* Dr.Luke的日々のココロ *より抜粋 (またまたいただいてきました♪)
心理的慣性-信仰VS.大脳辺縁系-
かつてリンカーンが奴隷解放宣言をした瞬間、アメリカの奴隷はすべて消滅しました( 完了形 )。法的に、客観的には。しかしそれまで奴隷であった人々は、その事実を知らないため、あるいは知ったとしても信じないため、依然として過酷な主人を恐れ、自分は単なる奴隷と思い込んでいるのです。その思い込みに従って彼らは行動し、その結果を自らに招きます。自分たちの新しいアイデンティティ(=自由人)や、新しく所有した権利を主張することもできません。心がそれまでの経験によって萎えているからです。過酷な主人もできるだけ彼らを騙して、そのまま自分の手元に置こうとするでしょう。ここに彼らの客観的立場と主観的経験のズレが生じるわけです。
私たちがメッセージで語ることは、子があなたがたを自由にするのであれば、あなたがたはまことに自由な者となる、と主イエスが言われた、と告げるだけです。後は聞く側の問題。
信仰は 聞く ことにより、しかも、 キリストの言葉 を聞くことによって始まるのです。
よく言われますが、馬を水辺までは連れて来れるが、実際に水を飲ますことはできないと。それは馬自身の決断に任されるのです。クルシチャン化の原因は-
・思い(mind)に種々のフィルターがかかっており、そのままに言葉を聴くことができない(認知の歪み)。
・聞いたことをそのままに信じていない。
のです。すでに私たちは客観的事実として、過酷な奴隷状態から解放されて、神の夏休みに入っているのです!では、その夏休みをあなたはどう過ごしますか?-これがクリスチャン生活のすべてです。そして富んでいる者はますます、なのです。
神の約束は、 ことごとく この方において「 然り 」となったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して「 アーメン (そのとおり)」と唱えます。
信じた わたしたちは、この 安息にあずかる ことができるのです。なぜなら、神の安息にあずかった者は、神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだからです。
十字架はこの旧い私と新しい私の交換の場であり、そこで旧い価値観・生き方のパタンが新しい価値観・生き方のパタンへと置き換わるのです(再条件付け)。まことの十字架って、素晴らしいと思いませんか?
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