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パソコンなど、ひとつのことに没頭すると私は、時間をすぐに忘れてしまいます。昨日も、ある打ち合わせを、危なくすっぽかすところでした。これって、ある意味、ひとつのボケじゃないだろうかって、思う時があります。 逆に、時間に追われ、実験の準備などで、ドタバタ家中を走り回っているとき意外に素敵なアイデアが浮かんできて、画期的な進歩を遂げることがあります。 もしかして、体を動かすことと脳ミソとは、とっても関係が深いんじゃないか、と思ってましたら、ありました。「ランニングで頭がよくなる」京大名誉教授 久保田競著 内容は、いかに、気持ちの良いリズミカルな運動が脳をはじめ、全身の若返りに良いかという科学的な解説です。 健康に良いことは、わかりきっているのですが、脳ミソにまで効き目がバツグンだということは、意外に知られていないのではないでしょうか? 子どもたちは、学校で体育をしていますんで、ある程度大丈夫でしょう。問題は大人です。 ダイエットのためばかりでなく、ボケ防止のためにも、体を動かすぞ。今、足踏みをしながら、パソコンを打っています。 ところで、PTA行事ってのは、見事に同じ日を狙うもんですね。予定の入ってない日もいっぱいあるのですが、希望日がぶつかって、残念、ということが続いています。科学実験教室を検討されているPTA・子ども会さんは、月日だけでも、早めにツバをつけておいてください。キャンセルもOKですから、まずは、スケジュールです。
2010.05.29
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「私は、子どもに考え方を押しつけていない」、という先生でも、意外な盲点があることに気づかされます。実験結果の予想を討論していると、中には、立派な意見を言う子がいます。正に、科学的に完璧なのです。「私が言いたかったのも、このことなんだ」、と思わず手をたたいてしまうくらい。 ところが、他の子どもたちは、意外に影響を受けないのです。 それよりも、杜撰でいい加減な意見の方にみんなフラフラと流れてしまうのです。 これを子どもの知恵の足りなさだ、と笑っているだけでいいのでしょうか?だから教育が必要だと見るだけでなく、 もし、、もし、あの立派な意見を担任の先生が同じようにしゃべったなら、子どもたちは、どう思ったかを想像してみたいのです。きっと、先生の言うことだから、そうなんだ、それを覚えておかなくちゃ、試験で点数がもらえない、と有無を言わさず覚えたと思います。 ここに怖さがあると思うのです。 子どもたちの本心には、間違った意見に惹きつけられる素地があるのです。そこに、触れないで、大人の正論だけで説明されてしまっていたわけです。 これを押しつけと言わずに、何と言いましょう? 大人が完璧な説明だ、と思って満足していても、それは、子どもにとって、おそろしい押しつけであることが、しばしばなのです。 子どもの心の奥にある、別の論理を引き出す努力をして、それに目を向けてやらなければ、本当の意味の「わかった」や「感動」は生まれません。どっちみち、実験すれば、正しいことはわかるのです。 十分にあらゆる間違いをさせるのが、教育的な配慮ではないでしょうか? 当地では、今日から始業式おいしい給食をいただいてきましたが、風邪をひいたみたい。インフルエンザ????!の文字がチラホラ明日、様子みて、診察してもらってきます。
2009.08.24
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実験をする前に、必ず結果の予想を立てさせて、できるだけ討論が起きるように、私は努力しています。 しかし、これまた、極力、答えを誘導しないように、注意をしています。 なぜでしょう?自分で考える力を育てたいから、が主な理由ですが、討論すると、実は、半数以上の確率で、間違った方向に全体が流れていきます。 先日も、体重計に乗ったときの重さの問題で、体重計の上で、踏ん張った時の方が重くなる、という予想に多くの子がどんどん引きずられていきました。 また、虫眼鏡の実験でも、外の景色を集めて、映し出すことができるか?という問題に、木や建物は光を出していない、という意見にどんどん影響されていきます。 その間、私は、議論を活発にすることには、努力しますが、間違った考え方や、幼稚な意見を、指摘することも、誘導することもありません。 ですから、一見、講師としての仕事を放棄しているように見えるかもしれません。 確かに、実験内容そのものが複雑だったり、問題構造が難しかったりすれば、誤解が無いように、説明する必要はあります。 でも、そうでない限り、いや、そういう、どうにでも解釈できる実験自体、良い科学実験ではありませんから、出しちゃいけないんで、答え一発、実験結果が、何を言わんとしているのか、はっきりしているものであるべきで、そうである限り、予想で、なんぼ間違っても、かえって効果的と言えると思います。 実は、なぜ、多くの場合、間違った方向に議論が流れるかというと、自分の考えに自信がないからです。根拠の無いまま、それまでの授業の流れから言うとこっちの方かなあ、と空気を読んで、手をあげる子が多いんですね。(それ自体も、悪いことでもありませんが) そこに、強烈な論理をもった意見が飛び出してくると、足元がぐらつきだして、予想をもっていかれちゃうのです。 だから、間違った考え方を吹き込まれるというよりも、自分自身の本当の考え方をあぶりだされるのだと思います。 ここで、もし、ですが、私は極力していないわけですが、自由な討論をさせないで、先生が解説をしながら、「みなさん、どっちでしょう?」と聞いたら、ほとんどの子が、正しい予想に手をあげることでしょう。そして、それを見て、授業成果が上がったと先生および、教育関係者は喜ぶっでしょう。 しかし、それでは、子どもたちに潜む、「でも、本当はこういうことは、ありえないんじゃないか」「常識的にこうだよ」 「ほんとうかなあ」という心の奥の声は、押しつぶされていっちゃうんですね。 これは、表立っては、誰もが気付かないうちに行われる圧殺です。子どもたちさえ、気づかないことが多いと思います。が、心の奥では、こういう押しつけに反発が生まれ、それが積み重なって、理科嫌い、勉強嫌いになっていくのだと私は思います。 議論は、どんなに間違ってもいいのです。かえって、大勢の子が間違えば間違うほど、感動的な実験になります。(いつまでも、間違ってばかりいるのは、問題ですが) じゃあ、講師の役割って、なんだろう? それは、面白い問題、考えるだけで、ワクワクする問題をもってくることです。そして、それを一目瞭然に判明させる実験を用意することです。 実は、それさえできれば、80%は、もう勝利したようなもんなんです。しかし、これが、なかなか教師一人で、用意できるもんじゃありません。多くの方々との連携や、仮説実験授業の授業書を使わなければ思いつきで、成果を上げることは、と~っても困難です。 もちろん、世にある、マジックショー的な演出効果の高い科学実験は、それはそれで面白いでしょう。しかし、それが、自分の 認識を変革してくれる深い感動を与えてくれるでしょうか? 良い問題とは、必ず、哲学と結びついています。常識的なものの見方をゆさぶって、原理原則にもとづく、論理と激しくぶつかるところから、自分のこの世界を見る眼鏡の変更を迫られるプレッシャーを感じるものです。 だから、講師の仕事は、自分で問題や実験をつくるということは、半分以上あきらめて、 (いや、ほとんどあきらめて)世の良い問題をあつめることに、注力すべきだと思います。 そして、もっと現場の講師にとって大切なことは、生徒の様子を良く見ることです。一人、ひとり、今日の様子は違うわけです。家庭でお父さんお母さんが、夫婦喧嘩したかもしれませんし、友達同士、気まずい関係になってるかもしれません。体調が良くないかもしれませんし、反対に絶好調かもしれません。 そこのところを読み取るのは、現場の担任の先生にしかできません。それらを考慮しながら、予想の討論をすすめていくのです。 だから、一発講師で、ぽっと来た私が、その微妙な関係をつかむのは困難です。しかし、それでも、この子は、影響力ありそうだ、とか、こういう目立たない子が発言したら、面白いだろうなあ。とかいつも、授業に参加しないあの子は、実は、どういう考えしてるだろうか、とかそんなことを、あれこれ、あれこれ考えています。 あとは、勝手に、感動してくれます。決して「感動しろよ!」と言って感動させるもんじゃありませんから。(あったりまえですね) 夏休み終了直前いやあ、忙しいです。私の黄金の時の、このパソコンに向かっている時間も、ここ数日、とれませんでした。特に、雑用で時間が奪われるのが、苦痛です。 でも、その間、私のアタマは、別の空想でぼ~っとしてますからそれなりに楽しめますが。 みなさん、インフルエンザに気をつけましょうね。
2009.08.23
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私の授業では、いつも、生徒に授業評価をしてもらっています。(もちろん、主催者の了承を得た場合ですが)それは、「楽しかったか」で5段階評価それと、「わかったか」で5段階評価これだけです。だから、とっても簡単。ものの15秒で書けてしまいます。あと、感想を書きたい人だけ、なんぼでも書いてもらいます。 こんなんで、ちゃんと評価ができるのだろうか?とお思いになる方も多いと思います。「授業評価」が、焦点になってきています。が、「評価」となると、アレルギーがある場合が多いと思います。 確かに、評価は、管理・コントロールと裏表に使われます。さらに、「生徒による授業評価」に疑問があるでしょう。「生徒に授業を評価する力があるのか」という問題です。 でも、「評価」と言わずに、「アンケート」と考えたらどうでしょう。例えば、消費財メーカーは自社で開発した製品について、高いコストを払って、消費者にモニターになってもらい、使い勝手についてアンケートを採ります。実際の効果はどうか、買いやすかったか、わかりづらいところはなかったか、、意見を吸い上げ、それを製品の改善、改良に利用します。授業もこれと同じじゃないでしょうか?ユーザーである生徒にメーカーである先生や文科省が開発・製品化した「授業」というサービスについてアンケートをとると考えれば、「生徒に授業を評価する力があるのか」という意見はまったく的外れですよね、。しかも、消費者はその商品が良くなければ購入しなければ済みますが、生徒は授業が分かりにくいから受けないという訳にはいきません。 たしかに、 「学習効果」について生徒が客観的に判断が下せるものか、という疑問はあります。これは、結局、生徒の主観的印象にもとづく数値であり、ご想像通り、授業に対する満足度(教員に対する好感度も含む)が高ければ実際の効果とは全く無関係に高くもなれば低くもなりえます。だから、「学習効果」の測定は教師の側の責任ではないだろうか?という命題はあります。その道のプロとして自らの教育効果の判定を棚上げして、その評価判断まで生徒に委ねていいのだろうか、と。相対的に自分のレベルを判断できない生徒にとって「効果」というのは非常に主観的な判断になることになります。下手をすると、単なる教師への人気投票に近いものになる危険があります。たとえ、真面目で優秀な生徒でも、全体的なカリキュラム構成を見渡せる知識を持ち合わせていない以上、授業そのものの「効果」判定に、ゆらぎが生じるのは当然です。また、個人の学習効果をもって、授業の評価に代えて良いのでしょうか? このように、疑問がいっぱいありますが、それでも、生徒のアンケート結果は、重要だということは、これまでの実績が、物語っています。生徒は、教師の裏側まで、よく見抜いているものです。 そして、現時点での授業のうまさだけでなく、教師の改善努力もしっかり評価しています。つまり、教師の成長も、じっくりと見つめているのです。 ただ、これは、生徒の主観的な評価であって、それを問う意義があるというものです。客観的な学校や文科省が求める「学力」については、学校側が測定しなければならないことは、明白です。 じゃ、主観的なアンケートの本当の重要性はどこにあるのでしょうか?目的とすべきは、何なのでしょうか?科学寅の授業で配られるアンケートは、何のためになされているのでしょうか? これは、生徒の創造性をいかに伸ばしたかを、測る目安にするためです。昨日の記事に、森の声さんが、科学寅の科学授業は、アートの表現教育と同じだ、というコメントをいただきましたが、まさに、それに通じるものだと思っています。 おっと、これについては、また明日。ここ数日、モーレツに忙しいです。物理的にも精神的にも。車をぶっ飛ばして、走り回っています。でも、全然、苦ではありません。1日飯も文字通り食べない日もありますが、こんなにありがたいことはないと思っています。子どもとの接触機会は、お宝です。無条件にうれしいものです。仕事をください!
2009.08.19
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多くの高校や、大学の、オープンスクールが目白押しでしたね。塾やイベント興行主も、いろんな学習を体験させてくれています。もちろん、生徒募集のPRであるのですがいっぱい比較検討する機会があることは、ありがたいことです。 こういう体験会は、生徒や親御さんの好意を得ようとガンバルわけですから、押しつけや圧力的な「指導」は、ほとんど無いでしょう。あれば、楽しくないですから。何と言っても。 ところが、通常の学校で行われる「体験学習」というものには、「ここで、こういうことを学んでもらいたい」「こういう教訓を得て、こういう人間に変化してもらいたい」という、押し付け的な意図が、随所にほどこされています。そして、なぜか、そういう体験学習は、面白いものではありません。 おや、科学寅さんは、先日来、問題意識や、アプローチの切り口を事前に指導することが一番大事だ、って声を張り上げていたんじゃないか?って疑問に思う方もいるかもしれませんね。 でも、違うんです。私が言うのは、面白い切り口、すなわち問題の発見の仕方は、先に提示しますが、それに基づいての、仮説の立て方や、発見の方法、主義主張は、全くの自由に任せるべきだと考えているのです。もちろん、その意見発表や表現の方法も。 そんなんで、生徒は変わらないじゃないのか?もっと周到に、生徒が変わるように、仕組まなくてはいけないんじゃないかって、思われる方、その方は、私と根本的に発想が違います。 お陰さまで、意図したことではないのですが、私の実験授業を体験した生徒や先生はそれ以来、科学への見かたが変わったと言ってくださる人が多いのです。私の授業を生徒と一緒に体験された先生は、うちのあの生徒があんな意見を言うなんて!、と驚くのです。そして、「生徒に対するものの見方が変わった」とおっしゃる人が、本当に多いのです。 でも、これは、私が意図したことではありません。参加者が、自由に発想でき、自由に発言できた結果参加者が「自ら」、勝手にいろんな気づきを得てくれたのです。 いやいや、それもこれも、大きな意図に基づいているんだろう、とおっしゃるかもしれません。そして、それは、否定できないことです。どっちが先かはわかりません。卵が先かニワトリが先か? しかし、あえて、言わなければなりません。表面的には、どう見えようと、本質的なバックボーンとしては、人を変えようなどとは、意図すべきではないし、だからこそ、心から楽しめるのだと。だからこそ、人はそれを機会にどんどん変われるのだと。 意図しているのは、「楽しい科学」それは、自由な発想と発言に支えられたもの。そして、それこそ、本来の科学。 ところが、世の総合学習は、周到に、最初から、教訓として獲得すべき道徳っぽい立派なことが、いっぱい計画書に書かれてきます。 そして、最初に面白い問題設定も、好奇心を湧かせる切り口も示されません。「まず体験せよ。」なのです。その上で、気づいたことを書かせ、生徒自身に概念化をさせ、(生徒の乏しい概念の枠組みからもって来させるのです。)(本当は、有効な概念は、最初に教えてやらなければいけないのに)結局、先生の意図した道徳訓に誘導するのです。 その概念化を称する道徳訓は、これまた、大概、先生や指導者の自分の過去の「学習体験」から得られた先入観である場合がほとんどです。 科学的に検討された概念では、ほとんどの場合ありません。だから、同じ現象に遭遇しても、ある先生は、Aと指導し、別の先生はBと結論づけます。 これでは、総合学習とは名ばかりで、教科書学習よりひどい、「押しつけ学習」です。こんな名ばかりの総合学習を繰り返していたら、時間が無駄だと、削除されるのが当然です。 でもね、でもね、実は、これでも良い方なんですよね。な~んにも意図さえしない、ただ、自然を味あわせればいい、地域の人と触れ合わせれば良い、街を歩かせればよい、という、ノー天気な総合も、結構あってビックリですよね。 そして、これを先生の力量不足にしてしまうのも、誠に気の毒なんです。だって、先生への指導がなってないんですから。あると言ったって、文科省のその方法論自体がおかしいのですから。 私の考え方の基本は、「人は変えられない」ということです。いや、「変えようとしてはいけない」ということです。 これは、対先生についても言えます。いかに、今の先生に問題があるからと言って、「先生を変えてやろう」というのは、結局弊害が大きいと思います。 人間はどんどん変わるものですが、それは、自分で変える場合のみです。自分で変わるためには、自分で自由にいろんなことを考えなくてはチャンスがないのです。だから、生徒を変えようとしてはいけないと同様に、先生や校長を変えようとしてもいけないと私は思って、学校とおつきあいしています。ただ、面白い問題提起だけは、し続けてやろうと思っています。
2009.08.17
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これは、科学寅の偏った考えですから、あまり目くじら立てずに、面白がって聞いていただければ幸いです。 私は、現状の小中学校の夏休みの宿題は、多すぎるし、その出し方も、改善の余地がいっぱいあると思っています。 もちろん、宿題を出さなければ、子どもたちは、学習しないだろう、という予測があります。たしかに、ほとんどの子は、遊んで机に向かわないでしょう。 かろうじて、宿題をするためだけに、机でペンを持つ子が圧倒的に多いと思われます。 しかし、ですよ、子どもに学習動機を持たせることが、教育の第一の本分だと考えれば、何の意義も動機も、持たせずに、仕方なく、課題になっているからする宿題の数々。これは、子どもの学習に対する嫌悪感を増すだけじゃないでしょうか? それに、一人、一人、学習上の課題は違うのです。それを、一律に、アップアップするくらい出すことは、特に、基礎力がついていない子どもにとって、本当は、前年の復讐を徹底的にすべきところを宿題のために、良く理解もできないのに、無理やり、表面的な格好をつける作業に時間の大半を取られるのです。私は、授業についていけていない子の家庭教師をして、つくづく宿題が恨めしいのです。 だから、宿題は、ほとんど、科学寅さんが、書いてやってる場合もあります。 君はこの大切な夏休みに、君が本当に必要な力をつけることに全力を傾けてくれればいいよ、と言っています。 でも、こういう反論もあるでしょう。宿題は、ドリルやワークだけじゃない。調査研究や、レポート、弁論文、読書感想文、絵画やポスター、工作など。いろんな体験をいっぱいさせるために、宿題をいっぱい出しているんだ、と。 私は、ある意味、常識となっている「子どもにいっぱい体験をさせることは、良いことだ。」という命題にも、あえて疑問をもっています。 どうしても、科学の発展の歴史から観た疑問ですが、いっぱい体験し、いっぱい基礎データを持った人が、科学的な法則を発見しているでしょうか? 答えは、あきらかに、否です。よくデータがいっぱい集まると、良い科学ができる良い報告ができる、と誤解している人がいますが、実際は、データが多すぎると、法則を発見しずらくなるものです。 法則の発見は、データ数がポイントでは無しに、いかに鋭い仮説を立てられるか、にかかっています。人間は、目的意識的に見なければ、認識ができないのです。 データを漫然と集めてしまうと、問題意識をもつことが困難になります。いろんな種類の事実に出会ってしまうと、有効な「くくり」がしづらくなり、概念化もできなくなるのです。欧米では、牛が身近にいっぱいありすぎるために、「牛」という単語がありません。ox と cow です。「牛」ではないのです。それぞれ、違うじゃないか、ってなるのです。 古代ギリシャやそれを引き継いだ、欧米で科学が発達しましたが、中国はじめ、他の地域でも、観察やデータ収集は、いっぱいなされました。しかし、科学として発展しませんでした。これは、やっぱり、仮説力、そして、その検証をすすめる風土によるのです。実際に検証し、それを確かめる気風です。 最初は、的外れでも、とにかく仮説を立ててから、物事を見なければならないのです。それでこそ、間違いに気づけるのです。 夏休みの宿題には、「あれもした」 「これもした」と羅列させるものばかりです。 もし、目的意識的に、課題に取り組ませることが成功したなら、そのやり方は、自由にしても、成果はかえって高くなります。 つまり、夏休みの成果は、休みに入る前の動機づけに、ほとんどかかっていると言えます。 しかし、主体的な目的をもって夏休みに臨んでいる子は一体、何パーセントでしょうか?それも、単に成績を良くしたいというものでしょう。 私は、子どもにやる気を湧かせずに、ただ、これをやってきなさいと言わざるを得ない先生は、(私も含めてですが)教師として、敗北に打ちひしがれて当然だと思うのです。 ところが、そういう先生ばかりではないようです。得意になって、生徒をふるいにかける材料にしている情けない教師もいるようです。 繰り返しますが、目的意識や動機っていうのこそ、自然発生的に生徒の中に生まれるものではありません。もし、そうなら、データ収集量が圧倒的に多い中国でこそ、近代科学が花開いたはずです。 欧米でも、ルネッサンスの前には、その芽が出ませんでした。ギリシャ文化に接して、はじめて、一気に盛り上がったのです。 ここに、教育の意義や必要性があると思います。問題設定、設問の仕方を教えられる必要があるのです。子どもが「素直に」自然を観察すれば、ひとりでにファーブル博士になるのではありません。指導者が必要です。ここに、知識が必要です。 つまり、面白くてタメになる切り口は教えられなければならないんです。 ところが、そこを、「自由に」研究しなさい、と突き放してしまっています。逆だと思うのです。 以上、科学寅の限られた、窓からの見かたでした。
2009.08.16
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夏の疲れが出てきます。やる気が出ないですねえ。勉強のやる気を出す方法、特効薬はあるでしょうか? 最近の脳科学の本では、「やる気」は脳のほぼ真ん中にある側坐核(そくざかく)という部分が働き脳内物質が分泌することで「やる気」がでてくることしかし、この側坐核はやっかいで、本人がやる気を出そうと思っても、なかなか活発に動き出さないことが書いてあります。 では、どうすればこの側坐核が活発に働き、やる気が出て勉強できるのか?答えは、全く矛盾ですが、「行動すること」です。 脳の側坐核は作業すると、興奮し活発に動き出し、やる気に繋がるんだそうです。これを作業興奮と言うのだそうです。 だから、身の回りの小さな片づけでも、何でも、とにかく動く。ちょっとした英単語を練習してみる。 そして一度、側坐核が働き出すと、どんどん「やる気」は出てきます。つまり、子どもは、動きの中で勉強する方がいいのじゃないでしょうか? 机にすわってじっとしていれば、夢の世界に入っていくのは、自然である意味健康です。授業では、体を使ったゲームなどから、入るようにしています。 どうしても、体が動けない場合なら、目玉を動かすワークだけでも、効果があるようですよ。 ただ、メンタル面を考えると、勉強そのものの楽しさを見据えなければなりません。また、それに関連しては、やる気を支える社会的な側面がとっても重要です。 つまり、その学習を評価し、喜んでくれる人の存在です。この意味は、学習したことをほめる、という意味だけでなく、それ以上に、学習した内容そのものが、周囲の人にとって、驚きだったり、発見だったりすることです。 どんな学習でも、家庭の会話材料にできないものはありません。お父さん・お母さんへのおみやげ話になるように、アレンジしてあげる心遣いが、教師には必要だと思います。 大切な人の喜ぶ姿が、チラっとアタマをよぎると、やる気は出てくるものです。
2009.08.16
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株や経済が暴落してから、「実は、私はわかっていた。前からこういう兆候が出ていた。こういう原因でこうなったんですよ。」と、もっともらしく解説する評論家がいますね。 結果が出てから、その理由を後から見つけることは簡単なことです。まるで子どもの「後出しジャンケン」みたいなものです。 本当に実力を試されるのは、結果が出る前、結論が出る前の、いろんな可能性がある時点で、どう判断するか、ここにあるわけです。 ケースメソッドが効果的に力を養ってくれるのは、間違う可能性のあるリスクの中で、判断力を磨くからであって、結果をもっともらしく解説するためではありません。 ところが、ふりかえって、理科の教科書を見ると、すべて、結果の解説になっています。 単純な一つの法則にも、様々な試行錯誤が隠されています。今からみると、笑い話でも、当時の科学者にとっては、真剣な判断の連続だったのです。 たとえば、「重さ」と軽く言いますが、人間の常識から言えば、「軽さ」というものも物理の世界にあっても良さそうですよね。事実、二百数十年前の近代科学でも熱素という負の重さを持つものがあると考えられていました。 これはこれで、巧妙な論理でできており、ちょっとやそっとで、反駁できないものです。こういう時代に生きていたらあなたは、どう迷い、どう判断したでしょうか?この試行錯誤、失敗の歴史こそ、人類の遺産です。 結果から見るんじゃなくて、スタート地点に立って、あらゆる可能性を検討する授業こそ求められているように思います。
2009.08.15
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フィンランドと日本の子どもの科学リテラシー力の比較で、特に違うのは、疑問に思う能力だという報告があります。科学的証拠をもとに、論理を組み立てる力や、問題文を読む力は、日本の子どもの十分にあるのです。 しかし、その設問自体を疑ってみたり、何も無いところから、登場人物の立場に立って、自分で問題設定をする力に差が出ているのです。 最近引き継いだ家庭教師先の子どもは、正解と回答方法だけを教えられてきたために、私から、「考えてごらん」、「どうしてだろうね」という言葉自体が、教えてくれないイジメに感じてしまうようです。 そして、間違うことを極端に恐れ、忌み嫌います。 この子には、私のとっておきの楽しい問題で、間違う楽しさをじっくり味あわせてやろうと思っています。 全く、可哀そうなことです。
2009.08.13
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指導のテクニックとして、「最後にご褒美がまってるから、まず、ガンバロウ」というのがあります。 本来、これも効果的なはずですが、最近の子ども達は、こらえ性がなくなってきています。そして、気分転換が下手です。 ですから、授業の最初の最初の気分がとっても大事になってきていると思います。 だから、後から、ごちそうを出すんじゃなくある程度、最初から、本日の目玉料理を味あわせなければ後半戦もクソもないような気がします。 しかも、集中力が無いようでいて、執着力は強いものがあります。ですから、最初に気に障るようなことがあるとそれに執着してしまって、気分転換が効きません。 もちろん、こだわりや執着を捨てる人生の知恵を身につけさせることは大切です。でも、それとは別に、今、この授業を成り立たせるためには、生徒の執着のコントロールも、十分考慮してやらなければ前に進まないのです。 生徒の気質によっても、ずいぶん違いますから、一概に言えることではありませんが、最近増えてきている自閉タイプの子の場合最初に提示するものが、すべてを決定することがあります。 その日、その日の最初の出会いが勝負どころです。 ただ、どんなに準備していこうが、相手があることです。どうしようもない状態というのもあります。そういう時、教師は、決して自分を責めるべきではないと思います。 少なくとも、本来の自分とは関係ないことだと、割り切らないと、教師の良い気分を維持できません。教師の良い気分こそが、生命線です。それでこそ、生徒の暴言にも、冷静に対応できます。一緒に切れては、おしまいですもんね。
2009.08.12
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学習意欲の低下の反面、学習そのものへのニーズは、幾何級的に増加してます。 だって、社会には、新しい情報が、年々、倍々ゲームで発信されてます。メディアも、どんどん多様化。世界は完全に一体化です。 そして、個人の生涯のキャリアも、一つの職業・一つの職種で終わるということは、ほとんどありえなくなってきました。 多くの人が転職します。三つも四つも当然、その度に、新しい学習が必要です。たとえ、同じ会社にいたとしても、全然、ストーリーの違う世界をいくつも渡り歩かなくてはなりません。 だいたい、会社自体が、どんどん変身していかなくては、この変動の激しい時代に、生き残っていけません。 これから、こういう社会を生き抜く子どもたちに対して、教育は、時代錯誤の寺子屋時代。(と書いちゃったのですが、森の声さんから、寺子屋は今の学校よりよっぽど良かったというご指摘。もっともです。維新の志士たちを生んだんですものね。)マイカーどころか、馬車の時代のままです。 机に縛られた子どもたち。前にいる教師をみつめ、黙って聞いている。百年前とどこが変わってるでしょう?カリキュラムは、数学・地理・歴史・…年号・出来事・化学記号・さまざまな情報を詰め込みます。これらが、外の膨大な情報の嵐の中で、どんな意味をもつのかも、検討されていません。 一番大切なことは、この人類にとって、未体験の世界を生き抜いていくには、どんな学び方をすればいいのか、ということなのです。 なあんにんも指導されなくたって、子どもたちは敏感にキャッチし、お父さん・お母さんが知らない技術をどんどん習得しています。未知のものに対する、判断力と適応力・創造力これらが必要なことは、子どもは潜在意識的に、理解しているんです。 もし、そういう未知の世界での学習の仕方、挑戦の仕方を教えてくれる授業なら必ず子ども達は食いついてくるでしょう。 また、最近の学習理論の発達は、目を見張るものがあります。最新の理論を活かしていけば、授業のスタイルは、180度違ったものになるはずです。 何より、先生が、どんどん自己啓発されていくはずです。私は学校の外の立場で、常識を崩していきたいと…何せ、常識に挑戦するのが、三度の飯より、大好きなものですから。
2009.08.09
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前の記事の裏面です。現状の学校教育は、行き詰っていますが、日本のような成熟社会の教育にも、未来はあると確信しています。それも、素晴らしい未来が。 だって、現状では、先生たちは、学習指導要領に縛られて、自分の頭で考えた授業ができてないんですから。生徒に頭を使わせるどころか、先生が頭を使ってないんですから。これで、面白かったら、逆に大変というものです。 で、本当に行き詰った学校では、一部の先生が、ついに自分の頭で考えた授業をはじめています。先生自身も、興味があり、他の先生も、ぜひ聞きたい。学校でこんな授業が受けられるなんて、今の子は幸せねえ。私もそんな授業受けてみたかったわ。って、母親に言わせる授業です。 指導要領を度外視すれば、十分に可能なのです。 だって、現代くらい、学習ニーズが深まっている時代のないのですから。自己啓発ブームをみてください。そして、自分のためになる、とわかった時の若い人たちの行動力、すごいものがありますよね。 現代を生きるにあたって、道しるべになると子どもたちに認識された授業は、必ず盛り上がります。 指導要領に沿わない授業をしても仕方がない?もし、今の授業で子どもたちが十分ついてきているなら、それでいいでしょう。でも、もし、ほとんど授業の体をなしていないのなら、かえって、害を与える環境になっているのなら、子どもたちを教室に、もう一度呼び戻し、学習に光を見出し、自分たちに、やる気を取り戻せるなら、このままあきらめるより、よっぽど、何倍も何十倍も良いではありませんか? そもそも、教師が尊敬されるのは、天動説を信じていた時代に、地動説を教えた時のように、時代を先取りしていたからこそです。 その基本原理に立ち返らなければなりません。時代を先取りするのです。未来を生きる道しるべ、灯台になるのです。 当然、そういう意識を既に失ってしまった教師もいるでしょう。生活指導だけにエネルギーを奪われて、そんなカルチャースクールみたいなことを考えていられるか!という先生もおられるでしょう。 でも、本当に、子どもたちの琴線に触れた授業を展開すれば、生活指導にエネルギーを割かなくても、学校は、丸く収まっていくのではないでしょうか? それぞれ学校の置かれた環境が違いますから、一概には言えないでしょうが、たとえ、今、オリジナルな授業が不可能でも、いざというときは、展開できるように、今から準備をしておいた方が良いと強くオススメします。 何も、一年間、すべての授業をオリジナルにする必要はないのです。「お、あの先生は、こういうこともするんだ!」と、デモ効果だけでも、影響力は十分です。 私は、将来の日本の教育が、とっても面白いだろうなあって、うらやましく思っています。う~ん、私も受けてみたかった!って。
2009.08.08
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「どうして、こんな数学をやらなくちゃいけないの?」「こんな計算、絶対、使わないって!」生徒の口から、漏れてくるフレーズです。子どもたちは、呪いの言葉を吐きながら、嫌々ながら、勉強しています。 そして、卒業したら、決して、もう二度と、数学や科学の本を手に取らないぞ!と固く、固く、心に誓います。9年間または、12年間通して身につけさせた教育の成果は、卒業後の不勉強の決意になのです。 学習意欲の低下が叫ばれています。でも、考えてみれば、昔だって、好きで勉強していた人はどれくらいいるでしょうか?昔の先生の授業が上手だったとも思えません。 かの有名な二十四の瞳の大石先生は、卒業したばかりのな~んにもできない先生です。もし、今の教育現場に、ぽっと配属されたら、間違いなく「不登校」でしょう。 それでも、島の子どもたちは、先生を慕います。それは、先生の人柄のせいでしょうか?もちろん、それもあるでしょう。 でも、それよりも、教育環境が恵まれていなかったことが、相対的に、教師の価値を高めていたのではないでしょうか? よく、昔の子ども達は、恵まれない環境なのに、意欲的に勉強した、と言います。しかし、この言い回しは、もしかしたら、逆なんじゃないでしょうか? 恵まれない環境だったから、学習意欲が高かったと言えるのでは? 教育環境が整ってきているから、学習意欲は減退していると言えるんじゃ?学習意欲の低下は、もしかして、自然なことじゃないだろうか?当たり前のことなんじゃないだろうか? 高学歴社会になって、社会全体の教育水準が上がったから学習意欲が衰退しているのです。 なぜなら、世間一般が、学習そのものが困難だった頃には、その困難を乗り越えて学んだ暁には、素敵な未来が約束されていたからです。 勉強それ自体は、辛くても、それを乗り越えた自分をイメージすることができました。その楽しさを頼みに、自分を叱咤激励することができたのです。 しかし、高卒なんて、あったりまえ。大学を出ても、保証なんて、何にもないということがわかってくると、将来をエサにしていたものが、プツンと切れてしまいます。 ちょっとやそっと、難しい知識をもっていても、すぐに、ネットや専門家に聞くことができます。お金さえもっていれば、みんなやってくれるんです。 こんな現代に、昔と同じ学習意欲をこれまた昔ながらの、脅しと競争で、湧き立たせて「学力向上」を狙う方が、どうかしている、と思いませんか?逆に、素直にその調教師の言うとおりに走り続けている生徒がいたら、その子どもこそが、心配じゃないでしょうか?この子は、将来、世の荒波をどう乗り越えていくんだろうかって。 現代に求められているのは、新しい教育原理です。学習意欲のシナリオです。 決して、昔をなつかしんで、タイムバックすることでは、解決しないのです。カンボジアに、学校を立ててやったときの、子どもたちの目の輝きを日本で期待する方が無理というものでしょう。 道徳や倫理でつなぎとめる?じゃ、どんな道徳?道徳もどんどん変化しています。 とにかく、明治大正と基本的に同じ教育原理を使っていることに根本的な問題があることに、教育界はどうして気づかないのだろう? または、気づいても、本腰で取り組まないのだろう? この怠慢さの原因は、教育界全体が、本当の競争時代に入っていないからだと思います。制限された、檻に囲まれた中の競争です。国家の権威という、枠を取り除いても、 それでも、生き残れる教育かどうか、厳しい目で自分たちを見つめ直していきたいと思います。
2009.08.08
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今日、我が家でちょっとした悲劇が起こりました。東京の大学に行っている長男に、うちのばあちゃんが、渋谷で会う約束をしていたのです。しかし、先月、じいちゃんが倒れたので、東京行き自体が流れてしまったのでした。 ところが、じいちゃんが倒れたことは伝えたのですが、ばあちゃんの東京行きが無くなったことは、伝えられてなく、息子はハチ公みたいに、待ちぼうけだったのです。 しばらく、おふくろと、私の間で、責任のなすりつけ合いが起こりました。思い返してみると、 先月、ばあちゃんから、「宏貴に話した?」私 「うん、伝えたよ」という会話がすべてだったのです。ばあちゃんは、東京行き中止の意味だったのですが私は、「じいちゃんが倒れた」ということを伝えたという意味で応えたのです。というのも、大学の試験中だったので、じいちゃんは、そんなに緊急のことではないから、今、この時期に、伝えなくてもいいんではないかという意見が家族の中にあったところだからです。「でも、伝えた。」という意味だったのです。私は。 ことほど左様に、言う人と聞く人の受け取り方は、違うものです。 ところで、先生は、生徒に、しっかり話しているつもりでも、その通り伝わることは、本当にめずらしいものです。必ずと言っていいほど、歪んで伝わっています。 もちろん、聞く人にも責任はありますが、しゃべる人は、しかも、教師なら、その言葉や表現が、どんな風に生徒に受け取られるかをイメージできなければ、商売になりませんね。 有名な禁句の一つに野球の監督が、選手を送り出すとき、「三振だけはするな!」と言っちゃうことが挙げられます。 確かに、論理的には良いのです。しかし、選手の潜在意識には、何がイメージされたでしょう?そう、「三振する姿」です。こういう時は、「かっ飛ばしてこい!」でいいのです。 母親が子どもを激励する意味で、「お前は、なんてバカなの?」と言っちゃうと、子どもには、「僕はバカなんだ」としか、インプットされません。 言葉の字面だけでなく、そのイメージをイメージしたいものですね。 あるヒーリングの先生が言ってました。「相手がどう感じるかを考えるというのがコツ」だと。マッサージや指圧でもそうだと思いますが、やたらに押したり揉んだりすりゃーいいってもんじゃないですね。 今日は、亘理の逢隈児童館で、ドライアイスの実験をさせていただきました。先生方の協力で、大興奮の1時間半で終わることができました。本当にありがとうございます。 あとの振り返りでも、先生方が一人一人の子供の日常の性格をよくつかんで、気にとめてられるなあって、関心しました。その上で、この実験がどういう影響を与えたかを分析されていました。お役に立つことができて、うれしい限りです。 普段と違った側面を、子どもたちは、いっぱい見せてくれたようです。先生方にとっても、そこが大発見だったそうです。 おっと、昨日の仙台でのデートちょうど、七夕まつりとぶつかってしまったのですが、行ってよかったあ! 次の展開につながってきました。 では、これから、夜の稼業です。
2009.08.07
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私は、大手塾の講師と、家庭教師もしています。正式な教員ではないので、副業大丈夫。もう、と~っくに、いろんな副業してますもんね。 そこでの生徒の皆さんとの接触は、私にとって、申し訳ないですが、「実験」そのものです。どうしたら、主体的にかかわってくれるのか?やる気を出すのか?トライアンドエラーの毎日です。 よくある失敗は、私がしゃべり過ぎてしまうことです。 何と言っても、生徒が自分のモーターで好奇心・別名、「問題意識」を持ってもらうことですから。 そのためには、いろんな手があるわけですが、先生がまず、自分の話し方や聞き方について工夫することが必要になってきますね。 5つのポイントがあると思っています。 (1)評論・解説話を減らす 生徒の問題意識を引き出すには聞き上手、質問上手になることが 大切であって、まとめ上手になる必要はありません。 (2)2W1Hを増やす 話の基本要素である5W1Hのうち、 「WHAT/WHY/HOW」で部下の話に切り返しましょう。 タイミングよく「何をしたいんだい?理由を聞かせて欲しい 具体的な方法は?」と繰り返し発信することによって 生徒は問題意識を自ら深めることになります。 (3)キャッチボール式討論をする 生徒の言葉を投げ返し、フィードバックをしてあげましょう。 「それは、こういう風に解釈していいのかな?」 「もう少し具体的に言うと、どういうことなんだろう」 と質問をぶつける。こういうキャッチボールで 解釈上のズレや誤解を発見することもできます。 (4)ラポールをする。 全身を使った、心を込めたあいづちをする。 (5)即答を避ける 生徒からの質問に、すぐに答えたくなってしまうのが、人情ですが、 グッとこらえます。 この効率時代、そんなノンキな・・・と思われる方もいらっしゃると思いますが 生徒の問題点は、表面的な質問の裏にあったりするものです。 あくまで、主役は生徒です。ついつい、先生が主役になって、「あ~勉強した」になってしまいます。(苦い経験) 「そうか、それからどうした?」「そうか、それはおもしろい」「君はどう思う?君ならどうする?」「大丈夫、君ならできるぞ」「何か私にサポートできることはない?」 以てな具合に、生徒を主役に私は、脇役、通行人その1でいきたいと思います。 確か、斎藤孝さんの「質問力」という本がありましたが、(まだ、読んでませんが)この質問する力に、授業成功の80%はかかってるなあ、って思います。 相手の経験世界に入り込まなければ、相撲になりません。その上で、ちょっとづつズラしていくのが、秘訣のような気がします。ちょっとズラシタ質問をしていくのです。 まずは、共感!生徒の経験世界や生徒の聞いてほしいと思っている文脈に沿う質問によって、相手の好きなものが引き出せれば、それだけでもかなり親密なコミュニケーションが成立するからです。 大切なのは、生徒がいちばん苦労してることをとりあえずくみ取ることです。テストの評価などでも、些末な部分ばかり批判し、生徒がいちばんエネルギーをかけたところをまったくノーカウントにする先生や親がいます。 生徒を育てるコミュニケーションは減点制ではありえません。 理想は、質問によってその生徒の奥底にある知られざる自分を引きずりだしてくるところでしょうか。 さあ、今日もこれから、出動です。
2009.08.05
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