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男は男らしく、女は女らしくあることが一番美しいのである。友人間には、お互いに相手を尊敬するという敬愛の念がなければならない。それがあってこそ友人同士は親にも言えないようなことでも腹の中を打ち明けて秘密でも相談できるのである。夫婦は時には友達のようでなければいけないといっても、お互いに敬愛の念は失ってはならないのである。ギリシャでは「心を許しあった友一人を持つことは、一万人の親族があるよりも尊いことである」といわれてきた。夫婦はどんな秘密でも話し合えるようでなければならない。だがしかし、その秘密を話すことによって今までの調和が崩れ、遂に離婚となりかねないということになるのである。そこは智慧を働かせて言ってはならないのである。ある時、阿難がブッタに問うた。「大徳よ、善き友があり、善き仲間とともにあることは、聖なる道のなかばに相当するものとおもわれますが」とこのことについて、智慧第一といわれた舎利弗は「善き友を持つことは道のすべてである」といっている。それに対してブッタはこういっておられる。「善いかな、サーリプッタ、善いかな、サーリプッタ、まことに然り。善き友があり、善き仲間とともにあることは、まさに、この聖なる道のすべてである」ブッタは讃嘆してサーリプッタにいわれた。釈尊に一番信頼されていたのは舎利弗であった。だから、ある時は釈尊の代わりに舎利弗が説法されたのであった。善き友というのは、いわゆる友達としてなんでも話し合えるというのではなくて、お互いに人格を高めあえる友でなければならないのである。夫婦としていることがお互いに人格を傷つけあって、いささかも向上に役立たないというのであったらそれは悲しいことである。正法誌N038号1981年 10月号より抜粋恐るべし。ゴータマ・ブッダの智慧。最も古い仏典の精読から、ブッダの思索の成り立ちとその核心に切り込む。「ゴータマ・ブッダの仏教」の真実とは何かを明らかにする、画期的論考。
2009.10.30
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六・友人のような妻久しぶりにやってきた友人を見て喜ぶように、主人がそこにいることを喜び、生まれ尊く、貞淑であり、誠実である。このような妻は男にとって友人のような妻と呼ばれる。中国の孔子の言葉に「朋あり、遠方より来る、また楽しからずや」というのがある。久しく逢わなかった友が、何年ぶりで遠方から訪ねてきてくれた時の喜びは、どれ位うれしいか誰もが経験しておられることであろう。毎日毎日、決まった時間に出て行って決まった時間に帰ってくる夫であるけれども、夫が外へ出て、そうして帰ってきた時は、いつも友が遠方から訪ねてきてくれた時と同じような喜びを持って迎えるべきであるというのである。釈尊は人間としての高貴さを失ってはならないということで、わざわざここで「生まれ尊く」ということを教えていられる。夫と妻とは男女という性別を超えて、お互いに一個の人格を持った人間として、宗教、哲学、思想、芸術、科学、教育、経済等、いろいろな分野にわたって対等の立場で話し合わなければならないことがある。こういう場合は遠慮なしに質問をぶっつけ合って、お互いに人生のよき友として話し合わなければならない。そういう時でも貞淑さと誠実さは忘れてはならないというのである。正法誌N038号1981年 10月号より抜粋「何のために生きるのか」という哲学的命題から、生活上の悩みごとに至るまで、スリランカ仏教界の長老が、現代人のさまざまな問いに答え、やさしい語り口で万人に説く。読むほどに心やすらぐ、自分を生きるための問答集。
2009.10.24
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その素直なおっとりとした妻が早く死んでしまった。いろいろな女遍歴をしたあとでその人は二度目の妻を迎えた。その人はやはり名門の出で、昔の殿様の家のお姫様であった。料理裁縫から社交まで、あらゆる点で出来ないことは一つもないという実に優れた賢妻であった。天地が逆さまになっても、夫にご飯だけの弁当を持たしてやるようなことはないという実によく気がつく人であった。その二度目の妻を迎えたその人が、森田たまさんのところに来て言うには、「前の妻は、絹のようなあたたかさを通わせてくれる妻でした。やることなすことへまだらけでなんにもできない妻でしたが、その度に「すいません」「ごめんなさい」と自分の失敗を素直にみとめて謝ってくれるやさしい妻でした。しかし、それに反して今度の妻は、なんにも出来ないことはないという素晴らしい妻ですが、前の妻が絹のような心を持っていてくれたのにくらべて、今度のはズックの袋ですよ」あなた方は夫にとって、絹のような温かさを通わせるやさしい思いやりの深い妻なのか、それともあのズックみたいに、ごわごわした荒っぽいがさがさした感じを与える妻なのか、よく考えて見られることである。終戦後、女が強くなった。花嫁学校ができ、大学へ行く人も多くなった。だから昔の女の人よりはいろいろなことを知っているし、おいしい料理が作れるかもしれない。だから、森田たまさんはいわれるのである。「気性の勝った、どんな落ち度もない女というのは、他人からはほめられる存在であるかもしれないが、夫の愛情はそういう女からはうすれていくものであるらしい」と。そうして最後にこういわれるのである。「七十になろうが八十になろうと、女を忘れない人の心には、羽二重のようなすべすべした、きめのかまかな思いがひそんでいるのであって、お弁当にご飯ばかりをつめた新妻の、あのおっとりとした、素直な気持ちが一生つづいているようであってほしい。それは、人の中へしゃしゃり出て、なんでも牛耳るという社交夫人ではなく、といって家庭の中で、子供の勉強をはげます教育ママでもなく、格別、内助の功のある良妻でもなく、ただいつも涙もろく、人のあわれな話を身にしみて聞くというふつうのやさしい女、私はその心を絹の心と思うのである」と。正法誌N038号1981年 10月号より抜粋序章 ブッダの生きた幸福の境地(ブッダと資産家の対話/雨が降るなら降ればよい ほか)/第1章 「生き方」はどうすればわかる?(生きる方法を知らない/「生きている」証しは充実感 ほか)/第2章 正しい生き方をやってみる(正しい生き方って何だろう?/戒律とは「生き方」のこと ほか)/第3章 慈しみの心を育てる(犬や猫とのギブアンドテイク/人間同士のギブアンドテイク ほか)/第4章 人生に意味はあるのか?(目の前の「意味」を知る/なぜ、いま、これをしているの? ほか)
2009.10.09
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絹のこころ日本の絹の美しさを、日本の女の心としたい・・・新春の床がけに何か一ふでと頼まれて、あれやこれやと思いまどっているうちに、ふっとこんな言葉が浮かんだ。昔から、女の肌の美しさを羽二重にたとえることがよくあった。きめがこまかく、すべすべして、ひやりと冷たい感触の中に、やがてほのぼのと絹のあたたかみがかよってくる。弁当をもらって、会社へ行って開いてみたらご飯ばかりでおかずが入っていなかった。おむすびでも梅干しは入っている。ご飯ばかりの弁当は彼にとって初めての経験であった。腹が立つよりなんかおかしかった。家へ帰ってみると、若い妻はまぶたを赤く泣きはらして出てきた。「ごめんなさい、おかず入れるの忘れちゃったの」深窓に育ったお嬢さんで、今まで一度も炊事をしたことがなく、弁当というものをつくったことがなかった。主人が出勤した後で、戸棚の中におかずを発見した。それで彼女はおひるのご飯を、たった一人で、おかずなしで食べたのである。「ごはんだけ食べるのってとてもつらいものね、お湯をかけて流し込んだけど、それでものどにつかえるような気がして一膳がやっとだったわ」自分の落ち度を素直に認めて、自分の罰を自分に課した、この新妻のやさしくも厳しい心情には、どんな夫でも心打たれるであろう。彼女はその後も、しばしば間の抜けたようなことをしたけれども夫の愛情は深まっていくばかりであった。その新妻が「夫だけご飯だけを食べさせるのは申し訳ない」と思って、自分もご飯だけを食べたという、その夫の思いやる心のやさしさ、失敗したことに対して素直にわびるというその心の素直さ、それが夫の心を感動させるのである。頭のいい女の人は、この新妻を気の利かない馬鹿な女と思うであろう。また、夫は実際はおかずを買ってきて食べたのかもしれない。そうであればあっただけに、夕方家に帰ってきて、いきなり玄関でそういってわびられると、尚一層、妻を愛ほしく、こんなにまで自分のことを思ってくれるこの妻を絶対に不幸にしてはならない。きっと幸せにせずにはおかないと思ったことであろう。正法誌N038号1981年 10月号より抜粋2500年続いてきたシンプルな瞑想法で、悩みや苦しみ、不安が驚くほど消えていきます。ブッダが悟ったヴィッパサナー瞑想を日本人に合った形で実践的に紹介。初心者~上級者まで、瞑想がマスターできる本格DVD付。
2009.09.26
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天上界へ行ける良い妻五.姉妹のような妻たとえば妹が姉を尊敬するように、自分の主人を尊敬し、恥じらいあり、夫の従順である。このような妻は男にとって妹のような妻と呼ばれる。小さい頃から気心を知り合って、長所も短所もよく知り、親からは教えられないようなことであっても、その時にいろいろなことを教え、妹が成功した時にはそれをほめ、失敗した時にはよく慰め励まして今度はこうすればいいのだということをこまごまとよく教えてやるのが姉である。だから、妹はそのような姉を尊敬する。だから妻はあたかも妹が姉に対するような気持ちで夫を尊敬し、わからないことがあったらよく聞いてどうすれば一番よいかを確かめ、恥じらいを持って夫に従順である妻もまた天上界に行くというのである。妹が姉に慕い寄るように、妻が夫に慕い寄ってくれたら、夫はその妻の肩を抱きしめて愛ほしむであろうし、姉が妹の寝姿を愛ほしんで、肩が出ていたらそっと布団をかけてやるように夫もまた妻にそうするであろう。夫が妻を本当に好きだと思い、愛ほしいと思うのは、妻が妹のような妻になった時である。恥じらいを見せて「ねぇ、教えてください」と妻がいう時、夫はこまごまと手を取り足を取ってよく教えてやるであろう。夫は自分になんでも聞いてくれる妻を愛ほしいと思うものである。それに反して「ええ、私も一通りは花嫁修業もしてきたんですからね、知ってることはみな知ってますよ」と夫の相談もせず、なんでも一人でやってのける妻には、夫は恐れを感じて愛ほしいとは思わないのである。男にとって妹のような妻がどんなにありがたく、愛ほしいものであるか、名随筆家で参議院議員であった日本の教育の刷新にも力を尽くされた森田たまさんの話を紹介しよう。正法誌N038号1981年 10月号より抜粋生きることについて考えたブッダの教えは、数千年が経っても常に新しい。妄想し、依存し、怒り、さまざまないのちから布施を受けながら返していない。そんな生き方をしているから幸福にならないのだ。ブッダの教えを学ぶことで、幸福への道がわかるようになる。スリランカ仏教界の長老が、日常に役立つブッダの教えを一日一話形式で説く。
2009.09.16
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天上界へ行ける良い妻四.母のような妻常に夫のためを思い、母が子に対するように、夫とその財を守る母のような妻。妻は夫にとってよき母とならなければならないということは実は釈尊が、天上界へ行ける妻の第一として言われたことなのであり、そうであることが最も正しいことなのである。子は母に慕い寄る。夫もまた妻なる母に慕い寄る。尊き良き母とは自分に慕い寄る子供の愛を自分の上に、母の姿を求めて慕い寄る夫のその愛を、わが一身の上にとどめて、わが身の幸せを喜ぶことだけではなくして、その愛を神の愛にまで昇華することである。それはどうすることであるかというと妻は母は常に心の中に神に感謝する心を持ち、自分が妻として母としてあることができるのは、全て神様のお蔭であると感謝する敬虔な心を持つことである。現在の教会キリスト教には「天にましますわれらの父よ」という祈りはあるが「大地なる母に感謝する」という祈りがない。ところが原始キリスト教にはそれがあるというのである。大地は全ての汚物塵埃を受け入れてそれらをすべて生かす力に還元するのである。人間が大地の上に生き、大地に生えているものを食べていながらその大地の恩を忘れてしまったところに宗教の堕落が始まった。母となった妻は大地のようにならなければいけない。夫のことも子供のことも、良いこと、悪いことすべてを受け入れてそれを浄化し、それぞれにふさわしい花として咲かせなければいけないのである。女が、妻が、偉大となるのは母となった時であり、その時、全ての男性は母なる妻の前にひざまづくのである。全世界の全ての妻が母なる妻となれば男達は争うことをやめ、また非行暴力に走る子供達もいなくなる。国連などを始め、世界平和の会議が、世界平和は男だけの力で出来るように考えて運営されているのは間違いである。女もそうであろうが、母を想う時、男達の心の中からは争いが消えて心は安らかとなるのである。玉耶経として古くから釈尊のこの教えが日本にも伝わってきていたのに、偶像崇拝の他力信仰を説く坊さんたちは、お経として棒読みにしたことはあったであろうが、誰もこの真の意味を知ろうとはしなかった。正法誌N038号1981年 10月号より抜粋原始仏典の中にはブッダの生涯はほとんど記されていない。だが彼の死は、信徒にとって永久に忘れえぬ出来事だった。パーリ語本『大パリニッバーナ経』の中に、ブッダの死とその前後の事件が詠歎をこめて語られている。本書はこのパーリ語本を底本とし、サンスクリット本、漢訳本を参照して邦訳。巻末に周到詳細な注を付した。
2009.09.04
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キリスト教を信じている白人が、極めて残酷なことをする原因は、性を罪悪視しているところにある。アメリカや日本の青少年の非行の主因は、性に対する正しい指導が行われていないところにもある。釈尊が説かれたのは「善因善果、悪因悪果」の法であった。「良いことをすれば良いことが来るし、悪いことをすれば悪いことがくる」という心を人間は皆持っている。性についての悩みを持っている青少年は、つねに「自分は罪を犯している」と心の中で思うのである。「こんな罪を持っている自分は、とうてい幸福になることは出来ない」とそう思う。このように信じてしまった青少年は、どうせ幸福になれないのならという自暴自棄の心によって非行を繰り返すということになる。性に対する間違った考え方も、また性だけが人生であるかのような考え方も間違いであるし、夫を性的に拒否して夫の愛を奪っている盗賊のような妻は、夫を幸福にできないばかりか、自分も幸福になれないのである。三.支配者に似た妻自ら、ぜいたくで怠惰で粗暴で口やかましく、勤勉な夫を制圧支配するのが、支配者に似た妻である。昔は子供にはきちんとした身なりをさせて、自分は質素な身なりをしているという女性が多かった。家の中をいつもきれいに掃除しているとか、夫や子供においしいものを食べさせようと台所に立つ妻はそんないい服装はしていられない。なんでも上手にうまくやれる自信のある人は口数が少ない。口やかましい妻には夫は耐えられないものである。旧約聖書の中に「相争う女と共に室にいるよりも屋根の隅にいたほうがよい」という言葉があるが、昔から口やかましい女は絶えない者と見える。口やかましい妻と対等に言い合うことは馬鹿らしいから、勤勉で賢明な夫は何にも言わなくなる。ところが口やかましい妻は、夫が何にも言わないと言って、なお一層やかましくいうのである。ぜいたくもせず怠惰でも粗暴でもない妻が、口やかましく言い出した場合は、なにかはっきりとは口には言えないが要求するものがある場合であるから、夫はよく妻の思いを察してやらなければいけないので、ぜいたくで怠惰で粗暴であって、口やかましい妻と混同してはならない。夫が望んでいる妻の条件は、自分の少ない収入であっても心から喜んで家事をやってくれ、家庭を明るくしてくれることである。正法誌N038号1981年 10月号より抜粋数多い仏教書のうちで最も古い聖典。後世の仏典に見られる煩瑣な教理は少しもなく、人間として正しく生きる道が対話の中で具体的に語られる。初訳より26年、訳文はいっそう読み易くなり、積年の研究成果が訳注に盛られ、読解の助となるとともに、他仏典との関連、さらには比較文化論にも筆が及び興味は尽きない。
2009.08.28
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性は神聖視すべきである。不潔だと思ってはならない。性は、子孫の発展のために神が与えられた法であり、性がなければ人類の生存と発展はないのである。ところが、神から与えられた性をこれまでの宗教は罪悪視してきた。確かに性を罪悪視しなければならない面もある。だから「犯罪の陰に女あり」といわれる。しかし、その反面に「その女がいたから男が偉大な仕事ができた」というのも事実である。すべて物事は一方的にのみみてはいけない。偏らない中道の立場で見る、考えるということが大事である。性は神聖なものであるからこそ、拒否してもならないし放縦になってもならない。今から百年位前までは西洋の医者は、ヒステリーは子宮が怒る病気だといっていたのである。充血したままで放置されれば子宮が欲求不満を起こして、それが頭にきてヒステリーを起こすことは十分に考えられる。クリスチャンの人達にガンや冷え性、不感症が多いのは、教会で「性は罪悪だ」と説いているために極端に性に対して不潔感、潔癖感をもってしまうからである。人間は元来、神の子であるから「善なる行為」はしても「悪の行為」はしてはならないという心を持っている。性を罪悪だと信じてしまうと性を抑圧し、性から遠ざかろうとする。しかし神は性を通して子孫が繁栄するように人間の体をつくっていられるから子孫をもうけようとする。また、愛情を性によって確認しようとする。性を罪悪だと信じた人は性によって愛を完成しようという心と性を罪悪だとする心と常に二つの心によって悩み、性を罪悪だと信じているからその人の心の中からは常に罪の意識が消えない。キリスト教が信仰は常に神と悪魔との闘いであるというのは、その根本は性を罪悪視しているところから生ずる。性が罪悪であるのであったら第一に神が罪悪を犯すように人間をつくられるはずがないし、また釈尊やキリストが男女夫婦の道を説かれるはずがない。正法誌N038号1981年 10月号より抜粋『法句経』の名で知られる「真理のことば」(ダンマパダ)も、併収の「感興のことば」(ウダーナヴァルガ)も、ブッダの教えを集めたもので、人間そのものへの深い反省や生活の指針が風格ある簡潔な句に表わされている。「ウダーナヴァルガ」とは、ブッダが感興をおぼえた時、ふと口にした言葉集というほどの意味で、本訳は世界でも初めての完訳。
2009.08.21
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夫婦の調和というものは、昼間の生活だけでなく、夜の性生活の調和まで含めて考えなければならないのであるということであった。昼間は夫婦がどんなに素晴らしく愛し合い調和していたとしても、夜の性生活が一致しない場合、妻は欲求不満にさせられ、その都度、局部は充血し、鬱血しっ放しにさせられて、子宮がん、子宮筋腫、あるいは乳がん等にもなりやすいというのである。独身の人は、その人の思考が充血させるのである。常に妻が夫を殺し、夫から奪ってばかりいると、夫は生命力が弱くなってくるし、またそういう妻に対しては夫は恐れを感じているから、性生活の一致を図ることは難しくなってくる。心のどこかにそういう妻から逃げ出したいという気持ちがあるから、自分だけ済ませてしまって妻のことは考えないということになりやすい。だから夫を殺し、夫から奪ってばかりいる妻はやがて子宮がん等になって自分が苦しむということになる。こうなるとやはり因果は廻るということになるのであるから、ある年齢になって子宮がんや子宮筋腫で苦しみたくない人は、夫を大事にし、夫を生かし、夫に愛を与えて夫の生命力を豊かにすることである。正法誌N038号1981年 10月号より抜粋【目次】(「BOOK」データベースより)第1章 「悩み」の核心(すべての悩みの原因は自分の“心”にある/認識は妄想に満ちている ほか)/第2章 よりよく生きる(人生に意味などない/将来はわからないのが当然 ほか)/第3章 人のつながり(人間関係は、うまくいかないのが当たり前/相手にすべき人とそうでない人がある ほか)/第4章 働くということ(足を引っ張る人はなくならない/目標を一分単位に分けてみる ほか)/第5章 幸せへの道(「答えのない問題」には悩まない/「幸せ」はモノから離れることで生まれる ほか)
2009.08.10
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こうした性に対する欲求不満を持っている男性がふえてきたのは、それはその妻が夫の性を奪っているからである。奪うのは何も財産だけのことではない。夫の性の自由もをも奪っている。妻に金と性の自由を奪われた夫は、単なる働き蜂にしか過ぎない。昔みたいな英雄豪傑型の段差映画いなくなったのは、こうした男女夫婦のあり方にも問題がある。妻によって去勢されてしまった夫は生命力が枯渇して、職場で働く意欲も湧かなければ、妻に性的満足も与えられなくなってしまう。そのことがまた妻をイライラさせて、妻は夫に不満を持つことになる。なんでも奪うことはいけない。奪うことによってよくなるものはこの世に一つもない。この世のすべてのものは、すべて与えることによってのみよくなるように造られているのである。六月二日、アニル教授のJFFJの事務局長中島巌氏の紹介で、不老長生術の指導をしておられる井田雅博師とお会いした。井田師は小さい時から目が悪く、そのため三十六年間苦労され、松竹の香港支店長をしていられるときに中国の道教のお坊さんから、その不老長生術を習われたというのであるが、その不老長生術が、死海のほとりから出た原始キリスト教の聖書の中にも同じことが書かれてあるということから興味を持ち、現在はアメリカに帰化して、原始キリスト教エッセネ派の宣教師として、アメリカの各大学で医師や医学生達にも健康法を講義していられる方である。この井田師も、現在の教会キリスト教はパウロ教であって本当のキリストの教えではないということを力説していられた。井田師がアメリカの大学で医者にも講義をしていられるので、医者からも、また一般の人、特に婦人のガン患者からの個人相談も多いというのである。婦人の場合は子宮ガン、子宮筋腫が多いというのである。どうして子宮ガンや子宮筋腫が多いのであるか、原始キリスト教典に書かれているキリストが説いたといわれる健康法と、中国の道教の坊さんから教えられた不老長生術とを綜合し、それに個人相談の体験から得られた結論は、夫婦の性生活の不一致にあるということであった。正法誌N038号1981年 10月号より抜粋1993年、屋久島の地で霊的自覚を得てのち、心身の癒しと神理正法流布の講演活動を続ける著者による、目覚めと安らぎを得るための愛の技法およびひかりの世紀を生き抜くためのメッセージ集。
2009.08.01
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七種類の妻のあり方祇園精舎を寄進したスプーティの息子の嫁のスジャータは自分の実家の家柄を誇り、自分の美貌を誇り、また母に対しても夫に対しても何ら仕えることをせず、礼儀もわきまえず、釈尊が家に入って来られても挨拶もしなかった。このスジャータに説かれたことが玉耶経として伝えられているのである。あなた方はどのような妻であるのかよく反省してみられるべきである。地獄界へおちる悪い妻一、殺人者に等しい妻他の男に執心して、自分の夫を軽蔑し、悪心を持って夫を殺そうと思っている殺人者に等しい妻(これはなにも直接夫を殺してしまう妻だけのことをいっているのではない。「こんな夫と結婚するのではなかった」と心の中で夫以外の男性を思い、夫がまじめに働こうとする生命力をも傷つけ損なう妻のこともいっているのである。世の中には、何べん結婚しても夫を死なせる妻、夫を失敗させる妻という人がある。先妻のときはなにをやっても失敗していたのが、後妻をもらったら急に儲けだしたということはよくある話である)二、盗賊のような妻夫が働いて獲得した財を、すべて奪い取ろうとする盗賊のような妻(最近は給料もボーナスも全部銀行振り込みで夫の収入は全部妻に抑えられてしまうようになった)最近は男が弱くなったとよくいわれるが、原因はこの銀行振り込みにもあるようである。男は何をするにも、いちいち妻の御機嫌を取らないと金を渡してもらえないのである。夫が故郷の両親に送金したいが妻が通帳を握っているので親孝行が出来ないと嘆いていた人がいた。その代わりにその妻は自分の実家とか身内にはどんどん金や送り物をするのだそうである。妻に金を握られ、その上、性生活まで拒否されたら夫はどうすればよいのか、最近ノイローゼになる夫が増えてきているのは、なにも仕事上のことだけではないことにも注意すべきである。正法誌N038号1981年 10月号より抜粋悩み多い日常生活を心豊かに、明るく、のびのびとおくるための智慧がいっぱいつまっています!静かな感動を呼ぶ話題のシリーズ第5弾。
2009.07.30
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三昧 園頭 広周宇宙が自分であり自分が宇宙である宇宙とは自心の展開であり自心の中に宇宙がある三昧とは宇宙と自分が一体であることの自覚である。正法誌N038号1981年 10月号より抜粋誰でも、自分自身のなかに良心を持っている。そして、その良心に気づくことさえできれば、心豊かな日々をおくることができる。心豊かな日々は充実の人生を約束してくれる。あなたが、あなたの中に必ずある「良心」を発見できるよう、お手伝いいたします。
2009.07.28
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