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ティミはカトマンズから東へ10Kmに位置し、カトマンズ盆地の真ん中に位置す
るので「マディヤプル」(真ん中の町)と呼ばれているのである。
ティミはネワール族の伝統的工芸で有名な町で、焼き物、彫刻品、人形、お面、
手織り布など多様な生産がされているが、中でも素焼きの水瓶、土鍋など日用品で
使う焼き物が有名。この街の周辺で良質の土が採れるからであるが、その土は周辺の
田畑から掘り起こした粘土とのガイドの説明。道の舗装の壊れているところが、非常に
ぬかるんでいる事に納得。しかしこの日はダサインのお祭りと日曜日が重なっていたため
焼き物を造る職人の姿を見ることは出来なかった。
庭隅に並べられ天日干しにされた素焼きの植木鉢?
ティミの街を後にして15分ほどでバクタブルのダルバール広場に着く。
『バクタ⇒礼拝者』、『ブル⇒街』、よってバクタブルは礼拝者の街、信仰の街の意、
そしてダルバールとはネパール語で「宮廷」を意味する言葉であるとこれもガイドからの説明。
王宮前の広場としてカトマンズやパタンにも同様のダルバール広場があったが
、3人の王が美しさを競って造っただけあって、この広場も見事な宮殿や寺院が建ち並
んでいたのであった。
★ニャタポラ寺院
トウマディー広場にあり、18世紀初めにプパティンドラ・マッラ王により建立され、5重の塔を
持ち、高さ30メートル、カトマンズ盆地にある寺院の中で最も位の高い寺とのこと。
石段両側には下から、伝説の戦士マッラ・象・獅子・グリフィン・女神の像が一対づつあり、
普通の人間の10倍の力を持つ伝説の戦士から上へ行くほど力が10倍づつアップする
のだそうだ。
ニャタポラ寺院の本尊は女神シッディ・ラクシュミであるといわれているが、扉は
釘付けされており、一度も開けられたことがないとのこと。1934年の大地震の際にも、
ニャタポラ寺院は最小限の被害にとどまったため、建築技術の高さが評価されているのだと。
5段の基壇の上に立つと町を見渡すことが出来るとのことだが残念ながら上ることは
出来なかった。いやガイドに上がりたいと言えば良かったのだが予習不足。4人のツアー
なので、この辺がこのツアーの特権であったのだが。
★旧王宮の中にある王の沐浴場
★ゴールデンゲート
写真は旧王宮への入り口の門、ゴールデンゲート、この門にはガルーダにまたがる
カーリー女神やヴィシュヌ神などヒンドゥの神々の装飾が一面に施されていた。
ゴールデン・ゲートは彫刻もすばらしいが、特に門の上のトーラン(破風)が、凝っている。
そして正面の4つの顔で10本腕の女神がタレジュ・バワニ。マッラ王朝の守護神であると。
ゴールデンゲート前には、ネパールの石像の中で最も素晴らしいといわれるマッラ王の
石柱が旧王宮に向かって祈る姿が。
★パシュパティナート寺院
バクタプル最古の寺院と言われているパシュパティナート寺院は、屋根の支柱の
彫刻が特徴的。シヴァの化身のひとつであるパシュパティを祀っていますが屋根の支柱には
チベット仏教の影響を受けたエロティックな彫刻が施されていた。 ヒンズー教はカースト制が
強いが、神様の姿は随分と世俗的でSEX中の彫刻もあるのだった。
★55窓の宮殿
ゴールデンゲート右側の55窓の宮殿。1427年にヤクシャ・マッラ王の統治期間に建てられ、
17世紀にブパティンドラ・マッラ王によって再建された3層の建物には、その名のとおり
55の窓が。本当に55窓あるかは数えたわけではないが・・・。
★ダッタトラヤ寺院
1427年にヤクシャ・マッラ王の統治時代に建立され、1458年にビシュワ・マッラ王により、
改築された寺院。1本の木から彫りだされたといわれているのだ。
ヒンドゥー教の寺院で、本尊はヴィシュヌの化身であるダッタトラヤ。寺の正面には柱があり、
その上にはヴィシュヌの乗り物であるガルーダの像が。また、入り口には、伝説の戦士の
ジャヤ・マッラとパッタ・マッラの力士像が一対。
ダッタトラヤはブッダのいとこであるとされるため、仏教徒にとっても重要な寺院とのこと。
★ 孔雀の窓
ダットラヤ寺院の裏側、木彫美術館となっているプジャリ・マート左側面の窓。
かつては僧院だった15世紀の建物で、孔雀の窓はネワール彫刻の最高傑作とされる
見事なもの。ひとつの窓を作るためにどれだけの時間が掛かったのであろうか。
このような窓が、よく今まで保存されたものだ。窓枠というより、美術品と呼ぶべき造形。
バクタブルの観光後、車に戻る途中に私のカメラにポーズを取ってくれた少年と少女。
ティカを付けた額と愛らしい黒い目が印象的。ネパールの子供たちの笑顔を見ていると
この国の貧困さが信じられないのであった。
バクタブルから15km程の、この日の宿泊地ナガルコットへの山道を車は登っていった。
途中、乗り合いバスが急な山道の側溝に脱輪し、多くの乗客達は大きな荷物を持って、
このバスを諦め、山道を徒歩で登っていくのであった。