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2007.09.01
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「僕も愛してます」と僕は言った。夕立雲が西の夕焼けに見えた。夏の暮れ独特の雨の匂いが、飛行機雲の中にちらほらと光った。女は小さめのスーツを見事に着こなしていた。背筋が伸びていて、半透明の黒いサングラスをかけていた。コツコツと軽快な音を響かせて、公園のベンチで本を読む僕の前で立ち止まったのだ。「私、あなたのことを愛してるわ」



「ええ、僕も愛していますよ」と僕は言った。夏の終わりには恋に燃える人間があふれるほどいることを僕は知っていたし、それに今の僕にそういった言葉を言えなくする何かは、残念ながら存在していなかった。





「何を読んでいるの?」

「フロイトです」





「生きることの意味と価値について問いかけるようになると、我々は狂ってしまう。なにしろ意味も価値も客観的に実在するものではないのだから」と女は言った。「私もそう思うわ。あなたはどう思う?」


「僕ですか?」「そうよ」






「僕は何も言うことはできません。それに何も考えつきません。きっとこの世界から見放されてしまったんでしょうね。僕は宇宙からこの星を見ているのです。『人間が人間の生活を客観的に見ようとしている』世界を、僕は客観的に見ている、だから…」僕は言葉をとめた。途中で自分が何を言っているのか分からなくなってしまった。



「あなた面白いわ」と女は無表情で言った。ほどよく化粧された鼻はまるで丁寧に手入れされた造花みたいだった。しっかりと自信を持って鼻はそこにあった。日本人のものにしてはずいぶん高かったが、欧米人のそれのように角のある攻撃的なものではなく、丸みを帯びた美しい無駄なもの、という表現が適当そうな鼻だった。無駄、と言われるものは、ある場合には美しい芸術性を秘めている。



「続きが聞きたいわ。あなたは客観的に見ているから?」



「僕は客観的に見ているから、何を言う権利も持たないのです。それは僕の考えが正しいのかそうじゃないのかが分からないからです。しかし客観的に見ることのできる立場を得たのと同時に、僕は思考することができなくなってしまいました。それはおそらく、本来人間はそのような立場になるべきではないからです。よって僕は世界の流れを見る目を、厳密に言えば世界の流れを認識してそれに対する考えを持つ能力を失いました」


「核心的盲目」と女は言った。「シンディー・リチャードよ」



「核心的盲目」と僕はその言葉をしっかりと脳みそにしみこませるために繰り返した。「簡単に言えばそういうことですね」



「そんなことよりあなた、今から一緒にディナーでもどう?」と女は言った。

「いいですね、僕はあなたを愛していますから」と僕は言った。




カラスが喚く。

風が吹く。

そして雨が降ってくる。




「ねえ」と彼女は傘を開きながら言った。「あなたはまだ世界から見放されてなんかいないわ」





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Last updated  2007.09.01 21:12:38
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