高橋信次先生に学ぶ

高橋信次先生に学ぶ

正法と神道

正法と神道

- 神道の世界観 -


イ 古神道は生命を礼拝する

古神道は大自然そのものを神の神体として礼拝し、また大自然の法則に学ぶ宗教である。
だから万生万物はすべて神の生命なのであるから古神道は万生万物の生命を大事にするのである。
一物一草といえども粗末にしないのである。

日本人の「もったいない」という精神、言葉はここから生まれたのである。

終戦後「もったいない」といって物を大事にする習慣がなくなり、なんでも使い捨てになってきたのは残念である。
中味を売るよりも包装代まで売る過剰包装がふえてきた。
「省エネ時代」と騒がれるがそれには日本人が大昔から持って来た「もったいない」という心に帰ることである。

ロ 古神道は戦争を否定する

古神道は万生万物を大宇宙神霊の顕現として礼拝するのであるから古神道はもっとも純粋な平和思想である。
ところ万物各々処を得せしめるというのが日本の精神である。

日本人は「武」の精神を永く誤解してきた。

それは永い戦国時代を通過したせいであって本来の日本の「武」は、「文を止める」即ち相手が兵器を使ってこちらに危害を加えようとする場合、素手では対抗できないから、相手がこちらに危害を加えようとするのを止めさせるために、こちらも相手の力を押さえるための準備をしなければ、むざむざこちらが殺されることになるということなって、本来「武器」とはそういうものであって、相手を侵略したり攻撃したりするために持つのではないのである。

「神武天皇」という御名は、「神の心によって、相手が神の心に反して反抗し危害を加えようとするのであったら、それを言向け和して相手を神の心に随がわせる天皇」という意味である。
事実その通りになさったのである。

西洋の国々が武器を持ったのは他国を攻撃し侵略するためであったが、日本が武器を持ったのは平和を守るためであった。

家も戸締りをよくしてあると泥棒にも入られないが戸締りが悪いと入られてしまう。
人間は本来、神の子であるから本質的に悪人は一人もいないのであるが、しかし現実には、神の子の本質を知らずに隙があったら泥捧しようと考えている人間もいるし、また、それまではそうでなくても、戸締りがしてないのを見て、ふと出来心を起して盗みに入るという人もいるのであるから、そういう出来心を起させないためにも戸締りは厳重にする必要があるのである。

それと同じように武器を持たないと平気で他国に侵入する国がある以上、日本も自衛力は持たなければ仕方がないのである。

ハ 古神道は明るい心を喜ぶ、祭りの心

日本人は信仰というとすぐ暗いイメージを心に描く。
それは歪められた仏教のせいである。

神道では「祭り」を行事とする。
「祭り」というものは本来、神の心と自分の心をまつり合せて調和させるというためのものである。
神は大生命であり大光明であるから、その神の心に合せるのが「祭り」なのであるから、神に合せた人の心は明るく清らかでなければならない。
だから神杜の祭りは明るいのである。

元来、仏教も明るさを旨とするのである。
スリランカ、ビルマ、タイ等のお寺が明るいのはそのためである。

日本のお寺が暗いのは釈尊の教に反しているのである。

二、古神道は正しく直くということを尊ぶ

日本人は「おてんとさまが見てござる」といって自分一人であっても、神の心にそむかないようにと自分の行動を正しくしてきた。
自分独りで行く道を正しくする。

だから昔は借金しても借用証は書かなかった。
書くにしても「万一支払いできない場合は万座の中でお笑い下されたく候」ということですんだ。

幕末に日本に来た外国人が「日本は礼儀正しい紳士の国である」と本国に書き送ったのは古神道の精神が生きていたからである。

釈尊が説かれた自己確立の道、八正道と、古神道は同じである。

正しく見る、正しく思う、正しく語る、正しく仕事をする、正しく生活する、正しく精進する、正しく念ずる、正しく禅定するは、古神道の道でもある。

ホ 古神道には偶像がない

イで述べたように、古神道は宇宙大生命そのままを礼拝するのであるから、偶像がない。
釈尊も偶像を拝んではならないと説かれた。

古神道と仏法は本来一つのものである。

へ 古神道は自己確立を尊ぶ

「天知る、地知る、我知る」即ち「自己を直くする」というのが古神道で教えるところである。
「天地に恥じない」というのが日本人の根源である。

これは釈尊が説かれた自己確立の道と同じである。

「人が見ていなければ平気で悪いことをする」「証拠がなければ罪にならない」というのは西洋の思想である。

昔の日本人は「恥を知れ」ということで自分の行動を律してきた。

西洋の法律は「人間とは悪いことをするものなり」という性悪説に立っている。
だから、「いかにして悪いことをさせないようにするか」という考えで条文がつくられているのである。
そこからして「法律に書かれていないことは罪にならない」という考えが生じて、いかに巧妙に法の裏を潜るかということを考えるようにもなるのである。

西洋の経営は「人問は怠けもので働かないものである」という人問観が根本になっている。だから西洋式の簿記は、「どこかでごまかしをやらせないように厳重にチェツクする」という考えでつくられた。

日本は、「良心に恥ることはしない」ということで社会秩序は保たれてきたし、帳面も大福帳ですんできたのである。

ト 古神道は禊を尊ぶ

潔とは水で潔することではなくて、霊による浄化である。
神の心に立ちかえって反省をすることである。
神の心によって自分の心を洗い浄める即ち洗礼である。

水でいくら禊をしても心がきれいに浄化されなければなんにもならない。

釈尊も反省の大事さを説かれた。

チ 古神道は「産霊」を尊ぶ

西洋思想は「分割思想」であって「綜合」がない。
細かく分割する思想が科学思想を生み出して原子爆弾を生み出した。
西洋医学も人間の身体を細分化して治療しようというものである。
分割して支配するというのが西洋の政治思想である。

日本人はむすばれる、一つになることをありがたいと思う。
「むすび」は愛であり調和である。

古神道はすべて正法である。
原点にかえれば本来は一つである。

もともと、神が一つである以上、神を信ずるという信仰がいくつにも分かれる筈がない。
しかし、現在は分かれている。

なぜか、それは人問の恣意が入ったからである。

だから、宇宙大自然神を拝するということ、そのこと以外に神を信仰させた人は本当の信仰を説いた人ではないのである。



© Rakuten Group, Inc.
X

Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: