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この日もお世話になった会社の先輩の慰労会に参加。
この日も早めに家を出て、まずは東京都港区芝公園四丁目にある浄土宗の寺院
増上寺を久しぶりに訪ねたのであった。
都営地下鉄大江戸線で大門駅で下車しA6出口から地上に。
「二代広重作 東海道名所之内 芝増上寺」 の浮世絵。
増上寺の朱に塗られている総門は、俗に大門と呼ばている。
江戸時代には門の手前に橋が架かっていたと。
芝大門交差点の西にある増上寺大門。
東京・芝のランドマーク芝大門。明治初頭に増上寺からこの大門を譲り受けた東京都が
昨春、138年ぶりに無償で返還したとのこと。
門の下に車道が通っているという、ちょっと珍しい光景。
門の歩道部分は両側とも工事中で白いフェンスに覆われていた。
大門の横にある浮世絵「江戸自慢三十六興」のレリーフ。
右が背景が二代広重で、人物が三代豊国によるもので
毎年9月の芝明神の生姜市(だらだら祭り)の光景とのこと。
左が初代安藤広重の筆。
安政5年といえば、幕末。その翌年には江戸が大地震に襲われますから、
この賑わいぶりはその前の様子。
この地域は増上寺の門前町として発展した場所であり、多くの狭小な町が混在しており
中心となる大きな町が存在しなかった。そのため、この地域の俗称である大門
(増上寺の大門に由来)を町名・芝大門に採用することになったとのこと。
右手には歴史を感じる「源興院」の塀と門が。
そして増上寺前の交差点へ。
前方の巨大な「三解脱門」が迎えてくれた。
増上寺の表の顔として、道行く人々に威風堂々とした姿を見せる三解脱門(三門)。
元和8年(1622)に建立された。増上寺が江戸の初期に大造営された当時の面影を残す
唯一の建造物で、国の重要文化財に指定されている。
三解脱門とは3つの煩悩「むさぼり、いかり、おろかさ」を解脱する門のこと。
手前の芝公園 ・歴史の1ページと題された説明ボード。
芝公園一帯は、江戸時代には増上寺の境内であった敷地が、明治6年の公園制定の
太政官令によって公園として開放された、日本最古の公園の一つ。
第二次世界大戦後、政教分離政策のために増上寺と切り離され、敷地の外周部分は
都立芝公園に、この一角は様々ないきさつを経て、現在は港区立芝公園となっていると。
都立芝公園案内図。
そして増上寺に到着。
「浄土宗 大本山 増上寺」 と刻まれた石柱。
朱の壁には花頭窓が。
徳川将軍家の墓所 拝観と篠田桃紅 作品無料公開 の案内。
三門の左側には「御忌(ぎょき)」 と書かれた立て札が。
御忌とは、浄土宗の元祖法然上人の忌日法要のこと。
4月2日~7日に催されると。
増上寺 案内板。
増上寺 境内MAP。
大門から大殿本堂に至る道程は、穢土(えど・我々の世界)から極楽浄土に至る世界を
表しているのだと。
三門をくぐり、煩悩を解脱して、大殿へと向かうと、本尊である阿弥陀仏が鎮座し、
西方極楽浄土の如き、西に位置している点が特徴と。
そのため、増上寺の大殿の荘厳は、極楽の世界を視覚的に表現した造りになっていると。
増上寺三解脱門をくぐり抜けて直ぐの左側に聖観世音菩薩像が。
聖観世音菩薩像は昭和57年に発生したホテルニュージャパンの火災事故で死亡した
33名の供養のため建立された被災者慰霊像であると。
仏足石。
仏足石は仏の足うらの形(千輻輪相)を石に彫りつけたもの、インドでは仏像が
刻まれる以前は仏足石や菩提樹などで釈尊を象徴的にあらわし、人々はこれらを
仏として礼拝したのだと。
石の表面に足の形が彫られているようですが、はっきりとは見えませんでした。
白い部分が足の中心の場所。
この仏足石は、当山第70世福田行誠上人の代、山内宝松院松涛泰成上人の発願により
明治14年(1881)5月に建石されたもので、側面には仏像、経文、由来などが刻まれていた。
「魚供養之碑」
説明板には
「魚がしに会社を起こし、水産物を商って三十七年ひたすら業界の発展と社会への
貢献を志し、困難を克服して現在に至った足跡を顧みるとき、感慨ひとしお無量なるものがある。
今日あるは、水産物とりわけ魚類のおかげであることに思いをいたし、深い感謝をこめて、
ここに魚供養碑を建立するものである。 願わくは、生業を同じくする人々よ、
しばし歩みをここにとどめ、彼らのために感謝の祈りを捧げられんことを。」
供養碑の裏面の説明は碑の解説看板と同じである。
ブッシュ槙。
米国第41代ブッシュ大統領が副大統領として昭和57年(1982)4月24日来日の際、
ここ増上寺に参詣し、記念としてこの樹(コウヤマキ)を植えたのだと。
浄土宗吉水講記念碑。
吉水講とは、戦後の混乱期に浄土宗諸師により発足した吉水流詠唱の法会。
「吉水」とは、宗祖法然上人がお住まいになられていた、現在の総本山知恩院周辺の
当時の地名に由来しているのだと。
境内から三門を振り返る。
手水舎。
この水盤舎は、もと清揚院殿(3代将軍家光の三男で6代将軍家宣の父親、
甲府宰相とよばれた徳川綱重)の霊廟にあったのもの。
綱重は、延宝6年(1678)になくなり、最初小石川伝通院に葬られたが
その後、家宣の代に、増上寺に改葬されたと。
東京大空襲の際にほとんどが焼失し唯一残ったもので、この水盤舎は、
徳川将軍家霊廟建築を伝える数少ない遺構。
巨石の石灯籠も。
三門をはいった参道の右手には、大きな鐘楼と鐘が。
鐘楼堂は寛永十年(1633)に建立されたが、現在の鐘楼堂自体は戦後の再建によるもの。
鐘楼堂に収められている大梵鐘は、延宝元年(1673)にあまりの大きさに七回の鋳造を経て
完成し、江戸三大名鐘の一つに数えられています。重さはじつに4000貫(約15t)もあります。
延宝元年(1673)に完成した、高さ2m42cmの関東地方最大級の大きさを誇る大梵鐘。
除夜の鐘の前には鐘楼堂で法要が営まれる。年明けと同時に増上寺法主によって
鐘が打ち鳴らされる。
写経塔。
信者の写経は、境内中程に建立されたこの写経塔へ、永代にわたり奉納されると。
聖鋏観音像。
この聖鋏観音像は、昭和56年(1981年)8月3日、国際美容協会会長・山野愛子が願主となって
大本山増上寺境内のこの地に建立、開眼された。
願主の一生がハサミに支えられ、お陰によって生かされたことへの深い感謝と、
ハサミの中にみる己れを滅して他を整え美しくする働きを、観音様と拝む心とによって
聖鋏観音像造立を発願。
法然上人歌碑 左右にあるが左側のが下写真。
「池の水 ひとのこころに 似たりけり にごりすむこと さだめなければ」
変わりやすい人の心を池の水にたとえて歌に示されたもの。
「月かげの いたらぬ里は なけれども ながむる人の こころにぞすむ」
観無量寿経に説く「光明は遍く十方世界を照して念仏の衆生を摂取して捨てたまわず」の意を
法然上人が歌に示されたものであると。
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