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― 梵天勧請 ―(高橋信次先生 「人間釈迦」1より)高橋信次著「人間釈迦」という本がある。この本は、はしがきに書いてあるように、なんの資料もなしに、霊的な示唆と自動書記現象によって書かれたもので、世界でも稀な本である。この本の中の「梵天勧請」のところを抜き書ししてみよう。──────────────────────────────その時であった。突然、眼前が明るくなった。黄金色の光明の中に、ヴァフラマンが立っているではないか。アモンと呼ばれているヴァフラマンである。その両脇にもう二人いた。その一人はクラリオといわれていた。三人はやさしい眼差しで、ゴータマを見下しているのである。アモンと呼ばれるヴァフラマンが言った。「ゴータマ。死ぬことはならぬぞ。たとえお前が死んでも地上界に戻すこともできるのだ。この地上界にいたくないといっても、全ヨジャーナーのどこへ行っても逃げることはできぬ。」ゆっくりと語るその声の波動は威厳と慈悲に満ちていた。「お前は何を悟ったのだ。悟りとはどんな意味があるのか、お前に分らぬはずはない。」ゴーダマは、いつの間にか叩頭していた。「お言葉をかえすようですが、私の悟りを衆生に説いてみても、解ってはくれないでしょう。やはり、このまま死なせて下さい。」「お前が衆生を救済しないで誰がやる。よく考えてみよ。慈悲の心は、衆生の中に、必ずや安らぎとなって、仏心を蘇らすことができるのだ。法は心の太陽である。心の太陽を失った人々に、神理の法灯を、もう一度、点じてゆくのだ。神理の法灯を絶やしてはならない。お前は、私達の世界に在った時に、それを約束して、生れ来たったのではないか。その約束を果たさずして、帰るべき家はないのだ。それぐらいのことは、悟ったお前に分らぬはずがないではないか。」アモンという偉大なヴァフラマンから、そういわれてみると、地上に生まれる以前の自分の決意が心の一隅から、突き上げてくるようであった。「分ってくれたか。それでこそ、貴方は、偉大なる大指導霊である。私は貴方の友、アモンという者です。貴方とは、いつの世でも、私が地上に出れば貴方が、貴方が地上に生れれば私が、貴方を見守ってきてくるでしょう。私達は、貴方のこれからの後半生を、つつがなく歩まれるよう、どんな協力でもします。」アモンはこういうと、その光明の中で、ニッコリと笑った。アモンは後にイスラエルに生れ、愛を説いたイエス・キリストである。イエス・キリストの前世の名をアモンと呼んだ。クラリオと呼ばれるヴァフラマンがいった。「ゴータマ、三十六年もの間、直接あなたを見守ってきた。この感激を、なんと表現していいか分らない。」もう一人のヴァフラマンは、モーゼであった。ゴータマの心の中で、またもや、このまま、死ねたらどんなにいいだろう、という影がかすかにゆれた。が、その瞬間であった。「死は逃避である。自分の心から、自分を逃げ出すことはできない。心は、己れの宇宙だからである。肉体が滅ぴようと、滅びまいと心の姿は変わらない。智慧と勇気と努力をもって、衆生に生き甲斐を与えるのだ。苦しみから解放するのだ。もう、そういう心をいだいてはいけない。」アモンは、やさしく、そう諭すのであった。「ゴータマ、あなたの体験のすべては、そのまま神理なのである。多くの衆生は、あなたをみならい、人生の迷いから一つ、一つ学ぴ、心のなかに安らぎをひろげてゆくであろう。正道に反した生活というものは、楽しきことでも苦界に通ずる。心ある者は、必死になって神理を求めるが、神理の遠きを感じて、ある者は現実に妥協し、ある者はその大事な生命まで絶っている。わがままな心がそうさせるのだ。…世はまさに暗黒である。あなたの神理は、今を置いてほかにない。このときをはずせば、人々の心は、悪魔に支配され、人類は亡ぴ去ってしまうだろう。頼みます。私違は、あなたの行手に山があれば、その山を取りのぞこう。谷があれば、橋を架けよう。河があれば、舟をつくろう。どんな協力でも惜しまない。ゴータマお顔いしますよ。」「必ずやります。私のすべてを投げ出し、神理の法灯を、衆生に伝えましょう。」ゴータマが、そう決意を述べると、三人のヴァフラマンは、実在の世界に静かに消えていった。ゴータマの正法流布の心は、この時ようやく、不動のものとなった。──────────────────────────────インドでは梵天をブラフマンというが、バラモンでは万物の創造主、万物の根源であるとみなしている。ブラフマンが個別化してアートマン(自我)となるというので、アートマン(自我)がブラフマンと一体となるのを梵我一如といい、梵我一如となることを瞑想の理想とした。そういう思想は、お釈迦さまが仏法を説かれる以前にもあった。だからある仏典では梵天からお釈迦さまが教をうけられたことを、宇宙最高神から指導をうけられたというのであり、ヒンズー教では梵天をインドラー神である(インドラー神を宇宙創造神と解する場合もある)といっている。「人間釈迦」の著者高橋信次先生は、梵天としてお釈迦さまを指導したのは、主としてアモン、のちにイエス・キリストとして出た方であると書いていられる。──────────────────────────────あるとき高橋信次先生は私(園頭先生)にこういわれたことがある。「イエス・キリストがイスラエルに肉体を持った時に、天上界からイエス・キリストを指導したのは釈迦として肉体を持ったことのある光の大指導霊であったのである。」と──────────────────────────────ある宗教学者は、「イエス・キリストが教を説く前の四年間がどうしてもわからない。キリスト教と仏教と似ている点が多いことを考えると、多分、キリストは、インドヘ行って、仏教を勉強してきてから、キリスト教を説いたのではなかろうか」と書いている。お釈迦さまを指導した梵天が、イエス・キリストであり、イエス・キリストをあの世から指導されたのがお釈迦さまであったということは、今後、全世界の仏教徒が心して置くべきことではないかと思う。早く結論を出す必要はない。時間をかけて研究すれぱよい。先ず仏教とキリスト教との一致点から勉強されるとよいと思う。真理は一つなのであり、真理がニつあるわけはないのであるから、お釈迦さまが説かれたのも真理であり、イエス・キリストが説かれたのも真理であるならば、必ず同じ真理が説かれている筈である。正法誌8号より抜粋
2003.09.12
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― 雰囲気 ―心の明るい人達がそこに集まると、そこには明るい念体が結成されて、明るい雰囲気がつくられる。類は類を呼ぶの法則によって、そこには、神の光りが降り注ぐことになる。そこには誰もいなくても、そこが神の光りの場となり、そこに行って坐るとなぜか心が明るし楽しくなり、身体も軽くなる。その反対に、心の暗い人連が、そこに集まると、そこは暗い想念と雰囲気の場となり、悪魔の支配する場となり、地獄霊、自縛霊の巣窟となる。だから、そういう所に行くと、そこに行っただけで身体が重くなり、心が暗くなり、ゾッとするような冷たさを感ずることになる。だから皆さんが、幸福になろう、運命を良くしようと思われたら、明るい人と親しくなり、明るい雰囲気の所に行って、心の暗い人や暗い雰囲気からは遠ざかることである。もっとも、真の不動心を持つ人は、環境に支配されることはない。むしろ環境を変化し、支配するカを持つのである。正法誌8号より抜粋
2003.09.11
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― 自分が自分を助ける ―失敗を恐れない、新しい経験によってのみ、新しい天上界の協力も得られるのですから、結局、自分を助けるものは自分である、という事になります。他力信仰をして、自分からは努力しない人が、最後には失敗に終わるのは、以上のような理由からであります。何人も、私達自身の代わりになる事は出来ません。自分の事は一切自分の責任ですから、自分の事を自分でしないで、人に代わってやってもらうとする他力信仰では、決して自分が救われないのです。光の大指導霊は、「現代はニセモノの指導者と、欠点多き預言者達の時代である」と、警告しています。ニセモノの指導者とは、「人を救えば自分が救われる」とか、「祈れば、無限供給が得られる」と、説く人達であります。人の欲望に神を従わせようとするような、教えを説く人達であります。彼らは、地縛霊と同様に、人の心に不安を生じさせます。正法誌8号より抜粋
2003.09.10
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― 反省と禅定 ―お釈迦様は悟りに至る道として八正道、即ち、正見、正思、正語、正業、正命、正進、正念、正定をお説きになりました。八正道というのは、悟りに至る道であると同時に、我々が慈悲そのもの、愛そのものの存在である事を悟った、その悟りを日常生活に実践する道でもあります。お釈迦様が、菩提樹の下で、初めて悟りを開かれたのが、「四諦八正道」だと言われております。私(園頭先生)の師であります高橋信次先生は、「四諦八正道」の大事さを説かれ、特に、直接悟りに至る方法として、八正道の「正定」(反省と禅定)が大事であることを説いて来られました。ところが高橋信次先生は、講演とか研修会の指導の時などに、「正定」のことを「反省」という言葉に言い替えていられました為に、その「反省」という言葉を、「正定」即ち反省と禅定を意味しているものとして受け取らないで、いわゆる常識的な意味の「反省」としか理解していない人が出てきました。そのために「反省」といえば、生まれてきてから現在までの事を振り返って反省して、心を浄化すればよいと考えて、「禅定」の大事さを少しも考えない、また指導しない人達が出てきました。高橋信次先生は、「反省は止観である」という言葉もよく使っていられました。「止観というのは、天台智ギ大師が使われた言葉です。」と言っておられました。「天台小止観」(岩波文庫)という本の「はじめに」という所に次の様に書かれております。「天台小止観は、もっぱら座禅の作法と座禅の用法とを説いている。いわば座禅の指導書であり、いわゆる座禅儀に外ならない。しかもこの座禅儀は、おそらくインド、シナ、日本を通じて仏教史上において初めてこのように集大成されたものであり、且つそれ以降においてもこれに勝って懇切な座禅の指導書はついに世に現われなかった。すなわち禅宗において作られた各般の座禅儀や修証儀をはじめとし、諸宗の章疏において座禅の作法を説くに際して、つねにこの天台小止観が依用され踏襲されている」この文は、高橋信次先生が説かれました事を正しく知ろうとされる方だけでなく、お釈迦様の本当の悟りは何であったかを知りたい方、また、座禅をこれから始めたいと思っていられる方、既に、禅宗の僧職にあって座禅を人に指導されている方、本当の救いは何であるか、正しい信仰とはどういうものかを知りたい方など、とにかく初心者の方にも、また宗教指導の専門家にも読んでいただきたいのであります。(園頭先生 注)正法誌7号より抜粋
2003.09.09
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― 足るを知る ―「分を知る」ということは同時に、「足ることを知る」ということになります。今の私達の人生は、宇宙即我に到達するための、永い輪廻転生の中の一コマであります。ただ一回の人生だけで全てを悟り尽くす、経験し尽くすという事は出来ないのでありますから、今度の人生では自分は何を為し、何を学ぶことが正しいのであるかを、よく心の内に聞かなければならないのであります。人には欲望があります。平社員でいるよりは社長がいい、と思うでしょう。では、「社長になって実際に会社を経営できるか」と自問自答したときに、自分の心に偽りなしに、「やれる」と云える人もあれば、「さてとなると、とても出来ない」と思う人もある筈です。金も今よりはあったほうが良いでしょう。しかし、あっても使いこなす事が出来ず、かえって心を堕落させ、また遺産として残したため、子供達が争うというようなものなら、むしろ無い方が幸せです。金は何万以上持っていれば幸福で、それ以下は不幸だというようなものではありません。金もまた、人間が作り出したものの一つなのですから、金の為に心を一喜一憂させる事は、本末転倒なので、足ることを知った安らかな心を知った上で、また金の必要性を知るという事が、必要であります。足ることを知らない、分を超えた祈りも実現しないのであります。祈りも分を知り足ることを知った上で、しなければいけません。その祈りが、その人の分に叶うものであったら、必ず守護霊をはじめ、天上界からの協力があって実現するのであります。 正法誌7号より抜粋
2003.09.08
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― 人生と悟り ―<高橋信次先生の言葉より>出生の目的は、魂の向上にあり、調和にある。物質経済は生きるための一つの手段であって、地位、名誉、金銭の多寡によって人格が定まるものではない。現代は資本主義と社会共産主義の二大思想が対立し、神の子としての本性を忘れ、人々の心はいつのまにか物質中心になっている。資本主義と社会共産主義とは、根本的に相対立するものであるが、その根本になっているものは、どちらも唯物論、物質中心主義である。争いの根本は、すべての基準が物質経済に置かれ、人間信頼という実在界、天上界の約束を忘れてしまった事にある。一切の苦しみの根源は、自分自身の心にある。他人にあるのではない。喜怒哀楽を生み出すものは、すべて心である。仏教、キリスト教は、この事を教えてきたが、何時の間にか他力本願になってしまい、自分は何もせずに楽をして、神に祈れば救われるという、間違った方向に進んできてしまった。今から二千五百有余年前に、ブッダによって正法が説かれている。正法にそった生活は、中道という物差しで、原因を取り除く行為を怠らぬことである。また、二千年前、イエス・キリストが愛を説き、愛を生きるは、まずその罪を懺悔し、誤りのない生活に目覚める事であるといっている。反省も懺悔も同じであり、仏教では反省を止観といっており、禅定の基準は、中道に照らした反省にある。中道に照らした反省と行為が生まれてくれば、間違った原因が取り除かれることになるのだから、そこに神の光が降り注がれ、現象生活は自然と整ってくるわけである。偶像崇拝や祈りによって、心の安らぎがあると思う人がいるとすれば、それは逃避的なのであったり、自己満足、自己欺瞞である、といっても過言ではない。他力では決して救われる事はない。次に大事なことは足る事を知った生活である。足ることを知れば、自分一人がこの地上で生きているのではないのであるから、自然と感謝の心も生まれてくるだろう。足ることを知らないが為に、争いも絶えない。この自然界は、万象万物が相互に関係し、依存しながら生活している。空気あり、水あり、大自然があればこそ、各人は肉体を保つ事が出来るのであるから、自然界のこの大慈悲に対して、我々は無条件に感謝しなければならない。感謝は報恩という行為によって、人々に尽くすという事によって、初めてその意義が見出され、実証されてくるものである。世の中には、感謝、感謝と口では言いながら、一向に世の為に尽くすという行為をしない人が多い。勇気を持って報恩という行為をするものである。形あるものは崩れ去って行く。形あるものは全て無常だ。今は健康だとしても、いつの日にか肉体は朽ち果てて、やがて我々は実在界、あの世に帰らなくてはならない。一切の責任は自分にあって他人にあるのではない。自分自身が全ての根本である。人はあの世に帰っても個性を失う事はない。病気で苦しんでこの世を去り、その病気の原因を追求せずにして肉体舟が破壊され、あの世に帰るとその病気の状態がそのまま、あの世で続くのである。肉体はあくまでも人生の乗り舟だ。死ぬ前には、肉体に対する執着を取っておかなければならない。思う事、行なう事は、神の心であるところの善なる己の心によって、裁かれるのである。それだけに、毎日毎日の、一瞬一秒の心と行ないのあり方が、真実に適ったものでなければならない。ゴーダマ・シッタルタは、六年の苦行の末、生まれてから三十六年間の過去を反省する。一週間の反省の後、一切の苦しみは自分自身が作り出したものであるから、苦しみから解放されるには、自分で苦しみの原因を作らなければよいのだ、という事を発見してゆく。そうして、その後四十五年間この神理を説き、それは後に中国に渡り、日本に伝わってきた。それが今は、偶像を拝む他力に変わり、信仰は形骸と化し、葬式仏教、観光仏教、学問仏教になってしまった。しかし、人間の心は昔も今も変わりはない。一秒一秒の心のあの方を大事にし、間違ったら勇気をもって修正してゆくところに、本当の信仰がある。悟りは、八正道を行ずるなかにあることを、知らなければならない。正法誌8号より抜粋
2003.09.07
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― 幸福は既に与えられている ― お陰信仰は利己主義の心であります。利己主義の心は神に波長が合いません。お陰信仰で、一時その人が豊かになったようであっても、その富は必ずその人を不幸にします。お陰を望まない心になって足る事を知り、毎日を感謝の心で過ごすようになった時、必要なものは必ず与えられるのであります。感謝の心が報恩の心となります。心からの奉仕となった時の、心の喜びが、あなたにとって最も必要な、幸福な状態を作りだして行くのです。既に幸福は、あなたの心の中にあるのであって、無いものが外から与えられるのではないのであります。「心がモノを創る」「心が運命を創る」と言われていますが、自分の心を豊かに明るくした時に、環境も自然に整ってくるのであります。お陰信仰は、自分の欲望の達成の為に神様を利用しよう、という心があります。それは正しい信仰ではないでしょう。 正法誌7号より抜粋
2003.09.06
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― 分を知る ―人は生まれてくる時に、今度はどういう環境の中で、どういう仕事をして、どういう体験をして魂を向上させるかを、守護霊と打ち合わせてして生まれてきます。その計画は、生まれてきた時は、潜在意識の中に隠されていて、現在意識の表面の心では分からないことになっています。最初からそういう事が分かっていたら、苦労せずに済むと思われますが、最初から分かっていたら、入学試験の問題を最初から教えられた事と同じで、本当の勉強になりません。こうするのが本当ではないか、ああするのが本当ではないか、と色々な試行錯誤を繰り返す中から、本当の自分の生き方、在り方を知って行くようになっているのです。「あの人は分を知らない」とか、「あの人は分別がある」という云い方がされるのは、人にはそれぞれに為さなければならない、本分というものがあるというということであります。その為さなければならないというものは、生まれてくる時に計画し、守護霊に協力を願って生まれてくるのであります。ですから、心に思うことが何でも実現するのではないのであって、その人が生まれてくる時に計画した、その分の範囲内の事は実現しても、その分でないものは実現しないという事になるのであります。だから自分の分を知るという事が大事であります。
2003.09.05
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― 愛欲について ―比丘のジャトーカンニンは質問した。「ブッダは何故愛欲を否定するのですか。私はそれを聞きたいと思います。」「愛欲は心の中を炎と化し、人間本来の仏性を失わせる事が多いのだ。いったんその炎が燃え上がれば、自制心を失い、一時の快楽ゆえに、道を誤ることが多いのだ。愛欲は独占欲を生み、人間を欲望のとりこにする。異性を見て心を騒がせただけでも、姦通の罪を犯したことに等しい。そうして、愛欲は心の中に曇りを作り出してゆく。心の中の曇りは光明をさえぎり、苦悩を作り出す。それゆえに、愛欲を抑制し、これから離脱してこそ、心の安らぎが得られるものなのだ。しかし、その為に心の中にこだわりを作ってはならない。こだわりは、心の中にしこりとなって残るものだ。そうして、いつの日か、そのこだわりは現象化するからである。要は、その因を除去するための勇気と決断が必要だ。」「ブッダ、在家の修行者は愛欲について、どのようにしたらよいのでしょうか。」彼は、顔を真っ赤にして、ブッダの言葉を待った。「在家にあっては夫婦の営みは大切なものだ。その中にあって、愛欲を燃やし心の中まで乱すことは少ないだろう。ただ、その愛欲が第三者に発展するとすれば、そこに憎しみが生まれ、嫉妬に心が燃えさかるであろう。となると、夫婦はそれぞれ憎しみや嫉妬の毒を心の中に食べ、苦悩を作り出してしまう。一夫一婦の家庭の中において、足る事を知った愛の生活は許されるのだ。つまり、心の中に抑制できる理性が働いている者たちならば、心配無いといえよう。一方、出家して、独身の修行者が愛欲のとりこになれば、自ら苦悩という欲望に追われ、悟りの 境地から遠ざかってしまうだろう。愛欲の経験があったとしても、その無常を悟り、よく反省をし、二度と同じ間違いを犯さなければ心の中は安らぎ、平和な境地を得る事が出来よう。」 (人間釈迦 第三巻より)人間の欲望の中で、食欲と金銭欲は比較的コントロールしやすいが、一番難しいのが性欲である。お釈迦様は出家されたし、キリストは独身であったため、それ以降の宗教家は極端に性欲を罪悪視してきた。悟るためには夫婦生活をしてはならないとい事が真理であるとしたら、何故神は男と女とに作り、そうして子孫を生むようにつくられたのであろうか。夫婦生活はそのまま天地宇宙創造の原理の実践であり、霊と肉の一致である。「結婚とは何か、夫婦とはなんだろう。 天地一切、陰陽の機能の調和によって現象界は回転している。 結婚とは、陰陽の調和であった。 男女は、それぞれの役割と特性を有しており、両者は結婚によって、精神的、肉体的に成長してゆくものである。」と「人間釈迦」の中に書かれている。霊と肉との一致を図ってする、夫婦の自由な愛の表現は、神が天地を創造された慈悲の表現である。正しい夫婦の性生活には、感動的な霊の向上が感じられる。しかし正しい関係でない、また肉欲だけを目的とした性行為からは、霊的な感動は得られない。正しい夫婦の性生活は、神の慈悲の表現である。 正法誌6号より抜粋
2003.09.04
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―人類の誕生 ―日本書記は、当時の日本に残されていた古記録を大集成しようとしたもので、肥前風土記、豊後風土記に書かれてある文章が、そのまま書記に載せられてあり、「一書に曰く」と本文と違うことまで書かれているところから考えて、作為的に書かれたものでないことは大方の学者の主張するところであります。われわれは、吾われの祖先が日本の建国を、「天孫降臨以来一百七十九万二千四百七十余歳」と、実に細かい年数まで数えて、永い間伝えてきたのには、それだけの根拠があったのだと、素直に考える方が正しいと思うのであります。人類学で、ジャワ原人、北京原人は四、五十万年前類人猿と同じような生活をしたと言っているのに比べて、この日本という国は、今から約百七十万年前、天上界から天下ってきた神の子によって建国されたのであると、伝えられてきていることを、みなさんはどのような気持ちで、どちらを選ばれるでしょうか。高橋信次先生が、「人類は今から三億六千五百万年前に、他の天体からこの地球に、天孫降臨してきたのである」と言われた事は、新たな驚きでした。その瞬間、私(園頭先生)の心の中に思い沈んできたのは、高橋先生が、私たちだけ十人の特別研修の時、「この宇宙には、七つの霊圏があり、この地球を中心とした霊圏を指導しているのがアガシャ系であり、今、このアガシャ系が一番早い速度で霊的に進歩しつつある」と言われた事であります。[天と地を結ぶ電話」という成長の家が出版している本の中に、「宇宙には七つの霊圏がある」と書かれてあります。私(園頭先生)が初めて高橋先生にお逢いしました時、「園頭さん、あなたはアガシャ・テンプルを知っているでしょう。あのリチャード・ゼナーに色々教えた光の指導霊というのは、われわれと同じ仲間ですよ」と言われたのです。このことで何故、私が他の人より強く、「天と地を結ぶ電話」に書かれている事が正しいと思ったかが分かったのでした。この本の中には、日本が原子爆弾のために負けることも予言してあるし、また、未来のこれから実現してゆく事件が書かれてありますから、読んで下されぱ一段と正法がよく分かり、正法を実践して行かれる事に自信を持つ事が出来るでしょう。この本の「指導霊とは誰か」というところに、「これらの霊的指導霊達の中には、アモンと呼ばれる偉大なる先達の霊もいる。またこのグループにクラリオと呼ばれる者もいた。クラリオという人は、それから五千年後にイエスと呼ばれる偉大なる大指導者としてパレスチナ、エジプト地方に生まれかわった。」「アガシャはナイル渓谷において、当時の争っていた国々をまとめて一種の国際連合をつくり、普遍的原理によって神権政治をしたのである」と。高橋信次先生が言われた事と、同じ事が書いてあるのであります。正法というものは、この地球上だけのものではなくて、宇宙の中の他の霊圏においても正しいとされ、神の子である人間が実践の基準としなければならないものなのです。他の霊圏もこの地球と同じように、神の法を説かれるメシヤがあって、菩薩界、神界、霊界、幽界があるのであって、それぞれに、神の自己実現のため神の子としての精進を続けているのであります。知らず知らずのうちに、意識するとしないとに拘わらず、世の中は物質文明の時代から霊的文明の時代へと移りつつあります。霊的文明の時代に移って行く事は高橋信次先生も言っておられましたが、「天と地を結ぶ電話」にも書かれております。アガシャといわれる光の大指導霊が、リチャード・ゼナーを通して霊界通信をされたのは、これまで誤り伝えられたキリスト教を原点にかえすためでもあります。アメリカは世界の指導国家でありますから、アメリカで、「キリスト教の原点はこのようである」と説かれれば、全世界に大きく影響してゆきます。================「天と地を結ぶ電話」(まさに来らんとする時代の予言) 谷口清超宗教論集 4 日本教文社================正法誌6号より抜粋
2003.09.03
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―「なるほど」ということ―あなた方が何かを知った時、また教えられた時、「ああ、なるほどそうか」と納得されるものがあるでしょう。その「なるほど」と納得するのが、智慧の働きです。心の中に内在されていた智慧と、心の外に現象として現われているものとが、内外相応した時に、「なるほど」とか、「合点がいった」とか「うん、そうだ、それがほんとだ」とかと思うのです。また、初めて知ったことを実際にやってみた時も、「なるほど、こうすればよいのか」と思うでしょう。それは知識が智慧となったのです。知識は豊かであった方が良いのです。どんな人の話しでも、どんな本でも読んで、悪いところは捨てて、良いところは心の糧にすれば良いのです。「なるほど」と思う事が、多いほど人生は幸福になるのです。正法誌6号より抜粋
2003.09.02
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―知る事の大事さ ―「知識は実践した時に智慧となる」と高橋信次先生は、いつも言っていられました。知識は実践した時に智慧となると同時にまた、知識即ち知るという事を通して、これまでの永い輪廻転生の中で得た智慧を、日常生活に引き出してくることが出来るのです。例えば、自動車の運転にしたって、その運転の方法を知らないと運転できません。まして、この人生をどのように生きればよいか、それを知る事なしには良い生きかたも出来ないでしょう。だからお釈迦様は、まず「知る」ことをしなさい。知ったら実践しなさい。信仰は「知る」ことが大事だと、教えられたのであります。
2003.09.01
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― 心の波長を合わす ―人間は本来、幸福という環境の中で魂を磨くようになっています。あなたにとっての幸せは、あなたが祈っても祈らなくても既に約束されています。その幸福になる道は、あなた自身がこの世に生まれる時に、守護霊と約束してきているのです。心の内から囁いている、守護霊の声に耳を傾けなさい。守護霊の声は肉体の耳に、外から聞こえてくるのではありません。外から聞こえてくるのは動物霊か憑依霊です。また、心の内から聞こえているといっても、あなたの心が乱れ騒いでいる時に聞こえてくるのも、正しくはありません。正しい守護霊の声は、あなたが宇宙創造の神に、天地万物一切のものに、すべての人に感謝し、自分が神の子であることを信じて、自分の過去の失敗や、自分の心の暗さに囚われなくなった時に、心の内から聞こえてくるものなのです。心の波長を合わせるというのは、神に、全てのものに、そうして自分自身に対しても感謝できる心になることであります。静かに落ち着いた心になった時に、じっと心の内から囁いてくる声に、耳を傾けてください。最初は小さくて聞き取れないくらいであっても、あなたが聞く習慣をつけられるならば、その声は次第に大きくなってきます。その内なる声の囁きを大事にされるならば、あなたには人生の失敗はなく、常に幸福であることが出来るのです。
2003.08.31
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― 自分の内に内在していても「ある」という事をしらなければ「ない」のと同じである ―「自覚する」ということは、「自分でそうだと覚る」という事です。「覚」という字は、「悟る」という事です。「悟った人」の事を、「覚者」と書く場合があります。自分がどんなに素晴らしいものを持っていても、持っているということに気がつかなければならないのと同じであります。皆さんにはこういう経験があると思います。金がまだある、と思って買い物をしようと思った。品物を選んでいざ金を払おうと思って、財布を開いたら金がなかった。家に帰って、「確かにまだ持っていた筈だ」と思って、ポケットをあちこち探してみたら、別のポケットにまだ金が入っていたというが。これは実際は持っていたのです。持っていても、持っているという事に気がつかなければ、何も買う事が出来ません。それと同じように、人間もどんなに素晴らしい智慧や愛をもっていても、「智慧であり、愛の存在である」という事に気がつかなければ、その智慧、愛を生かして使う事は出来ないのです。人間は素晴らしい智慧と愛の綜合された、慈悲の霊的存在であるという事を自覚しなさいと、お釈迦様が説法されたのが、「繋宝珠の譬」の話であります。
2003.08.30
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― 智慧と愛の調和 ―慈悲とは、智慧と愛が統一されたものをいうのであります。智慧のない愛は人を損ないます。智慧のない愛しかたをされた子供が、どんなに非行化してゆくか? この大宇宙が、秩序整然として一つの体系をもって作られたのは、神の智慧によってであります。人間や動物が吐き出した炭酸ガスを、植物が同化作用によって、代わりに酸素を出すという相関関係を作られたのも神の智慧であります。病気や不幸になっている人は、愛はあっても智慧が足りなかったのです。私達の心の中には、過去の輪廻転生で得た智慧が内在されています。今まで、「愛」という言葉のみを、多く聞かされてきた人達は、「自分は智慧のある存在である」ということを、自分で自分に言い聞かせてください。正法誌6号より抜粋
2003.08.29
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― 罪障消滅 ―高橋信次先生の言葉より蒔かぬ種は生えぬ。蒔いた種は刈り取る事は自然の摂理であり、この摂理は人為的に変える事は出来ない。正法はこうした自然の原則をもとに循環されて行くので、私達の生活もこれから外れることはないのである。ところが信仰が他力的となり、さまざまな宗教が派生してくると、決まって先祖供養が罪障消滅の理由づけになったり、ひどいものになると、教祖が信者の罪障を肩代わりして救ってくれるというのまであるようだ。これは一体どういうことなのだろう。人の業をかぶる。人の罪障を背負うということが、人間の魂において可能なのかどうか。恐らく、そういう宗教家は、人間の本質を知らないばかりか、自然の仕組みというものを認識していないために、そのように考えるのではあるまいか。人間の心 ― 魂 は、それぞれ小宇宙を作っている。天を仰いで大宇宙の広さを感ずるのは、大宇宙の広さを知っているからであり、大宇宙に感応できる心があるから、そう思うのである。また、大宇宙の広さを理解できるのは、自分という存在があるからであり、自分という存在がなければ、大宇宙さえ認める事が出来ないではないか。これを換言すれば宇宙は自分であり、生きているのは自分しか本来ないのである。こうみてくると、蒔いた種は刈り取るということが理解され、一方において、人の業をかぶる、人の罪を背負うということが、いかに人間の本性から逸脱しているかが納得されよう。もっとも、人の心は以心伝心といって、他に伝わっていき、人の悲しみが自分の苦しみに繋がる場合もある。あるいは、人の罪を背負って犠牲を払うこともあろう。ところが人の悲しみや罪を背負ったとしても、やはり、肩代わりは出来ないものなのだ。人に罪をきせても、悲しみを他に移しても、本人の心は少しも安まらないばかりか、全てはもともと自分という宇宙の中の出来事なので、自分で処理しなければならないからだ。人の業をかぶって病気をするとすれば、戦争を職業とする世の将軍達や、反対派の憎しみを常にうけている為政者は、みな半病人になって野垂れ死にする筈である。ところが現実はそうでなく、彼らはいたって元気である。こうしてみると業はかぶるものではなく、自分が作るものである。信者の業を教祖が背負い、そのため重病に陥り、信者が安心立命するなどということが、いかに真実からはなれているかが分かろう。騙されてはいけない。自分を救う者は自分しかいないことを。正法誌6号より抜粋
2003.08.28
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― 調和と妥協 ―(高橋信次先生の言葉より)私達がこの世で生きて行くうえには、さまざまな心理的な苦悩なり喜びがある。調和か妥協か、あるいは自分の意を通そうとして空中分解か。そこで、調和と妥協の是非について改めて見直し、正法を生かすうえに、どの様にして人間関係を見つめ、魂の進化に役立てるかについて簡単に触れてみたいと思う。調和と妥協を天秤にかけると、調和とは双方の比重が同じ重さにバランスされ均衡を保っている状態を指すものと思うし、妥協はそのどちらかに比重がかかり、重さがアンバランスになっている状態と考えられる。調和は各々が譲り合った、心に抵抗のない、そして仮にあったとしても重さが平均化され、共通の立場に立つことをいうのであろうし、妥協は、その重さの分だけ、いつかは一方に返さなければならないことを意味していよう。もう少し具体的にいうと、例えば、若い頃は夫や家族に妥協してきた妻が、歳をとるにしたがって、心の中に詰め込んだ重荷を外に吐き出す事によって、夫や家族に激しく当たり、家の中を暗くしてゆく。これは妥協のヒズミが生じてきたのである。最近は、妻の立場が強くなり、男のワンマンの弊害が少なくなったが、しかし、双方が言いたいことを言い、調和も妥協すらもない我儘が、一方通行の形で激しく通り過ぎていくケースが多い。妥協には心理的な我慢が伴い、苦しみとなって、その人を責める。妥協の全然ない生活が望ましいが、現実はなかなかそうはいかない。というのは物事は相対的であって、調和も妥協もその中でしか発生しないからである。したがって、ある時は理解できず、ある時は不満が心に残り、またある時は怒りに揺れよう。問題はそうした時に、いつまでも妥協の気持ちを心に残すか、残さないかにかかってくる。妥協の重荷をかかえ、苦しみを持続させるとそれがいつかは爆発し、争いになるであろう。人間生活の賢い生き方は、妥協すべきときは妥協すべきだ。だが、その妥協をいつまでも心の中に持ち込まず、それを材料に自分の心の調和に持って行くべきである。相手と調和されれば理想だが、相手によってはそうはいかない。人相が違うように、その考え方も十人十色であるからだ。そこで、物事の成り立ち、不満の原因、怒りの理由を平静にながめ、相手を許せる愛の心、調和に昇華させることである。調和は主観的には忍辱という柱が基本になるが、理想は、互いに譲り合える共通の心にある。だが、実際には忍辱という形になるであろうし、その忍辱も妥協の気持ちを材料に進化させれば、妥協の重荷は調和に変わってゆくであろう。 正法誌7号より抜粋
2003.08.27
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― 結婚とは何か(男女の役割)―高橋信次先生著「人間釈迦」より「結婚とは何か、夫婦とは何だろう。一対一の男女両性の機能は、この地上界においては欠かせない組み合わせとなっている。この組み合わせは、あらゆるものに適用され、天地一切、陰陽の機能の調和によって、現象界は回転している。結婚とは、陰陽の調和であった。男女は、それぞれの役割と特性を有しており、両者は結婚によって、精神的、肉体的に成長してゆく。もし男女が、結婚という共通の場を持たず、個々に行動するとすれば、人類は滅びるほかはないだろう。仏国土、ユートピアの目的は、各人の心にまず平和を作り出すと同時に、それを現象世界に現実的に現してゆくものである。その具体的な仕方は、結婚という共通の場から始まるのである。それ故、結婚は神の意志に適うものであり、結婚というものがなければ仏国土はあの世だけになってしまう。アダムとエバの両性は、人間社会を象徴的に描いたものだが、人間社会は、この両性の調和から全てが出発する。夫婦生活とは社会生活を意味する。男女の核を中心に、子供という分子によって、家庭は回転を始めるのだ。つまり、社会生活の調和を目指すことになる。家庭がなく、夫婦生活のない社会生活などというものは本来あり得ない。結婚が行なわれ、人類は連綿とその地上に、生命を受け継いでいくのである。そうして、より高次の調和を目指して向上するのが人類の定めである。通常、愛というのは、男女両性の中から芽生える。ある男性に、ある女性に、魅力を感ずるというのは、自分にないものを、また、足りないものを相手が持っているということから始まる。もちろん、両者の間には、なにか共通的な要素が基盤にないと、互いに引き合う吸引力は生じないが、こうした魅力を感じさせる要素がないと、お互いに助け合う、よき伴侶となってゆかないだろうが、愛というものは、こうした助け合い、補い合い、他を生かす関係から生まれ、それは、やがて、隣人愛、社会愛、人類愛に発展してゆくのである。どんなに社会が発展し、変わろうとも、また人類が増えたとしても、男女両性の基本的軸は絶対に崩れることはないし、人類が永遠に続いてゆくのも、一対一の男女が結婚し、家庭を作り、調和させることによってしか、達成できないものである。それゆえ、愛は、地上の調和にとって欠くことの出来ない神の光であり、地上の光なのである。」以上は、お釈迦様の悟りの中の男女の愛、結婚に関するものであるが、男女の陰陽の調和の原理は古事記、日本書記の神話篇にも示されてあり、男女の役割もそのままに永く日本人の夫婦の秩序のあり方として尊ばれてきた。「男女の数は、あの世もこの世も一対一であり、男が少なく、女が多いということはない。地上における男女の比は、戦争や、その時々の思想、行為によって多少のアンバランスをみることはあるが、男女は、もともと平等であり、一夫一婦は神の計らいなのである。女性が男性と対等の立場に立つには、まず経済的基盤が必要であると考える人もいるが、それは経済優先の今日の社会思想が生んだ思想である。人間にとって、欠かせないものは情操教育であり、情操教育には家庭が大事である。女性の役割は家庭にあって、次代の子弟を正しく養育することであって、それは男とは違った役割を持つものなのである。つまり、女性が子を生み、養い育てる事によって、人類は連綿とその絆を保つ事が出来る。女性のこうした特性は、天が与えた義務であり責任である。この意味において男は、現実社会に未来社会に、その義務と責任があることになる。」正法誌5号より抜粋
2003.08.26
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-魂の自覚こそ大事である-中・高校生300名の研修のとき、私(注:園頭先生)が、「人間は神の子である」と話した事に対して、約90%が、「人間は猿から進化したのである」と反論しました。(その事に対して園頭先生は、次のように話されました。)------------------------------君達、それは学校の先生から教えられたのであろう。君達は動物園に行って、猿に「先生」ということは、まさかしないと思う。猿からは猿が生まれ、豚からは豚が生まれる。それが真理である。だったら、「わしの祖先は猿で、わしは猿の祖先だ」という先生があったら、「先生」というのは、人間の中でも指導性を持って、人はこのように生きるべきである事を、先に生きて示す人に対する敬称であるから、「わしは猿の子孫の猿である」という人を「先生」と敬称をつけて呼ぶな。「おい、サル」と呼べ。サルと呼ばれたら、その先生はきっと腹を立てられるだろう。その時、「猿の子孫は猿だから、猿と言ったまでですが、では何故、サルと呼ばれて腹が立つのですか。」と質問しろ。先生は、絶対に答えられない筈である。その時は、君達が教えてやれ。「サル」と呼ばれて腹が立つのは、わしは「サル」ではない、尊い人間であるという「魂の自覚」があるからです。自分で自分の事を、「私は馬鹿です。」という人があっても、人から、「お前は馬鹿か。」と言われると腹が立つのは、「自分は馬鹿ではない」という魂の自覚があるからです。その魂の自覚こそ大事にしなければならないのである。-------------------------と、教えた事があります。多くの学者や宗教家達が見落として気づいていないのは、この、「魂の自覚」「人間性の尊厳の自覚」であります。このような自覚を忘れて、解剖学的、生理学な立場からのみて、人間と類人猿と比較し、ごく一部の心理学的見方を加えて論じられているのは、全く無駄な事です。「人間性の本質」は、人間が「神を思う心」を持っている、というところにあるのであります。正法誌4号より抜粋
2003.08.25
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-類人猿から人間に進化した証拠はない-ロンドンの歯科医チャールス・ドウソンは、ロンドン郊外のピルトダウンという、村の後ろの崖から、古代人類のものだという人骨を発掘し、この人骨は類人猿から人間に進化する中間の人骨で、ダーウィンの進化論を証拠づける、唯一の資料だとして、ロンドンの大英博物館に陳列されました。そうして人類学の本の一頁に、「ピルトダウン人」として書かれたのであります。ところがその後、英国の人類学者達が、類人猿から、どのようにして人間に進化したのか、そのリンクを研究したが、どうしてもそのリンクが見つからない。そこでピルトダウン人に疑問を持って、骨の成分の分析をしたのです。人間の骨と、類人猿の骨は、窒素の含有率が違うのです。調べた結果、外のところは今から5万年前位の、人間の骨であったが下顎の骨は、今も生きている類人猿のものであって、古く見せかけるため、色付けまでしてあった、ニセモノであったことが、判った為に、人類学の本までに書かれた「ピルトダウン人」という名は、消されて今は無いのであります。この事がわかった当時、すでにチャールス・ドウソンは死んでいたために、どうしてこのような、いたずらをしたのかは、永久に判らなくなったのであります。このことは終戦後間もなく、英国の人類学会で発表され、世界の人類学者を騒がせたのであります。高橋信次先生は、「ダーウィンの進化論が正しいものであるならば、今も、類人猿はいるのであるから、類人猿から人間になりかけの中間の人間というものが、この世にいなければならないが、そんなものは存在しない。」と、言っていられました。ダーウィンは、進化論が正しいとするならば、「何故、現在は類人猿から人間へと進化するのが、停止されたのか」も研究して発表しなければ、ならなかったのであります。
2003.08.24
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― 宇宙即我 ―高橋信次先生は、「あなた達も、宇宙即我に到達しなければならないのである」と教えていられました。お釈迦様も、人間として到達しなければならない道を説かれたのであります。「意識が拡大すると、太陽をはじめとして星々(惑星群)が、すべて自己の意識の中で回転し、そうしてその中で呼吸する一切の生物は、わが肉体の一部である事に気づく。人は宇宙大の意識を持って生活している。肉体にその意識が小さく固まり、とどまるために、宇宙大の自己を見失ってしまうのだ。」(高橋信次先生著 人間釈迦・偉大なる悟り・より)本来、宇宙即我であるからこそ、人間は宇宙即我を悟る事が出来るのであって、それは瓦をいくら磨いてもダイヤモンドにならないように、本来、ダイヤモンドであるからこそ、磨けば光るのと同じなのであります。正法誌5号より抜粋
2003.08.23
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― 真我こそ自分である ―心の大きさ、豊かさ、明るさは、永い輪廻転生によって、どの程度、真我なる自分、宇宙即我なる自分を自覚しているか、その自覚の程度によって決まるのであります。その自覚を深めるには瞑想禅定をしなければなりません。正しい瞑想禅定は、自分が神の子であり、真我であることを、念を集中するのでなくて、そのまま素直に認める事から始めるのです。その人の心の大きさによって心が肉体を離れて、肉体の自分を上の方から客観化出来る様になります。正法誌5号より抜粋
2003.08.22
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― 偽我は自分ではない ―真理を知らない自分、法を知らない自分が偽我であります。日本人は永い間、「罪悪深重の凡夫である」と自分の事を思ってきました。然し本当の自分とは、「そういう事は本当ではない」という事を知っている真我なる自分が、本当の自分であります。「自己の確立」とは、「真我なる自分」を自覚することであります。偽我なる自分を自分だと思って、この偽我なる自分をよくしようと思っても、それは手に臭いものを握って、臭くないようにしようと、手を振り回している事と同じであります。臭くないようにしようと思ったら、手に握っている臭いものを捨てればよいのです。それと同じように、偽我なる自分は本当の自分ではなかったと心から放して、真我こそ自分であったと自覚の転換をすることです。正法誌5号より抜粋
2003.08.21
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― 神は光である ―お釈迦様の悟りは、「大宇宙の始まりは、光明という神の意識だけがそこにあった」という事を知られたことによって、啓かれました。キリストの悟りは、「神、光あれと言い給いければ光ありき、初めに神、天と地とを創り給えり」という事から始まりました。仏教もキリスト教も、どちらも真理は一つであります。神が光であれば、神の子である人間も、光でなければなりません。神が罪や悪を作られたのではないのであります。真理、即ち正法を知らない人間が、自分の心の歪みによって作り出したのが、罪や悪であります。だから本来、神の世界には罪や悪はないのであります。自分は本来、「光の子」である事のみを瞑想して下さい。そこから、あなたも「宇宙即我」に到達する事が出来るのです。
2003.08.20
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-性は尊ばれなければならない-日本の性に関する考え方が、キリスト教の禁欲思想に影響されてきた事は大きい。キリスト教では物質と精神、肉と霊とを画然と分離して、性というものを肉に属するものとして罪悪視してきた。この考え方は、日本従来の封建社会の中で、女性を一人前の人格者として認めなかった、男尊女卑の考え方と相俟って、時には女性を男性を誘惑する悪魔のようにさえみる事があった。「女は魔ものである」という言葉が使われ、男性が゛罪を犯したときも、男性の罪は不問に附されて、「犯罪の影に女あり」と、その犯罪に関わった女性のみが、悪い者であるかのように扱われてきた。その反動として、終戦後、男女平等ということで女性の性が解放された結果、性道徳が乱れてしまった。「何とかしなければいけない」と世の識者、教育者達は慌てている。人間を肉体としか見ないお粗末な教育者は、性教育は小さい時からした方がよいと、生殖行為の図などを示して、教育しているようであるが、そういう事で性教育をしたと思っているのは、「あわれ」という外はない。子供達はそのことだけに興味を持って、かえって性道徳を荒廃させることになる。性は尊ばなければならないと言いながら、その人間の中から性の問題だけを罪悪視して、触れてはならない事として抑圧してしまう事も間違いであるが、かといって反動的に肉体的な面だけを強調する事も間違いである。女性は自らの性というものを、神が与えられた営みとして神聖視しなければならないと同時に、男性もまた、女性の性の前に拝跪して女性と共に、その性を尊ばなければならない。ここにおいて、その性は神が天地創造されたその真理にそったところの、神の子の霊を生む神聖な行為として、それは喜びとなるのである。女性の側だけこの様な事を要求するのは酷かもしれないが、女性が、女性自らの性を尊んで、女性の立場から見ても、正しい男性であることを認められない男性には、自分たちの性は許さないという毅然とした態度をとったとしたら、世界の人口の半分の女性の力だけで、この世界から男性の犯罪を一掃出来て、世界の平和を実現出来るのではないかと思っている。(園頭先生)正法誌4号より抜粋
2003.08.19
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― ジャブドーバー ―高橋信次先生の本を読まれた方々はみな、高橋信次先生は、「釈迦の再来」ではなかったのか、という感を深くされます。この「ジャブドーバー」の言葉を併せて読まれる時、一層その感を深くされるでしょう。------------------------------(高橋信次先生のお話より)ある方からこんな質問が来たので、今日はそれに答える事にしよう。質問の要旨は、ゴーダマ・ブッダは、なぜ日本を再生の地としたか、どうしてアメリカや他国を選ばなかったか、ということである。一口で言えば、仏教、正法が伝えられやすいからであった。2500有余年前に釈迦は、ジャブドーバー(東方の国)の、ケントマティー(都会)において、再び正法流布を行うと弟子たちに宣言した。どうしてこのような宣言になったかというと、今日の世界事情がどのように動き、人類の意識がどう変わってゆくか、ということが、ブッダには理解されていたからである。まず、このことが第一点。第二点は、正法を再興する場合の、地理的条件が加味されたのである。世界の交流が始まったのは、せいぜいここ100年ぐらいの間である。それまでごく一部の要人、商人を除いては、ほとんど他国との交渉を持つ事が無かった。また、持てなかった。正法が流布されていくには、言語や地理的条件が当然考慮されてくる。仏教がインドからチベットに、そして中国に伝わり、日本に伝わって来たのも、こうした環境的理由があって、必然の過程を通ってきたのである。第三は、正法を理解するには、それを受け入れる基礎的土壌が必要である。伝統や習慣が異なり、ものの考え方に大きな隔たりがある場合は、正法を突然持ち込んでも、これを咀嚼するのにかなりの時間が要るだろう。しかし、日本における仏教の歴史は古く、そして伝教大師が法華経を中国から持ち込む事によって、仏教は定着したのである。その後、仏教は形を変え、他力に変わっていったが、形だけとはいえ仏教が日本人の生活の中に溶け込んだ事は事実であり、正法の真意を伝えるのに、理解しやすい条件を生み出している。一方また、日本人の勤勉さ、進取の気性、他国の文化を受け入れる柔軟な素質などは、今日の経済発展なり、科学や文化の進歩をみれば釈然としてくるであろう。このように、正法を流布するという前提で、日本という国が選ばれ、今日、具体的な活動となっているのであり、そうして、ここへくるまでには、現象界の状況が絶えず見守られ、実在界で計画されてきた。それゆえ、ブッダの公約は、必然の形をとって現在に至っているわけである。第三者から見ると、アメリカやヨーロッパでも、と思われるだろうが、上記の事情を参酌すれば、おのずと理解されておるであろう。正法流布は、こうした計画性の下に進められてきている。------------------------------高橋信次先生が生存中、(今から20年以上前)に書かれたものです。正法誌5号より抜粋
2003.08.18
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-反省と止観と内観-高橋信次先生は、「反省は止観」である、と言っていられました。「止観」というのは「止の禅定」と「観の禅定」の二つの意味があります。「止の禅定」(とどまってみる)これは、即ち普通に言われる反省です。内観道場でやっている「内観」も反省です。「止の禅定」即ちいわゆる通俗的な反省だけでは、心を大きく広く豊かに明るくする事は出来ません。「観の禅定」をしないのでは、高橋信次先生が言われました本当の「反省」にはならないのです。正法誌4号より抜粋
2003.08.17
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-反省と業と運命-過去を反省して、同じような失敗を何回もしていたら、それがあなたが一番心を決めて、修正しなければならないカルマです。カルマは身、口、意の三業によって作られますが、身、口、意の三業も、元は一つの心の働きであります。自分の心が作り出したものでありますから、カルマを変えるのには、心の在り方を変える以外にありません。運命はその人のカルマの現れですから、運命を変えようとするには、心の持ち方、在り方を変える以外に、方法はないのであります。運命を変えようとして、心を変えずにいくら拝んでも、祈祷してもらっても、運命は変わりません。拝んでもらったり祈祷してもらうと、金がかかりますが、自分で自分の心を変えるには、金はかかりません。もっとも、カルマには善いカルマもありますから、よいカルマはますます伸ばせばよいので、変える必要はないわけです。
2003.08.16
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