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そうして静かになったと思っていましたら大変なことになってしまったのでございます。今思えば、私が夫の言葉を制したり、愚痴を聞かせたり、甘やかし叱らなかったり、また私は奉仕するという事について「奉仕は本来、国が行うべきものを国民に押し着せることによって国の責任を回避するものである」という事を左翼政党の指導者が教えていましたのでそうだと思っていましたから、街頭で寄付を集める人達がいても寄付は奉仕と思っていましたので奉仕するという事はばからしいと思っていました。そして私は人を見下していましたから、奉仕する人をバカだと思っていました。私は感謝するという事も知りませんでした。いつも不満を持っていました。それら一連の誤った心の状態で、その子に接していたのでした。そんな心が、気の優しかった子供に直接伝わっていたのでしょう。言葉で人の事をバカだと言わなかったにしろ、そういう心は普通でも感じ取れるものですから。夫に対する心の状態、人様にたいする思いの状態等々、たくさんの誤りに気がつくのでした。反省していて、その子に対して涙が出るのでした。すまんことをしてしまった。私のために我が子が犠牲になっているのでした。私はその子に正法を伝え、自分の過ちを話しました。でも、私の言う事も聞かなくなっていました。反省のたびに私は泣いています。見る夢も怖いものでした。しかし、その子は夫に詫びました。仕事をするというのです。就職準備のためのお金を渡し、送り出しました。正法を知ってからというものは、日に日に家の中が明るくなり、過ぎ去ったあのどん底の日々が嘘のようです。人間、幸福になるも、不幸になるも心の中にあるということを身を待って知りました。誠に恥ずかしい次第でございますけれど、老いて初めて人生の誠を知りました。まだまだ油断は出来ませんが、正法を信じ、反省を行い、心、魂を磨くことを我が子に教える責任があります。これからも頑張ってまいります。どうぞ皆様の中に私と同じ苦しみを持っていられる方がおられましたら、私の恥ずかしい体験でございますが、参考になるならと書きました。正法を信じ、反省を行っていかれますならば必ず神様がお導きなさってくださいます。どうか皆様、お幸せになってください。正法誌N040号1981年 12月号より抜粋仏典が時空を超えて、現代人の心の悩みに呼びかけてやまないのはなぜか。本書は碩学が経済倫理、政治倫理、人生の指針など仏教の社会思想の全体像をわかりやすく説き、混迷する現代の緊急の課題に仏教の教えはどう応えるかを解明しようとした「仏典のエッセンス」である。目次 : 仏法と人間―プロローグ(無常変遷のうちに道理を見る/ 道理を見るとは自己を実現すること)/ 1 経済的行為の意義―仏教と経済倫理(禁欲的精励の精神/ 施与の道徳 ほか)/ 2 政治に対する批判―仏教と政治倫理(現代の荒廃を予言する/ 「サンガ」の建設と理想的国家 ほか)/ 3 理想社会をめざして―人生の指針(慈悲と奉仕のこころ/ 万人の友となる ほか)【送料無料】 仏典のことば 現代に呼びかける知慧 岩波現代文庫 / 中村元 ナカムラハジメ 【文庫】価格:1,155円(税込、送料込)
2012.02.11
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私達は闇のどん底につき落とされ、ふるえ、おののき、なんとかこの難を逃れ、救われねばとの一念でした。ところが捨てる神あれば救う神ありということでしょうか、この哀れな親子を救ってくれた神様がありましたのです。それが正法でございます。この私の家庭内の幸、不幸は家庭の者たちの一人ひとりの心にあるということを知りました。他力本願では決して自分は救われない事を教えていただき、昔の自分の気持ちがどのような状態なのか振り返ってみました。軍隊出身の夫と結婚し、几帳面で躾が厳しく、しかも何事でも辛抱できるという夫に対する不平不満や愚痴でいっぱいでした。たとえば、私は必要だと思う品物は借金してでも買わなければ気がすまず、夫からよく叱られたものでした。いろいろな事でぜいたくだ、辛抱しろと言われ、それらの愚痴をよくその子に話していました。気が優しい子だったのです。そのために、この子が女の子だったら良かったのにと思っていました。その子が幼いころは女の子のように赤い着物を着せていたものでした。また、私は貧乏な生活がいやでしたので、その子をエリートにしたいと思い、いつも、うんと勉強して頭のいい人になるように言っていました。この子にはなんでも与えたいと思っていたし、少々間違った事や、無理を言っても、言いなりになり、叱ることをあまりせず、ほめることばかりしていました。夫が叱ると私は「あなたは厳しすぎる、今の子は昔と違いあまり厳しくしたらいけないそうだ」と言って無理やり夫の口を封じていました。そのうちに夫に対して乱暴な言葉を使うようになりました。そんな時ももう少し辛抱すれば立派な社会人になってくれるから我慢するように言っていました。黙ってしまう夫に対して罵声をあびせ、わめき散らし、物を壊すようになり、とうとう気がついた時には、夫が叱っても、長男が叱っても駄目な状態になっていました。叱るとなお悪く、近所の手前もあり、言い分を聞き要求されるままになるのでした。家を新築しましたが、勉強を一人でするという事で一人借家で別居生活をし、食事や他の一切の面倒を私に約束させました。【送料無料】 ブッダ悪魔との対話 岩波文庫 / 中村元 ナカムラハジメ 【文庫】価格:945円(税込、送料込)
2012.01.25
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体験 子に詫びる母の懺悔私は自分の誤った心の状態で子供と接していたためにわがままな息子を育ててしまい、その子に怯え、泣き、悩む日々を送っていました。正法に御縁を頂き、その子にどういう気持ちで接してきていたのか振り返ることを教えていただきました。会社勤務三十数年、定年を迎えた主人と長男夫婦とが力を合わせて小さな住宅を設け、かわいい孫たちとともに幸せな毎日を送っていた矢先、家庭に混乱が起こりました。勉強をしたいという事で仕事にもつかず別居生活をしていた息子が「勉強が出来なくなったのは、おまえ達のせいだ、おれの人生は狂ってしまった。一生、俺の面倒を見ろ」と言って、お金やいろいろなことを要求し、罵声をあびせ、品物をたたき壊し、家の中で火を燃やし、嫁に暴力を振るい、一晩中電話で脅し、家を出入りするのでした。とうとう言う事を聞かなければ孫を人質に取るとまでいうありさまでした。それで病院に連れて行き医師の診断を受けましたが、病気ではないといわれ、別の病院では、もう手遅れだといわれたり、忙しさで私の話もろくに聞いてもらえませんでした。また町の信仰者の話では、私たちは因縁が深いから神信仰をしなさいとのことで、いわれるとおりやってみましたけれど一向に良くならず悪くなるばかりでした。私たちは建てて間もない家、屋敷を売り払い、別れ別れの生活をしようとまで話し合いました。しかし嫁が「子供達はここにやっと慣れ、友達と楽しく遊んでいる。子供たちがかわいそう、親達さえ我慢すれば」という言葉で思いとどまりました。目次 : 第1章 温かなこころ(仏像のこころ/ 灯をともすもの ほか)/ 第2章 安らぎのこころ(悟りについて/ 仏教の四つの真理 ほか)/ 第3章 東洋のこころ(アジアに広まった華厳経/ 縁起ということ―華厳の哲学 ほか)/ 第4章 道を求めるこころ(こころを失なった日本人/ 美しく清らかなもの ほか)【送料無料】 温かなこころ 東洋の理想 新装版 / 中村元 ナカムラハジメ 【単行本】価格:1,523円(税込、送料込)
2012.01.14
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I君の体験を聞いていて、I君も素晴らしいと思ったが、そのお母さんはもっと素晴らしいと思った。親は自分ではどんなに悪いと思っていても、自分の子供から反省せよと言われたらなかなか反省できるものではない。子供のくせに生意気いうなとか、親に向かって何をいうか、という気になりがちなものである。だがI君のお母さんは素直に反省されたのである。このお母さんの反省は、お父さんにとってもどんなにありがたいものであったろう。送られてきたのが次の手紙である。反省を文章にするとなるとなかなか書けないという人が多いものであるが、反省文を出して下さったお母さんに感謝しなければならない。このお母さんの反省文を読んで、また救われていく人が必ずあることを信ずるからである。書いてきたままをそのまま載せることにした。園頭先生へ正法に縁を得て数々の体験を得ています。これもひとえに高橋信次先生、園頭先生、藤本先生、その他多くの先輩の皆様が正法を守られてきたからと深く感謝いたしております。父は以前のように元気のある父に戻り、母も日に日に明るさを取り戻し、私の妻とも折り合いが良くなり、私は左翼運動の誤りを知り、子供に対する心構えも理解され正法がなかったら、どうなっていただろうかと、ただただ感謝あるのみです。先生にまとめるように言われまして、一所懸命書きました。なかなか思うようにはかどらず、とうとう今日まで伸びてしまいました。私の体験文より、母の反省文の方がよいということを藤本先生に教えられ母に話したましたところ、恥かしいけど、皆様の参考になるならばと母も一所懸命書いたのですが、書ききらないという事で、母が話すことを私が代筆致しました。母に読んでもらい、この通り先生に出す事を伝えました。本当にありがとうございました。正法誌N040号1981年 12月号より抜粋仏教経典を片端から読破するのはあまりに大変だが、重要な教えだけでも知りたい―本書は、そうした切実な希望にこたえるものである。なかでも、釈尊の教えをもっとも忠実に伝えるとされる、「スッタニパータ」「サンユッタニカーャ」「大パリニッバーナ経」など、原始仏教の経典の数々。それらを、多くの原典訳でも知られる仏教思想学の大家が、これ以上なく平明な注釈で解く。テレビ・ラジオ連続講義を中心に歴史的・体系的にまとめたシリーズから、『原始仏典1釈尊の生涯』『原始仏典2人生の指針』をあわせた一冊。目次 : 1 釈尊の生涯(原始仏典へのいとぐち/ 誕生と求道―『スッタニパータ』(1)/ 悪魔の誘惑―『サンユッタ・ニカーヤ』(1) ほか)/ 2 人生の指針(人生の指針(ブッダのことば―『スッタニパータ』(2)/ 真理のことば―『ダンマパダ』/ 生きる心がまえ―『サンユッタ・ニカーヤ』(2) ほか)/ 後世における発展(アショーカ王のことば―『岩石詔勅』/ ギリシア思想との対決―『ミリンダ王の問い』))【送料無料】 原始仏典 ちくま学芸文庫 / 中村元 ナカムラハジメ 【文庫】価格:1,365円(税込、送料込)
2011.12.25
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正法とは心が変わることによって人生が幸福になる道であるI君は中学を卒業すると、すぐ東京へ就職した。家庭に事情もあって二十六歳の時、郷里に帰り、幸いに市役所に就職でき、勉強をしたいと夜間高校へ入学した。先生の中に左翼の先生がいて、暇があると左翼思想を話し、「君が中学だけしか出さなかったのは差別だ」と、世の中のこと全てを差別と言葉で規定して、現在の社会体制を破壊しなければ幸福はこないといわれ、最初はそうでないと思っていたが次第に左翼思想にかぶれ、市役所の労組の幹部になって赤旗を振るようになった。I君には、もう十年もぶらぶらして家で暴力を振るう弟がいた。ある日、家に帰ると、弟が妻に馬乗りになって鉄棒で殺すとわめいていた。「それまで父母に暴力を振るい家財などは壊していたが、自分の妻に暴力を振るうことはなかったのに、妻にまで暴力を振るっている。妻は恐怖して一緒に住みたくないという。家を探したが適当な家がなかった。また、いつも弟の暴力におびえている父母をそのまま家に置いて、自分達だけが出て行くのも父母に申しわけないという思いがして、こういう弟を持ったのも何かの因果であろうと妻を納得させ、もういつ殺されても仕方ないと悲しくあきらめて毎日をすごしていた。ある日、市役所の同僚から、高橋信次先生著の「心の発見」と「悪霊」の二冊を読んでみたらと貸してもらった。「悪霊」に書いてあることと弟の状態がいっしょであり、そうなるのは家庭内の環境が悪いからだということが分かり、また夜間高校の先生が教えてくれた左翼思想も誤りであることが分かった。ある日、母に弟があんなになったのは、母ちゃんの育て方が間違っていたんではないか、ということを話した。最初はそうでないと言い張っていた母が、だんだん心が変わっていくようであった。ある日、弟の前に父と母と私と妻とが座った。そうして母が泣きながらこれまでのことを父にも弟にも詫びた。最初は「私だけがどうしてみんなに詫びなければならないのか」といっていた母が、素直に詫びてくれたのが私は一番ありがたかった。弟は頭を垂れて顔色一つ動かさずに聞いていた。母は父と結婚して以来のことからすべて反省した。泣きながら反省を皆の前でいっていた母が、反省が終わると母の顔は今まで見たことのないおだやかな美しい顔になってしまった。弟は何も言わずに部屋へ引っ込んだ。するだけのことはしてもらったということはあったが、後がどうなっていくのか、いささか不安であったがそこは神様に委せるしかほかに道はなかった。その翌朝、弟が母に「母ちゃん、金をくれ、福岡に仕事を探しに行く」といった。あまりにも急な変わりようにみんなびっくりした。奇跡が起こったのであった。十年間狂ったように暴力を振るい続けてきた弟が、家族全部の反省によって変わってしまった。弟はその後ずっと福岡に働きに行っている」という体験談であった。正法誌N040号1981年 12月号より抜粋「正しく見、正しく思い、正しく語り、正しく仕事をなし、正しく生活し、正しく道に精進し、正しく念じ、正しく定に入る」が八正道の実践の生活です。本書では、ブッタが説いた八正道に照明を当て、偉大な釈尊の教えを中心に、仏教的立場から説明しました。八正道のこころ 改訂版価格:893円(税込、送料別)
2011.12.10
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マーティン・ハインスタイン博士は、カリフォルニア州バークレーで二五二人の子供達を研究して、冷淡な母親が母乳を飲ませて育てた子供よりも、心の暖かい母親がミルクで育てた子供の方が発達がよいという発表をしている。だから、母親が暖かい心を持てばミルクでもよいということになるが、しかし、一番よいのは暖かい心を持った母親が母乳で育てることである。授乳中の母親の心のあり方が、将来子供を健康にするか病気にするかを決定するのであるから、母親はまず自分の心をつくることが第一である。子供を生めるのは若い間だけであるから、夫やその家族との間はまだ完全に調和しきっていないという時期である。だから、いろいろ腹の立つことや泣きたくなることもあるかもしれない。それは仕方ないことであるが、だからといって、その怒りや悲しみをストレートにそのまま赤ちゃんにぶつけないでもらいたい。そういうことは赤ちゃんには関係のない親同士の問題なのであるから、赤ちゃんの将来のために、いや、そうすることがその赤ちゃんが大きくなってから、その子供のために苦労することのないように、安らかな明るい心になって赤ちゃんを抱いてもらいたい。そうすれば世界は健康な明るい積極的な思いやりの深い調和された若者だけでみたされることになる。 (つづく)正法誌N040号1981年 12月号より抜粋どうすることが自らの真理の強運、幸福につながるのか? 明日が見えない時代に、自分の人生を充実させ、自分を向上させるヒント、幸福になるための心のあり方、考え方を説く。1995年刊「人間向上の秘訣」の改題改訂。【送料無料】 幸せをつかむとっておきのヒント / 町田達是 【単行本】価格:1,680円(税込、送料込)
2011.12.04
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C・ハーデー両博士がシカゴの子供達三八三人について行った調査では、ミルクで育った子供よりも、母乳で育った子供の方が肉体的にも知的方面でもすぐれている。乳児は少なくとも十二ヶ月間は母乳で育てられるべきである。早く離乳させられた子供は成人になってから生殖作用やある種の病気に対して抵抗力が弱い。生後六カ月目頃から乳の代わりに固形食を少しづつ与えて、固形食が乳の代わりをするようになった段階で離乳する方がよいと言っている。ニュージーランドの牛革商人は、母牛の乳で育った仔牛の皮はムラがなく、なめらかでキメが細かいが、人口乳で育てられた仔牛の皮はザラザラしてムラがあるからすぐわかるといっているという。園頭先生は母が妹や弟達を育てたときのことをよく記憶しているが、歯が一本生えてきたら、もう固形物を与えてよいということなのだといってご飯を一粒食べさせ、味噌汁を匙で飲ませていた。歯が二本になると、ご飯粒を二粒から五粒位食べさせていた。T博士の歯の治療は素晴らしかった。お陰で歯の心配はなくなってきた。T博士のところには中国や韓国の若い歯科医達も研究に来ているという。一時アメリカでは、泣いた時は赤ん坊を抱き上げないこと、時間を決めて乳を与えてあまりしばしば手をふれて甘やかさないこと、母乳でも人工栄養でもどっちでも同じで、とにかく栄養をあたえればいいのであるという育児法が流行した。その結果、弱い子供が育つようになった。それでその反対に、子供が元気に育つためには、手をふれること、抱いて歩くこと、愛撫して抱きしめること、ミルクを飲ませる時でも甘い言葉をかけてやることといった指導をする医者が出てきて、それまで小児の死亡率が三十~三十五%だったのが十%以下に減ってきた。抱いたり愛撫したりすることによって母親や大人達の思考や感情が伝わっていく。母親との人間的な伝達関係がうまくゆかないと、大人になって高血圧体質になったり、消化器官に影響して、潰瘍や大腸炎などをやり、また心因性の心臓血管の病気になり、呼吸器系ではぜんそくという形になり、また、いろいろな皮膚疾患をひきおこすという発表をしている医者もいる。正法誌N040号1981年 12月号より抜粋【内容情報】(「BOOK」データベースより)今、子どもたちに対する「心の教育」の必要性がさかんに唱えられている。あなたは、子どもたちに「心の教育」ができますか。【目次】(「BOOK」データベースより)1 子どもの非行の原因は大人にある/2 文部大臣の緊急アピールを読んで/3 ほんとうの「心の教育」/4 未来を創る「心の教育」/5 「心の教育」ひとくち言魂【送料無料】ほんとうの心の教育価格:1,050円(税込、送料別)
2011.11.27
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歯が少しぐらぐらしていて困ったなと思っていたら、たまたま大分市から上京していられたMさんが、それに気付かれて、私の兄が歯科医をしているので兄のところに行かれませんかと電話して下さって、丁度困っていたときであったし、じゃ、御願いしますとご好意に甘えてT博士にお逢いした。いろいろな資料をもって、いかに歯が大事であるかということを説明して下さって、内科医などよりも歯科医が大事であると認識を改めたのであったが、その時「終戦後の子供達がどうして顎が細くほっそりとしているご存じですか、昔みたいに顎骨ががっちりして顎骨が張って、いかにも力がありそうな子供はほとんどいません。それはミルクを飲ませてやわらかい離乳食を食べさせているからです」といわれた。「歯が悪いと歯をかみ合わせることができません。口をアーンとあいてそれでは力を出せないでしょう。力を出す時、頑張る時、みなじっと歯をかんでやります。いつでもじっと歯を噛みしめられるような状態にしておかないといけないのです。上顎骨と下顎骨をかみ合わせる、その支点になる骨に脳下垂体がのっている。脳下垂体は全身のホルモン系統を支配しているところで、固い物を食べて歯を噛みあわせる回数が多いほど脳下垂体に刺激を与えるので健康にもなるし頭もよくなる。だから離乳食もやわらかいものばかり与えないで、よく噛んで食べるような固形物を与える方がよいのです。この頃の子供が頑張りがなくすぐに倒れるのは、やわらかいものばかり食べさせているからです」と。正法誌N040号1981年 12月号より抜粋【内容情報】(「BOOK」データベースより)初期仏典を中心に厳選したお釈迦さま、珠玉の語録集。心の話、迷いとさとり、慈しみの話、持つべき友とは。釈迦の生涯、弟子の逸話も満載。【目次】(「BOOK」データベースより)巻頭カラー ブッダの聖地/第1章 ブッダの生涯/第2章 心に従わず、心の主となれ/第3章 怨みは怨みによって鎮まらない/第4章 執着から苦しみが生まれる/第5章 迷いのままにさとりである/第6章 生きとし生けるものは、幸せであれ/第7章 縁によって生じ、縁によって滅びる/第8章 悪い友と交わるな/第9章 道は、生活のなかにある/補章 経典について【送料無料】精選ブッダのことば価格:500円(税込、送料別)
2011.11.20
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正法は中道である神理がくるくる変わることはない。正法は中道であり、中道は調和であり、調和とはバランスがとれていることである。バランスのとれていないものはいつか崩れる。信仰も熱狂的であってはいけない。狂信させ熱狂的にさせる宗教は正しいものではない。なぜなら、人間はずっと熱狂的でいることは出来ない。熱狂的であることは永続性がない。正法を説く者は信者を絶対に熱狂的にならせない。育児法も、その時は正しいと思っていても永続性のないものは正しい育児法ではない。間違っていると気付いたらすぐ改める方が賢明である。大学教授がいおうが学校の先生がいおうが、やってみても、悪い結果になって苦しむのは、その教授や先生達ではなく自分自身なのであるから、悪い結果が出ることがわかったら、すかさずそういうことはやめるべきである。フランシス・ポテンガー、バーナード・クローンの両博士が、3か月以上母乳で育てられた子供と、3か月以下でまたは全く母乳を与えられずミルクで育った子供と、顔や歯の成長について比較調査したところ、少なくとも3か月以上母乳で育てられた子供は頬骨の発育がよく、歯並び、口蓋、その他顔面の構造の発達がよいという発表をしている。正法誌N040号1981年 12月号より抜粋お釈迦さまの智慧に学べば子育てはここまで楽しくできる!子供は、私の「何者」でもありません。子供は社会人なのです。一番立派なのは「地球の一人の人間である」という風に育てること。それができるなら、すごい人間になるだろうと思います。「あなたは地球に生まれてきた。地球の一員である。地球のおかげで生きているのだから、地球上の人に対して、地球上の生き物に対して、果たさなくてはいけない仕事がいっぱいあるんだよ」ということを教えてあげることができれば、それは一生役に立つのです。【送料無料】一生役立つブッダの育児マニュアル価格:630円(税込、送料別)
2011.11.12
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反省は神の慈悲である信仰というものは、その人自身にとってはその人個人一人の悟りであるといえばいえないこともないが、しかし個人の悟りだと教えてきたのはこれまでの宗教が正しい法を知らなかったからである。特に仏教団体がそのような信仰を説いてきた。釈尊は「一切は相依性である」と説かれた。高梁信次先生は「一切は相関関係にある」といわれた。どちらも同じことである。人は単独では生きられない。われわれは大宇宙大自然との関係の中で、この地球の上で、国際関係の中で、日本国の一人として、それぞれの県市町村の一人として、どこかの職場にあって、いろいろな人とものの関係において生きているのであって、全く関係なしに一人で生きることは出来ないのである。そのような事実の中で、いろいろな関係の恩を受けながら、信仰上の悟りということになると、自分一人の心の問題だと考えて、世界のことも、国のことも、住んでいる地域社会のことも考えなくてもよいと考える考え方は片寄って中道ではないのである。仏教、即ち釈尊が説かれた正法は、智慧を明らかにする道であって、感情的に盲目的に信ずる道でなかったのが、時代の流れとともに感情的、盲目的に心の狭いあり方が説かれるようになり、それが終戦後の新興宗教のあり方にも影響しているので、その間違いに早く気付いて、大きな広い豊かな心になって、自由な伸び伸びとした心で、本当の悟りとはどういうものであるかを知ってもらいたいと願わずにはいられないのである。正法誌N040号1981年 12月号より抜粋【内容情報】(「BOOK」データベースより)数多い仏教書のうちで最も古い聖典。後世の仏典に見られる煩瑣な教理は少しもなく、人間としての生きる道がブッダとの対話のなかで具体的に語られる。初訳より二六年、本書の訳文はいっそう読み易くなり、積年の研究成果が訳注に盛られ、読解の助けとなるとともに、他仏典との関連、さらには比較文化論にも及び、興味はつきない。【目次】(「BOOK」データベースより)第1 蛇の章(蛇/ダニヤ/犀の角/田を耕すバーラドヴァージャ/チュンダ/破滅賎しい人/慈しみ/雪山に住む者/アーラヴァカという神霊/勝利/聖者)/第2 小なる章(宝/なまぐさ/恥/こよなき幸せ/スーチローマ/理法にかなった行い/バラモンにふさわしいこと/船/いかなる戒めを/精励/ラーフラ/ヴァギーサ/正しい遍歴/ダンミカ)/第3 大いなる章(出家/つとめはげむこと/みごとに説かれたこと/スンダリカ・パーラドヴァージャ/マーガ/サビや/セーラ/矢/ヴァーセッタ/コーカリヤ/ナーラカ/二種の観察)/第4 八つの詩句の章(欲望/洞窟についての八つの詩句/悪意についての八つの詩句/清浄についての八つの詩句/最上についての八つの詩句/老い/ティッサ・メッティヤ/パスーラ/マーガンディヤ/死ぬよりも前に/争闘/並ぶ応答/迅速/武器を執ること/サーリプッタ)/第5 彼岸に至る道の章(学生アジタの質問/学生ティッサ・メッテイヤの質問 ほか)【送料無料】ブッダのことば価格:1,470円(税込、送料別)
2011.10.27
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感謝は誰がどこでしても正しい例えば「親孝行」「恩に感謝する」ということは、その人が信仰していようとしていなかろうと、また、何の信仰をし、どこの宗教団体の信者であろうと、それは人間として当然そうなければならない基本的な道徳である。うちの宗教団体で教えている感謝だけが正しい感謝で、よその宗教団体で教えている感謝はニセモノの感謝である、というようなことはないはずである。だが、現在の日本の宗教家はそういう考え方をしているのである。たとえ、どんなに悪いことがあってもそれを批判することは許さないというし、臭いものにはフタをして、教団にとって都合のよいことだけを強調している。このような二重人格的な欺瞞性を見破らないと正しい信仰はできないのである。宗教団体の欺瞞性を見破る正しい判断力、批判力をもつこと・・相手を欺そうとしている場合は尚更のこと、自分に欺されないだけの智慧がなければ自分が損をするのである。だまされて金を損したならば、また働けばいいし、またあきらめればそれですむが、間違った宗教は、その人の心も魂も腐らせ、その人自身の今生での人生を狂わせるだけでなく、死んでから後まで地獄界に落ちて苦しむことになるから、だから私はこのことを強調し、宗教という名のもとにおいてもだまされないだけの智慧を持ちなさいというのである。正法誌N040号1981年 12月号より抜粋どんな不幸が襲ってきても、「神さまが与えた試練」というものはありません。結果を幸福にするのも、不幸にするのも、あなたの「心」次第なのです。変化するこの世界を生き抜くために。物質と肉体への執着を手放し「心」を守り育てるための術。【送料無料選択可!】ブッダはなぜ心を重視するのか 心は「幸福」「不幸」のクリエイター (サン...価格:1,554円(税込、送料別)
2011.10.15
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では、純粋で素直でなくてよいのか信仰は純粋で素直でなくてはならない。それは、正しいことと間違ったこと、良いことと悪いことをよく見極めて、間違ったこと、悪いことは捨てて、正しいこと、良いことだけに純粋に素直になることである。そうして、唯一の神、唯一の神理のみに純粋に素直になることである。正しい信仰即ち正法を信ずる人が心得なければならないことは、なんの信仰をしていない人でも知らず知らずのうちに自然に正法を実践している人も多いのであるから、そういう人を見たら、その人を立派な人だと素直に認める心を持つことである。現在の日本の宗教指導者たちは、それぞれ自分の教団を愛するあまりに、自分の教団の信仰をする人だけが正しい信仰をしている人で、他の教団の信仰をしている人たちは皆、間違った信仰をしていると説いているし、まして、なんの信仰もしていない人たちに対しては、その人たちがどういう考えで、どんな生活をしているかも考えずに「信仰を持たぬあわれな救われざる人々よ」という考え方しかない。こういうところに、正法を信ずる者と偽教を信ずる者との違いがはっきりと分かれるのである。正法誌N040号1981年 12月号より抜粋【内容情報】(「BOOK」データベースより)原始仏典の中にはブッダの生涯はほとんど記されていない。だが彼の死は、信徒にとって永久に忘れえぬ出来事だった。パーリ語本『大パリニッバーナ経』の中に、ブッダの死とその前後の事件が詠歎をこめて語られている。本書はこのパーリ語本を底本とし、サンスクリット本、漢訳本を参照して邦訳。巻末に周到詳細な注を付した。【目次】(「BOOK」データベースより)鷲の峰にて/修行僧たちに教える/旅に出る/パータリ村にて/コーティ村にて/ナーディカ村にて/商業都市ヴェーサーリー/遊女アンバパーリー/旅に病む-ベールヴァ村にて/命を捨てる決意〔ほか〕【送料無料】ブッダ最後の旅価格:1,365円(税込、送料別)
2011.10.02
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その人がどういう信仰をしていようとそれはそれでよい。しかしどの人も、全国の信仰している人はみな、自分の信仰はこれでよいのかという判断をして、正しいものは信ずるが、間違っているものは信じないという態度をはっきりしていかないと正しい信仰にはならないことに気づかなければならない自分で正しい判断が出来ない人は、正しく判断できる人に聞けばよい。間違っていることを間違っていると知らずに、いくら正しいと信じてみたって間違っていることはどこまでも間違いなのであって正しいことにはならないのである。1+1=2であって、1+1=3だと教えられたから1+1=3が正しいのだと、いくら信じてみたっても、それが正しい答えではないのと同じことである。信者の正しい批判精神を、純粋であれ、素直であれ、という言葉で封じようとする宗教は全面的に信じないことである。だから、私の師、高橋信次先生は「疑問を持ちなさい、素直に信じてはなりません」と絶叫していられたのである。正法誌N040号1981年 12月号より抜粋「幸せって何だろう?」「こんな毎日の繰り返しに、どんな意味があるのだろう」若き日のブッダ(釈迦)には、私たちと同じ悩みがありました。しかも、ごまかしたり、あきらめたりせず、「生きる意味」を、真剣に追求したのが、二千六百年前のブッダでした。ここに仏教の出発点があります。人一倍悩んだからこそ、誰よりも大きな幸せを得たブッダ。その生き方は、明るく、力強く生きたいと願う私たちに、大きなヒントを与えてくれるでしょう。【送料無料】マンガでわかるブッダの生き方価格:1,260円(税込、送料別)
2011.09.19
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「世界は一つ、地球は一つ」というスローガンはもはや知らない人はいないであろうし、日本が国際的に大発展してきていることも知らない人はいないはずである。これからの日本人は、なおのこと国際感覚、教養、知識を持たないと、外国の人たちと肩を並べて生きていくことは出来ない。日本人的感覚は国際的に外国の人に通用しないものがいろいろある。「ものの考え方、受け取り方」の点でいえば、相手が自分のことをいろいろ批判した場合、それに反論せずに黙っていると、その人は相手の主張を全部正しいと認めたことになるということである。日本ではどんなに悪口をいわれても、ただ黙ってなにもいわない人が大人物だとされてきた。黙っていればそのうちにわかるというのである。確かにそういう面もある。しかし、それは交通機関も情報も発達していなかった行動範囲の狭かった昔はそれでよかった。現在のように交通、情報機関が発達していて、しかも外国の人たちと交際していかなければならない時に、どんなことをいわれてもいわれっぱなしで黙っていたのでは相手のいう評価がただしいということにされてしまうのである。日本の商品がアメリカへどしどし輸出されるので、アメリカの業者が日本商品にケチをつけてダンピングだと裁判に提訴するという事件は新聞にいつもでている。こういう場合に日本流、東洋流では相手に反論しないことが道徳である。裁判でガタガタいわなくったって、よいものはよいのだから、日本商品がよいと分かっている人たちは黙っていても買ってくれるんだと、高くとまっているわけにはゆかないのである。もし黙っていれば、ダンピングだ、不良品だと新聞に書きたてられて、はじめてその記事を見た人も「○○商品は不良品だ」と信じて買わないことになる。日本の宗教団体は、ほとんどが純粋であれ、素直であれ、という言葉で批判精神を封じてきた。教義などに疑問を持って質問しようとする人がいると、頭ごなしに「疑問が起こるのはまだ信仰が足りないからだ」といってきた。よいこととわるいことを明らかに分別するという力を奪い、盲目的に狂信させることが、信仰的に純粋であり素直なことであるとごまかしてきた。正法誌N040号1981年 12月号より抜粋紀元前5世紀の古代インドから中国を経て中世日本の鎌倉時代の日蓮に至る仏教思想の変遷を綴った宗教史。古代インド~中国~中世日本までの一般史の流れの内に、時代精神史、文化史、民族史、思想史、政治・経済史的視点を踏まえつつ、これらと仏教の連関を通して、仏教思想の歴史的変遷の姿を平易な言葉で、わかりやすく描き出す。【送料無料】ブッダから日蓮まで価格:1,365円(税込、送料別)
2011.09.10
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正しい批判精神を失わせる宗教は偽教である私は「偽教」という言葉を使うことにする「宗教産業」という言葉をはじめて使ったのは私であると思っているが(昭和三十八年)「偽教」という言葉を使うのも、私が初めてであろう。なぜ偽教という言葉を使うか。「邪教」という言葉は使われてきた。自分の宗教だけが正しいので、他の宗教は「邪教」である、というような言葉の使い方が習慣的にされてきた。他の宗教をすべて邪教だとすることによって自分の宗教だけが正しいのであると、自分の宗教を正当化するために使われてきた。邪教だといわなければならないようなオカルト宗教、霊能力中心の宗教もあるにはある。しかし、多くの宗教団体を一括して「邪教」というわけにはいかない。なぜなら、どの宗教団体が説いていることも全部が間違っているわけではない。正しく説かれている点もあれば間違っている点もある。「ニセモノ」というのは「ホンモノのようであるがホンモノではない」ということである。ホンモノそっくりであるがどこか違うのである。人間は正しく生きるためには、正しい批判精神を失ってはならないのである。ある宗教団体に入信したからといって、よいことも悪いこともいっしょくたにして、悪い事まで信じてはならないし、悪いことは悪いと言い切る勇気を持たなければ本当に正しい信仰はできないのである。正法誌N040号1981年 12月号より抜粋仏陀が臨終直前に説いた教えを、紀元前に編纂された古い『涅槃経』と、紀元後に創作された新しい『涅槃経』の2つの『涅槃経』を対比しながら解き明かす。 【送料無料】ブッダの最期のことば(上)価格:950円(税込、送料別)
2011.09.03
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純粋な素直な信仰をという言葉にとらわれていてはならない信仰は純粋で素直であった方がよい。しかし純粋で素直であってはならないのである。私がこのように書いたことを矛盾だと思う人はまだ正法をよく知っているとはいえない。この言葉が矛盾ではないと分かった人は正法がよくわかり、宗教のこともよく勉強している人である。これまでの日本の宗教団体は、既成宗教であろうと新興宗教であろうと、みな「信仰は純粋でなければならない」「素直に信じなさい」と教えてきた。その意味は、とにかく疑わずに、批判精神を持たずに、外の宗教団体が教えていることや本など絶対に聞かず、見ずに、ここで教えていることだけを信じ、ここでで出している本だけを見なさいということで、信者に盲信・狂信をさせ、一旦、ここの宗教団体に入信したら、絶対に脱退させず、一生その信者をその教団に縛り付けておこうという意味の「純粋で素直であれ」という言葉であった。ほかの宗教団体の本を見たり話を聞いたりすると罰が当たると脅迫している教団もある。正法誌N040号1981年 12月号より抜粋【内容情報】(「BOOK」データベースより)ブッダ真実の教えは、私達の生活の中に、現在進行形で生きている。「お釈迦さま」として今日親しまれるブッダ。彼は2500年前、釈迦族の太子として生まれ、35歳で万法の心理を悟り、80歳の入滅まで布教の旅を続けた。しかし、人智を超える解脱の境地に達した覚者ブッダを、後世の人々は畏敬の念と永遠性への願いから、その存在を今日まで神格化・偶像化し続けてきた。本書では、その虚構神話のヴェールをはぎ取り、ブッダの真実像と、その“教えの原点”を浮き彫りにする。【目次】(「BOOK」データベースより)プロローグ 釈迦菩薩の世界/第1部 求道の人ゴータマ・シッダールタ/第2部 永遠の覚者ブッダ-人類は救われた/第3部 仏法は広まる/第4部 ブッダ最後の旅-偉大な死と不滅の仏法/第5部 現代に生きる釈尊-人間ブッダの教訓/現代日本人へのエピローグ-あとがきにかえて【送料無料】人間ブッダの生き方価格:820円(税込、送料別)
2011.08.27
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神理はだれがどこで説こうと神理は神理である神理は一つしかない。その一つの神理は聞く人の機根によって、水が井水、池水、河水、谷川の水、大海といろいろな姿を現すように、いろいろな方便を持って説かれ、また、いろいろと違った場所で、違った人によって説かれても、それが神理であることに変わりはない。正法を学ぶ人たちは心を広く持たなければならない。なぜなら、生きるということを通して、心を大きく広く豊かにしてやがて「宇宙即我」(宇宙と自分の心が一体となる)を悟っていかなければならないからである。心はただ単に心を大きく広くしようと思っただけでは大きくも広くもならない。ものの見方、考え方、行動範囲、行動様式等を変えていかないといけない。今まで自分のことばかり考えてきた人は、今度は相手の立場に立って考えるということをする。自分に割り当てられた仕事だけやっていればいいと思って熱心にやってきた人は、もし自分が主任、係長、課長、部長、社長になったらどうするか、自分の家庭だけを愛してきた人は自分の住んでいる周辺のこと、市町村全体のこと、県のこと、国のこと世界全体のことにも関心を持つようにする。一つの思想、一つの宗教に凝り固まってきた人は、他の思想、他の宗教のことも勉強する。そうして、良いものは良いとして学び、悪いものは悪いとしてとらず、感謝報恩の心をもって生きていくというようにならなければいけない。正法誌N040号1981年 12月号より抜粋【内容情報】(「BOOK」データベースより)なぜ自分の思い通りにならないのか。他人ばかりいい思いをするのはなぜか。私たちはそんな考えにとらわれがち。でも怒り、嫉妬、不安、憎しみなど心に生まれる負の感情は、自分の心が勝手に作る「妄想」だと気づけば、人生がスッと楽になるはず。長年にわたり日本でブッダの教えを伝えてきたスマナサーラ長老の言葉は、読むだけで心が一瞬に軽くなる力を持っています。あなたの人生が幸せになる-今が「気づき」のチャンスです。【目次】(「BOOK」データベースより)はじめに 心って何ですか?/第1章 人生に意味はありますか?/第2章 人生の目標ってなんですか?/第3章 あなたは本当に不幸なのですか?/第4章 すべてのことに理由がある/第5章 苦しさから解放されるには/第6章 智慧ある人になるために【送料無料】もう悩まない!心が軽くなるブッダの教え価格:460円(税込、送料別)
2011.08.21
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水のように私が法華経の「無量義」の法は水のようなものであるという所を読む時に、いつも思い出すのは、日本の映画界で、ブルーリボン女優賞、国民映画女優賞、文化奨励賞、NHK放送文化賞等を受賞された名脇役の浪花千栄子さんの自叙伝「水のように」という本のことである。(私の生きてきた道―そして、私の生き方)「私が、いまさら申すまでもなく、水というものは、人間はもちろんのこと、すべての生き物に欠くことのできない大切なものでございます。生き物の生きてゆく上に大切なこの水にも、いろいろの状態によって位があるように思われますが、一つのものから出て、一つのものに帰ってしまいます。位と申しますのは、飲料になる水道の水、観賞用の噴水をはじめ、滝や川や池の水、自然や作物や建物を破壊し押し流してしまう洪水の水、汚物や悪臭のため、顔をそむける下水の水というように・・・私の半生は、人にかえり見もされないドブ川の泥水でございました。しかし私は、子供のときから、泥水の中にでも、美しい蓮の花が咲くことを信じていましたし、赤い灯、青い灯と、たくさんの人に歌われ、大阪の代名詞のように有名な道頓堀の川底が、どんなに汚いかもよく知っていましたから、不幸なドブ川の泥水の運命に従順でした。そして、ひたすらに与えられた仕事に精いっぱい立ち向かって生きてきました。冬の寒い朝、ひびあかぎれの冷たい小さい手に、白い息を吹きかけながら、十歳の私は、いまに美しい蓮の花を咲かせてやるぞという、その時はまだ形もまとまりもない考えを、心のどこかにひそませながら、うんざりするほど積み上げられた洗い物にかかるのでした」この水のようにという本は昭和四十年八月の発行である。私は浪花千栄子さんの生き方に感激した。すばらしいと思った。正法誌N040号1981年 12月号より抜粋【内容情報】(「BOOK」データベースより)欲望を滅尽し死を超越する道とは。時代の半歩先を読む。【目次】(「BOOK」データベースより)第1章 自らその意を浄める/第2章 悪魔との対話/第3章 不死の門は開かれた/第4章 法輪を転ず/第5章 この身は泡沫のごとし/第6章 一切にわがものなし/第7章 生きものたちに幸いあれ/第8章 善き友とともに/第9章 空飛ぶ鳥に迹なし/第10章 仏に帰依す/第11章 安らぎの境地/第12章 自らを灯とせよ【送料無料】ブッダの人と思想価格:1,019円(税込、送料別)
2011.08.13
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高橋信次先生は、人はそれぞれ心の広さ、高さ、深さ、いろいろな段階があると説かれたが、経典には次のような段階があるとかいてある。「声聞」(しょうもん)---いい話だったと聞くことだけを楽しみにして実践しない人「縁覚」(えんかく)---よく話を聞いて、善因善果、悪因悪果の因縁の法則をよく悟った人。因縁の法則は知っているが実践にまでは至っていない。「菩薩」---因縁の法則がよくわかって慈悲を自分から実践している人。正法誌N040号1981年 12月号より抜粋『法句経』の名で知られる「真理のことば」(ダンマパダ)も、併収の「感興のことば」(ウダーナヴァルガ)も、ブッダの教えを集めたもので、人間そのものへの深い反省や生活の指針が風格ある簡潔な句に表わされている。「ウダーナヴァルガ」とは、ブッダが感興をおぼえた時、ふと口にした言葉集というほどの意味で、本訳は世界でも初めての完訳。【送料無料】ブッダの真理のことば感興のことば価格:945円(税込、送料別)
2011.08.06
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正法とは宇宙大の心の広さを持つことである法華経こそは釈尊真実の教説であると日蓮上人が思われたのは、法華経の初めにある、「無量義」をよまれたからであるといわれている。この「無量義」にはなにが書かれているかというと無上覚(悟り)の道が書かれているのである。「無量義は一法より生ず。一法とは無相なり、而も無相は無相不相、不相無相なり。名付けて実相という」無量、即ち量ることのできない義(教え)はただ一つの法から生ずる。その一つの法は無限の姿相となって現われ、これといって特定の相をとどめることはなく、いろいろな無限な相となって現われる。それが実相(真実の相)である。「法とはどのようなものであるか」「それは水がよく垢や穢れを洗い落とすのと同じように、人々は法によって心の苦悩、罪悪を洗い落とすことができる。法とは水のようなものである。その水は、井戸の水、池の水、大きな河の水、小川の水、谷川の水、渓谷の水、大海の水等と、いろいろな形にあらわれていても、その水はもろもろの垢や穢れを洗い流すことが出来るように、法の水もまた衆生の煩悩を洗い落すことができる。水の性は一つであるが、井戸、池、河、河、大海と各々別な相をとる。法もそのように、よく人々の苦悩煩悩を洗い清めるということは差別はないが、法を聞く者の機根、性格等がいろいろに違うのでその受け取り方も千差万別となる。ある者はこれほど素晴らしい最上の教えはないと思う者、まあまあ少しばかり良い教えだと思う者、みながよいというからよいのであろうが自分にはどこがよいのかまだはっきりわからないという者、同じ仏弟子とはいっても、その得るところはみな同じではない。正法誌N040号1981年 12月号より抜粋【内容情報】(「BOOK」データベースより)いまも新しいブッダの2500年前の教え。それは認知科学であり心理学であり、きわめて実践的な心のトレーニングメソッドである。巻末に編訳者による「ブッダの生涯『超』ダイジェスト」収録。【目次】(「BOOK」データベースより)1 怒らない/2 比べない/3 求めない/4 業を変える/5 友を選ぶ/6 幸せを知る/7 自分を知る/8 身体を見つめる/9 自由になる/10 慈悲を習う/11 悟る/12 死と向き合う【送料無料】超訳ブッダの言葉価格:1,785円(税込、送料別)
2011.07.30
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解説正法の運動は、地上天国、理想世界実現のための天上界からの計画であることが、わかられるであろう。神の計画によって始まった理想世界実現のこの計画は、どのようなことがあろうと必ず実現されるのであるし、われわれはこの計画の実現者の一人として生まれてきているのである。高橋信次先生が正法を説かれた。それは神の命であった。正法を正しく守り伝えてゆこうとする人たちを、天上界から守護されないということはない。これから正法を信ずる人たちは、いろいろな、その人にふさわしい形で守られてゆくことを私は信じている。いまから一万年前、アトランティス大陸でアガシャーによって説かれた正法は、モーゼ、釈迦、キリスト、高橋信次先生を通して伝えられたのである。この次に出生される光の天使たちの出現に備えて、正法を後世に伝えてゆかなければならない。神より受けたこの生命を、神の御心の実現のために捧げるのは当然のことである。私は私たちの跡に続く人たちがあることを信じている。歩むに従って跡に続く人は次第に多くなり、やがてそれは全世界を動かす力となるであろう。今まで一つの教団を指導し、信者の前に君臨してきた人たちも、やがて正法の前に跪かなければならない日がやってくる。さして苦しむことなく正法にたどりつく人もあれば、苦しみのあとにたどりつくという人もある。それは一人一人のこれまでの機根によるのであるから、苦しみを経験しなければならないことになっている人は経験しないと仕方ない。キリストは、足下の明るいうちに来れといわれた。その通りである。苦難を経験しないうちに「明るきに来たれ」正法は心の安息所である。正法誌N040号1981年 12月号より抜粋普段、何気なく使われている言葉「やさしい」って、本当はどういうことだろう、と、改めて問い直したのが本書です。これは、ちゃんと考えようとすること自体が、案外むずかしく、何を考えたらいいか悩んでしまう人も多いでしょう。著者は「ちょっとしたあいさつ程度で考えないで、人の一生の生き方として、人生論そのものとして、見直す必要があると思います」と書いています。「やさしい」の本質にぐいぐい迫っていきます。【送料無料】ブッダが教えた本当のやさしさ価格:480円(税込、送料別)
2011.07.24
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その後、仏教は西から東に移った。中国である。天台智ぎ(ちぎ)が法華経を世に伝え、正法を中国の地に復活させた。ただこの時は、仏教もむづかしい哲学、学問とかわっており、衆生を救うまでには至らなかった。天台智ぎのあと、伝教大師が日本に仏教を樹立させた。伝教の後は、やはり他力信仰が中心をなしていった。一方、キリスト教は次第に祈りの宗教にかわっていった。このようにして正法は現在に至っているが、正法は過去一万年の間、このような変遷をたどり、イエス以降は他力信仰が人類の生活に密着するようになってしまった。しかし、イエスも釈迦も、他力信仰を一度も説いていないのである。また地上が末法と化すと、ある時期を定めて、神の命を受けた光の天使が地上に生を得、道を説くことになっている。アガシャー・モーゼ・釈迦・イエスの時代をみれば、このことは一目瞭然であろう。また正法の根を絶やさないためにも、こうした人々が光をかかげ、人心を、正しい方向にもってゆかなければならなかったといえる。現代は、まさにその時期にあたっているといえるだろう。正法誌N040号1981年 12月号より抜粋【内容情報】(「BOOK」データベースより)よみがえるブッダ真理のことば。「人はなぜ生まれ、いかに生きるのか」。【目次】(「BOOK」データベースより)選択/目覚めていること/想念/花/愚者/賢者/己を統べる者/幾千のものより/間違った行い/暴力〔ほか〕【送料無料】ブッダの語る覚醒への光の道価格:2,415円(税込、送料別)
2011.07.19
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高橋信次先生の言葉正法の変遷この地上界における正法の変遷を、過去一万年までさかのぼってみることにしよう。今から約一万年ほど前、南大西洋にアトランティス大陸というのがあって、文明は非常に栄えていた。信仰の対象は太陽にむけられ、人間の魂は、あの太陽のごとく、光り輝くものであり、慈悲と愛の心こそ、人間のあるべき姿として、正法が説かれていた。法を説いた方の名を、アガシャーといった。アガシャーを中心として数多くの如来、菩薩が道を説いていた。現在、南大西洋にはその大陸はない。アガシャーをのぞく多くの天使たちを時の為政者が殺戮したため、法の裁きによって引き起こされた。六千年後、文化はエジプトに移ってきた。釈迦がインドに生まれるまでの約七百年間のある一時期は、地上界は地獄と化していた。略奪、強盗、殺人が幅をきかせ、世情は暗黒と化していた。釈迦が生まれる二、三百年前から、光の天使による地上浄化の地ならしが行われ、やがて釈迦が生まれた。この時も光の天使が数多くの地上に生を得ている。釈迦は、主として慈悲を説いた。イエスは、そののち約五百年後に、イスラエルに生まれ、愛を説いて、慈悲と愛の神の心が地上に伝えられた。正法誌N040号1981年 12月号より抜粋生きることについて考えたブッダの教えは、数千年が経っても常に新しい。妄想し、依存し、怒り、さまざまないのちから布施を受けながら返していない。そんな生き方をしているから幸福にならないのだ。ブッダの教えを学ぶことで、幸福への道がわかるようになる。スリランカ仏教界の長老が、日常に役立つブッダの教えを一日一話形式で説く。【送料無料】ブッダの教え一日一話価格:1,155円(税込、送料別)
2011.06.30
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昔の母親は、赤ちゃんを抱き上げる前に必ず声をかけて、そうして抱き上げて頬ずりしたものである。そうして時々バァーといったりして赤ちゃんと対話していた。昔は自閉症児というのはほとんどいなかった。それは赤ちゃんとの対話がされていたからである。自閉症児の特徴は、母親から自分の名を呼ばれているのだということを少しも知らないで、外のことにだけ夢中になっていることである。東京の幼稚園の女の先生が「赤ちゃんをテレビの前にころがさないで」という本を出したことがあった。どうして自閉症児になったか、その児の生まれたときからの生育歴を調べてみたら、全部がテレビを子守代わりにして、テレビから出てくる音だけをふんだんに聞かせて、母親が赤ちゃんの名を呼んで対話するということがなかったので、母親の声が赤ちゃんの心の中に残っていない。それで自分の名を呼ばれても、自分が呼ばれているという意識が全くないということである。這うこともできない赤ちゃんは、テレビの前にころがされると、否応なしにテレビの音が入ってくる。朝から晩までテレビをつけっぱなしで、赤ちゃんは横に転がしておいて、一時間でも二時間でも自分だけよろめきドラマでも見ていれば、それが毎日、毎日ということであれば、たとえ傍にいても母と子のつながりがなくなってくるのは当然である。正法誌N040号1981年 12月号より抜粋【目次】(「BOOK」データベースより)第1 蛇の章(蛇/ダニヤ ほか)/第2 小なる章(宝/なまぐさ ほか)/第3 大いなる章(出家/つとめはげむこと ほか)/第4 八つの詩句の章(欲望/洞窟についての八つの詩句 ほか)/第5 彼岸に至る道の章(学生アジタの質問/学生ティッサ・メッテイヤの質問 ほか)【送料無料】ブッダのことば価格:987円(税込、送料別)
2011.06.12
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赤ちゃんがこの世界で最初に接触するのは、母親との身体の接触である。子宮の中にいる時は、赤ちゃんは安心で安全であった。その赤ちゃんがこの世界へ出産されて一番心が安らぐのは母親の胸に抱かれて母親の心臓の鼓動を肌でじかに聞いた時である。赤ちゃんが母親に抱かれるとすぐ安心してスヤスヤ眠るのは、赤ちゃんが体内でいつも聞いていた音は、母親の心臓の鼓動である。とくとくと心臓の鼓動とともに送りだされる血液の流れ、赤ちゃんは母親に抱かれて心臓の鼓動を聞いた時、胎内にいた時の安心感にかえるのである。だから、母親に抱かれた赤ちゃんは情緒不安定になることは絶対にない。母親とのスキンシップの足りなかった子供が情緒不安定になり、やがてノイローゼになるのである。そういうことも大事であるが、母乳か、ミルクかということでもっとも大事なことは、母乳を飲むためには赤ちゃんもそれなりに力強く乳房を吸わなければならない。このことはやがて成長して一人前になった時に人間は食うためには、それなりの努力をしなければならないという考え方に発展してゆく。だから、人間は辛抱しなければならないこと、忍耐しなければならないこと、努力しなければならないことを潜在意識で知っているから、どんなことでも頑張りが働いてへこたれない。ところが、その反対にミルクで育った子供は、ミルクを吸うのにはたいした力はいらないのである。力を入れて吸わなくても母親が口によく流れ込むように瓶を傾けてくれる、穴を大きくしてくれる。私はある所で、もう座って自分で瓶を持って飲めるようになった子が、瓶を握らせるとコテンとひっくり返って足をバタバタさせながら飲んだのを見たことがあった。私はそれを見て、その子の将来を思いぞっとしたことがあった。こういう子供は、食べることに努力はいらない。自分から求めなくても、自然に親から与えられるものだと思い始める。大きくなるにつれて親に要求することが多くなり、自分の要求を満たしてくれないと親が悪いと思うようになる。正法誌N040号1981年 12月号より抜粋【送料無料】ブッダ(全12巻セット)価格:6,108円(税込、送料別)
2011.06.05
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赤ちゃんが生まれると、胎盤が剥離して体外にださなければならない。乳房を吸わせることによって支給の出血は止まり、子宮は小さく元通りに収縮し、収縮する力で胎盤が排除される。赤ちゃんに乳房を吸わせている時の母親の満足感、また母親に愛撫され、その乳房を吸って、満足しているときの安心感、この母子の間に漲る安心感、満足感が子供の情緒安定の原点である。それが欠けると子供は情緒不安定、神経過敏、落ち着きがなくなり、指しゃぶりをしたりするようになる。赤ちゃんの上唇には突起がある。これによって赤ちゃんは乳房に吸い付きやすくなっている。初乳にはたくさんの抗体を含んでいるから、いろいろな病気に対して免疫になる。初乳を飲ませずにいきなりミルクを飲ませると、免疫になっていないから風邪もひきやすいし病気にもかかりやすい。また、乳房を吸われることによって母体は早く正常の状態に回復し健康になる。母乳にするか、ミルクにするかはその子供の一生に影響してゆく。もちろん、それだけではない。その後の育て方も大きく影響するのであるがそのことが原点になる。赤ちゃんは誰から教えられたわけでもないのに、実にうまく舌を丸めて乳房に吸い付いてお乳を飲む。これは相当に力がいる。だから赤ちゃんは、お腹が一杯にならないのに疲れて眠りこんでしまう。だからそういう時は頬をつついてまた飲ませなければいけない。ミルクを飲むのにはそういう力を入れなくてもよい。近頃の若い人たちは早く飲むように大きく穴を明ける。抱きもしないで転がして瓶だけ与える。正法誌N040号1981年 12月号より抜粋【目次】(「BOOK」データベースより)第1章 祈りのことば(人類救済の祈り/人類救済の祈り(実践)/天と地のかけ橋の祈り/神のみ業 ほか)/第2章 反省瞑想の言魂(反省瞑想/八正道1・正しく見る/八正道2 正しく思う/八正道3 正しく語る ほか)【送料無料】天と地を結ぶ橋価格:1,260円(税込、送料別)
2011.05.28
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私は神様の創造の不思議さに感嘆せずにはいられない。赤ちゃんは頭のてっぺんで産道を押し広げながら生まれてくるのであるが、中国から伝わってきた鍼灸術で、痔を治すツボは頭のてっぺんにあり百会という。中国の仙道では、毎朝5回づつ頭のてっぺんを叩くか押さえると便秘しないと教えている。ツボは内臓諸器官が皮膚とつながっているところで、ツボに刺激を与えると内臓の病気が治ることになる。内臓が悪くなったからといって、それを外に取り出して治すことは出来ないが、神様は、そこを外から押せば内臓が治るという仕組みを肉体につくってくださっている。なんと深い神の愛だろうか。そこで赤ちゃんを抱き締めて赤ちゃんの身体を愛撫することは、赤ちゃんの内臓を丈夫にすることになるのであるから、時々抱き上げて愛撫してやることは大事なことである。最近は、母乳を飲ませるなんて、それは動物のすることであるというアメリカの宣伝にのせられて、ミルクで育てる人が多くなってきたが、そういう人はミルクを飲ませてころがしておくだけでなかなか愛撫もしない。そういう育て方をすれば、やがていろいろな面で子供のために苦労させられることになるのである。赤ちゃんは時々わきの下をくすぐってやるといい。くねくねと身体をくねらせることによって背骨が正しく矯正され脊髄湾曲症にならない。インドのヨガの体操で「魚のポーズ」といって魚が泳ぐみたいに腰を左右に振る運動があるが、こうしたものも何千年も前の人たちが、自然の生理作用に気付いてはじめたことである。正法誌N040号1981年 12月号より抜粋【内容情報】(「BOOK」データベースより)1993年、屋久島の地で霊的自覚を得てのち、心身の癒しと神理正法流布の講演活動を続ける著者による、目覚めと安らぎを得るための愛の技法およびひかりの世紀を生き抜くためのメッセージ集。【目次】(「BOOK」データベースより)1 神我の目覚め/2 父と母の無限なる愛-心の交流会/3 命の尊さ/4 光を求めて/5 反省(止観)について/6 心のカルテ-反省資料一/7 心の開眼-第二回反省研修会より/8 新生への旅立ち-第六回鹿児島霧島研修会/9 人間の原点/10 光の世紀を迎えて【送料無料】心の復興価格:1,575円(税込、送料別)
2011.05.15
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動物は生まれたらすぐに立って歩く。母親が子供の体を舐める。生まれた子供はすぐ母親の乳房を吸う。体を舐めることによって生まれた子供の体内の秘尿生殖器、消化器、呼吸器が十分な活動をするようになる。動物が子供の体を舐めまわすのが、人間においては、陣痛、子宮の収縮によって胎児の体は長い時間、断続的に皮膚刺激を与えられる。それによって赤ちゃんの内臓諸器官は刺激されて正常な生活活動を始めるようになる。生まれた赤ちゃんが呼吸しないときは、お尻を力一杯一,二度叩くと呼吸を始めるのは、昔からやられていることで、これは皮膚に与えられた刺激が呼吸中枢と呼吸器に働きかける実例である。帝王切開出産児は、出産するときに皮膚刺激が与えられていないために、正常出産児よりも病気になったり、運動が不活発であったり、反対に神経過敏症になったりしやすい。だから、帝王切開出産児は、正常出産児より以上にスキンシップして愛撫することである。出産直前には、赤ちゃんの頭はもっとも大きくなって子宮中の一番狭い所に頭を突っ込んで、頭から先に産道を伝って、頭のてっぺんで参道を押し広げながら、子宮の収縮によって顔、鼻、唇すべてが強い刺激を受け、その刺激によって内臓諸器官の機能が活動するようになる。赤ちゃんは生まれたら、まず宿便を排泄しなければいけない。新生児は淡黄色の初乳を飲まされる。そうして、飲むことと食べることによる排泄作用が始まる。正法誌N040号1981年 12月号より抜粋【内容情報】(「BOOK」データベースより)たとえば万引きをした子。たとえば援助交際をした子。それは、親を救うための行動かもしれません。あなたはお子さんに感謝していますか?あなたのお子さんはあなたの恩師なのです。【目次】(「BOOK」データベースより)子育ては自分育て/親子の縁は生まれる前に決まる/子どもは自然体で誕生する/子は親のすべてを知っている/親と子の約束/親は子に正しさを教える/子どもは大人の暴走を止める/二方向からの見方/魂は聖者かもしれない/親育て〔ほか〕【送料無料】ほんとうの子育て価格:1,050円(税込、送料別)
2011.05.04
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親と子のふれあい私は(園頭先生)女にだけ厳しく書きすぎたかもしれない。それには理由がある。それは女だけにしか子供を妊娠し、生み、育てることができないのであるという真実による。男は現実の世界を支配し、女はその子供をどのような子供に育てるかということを通して未来の世界を創る。未来の世界は子供たちのものである。親は子供たちに多少の影響力は持つが未来は確実にこどもたちのものである。この世界を理想世界にするかどうかも子供、そしてまた次の子供達の力にかかっている。全世界の女性が正法を知ったら、社会秩序を乱して暴力をふるうような子供は一人も生まれない。私は全世界の女性の前にひざまづいて「どうぞりっぱな子供を育ててください」と祈りたい気がする。たとえ男がどんなにだめであろうとも、女がしっかりしていれば立派な子供は育つのである。だからキリストは「夫との仲がうまくゆかず、よき妻となることを失敗したら、子供達のために、よき母となることだけはしなさい」と教えたのである。正法誌N040号1981年 12月号より抜粋【内容情報】(「BOOK」データベースより)2500年前に誕生した仏の教えである仏教。その開祖であるブッダの教えや智慧をもっとも近い形で残した原始経典、それが最古の経典『ブッダのことば(スッタニパータ)』である。仏教の源流を感じさせる簡素なことばでブッダが人々に説いた教えとは…?ブッダの慈悲と智慧に満ちた思想とその生涯を漫画化。【目次】(「BOOK」データベースより)ゴータマ・シッダッタ/沙門シッダッタ/成道と仏教/説法の旅/教団の発展/老死/安らかな境地/入滅【送料無料】ブッダのことば価格:580円(税込、送料別)
2011.04.08
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供養のことば先祖代々の諸霊よ、私たちに肉体をお与えくださいましてありがとうございました。私たちは神仏の子としての使命を悟り、正法の生活を実践しております。皆さまの冥福を心からお祈りいたします。もし諸霊の中に、暗い世界にいられる先祖がございましたら、よく私の申し上げる神理をお聴きください。皆さまは、この世の肉体は持っておられませんが、私の話はお分かりいただけるはずです。暗い世界は地獄でございます。なぜ地獄で生活していられるのか、おわかりになりますでしょうか。それは、人間として生活していられた時に、神仏の子としての使命を果たさなかったからでございます。自分のことばかりを考えて、心から人びとに慈悲や愛を与えたことがあったでしょうか。人を恨んだり、妬んだり、そしったり、怒ったりしたことなどをよく思い出して、悪かったことは悪かったと反省して下さい。自分でつくった過ちを反省し、その上で神のお許しをお願いして下さい。心は安らぎ、必ず天上界へ行けます。神理の経文を供養いたしますから、よく心に受け止めて下さい。(病死したり、事故死したりした人は、その生前の名を、先祖代々の諸霊よ、というかわりに呼びます)「もし諸霊の中に、暗い世界にいられる先祖がございましたら」というところは名前を呼んで○○○○の霊よ、あなたが暗い世界にいられたら、といえばよいのです。先祖でもなく、また名前もわからないが、霊的現象が起こっているという場合は、「この場所に執着している霊よ、あなたも神の子として肉体をもたれたのでした」とか、また他人の古い家をこわして新しく家を建てるとか、人が住んでいた土地を買った時とかは、「この土地に関係のある霊よ」といえばいいのです)以上を唱えて、「心行」を拝読すればよいのです。(おわり)正法誌N040号1981年 12月号より抜粋【内容情報】(「BOOK」データベースより)京都、東寺(世界文化遺産)奉納の絵画が導く万感と涅槃。六波羅蜜の徳 十善戒。現代人が忘れかけた『道徳』と『相互扶助の精神』へ誘う永遠の智慧。万象の真理から生まれた六と十の珠玉の言葉。「空」の世界をわかりやすく美しい現代語で心訳。【送料無料】生かされて生きる真理価格:1,260円(税込、送料別)
2011.03.19
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※この度の大震災により被災された方々へ、そして多くの行方不明者、安否不明者の皆様方のご無事を心よりお祈り申し上げます。釈尊が「わたくしに握拳はない」すなわち、私は手の中に握って、これは誰にも知らせることのできない私だけが知っている秘法だというものは私には何一つない。私は知っていることのすべてをあなた方に伝えたといわれたのである。釈尊は「わたしに握拳はない」といわれたとおり、私(園頭先生)の師、高橋信次先生にも握拳はなかった。だからして私にも秘密はない。私は私の知っていることのすべてをみなさんに伝えて、みなさんが自分の足で歩いて、一段一段と、幽界の人は霊界へ、霊界の人は神界へ、神界の人は菩薩界へ、菩薩界の人は如来界へと、上る道を伝えたいと思うばかりである。私は今の日本の宗教団体の教祖のように「恩を知れ」という儒教道徳で多くの人を束縛して、山へ上ろうとする人たちを足止めさせるようなことは絶対にしない。私は永遠の求道者である。だから皆さんは遠慮せずに私を乗り越えて前進してほしい。そういう人が出ることが私の望みである。不成仏霊を成仏させる正しい方法たとえその死に方が事故死であろうと、変死であろうと、現在の日本では多くの場合は葬式の時にお坊さんが来て「成仏できる」とお経を上げ、その後も命日にはお経を上げているわけである。それでも成仏できない霊がいるから、いろいろな霊的現象が起こっているわけである。ではどうすればいいのか。それにはまず供養する人が心を調和させてからすることが大事である。一、神が全宇宙の創造主であり、神は智慧そのもの、慈悲そのものであることを信ずること二、人間は神の子であり、自分の心の中に、神の智慧と慈悲が存在することを自覚すること三、肉体は、霊の修行のための乗り物であって、本当の自分ではないことを自覚すること四、この世のものは、霊を修行するための単なる道具であることを知って、この世のものに執着しないこと五、以上のことをよく自覚した上で、心を明るく調和させること調和したいと思っていても、現実には不調和でとても調和する心にはなれないという人がいるであろう。また、自分は正法で調和したいと思っていても、家族が反対しているという場合もあるであろう。現実がまだ不調和であるからといってそれにとらわれる必要はないのである。誰しもが、一足飛びに完全に調和するということはできないのであるし、徐々に調和されていくのがこの地上の現象界の相なのであるから、たとえ現実はまだ不調和であり、家族は反対していても、心の中に調和された状態をアリアリと描いて、自分の心の波長を神に合わせる気持で次のようにすればいいのである。正法誌N040号1981年 12月号より抜粋【内容情報】(「BOOK」データベースより)「運命とは何か」「幸運とは何か」に科学と宗教の両面から迫る。飛騨の自然の中で育ち、霊的体験を重ね、宗教遍歴を経てきた著者による、宇宙のルールをもとに「幸運・幸福」になるためのアドバイス集。【目次】(「BOOK」データベースより)序章 幸運を招くためには/第1章 生活習慣病から体を守りましょう/第2章 運命の原点生年月日と名前/第3章 健全な精神が幸運の条件です/第4章 明るい家庭が幸運の原点です/第5章 自然から学ぶ【送料無料】幸運を招く5つのルール価格:1,365円(税込、送料別)
2011.03.13
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6月末、福岡市のある方から電話がきた。娘の主人が勤めている会社の独身寮に女の幽霊が出て、2名がはっきり見ている。その幽霊が出るようになってから毎月寮生が怪我をするようになった。それは未だかつてない事故である。遂に両足を切断しなければならぬという大事故を起こしてしまって、主人は責任者としてどうしていいかわからぬ、と言っている。とその家族は熱心な正法会の一家であり、その娘さんもお母さんから本ももらい話も聞いていられたので、早速お母さんに相談されたわけである。こういう指導は電話で話したのでは徹底しないし、ちょうど七月四日、千葉で集会をされるということだったので会場に来てもらうことにした。いろいろと供養の方法を教えてあげた。私にその独身寮へ行って供養してほしいということであったが、私はその夜の集会もあったし、この世に強い執着を持っている霊に対しては、少なくとも一週間は続けて供養しないと、一回で悟るというわけにもいかないし、それでその娘さんに「ご主人は会社の仕事があるでしょうから、寮生が仕事に出払った後へ、あなたが行って一週間供養して下さい」と言ったのであった。十三日の夜、福岡のお母さんからの電話で「先生、今、娘から電話がありました。両足切断しなければならないといっていたのが、切断しなくてもよくなって医者もびっくりしているそうです。寮の雰囲気もすっかり変わって幽霊も出なくなったそうです。ありがとうございました」と。二十日にまた電話がきた。「先生、輸血しなければいけないといっていたのが、輸血せんでもいいようになったそうです。会社の人たちもびっくりしていられるそうです」と。私は先に正法誌に「私の下に来なさい、私がよくしてあげます。私に誓いなさい、そうすれば私が救ってあげます、という指導者はニセモノである。正しい指導者は、どんな問題が起ころうとも一人一人が自分で解決していく力を一人一人に与えるのである。ニセモノの指導者は自己中心主義で信者の顔を自分の方に向けさせようとするが、正法の指導者は一人一人が行じていくその後姿を拝むのである。」と書いたことを思い出してほしい。正法誌N040号1981年 12月号より抜粋【内容情報】(「BOOK」データベースより)今、あるべき宗教の姿とは…、祈りとは…自らの憑依体験を経て、自力による正法を説く。他力本願や盲信を戒め、宗教心の在り方を問う渾身の書。【目次】(「BOOK」データベースより)第1章 神の存在/第2章 霊/第3章 感性/第4章 憑依者と非憑依者/第5章 あの世とこの世/第6章 正しい法とは自灯明価格:1,575円(税込、送料別)
2011.03.05
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鹿児島県に垂水市という所がある。園頭先生が行かれたときはまだ町であったが、そこで同じ海岸の同じ場所で、同じ日に三人続けて子供を亡くしたという人があった。一番最初の子供が五才になった時に海で死んだ。に生まれた子供が五才になったら、同じ場所で同じ日に同じ死に方をした。三人目の子供が生まれて五才になった。今度は死なせないように気をつけていたのに、ちょっとしたすきに飛び出してまた死んでしまった。四人目の子供が生まれた。その子供が五才になると、また同じ死に方をするのではないかと、心配で夜も寝られないということであった。親にしてみれば子供が成長することは、一日一日また死なせることであるという心でたまらなく心配で不安であったのである。園頭先生は、その海岸の死んだ場所に行って、「せっかく霊の修行のためにこの世に生まれてきて、波にさらわれて五才で死んでゆかなければならなかった、あなたの心の悲しみはよくわかります。いよいよ息が切れるというその瞬間に、あなたはなつかしいお母さんのことを思われたことでしょう。そういう死に方をされるというのはまことに残念なことであっても、しかし、もう肉体を亡くした以上は、この世に対する執着を一切断ち切って、あの世で霊の修行をしなければならないのです。人間は神の子で、自由自在な心を持っているのです。あなたの悲しみはよくわかりますが、自分が救われたいと思って、自分が死んだと同じような現象を起こさせることは決して救いにならないばかりか、あなたの選んできたその親を深く悲しませることになるだけで、あなたはそれを見て知っていられるはずです。だから、今後はそういうことのないようにしてください。私(園頭先生)が光を送りますから、それによって成仏して下さいと供養した。そうして四人目の子供からはみな無事に成長している。正法誌N040号1981年 12月号より抜粋【内容情報】(「BOOK」データベースより)「正しく見、正しく思い、正しく語り、正しく仕事をなし、正しく生活し、正しく道に精進し、正しく念じ、正しく定に入る」が八正道の実践の生活です。本書では、ブッタが説いた八正道に照明を当て、偉大な釈尊の教えを中心に、仏教的立場から説明しました。【目次】(「BOOK」データベースより)第1章 人の心と現代の相(青白き青年/笑いのオバサン/救われた子供 ほか)/第2章 迷いの原因と心の相(苦・集・滅・道/心と空について/心は九つの機能から成る ほか)/第3章 現代に生きる八正道(正見/正思/正語 ほか)八正道のこころ 改訂版価格:893円(税込、送料別)
2011.02.25
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憑依されている人は、その期間が長ければ長いほど、その人の心も暗く固定してしまっているし、心を変えなさいといっても憑依霊がしっかりその人の脳細胞を支配して、憑依霊が念波を吹き込んでいるので(だから憑依されている人は、自分の頭が自分のものであるようなないような、考えることが自分の考えであるのかないのかわからないような気がいつもするし)頭が重いのである。そういう場合、憑依霊を払ってやると、急に頭が軽くすっきりとさわやかになり、本当の自分にかえることが出来る。そうしておいて、正しい心の持ち方(正法)をその人に教えるのである。しかし、いっぺん教えたからといってそれで急に心が変わるわけではない。長い間の習慣が働いて、暗い心になるとまたその心を縁として霊が憑依してくる。だからまた憑依霊にもよく教えて払って、その間にまたその人に教えるということを繰り返すのである。正法を知っている明るい心でいれば、たとえ先祖にどのような死に方をした人があったとしても、絶対に憑依現象、霊障が起こることはないが、現在では正法をしらない人が多いために霊障が起こっているのである。心を変えずにいて、憑依霊によく教えずにいて、護摩供養をするとか、お経を上げるとか、そういう方法でよくなることはない。先祖に首を吊って死んだ人があると、また誰かが首を吊って死ぬし、死ぬまでのことはないが、いつも首をしめつけられているようで、のどの通りが悪いという場合があるし、投身自殺した人があると、同じような死に方をする人が出たり、海を見るだけで、高い所に登るだけで怖いという人が出るし、交通事故で死んだ人があると、また同じような事故を起こすしということがある。また事故死した所には、亡くなった人の執念が残っているいるので、同じような心を持っている人が通りかかると波長が合うので、その人をたよって救われたいと思って、ひょいと憑依すると、その人が同じ死に方をするということになる。正法誌N040号1981年 12月号より抜粋第1章 「心の十字架」を抱く生き方(「宇宙創造神の魂」を感じること/「生き通しの過去世の魂」を実感する ほか)/第2章 「見えない世界」を感じる生き方(人は、この世にどのように生まれてきたか/この世に正法を伝えた人々の魂 ほか)/第3章 「心を浄化」し、高める生き方(心を浄化する方法/心の中の「カルマ」を見つける ほか)/第4章 現実世界を「心」でとらえる生き方(お金や地位、名声とはなにか?/家族の役割とはなにか? ほか)/第5章 「宇宙意識」を感じて生きる(自分はどこからきたのか?/人生のテーマを感じ取る ほか)【送料無料】見えない世界の摩訶不思議価格:1,470円(税込、送料別)
2011.02.18
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憑依現象は、類は類を以て集まるという心の法則、因縁の法則によって、その人が暗い心(怒り、ねたみ、憎しみ、嫉妬、羨望、悲しみ、悔しい等)を持っているために、また例えば、親がガンで救われていなかった場合に、子孫が「親がガンで死んだ、わしも親がガンで死んだと同じ年頃になってきたが、親と同じようにガンになりはしないかな」というような恐怖感を持つと、親の霊が憑依してガンになる。あそこは代々ガンの血統だとか、高血圧で卒中の血統だとか言われるのはそうして起こるのであるから、たとえ親がガンで死んだとしても「自分もガンになるのではないかな」という不安、恐怖心は絶対に持たないようにすることである。その場合に「ガンになりませんように」と思うことは消極的で力が弱いので、積極的に「自分はガンにならぬ」「自分はガンには関係ない」とはっきりガンを否定し、そうしてガンのことは思わないようにすることである。もし、チラッと「ガン」ということが頭に浮かんできたら、即座に「あぁ、いけない」とパッと、その想念を否定し切り捨ててしまうことである。例えば今まで長い間、あなたが不幸続きだったとする。すると必ず「幸福になりたい」と思われるはずである。その時に「幸福になりたい、幸福になれますように」とは思わないことである。たとえ現状は不幸続きで満足でなく、いろいろ不自由であったとしても、心の中で既に自分が幸福になった状態をアリアリと描いて「自分は既に幸福である」と思うことである。常にそう思いながら「これから、あらゆることにおいて、一層よくなる」と念じつつ、どうすればよいかを考え、自分にわからないことがあれば専門家や経験者の指導を受け、智慧を出して努力することが大事なので、ただ思うだけでなにもしないでは実現しないのである。心はそのようにして切り替えてゆくのである。正法誌N040号1981年 12月号より抜粋【内容情報】(「BOOK」データベースより)人生を変えたいときに、背中を押してくれる言葉が、ここにある。人生の目的を知ることができれば、実りある人生を歩む第一歩が踏み出せる。心と魂に焦点を合わせて生きれば、満ち足りた日々を送ることができる。【目次】(「BOOK」データベースより)人生の目的/解説(われわれの人生は/神とは/地球は/森羅万象すべてのものは/心のエネルギーは/この魂を磨くために/人生の目的は二つある/人間には/地球上に生を受けた人間は/この五官によって足ることを忘れると ほか)【送料無料】解説人生の目的価格:1,260円(税込、送料別)
2011.02.12
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カルマと霊障を断つ道カルマ(業)は身、口、意の三業によってつくられるというが、身体でつくる業も、口でつくる業も、すべて結局は心の問題である。善因善果、悪因悪果の因縁もすべて心がつくるのである。カルマの原因は心にあるのに、その心を変えずに護摩を焚くとか、そん他の方法でカルマを断つと考えることは間違いである。心に原因があることを知らないで、形だけで断とうとすることはますます心に執着をつくり出すことになる。どうしてそうなったかをよく反省して、心のあり方を変えることが真にカルマを断つ道である。霊障、すなわち憑依現象、その他の霊的現象を、先祖が祟ったといって恐れる人があるが恐れる必要はない。先祖に、たとえどのような死に方をした人があっても、生きている子孫が明るい心で生活をすれば絶対に霊的現象は出てこないのであるが、多くの人はそのことを知らないし、また、これまでの宗教家はそれを知らなかったために、ただ、先祖が祟った、霊が祟ったと恐怖心を持って、お経をあげればよいとお経を読んだり、或いはお祓いをしたりしてきた。憑依現象は、死んだ人がこの世に執着を持って救われたいと思って起こす現象なのであるから、そういう人は自分が死んだということすら知らないでいる場合が多いのであるから、もう死んだのだということをよく教えてやらないといけないのである。正法誌N040号1981年 12月号より抜粋【内容情報】(「BOOK」データベースより)米国の大学で教鞭をとったインド哲学の著名な宗教家である著者は、エドガー・ケイシーのキリスト教哲学に注目した。クリスチャンであるエドガー・ケイシーが提唱する転生やカルマの理論と、仏教、ヒンドゥー、イスラムなど、東洋の宗教哲学が、その源流で一致することに着目。イエスが民を導く前に行った修行はヨーガの最高段階サマーディに共通する。カルマは、人としての宿命であると同時に、神の愛の賜物である、と説き人を完璧な成長へと導く、著者渾身の大著。【目次】(「BOOK」データベースより)第1章 実用的神秘家エドガー・ケイシー/第2章 永遠の真理の探究/第3章 科学、宗教、哲学/第4章 溝を埋める/第5章 魂の性質/第6章 転生の性質と目的/第7章 カルマ論/第8章 アバタラバーダ―神の下生/第9章 神の下生―全時代共通の教え/第10章 人間、瞑想、神/第11章 カルマと転生の超越【送料無料】転生とカルマの法則価格:1,680円(税込、送料別)
2011.02.08
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真のユートピア実現への道真のユートピア実現は、この世にも心の暗い人は一人もなく、そうして地獄界もなくなることである。もともと地獄界というものはなかった。どうして地獄界が出来たのであるかというと、神の子としてこの地上で肉体を持って生まれた人間が、この地上界で生きている間に、この地上界のものに執着を持ったまま死んだ霊が、あの世で作り出してしまった世界が地獄界なのである。仮に地獄界の不成仏霊が全部成仏したとしても、この世に生きている人が、人生の本義を忘れ、この地上界のものに執着を持って心を暗くすれば、また地獄界を作り出してしまうから不成仏霊をじょうぶつさせるという方法だけではこの世は絶対に良くならないのである。あなた方の家に仮に不成仏霊があったとしても、恐れる必要はさらさらない。生きている家族がみな心を明るくして生活するならば、不成仏は、あの世からあなた方の生活を見て、それによって生きていた時の自分の心のあり方を反省して救われてゆくのであるから、特別に供養する必要もないのである。その明るい生活の仕方が、釈尊の説かれた八正道なのである。この世がユートピアになる道は、不成仏霊を成仏させることではなくして、生きている人達が心を明るくすることである。正法誌N040号1981年 12月号より抜粋【内容情報】(「BOOK」データベースより)心の苦しみをなくすためには、愛と慈悲にあふれた穏やかな自分であること。ダライ・ラマ法王亡命50周年、日本人に語り下ろした最新メッセージ。【目次】(「BOOK」データベースより)なぜ、苦しみは生まれるのか?/ダライ・ラマが説く「原因と結果の法則」/現代を生きる君たちへ/十代との対話【送料無料】心の平和価格:1,260円(税込、送料別)
2011.01.28
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この十の特徴をもって見ればすぐ見抜くことができる。こういう教祖につく悪魔、動物霊は、その教祖一人を支配することによって何万、何十万という信者を支配できるのであるから愉快でしょうがないわけである。そういう信仰をした信者は、いくら宇宙大神、阿弥陀如来、観世音菩薩の名を信じていたとしても、その名を唱えながら地獄へ行くのである。この世は、人間の霊を磨き、神よりの深い知恵と慈悲を学ぶ学園なのであるから、よく反省してこの世的な欲望を捨て、一つ一つ用の体験を修行のための勉強と自覚して、山を登っていかなければいけないのである。その教団の信者となった当初は、その教団の信仰をこの世の中で一番素晴らしい信仰のように思っていても、何年かするうちに、その信仰に矛盾や疑問を持ってきたとしたら、それはその教団の指導者がいうように、その人の信仰がだめになったのではなくて、その信仰を卒業して他に信仰を求めよという、心の内からの警告であるから、道徳的な「恩」というしがらみを乗り越えて、新しく信仰を求めるという勇気を出さなければならないのである。悪魔や動物霊も、もっともらしいことを言いながら、その陰で間違ったことを説くのである。だから、どの教団の教えにも、正しいところもあるが、間違ったところもある。ところが智慧のない信者は、部分的に正しいことが説いてあるためにそれに惑わされて、間違ったところまで正しいと信じ込もうとするのである。疑問を持たずに素直に信ずることが純粋な信仰と教えられるために、ここは間違いではないかという疑問を持っても、疑問を持つことが正しいことだとは思わずに、自分の信仰が純粋でないから疑問を持ったのだと自分をいじめつけて悪く思ってしまう。正しいことは正しく、間違ったことは間違いであるということをはっきり知るのが智慧の働きであるが、そうした智慧を教えられていないために、間違っていることを正しいことだと信じ込もうとする。しかしいくら信じたからといって、間違っていることが正しくなるわけではない。日本人の信仰の欠陥は、少しばかり霊能があると思われる人が間違ったことを言っても、その間違いを間違いだと見抜く智慧がなくて、なんでもかんでも、いわれることを正しいことだと信じ込もうとすることである。正法誌N040号1981年 12月号より抜粋【内容情報】(「BOOK」データベースより)「愛」とは何か、「ゆるし」とは何か、「癒し」とは何か、「神」とは何か、本当の「心の安らぎ」とは何かを説き明かした「人生の書」。一生持ち続けられる人生のバイブル。本巻は、主として理論的であり『コース』の思考体系の基本となっている概念を説明。『テキスト』の諸々の考えの中に『ワークブック』のレッスンのための論拠が含まれている。【目次】(「BOOK」データベースより)奇跡の意味/分離とあがない/罪のない知覚/エゴの幻想/癒しと完全性/愛のレッスン/神の王国の贈り物/故郷へ帰る旅/あがないの受容/病の偶像〔ほか〕【送料無料】奇跡のコース(第1巻)価格:5,775円(税込、送料別)
2011.01.22
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最初、その人がある教団の信者になると、その人はやがてその教団の信仰に疑問をもつようになっても「恩」という道徳観念を持ってやめることをしない。心ではやめて外の信仰をしたいと思うのであるが、師の恩にそむいてはならないと考えてやめる勇気を持たない。一方、教祖の方でも「恩を忘れるな」「恩を知れ」という言葉で信者を一生縛りつけようとする。我々の登らなければならない頂上ははるかにまだ遠い。人が頂上目指して登ろうとするのを止めるのも悪であるし、恩という言葉のしがらみにひっかかって、自ら登ることをしないのも悪である。言葉で信者を操って、神や信者の心を欺く教祖のような人を偽善者というのである。このような偽善者は、自分の心の中に後ろめたいものを持っている。自分の心が既に神から離れていることを知っているので、信者からその心を見透かされまいとして、さも神を大事にして神の守りがあるかのように見せかけるために、いろいろな儀式を作り出して神前を荘厳に見せかける。いろいろな名目で新しい儀式を作り出している教団があることは皆さんが知っておられるはずである。そういう偽善者の教祖の周囲には、信仰は霊を磨かなければならないのであることは知っていても、それは棚上げにして、いたずらにそういう教祖を担ぎあげて、自分の利益のために利用することのみをはかっている人達がいる。信仰という大義名分の陰で偽善者の教祖は自分が担ぎあげられていることを喜び、教祖とその周囲が考えることは、いかにして巧妙に信者から金を集めるかということになる。そういう教祖も、立教当初は心がきれいであったから、その教祖から光が出ていたのであるが、欲望に執着するようになると、悪魔か動物霊が次第にその教祖を支配するようになる。霊眼で見るとその教祖の立っている後ろにはっきりと見える。悪魔か動物霊に支配されている教祖の特徴は一、 金に執着を持って、金を集めることだけを考える。二、 慈悲、愛を説きながら、やることが冷たい三、 非常に感情的になり、すぐ怒る四、 いうことがくるくる変わってくる。法を説かない五、 顔に生気がなくなってくる。顔の色が変な土色になるか、精気のない白さになる。六、 儀式、服装などで信者の心をひきつけようとする。七、 信者から見て、立派な人だとみられる人が排斥される。八、 名誉欲、支配欲、権勢欲が強くなって、人の下座につくことをしない。九、 敬虔さ、謙虚さがなくなって尊大になる。十、 感情的に泣かせるか、興奮させるかという指導をして、知的、理性的な指導をしない。正法誌N040号1981年 12月号より抜粋【目次】(「BOOK」データベースより)「概念」にしばられすぎている人間/植物の不思議/西洋医学と東洋医学について/仏教について/色即是空 空即是色/禅宗と瞑想と科学/真理の探究/日本と日本人について/適者生存の論理/「自由」と「規律」/「正義」とは「悪」とは何か/親は子に何を伝えるべきか/量的思考と質的思考/なぜ不安なのか、なぜ孤独になるのか/死に臨む人に宗教は何が出来るかなぜ、悩む!価格:1,575円(税込、送料別)
2011.01.15
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自分はまだ四合目か五合目にいるのに、既に頂上近くまで登っている人に「私より先に上に登ってけしからん」という言い方は出来ないし、小学生が大学教授に向かって「あなたはどうして私より先に大学教授になったのか」ということができないのと同じように神界の段階にある教祖は、すでに菩薩界にいる人に対しては「あなたは神界の私が説く教えに満足していなさい」ということは絶対にできないことなのであるが、現在の日本の教祖たちは正法を知らないために全ての人に対して「私を越えてはならぬ、私に服従しなさい」という傲慢な態度をとっていて、それを正しいと思っているし、また、その教祖を盲信狂信している信者は、そういう教祖を素晴らしいと思っているのである。信者がその信仰している教団や教祖を愛するということは大事なことであるが、その愛教心が他を排斥するようになったら、それはもはや愛でも何でもないのであるが、盲信狂信している人達は、愛教心を持つがゆえに既に真実の愛を失っているということに気がつかないでいるのである。その人が頂上目指してのぼろうと努力しているのを、誰もそれを止める権利はない。だのに正法を知らない教祖は、そういう権利を持っていると錯覚している。日本人は長い間、儒教の道徳を日常生活の基準としてきた。儒教では「恩」の大事さを説く。天地の恩、先祖の恩、親の恩、師の恩等々、日本の道徳は恩づくめであった。恩義のしがらみにからまれていろいろな悲劇も起こってきた。その悲劇は今も日本の宗教団体では起こっている。正法誌N040号1981年 12月号より抜粋【目次】(「BOOK」データベースより)序章 ビッグバンの意図/第1章 エネルギーの法則/第2章 「良いこと」と「正しいこと」の違い/第3章 映画『マトリックス』に観る“正しいこと”/第4章 意識について/第5章 意識の進化論/第6章 新しい秩序へのヒント/第7章 自分のしたいことをするということ/第8章 立場について/終章 新しい地球に向けて真実の扉価格:1,680円(税込、送料別)
2011.01.09
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もし、あなた方がどこかの教団の信者であって、その教団の信仰に矛盾疑問を感じてきたとしたら、あなたはもはやその教祖を越えなければならないのである。矛盾や疑問を感じながらその教団にとどまっているのは、頂上をめざして山を登ることをせずに、途中の山腹かどこかで足踏みをしていることになるのである。たとえ神界の人であっても正法を知っている教祖は「この教祖を越えて山上へ登りなさい」といえる心の広さを持つことができるが、正法を知らない教祖はやめてゆく人たちを「恩知らずだ」と言って脅迫する。自ら山に登ることをしない他力信仰の人達は、ひとたびどこかの教団に所属すると、その教団の一切にとらわれてしまって、いつのまにか自分の信仰だけを正しいとする狭い心になってしまい、神理に対しての広い理解を示すことが出来なくなり、神に真心を現わしているように思いつめて凝り固まって、他の信仰をしている人に対して排他的になり、一方では慈悲とか愛という言葉を口にしながら、一方では他宗の人を悪魔だとさえいうようになる。そうなっては、慈悲とか愛とか調和とかいう言葉とは反対に争いを生ずることになる。現実に今の日本の宗教界はそのような状態になっているのではないだろうか。正法を知っている人の特徴の一つは真の寛容の精神を持っていることである。神界の段階の教祖の教えで満足できている人はそれでよいのであって、そのうちに矛盾をかんずるようになるかもわからないが、矛盾を感じるまではその信仰を続ければいいのだし、もし矛盾を感じたらなにも義理立てしてその教団にとどまっている必要はないのであるから、さっさとやめて、自分の矛盾を解決してくれる所を求めていけばよいし、本当は教祖の立場にある人が、最初に「私の教えに満足できなくなった人は、自由にこの教団をやめて正しいと思う道を求めて下さい」といわなければならないのである。私の見るところ、そのようにいえる広い心をもった教祖は、現在の日本の中にはいないようである。また正法をしっている教祖であったら、自分より以上の段階にある人がいることを知ったら、自ら教祖の地位を降りて、その人に教えを乞うことができる心の広さを持つことができるが、正法を知らない教祖は、内心では自分より以上の存在の人だと思っても、教祖という立場での名誉欲、権勢欲、支配欲、金銭欲の快感を失うことを恐れて、そういう人を排斥するのである。正法誌N040号1981年 12月号より抜粋【内容情報】(「BOOK」データベースより)「真理の探究」の書。シャープかつ整合性のある論理でエソテリックな世界を解き明かす!歴史上、世界で最も誤解されてきたキリストの真の教えがここに―。【目次】(「BOOK」データベースより)絶対存在/キリスト・ロゴス/聖霊/人間/大天使の階級/マインドとエーテル・バイタリティー/天地創造/空間・場所・時間/世界/光とスーパーライト/人体の組織/エーテル・ダブル/3つの体/一時的パーソナリティーと永遠のパーソナリティーの関係/エレメンタル/潜在意識/原因と結果の法則/内観―内在するものを観るエソテリック・ティーチング価格:2,520円(税込、送料別)
2011.01.01
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釈尊が宇宙の中心に須弥山があるといっておられるが、如来界、菩薩界、神界、霊界、幽界の姿を展望するとそれは山のように見える。その須弥山の裾野はこの世の現象界に通じている。裾野からだんだんと頂上へと狭くなっていくように、上のほうになるに従って人数は少なくなる。信仰とはちょうど山登りと同じで、一歩一歩、歩いて登らなければならない。ある教団では裾野からいっぺんに頂上へ飛び上がることができるように、すなわち「この信仰をしていると、死ねばすぐ実相の如来界、またその上の神の世界すなわち金剛界にいけるのであると教えているが、そういうことはできない仕組みになっているのである。それは幼稚園児の児童が一足飛びに大学教授になれないのと同じであるから、死ねばすぐ仏になるとか、神の実相界にゆくのであると説いていることを信用してはならない。あの世はその人のこころの段階によっていく世界が違うのである。霊界の段階の人が教祖になることはないが、もし、霊界の段階の人が教祖になると、その下の幽界の人々は、その霊界の教祖をすばらしい指導力のある人だと思うのであるが、霊界以上の段階の人からみれば「あの程度で教祖といえるのか」ということになり、神界の段階の人が教祖になると、その下の霊界、幽界の段階の人から見れば、素晴らしい指導者に見えるが、同じ神界、あるいはそのうえの菩薩界、如来界の段階から見れば、お粗末だということになるのである。霊界、幽界の段階の人の方が人数は多いのであるから、神界の人が教祖になると、人数の多い大教団をつくることができる。大教団の教祖だからといって、その教祖を神様みたいに思うことは間違いである。正法誌N040号1981年 12月号より抜粋【内容情報】(「BOOK」データベースより)高橋信次の遺された著書は「心の在りかた」を教える貴重なものであり、私はその著書に触れたものの一人である。本書は、著者が「心」を中心として学んだことと、向かうべき未来について記したものである。【目次】(「BOOK」データベースより)心行ノート(中道と八正道/霊について/人種差別と転生について/宗教と科学/天地創造と科学 ほか)/光りを求めて(外れた未来予想/私も一人のサラリーマン/ストレスとどう付き合うか/私もうつ病/時代を乗り切る ほか)心行ノート価格:1,050円(税込、送料別)
2010.12.18
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信仰にも段階があるから、特定の教団の信仰を持続する必要はない自分を神格化している自我意識の強い教祖(指導者)のいる教団では、その教祖に取り入ろうとする者と、正しくさえあれば神がご存じであると思う者との間に必ず葛藤が起こる。このような場合、とくに動物霊を神として信仰している教団(動物霊も宇宙大神、阿弥陀如来、観世音菩薩等を名乗るから、主宰神あるいは本尊がそうであるからといってそれを直ちに信ずることは危険である)では真面目な信仰をしている人たちが反逆者扱いをされる。かといってそういう扱いをしていながら、さてその人達がその教団を離脱するというと非常に寂しく感じてやめてほしくなかったという。まったく理解のできない心境の持ち主が多い。口では慈悲だとか愛だとか説きながら実際は冷たい仕打ちをする。そういう指導者の多い教団にいくら義理立てしてみても、だからといって正しいと思われる人たちを厚遇するということは絶対にしない。矛盾を感じて勇気をふるってやめる人達を、なぜ未練がましく後からいろいろというのであろうか。神仏を信仰せよとと教える教団であったら、去る者をして気持ちよく去らせるだけの心の広さがなければならないはずである。動物霊に支配される教団では、正しいかどうかの基準は神理ではなくて、本部または本山にたくさん金を集める人間が正しいのであって、正しく神理を説いても金集めの少ない、または下手である人は悪人とまではいわないが、教団にとっては好ましからざる人物ということになるのである。そういう教団では、教祖に媚を売る幹部が、正しいと思われる幹部を手玉にとってやめさせるでもなし、かといってその人を生かして働かせるということもせず、猫が鼠を追い詰めるように手玉にとるように寄ってたかってなぶり者にしようとする。正しい神理すなわち正法を知っている人達は、徒党を組んで相手の人をなぶり者にするようなことは絶対にしない。追い詰めてその人をやめさせようとすることもしない。教団の講師、幹部、また奉仕している人の信仰が、ただ表面的なものとなって、神仏の名を利用して生活の資を稼ぐというような状態になると、そこにはけっして神の光は現れない、神道的に言うと神徳は現れないということになる。正法誌N040号1981年 12月号より抜粋「運命とは何か」「幸運とは何か」に科学と宗教の両面から迫る。飛騨の自然の中で育ち、霊的体験を重ね、宗教遍歴を経てきた著者による、宇宙のルールをもとに「幸運・幸福」になるためのアドバイス集。【目次】(「BOOK」データベースより)序章 幸運を招くためには/第1章 生活習慣病から体を守りましょう/第2章 運命の原点生年月日と名前/第3章 健全な精神が幸運の条件です/第4章 明るい家庭が幸運の原点です/第5章 自然から学ぶ幸運を招く5つのルール価格:1,365円(税込、送料別)
2010.12.09
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なぜ正法でなければならないかそれはもはや「正法」でしかその役割を果たすことはできない。中・高校生は純真である。大人は生活に疲れ果てて新鮮な直観力を失ってしまい、信仰も日常生活も刹那的に惰性でやっている人が多い。高校一年生が「これなら一生つづけていかれる」と思うことは、それだけで一生つづけていかれる価値が正法にはあるということである。正しい神を知り、肉体は霊を修行するための乗り物であることを知っているこの子供達は、信仰とは自分の心を正しくコントロールすることであることを知っているから、欲望や本能に心を翻弄されることはない。国家全体として、社会全体としての自浄復元作用が失われてしまったら、最後は一人一人が自覚して心を正していく以外にない。正しく神を信じ、正法を守り、欲望、利欲に迷わされない人達は、その霊は光を放っているから、迷った霊憑依してくることは絶対にない。正法誌N040号1981年 12月号より抜粋【内容情報】(「BOOK」データベースより)人生の選択に迷っている方へ、もっと自分を高めたいと思っている方へ、最期まで充実した日々を願う方へ…。「一期一会」、すべては一度きりのこと。この大切な人生を生きるのに必要なメッセージが満載。【目次】(「BOOK」データベースより)第1部 死後の世界(死後の世界があるという根拠/死後の世界とはどのような世界か)/第2部 智慧に学ぶ生き方(自由な生き方をしよう/バネを伸び切らせないようにしよう/より善く生きる人生を/「信じる」ことの大切さとその限界を見極めよう/許す気持ちを持てるようにしよう ほか)一度きりの人生に価格:1,575円(税込、送料別)
2010.11.26
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民主主義という名によって失われた自浄作用終戦前は、国民の動向を見て政府が国民全体のあり方を修正することができたが、終戦後は民主主義という名により政府が復元作用を持つことができなくなってしまい、個人もまた民主主義の名のもとに自浄復元作用を失ってしまって「自分の思うことを自分がするのが何が悪いか」という欲望を肥大させるばかりになり、法律にふれるような犯罪は余り犯させなくても、本来は心を浄化して霊の向上を説かなければならない、宗教までが現世利益を求めさせるだけで終わってしまい、信仰という名のもとに現世的欲望を肥大させてしまっている。滔々として頽廃に向かう現世の世相に、誰がどうして歯止めをかけ、自浄復元せしめるであろうか。正法誌N040号1981年 12月号より抜粋人間の道価格:1,050円(税込、送料別)
2010.11.21
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社会現象には必ず自浄作用が起こる個人が罪を犯すと、その罪に対する反省と再び罪を犯してはならないとする自浄復元作用を起こすと同じように、人の集団である社会国家も個人と同じような自浄作用を起こす。幕末から明治維新、そして明治十年の西南の役まで、日本は内戦によってたくさんの死者を出した。西南の役を最後として内戦が終わると、とたんに禁欲は解放されて国民道徳は頽廃し始めた。一八九〇年(明治二十三年)十月三十日の教育勅語は、その頽廃を防ぎ君臣父子の大義を教育の中核として儒教道徳によって国民思想を統一しようとして発布された明治二十七、八年の日清戦争、明治三十七、八年の日露戦争が終わると、社会には消費気運の上昇、労働農民運動の展開、道徳の弛緩の傾向が現れたために一九〇八年(明治四十一年)戌申証書が発布されて上下一致して勤倹の美徳を説き、国民思想の矯正が行われ、教育勅語と共に国民精神を作興することになって終戦に至り、アメリカの占領政策により教育勅語は廃止され、日本国民は国民道徳の基準を失って現在に至っている。正法誌N040号1981年 12月号より抜粋第1章 やすらぎの心に至る八つの誓いとは─解説(「やすらぎの心に至る八つの誓い」と「八正道」/私心のない見方をします(正見)/生かしあう思い方をします(正思)/思いやりの言葉をかけます(正語)/仕事は奉仕です(正業)/自分を厳しく見つめます(正命)/家庭の調和を築きます(正精進)/しっかりとした目的を持ちます(正念)/一から七までの反省を毎日いたします(正定))/第2章 やすらぎの心に至る八つの誓い─実践(私心のない見方をします(正見)/生かしあう思い方をします(正思)/思いやりの言葉をかけます(正語)/仕事は奉仕です(正業)/仕事は奉仕です(正業)/自分を厳しく見つめます(正命)/家庭の調和を築きます(正精進)/しっかりとした目的を持ちます(正念)/一から七までの反省を毎日いたします(正定))やすらぎの心に至る八つの誓い価格:1,260円(税込、送料別)
2010.11.12
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生きている人たちは戦争中、精神的、物質的に禁欲させられていたのが戦争が終わるとそれが解除されて、特に第二次世界大戦後はアメリカ軍の占領政策による3S政策もあって、人生の目的は本能、すなわち性欲と食欲を満足させることにあると教えられた結果、一斉に性欲と食欲を満足させることに狂奔することになった。正しい道徳観をもった人達がどんなに、そうではないと叫んでみても、そうした良識あるひとびとの声は大衆の耳には届かなかった。悟って死んだ人はあの世で目ざめると、肉体は脱ぎ捨てて精霊になったことをすぐに悟る。そうして霊界では霊界で勉強しなければならないことに気づくから、肉体を持った人に憑依することはないが、執着を持ったままで死んだ人は、あの世で目ざめたときに自分の意識はそこにあるから肉体が死んだとは思わずに自分はここに生きていると思うのである。肉体をもっていた時のそのままの心を持っているのであるから、肉体をもっていた時のように肉体を支配しようと思う。しかし、自分ははや肉体ではなく自分の自由になる肉体はそこにないために、人の肉体を支配して欲望を達成しようとするのである。「類は類を持って集まる」という牽引の法則によって、自分と同じ欲望を持っている人にひかれていく。欲望を持った人がその欲望をどうして果たそうかと考えているときに、欲望をもった霊は一番その人の煩悩を支配しやすいのである。欲望を持った霊はその人の脳細胞を支配し始めると、その人は自分でそう思ったと思っているのであるが、実際は霊が思わしめているのである。そういう人の頭を霊眼で見ると黒っぽくなっている。最初は霧がかかったみたいにかすんでいるが支配される度合いが強くなるに従って黒くなっていく。このようにして、これまでに現われてきた大戦争後の道徳的退廃はあの世の霊とこの世の人々との合作なのである。道徳的退廃による社会の混乱、犯罪が多くなってくると、少しでも社会全体のことを考える人々はなんとかしなければいけないと考える。正法誌N040号1981年 12月号より抜粋人生を変えたいときに、背中を押してくれる言葉が、ここにある。人生の目的を知ることができれば、実りある人生を歩む第一歩が踏み出せる。心と魂に焦点を合わせて生きれば、満ち足りた日々を送ることができる。解説人生の目的価格:1,260円(税込、送料別)
2010.11.05
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なぜ、大戦後はいつも道徳的に頽廃するのか世界の歴史を振り返ってみると、大戦争があった後で必ず道徳的に頽廃した時代が現れている。それは国家が戦争目的のために総動員されるために、精神の高揚と物質の節約が強制され、個人の自由も拘束され、当然、精神的のも物質的にも禁欲を要求される。特に第一線で戦争しなければならない軍人はそうである。しかし、その禁欲にも限度があって特に性的に禁欲を強制されたために生ずる強姦暴行事件が起こるところから、それをなくそうとして設置されたのが慰安所という性的な処理機関であった。戦地の軍人の心理状態は大きく分けると二つに分けられる。一つは、いつ死んでも心残りのないように、心をきれいにして死んでいこうと、日頃から身辺を清潔にして、国を愛する純粋な愛国心から、悟った高僧のような態度で死にのぞんだ人達。一つは、大きな目的のために自分を捧げるという純粋な高揚された心を持つことなく、戦争によって個人の自由を束縛され、欲望を抑圧されて仕方なしに死んでいかなければならないと、この世にいっぱい執着を残して死んだ人達。この二つの心理状態からして、すべての戦争体験も遺書も二つに分かれているのである。戦死だからといって戦死した人がみなそのままストレートに天上界へ行くわけではない。戦死したその時の心の状態でそのまま、あの世へ行くのであるから、きれいな心で戦死した人は、その心の状態で天上界へ行くが、性的欲望や物質的欲望等を最後まで持っていった人達は、そのまま執着の世界へ行く。そうした欲望に執着した霊が、大戦争の後ではいっぱいふえることになる。正法誌N040号1981年 12月号より抜粋悩み、苦しみ、迷い…誰にも頼らず、自分ひとりで解決できる『反省・内観』。心にかかった雲を取り去って、新しい自分に生まれ変われる方法として注目を集める『内観』と『反省』を誰もが自宅で実践できるよう、著者自らの経験を踏まえながらやさしく解説した『反省・内観』の入門書。「反省・内観」で心を知る価格:1,050円(税込、送料別)
2010.10.29
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煩悩執着は肉体的な欲望から起こるのであるから、煩悩執着をなくするためには肉体の欲望をなくすることであると考えたところから、逆に、かえって煩悩執着のとりことなって迷ったままで死んでいった人が多いことを考えた時、迷える霊もまた増えてきたことを考えなければならない。煩悩執着をなくする道は本能を抑圧することではなくて、本能を正しくコントロールすることである。本能を抑圧することはキリスト教もまた犯してきた。修道士、修道女のありかたがそうである。職業柄、日常は欲望を抑圧していることが、海外へ出たとき、また宴会などで、信者や父兄から見られることはないという開放感から噴出してくるわけである。だから本能は抑圧することだけでは解決しないのである。潜在意識の中に欲望を抑圧したままで亡くなれば、日頃はどんなに謹厳な坊さんでもその欲望に比例した地獄界に行かなければならない。正法誌N040号1981年 12月号より抜粋【内容情報】(「BOOK」データベースより)自らは粗衣粗食に甘んじ、残りは社会福祉に寄贈して、全国から殺到する病める人々を命がけで癒し続ける現代のキリストとも言える壮絶な生き様を初公開。【目次】(「BOOK」データベースより)第1部 来歴編(或る愚か者の生涯)/第2部 理証編(必要なのは正しい生命観の確立/天上界への道)/第3部 実践編(「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵/心の曇りをとるための反省)/第4部 現証編(人類滅亡を救う奇跡と癒しの秘密)真理を求める愚か者の独り言価格:1,680円(税込、送料別)
2010.10.22
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神道の「精進落し」と「直会」日本の神社神道はまた不思議なしきたりを持っている。お祭りがある前になると祭主や祭人達は一ヵ月くらい、精進潔斎するが、お祭りが終わったとたんに「精進落し」すなわち「直会」をやって俗人として生活するというわけである。ここまで書けば、なぜ伊勢神宮のよこに遊郭があったかおわかりでしょう。平安末期から鎌倉時代にかけて伊勢信仰の強化が行われ、御師と呼ばれる祈祷師が、参宮の斡旋、宿泊の世話、祈願、各檀家への神札の配布などの世話をし、室町時代になると各地に伊勢講ができ、江戸時代になるにつれて、講参りといって伊勢講全体がお詣りしたり、また代表が一人あるいは二人と代参をするということになり、せめて一生に一度はお伊勢詣りをという熱望がやがて爆発的な「お陰参り」となった。その名残りが今でも農村地帯では伊勢講として残っているし、部落の後ろの小高い丘の上に伊勢神宮の方に向かって礼拝したあとが残っている。お伊勢詣りに行く人達は、神様にお詣りに行くのであるから、行く前から、また道中も、精進して行った。お詣りが終わるとこれで役目は終わった。さぁ精進落しだというわけで遊郭が繁盛した。お伊勢詣りに行った夫が旅の途中の女と一緒になったり、遊郭で帰りの旅費まで使い果たして帰れなくなったり、乞食のようになって帰ってきたという悲劇もあったわけである。正法誌N040号1981年 12月号より抜粋【目次】(「BOOK」データベースより)序章 まさかの離婚、リストラ―苦しみ続けたからこそ得た一つの結論/第1章 まだまだ捨てたものではない自分―人間、五十代になったときから人生は始まる/第2章 自分の「居場所」の見つけ方―心をどこに置けば幸福になれるか/第3章 人生の後半は「穏やかチャレンジ」だ―限られた生を生き切るために/第4章 人生の醍醐味とは―自分の生きた証を残そう/第5章 いつまでも夢を持ち続ける生き方―ためらわず、恥ずかしがらず、素直に自分の「好きなこと」「やりたかったこと」をやろう価格:1,365円(税込、送料別)
2010.10.15
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