずに自立してがんばってきたという誇り。自分が誰からも理解も同情もしてもらったことがなく、反対に、人からひどい扱いを受けてきたと感じているのなら、辛い過去を思い出して自分があまりに情けなく惨めだという気持ち。 ところが、イエスは、自分の求めているのは生け贄ではなく、憐れみだといいます。憐れみそれはわたしたち自身のもっとも深い、しかし、それゆえに、もっとも歪められてきたかもしれない願いではないでしょうか。世話を求めている隣人は、実は他ならぬわたしたち自身であるのです。「隣人」はわたしたちの目の前にいると同時に、わたしたちの心の中にもいるのです。そして、本当の自分は隣人のなかにいるのです。良きサマリア人となれるのは、か弱い本当の自分を認められる人であり、強い人になれば良いのではないのではないでしょうか?(激励いただけます方は、クリックをお願いします。)
2006.12.30
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私は、「善意」を、人間の「善意」を、宇宙の「善意」を信じて生きていこうと思います。こちらの善意が空振りに終わることが多いでしょう。この目では、この魂では、善意をこの世に発見できないかもしれません。しかし、それでも、信じて生きていこうと思うのです。尽くしっぱなしになるとき、何の見返りもないことが続くとき、誰からも認められないとき、人は、すねて、うらんで、自己本位に生きてやろうと思うのは、自然の流れだと思います。しかし、社会がそうだからと言って、自分の生き方まで同じでいいのだろうか?それこそ、敗北ではないだろうか?かく言う、寅さんもギリギリの線に立つと、ほとんど、希望を捨ててしまう寸前まできます。善意を信じる希望を捨てるのは、本当に辛いことです。この世は、食うか食われるかの世界だと認めることは、本当に辛いです。人の善意を信じるなんて、甘っちょろい、ロマンチシズムであり、子どもの発想だ。大人の考えではない、こういう甘い考え方は、かえって罪である。犯罪である。と。ああ、私は間違っていた、大人にならなければいけなかった。こう反省するのは、本当に辛いです。同じ辛いなら、徹底的に善意を信じて、バカを見てみようかと決意をしたのです。そうです。世の中がこうだからではなく、私の決意・決断、意志の問題なのです。それで、生きていけるのかって?生きていけるように努力はします。しかし、たとえ、生きていけなくたって、…いいと思います。家族はどうするんだ?それぞれ生きていくものです。殺されない限り、自殺をしない限り、プライドさえ、こだわらなければ、飢え死にすることはありません。ホームレスから、身を起こした人は、たくさんいます。あなたは、人間の善意を信じますか?人は多くの場合、打算で動いていることは、間違いありませんね。そして、いざという時、そろばんが合わなければ、助けてもらえないことがほとんどです。助けたいんだけど、助けられない場合もあるでしょう。でも、ワラをもつかむ人にとっては、ワラ一本が世界のすべてなのです。ワラを差し出せるかどうか?差し出す人がいるのかどうか?自分の利にならなくても。寅さんは、本当に誰からもそっぽを向かれたら、ダメになってしまうでしょう。善意を信じるパワーは生まれてきません。ただ、ギリギリのところで、不思議に助けてくれる人が現れてきました。ほんの小さなワラが、大きく大きく心に響くのです。涙が止まらなくなります。そして、反省させられるのです。「お前は、カンタンに悪魔に魂を売る男だぞ」って。そうなんだ、私は、とっても弱くて、バカな人間だ。だからこそ、信じる決意が必要なのです。私の人生は、私の人生です。魂まで、もっていかれて、何が自分の人生でしょうか?弱肉強食の世界に魂を売って、それで生きたといえるのか・私は、そのようには、生きたくない。ただ、それだけです。(激励いただけます方は、クリックをお願いします。)
2006.12.29
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心も大掃除をしておこう。要らないものは、捨ててしまおう。いずれ朽ち果て、チリに帰るものがあります。そんなものを後生大事に抱えていても何の役にも立ちません。所詮は私たちは、物質ではないのです。真の富はどこにあるのか。何なのか?それを悟ることこそ、生涯を通じての学習です。それを悟ったとき、真の自分を見出したことになるのでしょう。ほとんどの人は、ガラクタも同然のものを追いかける。子どもたちにも追いかけさせる。永遠の魂にとって本当に大切な叡智こそ子どもたちに伝えるべき教えのポイント決してモノではない。金銭でもない。もちろん、この世では、これらは無視できない。しかし、それに飲み込まれることだけは、ご免蒙りたいものです。(激励いただけます方は、クリックをお願いします。)
2006.12.28
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暗闇の中でこそ、光に感動するものです。(激励いただけます方は、クリックをお願いします。)
2006.12.28
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いつも明るく楽天的で愉快な気分を(激励いただけます方は、クリックをお願いします。)
2006.12.28
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一番の健康法「元気いっぱい現金なし」(激励いただけます方は、クリックをお願いします。)
2006.12.28
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偶然、昨夜、「オーラの泉」を見ていたら、この世は学校であり、修行の場だと言っていました。そうだよなあ、と納得しました。TERAKOYAは、生涯学習発信基地というふれ込みなのですが、この世自体が、生きている限り、学習の場なんですね。(激励いただけます方は、クリックをお願いします。)
2006.12.27
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昨日の午前中は、古川子育て支援ネットワーク会議科学寅さんは、なんと代表を務めてしまっています。会議が終わってからの座談会で、ボランティアの育成談義。セミナーに出てもらっても、その後、活躍する場を提供していなかったという反省。やはり、人はお役に立って、人から感謝されてはじめてやる気になり、成長もしていくもんだ。寅さんも、多くの団体の皆様に育ててもらったんだよなあ。午後は、南郷児童館で、はじめての魔法学校一般来館児も含めて、40名以上が集まりました。志賀児童館でも感想に、もっとコワイものがあれば良かったとあったので、今回は、バクハツ系も入れてあります。自分で言うのも何ですが、良かったと思います。同じものを連続してやっていくのは、確かに、レベルが上がりますね。1月以降の打合せも。美里町の児童館で、来年も連続してやっていけそうです。ふと気づくと、ここに書いてきたようなことを子ども達にしゃべっている自分に気づきます。何て、吸収の良い子どもたちなんだ!スポンジのように、ズズーっと吸い取られていくのがわかりました。南郷町にも、大勢の「仲間」ができました。本当に良い機会をありがとうございます。(激励いただけます方は、クリックをお願いします。)
2006.12.25
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今日は、お陰様で、2つのコンサートを無事成功させることができました。一つは、予想以上の人出と、マスコミへのアピールも良かったし、実際、テレビ放映も良い画面でできました。また、もう一つは、今まで、失敗続きだったのが、今年、初めてと言って良い成功を収められました。私のアイデアの勝利?いや、恩返しができたのです。年末謝恩ができました。また、その合間に、重要な打合せも済ますことができました。ふと、「よくやったなあ、」って思うと急に疲れがでてきるものです。そして、ほっとするとそうです。いつもの持病、偏頭痛です。ベッドで、ハタと気づいたのです。自分の力でやったと思うから、「疲れた」と思うのです。自分の力?そうじゃないでしょう。無限の力に押し出されてしたことでしょう。君は何をしたというのだ?パワーを自分のものと思うの?バカじゃないの?自分が心臓一つ動かし得ないことを忘れたのか?自分自身に「よくやった」「疲れた」って言うのは100年早い。ただ、ただ、「よく動かしていただきました。」「あなたは、すごい。」「素晴らしい。」と「無限の力の根源」に対して、ほめたたえるだけです。私は、ただの水道管であり、電線なのです。そしたら、偏頭痛が解消したのです。そして、シャキっとしたのです。これだ!(激励いただけます方は、クリックをお願いします。)
2006.12.23
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あさって、宮沢賢治の「雪渡り」の朗読会があるので、どうしても、賢治に思いが向いてしまいます。欲ハナク決シテ瞋(イカ)ラズイツモシヅカニワラッテイルこれが、人間の三大在り方だということなんだろう。特にいつも静かに笑っていられる人、私は尊敬します。人間の大きさとともに、吸い込まれる魅力を感じます。ニッコリ笑って、死んでいきたいものです。たとえが悪いがケンカも多くなぐった方が勝ちなんかじゃない。最後にニッコリした方が、勝ちなんだ。どんなことでも、ニッコリ受け止められる人間になりたい。どんなに外面的には、不条理に圧迫されても、内面の自由、特に、「ニッコリする自由」だけは奪われてたまるもんか。そうら、フツフツと笑いがこみ上げてくる。普段、いかに、笑いを押さえ込んでいるか。笑いを解放してやろう。(激励いただけます方は、クリックをお願いします。)
2006.12.21
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奉仕は見返りを求めないから、奉仕なんだ。(サービスとは違う。)でも、一方的に尽くしていると、どうしても疑問が湧く瞬間がある。「誰もわかっててくれないんじゃないか」、と思うとき。いや、「当然理解してくれてもいいはずの人が、関心をもってくれない」とき。そんな時、損得計算が働いてしまう。人生の方程式では、左辺と右辺は釣り合わないものなのか?いや、宇宙の方程式では、きっと人間の知らない変数があり、トータルでは、きっちり等号が成り立つのだ。この世の人間には、見えないだけなんだ。まさに、ミッシングリング。そして、これこそが、幸せのキーなんだ。と、言い聞かせながら、3時のおやつを食べています。今、チラシを学校にお願いにまわっています。クリスマス・オルガン・コンサートを開きます。いっぱい、いっぱい、やることがある。計算するとゲップが出て、やる気が起きなくなる。うん、任せよう。天に。もう、計算するな!(激励いただけます方は、クリックをお願いします。)
2006.12.21
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「がんばれ」という言葉は、気をつけなければならない。うつ病の人には、言ってはならない。一生懸命やっている時に、「がんばれ」と言われると「これ以上、どうしろっちゅうんだ!」って、ピキっときてしまいます。でも、今のボクには、「がんばれ」が必要だ。今こそ、がんばれ!がんばれ! がんばれ!まだ、まだ、パワーを出し切ってない。ここでポシャれば、悲しむ人がいる。ここでポシャれば、多くの笑顔が失われる。そうだ、君は今までもそれなりに、がんばってきた。それなりに精一杯やってきた。それは認めよう。責めはしない。すごいと思う。ただ、まだ、殻に閉じこもっているんじゃないか?そして、君は、その無限のパワーの存在を知っているんじゃないか?それを引き出してみるのが、生きるということの醍醐味じゃないかい?さあ、やってみよう。何も考えずに、無限の宇宙につながろう。自分を消し去ろう。真っ白になろう。自分の力じゃないんだから、自分で量ることはできないんだ。だから、「できない」なんて、計算したようなことは、誰も言えない。すっかりゆだねて、走ってみよう。(激励いただけます方は、クリックをお願いします。)
2006.12.21
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