「神は真に、ご自身のために私たちを必要としておられること、つまり、私たちの心と愛情、そうです。私たちの中心人格、私たち自身をその愛が宿るべきホームとして神を拝すべき聖殿として必要としておられる」
アンドリュー・マーレー
「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、
人の子には枕する所もありません」
ルカ9:58
という主イエスの言葉を思い起こした。
ただ単に、「あなたのおいでになるところなら、どこにでもついてゆきます」と言われた言葉に対する主イエスの言葉としてしか・・、そう、主に従う道の過酷さとかを言い表している、そんなうわべのことしか見ていなかったように思った。
枕する所もない・・と語られたイエスの言葉の意味がもっと深い所から語られている。それは、
「 私は彼らの中に住み、彼らの中を歩む。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる」(コリント人への第二の手紙6章16節)
これこそが、主の願い。私たちのうちをその住まいとし、枕するべき場所として、私たちの心を得、その信仰を通してお住まいになることを願ってくださっている。
どれほどにその心を求めてくださっているのか、その切なる願いが神の御子を天より下らせ、十字架の死にまで下らせたのである。
なんという深い愛でしょう、なんというへりくだりでしょう。私たちが救われたのは、私たち自身が永遠のホームに帰るためだけではない。その愛が宿るべきホームとして必要としてくださっている。
「わたしの父の家には住まいがたくさんあります。もし、なかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのためにわたしは場所を備えに行くのです。わたしが行ってあなたがたの場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」
ヨハネ14:2,3
主イエスにとって、場所を備えるとは、天国で大工をして家を建ててくるというようなことではありません。死んでいたわたしたちにとって、父の家という場所は罪によって私たちが失った場所でした。その場所を回復する、永遠のホームを勝ち取るために、イエスはまっすぐに十字架に向かわれたのです。
まさに、場所を備えに、十字架に向かわれたのです。
十字架の贖いは罪を赦すためだけではないのです。それは入り口です。
その血によって清め、わたしたちも神のうちに住まい、そして私たちを神ご自身の住まいとして下さるためのものでした。
住まいは準備されたら終わりではありません。家は建ててみたけど住まないという人はいません。共に住まう、そこにこそ意味があるのです。
主はわたしたちの明け渡したその領域の分、共に住まう方としてご自身を現してくださいます
信仰を通して「わたしたちの心と愛情、わたしたちの人格の中心、私たち自身をその愛が宿るべきホームとして、神を拝するべき聖殿として」捧げたいと心から願う私たちの思いを主は待っておられるのです。
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