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いろんな子と出会わせてもらっております。大人に対しては、すぐ批判的な見方をしてしまう私ですが、子どもに対しては、どうして、こういう行動やモノの見方をしてしまうんだろうか?って、興味の対象になっちゃうんですね。 どんな悪たれの子でも、どんな鼻もちならない子どもでも、それぞれ、自分を成長させよう、よりよくなろうと精一杯あがいている。 だから、単純には怒る気にはなれない。 子どもたちは人間理解を導いてくれる師匠です。 でも、本当は、大人に対しても、同じように見るべきなんですね。誰もが、それぞれの立場で修行中の身なんだから。そう、手を合わせずにはおられない貴い存在です。 ところで、私の担当の小学生に間違いを極端に恐れる子がいます。ある意味、近代学校教育の典型的な犠牲者です。伝統的に学校の指導は、間違いを恐れる気持ちに訴えってきました。物心つく頃から脅かされてきた魂は、学校や先生の前でリラックスできないトラウマをつくってしまっているのです。学習意欲をかきたてるのではなく、失敗への恐怖心をあおって勉強させようとしています。 私は、実験教室の時、必ず言っていることがあります。「間違うのは、自分のアタマを使っている証拠もし、全部当たってる人がいたら、その人は自分の脳ミソを使ってないと思って間違いない。」 この認識論は、オイトイテ、完全主義とも言える、失敗を恐れる思想の背景には人間観の貧困があると思います。 覚えるべきメニューを上の人間があれこれ決めてそれに対する達成率によって評価するという姿勢。異常ですよね。(そう思うのは、私だけか?) そうじゃないんだ、発達障害の子も、問題行動の子も、犯罪者も、麻薬に手をだした人も、み~んな真面目に、自分の魂の課題を生きている。あのヒトラーだって、そうだ。 いや、もしかして、動植物だってそうに違いない。その姿勢において、何の差別もないのだ。手を合わせるべき存在なんだ。 と私は思っています。 この考えも、特殊でしょうが、今、私はそんな感覚をもっています。 ともかく、学校教育は、人間というものを、まだまだ国益の観点から観るクセが全然取れていません。どっぷり浸かっています。疑問の余地の無い常識になっています。 真の「人間」の「人間」による「人間」のための教育は、夢のまた夢なんだろうか?いや、実現できるはずだ。 実は、これこそが、民主主義、お題目でなく、精神的な中身としての民主主義だと思います。教育が、その国民の人間観の本音を表しているとすれば、スピリッツから民主的な教育ができるかどうかが、民主的な社会の指標のはずです。
2009.09.28
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いよいよ今日から、学校で、問題の子の個別指導が再開します。 彼らは、「授業中着席すべきだ」「先生の話は聞くべきだ」「人の迷惑となることはしない」など、~すべき、という論理をことごとく跳ね返してきたからこそ、私のところに来ています。 だから、ある意味、とっても素晴らしい実験材料であります。「ねばならない」を使わない教育はありうるのか、という。 だったら、どう指導するん?そう、「したくなる」感情に訴えるのです。論理でなくて、感情の世界です。 やらないと、ヤバイから、やるんではなく、やりたいから、やるこの一点に絞れます。普通の子だったら、常識の論理で動いてしまうのですが、それが無いというのは、素晴らしい素材だと思いませんか? まずは、彼らのモチベーションの原動力を探ることから、始めます。では。
2009.09.03
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とても面白い選挙でしたね。今回、大量の新人政治家が当選しました。そのことで不安に思う人が、私の周りにも結構いて、議論になりました。 「ベテランの政治家がこれまで運営してきて、こういう状態になったんだから、ベテランだから、いい、というわけじゃない。」 「いや、一から勉強しなきゃいけない人が大量にいたんじゃ仕事にならないじゃないか。ベテランのまずさよりも、もっと酷くなる。」 私は、ベテランの政治家を「プロ」と言うとすれば、今回、「アマチュア」の政治家が入ったことに、期待をします。 アマチュアなのに、期待をするのではありません。アマチュアだから、期待するのです。 私の言う「プロ」は、いわゆる専門家という意味です。科学の世界でもそうですが、専門家は、特定の分野では強いのですが、縄張り意識が強く、部外者に立ち入らせないところがあります。反対に、専門外のことについては、あえて手を出さない傾向があります。 それに対して、アマチュアは、好奇心こそが、原動力ですから、興味がわけば、専門外だろうが何だろうが、首をつっこみます。 そして、科学の大きな業績というのは、専門分野を極めたというよりも、人が手を出さないところに、手を出した成果という意味が大きいのです。 だから、新しい科学を切り開くには、アマチュアの力が重要なのです。 政治の世界でも、縄張り意識で、ガチガチなんじゃないでしょうか?そこに、アマチュア感覚で、失敗覚悟で、どんどん手を出して、今まで光を当てられていなかった分野にいろんな角度から、議論をして欲しいと思います。 その意味で、変に「勉強」なんかしないで、好奇心のアンテナを張り巡らし続けていっていただきたいと願います。 もちろん、実際の政策を立案するには、研究が大切です。つまり、アマチュア的な政治の専門家になっていただきたいとエールを東北の片隅から、お贈りします。
2009.08.31
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私がインフルエンザにかかっているかどうか、白黒を決着をつけに病院に行きました。判定はシロです。良かった~。鼻の穴に綿棒を突っ込まれ、ゴリゴリされました。一緒にその変化を見ながら、話を聞きましたが、感染しがけのときは、シロと出ても後でくつがえることがあるそうです。 私の風邪は、ずいぶん経ってますから、まず大丈夫です。 ただ、血圧が高くなっていて、びっくりしました。インフルエンザよりも血圧対策です。頭痛や、具合の悪さも、血圧からだったかもしれません。 ところで、ヨーロッパでは、科学のシロクロ決着をつける決闘(実験)が、しばしば行われてきました。でも、日本や東洋には、あまりそういう伝統がないと思われます。もちろん、実験でシロクロをつけるためには、前提条件を整備しなければなりませんが、誰もが、明白に、判断できるためには、どういう実験環境を整えるのが適当なのか、それを考えるのが、まずスタートです。 そして、その結果を、過大に法則に結びつけてはいけません。判定は、その実験結果だけです。その電球は明るく点くか、とか、何グラムを差すかとか、ね。それを飛び越えて、この法則は成り立つか、までは言えないことを注意しなければなりません。 私も、好きで、すぐに何々の法則というのを勝手に考えてしまうのですが、それが成り立つと言えるのは、とっても大変なことなのです。だから、あくまで、仮説としてのお楽しみです。 結局、今日も学校を休んでしまいました。明日は、復帰できると思います。
2009.08.26
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先日の重さの実験で、小学3年の子が、少数意見ながら、立派な意見を述べました。水槽に木片を浮かべた時の重さを問う問題です。しかし、実験が始まる前に、「ドキドキするから、見てられない」って、教室から逃げてしまいました。 ドキドキする実験って、こういう意味もあるんです。そして、本来、科学って、こういうことの連続であるはずなんです。 私の体調がどうもおかしい。パソコンに向かってられない。やっぱり、思い切って、インフルエンザの検査をしてもらってきます。 結果、ご報告します!
2009.08.26
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本当にワクワク人生を歩んでいる人って意外に、地味な生き方をしているもんだと思います。 昔、ギリシャにエピクロスという哲学者がいて、人間にとっての最大の善、人間の生きる目標は快楽だと主張し、「快楽主義者」と後世の人から、悪口を言われましたが、その徹底した幸福を求めた末の結論は、目標とすべきは派手さではなく「隠れて生きよ」でした。 彼は、科学的にも、デモクリトスの原子論に立ち、万物は、(霊魂など不可視のものも含めて)、原子(アトム)と空虚からなるという、特筆すべき理論を展開しています。 そこから、迷信や歪んだ価値観から自由になっていったのです。精神現象的なものも含めて、原子の運動(衝突、結合、分離)によって機械的に説明されるとする機械論なのに、かえってヒューマニズムにあふれた哲学になっていくのが興味深いです。 当時のギリシャの民主主義は、奴隷制の上に成り立っており、また、男女差別も当然ありました。そしてギリシャ神話に象徴される迷信の数々 だから、その時代の価値はやっぱり、富や地位。身体的資質、政治的力は、人間の最大の善であるというものでした。ギリシア人を他のすべての民族より上に置くことも、奴隷制度も善としている社会でした。 エピクロスは、これらの常識的な善や伝統的な価値や差別を無視し、あるいは拒絶します。もちろん、迷信も。つまり、ギリシャ的思考の枠組みから、自由になろうとしたのです。(他の国から見れば、圧倒的に自由があったギリシャにおいてです。) ひるがえって、思想・信条の自由が保障されている現代日本でも、私たちを、思考や価値観の鋳型にはめ込んでいまうワナがいたるところに待ち受けています。 A社的思考とか、B官庁的思考と言われるものがあります。社外から見れば、明らかに不正なのに、それを必要悪だと許してしまう意識、さらに、それを悪いことださえ思わなくしてしまうメカニズム。 脳ミソは、本来、自由が大好きです。同じ仕事でも、自分の創意工夫が許されると「遊び」に近くなり、能力全開になります。 それが、上司の言った通りにやらないとすなわち、狭い上司の経験を絶対化されて指導されると急速に、脳ミソは委縮し、腐ってしまいます。 料理も科学実験も、自分で創意工夫できれば、「お楽しみ」で、その結果に大感動ですが、教科書に書いてあるレシピ通りにするだけなら、出来て当たり前。味も予想通りなのです。これでは、嫌いになったり、苦手になったりするのも当然です。 また、マニュアルだけでなく、価値観を強制してくることがしばしばです。「会社至上主義」を身に付けた者こそがプロなんだ、一人前なんだ、という意識が至る所に、まだありますね。 それが数年経つと会社人間になってしまう。これは、「大人になった」のではなく、ストレスや欲求不満が、脳ミソの活力を奪っていまった結果だということを忘れないでいたいものです。。周囲への好奇心さえ、どこかへ置き忘れてしまうのです。 決して、会社そのものが、悪ではないのです。自分の脳ミソの防衛力が弱かっただけです。 自分の脳ミソをいい気分でいさせることに、もっと真剣に取り組みたいものです。 結局、それが、その人の幸せ度数を決めるのですから。 ある「思い込み」が私たちを幸せから遠ざけています。または、遠回りさせています。それは、「幸せは何かの結果だ」という思い込みです。 月収100万円なければ、幸せになれない。部長にならなければ、幸せになれない。〇 △大学に入学しなければ、幸せになれない。さらには、模擬テストで 80点を取らなければ… これらは、すべて「思い込み」ですね。この思いこみにより、がんばればがんばるほど幸せが遠ざかるのです。 大学入試やビジネスの成功は手段でしかありません。それが、手段だったものが目的に変わり、その目的だけしか見えなくなってしまいます。 では、本当に幸せな人はどんな意識なの? 実は、幸せな人は、そんな思い込みを捨てています。 家族の小さな微笑みや庭に咲いた小さな花。ちょっとしたことでも何でも幸せの種として見ることができるのです。ポイントは、何をしたら自分の脳ミソをいい気分にさせられるのかということです。 他人の顔色をうかがうとか 人を喜ばせるような、他人の脳ミソの心配はします。 しかし、自分をいい気分にさせることって忘れがちですよね。 まずは自分のご機嫌取りをしましょう。お母さんが、いつもいい気分なら 子どもに腹も立たないし、やさしくできるし 穏やかになれるし 、余裕が持てるし 子どもに感謝の気持ちを伝授することもできます。 さらに、好奇心の湧かせ方も身をもって見本を示すことができるのです。 笑いの絶えない家庭からは、必ず賢い子が育ちます。良質の笑いは、世の価値観から自由でないと 生まれません。こういう幸せな家庭は、どちらかと言うとこの世の価値基準に無頓着ですから、派手さはありません。「隠れて生きて」います。 だから、マスコミにも載りにくいのでしょう。でも、確実に幸せな家庭は存在します。あなたの目から隠れたところに。
2009.08.03
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先のスコトーマの続きですが、私の世界も間違いなくゆがんだ世界、スコトーマだらけの世界に違いありません。これまで、大学、中小企業の社員、経営者、NPO職員そして、教員と、いろんな立場を人よりも豊富に経験している自負はあるのですが、しばらく、子ども相手のしかも、科学教室という「普通でない」環境にドップリと浸かってしまうと、人間は必ずその世界が中心のモノサシをもってしまうものです。それだけならいいのですが、このモノサシで世界を測定するものですから、自分では、どんなにマトモな人間であると思っても、その発言には歪みが出てくる。 学校の世界もそうですし、お役所仕事というモノサシのある世界もそうですね。だいたい、先生なんて、呼ばれる世界は、絶対おかしいに決まっています。 個人の認識も歪みますが、 この歪みが、組織全体に及と、本当に怖いものです。戦前・戦中の日本に、科学的思考能力を求める法が無理というものです。 外から見れば異様なことがすぐわかるのに、内部にいれば、慣れてしまい、何とも思わなくなるから怖いのです。 もちろん、組織としての公式見解というのは必要でしょう。しかし、それはあくまで、組織の物の見方であって、個人の考えではないはずです。十人十色の発想があるはずなのです。それが、み~んな金太郎飴の発言しかできなくなったら、組織の動脈硬化は相当進んでいて、死は間近だと診断していいと思います。 そういえば、この間NHKの番組で、リクルート(元)の藤原さんが、リクルートのモットーは「組織内個人だ」とお話していましたが、組織の資源を個人が利用するという姿勢に、とっても共感しました。 こういうコメント自体、私のような一匹狼には、とても発言しやすいのですが、組織人間の一般の皆さまには、ずいぶん勇気の要ることだとは、重々わかっています。 でも、誰でも健康ではいたいですよね。脳ミソも健康でありたいものです。誰の脳ミソも、本当は自由を求め、拘束を嫌がり、快感を求めるのです。それが健全性というものです。 組織とは、距離をおくべきだと思います。 でも、もうドップリ浸かって、自分の脳と会社の利益が不可分になっている人もいるでしょうね。そんな人は、自分がどんな状況かさえ、わからないでしょう。ご愁傷様。 私から見て、「会社あっての私の生活」と考えている人は、まず歪んでいます。 私という個人にとって、会社という組織はどうでもいいはずです。「給料をくれるから?」会社が給料をくれるのではないでしょう。あなたが仕事をした結果として、いっぱい会社に利益を与えているから当然、自分のものなのです。 ところが、ところが、このような不景気で就職先がないと「会社の命令なら、何でもします。」「会社あっての私です。」という発言をする高校生がいることに口がアングリの科学寅さんでした。 学校が吹聴する「組織人間」なんて、実社会では、求めていないぞ!そんな人間は役には立たないのだ。命脈が尽きかけている会社以外には。
2009.08.02
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本屋に行ったら、学習法のコーナーができてました。う~ん、ブームなんですね。科学寅も、それこそ、学習法だ~いすき。いかに楽して成果を上げるかってこと自体、こんなに「楽しい」ことはない、と思ってます。そして、人の思いもつかないことをして、得意がる!この性格は、今の科学実験教室の動機そのものだ!そっかあ、私は、小学生の頃から、全然変わっちゃいないんだ。 ところで、苫米地さんの(い~っぱい最近本を出し過ぎてますよね)何とか学習法を立ち読みしました。(立ち読みがモットーです。) そこで、スコトーマというキーワードが使われてます。「盲点」です。だったら、盲点と日本語でいえばいいじゃないか、ってのはオイトイテ。 人間は頑張れば、頑張るほど、スコトーマを大きくしてしまうっていう見方、大賛成です。 現代の学校教育は、スコトーマを大きくする方向にばかり働きかけているってのも、大納得。スコトーマを小さくするのが、本来の教育だと考えるとそれこそ、我々の教育上の「スコトーマ」がはずれますね。 認識論からいっても、人間は、何かのフィルターをもっていないと何も認識できません。でも、それは両刃の剣で、自分たちの価値観や世界観とまったく異質なものは、見えないのです。気になる気にならないというどころか、本当に見えないのです。 有名な逸話ですがマゼランが世界一周航海を続けていたとき、文明から長い間隔離されていた南の海の孤島では、そこに住む人たちの目にマゼランの船が「見えなかった」そうです。彼らの想像を絶する巨大な船が、水平線に姿を現わしても、それを誰も船と認めることができなかったのです。 ではどう映ったのでしょうか?「見えなかった。」ただそれだけなんだそうです。だから、 とうとう船が島の入り江に入ってきて、その巨大な姿を間近に見せたときに初めて、住民たちは驚愕したというのです。 よく振り返れば、私たちは、「突然の出来事にびっくりした」という社会現象に出会いますが、実は、見れども見えずだったことが、ほとんどじゃないでしょうか? 科学の新理論なら、「何をバカなことを」ですし、会議でも、耳を傾けてもらえません。それどころか、発言さえ許されないことがほとんどですが。 これは、目や耳が無いことと同じです。 じゃ、この対策は何か?それは、視点を常に動かすことです。複眼でものを見る訓練ともいえるでしょう。 そもそも 盲点のメカニズムは生理学的にははっきりしています。人間の網膜には無数の視細胞が張り巡らされていますが、視神経が通っている場所に視細胞はありません。だから、目線を動かさない限り、どうしても見えない部分がつねに存在し続けるのです。 つまり、一点を凝視すればするほど、盲点が生まれるのです。だから、一つのことに凝り固まってはいけないのです。 何かに熱中することは、素晴らしいことです。しかし、同時に視野が狭くなるという副作用をもっていることを絶対に忘れないようにしなければなりません。 偏狭な宗教やイデオロギーのように一つの考えにこだわってしまうと他のものが見えなくなって犯罪さえ犯してしまいます。だから、教育の力で逆に考えさせたり、頭では認めたくないことでも、ありのままの現実を受け入れる大切さや、ものごとをさまざまな角度から見つめる訓練をする必要があるのだと思います。 私は、こういった訓練を真正面から取り上げているのが科学教育だと(本来の)思っています。「常識や先入観にとらわれないこと」「ものごとをうわべだけで判断せずに、裏側や陰の部分にも注目すること」ここに科学の本質があると思うのです。 ものごとをさまざまな角度から見つめるというのは、好奇心がなせる技でもあります。だから、科学と好奇心は、切り離せません。そして、好奇心があると、人は明るくなります。ストレスに強くもなります。困難にぶつかっても、別の見方もできるから行き詰りません。 そして、多角的な見方を訓練するには、自由に話し合える「オバカ」な仲間が絶対に必要です。自分ひとりで、スコトーマをはずそうなんて、無理です。違った発想をしてくれる人がいるから、そして、そこでぶつかりあえるから、見えてくるのです。 「オバカな意見」を大切にする授業風土を作っていきたいものです。と同時に、自分自身に対しても、オバカな自分の心の声を常に大切にしていきたいと思います。 ちなみに、私が最近使っているスコトーマはずしは、複数作業を同時にするということです。今、掃除をしながら、打っています。 それこそ、何を隠そう、この科学寅こそ熱中人間で、のめり込んだら、隣でどんなにおいしいものを食べてようが気がつかないアホなのです。 だからこそ、強制的に、一つのことを継続しないようにしなければスコトーマだらけ、穴ぼこ人間になってしまうからで~す。
2009.08.02
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昨日の日食、あ~現地で体験したかったなあ。皆既日食は、「視覚だけでなく、体全体で感じる現象」だそうです。その迫力は普通の部分日食の比ではないだそうな。そうでしょう、そうでしょう。 日食と言えば、私がすぐ思い浮かべちゃうのが、アインシュタインの相対性理論の立証に皆既日食が利用されたこと。 アインシュタインと言えば、こんな言葉があります。「人は永遠や人生や,驚くべき現実の構造の神秘について熟考すれば,必ず畏怖の念にとらわれる」One can not help but be in awe when he contemplates the mysteries of eternity, of life, of the marvelous structure of reality.アインシュタインにとって、現実の構造の複雑さや驚異は、人生や永遠について考えるものともつながっていたのでしょう。 じつは、その言葉の前に、こういうことをアインシュタインは言っています。Do not stop to think about the reason for what you are doing,about why you are questioning. TThe important thing is not to stop questioning. Curiosity has its own reason for existence. 何と訳せばいいのでしょう。好奇心はそれ自体で存在意義がある、ということですね。 さらに、最後にこう言っています。 It is enough if one tries merely to comprehend a little of this mystery,each day. そうですね。毎日、ちょっとでも、世界が広がったらそれで十分幸せですね。Never lose a holy curiosity. そうだ!そうだ!Try not to become a man of success but rather try to become a man of value. これは、私は、山登りに例えて考えます。「成功者」を、いわば、頂上にあるスタンプを押した人、と考えれば、ヘリコプターで、あっという間に、頂上にいっちゃってもいいわけです。 でも、山登りが好きな人には、それこそ、本末転倒です。一歩一歩踏みしめる苦労をすることに、無上の喜びがあるわけです。そこに、valueがあるのだと思います。 受験勉強でもそうです。合格だけに意義を置くのか、そのプロセスに喜びを見出すのか。 科学の世界においても、理論の発見が困難であるほど、多くの満足と喜びを発見者に与えるのです。 ひるがえって、私たちは子どもたちに安易に、楽な学習法を与えていないでしょうか?ヘリで頂上に連れていってしまっていないでしょうか? それは、子どもたちから、人生の喜びを奪う大きな犯罪であるかもしれません。
2009.07.23
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仮説実験授業では、「はずれる喜び」というのを大切にしています。今も、PTAの役員さんと打ち合わせしてきたのですが、思いっきり、お父さんお母さんが、間違って欲しいと思います。そして、間違う楽しさ、はずれる喜びを体感して欲しい。 そうじゃなくちゃ、子どもに、「間違って良かったね」と、心から言えないから。人はどんなときに楽しいと思うのでしょうか。人が感じる楽しさとか、面白さというのはどんなことなのでしょうか。楽しいと思うことを続けながら、人生を充実させていくにはどうすれば良いのでしょうか。 ゲームをしているとき、遊んでいるときとても楽しく、面白いのはなぜでしょう?楽しいと思うのは、いつも勝つからでしょうか?いや、そうじゃなくて、勝つか負けるかわからないからですね。だから、みんなで熱中してやれるのです。 ゲームは、勝ってばかりでもつまらないし、もちろん、負けてばかりではつまらないです。ゲームや遊びで楽しく熱中できるためには、どうなるかわからないというワクワク、ドキドキ感が大切です。 そのハラハラ・ドキドキの中で、自分が少しずつレベルアップしているんだ、となれば、もっともっと楽しくなります。 特に、科学実験の場合は、世界を見るための新しい視点を獲得できるんですから、今まで、知らなかった世界が、だんだんと見えてくるようになるのです。魔法や、資金力で、変な世界へ連れていかれるのとは違います。今まで、なにげなく使っていた、日常用具を通して、自然の法則性を知るのです。 人間の知的好奇心というのは、強力です。知りたい気持ちが人を動かします。人は、あまのじゃくで、何かを押し付けられるとやる気が急になくなります。 しかし、よく、子どもにやる手ですが、チラっとだけ見せて、サッと目の前から取上げて隠してしまうと、途端に、それを知りたい! 欲しい! 教えて!になります。でも、謎がすぐ解けてしまっては、興味も無くなります。興味・関心を持ち続けてもらうには、謎が、あり続けなければならないのです。 答えは、すぐに見つかってしまってはいけないのです。関心を持ち続けさせるためには、答えはスグには見つからず、さらに面白そうなことが出てくることが大切です。新しいこと、謎めいたことがまるで物語のように次々と沸き起こる授業こそが私の目標です。それでこそ、子どもは興味を持ち続けることができるのだと思います。
2009.07.22
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今日は、古川の小泉子ども会さんの、科学実験講師をしてきました。テーマは、スライムの大研究です。ありとあらゆるスライムに挑戦します。ひとつ、スーパーボールスライムづくりが、私のミスでうまくいかなかったんですが、まあ、全体に喜んでいただけたと思います。 父兄の皆さん、そして、アシスタントをお願いした中学生の純平君、ありがとう。 ところで、講師料のことを聞かれると、私は、「道楽でやっているので、料金表はありません。団体さんの、予算の範囲内でいいですよ。その中で、いっぱいください。」「つまり、カンパと考えてください。」とどこでも言っています。 これは、本気の本気でして、本当に予算の無いところには、完全無料で出前しております。 もちろん、しっかりしたところからは、それ相当をいただいておりますが。 ある意味、どうでもいいような、講師料の決め方ですが、ここには、私の活動の生命線が隠されています。それは、お客様にお金で雇われているわけではない、ということです。 私が、その団体で、講師をしたいから、させていただいているのです。もちろん、団体さんの意向はよくお聞きしますし、喜んでいただけるように全力を尽くします。しかし、絶対に、仕事だから、今ここに私が立っているのではないのです。面白くて仕方がない、こんな面白いことを伝えずにはいられない、だから、何とかして立たせていただいているのです。 こと、プロとアマと区別して考えるなら、私は断然、アマであり続けたいと思うのです。 スポーツの世界をはじめ、何でも、アマよりは、プロの方が偉いと思われています。 しかし、創造性を必要とするところ、好奇心が生命線のところでは、プロになることは、逆に大きなハンデです。 誰かに雇われているということは、自分の職務の範囲を決められていることです。縄張りができてしまいます。それを犯しても、犯されても、反撃してしまいます。 これでは、研究の自由も、好奇心の自由も無くしてしまいます。 その点、道楽仕事だと、割り切っている人は、誰からも支配されることがありませんから、自由に研究できるのです。つまり、自分が自分の主人公であることができるかどうかなのです。 教師という仕事も、私は本来、アマチュアであるべきだと思います。「私はお金のために、君とつきあっているんだ」、って言えますか?言ってほしいですか?そういう人もいても悪くはないでしょう。 しかし、正規の学校の先生こそ、みんなアマチュアであるべきだと、私は素朴に思います。 それでこそ、人に影響を与えられると思うのです。これは、極論かもしれません。でも、たとえ、表面的には、お金をもらっていても、お金で教師が動くことだけは、あってはならないことでしょう? お金で動くことは、反面、お金に縛られることです。その制限のもとでしか、心を動かせなくなるのです。教育こそ、心が大切です。その子をいかに大切に思うか、思ってやるかです。 そこに、お金の論理が、上位にあっては、なりません。 科学研究の場合には、好奇心の視野の広さがとても大切なことが多いです。だから、アマチュア科学者の方が、大企業のプロよりも良い仕事をすることが多いのです。 また、科学研究というのは、あまり細分化すると全体への見通しが悪くなります。かえって、進歩しなくなります。プロは、細分化の道を進みがちですが、アマチュアは、科学研究の楽しさを追求しているのですから、一番おいしい、そういう全体像を見失う心配が少ないのです。 昔、寺子屋の時代には、善意だけで教えている教師も結構いたのです。だから、自分の教えたいことを教えることができました。 ところが、明治になって、国の教師となって、月給をもらい、生活が安定する代わりに束縛されるようになったのです。 どっちの教師に教えてもらいたいでしょう?子ども達の喜ぶ顔が見たい、という気持ちだけで動いているアマチュアではないでしょうか?そういう人たちには、子どもたちを強制したり脅したりする力はありません。だからこそ、授業の中身で引きつけなければならないのです。だから、研究するのです。 だから、私は、この活動以外から、収入を得てアマチュアでい続けられるように、奮闘しております。てか!?
2009.07.19
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子どもたちに「やる気」がない、というのが、私たち最大の敵ですね。 どうしても、私たち親は、やる気をを高めるために論理的な方法に頼ってしまいます。言葉とか、理屈とか、損得です。でも、人を行動に移らせるのは、「感情」です。「感情的に高めていく方法」を研究しなくちゃ、とっても効率が悪いんじゃないでしょうか?「感情」をコントロールする研究が、足りないような気がします。気分を良くし、ポジティブになって、「行動」へと結びつけるのです。 もちろん、いろんな方法があるでしょう。その一つに、体を動かすことがあります。感情をコントロールするには、体の動きをコントロールすると有効なことがわかっています。 すごく嫌なことが起きても、「体」で明るく楽しく振舞っていると、「感情」が「体」の動きに引っ張られて、そのうちに、ほんとに「楽しい!」気分になって、行動につながっていくものです。 そもそも、頭で学んだことは、あっという間に忘れてしまいます。しかし、「体で学ぶ」と条件反射的に思い出すことができるものです。それも、信じられない量を。 「言葉」にイメージがくっついているように、「体」の動きにも「感情」がついているようです。 しかも、「ひとつの体の動き」には、「ひとつの感情」しかつくことができません。「体の動き」が元気いっぱいなら、「感情」で落ち込めないのです。 だから、もし、子ども達の勉強に向かう「感情」を変えたかったら、まず、体の動きを変えて、動かしてみてはどうでしょう? 子どもたちが、難問にぶつかって、くじけそうになっている時は、「楽しそうな動き」を取り入れてみることです。 「楽しそうな動き」をすることで、「難問」は「楽しい」と結び付けられます。さらに、「まちがって、おめでとう!」などのポジティブな言葉につなげて、「間違うから、自分が成長するんだ」という意識にさせてやりましょう。 私の目標は、ロックライブのような授業を作ることです。じっとしていられない子万歳です。
2009.07.07
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先日、日本政策金融公庫に申し込んでいた「国の教育ローン」から、200万円振り込まれました。 一般の銀行ローンでは、間違いなく、ペケになる寅さんですが、(もちろん、世間に顔向けできないことはしていませんが)貧乏なほど、優先的に融資されるというのは、やっぱりありがたいです。 これと、奨学金をもらい、アルバイトと組み合わせれば、地方から東京の私立大学を目指すことも、全然、不可能ではないわけです。 奨学金の決定が、来月なので、それらの実績も含めて、これらの情報をまとめて発表いたします。
2009.05.29
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あとで詳しく書きますが、覚えていますか?欽ちゃん劇団の気仙沼ちゃん、そのご夫婦が、穂波の郷クリニックにいろんなご縁で駆けつけてくれました。あとで、ツーショットをお見せしますね。 以下、緩和ケアブログのコピーで失礼します。皆さん、コメントありがとうございます。今日中にお返事書かせていただきます。 昨日、穂波の郷クリニックにて、在宅緩和ケアのホームケアサポーター委嘱交付式が行われました。地域で「ひとあかり」として、光を灯してくださっている方々に感謝とこれからのご協力をお願いしました。それぞれお立場が違うのですが、みんさん、ご家族を見送られたり、ご自身が患者さんだったり、されています。何と!!気仙沼の大島で民宿をされている「気仙沼ちゃん」もいらっしゃいます!わかりますか?欽ちゃん劇団の人気キャラクターでしたよね。全然、変わってませんね。あとで、詳しくご説明します。
2009.05.15
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一昨日の仲直り大作戦は、大成功だったのです! しかし、しかし、次の朝、彼女は学校に行けませんでした。 ここが、不思議でまた、笑っちゃうところ。結局、友だち関係というのも、一つの表面的な言い訳に過ぎないんでしょうね。 心の底に、沈殿物があるのだと思います。さすがに、恥ずかしかったらしく、クリニックにも顔をなかなか見せてくれませんでした。 ところで、私の行っている特別支援教室でめちゃ反抗性の1年生が登場しまして、担任はじめ、ほとほと手を焼いています。ついに、仏の寅さんも、刺激を与えるために強い言葉と感情をぶつけてしまいました。 しかし、ある先生が、あっけらかんと、あっかるい授業をしてくれましたら、最初、反抗していた子が、すこしずつ、参加してくるのです。そして、そして、が~~ん。彼は、明らかに、多動性障害。ADHDの典型パターンじゃないか。自然な彼の姿を見て、涙が出てきました。これまで、ず~っと怒られ続けてきたんだろうなあ。 そして、すべてに反抗することで、かろうじて身を守ってきたんだろうなあ。 それにしても、それにしても、こんな重大な情報が、なぜ、なぜ、事前に現場に上がって来ないんだ! 他県から転校してきたのだけれど、こんな不手際があってよいものだろうか? でも、とにもかくにも、私の見る目がまだまだ、修行が足らないことを猛省しています。
2009.04.14
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現在、ある子の仲直り大作戦が展開中です!ワクワク・ドキドキ。先日の、不登校だった女子中学生です。 あるイタリアンレストランのシェフが全面的に協力してくださり、本日まで有効の招待券を 特別に作ってくださいました。と言っても、実際の製作は科学寅が勝手にさせていただきました。それを、クリニックのソーシャルワーカーを通じて、渡してそれで、今、まさに、子どもたちは、試行錯誤しているところです。 うまくいくかどうかは、わかりません。でも、こうして、一つの思いが人から人に転送されていく。輪が広がる。つながりを実感できる。これ自体に、限りない喜びを感じます。 人は幸せになるために、働いているわけですが、決して、経済原理だけではない、ということ。これを、どうまとめたらいいんだろう?
2009.04.12
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穂波の郷クリニックの三浦先生が市民病院にお勤めの時の話です。 ある小学校の先生が、癌に冒されました。主治医の先生に、「いつ学校に戻れるでしょう?」と聞いたら「そんなことできるわけがないじゃないか!」と怒られました。先生は悲しくて悲しくて、泣き崩れます。 見かねた先生のお母さんが、東京の有名な先生のところに連れていきます。一度でいいかから、教壇に戻して欲しいと。しかし、病状から、自宅の近くの病院でと、帰されてしまうのです。 「何でそんなところに行った!」 地元の先生からは、机を叩かれながら怒鳴られます。家族みんな並んで、30分以上も怒られます。ついに、耐えきれなくなって、お母さんが言います。「先生、あんたが、娘に、もう学校に行けない、と言うから娘はどうしようもなく、藁をもつかむ思い出行ったんじゃないか。あんたが行かせたんだよ。」 ある人の紹介で、外科でなく、内科の三浦先生に相談に来られます。ソーシャルワーカーが動きます。何とかして、先生を学校に戻して上げられないだろうか、と。 病状は確かに悪化しています。余談を許しません。学校の校長先生に相談に行きます。 ところが、意外なことがわかります。その先生は、ワンマンなところがあり、苦手としている職員の方が結構いたのです。校長先生自身も、そうでした。それに、当然、末期の方に来てもらう前例がありません。当然です。 しばらくして、校長先生が、ある病気で入院します。そこにソーシャルワーカーが、お見舞いにいきます。「先生、たいへんですよね~……」 そこから、糸口がほぐれだします。少しずつ職員の心がほぐれだします。 授業参観に父兄と一緒に参加してもらおうということになりました。子どもたちは知りません。しかし、教室に後ろから車椅子で入ってきた姿を感じ、すぐに「先生が来た」とピンと来ます。しかし、子どもたちは、前を向いていなければなりません。 代理で来ていた先生が教室を出ていきます。一斉に、子どもたちは、後ろを向き「先生!」 しばらくして、学校中で、先生のために何かしたいということになりました。 学校の行事ではなく、別のホールを借ります。その先生の恩師が、癌を克服した講演会をするという名目です。そこには、かつての教え子たちも集まります。クリスマス会という名目で、大勢のサンタが集まります。先生のそばには、わだかまりのあった、校長先生が座ります。ソーシャルワーカーの計らいです。 最後に、その先生が、マイクを握らせてくれ!と言います。「何と、この会は私のためにしてくれたんですね。…教え子たちもいっぱい集まってくれて。特にあなたたちは、手がかかる子たちだった。しかし、あなたたちが、一番、結婚式に呼んでくれた。…」最後に、みんなでトンネルを作って、先生を見送ります。 これがクリスマスの日その数日後の、1月1日に、先生は旅立たれます。 こんな話がいっぱい、いっぱいあって、胸がはち切れそうです。
2009.04.08
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早速、昨日、ブログを更新できませんでした。もう!!!でも、この科学寅にとって、人生全体でも大きな大きなエポックメーキングな1日でした。そのうちお話します。いやでも? いっぱいいっぱい書くことになります。 ところで、一昨日の勉強法ですが、それは、覚えたいことを、小さなカードにできるだけ字を少なくして、絵や図やグラフで、できれば色を使ってカラフルに印象深く描き留めるのです。一目見て、そこからいろんなことを頭の中で思いめぐらすことができるように。 コツは、最初は、詳しく情報を書き込んでいいのですが次第にどんどん簡略化していくのです。そして、最終的には、一つの記号みたいにシンボル化してしまうのです。もちろん、他のカードと合体化して統合をくり返します。 このカードをポケットに忍ばせていて、トイレの中とか、待ち時間とかにフラッシュカードのように、繰り返し見るのです。1秒くらいで、思い起こせるようになります。 試験での勝敗の分かれ目は、理解はしたんだけれど、長期記憶に入っていなくて、思い出せないかどうか、そして、それも瞬間的に思い出せるかどうかにあると思います。 その場合、天才でない限り、復習回数が、決め手となることでしょう。でしたら、復習回数を圧倒的に増やせばいいのです。このカードで思い出す方法だと、1分間で、10~20のテーマをふり返ることができます。5分もあれば、5~6回復習できるのです。しかも、瞬間反応の血肉になってきます。 真面目に、教科書やノートをじっくり見直すよりも、何倍も何十倍も多くの復習をしたことになります。 私は授業中に、カードを作っていました。そして、それをトイレでフラッシュカードをするだけです。実際、トイレが勉強部屋でした。 ある意味、カンニングカードを作るイメージです。ポイントとなる情報をシンボライズしてしまうんですから。そして、誰も見ていないところでのヒミツの練習っぽいのですから。 これは、英単語でも、数学の解法パターンでも理科でも社会でも、何にでも使えます。 で、実は、情報をシンボライズすることこそが、理解を深めることに役立っているようです。 定期テストの場合、家で全然勉強しなくても試験直前の休み時間にフラッシュカードを10回くり返せば何とかなるものです。 カードの作り方も、当初は表に問いを書いて裏に答えを書いたりしましたが裏をひっくり返すだけでも、時間がもったいないです。だから、表に全情報をシンボライズして入れちゃうのです。要は、ぱっと見て、頭の中で展開させればいいのですから。 お役に立ったでしょうか?
2009.04.02
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自慢になってしまうかもしれません。私の学生時代の成績のことです。もちろん、普段はこんなの屁とも思ってませんし、大したことだ思ってませんので人に話していませんでした。でも、私の勉強法が、今接している受験生のお役に立つようなので、説得のために、信じてもらうために「自慢話」を少しするようになってしまいました。本当にこの勉強法は、絶大な効果を上げます。題して「超短時間勉強法」 別名「カンニング勉強法」 私は、1学年が11クラスのマンモス中学にいました。そこで、3年間ずっと1番でした。塾にも行きません。家庭教師もいません。チャレンジみたいな通信教材も取りません。部活も常勝で名門の、バスケット部の4番生徒会長もしてました。 こう言うと、何かよくいる秀才か天才と思われますが自信をもって、言います!私は、超ドンクサイのです。他の人がわかっても、私だけはわからないことが、しばしばです。運動神経も、本当に悪いです。人の何倍も練習をしないと、一つのプレーもできません。キラーパスなんて、夢のまた夢です。 ただ、自分が納得した勉強法・練習法しか、しません。というより、自分のペースでしか、勉強や練習ができないのです。そして徹底して、納得しようとします。 納得できないと、ずうっといつまでも考えてしまいます。頭から離れないのです。 おっと、私が伝えたいのは、このことではありません。勉強時間のことです。信じられないかもしれませんが、中学時代の私の勉強時間は、1時間くらいでした。朝6時に起きて、ラジオの基礎英語を聞いて、学校にいくまで。それだけです。夜は、自宅でバスケットのシュート練習ばかりしていました。 それから、高校時代の成績は進学校にトップに近い成績で入ったものの演劇部の活動にのめり込み、それこそ、やっぱり1時間くらいの勉強しかしなかったのでやはり、そこでは落ちに落ちます。3年の夏休み前には、真ん中くらいまで落ちました。その時の全国模試で、志望の慶應への合格可能性が何と3%と出ました。笑っちゃいました。これでも、可能性があるんだって。 で、さすがに、夏休みから、本格的に24時間体制?で勉強をはじめます。でも、全くのオリジナルな勉強法。使ったのは参考書・問題集だけです。学校の指導は、私には合わないことが、はっきりしていたのでできるだけ行かないで(不登校)自分でやりました。で、半年後、奇跡と言われる合格を果たしました。 私は私の勉強法を、特別なものと思っていませんでした。だって、ドンクサイ、私の自然な発想から生まれたものだからです。そして、私は、超マイペース人間だからです。 でも、子どもたちに受験指導をしていて、何て、もったいない、ムダなことをしているんだろうって、気づきだしました。そして、私を信じてくれる子に、しかも、本当にせっぱ詰まっている子に、伝授を始めたのです。 あ、誤解の無いように。科学寅さんが受験指導に、精力を傾けだしたわけではありません。私の目指すところは、全然違います。あくまで困っている子を精神論だけでなくて、実際に、助けてあげたいという活動の一つに過ぎません。 明日以降、ちょっとこの勉強法をご紹介したいと思います。あほくさい、当たり前の勉強法ですが、よろしかったら、ご覧ください。
2009.03.31
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先日、末娘の合格発表を一緒に見にいきました。この2年間、中学校を不登校していました。当初は、完全に引き籠もりぎみで、お医者さんから、鬱の薬までもらって、服用していました。 県の通級教室「けやき教室」にも、近くまでいけども中に入れず仕舞いでした。 それが、学校の保健室の先生のアドバイスで、穂波の郷クリニックの在宅介護ケアNPOの活動に受け入れていただき、いろんな立場の方々から、気づきをいただき、少しずつ元気になってきました。私が個人的にお世話になってた方に、家庭教師を格安でしていただき、また、義理の姉の塾に、家に泊まり込みで特訓もしていただきました。 けやき教室にも行けるようになり、それどころか、そこの主のように、教室にある参考書を片っ端から、使わせてもらいだしました。 修学旅行にも、結局行けなかったのですが、そんな時、穂波の郷クリニックのスタッフの方々が、娘を小旅行に連れ出してくれたのには、本当に涙が出るほど、感謝いたしております。 学校の先生方にも、本当にいろいろ気を遣っていただきました。ご面倒をお掛けしました。 入学と言えば、長男は、中央大学に決まり、「経営コンサルタント」への道をまた、一歩踏み出しています。府中市内のアパートにお世話になります。 とにかく慌ただしい、日々です。 合格と言えば、私が塾や家庭教師で関わった子の勝率は70%でした。不利な状況からの依頼であったことを考えれば、まあ、良しとも思えますが、落ちたという現実は、猛烈な反省を迫っています。 ところで、娘の年代の過去「はてなランド」に来ていた子どもたち。不登校になっている比率が高いことが気になります。 因果関係は、冷静に分析しなければなりませんが、無関係とも言えないでしょう。もともと、学校になじめない子が多く来ていたこともありますが。じっくり追跡調査をしたいと思っております。
2009.03.13
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日本の生んだ孤高の天才数学者、岡潔の言葉に、はっとしました。 数学的な真理や、物理学的な真理について私たちは、理論的に頭でわかろうとします。そして、それらの、ほとんどは自分の心情レベルには、届いていません。 しかし、岡潔は、理数系の真理も、頭の中だけでなく、情のレベルでわからなければ、本当にわかったとは言えないのだ、と言っているのです。 「私の数学は,情緒を数学という形に表現したもの」とも言っています。 凡人には、及びもつかないこと、と思いもよぎりますが「自然を普通に見ますと単に自然が見えるだけです。しかし、仔細に見ますといちいちいかにもふしぎなのです。」 という言葉に、そうか!雑念の無い子どもの心か、とも思い至ります。俗念を払い除け、心を澄みきった状態にした時の、驚きの数々。自然への畏敬であり、また科学における創造性と結びついているのでしょう。 科学も数学も、進めば進むほど、不思議が広がってくるものです。しかし、受験数学や、受験理科は、この感動とは、ほど遠いものです。授業の目標に、取り入れられているのを見たことがありません。この驚きや、情緒を伝えられない理数教育は根っこのところで、ズレているのだと思います。 今、進めている、どんぐり算数にそして、仮説実験授業に、私の「情」を詰め込みたいと思います。
2009.03.09
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子どもたちに好奇心をもたせる方法を見つけたくて、多くの親や教師は、苦労しているわけですが、逆から見て、好奇心を奪い取る方法は、簡単にわかりますね。 それは、「押しつけ」、「強制」です。どんなに楽しいことでも、それをしなければいけない!うまくできなければ、たいへんなことになりますよ!あなたの価値が無くなりますよ!あなたは、愛されなくなりますよ! と言われれば、一気にやる気や、好奇心は消えてなくなります。生理的に、そんなことには、触れたくなくなります。 たとえば、趣味が将棋の人でも、将棋がいかに、意義あるものかを、じゃんじゃん説教され、将棋が強くならなければ、人生がダメになる、誰からも相手にされなくなる勝つことを、一族郎党、みんな期待している、親を泣かせないでくれ、と深刻な顔を言われたら、将棋の楽しみなんて、吹っ飛んでしまいます。 寅さんの人生で2番目に大切な、ケーキを食べることでさえ、もし、ケーキを食べ続けることに、「人類の未来がかかってりるんだ」「人類の期待を一身に背負っているんだ」と言われたら、そりゃ、食べるのは、うれしいですが、本当の喜びは、失せてしまいます。ワクワクする好奇心がすっ飛んでしまいます。 これは、泥棒以上に、ひどい話ではないでしょうか? 私は、中学時代、無敗のバスケットチームに所属していましたが、勝つことばかりが、強調され、それに意義のすべてがあったので、一度もバスケットそのものを楽しむことができませんでした。 あ、バスケットって、こんなに楽しいものだったんだ、って気づいたのは、敗れて、引退した後でした。それも、相当時間が経ってから。 負けた当初は、ボールを見るのもイヤでした。何のためにやってきたのか、わからなくなったからです。だって、優勝できなかったら、価値がないとたたき込まれてきたのですから。私の中学時代は、無意味に終わってしまったのです。 これと同じことを、世の大人は、子どもたちに、勉強の意義を説くことで学問の楽しさを奪っているのではないでしょうか? 好奇心を奪うには、それに「意義」をいっぱい乗っければいいのです。いかに重要なことか、と。これが、大切で、必要で、逆に、それが達成できなければ、君はダメになる、不幸が待っていると親切に教えてやればいいのです。 子どもたちは、頭では、「わかった」「がんばります」と言うでしょう。 しかし、体がついていきません。どうしても、机に向かっても、本を開けなくなるのです。 なぜでしょう?それは、子どもの体は、いや、子どもの魂は、(大人もですが)そんな、ちっぽけな意義よりも、もっともっと圧倒的に偉大なものだとわかっているからです。その意義に染まるということは、自分を小さな牢獄に閉じこめることと同じだと心の奥底で、わかっているからです。 本当に逆説ですが、私はこう考えます。たとえば子どもに、科学に興味を持たせるには、科学の意義を前面に出さないこと。これをやると、理科の点数が良くなるとか入試に有利だとか就職や給与に跳ね返るだとか、尊敬を集めるだとか人類が救われるだとかそんな話をしないことです。 実際、科学ってものの本質は、イタズラに過ぎないのです。だれからも、期待されるのでも、人類を救うものでもない。強制されるものでは、サラサラない。日本の産業を強化するためのものでも、さらにありません。 もちろん、結果として、そういうことはあるでしょう。しかし、それを考えた途端に、科学的好奇心の生命の炎は消えてしまうのです。 どうやって教えれば、何を覚えさせればいいのか、ってノウハウの問題でも、突き詰めれば、全然無いのです。何も教えなくても、好奇心は湧かせられるのです。では、好奇心の本質とは何でしょう。それは…(続きます) ところで、明日、寅さんがお世話になっている大崎市の穂波の郷クリニックの三浦ドクターの講演会が古川中学校で開かれます。知る人ぞ知る、真正面から本来の医療の姿に取り組んでおられる本当にバカ正直とも、ドンキホーテとも言える素晴らしい先生です。先生が見てこられた子どもたちの事例が語られます。また、特別ゲストとして、ご自身が重病で、明日をも知れぬ身ながら、中学生に関わり続けられ、子どもたちに明るさを取り戻させてくださった患者さんが、それこそ、命をかけたメッセージを筆談でしてくださいます。PTAの関係者以外の方でも、ご希望の方は、事前にご連絡くだされば歓迎です。
2008.12.03
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昨日、続きを書けませんでした。冷たい雨に打たれて、風邪ぎみでした。けど、今日は、青空。体もすっきり。 ところで、昨日の続きですが、小さな記事が、世界を変えるきっかけになることは、よくあります。 サイエンスの記事に、当たり前に出ている内容にとんでもない、常識をひっくり返すフィルターの素があるものです。それは、昔から、世間の常識になるには、常に百年以上かかるものです。 今回の「からみあい」も、当初は、微少の世界の変則データだと思われていたものが、実は、世界の本質ではないか、と見られてきているのです。 この現象は、あまりにも奇妙なため、あのアインシュタインさえも、「量子論の方がどこか不完全なために、誤った予測や観測結果が得られている」と考えたくらいなのです。何せ、光よりも早く、瞬時に、宇宙の果てから果てまで影響を及ぼすのですから。 もともと、からみあい状態というのは、量子論の数学的演算にもとづいて予測されたのですが当初は、かなり不安定で特殊な状態と考えられていました。 ところが、からみあいは今では、理論的な段階を超えて、各種の実験段階それも原子レベルの極小さな空間や時間だけに現れるものでもないことが、はっきりしています。想定していたよりも、ずっと広範囲に安定的に見出されるのです。 マイケル・ブルックス(量子物理学の博士でジャーナリスト)によると「粒子同士のからみあいは、至るとき、至る所で起きており、最近の研究では、なんと私たちの住むこの巨視的な世界にまで及ぶ影響が明らかになっている。現在の物理学者たちは、そう信じているのだ」と言っています。 このからみあいは、実用化の研究も既にすすんでいます。「量子コンピューター」です。量子のからみあいを計算の原理に活用した未来のコンピューターです。たった一台で、現在の最速コンピューターが宇宙の大きさになっても解けない問題が解けると言われています。 もちろん、コンピューターだけではありません。私たちの生体内でも、からみあいは、有効な説明になる可能性が高いのです。ノーベル物理学賞を受賞したブライアン・ジョセフソンは、「生物システムは思いもよらない方法でからみあいを利用しているにちがいない」と主張しています。 ウィーン工科大学の物理学者ヨハン・ズムハマーは、からみあいは自然界にあまねく存在するのだから、進化がそれを活用しないわけがないと「からみあいによって、生体内の化学反応が調整され、生物種内の生体同士の行動が調整され、生体と環境の間の相互作用も調整されてきたにちがいない。からみあいこそが進化的に有利な立場を築くのだ」と主張しています。 さらに、からみあいは、宇宙全体に広がっているのではないかと想像されています。宇宙のものは、ことごとくからみあっていてよいのです。理屈の上では。ものというのは、真空の空間も含めてです。全く、常識に反したこうした全体論的な見方。これをおしすすめると、非現実的、魔術のようだ、超能力だ、と言われるのは、見えています。 しかし、昔から、東洋哲学には、万物が相互につながった全体である、という思想がありました。西洋哲学が、それに徐々に気づきはじめているのです。 今、世界観がひっくりかえる、重大な局面・流れにいるのです。 そして、教育の世界を、このフィルターでながめてみると心もからみあっていることに、気づくわけです。(つづく)
2008.11.29
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ノーベル物理学賞の南部陽一郎氏、小林誠氏、益川敏英氏そしてノーベル化学賞に決まった下村脩氏本当におめでとうございます。基礎的な科学研究が認められることにともに、喜びたいと思います。受賞の先生方の記者会見を見て、いつも思うのですが、どなたも妙に飄々とした雰囲気です。2002年にノーベル化学賞を受賞された、田中耕一さんのときも、そうですね。益川博士と小林博士にとっては、自分がうれしいというよりもむしろ恩師の南部先生が受賞されたことをたいへん喜ばれていたのが感動的でした。でも、とにかく言えることはノーベル賞を取られる科学者の特徴は、それは、「研究」が好きだということ!「研究」が好きでしょうがない。「研究」が楽しくてしょうがない。自分の「研究」が人から認められなかったとしても、自分の「研究」に誇りと自負を持ち、コツコツと研究を続けてこられたこと。結果としての、ノーベル賞受賞。「好きこそものの上手なれ」といいますが、まさにその通りだと思います。 好きなことをしていると楽しい。 楽しいとついつい一生懸命やってしまう。 楽しいので一生懸命やっても、精神的に負担にならない。 楽しいので、何年も、何年も続けてやってしまう。 知らないうちに、成果を出し、結果につながってしまう、という。私の科学実験教室も、楽しくて仕方がないから続けられています。自分が楽しんで、講師料をいただくのが、申し訳ないくらいです。でも、普通の方々には、好きなことを仕事にするってのは、難しいことですよね。それができればいいのですが、それができない場合は、今の仕事に「好きなところ」「魅力的なところ」を見つけていくしかないでしょう。もちろん、「仕事」以外にも、趣味とかスポーツとか、「本当に好きなこと」を見つけて続けていく、というのは人生を豊かにするためには大切なことだと思います。好きなことをやることをすすめる本もいっぱいありますね。いわゆるワクワクが成功の秘訣だと。バシャールも、その流れの源流でしょう。好きなことをやる力というもの、これを育てる教育が必要だと思いますね。
2008.10.09
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蟹工船が、ブームだそうですが、 先日、明治時代に、若い女性たちが工場に出稼ぎに出た状況の検証の話を読みました。 時計に縛られ、非人間的な労働に従事させられた、と言えばとても悲惨なイメージです。女工哀史というタイトルにもあるように、何となく、暗い印象がプンプンします。 しかし、当の女工だった人たちから聞き書きした話では、彼女たちが、その生活を「嬉しかった話」として嬉々として語っているのです。 考えてみれば、明治の前、すなわち江戸時代には、女性は、各自、家の中で一人黙々と、糸を紡いだり、織物を織ったりする労働に従事していたわけです。 それが、明治維新になって、外に出られるようになったのです。そして、同世代の人と一緒に工場で働けるようになったのです。だから、ある面では、あきらかに工場労働は、江戸時代の家内労働よりも良かったのです。 明治初期には、「若い娘が、二~三年も工場に働きに出れば、家が建った」ともいいます。 非人間的な労働というような見方をするのは、それらの女性よりも、もともとずっと良い生活をしていた上層部の人々だけだったのではないでしょうか? 時代が変化するときは、出来事を悪く解釈する方が主流になります。変化に対して、不安に思うのが自然であり、そして、変化に反対する声が大きくなるものです。 その陰で、変化を歓迎する人も多数いるのですが、そういう人は、反対の声が静まるのを待ってから出てくるものです。 つくづく、歴史や社会状況は、いろんな角度から見なくてはならないと思わされました。 <話は変わりますが>科学寅さんが、お世話になっている古川南中学校の青空学級の生徒が文化祭に向けて製作している革細工のカード入れ です。値段設定で悩んでいるのですが思い切って、マーケットの声を聞いてみることにしました。もし、よかったら、適度な入札をお願いします。
2008.09.04
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一国の首相が、状況が想定外だからと、辞任してしまったり、離党すると宣言した人が、翌日、「やっぱり離党しません。」なんて、常識ある大人のイメージからは、ズルイ、卑怯と思ってしまいます。 これは、子どもの世界も同様で、やっぱり、「尊敬すべき大人は、自分の世界観、人生観の自説を確立して生きるべきで、成熟した人間は、軽々しく自分の意見を変えるものではない」と、子ども心にも、思っているようです。で、子どもたちだって、自分を立派な人間だと思われたいようで、授業の中でも、予想や意見の変更には、こだわってしまいます。 しかし、学習するってことは、自説を強化するだけではないはずで、マジメに学ぶ人ほど、新しい世界に遭遇するはずです。そうして、進歩していけば、当然、意見が変わるのです。 もし、幕末に、尊皇攘夷を貫き通していたら、どうなったことでしょう?意見の変更が裏切りだと、ずっと負い目を追っていく社会というのは、良い社会でしょうか?それは、一昔前の社会状況です。すなわち、意見が、特定のグループの利益を代弁していた時代の話です。 利益代弁者ではなく、社会の真理・社会の法則を追究しなければ、結局、利益になると思って活動したのに、反対の結果をもたらすことも少なくありません。 で、真理の追究のためには、いろんな意見が自由に出される環境が必須です。その意味で、自分の意見もコロコロ変われる環境が、どうしても必要なのです。 政治家の社会への公約というのも、重いものです。ですが、誤りに気づいたら、素直に予想変更し、意見修正できることこそ、21世紀には、大切な資質だと思います。 意見変更を認める風土作りは、学校での教育現場から、育まなければなりません。 クラスでも、誰かが、思い切って、「僕、予想を変える」と発言すると、そのあと、何人もが雪崩を打ったように、予想変更に手をあげます。誰ちゃんが、意見を変えても、非難されなかった、という事実を確認すると、安心して、立場を変える者が続出するわけです。 もちろん、そんな時、人の顔色を見て、自分の立場を変える子どもが、必ず出ます。正義感の強い先生は、そういうのを、ズルイ!と、思ったりしちゃいますが、私は、そうではないんじゃないか、と思います。 自分で判断がつかないことって、確かにあるわけです。そういう時、多数派につく、というのも、立派な判断でもあるわけです。また、誰ちゃんの意見に従うというのも、その子なりの考え方なのです。我々大人だって、同様の判断をしているわけですから。 しかし、授業の中で、実験してみた結果、多数派の予想が間違うことが、しばしばだ、という事実に何度か出会うと最初に、自分の頭で考えた予想にしておけば良かった、と悔やみます。そして、自立した意見をもつようになってくるのです。 日本のこの混沌とした状況というのは、私は、決して、悪いもんじゃないと思います。もっともっと、みんな悩んで、政治家ひとりひとりが自立した意見をもつようになるまで、進歩していって欲しいと思います。 その方が、これから、未体験の問題解決にあたらなければならない日本にとって、単に安定した政治状況よりも、危機を乗り越えていく、そして創造的な社会を作っていく可能性が高まると思うからです。 いつもの、ヒネクレ意見でした。
2008.09.02
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私たちの認識は、錯覚に上に立っているのに、 私たちは、善玉・悪玉を決めてしまうことが大好きです。時代劇の水戸黄門をはじめ、洋画でも、そのほとんどが、はじめから善玉・悪玉が決まっていて、正義が勝つことになっています。 そして、これは、教育の中にも浸透していて、熱血教師は、正義を貫き通す勇気と知恵だけが必要なのだと強調していることに、気づいていません。冷静に、<どちらが正義か?>なあんて、のんびりしたことは、考えるまでもなく明らかだ、という前提で指導をしてしまいます。 しかし、映画の中のヒーローだって、本当に善だろうか?と振り返ってみる思考力が、今こそ必要なのではないでしょうか? 水戸黄門だって、武士の世の中こそが、人々を不幸にしてしると考えると、副将軍こそが、悪の親玉だとも言えるわけです。 映画でなくても、フセインが、完全な悪玉だったのか?アメリカが、「無限の正義」と称したわけですが、本当にそう言えたのか?いろんな角度から、検証しなければならないわけです。 太平洋戦争だって、日本人が総懺悔なのか?それとも、欧米の横暴に立ち上がった正義の軍隊だったのか? 事実・真実は、人々の思いや願いとは、別のところにあります。ですから、正義論では、真実は見えないのです。 自然科学もそうですが、特に社会科学は、「正義と悪は自明」という正義論を超えたところになければならないはずです。 ですから、教育現場でこそ、何が正義で、何が悪かも、仮説を立て、それを実験的に検証することによってのみ決まることが少なくないということを繰り返し教えていかなくてはなりません。 自然科学でも、今でこそ、地動説を信じるのが正義で、天動説を信じるのが悪だと、簡単に言いますがこれを議論していた当時は、どちらが正しいのか、ということは、学者でもなかなかわからなかったわけです。 だからこそ、いろんな立場から、いろんな考え方を自由に述べる環境が必要なのです。自由に討議できれば、いろいろ検証された結果、「ああ、こういうことだったのか!」と初めてわかってくるのです。科学では、言論に自由こそが決定的に大事で、初めから、何が正しくて、何が間違っているかなんて、わかりっこないのです。 自然科学でさえ、そうなんですから、もっと複雑な社会科学の場合は、なおさら自由な討議と、検証が必要なことは明白です。 よく、最初は、正義だと思っていたことが、実は、そうでもなかったことがわかった時、私たちは、「結果は違ったけれど、あの時の私たちの思いは正しかった!」と、自己弁護してしまいます。 でも、そこからは、何も学べません。間違った結果を得たならば、そこから、徹底的に研究と学習をすべきなのです。そして、簡単に正義感で動いてはいけない、ということを学んでいくのです。 自然科学の歴史も、真理というのは、人間の思い、世界はこうあるはずだ、こうあるべきだ、という思いとは、違うところにあるという学習の歴史だったのですから。 教育は、正義を教えるのではなく、真理の追究方法を教えるところだとの、共通認識をもちたいものです。
2008.08.30
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昨日は、食育講座を開きました。OK-net(おおさき教育支援ボランティアネット)主催(寅さん代表)で地域の食育コーディネーターのお母さん方が講師の夏休み企画です。 地域のクッキングトマト農家に行って、思いっきり収穫してきて、(大雨の中)それで、イタリアン料理をいっぱい作りました。 トマトが夢に出てきそうです。思いがけず、NHKから、新聞社も2社来てくれまして、エプロン姿の寅さんが映ってました。 ところが、いざ料理を始めるぞ、という時に公民館の電気が停電!!!それも重傷という、とっても珍しい場面とぶつかり、めまぐるしく、作戦を変える必要に迫られました。 財布を忘れる子も出るし、久しぶりの引率は、なかなかです。 でも、とにもかくにも、とっても喜んでもらえて、結果オーライだったようです。 地方振興事務所のおじさん達も、慣れない子ども相手の仕事、ご苦労様でした。 先生たちの苦労がわかったでしょう。
2008.08.22
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おおさき100キロ徒歩の旅も、今日で3日目。お陰様で無事、経過しています。予定通り、疲労がピークです。今日も暑くなりそうです。休憩ポイントへの到着風景です。足マッサージは欠かせません。アタマから、水をかぶっています。霧吹き部隊もいます。寅さんの仕事は、このトイレカーです。これを運転しながら、追いかけています。気合いを入れて、また出発です。 寅さんは、こういうことに協力することは、大好きです。歩くことも大好きです。こういう機会に、若いボランティアを育成できることもありがたいことだと思います。 でも、一歩間違うと、この手の体験事業は、一昔前の精神修行それも、前の人の歩くとおり、何も考えずに歩く人間を作ってしまいます。ただ、「頑張ればいい」「辛くても乗りこえる」これでは、時代遅れだと思います。 特に、今年の子どもは、歩きたくなかったのに、修行のために、親に出されてきた子が多いように見受けられます。 私は、本人の意志でなく、シツケや修行のためにこういう体験をさせるのは、反対です。 戸塚ヨットスクールじゃないのです。 それに、これを「修行」にすると、恐ろしい副作用があると思います。 これについては、また、書きます。 TBSテレビが、ある子の密着取材をしています。出発する前から、ご家族の様子と、その子の変かを追っています。ドキュメンタリーになるのだと思います。
2008.08.07
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いよいよ、今日から「おおさき100キロ徒歩の旅」がスタートします。私は、午前中、南児童センターで実験をして、その足で、合流します。10日まで、日中は連絡が取りにくくなりますが、よろしくお願いします。
2008.08.06
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昨日、醸室の側を流れる緒絶川で全国笹舟大会が行われました。今年で、3回目で、ずいぶん皆さん成長してきました。 大会の運営も、組織プレーが成長してきました。笹舟については、ほとんどが、運任せですが、創作舟部門では、違います。芸術的な面白さは、別として、こと、競技として見た場合、確かに、コツはあるようです。優勝した菅原さんは、3連覇です。 動力は無いのですから、一つは沈む深さの加減もあるのでしょう。前日、熱心に実験されていったチームがありました。その結果、できるだけ深さが無い方が良いということになったようですが、競技当日、ナント向かい風。吹き戻されてしまいました!小さな舟の大きな戦いは、さらに来年へと続いているのだ!
2008.08.03
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夏休み、いろんな体験教室の、真っ最中だと思います。子どもたちに、様々な体験、特に、自然体験をさせることは一生の財産だと思います。 しかし、科学的な思考を発展させるため、ということを考えるとそれは、一概に、体験量を増やすのが良いとは言えないと思います。 もちろん、何か考える場合、ある程度の情報量をもっていなければ、考えること自体ができなくなります。 しかし、経験がありすぎて、それが当たり前になってしまって、疑問にも思わない、ということが、私たちの身の回りにいっぱいあります。 逆に、はじめて触れたから、発見するものも多いはずです。 とすると、はじめて触れる瞬間というもの、それをとっても大切にしてあげないと、もったいないわけです。 これは、情報の質の問題と、量の問題とも言えるかと思いますが、同じ事実を見ても、問いかけの角度を変えたり、順番を変えたりするだけで大きな感動をもたらしたり、全くの無感動だったりします。 その子にとって、感動できるチャンスというのは、そうそうあるわけではありません。とすると、周囲の大人は、その子の一生に一度のチャンスを奪ってしまわないように慎重に、新たな体験を準備してあげたいものです。 とにかく、人間が認識を新たにできるのは、そこに何某かの、ズレを見いだすからです。そして、そのズレも、目的意識的に見ないと発見できないものです。 学校の教育に染まった「よい子」は、そこにズレを見ていても、大人や先生から、「そういうもんだ」と言われれば「そういうもんだ」と、自分自身を納得させてしまうように習慣化されてしまっています。そこには、疑問も何も起きないのです。 科学の醍醐味は、常識的で、あいまいなモノの見方との鋭い対立・対決にこそあります。そして、その対決から、新たにつかんだ概念が、とっても有効だと実証されたときのうれしさ! です。 だから、思考活動を活発化し、感動の世界をプレゼントしたいならば、体験する前の、予想・仮説を目的意識的に、はっきりさせるべきで、その予想と事実のズレから、得るものを何倍にも大きくし、 その子を、この世界の隠れた秘密へのファンタジーに誘うのだと思います。 私の科学教室も、慣れが一番怖いものです。はじめた頃の、もし感動を与えられたら、死んでも本望というあの情熱だけは、絶対に失わないようにしたい。 この夏、科学教室等、子どもたち向けの活動でいっぱいで、商店街活動のお手伝いが、全然できていません。たいへん申し訳なく思っております。お祭りも近いのに、そばで皆さんが活動しているのを尻目に、実験教室の準備に追われています。 ぜひ、チョー長い目で見てくださいね。いつか、ご恩返しができると思います。 現在、5KGの減量に成功!
2008.07.29
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新たな地震が起きたばかりですが、先日の20,21日にくりこま地区の「震災エコツアー」が実施されました。何も、支援できない寅さんですが、せめて、情報で支援をしたく、ほとんど転載ですが、書かせていただきたいと思います。災害を商売にするなんて!災害地という非常時、被災者の辛さを除き見る不謹慎な観光!という批判もあるでしょう。皆さんはどうお考えになるでしょうか。私は、大賛成です。復興を楽しむ心こそ、生命力だと思うからです。でも、参加者からも、「本当に被災地に入って迷惑じゃないのか?」という疑問も出されたようです。しかし、2日間を通して多くの地元の方々と交流し、現地もつぶさに見て、『私たちと同じように出来るだけ多くの人にこの土地に来てほしい、見て、考えてほしい』という感想に変わったそうです。被災地は日常が破壊され、胸の塞がるような状況があり、それでも希望を生み出して立ち上がる人の姿があります。その人たちを支えるのは行政の復興事業だけではありません。それ以上に全国の人々の友情と支援のアクション、励ましが支えとなります。日本では被災した土地はその後、風評被害という2重の責め苦によって、地域の産業や観光が長期低落を強いられます。寅さん関係でも、離れ島での冒険学校が中止になりましたし、寺子屋ホールでこれから開かれる生け花教室も、お師匠さんが、宮城は怖いということで中止です。さらに、直後だったので、仕方がないと言えばそうですが、特別支援教育のセミナーも中止になりました。世界でもまれな災害多発国である日本に住みながら、隣の出来事として他人事にしてしまうのは、想像力を失った発想と言えるでしょう。それが災害地や生活弱者を追い詰めています。震災エコツアー(復興支援エコツアー)」は、従来、ボランティアとして覚悟を固めて行くしかなかった被災地に、より敷居を低くして訪問することが出来る方法として始まりました。参加者には、日本人として被災地の現場から学び、気づく多くの実りがあり、被災地にも訪問者があることで多くのメリットや支援につながります。なにより、被災した方々との顔と顔の語らいや案内を通して、お客以上、親友未満の関係を作り上げることも、ねらいの一つです。今回は、くりこま自然学校の佐々木さんや自然学校のスタッフの皆さん以外に、文字地区(耕英の直下)の郵便局長さんがマイクロを運転しながら詳細に地区を顔パスで案内してくれました。復興の会会長の大場さんも夜、顔を出してくれ、住民の現況について話してくれました。荒砥沢ダムの主、『さくらの湯』主人の大場さんは、ダムの崩壊を肉眼で見た唯一の人でしたが、そのときの様子をありありと語ってくれました。神戸の住人で阪神以来欠かさずボランティアをしている『ひまわりおじさん』の荒井さんは、今回は『お茶碗プロジェクト』を組んで、耕英、花山の被災者にまさに仮設に移るタイミングで、全国から寄せられた6~7百箱の食器を配り、驚くほどの流れで、食器の大きな山が消えていきました。この荒井さんのボランティアとしての生き方を深夜まで聞かせてもらい、みんな胸を強く打たれたようです。今回の参加費は実費を半分に抑え、残りは支援金としました。被災地訪問のツアーは中越や能登、福岡の震災でも組まれましたが、今回はまだ、ボランティアの活動段階でのツアーで、被災者自身との交流に時間を割いたツアーでした。これからの国内の災害復興支援のスタイルの一つとして、大きく参考になると思います。次回は8月30~31日の土日です。現在、立ち入りが出来ない耕英地区には入れるか否かは分かりませんが、入れればおそらくボランティア作業も体験することになるでしょう。今後、私たちの創意工夫を活かした支援をつくる必要があります。くりこま耕英の皆さんのためにではなく、明日の私たち自身のためにです。
2008.07.25
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昨夜も、地震にびっくりしましたね。東北の観光は、打撃ですね。ところで、先の栗原の地震の被災者を励まそうと上記の企画を予定しています。 栗原の鶯沢商工会と、つるしびな教室のご縁で、被災者をご招待しての、昼食会と、千羽鶴ならぬ、復興への祈りを込めたつるし飾りをみんなで作って、プレゼントいたします。8月3日、お近くの方は、醸室の寺子屋ホールまで足をお運びください。できるだけ、予約をいただきますと、材料の手配が助かります。
2008.07.24
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自由研究で、面白いテーマを見つけられないとき、(まだ、時間がありますんで、じっくりと作戦を考えましょう)いくつかのチェックリストをもっていると、とっても助かります。その一つに、「なのに と言ったら だから」というのがあります。これは、師匠の板倉聖宣さんの「発想法」に出てくるものですが人は、気軽に、「~~なのに」という言葉を使いますが、この背後には、「本当はこうであるべきではない。別のこうであるはずだ。」という前提があります。「それなのに」、この場合、それが当てはまらない、と嘆くわけです。ということは、例外が発生したということであり、もしかすると、それまで当たり前と思っていた前提条件が崩れていたり、そもそも間違っていた可能性があるわけです。 だから、思わず、「~~なのに」と言いたくなったら、チャンスなのです。みんなの前提としている法則の誤りを見つけたり、新しい法則を発見するチャンスかもしれないのです。 たとえば、「アタマが良いのに、間違う」 を「アタマが良いから、間違う」 に変えるといろいろ発見できますね。 「不登校なのに明るい」 を「不登校だから明るい」 に 「友達なのに言えない」と「友達だから言えない」「好きなのに素直になれない」と 「好きだから素直になれない」 「冬なのにアイスクリーム」と 「冬だからアイスクリーム」「学生なのに勉強しない」 と 「学生だから勉強しない」「いっぱい寝たのに眠い」 と 「いっぱい寝たから眠い」「美人なのに彼氏がいない」 と 「美人だから彼氏がいない」「本当なのに信じてもらえない」 と 「本当だから信じてもらえない」「わからないのに面白い」 と 「わからないから面白い」「危険なのにやりたくなる」 と 「危険だからやりたくなる」「宗教国家なのに戦争をする」 と 「宗教国家だから戦争をする」 などなど、こういう発想法から、面白い研究テーマが見つかるものです。グッドラック!
2008.07.21
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夏休み自由研究のテーマを悩んでいる方も多いと思います。数人から、アドバイスを求められたりしているんですが、みんなに話しているのは、どうせやるなら、どう転んでも、楽しいものにしよう、っていうこと。 楽しくない研究とは、ワクワク・ドキドキしない研究のことだから、もちろん、人によって違うのですが、たとえば、「アサガオを観察しよう」 なあんて、いうもの!ただ、観察して、何かを見つけるというもの!こんなのは、つまらないと思うのです。そう、思いませんか? また、「地域について、調査しましょう、調べれば何かわかるでしょう」こんなのも、問題意識とも言えません。 見れば、わかる、っていうのは、誤解です。白紙の心で見ることはできないのです。 先入観に近い、仮説がなければ、どんなものでも見れども見えないのです。 だから、とびっきり楽しい仮説を立てましょう。これがわかることが、ワクワク・ドキドキになることを確かめるのです。実験や、研究は、ある意味、賭け事みたいなものです。馬券を買うのと同じです。 当たれば、もちろん楽しいし、自慢できます。「どうだ、私の予想は、するどいだろう」って。それと同時に、もし、予想が外れても、「予想外の事がわかった」と、大発見を発表できます。どっちに転んでも、ラッキーなのです。馬券のように、大損することはないのです! ただ、そのためには、黒か白か、はっきり結果が出る研究でなければなりません。どうにでも解釈できるものは、「神様の意志は何か」とか、「~~ちゃんは、優しいか」みたいなもので、本当の意味で、ワクワクになりません。少なくとも、科学ではありません。 テーマのヒントは、多くの人の予想が分かれるものが、いいですね。事前に、アンケートを取ってみるのです。そうすると、自分の予想がどういうポジションなのかがわかりますし、多くの人を、ワクワクに巻きこむことができます。 この場合も、てんでんバラバラに言わせるんじゃなくて、あらかじめ、予想のパターンを予想してしまって、Aか、Bか、Cかという選択肢にしてしまうのです。 そうして、実験や調査をした結果、Cと予想してたことが「A」だったんだ!と結論づけるのです。 研究は、何のためにするのか、と言えば研究しなければわからないことをわかるためにするわけです。 だから、できるだけ、常識的な答えが出ない方がいいですよね。 研究発表って、芸人のコントと似ていると思います。ビックリしたり、ワクワクしてくれなくては、聞いてきれません。お客さんあっての、研究でもあります。 だから、どんでん返しのある可能性が高いモノを選びたいものです。予想だけでも、とんでもないものを入れておきましょう。 それから、もし、そういう必殺テーマが見つからなくても、みんなが、「おそらくそうじゃなかなあ」って思っていて、実は、心の内では、確信が持てないでいることみんなの認識が、とっても不確かなことそんなことを、たしかめるってのも、ワクワクしますね。 身近なことであれば、あるほど、みんな身を乗り出して発表を聴いてくれます。 それを見つければ、あとは、シンプルな予想の選択肢を出して、多くの人の意見を聞き、それぞれの立場の人の意見をまとめ、代理討論会を開き、バトルをさせます。推理ドラマのように、盛り上げるのです。そして、さあ、実験、または調査です。 で、結果が出たら、それで終わってはなりません。一つの事実から、言うことのできる解釈って、無限にあるのです。だから、さらに、ここから、謎の旅がはじまるのです。ああも、言えるかもしれない。こう解釈できるかもしれない。さらに、わからなくなってきたぞ、って。 その問題意識を聴衆に投げかけて、「終わり」にしたいものです。 とにかく、この子は結局「何を知りたいのか、わからな~い」研究がいっぱいあります。「何を知りたいかわからないから、研究するんだ」、って人までいます。そんなのは、せっかくの夏休み、無駄にさせるだけでなく、研究嫌いにさせてしまいます。科学アレルギーを作って、もう二度と、研究の世界に足を向けなくさせてしまいます。 そうじゃなく、研究する前に、あらかじめシナリオを書いてしまうのです。ドラマティックな筋書きを書いてしまうのです。 その筋に沿って、実際にやってみて、はじめてその通りだった、とか、いや、、違ったというのがわかるのです。 それでも、このテーマに、みんなが関心をもってくれるかどうかは、みんなに当たってみなくては、やっぱりわからないものです。だから、最初は、身内の人に、そっと当たってみるのです。そして、このテーマは外れだな、と感じたら、そっと、捨てればいいのです。 とにかく、研究は、自分一人の満足よりも、多くの友達の顔を思い浮かべてやったほうが、何倍も、何十倍も楽しめますよ。もともと、科学って、娯楽だったんですから!
2008.07.20
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私は、宮城県大崎市の観光施設 醸室(かむろ)事務局におります。地元物産の販売コーナーもあり、もちろん、今回の地震で被害の大きかった栗駒や花山の業者さんもお出でになります。話を聞くと、何かしてやりたい、という気持ちになってしまいます。気持ちばかりですが、側面から、販売のご支援をさせていただこうとここで、紹介しちゃいます。まず、ご紹介したいのが、栗駒山麓のトチの花から採取したハチミツです。栗駒山には、天然広葉樹林一帯に、樹齢何百才のトチの大木が自生しています。このトチの純粋ハチミツです。 こちらの社長の奥さんは、地震当時、ニュースで何度も出てる水位が上昇し、土砂崩れダムに建物がのみ込まれそうな湯ノ倉温泉のさらに、奥にいて、発煙筒をたいて、最初にヘリで、引き上げられ「山奥にまだ、生き埋めの人がいるよ」と、第一報をしたその方です。 代表の鈴木恭太郎さんです。養蜂業2代目として昭和20年に養蜂の道に入りました。昭和40年よりイチゴとみつばちの研究を始め、イチゴとみつばちと薬剤との関係を県の使用マニュアルに取り入れるため努力されました。現在は宮城県養蜂協会会長を務めています。地震の現場の悲惨さ、恐さは、想像を絶するもののようで、ふもとの、ご自宅も、びん茶碗が飛び散り、たいへんな状態だったそうですが、それでも、こちらは、天国のようだと、おっしゃってます。 帰らぬ人となっている方々と、直に会っているだけにこちらで、生きているのが、申し訳ない思いがするとのこと。だから、私の宣伝の申し出に、今回の地震を商売には、とても使えないとおっしゃります。 しかし、だからこそ、元気になって欲しいんで、せめて、販売で協力し、立ち直っていただきたい元気になって欲しいと思うんだ、ということで納得していただきました。この中に、はたらき蜂達がトチの花の蜜を集めてくれていました。鈴木社長さんのお父さんが亡くなった同時期に、栗駒山の伐採も深刻な状況を迎え、保山運動(山の木を守る運動)がさかんに行われました。運動の1つとして、蜜元になるトチの木を守ることを始めました。なぜトチの花にこだわるとか言うと、トチの花の開花時季が他の花と重ならないため、トチの蜜100%の採蜜ができ、「純度日本一」の蜜ができるからであり、トチの蜜の色合いは黄金色で香りも程よく、日本人の味覚に合った蜜なのです。しかし、自然の状態を求めるが故、奥山に蜂場を設置しているのですが、クマの被害や、クマに出くわすことも多々あり、自然との共存の難しさを実感していたところなのです。クマ防止の鉄冊です。それでもクマの進入はあるんです。電気柵で守っています。自宅で瓶詰めをして、年間5tほど生産しています。トチの花は、6月末には、終わりですんで幸運にも、今年の収穫は、ほぼ終了したところだったのです。もちろん、地震がなければ、もっと取れていました。 しかし、当然、生産施設は、壊滅的で、だいたい、山自体が無くなってしまっており、トチの大木も、消滅している部分が相当あるようです。山崩れがテレビの報道以上にすごく、当時、どれが地震か、どれが山崩れか、わからない状態だったそうです。 来年以降の生産への悲観は、察するにあまりあります。ぜひ、ご支援の意味を込めて、法外な値段でなく、規定価格でご協力いただける方を募りたいと思います。 大きさは、250g、500g、850g とりそろえてあります。250g 900円500g 1750円850g 2700円です。一本から、配送いたします。決済は、銀行振込(ジャパンネット銀行、ゆうちょ銀行、)佐川eコレクト(商品代引き)からお選びいただけます。 配送料と、代引きの場合手数料が加算されますが、ご無理の無い範囲で、ご協力いただければ幸いです。ぜひ、栗駒山奥の純粋な自然の味を噛みしめてみてください。 販売主体は、醸室の「おおさきうめえもの市場」です。醸室のホームページです。 もちろん、全責任は、私が持ちます。(私がネットショップの窓口なんで。)もちろん、返品可で、結構です。 ボランティアで行ってきた人の話を聞くと、やはり、思わず、涙が出るそうです。テレビだけでは、わからないもののようです。 同情ではなく、お互いに元気をわけあいたいと思います。 商品は、とりあえず20本ずつ用意してあります。 ご希望の方は、メールを下記にお願いします。terakoya-juku@o-bb.net
2008.07.09
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地震で、「崩壊」した本棚を修理していたら、学生時代に読んだ、「商人哲学集」が出てきました。倉本長治さんが書いたり、まとめたものです。私は、家業の商売を継ぐことを前提としていたので、この手の本を集めていたのです。 思わず、読みふけってしまいました。 「商売をするのにも、のれんを売ることばかり心がけ、それが目的であるとするような商人は、正しい商人とはいえないのである。真の商人は、世の中に知られようと、評価が高くなろうと、或いは評判が一向に立たなくとも、、一心にお客のために尽くす真心を実践しておりさえすれば、それが立派なのである。」(商人論語) 高い道徳性・倫理性を追い求めることばかりです。「商人」と「教員」正反対の人種にイメージされているところがありますが、儲けることが仕事の商人でさえ?道徳性こそが、繁栄の土台であると口を酸っぱく言っているのです。 教員は、それ以上でなくて、どうしてやっていけるでしょう。(店主読本・223頁)を商人を教員に置き換えて書いてみます。「私は、教員を信頼する。教員を愛する。その内のホンの僅かの人が、運の悪い災難や、道徳的欠如のために失敗するのである。 むろん、経験不足や、知識の不足、環境の不遇で、せっかくの教員をやめる人も多いが、こういうのは、まだ、教員ではないのであり、教員になろうとして、成り得なかった人々なのである。だから、本当の意味では、かかるものは、教員の失敗の内に数えてはならないものであろう。 そうすると、教員として失敗するものの原因は、本人の道徳的欠陥ということが大きく浮かんでくるのがわかる。 道徳的欠陥のために、人生の敗北者となるのはひとり教員のみではないし、教員の何十倍、何百倍というものが原因を同じくして、人生を、事業を失敗している。だから、これらは教員の悩みではない。人類共通の問題なのである。」 (考える商人・306頁)「何とかして、適格者以外の教育への進出を未然に防ごうという考え方は正しいと言える。だからといって、既存の教員は、皆、そのまま保護されることは、どうしても公正ではない。新人にも、旧人にも、公正な競争のチャンスが与えられるべきだろう。 つまり、何らかの統制によって、数を規制せられても、どこまでも適正な自由競争の内にあって、大衆の信頼や利用度によって、それらの教員が、評価されたり、やめたりしなくてはならぬものかとおもわれるのである。そうでなければ国の教育の能率は低下し、国民の不幸が来る。」 (考える商人・292頁)「教育革命とは、今までの生徒や保護者に不便をかけても、私たち教員が楽である方が良い、という役人根性やどこかの先生が、頑張ってしまうと俺たちまでやらされてしまうから、お互いに、歩調を合わせるのが大切である、とするナマクラな同業共栄主義を打破して教育の新しいモラルを打ち立てることなのである。」 などなど、目を覚まさせてもらうことが一杯。目が覚めたということは、今まで、こういう意識が薄かったということか!?反省・反省! 「世の中の、およそ「善」とされることがらのほとんどは、金儲けとは縁が遠い。ただ、正しい商売のみが「善」と一致する。 」(商店経営読本62頁)
2008.06.15
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今年、マイ田んぼに取り組んでいます。バケツや発泡スチロールに稲を植えています。 小さな自然を体験できて、お米を見る目が変わってきます。 「冬・水・田んぼ」で知られる、不耕起栽培などの自然農法が、注目されています。自然の多様性を生かして、稲を野生化させ、イネ自身の生命力を引き出し、農薬が必要ないくらい丈夫に育てるのです。 実際には、そう簡単でもないようですが、 水の中に棲む土壌動物やたくさんの菌たちが、冬の間から土を耕してくれ、イトミミズが機械で代かきするよりさらに柔らかい、ゲル状のトロトロ層を作ってくれるのを見ると、人間の淺智恵は、到底及ばないなあ、って思わされます。 こじつけかもしれませんが、どこの学校でも、モンスターペアレントや、精神年齢が低かったり、心に傷をもっているんじゃないか、っていう親に出会うことがあるでしょう。 そういう人を、個別に見れば、腹も立ちますし、先生のやる気も失われてしまうかもしれません。 しかし、「自然界の多様性」として見れば、(失礼な表現かもしれませんが)全体としては、健全化を促す、作用の一つなのかもしれません。 ある程度、害虫がいるから、カエルや鳥が生きられます。それらが居るから、かえって、大発生をセーブできます。何より、世界に多様性が生まれます。 保護者への教育は、確かに必要です。そっちの方が、学校の本命かもしれない、とも思います。しかし、もし、よい子ばっかり、みたいに、「よい親」ばっかりの標準化された人の集団だとかえって、組織は命を失うのかもしれません。 私は、今年、PTAの「健全育成委員長」をさせていただいていますが、健全というのは、生命力が強いこと、と捉えれば、自然農法が、ヒントになるのかな?なあんて、最近、腹が立つというか、嘆かわしいことが、ままあるもんですから自分で自分を元気づけるために、こんなことを考えて、ふて寝した寅さんでした。 でも、自然農法も、放ったらかし、とは違って、かえって、高度なものがあり、たいへんではあります。
2008.06.13
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昨日の記事に、情熱あふれるコメントありがとうございます。突然、気分転換の記事です。 宇宙飛行士の土井さんが、行ったブーメラン実験、ご存知ですか?宇宙空間のスペースシャトル内で、ブーメランを飛ばしたら、ちゃんと戻ってくるでしょうか?宇宙空間と言っても、空気はあります。どう思いますか?慣性の法則で、一直線に、あっちに行っちゃうでしょうか?ブーメランが戻ってくる仕組みには重力も関与していると考えられていたため、重力がほとんどない宇宙でブーメランは地上と違う動きをすると予想されていました。土井さんは飛行中、ブーメラン実験について「ちゃんと戻ってきた」とのメールを地上に寄せていましたが、どのような軌道を飛んだのかは明らかにしていませんでした。このたび、その実験映像を、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が公開しました。好奇心魔法学校へジャン プ(こういう画像を入れたいこともあって、第2ブログを造った次第なんです。)
2008.05.10
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ごあいさつ これまでのデータ整理のためと、楽天ではできない機能を使ってみたいことから、科学寅さんの第2ブログを立ち上げることにしました。 FC2を使います。(偶然です)第2ブログは、ちょっとマジメに、いこうと思います。 その分、こちら楽天を、何でもありの雑記的日常日記にします。 最終的には、教育関係のお役立ちデータベースを作りたいのですが、それは、ホームページで。そのさらに一歩前を、FC2で整理していこうと思います。 ブログのタイトルは、「好奇心魔法学校」です。 まだ、立ち上げることが目的のようなもので、いつもの皆さまには、目新しいものもありませんが、そのうち、こことは、また違ったテイストになると思います。味わいに来てみてください。 ありがとうございます。
2008.04.24
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運動会が近づいています。以前、私の垂直跳びトレーニングをご紹介しましたが、もっと科学的で、安易な方法を見つけまして、効果がありましたのでまたまた、必勝法をご紹介します。走るのが苦痛という子は少なくありませんね。毎日トレーニングすれば、良いのはわかってます。下記のサイトでも、運動会で1番になる方法が。(最新のオーソドックスなトレーニングだと言えるでしょう。)http://www.ascii.co.jp/pb/ant/undoukai/sample.pdfしかし、苦手な子に続きっこありません。何とか、あっという間に速くなる方法はないのでしょうか。それが、あるのです。2~3年前に、NHKで「子どもも高齢者も必見! かけっこ新健康術」として放送されたのが、それです。何せ、ものの20分ほどで、効果があらわれます。私の教え子で試してみました。50メートル走で、平均0.2秒の短縮です!そして、何と、このコツは、「高齢者のつまずき・転倒事故」の予防にもなるのです。ポイントは、2つ。「力を無駄にしている」「カギとなる筋肉を十分使いこなしていない」でした。もちろん、10日も続ければ、目に見えて効果が表れます。1日わずか20分のトレーニングです。運動会で一番になる。みんなに認められる。これは、子どもにとって、どんな高価な宝石にも勝る体験です。たとえ、1番にならなくても、良い走りができた、という自信は、一生モノです。ふつう、行われているトレーニングは、太ももやお尻の筋肉など、普段からよく使っている筋肉を鍛えます。しかし、普段使っている筋肉を短期間でさらに鍛えることは難しい。そこで、普段はあまり意識しない他の筋肉に着目します。「寝たきり予防と深いつながりのある大腰筋」大腰筋とは、背骨と大腿(ふともも)の骨を結ぶ筋肉で、上半身と下半身を結ぶ数少ない貴重な筋肉の一つです。おもに、足を上げるときに使われます。そして、速く走ることと寝たきり予防の2つに共通するのは、体の奥にある「大腰筋(だいようきん)」と呼ばれる筋肉だったのです。大腰筋を目覚めさせる体操を2つスクワット:お尻を後に突き出すようにして体を上下させる。ポイントはひざを体より前に出さないこと。腰上げ運動:仰向けになった姿勢でももを垂直に上げ、さらにひざを曲げ水平方向に伸ばす。そしてお腹を丸め、骨盤を引き寄せるようにして腰を上げる。 10回の運動を1セットとして、2つの運動を1日3セット放送でも、タイムを0.3~0.4秒短縮することができました。走っている時のフォームを比べてみると、大腰筋体操の後では、足が高く上がっていました。さらに、2人とも50メートルの歩数がそれぞれ1歩減りました。これは、50メートルを走ったときに、1メートル以上速く走れるようになったこと。体のブレをなくす練習回転いすに座って腕を振ると、いすがクルクル回転してしまう人。肩にブレがある証拠です。走っているときにも、ブレを矯正するために足が余分な力を使っている可能性があります。はじめに、ボールを持ってジャンプをする練習です。60~70センチの間隔に置いたハードルを、手にボールを持ったまま両足ジャンプで越えていきますこのとき、体をひねったり肩に力を入れすぎたりしないようにするのがポイント。両手両足を同時に動かし、手と足を動かすタイミングを身につけます。これに慣れたら、次はボールなしでハードルを越える練習。まずは歩いて手足を動かすタイミングを確かめ、徐々にスピードを上げながらハードルを越えます。ハードルの間隔を身長と同じぐらいまで広げることが目標。足と手をテンポ良く動かします。足で走るな! → 大腰筋活用でスピードUP&転倒防止 筋肉は鍛えるな! → 筋肉を起こして即足速! 陸の上で泳げ!? → 力を抜いてブレ解消!私は、別の日記でも書きましたが、とんでもなく、弱虫で、いつもビリで、いじめられてました。しかし、3年の夏休みに、学研の科学に書いてあった、垂直跳びを1日、10回続ければ、必ず速くなる、という記事に藁をもすがる思いで続けて、人生が変わった経験があります。たった、それだけなのに、3年では、ビリ脱出。4年で、2位。5年生で、クラス対抗リレーの選手。そして6年生で、学校代表リレーの選手。それも、アンカーに。子どもにとって、走れることは、世界が変わるのです。
2008.04.22
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本当の実力のある科学者の実像は、どんなものだと思いますか?きっと研究や勉強の話ばかりで堅い人たちだと思われるかもしれません。しかし、少なくとも、ファインマンさんは違います。彼は、イタズラをやり続けた人だ、と言えると思います。 「ご冗談でしょう、ファインマンさん」〈上・下〉 (岩波現代文庫) (文庫) R.P.ファインマンは1965年にJ.S.シュウィンガー、朝永振一郎とともにノーベル物理学賞を授賞した天才的な物理学者です。この本は、R.P.ファインマンという人生を楽しむ天才から我々への贈りものです。 自分の興味あるものに取り組み、自分の生きたいように生きた人だと感じられます。人生を本当に楽しんだ人だと言えるでしょう。私の人生もかくありたい、と思わされます。 「これからはそれこそ娯楽のために、『アラビアンナイト』を読む調子で気の向いたときにその価値なんぞぜんぜん考えずに、ただ物理で遊ぶことにしよう。」著者がノーベル賞をもらう発見をしたのはこの後のことです。 私たちが、「努力」とよんで歯を食いしばってやることを、難しい面倒だといってあきらめてしまうことを、この人は眼をきらきらさせて、おもしろい!といって、笑いながらやってのけます。 学習論としても、ハッとすることを気づかせてくれます。物事は暗記ではなく、理解することによって学ぶこと。 人がどう思おうと、ちっとも構わないということ。 驚異の心をもたない人間は、消えたろうそくも同然だ、ということ。 とにかく何かにアッと驚き、なぜだろう?と考える心を失わないこと。 そして、いいかげんな答えでは満足せず、納得がいくまで追求すること。 さらに、わからなければわからないと、正直に認めること。 まとめると、 ・実例の大事さ(現実にありえない例はムダ) ・暗記ではなく内容を理解すること ・質問すること と言えるでしょう。 もちろん、知的好奇心を持つということは、チンケな超常現象に対して無条件に、かたっぱしから、「心を開く」ことではなく、事実へ対する愚直なほどの誠実さ-科学的懐疑精神-によってこそ、 本当に価値をもつのだ、ということも言っています。 彼はいつも言います。「ファインマンと聞いたとたんに思い出してもらいたいのは、ノーベル賞をもらったことでもなければ、理論物理学者であったことでもなく、ボンゴドラムでもマンハッタン計画でもない。僕が好奇心でいっぱいの人間であったということ、それだけだ」 「なぜだろう?」といつも好奇心いっぱいの子どものように世界を見て、いったん好奇心をひかれたらそれに夢中になり納得のいくまで追求する。 一切の虚飾と権威を嫌い、相手がそれをかさに着ているとみるや容赦しませんでした。それは、そのような態度が、楽しいはずの真実の探求を邪魔する厄介なものだったからです。 まさに、学校教育が、科学的精神の育成を妨害していることを鋭く突いています。 ブラジルの国立研究所に滞在した彼は「教科書を丸暗記するだけ」の物理の大学教育に業を煮やし、ブラジルの「お偉方」の大学教授たちの前で「この国では科学教育が行われていない」と言い放ちます。 またあるときは、学校教科書の選定委員としてすべての教科書に目を通し、教科書の内容が科学的誠実さを欠いているのを真剣に怒り、他の委員たちと闘ったりします。 「諸君に第一に気をつけてほしいのは、決して自分で自分を欺かぬということです。己れというものは一番だましやすいものですから、くれぐれも気をつけていただきたい。」 科学者という職業がどんなものかを教えてくれる一冊。 自分の将来に興味を持ち始めた子どもたちに、学校で教えてくれる科学の世界とはずいぶん違う世界を垣間見せてくれる寅さんオススメ、一等賞の本です。現代の「ろうそくの科学」かもしれません。
2008.04.20
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今、寅さんは、地元のお店や個人のためのネットショップの立ち上げで、アタマがいっぱいです。 突っ込めば突っ込むほど、考慮すべきことが出てきます。ものすごい迷路です。 でも、何より面白いのは、セールスレターを書くことです。この商品を買う人は、どんな人で、どんな生活をしていて、どんなことで悩んでいるんだろうか?そうして、どんな人は、お客にはならないんだろうか? そして、この商品の強みと弱みは?これを買うことのメリットは、?買わないことで損をすることは?何か保証できることはないのか? なぜ、これを売ろうとしているのか? 作文の基本を習っているようです。 あまりに面白いので、パソコンから、15分ごとに離れないと、いわゆるゲーム脳になってしまいそうです。 試作品ができたら、紹介します。ぜひ、買ってください! なんちゃって。
2008.04.18
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恥ずかしい話ですが、科学寅さんは、いくつかのNPOを潰したり、また、潰れていくのに立ち会ってきました。 そのほとんどは、資金を得ようと、本来のミッションと関係ないもの、また、分不相応のものに、手を出したことが、契機となっています。 NPOも、資金稼ぎをして、何も悪いことはありません。本来の業務と、全然違う方向性のことで、活動資金を得ても、それはそれで、会計上も、区別をすればOKなのです。 あるNPOのコンサルタントは、これからのNPOは、一般の会社とセットで存在すべきだ、と主張しておられる方もいます。会社で、利益を得て、NPOに回す。また逆に、NPOで信用や、理解を得て、会社の仕事につなげる、という。私も、それはそれで、企業の社会的貢献として(まあ、既に行われていますが、)いいんじゃないか、と思います。 しかし、本来の、原点の市民活動としては、ここに大きな落とし穴が、ぽっかりと口を開けていると感じます。 このように、事業拡大路線、または、収益優先に走ってしまう団体の場合特徴的なのは、そのNPOのミッションが、本当にメンバーの間に、血肉化されていないのです。 そういう団体の規約は、歯の浮くようなきれいな言葉で書いてあるのが、通例です。きれいな言葉は、学校が本家ではありますが、そこからは、何も生まれません。行動基準さえ、出てきません。 最初の理念や使命、それに基づく規約を作る際に、十分に、揉みに揉んでいないのです。 まず、問題意識があり、それについての学習と、現状分析があり、解決策を考え、共鳴者と一緒に学習しようと呼びかけ、その中で、回りのひとたちに考えを広め、その上で、関心をもった人たちと仲間を作っていくわけです。(このプロセスが抜けている!) そこで、はじめて、規約づくりに入るわけですが、この組織の使命と目標こそが、NPOの命です。(そもそもミッション達成こそが、NPOの成立基盤なんですから!)そして、それを達成するための手段も明記しなければなりません。 その手段には、メンバーは、どんな人であるべきか、そして、組織構造はどうあるべきか、意志決定のプロセスは、どうあるべきか、も含みます。 このNPOで働く人とは、どういう人なのか?普通の労働者なのか? サラリーマン化した従業員のいるNPOは、まず、もちません。 とにかく、NPOを成り立たせるために、別の何かをやらなければならない、というのは、最初の計画が、ずさんであることと、組織員に、NPOを儲けの手段に考えているところがあるからです。 ただ、前にも言いましたが、NPOというのは、衣服と同じで、外側のほんの表面しか規定していないのです。だから、中身は何でもアリです。これで、大儲けをしようというのも、十分アリなのです。 だから、NPOと言っても、信用してはいけない。どんな理念と運営で、「実質」「実質」動いているのか、冷静に観察しなければいけないのです。安易に参加するべきではありません。大切な時間と労力と資金が、吸い取られて終わりになります。 しかし、「近代的な」NPOコンサルタントは、さらに行政までもが企業化しろ、と奨めます。でも、それでは、本来の市民活動としては、かえって、踊らされて、骨抜きにされ、殺されてしまう運命が待っています。 まず、最初から、生活をかけて、NPOをしてはいけないと思います。結果として、いつの間にか、生活が支えられるようになっていた、というのならOKですが。そういう意味で、生活がキビシイ人が、理事長や事務局長になってはいけない。お金持ちである必要がありませんが、生活基盤が安定でなければ、結局、いかに情熱があっても組織に迷惑をかけることになります。 そして、資金集めそのものが、実質、使命を果たすものにつながっていなくてはなりません。組織維持のために、そのために、収益事業に手をだしてはいけないと思います。(これは、禁止されているわけでは、ありませんよ) そのためには、固定費を極力低くする。ただ、同然で事務所を借りる、などが必要でしょう。専従者も、無給同然でしょう。それを前提に、力を貸してくれる方に依頼をするのです。だから、「資金調達」力よりも、当初は、「資源調達」力が重要だと思います。 つまり、人材、モノや場所、情報・ノウハウ、ネットワークなどです。 お金がないからと嘆くより、モノや場所を手に入れることで、お金の何倍もの価値を生み出せます。お金は出しにくいけれど、モノなら提供してくれる人や会社はあるものです。不景気で、空き店舗や空き事務所が増えています。社会貢献価格で入居させてくれる支援者に、恵まれることも多いです。 活動場所も、いろいろタダで使わせてくれるところがあるものです。ダメもとで交渉してみることです。 ちなみに、科学寅さが管理人の寺子屋ホールの備品は、ほとんどすべて、提供してもらったり、善意で貸してもらっているものです。 さらに、もっと重要なのは、情報・ノウハウです。これこそ、お金以上に大切なことです。助成金のように、情報に接しなければ、手に入らない活動資金もあります。行政の仕組みを知らなければ、行政に働きかけても効果が薄いことになります。 さらに、活動に伴って蓄積されいく情報やノウハウこそ、そのNPOの知的資産です。これをしっかりまとめ、継承していくしくみを、団体に築かなければなりません。そこから、セミナーを作ったり、パンフレットなど、販売可能な商品やサービスも作り出すことができるのです。 ネットワークの重要性も劣りません。情報はネットワークからもたらされますし、政策提言していくにも、ネットワークが重要です。 ただし、行政主体で音頭をとってあつめたネットワークは、ろくなものがないので、注意が必要です。 他人たのみにせず、自分たちで築いたネットワークこそ、助けになります。その意味で、このインターネット、メーリングリストなどは、大きな意味があると思います。
2008.04.16
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有名なルビンの壺です。どちら側に意識を置くかによって、見えるものが違ってきますね。実は、誰もが、魅力的な性格パターンで表現できます。み~んな、素敵な人ばかりなのです。しかし、同時に、反対の表現でも表せるものです。誰もが、嫌な性格の持ち主です。「意志が強い人だ」を「頑固だ」とも見えます。 ポイントは、その人を、好意的に見るか、悪意で見るか、です。つまり、どちら側から見るかです。とすると、自分の性格を直すというのも、もしかして、的外れなのではないか、と思えてきます。性格それ自体が問題なのではなく、周囲の人の色眼鏡が問題なのです。つまり、人間関係です。 さらに、そのメガネは、実は、自分がつけていることになかなか気づけません。 ところで、日本の任意団体を含む市民活動団体の大半の年間予算額は、30万円以下ということです。もちろん、お金がなくても、素晴らしい活動をすることは、可能です。しかし、若い人の携帯電話代くらいの活動費では、やっぱり、本格的に、社会的な活動は、無理でしょう。 やはり、自分たちで、お金をつくる努力をしなければなりません。 ここで、金が無いのを嘆くのではなく、お金が無いって素晴らしい!と考えられて、はじめて市民活動は、活気がでるのだと思います。 どうして?お金が無いのが素晴らしいのか! それは、もし、あふれるほど、お金があった場合のことを考えてみてください。あなたは、人々に寄附を求めに歩きますか?講演会のチケットを一生懸命売り歩くでしょうか?街頭に立って募金活動をしたり、行政の担当者に相談、提案、までしないのではないでしょうか? 実は、日本の社会では、お金をつくる行為そのものが、団体の活動をアピールする行為と、裏表になってるんです。そう考えれば、お金が無いことは、多くの人に語りかけるチャンスがあるということです。 しかも、こういう活動を貧乏人がするところにも、意味があります。 ある財団の助成金審査の担当者が、「あの団体は、30万円の講演会を開くための助成金を申請してきているが、理事の中には、そうそうたる医者や、弁護士、校長先生もいる。この立派な先生方は、社会に貢献したくて、NPO法人の理事になったのだろう。だったら、どうしてこの程度のお金を出せないのだろう?」と、つぶやいていました。 そりゃそうです。やはり、貧乏人の私たちが、まず自腹を切って、活動しているのを見せなければ人は援助してくれません。 自腹というのは、語弊があります。自分たちの活動への「投資」ですね。 ということで、会費の在り方、そして、寄附が集まる条件をつくること、これがポイントだと思います。 寄附が集まってこそ、本当に社会的に市民権を得たと言えるのですから、寄附を積極的に求めること、そして、その条件を整備することが、活動の柱でもあると、認識すべきだと思います。
2008.04.15
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ようやく昨日から、大崎市古川でも、桜が咲きだしました。商店街振興組合の副理事長という立場のおかげで幸せの黄色いポストの貯金箱のシール貼り内職?に精が出てる科学寅です。町内の信用組合から、500個の注文を受けたもんですから!商店街活動の記事関連もご覧ください。 昨日に続き、NPOのことですが、ちょっと横道から、見てみます。 NPOは、お金がない分、人間関係が資本のようなものです。 最初は、まあ、個人商店、パパママストアみたいなものです。 その中から、徐々に役割分担ができてきて、多彩な組織になっていくもんです。これも、いろんな人材が集まってきて、それで部署ができていくって感じです。 そして、次を担ってくれる人を養成して、バトンタッチしていくリレーのようなもんです。 そこで、重要なのは、特に初期段階では、リーダーの役割です。魅力あるリーダーのいるNPOが成長すると言っても、過言じゃないと思います。 しかし、リーダーの資質は?と聞かれると、特にスタートしたばかりの時には、より多くの人の支援をいただく必要も考えると、「アタマの良い人」は不向きだと思います。 よく政策アピール型のNPOの場合、「正義は我にあり」で、最初から主張をドンドンぶつけていく場合があります。 いかに正論であろうと、人は逃げてしまうものです。少なくとも、手を差しだそうとする人はあまりいません。 そうではなく、たとえ、文句を言いたいお役所に対しても、公害を出している企業に対しても、「お知恵を貸してほしい」、「困っているから力を貸して欲しい」と低姿勢、誤解を恐れずに言えば、「バカになれる」人が、求められていると言えましょう。 これは、対外的だけでなく、会員のメンバーに対しても、リーダーがアタマが良いと、必ずと言っていいほど、限界にぶちあたります。 まず、どうしても、嫉妬があります。日本人のメンタリティーは、ヒーロー・ヒロインを望みません。 また、運営していくにあたって、様々な困難にぶち当たりますが、正攻法では、乗りこえられない壁が必ず来ます。そんな時、正論だけでは、組織全体がうつ病になってしまいます。 こういう時に、リーダーが、バカだと、冗談みたいな、遊び心いっぱいの政策を打ち出すことができます。みんなが、クスっと笑うもの。 そういう活動は、意外とマスコミにも載りやすいものです。そこから関心が集まり、協力者が現れるということがしばしばです。 また、企業で仕事をバリバリこなしている方が、リーダーになると、どうしても命令指示系統で、組織を動かしてしまいます。 しかし、NPOは、金銭を目的に集まっているのではなく、あくまで理念に賛同しているに過ぎないのですから、人を動かすということは、すべて、好意に甘えるというスタンスで低姿勢をとるべきです。 「どうして、彼の指示を受けなければならないんだ」、って反発が必ず起こります。 それぞれが、一国一城の主みたいなものです。 私のイメージは、昔、NHKでやっていた番組で「難問解決! ご近所の底力」てのがありましたが、あれが、モデルとしていいのではないか、と思っています。 あの番組では、いろんな人に相談し、アイデアを募集し、「実験」しています。よその地域の成功例も積極的に取り入れています。 そうして、少しでも成功すれば、マスコミに報告するのです。きっと取材に来ますよ。もしかしてNHKが。
2008.04.14
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寅さんは、会社をやめてから、ずっとNPO活動をやってきたと言えるでしょう。いくつも渡り歩いて、そしていくつもゼロから作ってきました。失敗したり、ポシャったりもしてきました。もちろん、成果もいっぱいあります。 端から見るより、簡単で、しかし、奥が深く難しいのが、NPOであり、市民活動です。 実は、また新たに、教育NPOを作ろうという機運があるもんですから、これまでの寅さんの反省をまとめておこうと思います。よかったら、おつきあい下さい。 考えてみれば、国家や行政機関が今日のように大きくなったのは、明治以来たかだか100年と少し。それ以前の人々は、自分たちで自分たちの地域に必要なものをつくりだすことが当たり前だったわけです。 (教育機関も、藩校からはじまって、寺子屋がいたるところにあって、昔の日本人の知的レベルを支えてきました。でも、本来、教育って市民活動なんだよ、って寅さんは思ってます。) そして、現代の日本でも、薄くなったと嘆かれますが、、災害のときのボランティアをみるまでもなく、結構いざとなれば、人の役に立ちたいという気持ちは、わき上がっています。 特殊な緊急事態ばかりではなく、同じ集落や町内に住む人々が何らかの困難を抱えていれば、助け合ってよりよい社会をつくろうとする仕組みや気持ちはやっぱりどこにもあります。 人間誰の気持ちにもある「お互いさま」や「誰かのお役に立ちたい」という心こそが、市民活動や、NPOに参加する人々の原動力です。 ですから、NPOや、ボランティア活動を大げさに考えるのは、止めたいものです。普通の日常の気持ちが土台なのです。少しでもお役に立てば、という軽い気持ちでいいのです。ものの弾みではじめることだって、アリです。 ところで、ボランティア活動は、「無償で他人のために奉仕する行為」と大部分の人に理解されてきました。 この無償という言葉には、二つの意味がかけられています。一つは、ボランティアされる人が、対価を払わないという意味です。もう一つは、活動する人が、報酬を受け取らないという意味です。つまり無報酬。 しかし、継続した一定の活動の維持のために、受益者負担の料金が発生するのは、当然のことです。ときどき手が空いた時に手伝うだけのスタッフばかりでは、介護の援助やサービスを受ける人は、たまりません。不登校の子の指導は、誰でもできるものでもありません。 現代の市民活動は、従来の伝統的なボランティア観では、ボランティアではない、と言われてしまうものです。ボランティアの無償原則が、当てはまらないからです。 じゃ、ボランティアではないとしたら、何なの? 何と言えばいいの? これこそ、市民による社会的・公共的活動、つまり「市民公益活動」と呼ぶべきものなのです。「市民による自発的な問題解決行動」と言い直したほうがわかりやすいかもしれません。 実は、寅さんは、NPOという言葉は、好きじゃありません。日本でNPOと言うと、ほとんど、NPO法人のことを指し、それは、法的な手続きのことにしか過ぎないのです。外側の衣服でしかありません。中身や人格は、全くと言っていいほど、関係ないのです。だから、いろんなNPOがうじゃうじゃいます。暴力団や、霊感商法が隠れ蓑に使っているNPOもいっぱいあります。いくらでも悪用できるのが、NPOという言葉だと言えましょう。 でも、だからこそ、NPOの問題点をはっきりさせるためにも、NPOという言葉を使っていきたいと思います。 NPOは、社会的課題や受益者のニーズに対する問題解決策を考え、それを商品やサービス、政策提言に変え、実践します。その場合、企業のサービスと違って、必ずしも受益者から対価を受け取れるとは限りません。虐待されている子どもからの相談電話に課金はできませんし、守ろうとしている渡り鳥さんからも、お代をいただくわけにもいきません。 では、NPOはどうやって成り立っているのでしょうか?ここが、企業と違うところですが、NPOには、第二の顧客とも言うべき、「支援者」が存在します。もっぱら、活動の後方支援を行っている人や組織です。支援者は株主と似ていますが、会員制度などにより、そのNPOの所有者でもあることが多いのです。また、株主と違って現金での配当を求めません。このように、配当を禁じている組織のことを「非営利組織」と言うのです。 よく誤解されるのですが、「非営利組織」とは、利益をあげることを禁じているのでは全然ありません。いわんや、無償ボランティアで成り立っている組織のことでもありません。 配当の代わりに支援者が求めているのは、報告や社会的な成果なのです。NPOの本質は、金銭以外の人とのつながりの在り方をマネジメントする組織と言えるでしょう。(しばらく、つづきます。 ときどきですが)
2008.04.13
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昨日も、また、勉強大嫌いな子から「おもしろかった。また来るよ。」と声をかけてもらいました。思わず握手をしてしまいました。実は、勉強嫌いな子は、とっても健全なのじゃないかと思っています。そして、ドリルをするとアタマが働かなくなるってのも、脳みその、とっても健全な防衛反応。彼らに希望を与えられることは、その笑顔とともに、寅さんにとって、最高の幸せの一語に尽きます。 ところで、ご自身もディスレクシアで、LDの子の指導にあたっているアメリカのロナウド・D・ディビスさんは、ご自身の経験から、ディスレクシアの人は、主に、非言語、つまりイメージで思考していると言っています。 彼の研究によると、彼らのアタマには、おおよそ毎秒32枚のイメージが浮かぶそうです。 言語で思考する人は、毎秒2つから5つの概念を浮かべるということですから、イメージによる思考は、その6倍から10倍のことを考えていることになります。 実際、文章にすると何ページものレポートが必要なことをたった一枚の写真が説明してくれるものです。 アインシュタインの相対性理論も、昼間空想に浸っていたときに、浮かんだイメージでした。そのときのイメージは、たった数秒間で消えてしまうようなものだったそうですが、そのイメージで浮かんだ理論を言語で説明しようとすると何冊もの学術書になり、その内容も、普通の理解力の人には、ほとんど理解不能な、それだけ言葉で説明するのは、難解な概念だったのです。たった一つのイメージが、それに匹敵するのです。 言語よりも、イメージの方が、400倍から、2000倍、早く思考できる、と主張する学者もいます。 速さだけではありません。イメージで捉えた方が、より深く、より緻密で、より包括的です。 非言語を駆使した思考は、イメージした画像が動画のようにどんどん変化していきます。そして、イメージしている概念に、新しい概念が加われば、その都度最初の映像は移り変わっていきます。これこそ、考えるという中身です。 だから、言語を否定するのではなく、言語の主張する概念を、一つひとつ正確に画像として描ければ非言語で捉える思考も、全体としては洞察力のある深くて完璧なものになるのでしょう。 教科書の音読は、しばしば、「意味のある音の羅列にすぎない」ことになってることに、注意が必要です。 ただ、このイメージによる思考の弱点は、皮肉にも、その長所であるスピードにあります。 ふだん使っている画像が、あまりにも早いスピードで変化しているために当の本人が、まるで意識できないでいるのです。 画像を意識できるかどうかは、認識を刷り込ませるときに使う時間にかかっていると言えるそうです。 人間の場合、ある刺激が、その人の意識に刷り込まれるまでにはおよそ、1/25秒かかるそうです。 つまり、刺激な1/25秒以上続けば、人間はその刺激の存在に気づくのです。しかし、それ以下だと、気づかず、無意識に刷り込まれます。いわゆるサブリミナル効果です。この時、脳は情報を受け取ってはいるのですが、本人は、そんなことに全然気づかないのです。 ちなみに、1/36秒以下の速さでは、無意識下ですらその情報は受け取れなくなるそうです。 人は、ふだん、無意識下で、つまりサブリミナルの世界で高速で画像を回していますが、その思考過程については、意識できないでいます。そして、突然ポンと出てきた、画像が「直感」だと思うのでしょう。 だから、思考力を育てるには、自分の無意識の知覚認識を意識にのぼらせる練習をすればいいのです。そして、描き出されるイメージを一つ一つ点検をする。 その内容は、他人からは、まるで空想の世界で遊んでいるように見えるでしょう。理解の無い先生は、そういう空想に浸ることに対して批判的ですが、ぜひ、暖かく見守ってやるべきだと思います。 アインシュタインの例に漏れず、非現実的な空想に浸ることは、本人の能力を開花させる、大きなポイントであることは間違いないようです。
2008.04.06
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退屈な授業を受けていると、時間がすすむのが、やけに遅いですね。時計が壊れたんじゃないかって、疑ってしまいます。 反対に楽しい友人と話しをしてると、30分くらい経ったかな?と思って時計をみると3時間くらい経っている。 相対性理論で、時間は伸び縮みすると言われなくても、日常、私たちは、時間が幻だってことを、しっかり体験しているものです。 寅さんが、タイムスケジュールを守れないのも、すぐに、別世界に行ってしまうからです。 ところで、親や教師は、子どもたちを指導するに当たって、何とか、こっち側の世界に、のめりこませたいと悪戦苦闘しています。 今の子どもたちは、集中力が無い、って嘆きますが、何の何の、ゲームをしてるときの、子どもたちの集中力、すごいですね。 (これは、集中力ではなく、生理的な注意です。)私たちだって、映画館に入ったときは、そばにどんな人が座ってるか?何かゴミや汚いものは落ちてないか?美味しいものを買ってきた方がいいか、?なんて、気が散って、集中できないものです。ところが、映画が始まると、あっと言う間に、別世界。回りのことは、気にならなくなります。 子どもは何かに集中してると、回りの声が聞こえません。「ご飯ですよ」も聞こえません。寅さんも、よく、お菓子を食べ損ねてました。 先生が、「生徒の落ち着きがない」と泣き言を、つい漏らしてしまいますが、人間、さほど大事でないことには、あまり集中しないことが、自然であり、本能でもあるのですから、(なぜって? 外的から身を守るためには、常に周囲を警戒してなくては、ね。)魅力の無い退屈な授業に集中できないのは、仕方がないと言わざるを得ないでしょう。特に小さい子に対しては、先生の方に、注意を集める力が不足だと、反省するのが、最も自然だと思います。 どんなに学級崩壊のクラスでも、テレビスターやアイドルが、クラスに入ってきたら、もう集中しっぱなしです。 誰でも、集中力はもっているのです。別世界に入っているのです。問題は、教師の側の意図する世界を子どもたちの内側に形作らせ、その一点に向けて、注意を絞り込ませていくか、ですね。 これが極まれば、相対の世界から、絶対の世界にいっちゃいます。子どもの時こそ、そういう絶対の世界に、いっぱい浸らせたいものです。
2008.04.03
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