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3月8日、Aさん を 誘って八国山にスミレを見に行きました。八国山に入ってすぐの斜面に スミレが群生しています。Aさんによると、葉が丸くないのでタチツボスミレではない・・・・・このスミレは知らないとのことでした。それから数日後、葉が丸いのでこれがタチツボスミレとのこと。雨の日の他は、Aさんとほぼ毎日八国山に行くようになり・・・・歩ける範囲も 増えてきました。道ばたに咲いていた スミレムラサキケマンドングリの 芽吹き樹木も新緑に染まり始め、初めて尾根道に出たときには山桜が見ごろでした・・・・今日は3回目のほっこり広場青い空温かな日ざし静かで、とても贅沢な空間でした【生きるって?】パーキンソン病とのおつきあい・・・
2021年03月24日
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昨年の春頃から親族のAさんが、腰痛に悩まされるようになりました。Aさんは 78才の女性で大変お世話になりました。 それで一緒にいろいろな治療院に通ったり他にも整形外科で腰のMRIやレントゲンを撮ったりしましたが、異常はなく・・・そのうちに動作が緩慢になり、前かがみの姿勢に加えて、右斜めにも傾くようになり少し手の震えもあるし、パーキンソン病かと昨年の秋にS病院の脳神経内科を受診。でも、頭のMRIと認知症の検査でも異常はなく『 手も震えてないし、歩き方も特に変ではないしパーキンソン病ではないでしょう。心配だったら一年後に来て下さい 』とのことでした。それからも、腰痛や太ももなどの痛みが酷くなり私もお供で実にいろいろな治療院に通いました。(その治療院のひとつが こちら です) 今年になって、どんどん体が右斜めに傾き2月の初めには歩いていて足が止まらなくなって転んでしまったということでした。その少し前にパーキンソン病についての本を購入して、読んでみるとAさんの症状に思い当たることが 実に多く書かれていました。それでパーキンソン病専門の病院を受診しようと問い合わせたら、紹介状が必要とのことでした。パーキンソン病ではないと診断されたS病院に紹介状は頼めないので、私が銀杏にかぶれた時お世話になったN先生を受診することに・・・翌日の金曜日、N先生を受診すると、私たちが考えていた病院より、検査機器も整っているし国立精神神経医療研究センターが良いとのことその日に頭のMRIを、翌土曜日に腰のMRIを撮って、日曜日の午後4時には紹介状と2回分のMRIのデータをいただきに行き、月曜日の朝、9時の予約を取って下さいました。 予約の30分前に行き、指定されたところで待って、9時過ぎに名前を呼ばれたときには 持参したMRIの画像を見て下さってました。問診と体や手足・顔・目などの検査で約1時間。『 専門のリハビリを受けた方が良いので、すぐに市役所に行き、介護申請をするように』と言われ血液検査のための採血をして帰って来ました。そして、10日後には検査を受けてパーキンソン病と診断されました。翌日から、ドパコール配合錠L50 と 胃薬を朝食・昼食後に1錠ずつ飲み始めました。食欲がなくなっていたのですが、翌日には食事が美味しくなってきたとのことです。ネットで見るとL100とL200とかもあるのでL50 というのは一番弱い薬なのかも・・・2週間後には、朝昼夜の3回になります。 腰痛や肩こり、太ももの痛みは激しいようで姿勢が前にも斜め右にも傾いているので・・体がまっすぐになるようにと、私の母が90才過ぎてから 通ったことのある カイロ治療院に3~4日おきに通ってみようと話しています。体がまっすぐになれば腰痛や太ももの痛みがなくなるのでは・・・と思っていましたが体の傾きからの痛みだけではなく病気から来る痛みもあるのかも?痛い、痛いと言われても、その痛みが分かるわけではないので ただただ気の毒に思うばかりですが筋肉が衰えるとさらに痛みが増すように思い本に載っていたリハビリ体操などを一緒にほぼ毎日やっている今日このごろです。【生きるって?】ALS進行性難病、 当事者の立場から・・・
2021年03月08日
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一昨日の7月24日付けの東京新聞3面に1面に載った『ALS患者嘱託殺人』の関連記事が掲載されていました。その中でお二人のコメントが分かり易かったので二つのコメント全文を載せさせていただきます。 『当事者への圧力危惧』 船後議員ALS患者の船後(ふなご)靖彦参議院議員(れいわ新撰組)は23日、京都市での事件を受けてコメントを発表した。 全文は以下の通り。 事件の報道を見聞きし、驚いています。ただ現時点では正確な事実関係がわかりませんので、事件の内容についてのコメントは控えたいと思います。 報道を受け、インターネット上などで、「自分だったら同じように考える」「安楽死を法的に認めてほしい」「苦しみながら生かされるのは本当につらいと思う」というような反応が出ていますが、人工呼吸器をつけ、ALSという進行性難病とともに生きている当事者の立場から、強い懸念を抱いております。なぜなら、こうした考え方が、難病患者や重度障害者に「生きたい」と言いにくくさせ、当事者を生きづらくさせる社会的圧力を形成していくことを危惧するからです。 私も、ALSを宣告された当初は、できないことがだんだんと増えていき、全介助でいきるということがどうしても受け入れられず、「死にたい、死にたい」と二年もの間、思っていました。しかし、患者同士が支えあうピアサポートなどを通じ、自分の経験が他の患者さんたちの役に立つことを知りました。死に直面して自分の使命を知り、人工呼吸器をつけて生きることを決心したのです。その時、呼吸装置を選ばなければ、今の私はなかったのです。 「死ぬ権利」よりも「生きる権利」を守る社会にしていくことが何よりも大切です。どんなに障害が重くても、重篤な病でも、自らの人生を生きたいと思える社会をつくることが、ALSの国会議員としての私の使命と確信しています。 本人意向のみは不適切「死ぬ権利はあるのか」の著書がある 横浜市立大の有馬斉准教授(倫理学)の話日本では医師が致死薬の注射などをする「積極的安楽死」は認められていない。合法化されている海外の例と比較しても、今回の事件は患者をよく知らない人間が本人の意向だけで行ったとみられ、不適切だ。安楽死を法律で認めているオランダでは、長年、患者を診て、本人の気持ちの揺れや家族ら周囲の人間関係なども知るかかりつけ医が行うことになっている。日本では、安楽死や尊厳死を巡る社会での議論はまだまだ途上にある。末期がんの患者や重度の障害・認知症がある人に対しては「QOL(生活の質)が低い」という見方が多いが、本人の感じ方は違うというケースもあり、第三者が軽々に評価すべきではない。 (幕末に多くの人を殺めた「新撰組」の名称をつけて欲しくなかったな~とは思うのですが、)船後議員のコメントは 分かりやすく、温もりを感じました。どんなに障害が重くても、重篤な病でも、 自らの人生を生きたいと思える社会をつくる二年間も「死にたい、死にたい」と思っていたけれどご自分の役割と使命を知って生きる決心をされた・・・・・ということに 強く感銘し、心を打たれました。【生きるって?】生まれて2か月を過ぎた赤ちゃん♪
2020年07月26日
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半月振りで、孫を見に行ってきました。息子が帰って来ていて抱っこしたところなにやら 抱かれ心地が 良くないのか?泣きはじめました。 それで 私が抱っこすると すぐ泣き止んだんですよ~~もしかしたら、私との相性が良いのかも。あれこれと話しかけると、口を動かしてモゴモゴッと 声を出すんですね~~~でも これは私にだけではないようです。 生まれたときは濃い髪がびっしりでしたが薄くなったようなので、髪の毛を鋤いたのかと思ったら、そうではないとのこと・・そうか、納得 頭が大きくなったのに、 髪の毛は増えてないから 髪が薄くなったように見えるんですね。顔もふっくら、しっかりして、目も耳も、良く見えて、聞こえるようになってました。そのあとも、息子が抱っこすると嫌がって、私が抱っこすると泣き止むを繰り返しましたが私の抱っこでも ぐずり始めたのでお母さんにあずけると 泣き止んで おっぱいを貰うことになりました。やっぱり、お母さんが いちばんですね。『お父さんに抱っこされると、泣く子が いるらしいよ 』と 言っている 息子がちょっと 気の毒になりました~【生きるって?】初孫を授かりました~♪
2019年02月15日
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ちょうど一週間前に初孫を授かりました。初めて会ったときは、まだ4時間前までお腹の中にいたとは思えないほど、周りの空気にすっかり馴染んでいるようで、とても不思議で、愛おしく思いました。息子のお嫁さんと ご両親に 多々感謝です「ひ孫がいない、ひ孫がいない」と嘆いていた母でしたが、名前がハナで、戒名に『華』の文字が入ってました。偶然にも、お嫁さんの名前にも『華』がついていて、この赤ちゃんにも『華』がつきました。全くの偶然ですが今ごろ母も喜んでくれていることでしょう。 昨日、お嫁さんも赤ちゃんも元気に退院し、一か月ほど お嫁さんのご実家で お世話になります。あちらのご両親様にとっては、5人目のお孫さんで何もかもお任せです。息子と お嫁さんが『可愛い、可愛い』と 言って喜んでいるのが何より嬉しいです【生きるって?】満開の桜の下で・・・
2018年12月19日
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定期的に母の介護の手伝いに来てくれていたわが娘Mが満開の桜の下で撮った写真です。3月28日、亡くなる12日前のこと姉の家の桜が ちょうど 満開でした。車椅子を押して、ぐるりと家の辺りを回ってお出かけ前のご近所さんと記念撮影したり、わが家の前、椿の花をバックの写真も・・・川向こうのハナミズキ通りにある桜の下でも長い間、くつろいで、それから知合いのお宅にも伺ってお話をしたりしたとのことですがそれがお別れの挨拶になってしまいました。Mは、1時間以上も電車に乗って よく来てくれました。母も、Mと、Mが連れてくるワンコに 会うのをとても楽しみにしていました。この日にも、桜の木の下でワンコを見てにっこりした笑顔が遺影となりました。母が亡くなった日の朝、私はMに、『夜の間に、病院から何も連絡がなかったから おばあちゃんは元気になったんだと思うよ。来てくれるのは ゆっくりでいいと思うよ』 などと 言ってしまったため、Mが着いたのは母の脈も、呼吸も、止まったあとでした。Mちゃん、ごめんねそして、ありがとう!! きっと母は、身内が誰も傍にいなくても・・・・ 父や、兄さん、姉さん、知人たちが待ってくれてるあちらの世界に、元気に 旅立って行ったんだろうな~って思うことにします。【生きるって?】母はどんな気持ちで逝ったのか・・・
2018年04月26日
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こちら からの続きです。家から母の病室まで、5分で行けるのに、行ったときには 脈拍数だか、心拍数だか、呼吸数だか、たちまちのうちに0になってしまい、声をかけても分ってくれたのかどうか?母が亡くなり、遺体になって帰ってきたあとボランティアで施設に行かれている ご近所のKさんが来て下さり『血を吐いたというから やっぱりね、と 職員さんたちが話していた』 と わが娘Mに言いました。Mは取り乱して、『血を吐いたんだったら、どうして言ってくれなかったの?』と 私と姉が責められました。でも、姉も、私も、母が血を吐いたとは誰からも聞いてなくて血を吐いたとは知りませんでした。胃腸は、すこぶる丈夫な人だったし、食欲も旺盛だったので、悪いものを食べたとしたら、吐いてしまえば、元気になるだろうぐらいにしか考えていませんでした。私が3時半頃、携帯電話を取りに帰っている間に病室に移っていたので、部屋に案内して下さった 相談員さんから『また吐きました』と聞きました。夕方5時過ぎに姉と行ったとき、看護師さんから『何回か吐きました』とも聞きました。けれども、姉も、私も、吐いたものが血だったとは、本当に本当に、全く、全く、考えてもみませんでした。ショートスティの部屋のベッドの上で、母が『もう、いいよ』と言ったのは、母には自分が吐いたものが血だと分って、ショックだったのだろう、それで『もう、いいよ』と言ったのかなと、後になって考えたりもしました。そんなに何回も、何回も、血を吐いていたのに家族は誰も知らず、『明日には良くなるんじぁないの』なんて言いながら帰ってきてしまい、夜の間に、連絡がなかったので、やっぱり良くなったんだろうなんて、私は、のんきに竹の子掘りをしていたなんて・・・亡くなる前日、病院に移ってから撮った写真では心臓も肺も きれいだったとのこと。採血は、十分出来なかったので、原因は、よく分りませんが、内蔵のどこかが悪かったのでしょう、とのこと。死因は、急性胃腸炎と書かれていました。心不全とか、心筋梗塞とかなら分るのですが、胃腸はすこぶる丈夫だった母だし、急性胃腸炎と言われてもよく分らないで困惑しています。家族がすぐ近くに住んでいるのに、誰も傍にいないまま息絶えて逝った母は、どんな思いでいたのかな~?などと考えてしまいます。毎日、5~6回は母のところに行って、車椅子に乗せたり、体の向きを変えたりしていましたが、それらも、もうしなくてよくなったんだと思うと嬉しくなる気持ちもあったのですが、日が経つにつれ、あれこれ考えると気持ちが沈んできます。【生きるって?】99才と6か月、母が旅立ちました
2018年04月25日
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去る4月9日に母が亡くなりました。10月9日生まれでしたので、ちょうど99才と6か月でした。3泊4日で、ショートスティに お願いしていた、3日目の4月8日の朝に食欲がなくなり、その後茶褐色のものを吐いたとお昼過ぎ姉に電話があり私のところにはお客さまがあったので声をかけず午後1時過ぎに姉がひとりで会いに行きました。私は、3時頃に姉から聞いてそのあと会いに行きました。母は、ベッドで横向きに寝ていて「もう、いいよ」と言いました。これまでも こういうことはよく言っていたので私は、あまり、気にも とめませんでした。主治医のN先生の部屋に案内されました。「私はこれまでとは違うと思うんですよ」と言われて、「自宅に連れて帰りますか? それとも入院させますか?」と 聞かれました。私は「これまで吐いたことはなかったので家に連れて帰って、吐かれたら、姉も 私も まごまごしてしまうので入院させて下さい」と お願いしましたら、「大部屋が空いてなくて個室になってしまいます。個室だと1日8600円になってしまいますがいいですか?短いかもしれませんし、あるいは長くなるかもしれませんし」とのことでした。私は、入院を お願いしました。私が、携帯電話を家に取りに帰っている10分位の間に母はショートスティの部屋から病室に移っていました。看護士さんから言われて、仮の入院の書類を3枚ほど書いて、「お姉さんは明日何時頃来られますか?」と聞かれたので、今日、5時半前にふたりで来ます」と言い、姉の仕事のあと5時過ぎに一緒に行きました。母は、さっきより良く眠っているようだったので、起こさないで帰ってきました。帰る前に、姉が「側についてましょうか?」と 聞くと、「いいです。何かあったら連絡しますので、夜の間も電話がとれるようにしておいて下さい」とのこと。帰りがけに「悪いものを食べたとしたら、吐いてしまえば、明日の朝には良くなるんじゃないの」などと、姉と話しながら気楽に帰ってきました。夜の間に連絡がなかったので、母が良くなっているのだろうと思い、私はのんびり、庭の竹の子を掘ったり、室内に飾った花の水をかえたりしていました。9時過ぎに、姉のところに「明け方、急変しましたので来て下さい」と電話があったというので、ふたりで5分後には家を出て、病院に行き、10分後には病室に着きました。「お母さん、ゆり子だよ」と声をかけると、かすかにうなずいたかどうかという様子。ベッドの際にはモニターがあって、数字が80 と 20・・・ それが 60 と 10、たちまち 40 になって、20になって、 10 になって、0 になってしまいました。足や手が冷たくなっていき、さすっているといちばん下の目盛りが10とかに表示され、遠くの親族が着くまでそうしていましたが、それは振動などによるものだとのことです。母は遺体となって、姉の家に帰ってきました。お通夜が14日、告別式が15日でした。15日は、わが家の 藤の花が満開 でした。【生きるって?】 脳梗塞になって20年になった母
2018年04月25日
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心不全の発作 で 緊急入院して・・・退院して 一年半になった母ですが、79才のときに脳梗塞になってから今月19日で20年となりました。8人兄姉の誰もが元気で、脳梗塞の症状とかを知らず、母は大丈夫とか言って一晩、我慢をしてしまったので、かなりの重症でした。埼玉の親戚の家で暮らしていて深谷市の病院に面会に行くと、言ってることも 聞き取れずにもう駄目になるんじゃないかという感じ・・・そのあと、所沢市のリハビリ病院に移って、言語や歩行のリハビリを受け、5月に退院。姉の家で暮らすことになりました。 近くのH病院でのリハビリには 私も一緒に通って ほぼ毎日、同じことを母にやってみました。がんばり屋の母はリハビリを頑張って、(私も根気良く?付き合い)10月9日の母の誕生日記念には 何回も休みながらH病院の玄関まで一緒に歩きました。あの日は 母の80才の誕生日だったんだ な~と今ごろになって思いおこされます。母が脳梗塞になって、みんなの関心が母に向いてしまったためか? その頃、急激に父が弱っていき父を寝たきりにしないため 父の特訓もしました。自分と子どものためにはめったにお医者さんに行かなかった私ですが、通院に 付き合ったり、両親のために、かなりの病院通いをしました。父は87才で亡くなり、母は右半身が不自由ながらもひとりでリハビリに行かれるようになり、一時期は身の回りのことも何とかやれるようになりました。一昨年の5月に心不全の発作で入院する前までは4~5年か、5~6年前頃からか 足のむくみがひどくなってきて、ほぼ毎日 足のマッサージを30~40分かけてやりました。そうしないと象の足?のようになってしまうためです。心不全の発作の半年前からは、寝たきりにならないための特訓も、また始めました。それらが良かったのか? 悪かったのか?心不全の発作で5か月間 入院しているうちに 寝たきりとなり、退院して1年半になります。姉が良くやってくれているので、私もそれを手伝うという形で 一日に5~6回 あれこれやりに行ってます。隣りの家ですのでね 昨年からは デイサービスに行かれるようになり、週1回が2回になり、ショートスティも お願いできるようになり、今年から ショートスティを 月1回から2回にしていただくことにしました。姉と私の用事がある日に合わせてショートスティをお願いしているのですが、それでも、昨日は、姉の用事があり、私の予定を我慢して留守番しました。デイサービスも、ショートスティも、送迎時にベッドから車椅子に移動させるのは私の役目。デイサービスのない日も 2時間は 車椅子に乗ってもらっています。 一日中、ベッドの上では飽きてしまいますので・・・ それに 車椅子に座って母も笑顔になってくれます。初めは 軽かった母ですが、食欲も増して重くなってきました。でも、もう 今より体重が増えることもないと思いますが。何かと制約のある日々ですが、それでも私なりに やりたいことは 少しずつでも やれているかな~と思うことにします。そんなこんなで、あと何年続くのか、1~2年か? 2~3年か? でも、4~5年ということはないでしょうし 後悔のないようにしたいと思います。【生きるって?】 心不全の発作から一年半、白寿を迎えた母
2018年01月28日
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心不全の発作 で 緊急入院してから、まもなく一年半、退院して 一年になる母ですが、99才となりました。週に2回 デイサービスでお世話になる日も含めてほぼ毎日、車椅子に乗せるのは私の役目ですが、この頃、重くなったな~というのが実感です。退院の時は、骨川筋子さん状態でしたが、食欲もあり、今は4~5kg増えました。とは言っても今も流動食で 初めはスープ状のもの、それがポタージュ風となり、今では、ねばねば食。でも、少しでも固まりがあると口の中に残します。姉が三食、用意してくれますが、栄養満点の食材。髪も、白髪だったところが 黒々してきたり・・・栄養が行き渡るにつれて意識も冴えてきています。先月、ショートステイのお迎えが日曜日はないため土曜日から3泊4日になったときには、職員さんに『わたしがここにいることを、家族は知っている んでしょうか?』 と 尋ねたということです。家族の希望で入ってもらったんですが~そんなこんなで、今の状態が、まだまだ つづきそうです。【生きるって?】 二泊三日で、母がショートスティに・・・
2017年10月09日
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昨日は 臨時休業をして、私が 朝から出かけて、姉も 仕事で 遠方まで出かけることが重なって、 二泊三日で母のショートスティをお願いしました。一昨日の午前中に母を送り出してから、次は何時に行くと気にすることもなく、そのためか、猛烈に掃除をしたり、水遣り・・・ などが はかどって、昨日も、心置きなく 出かけることができました。お世話になった皆さま、ありがとうございました【生きるって?】 母のデイサービスが、再開・・・
2017年06月12日
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昼食介助をしてくれる人が足りないということで見合わせになっていた 母のデイサービスですが、今日から 週一回 行かれることになりました。車椅子が通れるスロープを レンタルで使えることになって 先日 届きました。これは 二つ折りになっている状態です。これをパカッと開くと車椅子用のスロープになります。今日は これの初使用で、車椅子を後向きにして下りる時に、しっかりと踏ん張って降りないといけないことが分かりました。母が入院中に、食事介助などで 病室に通う途中 送迎車の点検をしていらっしゃる運転手さんに 『もう母は こちらのお世話にはなれないと思うんですよ』と 挨拶して 通っていたのですが、今日は そのデイサービス再開の初日でした。『そのように聞いていたんですけどね』と 運転手さんが笑顔で仰って下さいました。そのようなわけで、寝たきり状態になってしまった母ですが、皆さまのおかげで また デイサービスに通えることになりました。【生きるって?】 心不全の発作から丸一年の母・・・
2017年06月01日
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母が 深夜に 緊急入院してから今日で、丸一年となりました。5か月間入院して、退院時の病名はうっ血性心不全後の廃用症候群退院後、点滴を外した ら 一週間と 思われていましたが・・・相変わらずの寝たきりですが、食欲もあり、栄養が行き届いているのか意識もはっきりしてきました。車椅子に乗り降りさせるのは私の役割なのですが昨日は、『 力があるねぇ 』 と 言われました。ドアが開いてるよ、とか、庭木のどこそこが伸び過ぎだとか、天井に蜘蛛の巣があるとか、花瓶の水はあるのか とか、自分はこれからどうすればいいんだろう・・・とかまだまだ長期になりそうですが、姉が一生懸命にやってくれていて、わが娘Mが週一日 留守番に来てくれ、その日に姉が外出。私は ほぼ毎日4~5回行って体の向きを変えたりということで、これから何年か 続きそうです。ありがたいことに、看護師さんが 週三回ヘルパーさんが 週三回、リハビリ療法士さんが週一回 いらして下さり、その他に週一回 入浴施設一式を持参して、三人が かりで入浴をさせていただいております。みなさまに ただただ感謝するばかりです。【生きるって?】 点滴をやめて3か月、母の様子
2017年05月19日
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点滴をやめて5週間、母の様子 で、リハビリは もう したくない!車いすへの移動なども イヤ!・・・と、書きましたが、今はほぼ毎日、車椅子に乗せに行き、ほど良い時間にまたベッドに寝かせに行ってます。その他に何回か体の向きを変えにいったりしています。朝と夕食前に、吸引機で痰を取っていましたが、ここ数週間、痰取りは必要なくなり、その点 楽になりましたが、食欲は増えて、流動食からどろどろ食となり、意識も 今までより はっきりしてきています。母の回復は、三食の介助をしてくれている姉の食事が最高に良いためだと思います。姉が外出できるように、わが娘Mが 毎週1日 留守番に来てくれていますが、よくやってくれていると感心しています。昨日、私は 病院に 薬をもらいに行き、もらい忘れがあり、気が滅入ったこと もありますが、ここのところ、私は仕方なくやっているという感じの時が多くて、母に対してあまりやさしい気持ちになれなくて、そんな自分が嫌だな~と 思ってしまうことがたびたびあり困っています。 母には、そういう気持ちが伝わらないようには しているつもりですが~【生きるって?】 やっぱり、やるっきゃないかな?!
2017年04月12日
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もう駄目か、もう駄目かと誰もが思っていた母がまた何年?か 寿命が 延びそうになっているのも何かの運命ということなのでしょう?点滴をやめて食欲も増し、リハビリが始まりりっぱな車いすが届いて・・・複雑な気持ちな~んて書いて、それでまた複雑な気分に。今、ほぼ毎日5~6回は母のところに行って痰を吸引したり、尿量を測って廃棄したり、体の向きを変えたりしていますが、食事や洗濯、身の回りのことを してくれている 姉に比べたら、時間も労力もわずかです。距離的にも、時間的にも、体力的にもやれるのは私なんですよね~~温かくなったら、せっかく 届いた 車いすにせっせと乗ってもらい、またデイサービスに通ってもらえるよう手伝うのもいいのかな~・・・などと思っている 今日この頃です。【生きるって?】 点滴をやめて5週間、母の様子
2017年02月21日
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1月11日で点滴をやめて5週間が過ぎました。だんだんに食欲も増えて、以前より 意識も はっきり してきました。先週からリハビリも始まりました。リクライニングのりっぱな車いすも届きました。リハビリ療法士さんに合わせて、車いすの説明の方も 来て下さったのですが、私はその説明を 聞きに 行きませんでした。リハビリは もう したくない!車いすへの移動なども イヤ!申し訳ないけど、喜んでいる人たちでやって欲しいよ~と思ってしまうのです。 でも結局は私がやることになってしまうのかも~~~~?!?な~んか 複雑な気分です【生きるって?】 点滴をやめてみたら食欲が増してきた?!
2017年02月19日
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昨年末には気管支炎とやらで、いったんは止めようと思った抗生剤を、翌日になって処方していただき1~2回分飲んだだけで 症状が治まってきました。年末年始にかけて一喜一憂でしたが、週に3回、月・水・金曜日に やっていただいていた点滴を、昨日から止めてみることになりました。この二日間、姉が仕事で出かけたため、昨日は わが娘Mと、今日は 私ひとりで母の 昼間の付き添いを していました。一週間前には何としても首を横に振って口を開けようとしない日も何日かあったのに、昨日も 今日も 次々と 口を開けて姉が用意していってくれたものを完食この様子だと、まだまだ長くなりそう。困った 困ったと 思ったら バチが当たるでしょうか【生きるって?】 やっぱり、抗生剤をいただきました
2017年01月14日
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昨日は、前日の血液検査の結果を伺い二週間分の点滴薬を いただきました。気管支炎が進んでいるので抗生剤を出しましょうと言われたのですが、『もう薬はいいです。点滴も この二週間分だけで、あとは止めます』と お伝えして、昨日は、抗生剤をいただいてきませんでした。でも、今朝になって、点滴をしている間は良い状態で過ごせた方が良いかもと思い、訪問の看護師さんや姉とも相談して、結局N先生に 抗生剤を出していただきました。気管支炎が治まれば母の様子も良くなるかも知れませんし、元気になれば、また点滴を続けていただけば良いのですし。5月に 発作を起こして緊急入院した 時には『もう十分に生きたから病院には行かなくていい』 と 言って、3~4時間も 苦しいのを我慢し、七転八倒の末、脂汗まで流れてくる状態で緊急入院することになったのですが、その時の言葉が、その時には、母の本心だったのでしょうが、今は どうなのでしょう【 追 記 】抗生剤を1回分飲んで まもなく 少し元気が出てきたように思われました。やはり薬の効果はすごいものですね。【生きるって?】 退院して2か月と1週間、母の様子
2016年12月28日
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5月に心不全の発作で近くの病院に緊急入院、入院中に、98才を迎えられた母のことです。5か月間の入院中、初めの2か月半は3食介助、後半の2か月半は朝夕2食の介助に行きました。もう駄目かと思うこともありましたが、退院し、2か月が過ぎたころ、容態も安定してきました。自宅では点滴は出来ませんと言われて、せっせと食事介助に通ったのですが、病院の相談員さんに『自宅でも点滴が出来ますけど、どうしますか?』と言われて、週3回の点滴を受けています。点滴の日には看護師さん、その他はヘルパーさん、週1回は入浴介助の方々のお世話になっています。病名は≪うっ血性心不全後の廃用症候群≫で、心不全の治療中、安静にしていたため、他の機能が弱ってしまい、自然に枯れていく ≪老衰≫ のようです。 姉が食事の介助をしてくれているので、それ以外はなるべく私がするようにしています。毎朝8時前に行って、尿量を測って廃棄。そして、点滴終了後の処置。点滴がない日にも、管の中の液が固まらないよう 毎夜、ヘパリンという薬品を注入しています。退院後しばらくして、痰が絡むようになったため、朝と夕食前に、吸引機を使って痰を取っています。母の鼻から細い管を20~25cmほど差し込み、咳き込んだところで 痰を取るという作業です。それをした方が食事の飲み込みが良くなるというのでせっせと痰取りをして私もだいぶ上手になりました。食欲も増して、顔の色艶も良くなり、まだまだ長くなりそうだと思っていたのですが、ここ数日、少し様子が変わってきました。 昨日、一昨日、眠っている時間が多く、尿量もすごく増え、顔がしわしわになってきた反面、手足に 浮腫みがみられる感じ。今朝は看護師さんが吸引をして下さり、肺の近くまで管をいれ、これまでは白だったのに黄色い痰が取れました。微熱もあって 眠り続けています。一日に何回か体位を変えに行ってますが2か所に床ずれの兆候がみられ 処置していただきました。今日は姉が不在のため、ひとりで付き添っていると、心細く、わが娘Mが来てくれてほっとした感じです。痰の量も増えているし、痰取りが上手になった私としても、母が苦しんでいるのに痰を取り続けるのもつらいものがあります。今日は食事も点滴もやめて自然死を待つのが良いのかな~とも思ったり・・・でも、明日になったら良くなるかもしれませんが。【 追 記 】看護師さんが報告して下さったのか、夕方主治医のN先生が 往診して下さいました。明日は、2週間分の点滴をいただきに行く日なのでその時に 今日の血液検査の結果などがわかります。【生きるって?】 うっ血性心不全後の廃用症候群
2016年12月26日
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入院中に98才の誕生日を迎えた母が、昨日 、スタッフの皆さんに見送られ、退院しました。 玄関までは、介護タクシーのストレッチャーで、家の中は、お二人で ハンモックのような 担架に乗せて下さり、レンタルしたベッドの上まで昨日は、看護婦さん お二人と、ケアマネさん、今日は、入浴サービスの方々との打ち合わせやヘルパーさんらが いらして下さいました。昨夜は 『様子はどうですか?』 と、病院のN先生からもお電話をいただいたとのこと。私も、点滴を終了させたり、尿量を測って処理をするとか、 体の向きを変えたりとかちょこっとずつ 手伝いに行っています。 母の病名は、うっ血性心不全後廃用症候群・・・とのことなんという分りやすい病名なんだろうと思いました。同時に、あとは心穏やかに過ごしてもらうことだけを考えていればいいんだな~と気がらくになりました。【生きるって?】 点滴終了と吸引の仕方を教えていただきました
2016年10月20日
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今月は 『四季の花』 の お楽しみ教室が終りましたので、今日から3日間、午後3時より 退院後のご指導をいただくことになりました。今朝は母の意識もはっきりして食欲もありました。午後3時に合わせて、点滴が終了するようにセットされていて点滴の閉め方を教えていただきました。ヘパロックというそうです。 退院後、訪問看護師さんがしてくれた点滴が終わった時の閉じ方です。それから、痰がからんだ時の吸引のやり方、そしてお小水の処理の仕方も教わりました。退院後は、毎日 看護師さんかヘルパーさんがいらして下さるのですが、それ以外で 必要な場合もあるので、教えて下さるとのことです。皆さん、お忙しいでしょうに にこやかに 教えて下さり、本当にありがたいことだと思いました。【生きるって?】 いよいよ、母の退院の準備・・・
2016年10月13日
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97才の母が 緊急入院 して、まもなく 5か月いよいよ 退院の相談が始まり、今週の後半から 退院後の指導をしていただくことになりました。退院といっても回復しての退院ではなく、5か月がタイムリミットということです。長期療養型の病院に転院するか、退院かということで、退院ということに・・・先日、誕生日を迎えて98才になりましたが寝たきりの状態で、三食の介助が必要です。いつも 眠そうにはしていますが、母の意識は はっきりしていて 退院は喜んでいるようです。退院後は、実に多くの皆さんの支援が必要で、皆さんにもお会いして、準備が始まりました。あと一週間後、はてさて どうなることでしょう【生きるって?】 母が入院して3か月・・・
2016年10月11日
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母が深夜に緊急入院して、今日で3か月・・・3か月近く ほぼ毎日、朝・昼・夕の食事介助に 交代で行ってましたが、8月16日から 昼食の 介助を 病院のスタッフの方にお願いしています。もともと 3食の介助をお願いしても良かったのですが病院が近いし、飲み込みが ものすご~く遅くて難しくなっていて、状態が 良くなったと思うと、もうダメかと思うような様子になったり・・・で、せめて 3食の介助だけでも行ってみようと 交代で行ってきました。それが良かったのかな~と思うのですが、ここのところ飲み込みも良くなって、状態も 安定してきましたので昼食を スタッフの方に お願いすることにしました。毎朝食に行って、1日おきで 昼食にも行くというのは正直 きついものがありました。それに朝食時、多めに食べられた日は 昼食は少なめで眠そうだったり・・・それで、朝食と夕食には 交代で行き、昼食はお願いしてもいいかなと思うことにしました。私は 朝だけとなり、ずいぶん ラクになりました。入院してまもなくの頃、入浴のあと 発熱したため入浴していませんでしたが、今日は、入浴の予定になっているとのこと。 また、点滴に入れている薬も、今は少しずつ 減らして下さっているとのことです。新たしい病棟のスタッフの方々にも慣れ、今は痛いところもなく、うつらうつらとしていることの多い母にとっては今の状態がとても心地よさそうです。初め、新しい病棟に移って2か月間いられると言われその後、最大3か月までいられるとのことで 安心していましたが それもあと2か月少々となってきました。その時には、良くなっていても、悪くなっていても、すべての管を 外して、退院してもらうということになっているので、あと2か月で どれだけ良くなってくれるか? そのあとも どうなるか・・・???とりあえず、毎日、交代で 食事介助に通った結果が 良い方に出ているので やれやれというところです。【生きるって?】 新しい病棟に移って、母の様子・・・
2016年08月19日
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5月19日の未明、心臓の発作で緊急入院をして、もうダメかと思うこともたびたびでしたが、何とか持ち直して、飲み込む力もついてきたようでした。7月22日にリハビリ病棟に移って、一週間・・・リハビリ病棟と言えば、リハビリに励んで、いずれ社会復帰出来るというイメージですが、母の場合はそれには ほど遠く、三食にも介助が必要な流動食。初めは、ここに2か月いられるので、その間に長期療養型の病院に移るか、どうするかなどを考えて下さい・・・とのことでしたが、その後最大で3か月はいられると訂正がありました。今は、点滴の中に心臓発作を抑える薬も混じっているそうです。また、退院するためには点滴から胃ろうにしなければならないとのこと。それなら栄養補給もでき、薬も入れられ、食事をすることもできるとのこと。でも、母が元気なうちから胃ろうにはしなくてもいいよねと話していました。今の病棟に最大で3か月間いて、どれだけ元気になるか、せめて 朝昼晩三食の食事介助に行って、元気になっていれば良いし、悪くなっていたとしても、それで点滴も外してもらって退院をしよう と考え、交代で食事介助に行っているところです。前の病棟では4人部屋で、ひんぱんにスタッフの 方たちが出入りされ、そのたびに〇〇△△さ~んと大きな声で 話しかけて下さり、そのたびに 母はとびっきり よそ行きの笑顔で 答えていました。今の病棟に移って2人部屋となり、昨日3人部屋となりましたが、そういう機会も少なくなったためかそれとも、母の機能が衰えてきているのか、声がとっても 出にくくなってきています。 昨日も、何か一言 発したのに 聞き取れなくて何回も聞き返しましたが、分りませんでした。今朝は、おはようと言うと、かすかに聞きとれる声で おはようと返してくれました。声が出ていないのは 姉にも同じようです。 眠そうにしていることも多く、そういう時は顔を近づけても、私の顔が見えているのか?いないのか分らないようなこともあります。今朝は わりと 意識がはっきりしていたようで、『きのうは、川っぷちの草刈りと 草むしりをした んだよ。 お母さんも草むしりをよくやったよね。リハビリも 頑張ってよくやったよね。 元気になって退院したら、またリハビリを やろうね』などと話すと、よく分ってくれたようでした。★昨日も この日 の 続きで草刈り等をしました。『どこか 苦しいところない?』 と 聞いたら、本当に にこにこと笑顔で首をふっていました。 飲み込む力も もう今以上にはつかないような気もします。 ここで急に声が出にくくなったように、今の流動食でも、飲み込む力が 急に衰えてしまうことがあるのかも~【 追 記 】今の病棟は、前の病棟よりスタッフの方々に余裕があるように思われ、食事介助に毎回行かなくてもいいのかな~と思うこともあるのですが、人の出入りも、刺激も少ない病室で、ぽつんと寝ているより、少しは 会話が 出来るように 行っていた方が いいよねと 言い合いながら 行っています。 そう言えば、しばらく前までは 『じゃあ帰るね』とか、『また来るね』とか言うと、帰って欲しくないような言葉やそぶりもあったのですが、それも なくなったかな~と 今、ふっと 思いました。【生きるって?】 入院中の母のこと・・・
2016年07月28日
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2~3週間前までは、もうダメか と思うこともたびたびでしたが・・・ ここのところ、そう思うこともなく、食欲も増してきています。とは 言え、流動食なのですが・・・自由になる方の手で しっかりとカップを持ってごくっと力強く飲み込めています。今月の22日に リハビリ病棟に移り、それから3か月後に 退院することになりました。 これからの3か月間でどれだけ良くなるか、それとも 今よりぐっと悪くなっているかはわかりませんが、 98才の誕生日は病院で迎えることになりそうです。今も、朝昼夜 一日三回の食事介助に交代で行ってますが、あと3か月間も 同じように 精一杯 食事介助に 通って、それで良くなれば よいし、悪くなっても・・・ 仕方がないことですね。 母が 脳梗塞になってから18年もの長い間、再発させることもなく、ずっと お世話してきてくれた 姉の負担が少しでも 少なくなってくれることを願っています。今日は、夕方 姉と一緒に H病院のN先生から今後の お話しを伺い、当面の 見通しがたってまずは良かったと 思っているところです。 【生きるって?】 入院中の母が ようやく 回復のきざし・・・
2016年07月06日
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5月19日 未明 2時前に 緊急入院した母ですが一時は もうだめかと思いました。 本人もそれをわかっているのか 『みんな 仲良くね』 などと、しんみりというので胸にじんときたことも・・・それが6月1日の夕方のこと。それで2日朝には姉がひとりでつまらない、早く帰ってきてほしいと言ってる・・・と 私としては励ましたつもり。その昼に、わが娘Mが 行った時、母が、 『ずっと考えていたんだ』 と いうので『何を?』 と 聞くと、『ここに居ようか、帰ろうかと・・・』とのこと。3日朝には左手でコップを持ってお茶を飲みました。私が手を添えてですが。そのあと くるりんブラシで歯磨きしようとしたら、自分で持って やりました。前日までは だらりとしていた左手だったのですが。(右手は18年前に脳梗塞をして不自由のため)4日夕方には 酸素の管が なくなっていました。数値がよくなって必要なくなりましたとのこと。昨6日午後には、リハビリでベッドサイドに5分ほど座らせていただいたとのこと。そこに居合わせたMに『どうして自分はこんなところにいるんだ。どこも 悪くないんだから家に帰る!』 と言っていたとか。それで 夕方 行ってみると すっかり 疲れた様子でやっぱり、良くなるとしても 時間は かかりそう。苦しがっていたことや、入院したときの経緯を全く 覚えていないので、行ったときに、毎回、そのことを 話すことにしようと思っています。そうでないと、元気になった時、無理やり入院させられてしまったと思ってしまいそうです。というわけで、少~し 回復のきざしが見えてきましたが、まだまだ 長くかかりそうです。 【生きるって?】 先日、97才の母が 深夜に 緊急入院・・・
2016年06月07日
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この日、ちらし配りから帰って まもなくして姉から呼び出しの電話があり、行ってみると母がベッドの上で 苦しそうにしていました。呼吸が荒く 身の置き所がないような感じ・・・寝かせてくれと言ったり、また起こしてくれと言ったり、でも、少し治まって寝るというので帰ってきましたが すぐに 呼び出しの電話・・起こしてくれ、寝かしてくれ、横向きに、反対の向きに変えてくれ、足を上げてくれ、下げてくれ居ても立ってもいられない苦しみの中で、もう十分に生きたから病院に行かなくてよいとか。夜10時過ぎ、いつものH病院に電話をしてもつながらず、どうしたものかと母の言うようにしていました。12時頃、入院はさせない方が良いと言っている親族に電話したけど留守電。七転八倒の苦しみって、このことかと思ううち脂汗が滲んできて、翌1時頃、H病院に電話。夜警の人が出てくれて、N先生に何かあったらいつでも電話をするように言われていますのでと伝えると、N先生が電話に出てくれました。母の様子を伝えると、自分が迎えに行くことは出来ないので、救急車で来て下さいとのこと。119番にかけると、まもなくサイレンの響き。母と姉と三人で病院に行くと、N先生、看護師さんたちが待ってくれていて、すぐにベッドに救急隊員に酸素マスクをしてもらっていましたがそれに加えて、お小水の量を測りたいので尿管を入れますとのこと。 朝3時頃、看護士さんに帰っても良いですよと言われ、姉と一緒に帰ろうとすると、N先生にどちらか一人残って付いていて下さいとのことそれで、二人で残っていました。朝6時に姉がいったん家に帰り、その後、私が付き添っていると、姉の名前を呼んで、すごい力で酸素マスクを外そうとしました。その腕を押さえているのに筋肉痛がおこったほど・・・でも、苦痛はだんだんに治まってきたようで朝8時頃に 姉も戻り、N先生が 回診に来て下さったころには穏やかになっていました。N先生が言われるには、300ccしか 入っていないのに1.6リットル出てますねとのこと。ふくよかだった母の顔が、ほっそりして皺だらけ元気でつややかだったのは浮腫んでいたため?!心不全だけど心筋梗塞は起こしていないとのこと。とりあえず、家に帰って 一眠り、姉が持って行った入院用品のうち、足りないものを買い揃えて、午後また 病院に持って行き、説明を聞いたりしました。これが、写真展の前日でした~一時は、写真展も、姉のチャリティセールも中止かと考えましたが、それでも何とか実施でき、本当にやれやれと思っているところ。入院した母は翌日には、ここは いい所だ、最高だ、空ガ良く見えるし最高と何回も言っていました。三日目からゼリー食がでて、副食は完食。でも、それも二日間位のことで、その後喉の通りが悪くなり、副食が 数口だけ、その分、点滴のお世話になっています。朝食介助に私が行き、昼は行かれる時わが娘Mが、夕方 姉が行っています。でも、今朝は なかなか飲み込めないでいるのを看護助手さんが上手に薬も飲ませてくれました。やっぱり、病院のスタッフの方々はお上手だと 改めて 感心しました。97才の母に、筋トレを始めました~♪ いくつになっても 『 らく』 を させないとか思って、無理やり筋トレを5か月ほどやってきましたが、良かったのかどうか母は 精一杯 がんばっていたんだな~と思います。 今は、やすらかな顔をして、身も心も休めてか心地良さそうにしてくれているのが救いです。【生きるって?】 三日間、97才の母が居なくて 息抜き♪
2016年05月27日
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年末から、ほぼ毎日 筋トレをして、かろうじて歩けている97才の母が三日間、親戚のお宅に伺ってます。慣れなくて、母も 親戚も さぞかし大変な思いをしていると思いますが『転んだから頼む』 という電話がかかって くる心配もなく、心穏やかな三日間でした。母と同居してくれている姉にとっては、実に実に、貴重な三日間だったろうと思います。一緒に過ごしてみないと判らない心身の衰え、介護の大変さが少~し判ってもらえたかも?【生きるって?】 白寿の旅立ちをした叔母の一周忌
2016年04月07日
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昨年3月に 白寿の旅立ちをした叔母 の一周忌の法事をしていただきました。お花とお供え物と 叔母の位牌等々を持ってお寺さんで お経をあげていただき、お墓参りをしました。お供え物をのせていった籠はどちらも、母がもっと元気だった頃、デイサービスで作った籠でした。この写真を見ていて気がつきました。花屋さんのお花は叔母のお墓と、30年以上も前に亡くなった叔父の親戚のお墓に・・・こちらはわが庭のお花・・・叔母にとっては年齢も近く、いちばん親交のあった姪(私にとっては従姉妹)が、叔母が亡くなったあと体調を崩し、その二か月後に後を追うように87歳で亡くなりました。みんなでお蕎麦を食べたあと、その従姉妹のお墓参りに行きました。庭の花を気に入ってくれていた従姉妹でした。今日は温かな一日となり、庭のハクモクレンが満開でしたが、写真を撮りそびれました~【生きるって?】 97才の母の筋トレの成果は?
2016年03月17日
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97才の母に筋トレ、リハビリ を 始めてほぼ2か月が過ぎようとしています。 夕食前の40~50分ほど、ほぼ毎日 (2か月で1~2日 出来ませんでした) 『トイレにひとりで行けるようになった』 と同居している姉が 喜んでくれています。母の意識も 以前より しっかりしてきたように思います。ただ これから先、どれ位の 年月 やり続けることになるのかな~と ちょっと 気が重くなることもありますが~【生きるって?】 いくつになっても 『 らく』 を させない・・・
2016年02月20日
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97才の母の筋トレを始めて半月が過ぎました。『今年は車イスになるのかな~と思っていたけど 春になったら、また外が歩けるようになるかも』と 同居してくれている 姉に喜ばれています。数日前から 足踏みの機器を使ってやっています。昨年3月に99才で亡くなった叔母が元気だった頃、長姉のお香典返しのカタログの中から自分で選んで送ってもらい、使っていた 健康機器です。叔母は ひとりで黙々とやっていましたが、母は 私に言われてやむなく・・・ でも、何日か やっているうちに、機器にも乗りやすくなり、自分で 数えたりもするようになりました。内心 もっと早くやってい れば良かったと後悔もしているようです。父が87才で亡くなってから15年になります。母が79才で 脳梗塞で倒れた、84才の頃からそのショックでか、体力が無くなってきたので、リハビリ療法士さんに 在宅でいらしていただき 私も あれこれ体力づくりの特訓?をしました。家族の者だけでなく、外から専門の方にも訪問していただけるのは父にとっても心強かったようです。お医者さんにも往診していただき、極度の貧血なので輸血を進められ、外来で 輸血をしていただき、付き添っていると みるみる顔色が良くなってきました。寝たきりになってしまいそうでしたが、その翌日位から、『輸血をしてもらって、悪いところはないんだから』とベッドから起きる練習を始め、だんだんつかまって、歩けるようにもなっていきました。『もう寝かせてくれ』 と言うのに、あと何周と、 私と一緒に、無理に廊下を歩く練習をしました。父は寝ていたいのを無理に起こして歩かせる・・・これをお嫁さんがやったら虐待に思われるだろう実の娘だからできることと自分でも思いました。そのあと、父はまた外を歩けるようになったし、入院して亡くなる直前まで歩けていましたので、やって良かったかな~と思っています。 でも、本人は、寝ていたいのを 無理やり 起こして歩かせるんですから・・・『鬼』 にならないとできないこと。入院する前、2~3週間はわが家にいたのですが穏やかにしている父を見て、もう特訓はしないでいいかな~という気持にもなりました。 特訓を しなければと思うと 厳しくなってしまいますし。母が まだ何年か生きていくとしたら、やっぱり最後まで なるべく動けた方が、誰にとってもいいよな~と思って、私も仕事のつもりで筋トレに付き合おうかと思っています。これはまた、自分の体や脳にも言えることいくつになっても 『らく』 を させてはいけないよ~ということですよね【生きるって?】 97才の母に、筋トレを始めました~♪
2016年01月08日
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もう4~5年になるか、それとも、もっと前からだったか 母の足のマッサージ を 続けています。このところ、歩くのにも時間がかかるようになり、出来たことも出来なくなったり、このまま寝たきりになってしまうのかな~と思ったりしていました。数週間前だったか、一緒に暮らしてくれている姉が『家の中でも車イスの方がいいのかな?』 と・・・それも姉が大変だよな~と思って、今からでも母に筋力トレーニングをすることにしました。足のマッサージの前に 椅子に座った姿勢で足や腕や肩、首などを 挙げたり 下げたり。始めて3日目位から、母の動きが少~し良くなったようで、姉にも喜んでもらえました。『立ち上がれるといいんだけどね』 と いうので、立ち上がる練習もしているのですが、やれたと思うと、翌日には 出来なかったり・・・自分でやればいいのに・・・とか、こんなこといつまで やらなければならないんだろうとか思ってしまうのですが、母が にこにこと 喜んでくれるし、姉が 実によく お世話をしてくれているので、せめて一日に一回位は マッサージと筋トレでも~と 思っているところです。【生きるって?】 97才になった母と、102才の叔母の面会に
2015年12月27日
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100才のお誕生会を取りやめ てから会いに行っていなかった叔母ですが、母が会いたいというので、姉と三人で 面会に行ってきました。もともとスリムだった叔母がもっとスリムになり、車イスに端然と座っていました。自分で、何でも食べられるそうです。昼食後のことで目を閉じて眠そうでした。私たちをすっかり忘れているようでした。声もかすれて小さく聞き取れませんでしたがだんだんに 聞き取れるように なりました。そのうちに 少し思い出してくれたのか母の手を強く握ってくれたりしました。『長いこと来られなくてごめんね』と言ったら『そりゃあ 誰だって 忙しいからね』 とか、『閑だったら ゆっくりしていけば 』 とか、『また来るね』 と 言ったら、『それだったら、ちょくちょくじゃないとね』とか・・・ 二年前、面会に 行かなくなった頃には待っていてくれたのかもしれないな~と思いました。帰りの車の中で、母に 『また 行ってみる?』 と聞いたら行くとも行かないとも言いませんでした。母も疲れたようで・・・私も疲れました。二年間という歳月を感じた一日でした。【生きるって?】 紅白のサルスベリを持って、お墓参りに・・・
2015年10月23日
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百日も紅い花を楽しませてくれる百日紅・・・サルスベリ裏に咲いている 紅いサルスベリと表に咲いている 白いサルスベリに紫のメドーセージを 加えて、朝の 涼しいうち お墓参りに行きました。姉が 庭に咲いている黄色いコスモスや、ピンクの百日草、白い花を持って・・・秋に97才になる母を車イスに乗せて。父や、父の実家、父の従兄弟、母の実家、父や母のお兄さんたち、私たちが子どもの頃 お世話になったご近所の方々にも お花やお線香を あげました。紅白のお花なんて、不謹慎・・・でも、難しくは考えないことにしましょう。3月に亡くなった 叔母のお盆は8月1~3日でした。まだ白のサルスベリは咲いていなかったので、紅いサルスベリと 黄色いヒメヒマワリなどを持って、お墓参りに 行ってきました。お墓参りも、まだ生きている 母のために行っているのかも 母が逝ってしまい、私たちが居なくなったら~お墓の管理費は 払ってくれるでしょうから、撤去されることにはならないと思いますが【生きるって?】 69才の誕生日に、これからの20年計画?
2015年08月16日
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今日、69才になりました。 これまで行き当たりばったりに生きてきましたが『四季の花』 が12年目にもなりました。開店した頃、友人たちには 冗談半分に『80才になってもコーヒーショップのおばあさんをやっているからね 』 と言ってきましたが、その80才も目に見える距離に近づいてきたような気がしています。 80才を過ぎて 元気な方々も多く、『四季の花』 も、あと20年続けて いけるかな~と 思えてきたのです。もちろん、その前に どんなことが起きるかは わかりませんが・・・庭も その時々、無計画に 樹木や草花を植え、育ててきましたが、これからの20年を考えて今からでも もう少し 計画的に庭作りをしていっても良いのかも~! そして、なるべくみなさまに自家栽培のものを召し上がっていただけるようにしよう~などと思ったりやっぱり、樹木に囲まれ、草花を眺めていたいしそれには手入れも必要だし、それが元気の元かもそんな風に思える 今日この頃です。お向かいさんの山ゆりが 今日 咲きました。わが家の方を向いて 咲いてくれています69年前、私が生まれた日にも庭に山ゆりが咲いていたのだとか・・・【生きるって?】 植物にも 『殉死』 って あるのでしょうか?
2015年07月04日
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三月に白寿の旅立ちをした 叔母の庭で白のサザンカの木が枯れていました。80才の時、わが家の直近に越してきた折、叔母が持ってきて植えていたサザンカです。毎冬、きれいな花を 咲かせてくれました。白は 叔母が 好きだった色・・・ここ5~6年は、私が刈り込んでいました。いいかげん剪定ですが、今冬にも いつもと同じように白い花が咲いていましたのに他の植物は みな元気です。いつもの年と同じように草花が咲き、たくましいシオンも育っています。ただ、叔母宅の窓から間近に見える わが家のビワ、このビワだけは、今年 ひと粒もなりませんでした。でも、これは たぶん、二年前に大幅な強剪定をしてもらったためではないのかな~と思いますが・・・【生きるって?】 叔母の旅立ちに 、枕ご飯 と 六道団子を・・・
2015年06月21日
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4日前、3月21日の午後・・・もう少ししたら叔母のお見舞いに行こうかと思っている時に病院から電話がありました。『今、息をひきとられました。どれ位でこられますか?』『5分で行きます』 と 答えて、姉とふたりで車で行きました。叔母のひたいや 手や 足は、まだぽかぽかと温かく、顔は穏やかでラクになったという表情でした。待っている間、30分から40分でみるみる冷たくなっていきました。絶命は、午後3時37分99才と5か月でした。叔母がいちばん好きだった自宅に帰宅。葬儀屋さんに作り方を教えていただいて、枕ご飯と六道団子を作って 供えました。ご飯が少し大盛り過ぎたでしょうか~?叔母宅に残っていたお米を使いました。上新粉150gで6コのお団子も作りました。粉を熱湯でよくこねて、6つに分けるとひと粒の団子が55gになりました。小さな卵ほどの大きさです。お通夜と告別式も お坊さんにいらしていただいて、叔母の家でやりました。葬儀屋さんには、とってもきれいに飾っていただき考えていたより多くの方々にもご会葬いただいて叔母も喜んでくれたかな・・・と思います。叔母の家を片づけているときに、姉が『時計、止まっているから外そうか』と言いながら、気がつきました~数年前から止まっていた時計が3時37分叔母が息絶えた時間で止まっていました。昨日の告別式でその話をしましたら、昨年末、叔母に『時計が止まっているから新しい電池に変えようか?』と聞いたけど、『置時計があるからいい』 と断られたという身近な親族がいました。叔母が、この時間を想定していたのでしょうか?まさか~? そんなことあるはずありませんよね。でも、もしかしたら・・・告別式も無事に終って、今朝はほっと起きてみてわが家の時計が5時25分で止まっていました。いつもですと、何日も何週間も放っておくのですがぎょっとして、すぐに 新しい電池と取りかえて、チクタク 元気にまた時を刻んでもらいました。お通夜もお葬式も、身近な人だけで、お香典なしにやりましたので、お知らせもいたしませんでしたがご心配いただきました 皆さま、本当にありがとうございました。【生きるって?】 庭のお花を持って、二軒のお墓参りに・・・
2015年03月25日
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昨日は、母の車イスを押して父のお墓参りに行きました。今日は、入院中の叔母の代りに叔父のお墓参りに行きました。毎年、同じ花が咲きますが、今年はこぶしの花も 持っていきました。母のところで、お隣りに はみ出して咲いている枝を、高枝伐りで落としました。そして、河津桜 と ヒヤシンス、クリスマスローズ、沈丁花・・・20年近く前、わが家の直近に越してきた叔母は、しばらくは電車を乗りついでお墓参りに行っていましたが、私の運転で行くようになったのがいつ頃からだったのか・・・?春と秋のお彼岸と お盆には欠かさずに行っていた お墓参りですが、私ひとりで行ってきてもらえないだろうかと叔母から頼まれ、私が ひとりで 行くようになったのが、いつ頃からだったのか・・・?昨夕 見舞ったとき、叔母は何か わめいていました。 顔を のぞき込んで、おでこに手をあてて、あれこれと 話すうち だんだん穏やかになって 頷いてくれました。『今日はお彼岸の入りだから、明日は おじさんのお墓参りに行ってくるね』と言っても、わかったのかどうか?気になったので、今朝 行ってみると 眠っているのか声をかけても 目も開かず、頷きもしませんでした。夕方 行ってみると、やはり 同じような感じ。『〇〇ですよ~』 と 私の名前を 言うと、 一瞬 目を細く開けて、すぐ閉じてしまい、『おばさん』 と 言うと、やはり 一瞬『うっ』 と 発して、それっきりまた 眠った感じ・・・今日は、昼間もこのような感じだったようです。【生きるって?】 入院中の叔母、ナースステーションの隣りに・・・
2015年03月19日
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入院中の叔母は、記憶喪失にはなっていませんでした。昨日、見舞った私の母を見て、すぐに誰かがわかりましたし、前日より言うこともしっかりしていて、会話も成立しました。ただ、今日の夕方は 苦しそうな様子でした。 昨日から同じ個室でもナースステーションの隣りの部屋に移っていました。天井に向かって手を振り上げたり、毛布カバーをひねったり、引っ張ったり、いらいらし、もがいている様子でした。一進一退・・・ 予断を許さない状態のようです。【生きるって?】 叔母が またまた復活! びっ、びっ、びっくり~!
2015年03月17日
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喫茶店 『四季の花』 3月の営業が終りました ご来店下さった皆さま、ありがとうございました。昨日の店内は 閑散としていましたので今日ものんびりとかまえていましたがおかげさまで 大忙しでした。ほっと一息ついてから、夕方、叔母の様子を見にいきました。昨日は 一昨日よりは良くなっていましたが、目は閉じっ放し、かすかに頷く程度でした。今日は、目をしっかりと開けていました。私の手が冷たいといつも嫌がるのですが、『おばさん、私の手 冷たいけどさわるね』と言ってから、おでこに手を当てると、大きな声で 何か言ったのでした~びっ、びっ、びっくりしました。これで、完全復活を確信しました。あっちの世に行きかけていたことやいろいろな人が来てくれたことなど私が喋ると何か言ったり、うなづいたり・・・酸素マスクや点滴の管を 外そうとするために、重い手袋をはめられているのですが、その重い手をまっすぐ上に振りあげて 外してくれというようなそぶりもしました。『昨日はAさん、Cさんが来てくれて、明日はHさんを連れてくるね』 と私。でも、もしかしたら 記憶喪失になっているかも?まだ はっきり判りませんが、そんな感じも・・・数日間、昏睡状態でしたから・・・『もう夕方だから また 明日 来るね。おやすみなさい』 と 言ったら、はっきりと『おやすみなさい』と返ってきました。明日になったら、もっと 元気になっていて、近々、また自分で食べられるようになるかもしれません。【生きるって?】 どこからが延命治療なのか・・・?
2015年03月15日
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叔母が入院して一週間が過ぎて、8日目です。昨日の午後、N先生からご連絡をいただき、心臓が回復し脈拍が平常に戻ったとのこと。食事ができない状態ですので輸血をしたいと思いますがどうしますか?と 聞かれました。N先生が仰るのだから私は、して下さいとお願いし、叔母の様子を見にいきました。酸素吸入から酸素マスクになっていて、前日よりは反応がよくなっていました。輸血の同意書にもサインをしました。その後すぐ輸血をしていただいて、叔母の顔色は、今日 少し良くなっていました。輸血は200CCずつ5日間されるそうです。5人の方の貴重な血液をいただくわけです。叔母は8人兄妹の末っ子で、甥や姪は90才位で亡くなった人もいたりして、私にとっての従兄弟従姉妹たちが何人いるかわからないほどですが、みんな もう疲れているから何もしなくていいよという声もあり、輸血をしていただくのが良かったのかどうか?N先生も、心臓の機能が回復しなければしませんでしたけどね・・・とのこと。叔母の生活費は2か月に1回位、私が下ろしに行きお金は、入院するその日までポケットに入れて、叔母が しっかりと管理していました。99才5か月まであきれるほど慎ましやかに暮らして叔母が、多少のお金をためてきたのは、こういう時に使うためではなかったのかな~と思うと、今回の輸血で 元気になれてもなれなくても納得してもらえるかもそう考えることにして、5人の方に感謝し貴重な血液をいただくことにしました。【生きるって?】 入院中の叔母が大部屋から個室に・・・
2015年03月14日
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入院して、食欲旺盛で安心していましたが、夕方4時半頃、病院から連絡がありました。心臓の機能が弱っていて、80位の脈拍が40位になっている。 ペースメーカーをつけることも考えられるけれど、つけたら何かのトラブルが出てくるかもしれないしつけないままでいいでしょう、とのこと。病院に行ってみると 大部屋から個室に移っていて 酸素吸入をしていました。昼食は普通に食べられていたそうです。N先生が言われるには 入院してから環境が変ったことによるストレスや、これまでに 動脈硬化も進んでいたのでしょうとのこと。夜になって行った時には、さっきより少し良くなりましたとのことでした。 夕飯は一口だけ食べたそうです。今朝はケアマネージャーさんが来て下さって退院後の相談をしたばかりでしたが・・・【生きるって?】 99才の叔母、ついに入院・・・
2015年03月11日
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昨夕、N先生に往診していただき、今朝 叔母とH病院に行きました。姉と二人がかりで 身支度をし、車に乗せ、その間中も痛がっていました。 さすがの叔母が 入院もやむをえないと思うほどの痛みだったのでしょう。朝8時半に まず私が 診察券を出しに行き、9時過ぎに今度は叔母を連れていきました。しばらく待っていましたが、思いついて叔母の名前を言うと、指示をして下さっていたようでレントゲンを撮りに行くように言われ、そのフィルムをナースに渡すと すぐにN先生の診察室に呼ばれました。骨は変形していたり、もろくなったり・・・でかなり悪い ぼろぼろになっていたようでした。先生もこの写真をみて 在宅では無理と思われたようでベッドもひとつ空いているのでと入院が決まりました。病室で叔母の状態を話し、担当ナースの説明を受けているうちに 『四季の花』 の 開店時間11時になってしまったので、あとは姉に任せて 私は帰宅しました。姉も慌ただしく叔母につきそって出かけ、母の様子を心配していたので、まず母の様子を見にいくと・・・姉の心配どおり、仰向けに転倒し、起きられないでいるところでした。『四季の花』 お楽しみ教室が終って、入院に必要な品々を買いに行ったり、そろえたりして病院に届けると、叔母は 病衣に着替えて、ベッドを起こし ちょこんと座っていました。叔母を入れて、朝は6人でしたが、夕方には 7人になっていました。みなさん 重症な方たちばかりのようで、涼しい顔でちょこんと座っている叔母がちょっと異質・・・という感じでした。痛み止めが 効いているのか叔母は落ち着いていました。もしかして、家でひとりでいるより居心地が良くなったりするかも?今日は、めまぐるしく忙しかった一日で夜8時近くに初めてゆっくりと食事・・・長年の肩の荷がおりたような気になりました。20年近く前、80才でわが家の直近に越してきた日、私は山に行っていました。 北岳バットレス登攀のあとなんと 道を間違えたりして ビバーグ・・・叔母の引越しとは関わりなく のんきなものでした。叔母は 自分は 弱いと思っていて、自分では無理をせず周りの人がやってくれていました。私の父も含めて、その人たちが先に逝き体が弱いはずの叔母が 残っていました。父の妹で、とくに父から頼まれたわけではないのですが、ゆくゆくは 私が お世話をすることを期待していたのかなと思えます。今夜はそんな父のことも思い出して『よく やってくれたね』 と言ってくれているような気もしました。今朝の様子ではとても辛そうだった叔母ですが病室のベッドの上では さっぱりと涼しげ・・・嫌がっていた入院生活ですが快適になるかもしれません。良かった、良かったというところです。【生きるって?】 もう駄目か、もう駄目かと 思い続けて・・・
2015年03月07日
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秋には100才となる ひとり暮らしの叔母 数日前、二日間ほど食事を残していました。いよいよ食欲がなくなったかと思いましたが、また一粒残らず食べられるようになりました。今日は入浴サービスの日腰が痛くて、立てない立てない行きたくない、行きたくないと言うのに、無理やり、行ってもらいました。見送ってから、帰宅を待つ間にも、いよいよ寝たきりになるのかなと思ったりしました。叔母が留守の間に、お弁当を受け取って半分を仏壇に供えて、叔母が帰宅するとすぐに食べられるようにしておきます。こざっぱりして帰宅した叔母は腰が痛い痛いと 言いながらも、つかまりながら歩いて いつもの座卓に向って 食べ始めました。動いた後なので、食が進むようです。食べながら、昨日の夕方 転んでしまって、腰が痛くてたまらないと言い出しました。昨夕、どうしているかと 私が 覗いたときお弁当を半分に分けているのが見えたので大丈夫だと思い、私は覗いただけで帰ってきたのでしたが、その後のことだったのでしょう。いつもだと痛かったことや、具合が悪かったことなど、すぐに 忘れてしまっているのに、 よほど痛かったため覚えていたのでしょうか。 腰の痛みも 打ち身か何かが治まればまた 良くなることでしょう。やれなくなることは 日ごとに増えていますが、まだまだ、まだまだ・・・長くなりそうです。【 追 記 】今(6日夕)H病院のN医師に往診していただき、明朝、レントゲン撮影のため、病院に行くことになりました。 そのまま、入院かも・・・【生きるって?】 認知症と物忘れの違いは、どこに・・・?
2015年03月05日
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99才の叔母と 96才の母のところにH病院のN先生が40日おきに往診して下さっています。つい先日、往診の日でした。夕方5時にいらして下さるというのでそのことを昼間 叔母に 伝えました。宅配のお弁当がきたあと、食べ始めてしまわないようにと、夕方4時半頃に行ってみると、先生がいらして下さることは忘れていたので、夕飯は往診のあとにして・・・と 伝えてきました。それで、5時少し前に 行くと、しっかりと雨戸が閉まっていて玄関の鍵も かかっていました。家に鍵を取りに行こうかとも思いましたがな~んか腹が立って、玄関の戸を叩いて、呼び鈴もしつこくリンリン鳴らしました。叔母は 何ごとかと鍵を開けてくれましたが、N先生が来て下さることは忘れていました。そのあと、すぐN先生がいらして血圧を測ったりして、異常なし。先生が帰られたあと、『おばさん、先生が来てくれたとき、鍵がかかってなくてよかったね』 と 言うと、『鍵がかかってたの?』 と 怪訝な様子。『そうよ、おばさん 鍵をかけちゃったじゃない』と 私が言うと、『そうだったかしら・・・?』 とのこと。こういうことが ひんぱんにあるのですが、これは物忘れ・・・であって、認知症ではないのだろうなと思います。物忘れと認知症との違いは? その境目は?物忘れがひどくなると認知症になる?そうでもないような気がしますが??やれなくなることが少しずつ増えて行き物忘れが ますます はげしくなっても、命には 別状なく、これからも 細く、長く、続いていくのだろうな~と思うこの頃です。【生きるって?】 99才の叔母が食欲増進
2015年02月14日
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先週から 入浴サービスを受け始めた99才の叔母、昨日が2回目でした。前回のことは覚えていなくて、行きたくないとは言いながらも 体が 記憶していたのでしょうか、割と すんなり 出かけてくれました。午後1時半に出かけて、帰宅するのは5時15分、今は暗くなっています。昼食をしっかり食べてもらい、持ち物をそろえて送り出し、4時半に 夕食のお弁当を 受け取り、雨戸を閉めて、暖房をつけ、叔母を迎えます。 叔母はお腹が空いているらしくすぐに 食べ始めます。今朝も、朝ごはんを にこにこしながら『美味しい』 と言って食べていました。私の父は87才で他界しましたが、叔母は父の2才下の妹。 若い頃、大病をしたため自分を大事に大事にして 生きてきました。 80才の時に、わが家の直近に越してきました。引越しの時、私は山に行っていて、叔母の引越しも無縁に思えていたのですが、叔母は無理をしないで周りの人が 一生懸命に 手伝ってくれていました。その人たちの方が先に逝ってしまって、叔母もまもなくと 思ってきましたが、まだまだ 長くなりそうです。長兄は105才で逝きました。もしかしたら 叔母も・・・そう考えると、ぎょぎょぎょっ・・・と思ってしまう私はホント不謹慎ですよね。【生きるって?】 99才の叔母が、入浴サービスで お出かけ♪
2014年11月21日
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9月で 99才になった叔母は、今年になってから、ヘルパーさんにシャワー浴をお願いしていましたが寒くなってきたので、入浴サービスをすすめられ、今日、打ち合わせをして、明日から行くことに 行きたくないという叔母に、「おばさん、生きてる限り、もう行っていただくしかないんです。 お願いです、行って下さい。看護婦さんが待っていてくれて、血圧を測ったり、悪いところを診てくれて、檜のお風呂に入れるの行けば、絶対に気持ちがいいんだし・・・もう、行くっきゃないんです」 と 言って行ってもらうことになりました。家の中で日がな一日、ぽつねんと座っていた生活から、送迎バスに乗ってのお出かけ・・背中が曲がっていて人前に出るのは恥ずかしい、いやだと言っていた人が、いろいろな人に優しくしていただいて、ほめられたりしたら・・・入浴だけでなく、半日だけのデイサービスでおやつタイムやレクリエーションもあるとかもしかしたら、一層、元気になって100何才まで生きられるかも・・叔母にとって、明日は何番目かの新しい人生の始まりになるのかも・・・などと思いながら、持っていくものや、それらを入れる袋を用意したりしているところです。【生きるって?】 ふたりとも 100才を 超えそう・・・
2014年11月12日
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姉が無事に帰宅して、これまでの生活に戻りました。母と密着生活をしてみて、食欲はあるし、不自由な身体を動かして、あれやこれ やろうとしているし、この様子だと100才まで 生きそうと思いました。 血流か、リンパ液かの関係でか、足がパンパンに浮腫んでしまうので、何年か前から3日に2日位夕方、母の足のマッサージを しに行っています。もちろん 私の いい加減マッサージですが、くるぶしから 膝にかけて、ぎゅっ~と力を入れて 押し上げていくと、硬くて太かった足が柔らかくなって、しんなりしてきます。新聞広告で 『長生きしたけりゃ、ふくらはぎを揉め』という本があり、よく売れているそうですが、まさにそれを、もう 何年も前から 母にやっていたのです。そんなこともあるのかとは思いますが、ただただ 姉の、母へのメンテナンスが良いのだと思います。 母にくらべて、叔母は 叔父が亡くなってから30年間、ひとりで暮らしてきた人ですから しっかりしています。それでも、生きるも 逝くも 私次第では~ ・・・と、ここ何年かを振り返ると思えてきます。今は 季節が良いので、夕食はお弁当を食べて、 朝食と昼食が摂れているかの手伝いだけですがこれから寒くなると、室温管理が必要ですので訪ねていく回数は 多くなりますが、それでも母にくらべて 10分の1ほどのお世話かも? 母との密着生活をしてみて、機嫌よく楽しそうにしている母を見ることができて 良かった~と思いました。この様子だと、ふたりとも100才はラクラクかな~と思えてきました~良かった~と思う反面、やれやれ・・・とも 【生きるって?】 今日から9日間、99才・96才の全面お世話
2014年10月30日
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79才で脳梗塞になって右半身が不自由な母と暮らしている姉に、『お互いに一週間位の旅行をしようよ』 と 提案し、私は7月に片道1000円、往復2000円の夜行バスで、出雲・松江方面に 5日間行ってきました。今朝、姉は9日間の予定でイギリスに行きました。 今日は 99才の叔母と96才の母の所を行ったり来たりして1日目が過ぎました。半日位は 外出可能ですので、午後は公民館の集まりに出かけてきました。あとの8日間もすぐに過ぎてしまうだろうなと思います。【生きるって?】 ひとり暮らしの叔母が99才になりました
2014年10月22日
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直近に住む ひとり暮らしの叔母が9月30日で99才になりました。昨年末も、今年の夏の初めにも、とても無理だろうと思いましたが何のこともなく息が続いて・・・今は、良い気候なので、様子を見にいく回数は減っています。手伝うことは 毎日、同じように やっていますがな~んか 優しい気持に なれなくて、やることが済むと、すぐに 帰ってきてしまっています。そんな自分が嫌だとは思うのですが・・・【生きるって?】 叔母のこと、ちょっとキツネにつままれたような感じ
2014年10月03日
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